2016年04月28日

打倒・韓国77

朝鮮人に、一つ民族としての自覚を与えたのが、日本の鉄道建設である。

それまでは、そんな意識も持つことなく、一部の人たちが、庶民を搾取する、単なる、集団だった。

日本の鉄道経営は、開通が1900年の、京仁・京釜両鉄道会社による、京仁線と、1904年開通の、京釜線から始まった。

日露戦争後の1906年に、総監府に、鉄道管理局が置かれ、約3500万円を投資して、軍用鉄道の移管などを行い、統一経営を進めた。

その後も、着々と各路線が完成し、日韓併合までに、京釜、京義、京仁、馬山四線と、私鉄を入れた、合計距離は、1039,7キロメートルにのぼった。

以前、朴氏のところで触れたが、これは、大変なことである。

一時期、日本の財政困難のため、遅れをとったことがあるが、それでも、1945年の敗戦時には、総営業キロ数は、6632キロ、機関車1160両、駅762ヶ所、従業員10万527人と、更に、充実したものとなっていた。

道路については、等級を一等から四等までに、区分し、1928年までに、一等は、3200キロ、二等は、79線494キロ、三等は、400余線1万1492キロと、全体の73パーセントが、完成していた。

港湾は、1944年までに、通商港として開設したものが、14、指定港が、38、関税指定港が、9、地方港が、326と、かなり工事が進んだ。

橋梁建設に関しては、資金が何より必要であったため、その整備は遅れたが、総合的な結果を見ると、朝鮮半島は、アジアで、日本に次ぐ、交通発展国に成っていた。

これらの、インフラ整備に朝鮮総督府がかけた費用は、土木費合計約6億4000万円、道路・港湾修築費約2億4110万円、鉄道建設改良費21億8364万円である。

当時の金額として、いかに、莫大なものだったか・・・

日本の国家予算が、20億円の時代である。
この資金の中には、日本国民の血税が、含まれているのである。

これだけ見ても、ため息が出る。
これは、日本ためだったのか・・・
結果的に見れば、朝鮮、韓国のためだった。

「侵略」「搾取」史観のみで見れば・・・
信じることが出来ないのである。

朴氏の見た鉄道について、以前書いたが、その中には、観光用の鉄道もあつたのである。

時代性と、時代精神を無視して、判断すると、誤る。

鉄道が、ただの産業開発目的だけではない、
多目的なものであったのは、当然である。

ましてや、朝鮮半島において東西南北に貫通する鉄道の出現は、政治的・軍事的・社会的だけではなく、人文地理的にも大きな変化をもたらしたのである。それは、これまで村社会に閉じ込められていた自給自足生活からの脱却を促し、産業を発達させた。


さらに、日本からの新しい技術・ヒト・モノ・カネという資本の流入などをももたらしのだ。この人的・物的流通はまた、これまでの朝鮮人の地域観、国土観を変化させ、朝鮮人同士の紐帯を強固にした。


日本が、貢献しなければ・・・
今も、韓国は、最貧国であり、近代化などは、夢のまた夢だったはずである。

何一つ、努力せずに得たことにより、韓国人は、大きな勘違いをしているのである。
我らは、日本が侵略しなければ、アジア、いや世界一の民族として、近代化を成したと。

呆れる。

これから、日本は、何一つ、韓国に対して、援助も、技術提供もしないで、いい。
身の程を知るために、韓国人の方法を見ていると、いい。

彼らが出来るのは、単に、反日行動をするだけである。
何も先に進まない、空想の、反日行動を繰り返すだけである。
そのうちに、自滅する。

自滅して、初めて、少しは、何かに気づくだろう。

日本は、アジアそして、世界の親日国に対して、付き合いを続けるだけで、いい。

さて、韓半島は、地下資源が豊富なところだと、思われがちである。
しかし、はっきり言えば、たいしたことはない。

中華帝国からすれば、朝鮮はもともと「資源小国」であった。掠奪できるほどの資源はない属国だったのである。朝鮮は、金の産出とは無縁ではなかったが、宗主国からの飽くなき入貢要求に苦しめられ、「小国地薄」、不産金銀、中国之所知也」「金銀固非土之所出」と、弁解に苦しむほどであった。


戦後半世紀の過程を見ると、南も北も、相変わらず地下資源に、恵まれない国であり、日本と大差ないのである。

ところが・・・
19世紀から20世紀前半にかけて、再び朝鮮半島の地下資源が、豊富だという見方がなされた。
それでも、国土開発が進まない。

そして、ウソを言う。
その理由は、半島が対外的にわざと貧しい国家を装っていた。
もし、資源開発をすれば、宗主国の清に知られ、入貢を要求されるか、侵略、あるいは、併合の危機に直面するという。

実際、何一つ、自給できるものはない。
更に、李朝末期には、すでに、米英独仏など、列強の手により、採掘されていたという、現状である。

一体、どれだけのモノが眠っているかは、掘ってみなければ、分からない。
それを、正しくしたのは、朝鮮総督府である。



posted by 天山 at 05:52| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月27日

打倒・韓国76

韓国は、もともとソウルを中心としたごく少数の都市と、七万ほどの村によって成り立っていた村国家であった。そして、中国以上に中央集権国家の典型であり、半万年近くも自給自足をしてきた世にも珍しい自閉国家でもあった。それは、古くから人為的に鎖国を敷いていただけではなく、地理的にも閉鎖的であったからである。だから「隠者の国」とも言われている。
黄 文雄

黄氏の文献から、紹介する。

つまり、そのままだと、なんの進歩も発展も、望めない国だった。
国とも、言えないのである。
国家意識など、今でも、持っていないと、私は思っている。

唯一、よく分からない、民族意識である。
が、その民族も、精々、4000年の歴史である。

韓国は、一度、人種が分断されている。
現在の、韓国人は、古代の朝鮮人ではないのである。

これを書き続けると、長くなるので、省略する。

さて、自閉的国家、国、いや、地域とでも言う、韓国は、交通は発達せず、人的流れも発達しなかったのである。

李朝時代には、全国の道路を都城道路と地方道路に大別し、大小の路が造られたことはあるが、それも、有名無実で、実際には、道路らしい道路はなかった。

交通手段は、ソウルでは、カゴ、地方では、小型馬の朝鮮馬である。
荷車もなかった。

橋もなく、渡し船、丸木で渡河することが多かった。
「朝鮮交通史」にも、主要道路においてさえ、かろうじて、人馬が通れる悪路が多く、河川には、橋が無く、徒歩、渡し船に頼る、との記述である。

