2016年05月12日

玉砕123

平成27年2015年、元旦の今上陛下の感想

本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京をはじめとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なことだと思っています。

私も、この玉砕というエッセイを、それに促されて、書いている。

そこで、矢部氏の次の言葉である。

こうしたとき何より重要なのは、右の明仁天皇の言葉にあるように、歴史をさかのぼり、事実にもとづいた議論をすることです。数え方にもよりますが、少なくとも半世紀のあいだ、私たち日本人はそういう根本的な議論をすることを避けつづけてきたのです。
右の文中で、明仁天皇がとくに、「満州事変」という固有名詞を出している点に注意が必要です。あきらかにいま、その具体的な歴史に学ぶべきだと警鐘を鳴らしておられるのです。

ではその「満州事変」とは何か。それはひとことでいうと、海外に駐留する軍隊が、本国の指令を聞かずに暴走し、勝手な謀略をめぐらして、海外の広大な領土を占領したという出来事です。
この無法な軍事行動を境に、日本は満州国の建設、国際連盟の脱退、日中戦争、三国同盟、真珠湾攻撃と、破壊への坂道を転げ落ちていくことになったのです。

その過程で昭和天皇は軍部の暴走に対し、何度か、はっきり止めようとしています。しかし同時に、天皇以外は軍部にブレーキをかけられない大日本帝国憲法の法的構造の中で、昭和天皇がみずから大きなリスクを負ってまでは暴走を止めようとしなかったことも事実です。

昭和史研究の第一人者、保坂正康氏がのべているように、
「昭和天皇は好戦的ではなかったが、平和主義者だったということもできない。昭和天皇が何より大切にしていたのは「皇統の継続」で、それがあらゆる判断に優先した」
というのが正確な評価だと私も思います。

では軍部が勝手な暴走を始めたときに、本当はそれにどうブレーキをかけるべきだったのか。その問題をまさにいま、私たちは考える必要があるのです。

以上

このエッセイを読まれている方は、十分に、満州事変からの様子を知られたことと、思う。

前回、安倍への意見が、集団的自衛権を可決したということに、矢部氏は、大きな危惧を抱いていたことは、引用して書いた。

そして、今、矢部氏は、
では軍部が勝手な暴走を始めたときに、本当はそれにどうブレーキをかけるべきだったのか。その問題をまさにいま、私たちは考える必要があるのです。

と、書くのは、どういう神経なのだろう。
それに、反対せよというのだろうか・・・
決まる前に、何故、反対し続けなかったと、私は思う。

更に、昭和天皇が、皇統を継続をあらゆる判断に優先したという、保坂氏の論説は、どうか。

天皇は、天皇が無くなり、天皇の無い日本は、有り得ないと、考える。そして、その歴史の長さである。天皇は、国体であり、天皇自身が、国なのである。
日本には、そういう歴史がある。

昭和天皇が、最も恐れたことは、内戦である。
何度も、それに近い、事変が起こっている。

ここで、見逃していることは、当時の国民の声である。
国民の支持があれば、そこ、軍部も動けたのである。

更に、その軍部、特に、満州に駐留した、関東軍は、何より、ソ連の脅威を知っていたのである。
そのままにしておけば、ソ連は、満州を落とし、朝鮮半島までに至る地域を支配し、日本にとっては、大変な脅威となった。

日清戦争で得た、遼東半島を、ソ連が主になり、三国干渉で、日本に破棄させた。しかし、そのすぐ後に、ソ連が、その地域を侵略したのである。

昭和天皇が、何度も、ブレーキと、お言葉を述べられた経緯は、記した。

私たちが考える必要があると、矢部氏は、言う。
当然、考えるべきである。
だが、現在は、当時と違い、文民政治である。

つまり、国民が許してはじめて、自衛隊が動けるのである。
その国民の代表が、国会議員である。
選挙がいかに、大切かということだ。

考える必要より、行動する必要である。
その唯一の方法が、国民にとっては、選挙である。

現在の自衛隊は、決して勝手な暴走をすることが出来ない。
当時とは、全く違う時代である。

何度も言うが、時代性と、時代精神を見逃しては、誤る。

敗戦したから、
破滅への坂道を転げ落ちていくことになったのです。
に、なるのである。

色々な角度、そして、時代性と、時代精神を持って、考えるべきことである。


posted by 天山 at 06:07| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月11日

玉砕122

平成27年、4月8日、パラオ御訪問、歓迎晩餐会での、お言葉。

ミクロネシア地域は第一次大戦後、国際連盟の下で、日本の委任統治領になりました。パラオには、南洋庁が設置され、多くの日本人が移住してきました。・・・
しかしながら、先の大戦においては、貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行われました。・・・
ここパラオの地において、私どもは先の大戦で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。

明仁天皇にとって、パラオ訪問は20年越しの懸案でした。実は即位直後の1990年代前半から、すべてパラオやサイパン、マーシャル諸島への慰霊の旅をしたいと希望されていたのです。2005年にまずサイパンへの訪問が実現したのは、パラオには適当な宿泊施設がないことが主な理由だったようです。
・ ・・
しかし明仁天皇が長年、パラオやサイパンというミクロネシアの地にこだわってこられたのは、右の言葉にあるように、それが戦前は「南洋諸島」とよばれる日本の委任統治領だったからということもあるのです。
そのために戦後、この地域の人びとは、沖縄の人びととよく似た苦難の道を歩むことになりました。国連憲章で定められた信託統治制度のなかで「戦略地区」という差別的な位置づけをされ、とくにマーシャル諸島などはアメリカの核実験場にされてしまったのです。

みなさんもビキニという環礁で繰り返されたアメリカの核実験について、耳にされたことがあると思います。そこでは1946年から1958年までのあいだに、もうひとつの実験場(エニウェトク環礁)とあわせて計67回の核実験が行われました。
そのうちのひとつが、日本ではマグロ船・第五福竜丸の被爆で知られる水爆実験「ブラボー」です。その威力は広島原爆の1000倍とされる15メガトン。実はこのとき第五福竜丸以外にも、日本の1000隻以上の漁船が被爆しています。

当然、周囲の島に住む住民もこのとき被爆し、その被害は現在までつづいています。

基本的人権の尊重をうたった戦後の国連憲章のもとで、いったいなぜそんなメチャクチャな核実験が可能だったのか。その理由は「敗戦国=敵国の戦後処理の問題については国連憲章は適用されない」とした、敵国条項の悪用にありました。この法的なトリックは、沖縄を軍事植民地化しつづけた法的トリックとまったく同じものでした。

日本に委任統治されていたというだけの理由で、そうした理不尽な差別を経験しつづけたミクロネシアの悲劇。明仁天皇がどうしてもと希望された理由は、その声なき人びとの苦しみに寄せるという意味もあったのではないかと私は思っています。
矢部宏治

上記の、天皇の御心に関する