大量貨物の長距離輸送などは、不可能である。

簡単に言うと、道路閉鎖は、国家安全のために、欠かせないものだった。
というのは、「倭乱」「胡乱」による被害を鑑み、安全のために、あえて着手しなかったという、救いの言葉もある。

また、李朝末期は、ソウルを除くほとんどの地域で、強盗が跋扈していた。
この強盗は、満州、中国、台湾の東アジアでは、共通することで、強盗社会だったのだ。

もし、日本が満州も、そのまま満州国としていたなら、強盗は、無くなっていただろう。

アーソン・グレイブスの「悲劇の朝鮮」から・・・
ソウルの光が他の地方を絶対的に圧倒しており、朝鮮人が皆ソウルに住みたがるのには、それなりのいろんな理由がある。
ソウルにおいてのみ宮廷と王の眼をひきやすく、またそうしてこそ公職の道も開けるというわけだ。そうして公職の身にあって初めて、権力と名誉と富を手に入れることができるのだ。
それだけではなくさらに、国事を研究し津々浦々の出来事を早く知ることのできる所としては、おそらくソウルが朝鮮随一の場所だろう。
改行は、私

だが、それも、ほんの一部の人である。
多くは、農民で、極貧の生活を強いられていた。
半島は、暗澹たる土地だったのだ。

方言がただ一定の限られた地域で用いられるのに反し、ソウルの言葉は清朝の官話(役所で使われる言語の意)の場合と同じくどこでも通じる。
首都圏では常に生活必需品の供給が豊富なので、全国が貧困にあえぐことがあってもソウルで餓死する者はいない。
地方では盗賊が頻繁に出没し手当たり次第に人を殺傷し、略奪と放火の大被害を与えたりするが、ソウルの中での個人の安定度は比較的高い。
改行は、私

ソウルでは、餓死する者がいない・・・
地方では、餓死しているのだ。

ソウルの中での安定度は、比較的高い・・・
完全ではないということ。

恐ろしいのは、ここからで、
地方の課税は庶民に重い負担となっているが、ソウルの人は完全に免税である。
ソウルの手工業や商人は自分たちなりに組合をつくって自らの利益を守っているが、地方の職人制はまだ充分な発達を見ておらず、手工業、商人はそれぞれ官庁の権力濫用や一般人の詐欺に対処できないでいる。

今、現在も、引き続き、地方は、とても損をしている状態だ。
権力濫用、詐欺・・・
今も、勿論、続いている。

ソウルではあまり僧侶を見かけない。
ところが地方ではこの憎悪の対象である僧侶をどこでも見ることができる。
最後にソウルが朝鮮で最上の居住地にかぞえられる重要な理由のひとつは、国で一番といわれる墓地がソウルの近くにあるという事実だ。
死んだ人が生きている人よりも大事にされる国柄だけに、この事実はとても重要な意味を持つ。
それにしても、ソウルの町を歩きながらその様々な側面を二つの目でしっかり見た異邦人たちにとってのソウルの印象は、この国の庶民たちのそれとはいささか違いがあった。
興味深いところがないというのではないが、隣国の日本や中国の小都市に比べてみてもソウルにはこれといった見所がないのだ。
改行は、私

日本は、36年という、短期間で、朝鮮半島を日本に次ぐ、アジア第二の、交通整備国家に、仕立て上げた、という事実である。

日本人ではない、多くの外国人が、それを認めている。

もし、中国に取られていたら、どうなっていたか・・・
もし、ロシアに取られていたら、どうなっていたか・・・

この、もし、を考えることが出来れば、韓国の未来も明るいが、それは、無理なことと、私は、考えている。

posted by 天山 at 05:36| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月26日

打倒・韓国75

日本は、韓国を併合したのであり、植民地支配をしたのではない。
何度も書いている。
つまり、合邦国家である。

植民地支配などとは、程遠い、朝鮮に対する日本の支援は、今振り返っても、凄いものだ。

日本統治時代の朝鮮は、まだ石油エネルギーの時代ではない。
しかし、石炭も、豊かではなかった。
実に、近代化は、難しい状況である。

そこで、総督府は、水力発電を利用して、総合的な国土開発を行うと、試みた。

朝鮮の水力発電に、最も大きく貢献したのは、野口したがう(シンニュウに尊)という、日本窒素肥料の大実業家だった。

野口は、鴨緑江上流をせき止め、日本国内にもなかった、17キロワットという、巨大発電所を作った。

これは、1928年昭和3年に完成したが、更に、その二年後、20万キロワットの発電所を作っている。

発電事業が軌道に乗ると、興南の町に、朝鮮肥料会社を設立し、一キロ三リ五毛という、安い電力を利用して、空中窒素から硫安を作り、日本へ輸出した。

続いて、白頭山、豆満江、鴨緑江地域に、七ヶ所にダムを建設し、巨大な湖を作ることで、180万から200万キロワットの、出力可能な、大発電所建設を計画した。

朝鮮のエネルギー確保に、大きく貢献した野口は、引退する際に、資産の大部分である、3000万円を寄付している。
文部省の、科学振興のために、2500万円。
朝鮮人子弟の教育のために、総督府に、500万円である。

近代化に必要な、エネルギー革命を行ったのが、日本人である。

韓国人は、20年で、近代化出来た。日本統治がなければ、もっと、早く、近代化していたと、嘘を言うが・・・
韓国人は、決して、近代化を行うことは、出来なかった。

何せ、予算も、技術も、心意気もないのである。

韓国の、朝鮮近代史学者も、心得違いの、嘘を言う。

日帝は韓国経済を日本資本主義に隷属させ、食料を収奪するために、朝鮮半島を半封建的停滞状態のまま維持しようとした。

全くの嘘である。
食料を増大させたのは、日本である。

更に、
そのために反工業的政策をとりつづけてきたが、日本帝国主義が発展するにつれて、韓国人資本家をも懐柔隷属させざるをえなくなった。また、日本人資本家の韓国への資本輸出を促すために、ついに工業化へと政策転換しなければならなかった・・・

韓国の近代化は、韓国ためではなく、日本のために、行ったと、言うのである。
ここまで、くれば、病気である。

日本統治を、冷静に判断出来ないのである。

韓国人は、平然として、勝手気ままな、嘘を言うが・・・
では、実際、日本統治がなければ、どうだったのかを、検証するといい。

一体、何が出来たのか・・・
自分たちでは、何一つ、出来なかったのである。

その術、一つも、身につけていなかった。
李朝のまま・・・
そして、そのまま、ソ連か、中国に支配されて、見る影もなかったはず。

朝鮮の工業に、大きな構造変化がもたらされたのは、宇垣総督、1931~36年、南総督、1936~42年の、時代である。

宇垣総督は、主に、日本資本による農村振興運動、朝鮮半島北部開拓、産金奨励、発電計画や、産業自由化などの政策を、行った。

その後の、南総督時代は、国防上の考慮から、食料増産、地下資源開発に、重点を置いた。
戦時体制下の産業経済開発が、中心だった。

南総督の政策は、その後の、小磯総督、安部総督へと、受け継がれ、更に、強化された。
その在任期間は、1942年から45年である。

こうして、朝鮮半島の工業は、第一次大戦後の戦後恐慌、1920年から21年、昭和恐慌、1930年から31年の、二つの時期をはぶいて、30年代に入ってからも、拡大を続け、急速な発展を遂げた。

1927~33年の工業生産額は、三億円台、35年は六億円台、40年には、18億円を突破し、農業生産に匹敵する、生産額を誇ったのである。

更に、1931年には、食料や紡績などの、軽工業が、工業生産の62パーセント、化学、金属、機械の重化学工業が、25,6パーセントを占めた。

そして、40年代のはじめ頃には、台湾にやや遅れて、朝鮮半島は、農業社会から、工業社会へと、変貌を遂げたのである。

このように、日本は朝鮮半島に対して大きすぎる貢献を果たしている。朝鮮半島を、ただの食料・資源供給として統治したとしか見ない歴史観は、偏見であるだけではなく浅見でもあるのだ。それでも、まだ日帝の工業推進策を「反工業化政策」と罵倒しつづけるのだろうか。
黄 文雄

その罵倒は、いずれ、韓国自体に、ブーメランするだろう。
つまり、無能無策の朝鮮半島であったという、事実である。

日本が行わなければ、何一つ、自力では、成し得なかったという、事実である。


posted by 天山 at 05:40| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月25日

玉砕120

玉砕について、書いている。
そろそろ、最後の沖縄戦になった。

それを書く前に、これはエッセイであり、論文ではないから、一度、立ち止まり、私の考えることを、書いてみる。

その一つは、大東亜戦争は、アメリカに引き摺られて、始まった戦争であることだ。
何度も、他のエッセイでも触れているが、日本は、戦争を回避したが、特に、昭和天皇は、外交努力により、解決の道を示唆したが・・・
すでに、戦争に突入すべき状況が、作られていたということだ。

アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルが、望み、そして、ソ連のスターリンである。
つまり、皆、白人たちである。

これは、白人支配の当時の、時代性、時代精神を理解することだ。
有色人種の国は、すべて、日本とタイを除いた国々は、植民地支配を受けていた。

そして、唯一、日露戦争に勝利した日本が、有色人種の国として、五大列強の仲間入りをしたのである。

戦争の根底には、人種差別があると、私は言う。
特に、キリスト教白人主義と、私は、呼ぶ。

そして、もう一つは、当時の、日本の軍部というもの。
それは、統帥権という問題があった。

つまり、軍部は、唯一、天皇の望みに行為するという、統帥権である。
これが、軍部を単独行動に駆り立てた、ポイントである。

昭和天皇の意見さえ、聞くことが無かった、軍部、特に陸軍である。

もし、軍部の強行な意見に、天皇が賛成しなければ、昭和天皇は、暗殺されていただろうという、見方である。
昭和天皇御自身の、お言葉にもある。

昭和天皇は、自分が暗殺され、国内に、内戦が起こることを、恐れた。
だから、ギリギリまで、戦争を回避した。

だが、敗戦により、天皇のご聖断が必要になった。
敗戦の御聖断が、出来なら、開戦を阻止することも、出来たではないかという、意見は、当時の状況を知らない者が、言う事である。

そして、もっとも早く、敗戦を認めて、云々という、意見も同じである。

軍部には、本土決戦もありという、兵士も大勢存在していた。
本土決戦をしていたら、日本は、消滅していただろう。
また、確実に、アメリカの植民地になっていた。

勿論、現在も、アメリカの植民地である。
それは、日米安保条約、それらの密約を見れば、一目瞭然である。

それでも、戦争をせずに、敗戦後70年を経た。

今上天皇は、丁度、戦中派である。
私の母とも同じ年である。
今年、82歳である。

その、今上天皇のお言葉から、象徴天皇の願いと、希望を見ることにする。

昭和天皇は、同じく象徴であり、君臨すれども、統治せずを、守られた、御方である。

当時も今も、君主であるが、昭和天皇は、側近君主であらせられた。
つまり、側近が、多くの決断をするというもの。

それを、陛下が了承して、政治が進む。

両天皇は、平和主義であり、共に、憲法を守るという、一点にある。
だが、時代性と、時代精神が違う。

今上天皇72歳の誕生日会見での、お言葉を見る。
平成17年、2005年

先の大戦では非常に多くの日本人が亡くなりました。全体の戦没者310万人の中で、外地で亡くなった人は240万人に達しています。戦後60年に当たって、私どもはこのように大勢の人が亡くなった外地での慰霊を考え、多くの人々の協力を得て、米国の自治領である北マリアナ諸島のサイパン島を訪問しました。・・・
昭和19年6月15日、米軍がサイパン島へ上陸してきたときには日本軍はすでに制海権、制空権を失っており、大勢の在留邦人は引き揚げられない状態になっていました。このような状況下で戦闘が行われたため、7月7日に日本軍が玉砕するまでに陸海軍の約4万3千人と在留邦人の1万2千名の命が失われました。軍人をはじめ、当時島に在住していた人々の苦しみや島で家族を亡くした人々の悲しみは、いかばかりであったかと計り知れないものがあります。
この戦闘では米軍にも3500人近い戦死者があり、また900人を超えるサイパン島民が戦闘の犠牲になりました。またこの戦闘では朝鮮半島出身の人々も命を落としています。この度の訪問においては、それぞれの慰霊碑におまいりし、多くの人々が身を投じたスーサイド・クリフとバンザイ・クリフを訪れ、先の大戦において命を落とした人々を追悼し、遺族の悲しみに思いを致しました。・・・
日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。

上記、天皇陛下は、不戦の誓いをしているのである。
また、それは、祈りであり、希望である。

天皇は、憲法を守るとの、強い決意がある。
それは、平和憲法のことだ。

そこで、私は、天皇陛下の、願いと、希望を日本人として、しかと、受け止めたいと思う。

だが、現実は、願いや、希望の叶わぬことも、多々あると言う事。
昭和天皇は、いつも、希望します、という言葉で、お言葉を締めくくった。

だが、希望は、そうやすやすと、叶うものでないことも、十分に、ご承知だった。

だから、問題は、これからである。

posted by 天山 at 06:09| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月22日

玉砕119

2月14日、黎明時、硫黄島発進の、艦偵彩雲は、輸送船170隻からなる大船団が、サイパン島の西方80浬の地点を北西に航行中であることを、発見した。

この報告に、小笠原兵団は、ただちに、戦闘準備を下令。

16日、米機動部隊は、延べ1400機にのぼる艦載機をもって、関東・東海各地を襲った。

一方、本土来襲と平行して、護衛空母12隻を基幹とする、機動部隊が同日早朝、硫黄島海域に進出、同島を包囲するようにして、艦砲射撃を開始した。

18日、水際陣地および、飛行場破壊のため、大規模な艦砲射撃を加えた。

米軍は、19日午前より、戦艦7隻、重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦10隻、砲艦9隻の艦砲射撃と、空母6隻の甲板から、発進する艦載機の援護を受けつつ、島の正面三キロにわたり、上陸用舟艇無慮500隻で、上陸を開始した。

午前10時30分頃には、上陸兵力は、約一万、戦車100以上に達した。

日本軍守備隊は、この米軍の猛爆撃を冒し、水際陣地の部隊と砲兵火力をもって、果敢に応戦する。

しかし、絶対優勢な米軍の火力に圧倒され、水際陣地は、次第に沈黙させられる。

20日には、日本側命名の、千鳥飛行場を失い、全島を南北に分断された。

21日には、米軍は、更に大型輸送船30隻による、後続兵団の揚陸を開始した。
22日夕刻、米軍第一線は、南波止場から元山飛行場南側、千鳥部落に至る線に達し、その進出度は、二キロにおよび、橋頭堡を成した。

2月23日から3月3日にわたり、中央地区陣地地帯において、彼我の必死の攻防が続いた。

26日頃には、主陣地地帯を侵され、大阪山方面の陣地を失い、元山、屏風山において、双方決死の、争奪戦が反復された。

21日まで、艦砲射撃が継続され、更に、飛行機と戦車の猛撃を受けて、23日に至るまで、高地をめぐる戦闘は続いたが、日本軍は、ついに力尽きた。

同日、10時20分頃、擂鉢山山頂に、星条旗が翻った。

硫黄島全島が見渡せる地形を、占領されたことは、精神的、戦術的に、元山方面の日本軍主力の戦闘に、大きな影響を及ぼすことになった。

しかし、米軍側から見ると、これから先が、大変だったのである。
寸土を争う、激戦が連日、繰り広げられた。

栗林兵団長は、硫黄島を東西南北と、擂鉢山の五つの地区に分けて、北地区に、その主力を配置していたからである。

仔細なことは、省略する。

玉名山上にあった、千田旅団長は、栗林兵団長から、玉砕攻撃は、思いとどまるべしとの、指示を受けていたが、海軍陸戦隊司令井上左馬二大佐と共に、残存兵力800名で、最後の総攻撃を決意した。

日の丸の鉢巻に、地下足袋、巻脚絆という身なりの千田少将は、命令を下達した後、集まった部隊長クラスの者と、コップ一杯の水で乾杯し、
皆さん、長いことご苦労をかけました。靖国神社で会いましょう
と、低く重い口調で言った。

米第四海兵師団が、苦戦している間にも、第三および、第五海兵指弾は、次第に、栗林兵団主力を、島の北部に追い詰めた。

3月13日、ついに、天山地区が落ちたことにより、北拠点左地区、つまり北部落東側の、防備が手薄となった。

14日から15日にかけて、米軍は、拠点の左側背に迂回浸透して、露出していた海軍第二十七航空戦隊司令部のある洞窟の、東方約100メートルまで迫った。
米軍は、戦車による火炎放射器、ナパーム弾等を、集中した。

また、洞窟の上に乗り、空気孔から、爆破攻撃を加え、坑道攻撃を採り始めた。

日本軍の損害は、増大した。

第二十七航空戦隊司令官市丸利之助少将以下、海軍司令部は、栗林兵団司令部洞窟に、合流し、北拠点方面の戦況は、いよいよ最期の時を迎えようとしていた。

残存兵力は、約900名、うち海軍、約200名である。

3月16日、深夜、栗林兵団長は、決別電報を、大本営参謀総長宛に、打電した。

今や弾丸尽き水枯れ全員反撃し最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩を思い粉骨砕身もまた悔いぬ。特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思い至りたとい魂魄となるとも誓って皇軍のけんど重来の魁たらんことを期す。ここに最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝すると共にひたすら皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へに御別れ申上ぐ・・・
読みやすいように、書き改めた。

米側資料によれば、3月26日未明から、栗林兵団長の総攻撃は、万歳攻撃ではなく、火器も備えたある程度組織立ったものだった。

戦闘は、三時間に及び、米軍側にも、死傷者が出た。

この戦争を通じて、最大の激戦地となった、硫黄島戦は、終息した。
当然、米軍も、多量の犠牲を伴った。
上陸軍と、艦艇乗務員合わせて、約6000名が戦死、負傷者は、約一万八千名に上った。

米軍は、当初、占領するまでの期間を、五日間と計算していた。それが、一ヶ月を擁したのである。
この戦闘で使われた爆弾等は、先例を見ない大量なものだった。

日本軍、守備隊、陸軍、5万5500名
    海軍 7500名

中には、俘虜となった者がいるが・・・
六万名以上の玉砕である。

posted by 天山 at 05:34| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月21日

玉砕118

硫黄島は、東京からサイパンの中ほどに位置し、それぞれ、約1200キロの距離を隔てた、小笠原諸島の中核をなす島である。

米軍側から見れば、日本本土空襲に向かう、中継基地として、また、マリアナからの、長距離爆撃機B29の不時着地として、絶好の島であった。

この島が、米軍の手に落ちるとは、東京をはじめ、東部の都市、および工業生産地帯が、頻繁に、米機の空襲にさらされることになる。

硫黄島を守備する小笠原兵団の前身である、第百九師団の編制は、マリアナ沖海戦、当時の、「あ」号作戦前の、昭和19年1944年、5月22日に、さかのぼる。

第百九師団は、小笠原所在の父島要塞守備隊、要塞歩兵隊などを基幹として、編制されていた。

師団長は、栗林忠道中将である。
開戦時は、第二十三軍参謀長として、香港攻略に参加した。
昭和初年、米国およびカナダに、公使館つき武官として、駐在した経験もある。

栗林中将は、着任後、あとから追及した、第百九師団の兵員を加えて、陣地の構築を推進した。

「あ」号作戦発動後は、飛行場の整備や、空と海に対する警戒などに、人員を割かなければならなくなったが、それでも、陣地構築を休むことはなかった。

ただ、「あ」号作戦の余波は免れず、特に先の八幡部隊が進出してきたからは、敵襲の可能性が、増大した。

昭和19年6月24日、空母四隻からなる、機動部隊から発進した、敵機郡が来襲した。

艦載機、約60機が、午前7時過ぎに上空に達し、八幡部隊の戦闘機59機が、邀撃のために、飛び上がった。
結果、相当数の米機を撃墜したが、相討ちの形で、八幡部隊も、24機を失った。

6月15日以来、米軍の上陸を許したサイパン島が陥落する直前の、7月3日から4日にかけて、米機動部隊は、再び、小笠原方面を空襲し、硫黄島に艦砲射撃を浴びせた。

二日間で、八幡部隊は、早くも、壊滅状態に陥ったとされる。

この攻撃により、それまでに栗林中将に芽生えていた、水際撃墜作戦に対する、疑問が、益々確定的なものとなった。

栗林の敵上陸に対する、防御の考えは、水際を偽陣地とし、主陣地は、あくまで、後方に整備するという、考え方が、急速に固まった。

激戦地、硫黄島の玉砕である。

硫黄島の将兵にとり、サイパンが陥落した後は、敵がいつ上陸するか分からないという、焦燥感があった。そして、レイテ決戦がはじまり、ほっと一息ついたというのが、実情である。

当時の大本営では、米側の進攻コースについて、四通りを考えていた。
イ フィリピン~沖縄~九州南部~東京
ロ フィリピン~朝鮮南部~北九州~東京
ハ フィリピン~東京
ニ フィリピン~小笠原~東京
である。

その中でも、イとロの可能性が高いと考えられていた。

フィリピン攻略の後、米軍が一挙に日本本土に手をかけてくる見込みは、絶無とはいえないが、極めて少ない。
本土前縁の作業、それは、本土に上陸する前に、一段、場合によっては、二段の基地占領を、行う。

10月下旬頃は、米軍は、フィリピンから、沖縄を経て、本土に向かうことがあるということ。つまり、硫黄島は、黙殺するのではないかという、推測である。

11月に入ると、レイテ決戦の望みを失いつつあった。
その間、硫黄島の、小笠原兵団は、絶え間ない米機の空襲に悩まされつつ、陣地構築に全精力をかけていた。

地下に潜伏する、守備隊陣地である。
その内容については、省略する。

12月に入り、戦争開始三年目に当たる、12月8日から、14日にわたる約一週間、述べ192機が、来襲し、米側の記録によると、約800トンに達する爆弾を投下したという。

そして、11月30日、米軍輸送船団約80隻が、スリガオ海峡を通り、12月15日、ミンドロ島に上陸を開始した。

大本営は、12月25日、全情勢、米軍のミンドロ島基地獲得による、新情勢と、その西太平洋方面における兵力の余裕にかんがみ、米軍の次期進攻に関して、一月下旬、硫黄島および父島上陸の算大なりと、ほぼ正確な見通しを報じた。

簡単に説明すれば、米軍が上陸する、昭和20年1月までに、地下坑道は、居住区で、12,9キロ、交通路3,2キロ、陣地1キロ、貯蔵庫1キロ、総延長距離で、約18キロを連結する、地下交通路は、二月上旬までに計画の、五分の二を、それぞれ完成させた。

この坑道作業は、言語に絶する重労働であった。
島特有の地熱のため、土中の温度は、常に摂氏49度に達し、同じ人間が5分から7分作業を続けるのが、やっとだった。

五名一組で掘るのだが、24時間で一メートル掘り進むのが、精一杯だった。

そして、また、食糧、飲み水なども不足し、パラチフス、下痢、栄養失調患者が多発して、作業は、思うままに進まないという、状況である。

戦闘も、さながら、この作業も、兵士たちを苦しめたと言える。

posted by 天山 at 06:39| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月20日

玉砕117

今までの状況を少し、まとめると、
マリアナを失い、絶対国防圏の最も重要な、一角に破綻をきたした大本営は、その防衛網を、一段と縮小して、フィリピン、台湾、南西諸島、本土、千島にわたるラインを想定して、それらの地域のいずかに、敵が来攻してきても、随時陸海軍の戦力を結集して、迎撃するという、構想を立てた。
それを総称して、捷号作戦と呼ぶ。

昭和19年9月半ば、米軍は、ぺリリュー、モロタイ、アンガウル島に上陸して、その飛行場を占領し、フィリピン上陸の戦略態勢を、構成した。

大本営は、先の新防衛線上の地域の中で、フィリピンを第一号に擬し、次の米軍の進攻地は、ここだと、予想していた。

ミンダナオ、レイテ、ネグロス島など、中南部の防衛を、強固にすべく、同方面にあった、大十四軍に昇格させ、新たに、第三十五軍を編成した。

大本営海軍部も、戦艦大和、武蔵を擁する第二艦隊を、原油地帯のスマトラ島リンガ泊地で訓練させ、アリューシャン方面から呼び戻した、第五艦隊、および、空母部隊の第三艦隊を、内地に待機させていた。

日本軍は、開戦以来、はじめて、空と海だけではなく、地上軍をもあわせて、立体的な戦争展開を意図し、大本営は、昭和19年8月19日の、御前会議決定の、今後採るべき戦争指導の大綱に基づき、「捷」号作戦に、国運を賭けた。

9月15日、第十四方面司令官、黒田中将を更迭し、山下泰文大将に替えた。

当時、満州にあった、山下大将が、マニラに着任したのが、10月8日である。
その9日後、マッカーサーの大軍が、レイテに殺到する。

レイテ島を守備するのは、第十六師団であったが、当初から、水際死守の作戦は放棄していたため、米軍の上陸は、簡単に許した。

米軍は、日没までに、兵員約六万、物資約、一万トンの揚陸を終わり、第十軍団は、タクロバン飛行場を占領した。

ここから、レイテの悲劇が始まる。

さて、ここから、日本軍が、あらかじめ描いていた、シナリオ通りの展開である。
そして、「捷」号作戦の真髄である、陸海空が、三位一体となって、攻撃が開始されるはずだった。

大本営陸軍部は、この時点で、なお重大な戦術転換を行う。
それは、台湾沖航空戦における、海軍の幻の大戦果報告を、鵜呑みにした結果といえる。

陸軍部は、この際、従来のルソン島戦案を、レイテ湾における、決戦に切り替え、一挙に米大軍を、撃滅すべきだと、主張した。
この案に、もともと、フィリピン作戦の早期決戦を唱えていた、南方軍が、飛びついた。

だが、山下大将は、しかるべき準備も対策も不十分な、レイテにおける決戦は、成功の見込みなしと、反対した。
だが、大本営と、南方軍に負けた形で、妥協する。

勇み立った南方軍は、驕敵撃滅の神機到来せり、と、下令し、第一師団、第二十六師団、独立混成第六十八師団を、レイテに増派することにしたのである。

大本営陸軍部が、決戦場を変更したのは、海軍の台湾沖航空戦の戦果報告を信じたことにある。しかし、その根本にあったのは、連合艦隊の命令を遵守して、栗田艦隊が、レイテ湾に突入すれば、陸海空の三位一体の攻撃が出来、上陸した米軍を粉砕できるという、願望だった。

大西瀧治朗一航艦長が、統率外道と承知しながら、神風特攻隊を編制したのも、栗田艦隊の突入を、ひたすら援護するという、一念からだった。

その頼みの栗田艦隊が、レイテに近づき、痛恨の反転をするのである。

こうして、レイテの決戦は、陸軍の地上作戦に一任された形となる。

しかし、フィリピン沖海戦の終了後、レイテをめぐる戦闘は、たちまち決戦の性格を失ったのである。

つまり、レイテ戦も、玉砕である。

昭和19年10月から、二ヵ月後、米軍は、レイテから、戦場の舞台を、ミンドロ島に移してきた。
ミンドロ島は、ルソン島の南のある小さな島である。

12月15日、米軍が、ミンドロ島に上陸する。
それは、フィリピン諸島の主要島、ルソン島攻略のための、布石であった。

ここにおいて、山下第十四方面軍司令官は、12月19日、第三十五軍司令官鈴木宗作中将に対し、自今、中南部比島において永久抗戦を継続し、国軍将来において反抗のしとうたるべし・・・
と、以後の自給自足の戦いを命じ、事実上、レイテ戦の終了を通告した。

どこかで、歯車が狂ってしまった、戦争である。
開戦三ヶ月の間に、勝ち戦を続けていた日本軍である。

米軍の物量に圧倒的に、負けたのである。

戦争を始めたら、勝たなければならない。
勝たない戦争は、しない方がいい。

戦争をせずに、勝つことを、考える。
実に、大東亜戦争は、それを考えさせられるのである。

だが、まだ、玉砕は、続く。

posted by 天山 at 05:33| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月19日

玉砕116

25日朝、エンガノ岬の東方洋上において、小澤部隊は、敵に捕捉されつつあった。

小澤は、確認できないが、遠くから、自隊を見張る敵を、肌で感じていた。
米空母部隊は、確実に、食いついてきていた。

小澤中将は、連合艦隊、および関係各部隊にあてて、
機動部隊本隊、敵艦上機の触接を受けつつあり
と、打電した。

この重大な電報は、肝心の栗田長官には届かなかった。
栗田中将こそ、この電報を鶴首して、待っていたはずなのである。
原因は、今日に至るまで、解明されていない。

結局、大和では、受信されなかったのである。

小澤部隊の旗艦瑞鶴は、電探により、米機の大編隊を探知していた。
一方、米空母の索敵機は、小澤部隊に、触接し、その兵力と行動を、次々と、打電報告していた。

いまや、小澤部隊は、完全に、オトリの任務を達成しょうとしていた。

7時29分、北上しつつあった、小澤部隊の旗艦瑞鶴は、電探により、米機の大編隊を探知していた。

そして、米空母の索敵機は、小澤部隊に、触接し、その兵力と行動を、次々と打電報告していたのである。

8時15分、艦隊の上空に舞い上がった直衛の、ゼロ戦18機は、群がり襲ってくる米機の大軍に向かい、毅然と突入していった。

こうして、米側呼称の、エンガノ岬沖海戦の火蓋が切られた。

その結果、小澤部隊は、瑞鶴、千歳、千代田、瑞鳳の全空母を失い、直衛機全滅、駆逐艦秋月沈没である。

しかも、これらの犠牲により、達成されたオトリ作戦の成果も、栗田艦隊には、届かなかったため、使命達成に寄与することが、できなかったのである。

では、その後の、栗田艦隊である。
敵の魚雷にはさまれて、一時、北進した大和は、反転して、南進に移ったが、艦艇の大部分は、敵を追って、視界から消え去っていた。
敵情も、分からない。

大和の艦隊司令部では、幕僚たちが、この追撃戦に、疑念を抱き始めていた。
敵空母部隊は、遁走してしまったのではないか。

実は、司令部は、相手が、改造空母であることを、見破っていなかった。

栗田長官は、幕僚の意見を受け入れ、追撃中止を決定した。
そして、再び、栗田艦隊は、レイテ湾に向かって、進撃を開始した。

結果、戦果は、改造空母一、駆逐艦三の計四隻であったが、日本側は、それを、敗戦後まで知ることが無かった。
もっと多くの戦果を上げたと思っていたようである。

栗田艦隊の進撃再開の地点は、レイテ湾口スルアン島から、約90浬の北方であり、目的とする、タクロバン沖まで、同じく90浬、22ノットで前進すると、四時間半で到達する計算になる。

再出発を開始した時、
敵ノ正規母艦部隊、ヤキ一カイリアリ 0945
という内容の、南西方面艦隊の発信と思われる、電報が送られてきた。

新たな、敵空母出現の情報である。

ヤキ一カ、とは、航空機用の兵要地図により示された符号であり、スルアン灯台から、約160浬の地点を意味した。

このときの栗田艦隊の一からすれば、その地点は、北方約80浬の近距離である。

大和の司令部では、この電報をめぐり、騒然となった。
広げられた海図を前に、幕僚たちの意見が、二つに割れた。

栗田長官は、一旦、レイテへの進撃を決意し、艦隊は、輪形陣を作り、しばらく南下した。しかし、新しく出現した敵の存在が気にかかってきた。
その上、新しい敵に向かうべきだという、小柳参謀長を介した、大谷藤之助作戦参謀の進言があり、動揺する栗田長官の心が決まった。

ただ、キカ一の電報には、何故か、発信名が記録されていない。
敗戦後、この電報は、虚偽であると、判明した。

未だに、それは、謎である。

栗田長官は、全軍に反転を下令した。
しかし、当然のこと、その地点には、敵はいなかった。
ここに至って、さすがに、レイテを目指す意欲が失せていた。

艦隊は、29日までに、全艦、ブルネイに帰還した。

一週間前、同地を出発した際、戦艦7、重巡11、軽巡2、駆逐艦19、合計39隻という、堂々たるものが、戦艦4、重巡3、軽巡1、駆逐艦9の、合計17隻という、姿に変わっていた。

つまり、無くなったものは、すべて、玉砕である。

posted by 天山 at 05:47| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月18日

もののあわれについて805

程さへ遠くて、入り給ふ程いと心すごし。ゆゆしげに引き隔てめぐらしたる儀式のかたは隠して、この西面に入れ奉る。大和の守出で来て、泣く泣くかしこまり聞ゆ。妻戸のすのこにおしかかり給うて、女房呼びいでさせ給ふに、ある限り、心もをさまらず、物も覚えぬ程なり。かく渡り給へるにぞ、いささか慰めて、少将の君は参る。物もえ宣ひやらず、涙もろにおはせぬ心強さなれど、所のさま人の気配などを思しやるもいみじうて、常なき世の有様の人の上ならぬもいと悲しきなりけり。ややためらひて、夕霧「よろしうおこたり給ふさまに承りしかば、思う給へたゆみたりし程に、夢もさむる程はべなるを、いとあさましうなむ」と聞え給へり。




道のりも、遠いのだが、邸にお入りになると、まことに、物寂しい。お弔いらしく、引きめぐらしてある式場は、大将に見せず、この西座敷に、お通しもうしあげる。
大和の守が出て来て、泣く泣く、ご挨拶申し上げる。妻戸の前の、すのこに寄りかかりになり、女房を呼び出すが、いる者すべて、気も動転して、何も分からない時である。
大将がお出でなさったので、少し気持ちも安らいで、少将の君は、御前に出る。何一つ、おっしゃることができない。涙もろくない、気丈な方だが、ここの様子や人の有様などをお考えになると、胸にこたえて、無常なこの世の有様が、人事ではないのも、まことに悲しいのだった。少し気持ちを落ち着けて、夕霧は、少しは、持ち直しされたふうと、承ったので、油断いたしていましたうちに。夢でも覚めるには、間があると申すのに、何とも思いがけないことです。と、申し上げる。




「おぼしたりし様、これに多くは御心も乱れにしぞかし」と思すに、さるべきとは言ひながらも、いとつらき人の御契りなれば、いらへをだにし給はず。人々「いかに聞えさせ給ふとか聞え侍るべき。いとかるらかならぬ御様にて、かくふりはへ急ぎ渡らせ給へる御心ばへを、思しわかぬやうならむも、あまりにはべりべし」と口々聞ゆれば、女二「ただおしはかりて。われは言ふべき事も覚えず」とて臥し給へるも、ことわりにて、人々「ただ今はなき人と異ならぬ御有様にてなむ。渡らせ給へるよしは聞えさせ侍りぬ」と聞ゆ。




母君のお心のうちを考えると、大将のことで、多くお心を痛めたのだと、思いになる。こうなる運命と言うものの、何とも辛い、大将との因縁なので、返事さえできない。人々は、どう申し上げよと、仰せ遊ばしたと申しましょうか。本当に、軽くは無いご身分で、こうして、わざわざ急いで、お出であそばしたお心遣いを、お分かりにならないようなことも、あんまりでございます。と、口々に申し上げると、女二の宮は、よろしいように。私は、どう言っていいのか、分からない。と、おっしゃり横になるのも、当然と思う。今のところ、亡き人も、同様のご様子でして、お出であそばしたことは、お耳に入れました。と、申し上げる。




この人々もむせかへる様なれば、夕霧「聞えやるべきかたもなきを今少しみづからも思ひのどめ、また静まり給ひなむに参りこむ。いかにしてかくにはかにと、その御有様なむゆかしき」と宣へば、まほにはあらねど、かの思ほし嘆きし有様を、かたはしづつ聞えて、「かこち聞えさする様になむなり侍りぬべき。今日は、いとど乱りがはしき心地どものまどひに聞えさせたがふる事どもも侍りなむ。さらば、かく思しまどへる御心地も限りあることにて、少し静まらせ給ひなむ程に、聞えさせ承はらむ」とて、われにもあらぬ様なれば、宣ひいづる事も口ふたがりて、夕霧「げにこそ闇にまどへる心地すれ。なほ聞え慰め給ひて、いささかの御返りもあらばなむ」など宣ひ置きて、たちわづらひ給ふもかるがるしう、さすがに人騒がしければ、帰り給ひぬ。




この人々も、むせび泣きの様子なので、夕霧は、申し上げようもないが、もう少し、私も気が静まり、また、宮様も落ち着いた頃に、伺いましょう。どうして、このような急なことにと、その時の、ご様子が知りたいが。と、おっしゃると、曖昧であるが、御息所が、嘆いていらしたことを、少し申し上げると、夕霧は、愚痴を申し上げることになることでもありましょう。今日は、ひとしお取り乱した皆々の気持ちのせいで、間違ったことを申し上げる事も、あれこれと、ございましょう。ですから、こんな悲しみに暮れていらっしゃる宮様のお気持ちも、きりがあるはずです。少し落ち着きあそばした頃に、お話を申しあげ、お言葉を賜りましょうと、言い、正気もない様子なので、言いたいことも、口にしにくく、夕霧は、全く、私も闇に惑っている気がする。矢張り、宮様を慰め申し上げくださり、少しのご返事でもあったら。などと、おっしゃり、立ち去りにくそうになるのも、身分に障るし、何と言っても、人目が多いので、お帰りになった。




今宵しもあらじ、と思ひつる事どものしたため、いと程なくきはぎはしきを、いとあへなしと思いて、近き御荘の人々召しおはせて、さるべき事ども仕うまつるべく、おきて定めて出で給ひぬ。事のにはかなれば、そぐやうなりつる事どもいかめしう、人数なども添ひてなむ。大和の守も、「ありがたき殿の御心おきて」など喜び、かしこまり聞ゆ。名残だになくあさましき事と、宮は臥しまろび給へどかひ無し。おやと聞ゆとも、意図かくはならはすまじきものなりけり。見奉る人々も、この御事をまたゆゆしう嘆き聞ゆ。大和の守、残りの事どもしたためて、大和守「かく心細くてはえおはしまさじ。いと御心のひまあらじ」など聞ゆれど、なほ、峰の煙をだにけ近くて思ひ出で聞えむと、この山里に住みはてなむとおぼいたり。御忌に籠れる僧は、東面、そなたの渡殿・下屋などにはかなき隔てしつつ、かすかにいたり。西の廂をやつして、宮はおはします。明け暮るるも思し分かねど、おのづから日ごろ経にければ、九月になりぬ。




今晩では、まさかあるまいと、思っていた葬儀万端の手はずが、短時間に整えられたのを、大将は、何ともあっけなく思いになり、近くの御料地の人々を、お呼びになり、お命じになって、しかるべき用意をして、差し上げるよう指示して、お帰りになった。
急なことで、簡略そうだった葬儀も、厳かに、お供の人数なども増えた。
大和守も、一方ならぬ殿のご配慮、などと喜び、御礼申し上げる。跡形もなくて、酷いことと、宮様は、臥して、まどろんで、悲しみに暮れたが、しかたがない。親子の仲でも、こんなにまで、親しくしてはいけないことだった。お傍の人々も、このご様子を、また縁起でもないと、ご心配申し上げる。
大和の守は、あとの雑用を片付けて、こう心細いことでは、お暮らしになれますまい。とても、心の紛れる時は、あるまい。などと、申し上げるが、矢張り、峰の煙だけでも、近くで見ていて、思い出し申し上げようと、この山里で、一生を終わろうとお考えになった。御忌みに籠っている僧は、東座敷や、そちらの渡殿、下屋などに簡単な隔てをして、ひっそりとしている。
西の廂の間の飾りを取り、宮様は、お住まいである。夜の明けるのも、日の暮れるのも、お分かりにならないが、ひとりでに日数も重なり、九月になった。


posted by 天山 at 05:44| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月15日

もののあわれについて804

かく騒ぐ程に、大将殿より御ふみ取り入れたる、ほのかに聞き給ひて、「今宵もおはすまじきなめり」とうち聞き給ふ。「心憂く世のためしにも引かれ給ふべきなめり。何にわれさへさる言の葉を残しけむ」とさまざま思しいづるに、やがて絶え入り給ひぬ。




こうして、騒いでいる時に、大将殿からの、お手紙を受け取ったと、御息所は、かすかにお耳にされて、今晩も、いらっしゃらないらしい、と、お聞きになる。
情けなくも、世間の話の種に、引かれることになろう。なんのつもりで、自分まで、あんな文句を書き残したのか、と、あれこれ思い出されると、そのまま、息が絶えておしまいになった。




あへなく、いみじと言へばおろかなり。昔より、物の怪には時々わづらひ給ふ、限りと見ゆる折々もあれば、「例のごと取り入れたるなめり」とて、加持まいり騒げど、今はのさましるかりむり。




あっけなく、酷いといっても、言い足りない。昔から、物の怪には、時々煩いになり、最後と見えた時も、何度かあったので、いつものように、物の怪が取り込んだらしいと、加持をして、大声で祈るが、臨終の様子は、明らかだった。




宮は、おくれじと思し入りて、つと添ひ臥し給へり。人々参りて、「今は言ふかひなし。いとかう思すとも、限りある道は、返りおはすべき事にもあらず。したひ聞え給ふとも、いかでか御心にはかなふべき」と、さらなることわりを聞えて、人々「いとゆゆしう。なき御為にも罪深きわざなり。今は去らせ給へ」と、引き動かい奉れど、すくみたるやうにて、ものもおぼえ給はず。修法の壇こぼちて、ほろほろと出づるに、さるべき限り、かたへこそ立ちとまれ、今は限りのさま、いと悲しう心細し。




宮様は、生き残るまいと、思いつめて、じっと、すがりついて、いらした。
女房たちが、傍に参り、もう、しかたありません。こんなにまで、お悲しみになっても、死出の旅路は、帰ってくるわけではありません。お慕い申しても、どうして、お気持ち通りになりましょう。と、当然の道理を申し上げる。また、女房は、本当に不吉で。亡くなった御方のためにも、罪業の深いことです。もう、お離れください。と、引き動かすが、こわばったように、何も、お分かりにならない。
修法の壇を壊して、僧たちが、ばらばらと出てゆくうち、しかるべき者ばかり、一部留まっているが、今は、すべて終わった様子で、実に悲しく、心細い。




所々の御とぶらひ、いつのまにかと見ゆ。大将殿も、限りなく聞き驚き給うて、まづ聞え給へり。六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていとしげう聞え給ふ。山のみかども聞こし召して、いとあはれに御ふみ書い給へり。宮は、この御せうそこにぞ、御ぐしもたげ給ふ。朱雀院「日ごろ重く悩み給ふと聞きわたりつれど、例もあつしうのみ聞き侍りつるならひに、うちたゆみてなむ。かひなき事をばさるものにして、思ひ嘆い給ふらむ有様おしはかるなむ、あはれに心苦しき。なべての世のことわりに思し慰め給へ」とあり。目も見え給はねど、御返り聞え給ふ。




方々のお悔やみは、いつの間に知れたのかと、思われる。大将殿も、この上なく、聞き驚きになり、とりあえず、お悔やみ申し上げた。六条の院からも、致仕の大殿からも、皆々、次々に、お悔やみ申し上げる。
山の帝も、お聞きあそばして、心を込めて、お手紙を、お書きになった。宮様も、この便りには、お顔を上げられる。
朱雀院は、長らく重く煩っていられると、聞いていたが、いつも病気がちだとばかり聞いていましたので、うっかりして、言ってもかいのない事は、別にして、悲しみ嘆いていられる様子を想像すると、不憫で、心が痛む。すべての人の定めと思い、気を楽になさい、とある。涙で目も見えないが、お返事を申し上げる。




常に、さこそあらめと宣ひける事とて、今日やがてをさめ奉るるとて、御おひの、大和の守にてありけるぞ、よろづにあつかひ聞えける。からだをだにしばし見奉らむとて、宮は惜しみ聞え給ひけれど、さてもかひあるべきならねば、皆急ぎたちて、ゆゆしげなる程にぞ大将おはしたる。




常に、そうしてと、おっしゃっていたことなので、今日、すぐに葬り申し上げるというので、御甥の、大和の守である者が、すべて事を、お運びになるのだった。亡骸だけでも、しばらく拝んでいたいと、宮は、惜しまれたが、そうしても、何にもなるわけではないので、一同、準備にかかって、大変なところに、大将が、いらした。




「今日よりのち、日ついで悪しかりけり」など人聞きには宣ひて、いとも悲しうあはれに、宮の思し嘆くらむ事をおしはかり聞え給うて、「かくしも急ぎ渡り給ふべき事ならず」と人々いさめ聞ゆれど、強ひておはしましぬ。




今日から後は、日が悪いのだ、などと、人前ではおっしゃり、何とも悲しく、哀れに、宮が嘆いているだろうと、ご推察申し上げて、そんなに急いで、いらっしゃるべきことでは、ありませんと、人々が引き止めるが、押し切って、お出であそばした。

これは、夕霧の心境である。


posted by 天山 at 06:04| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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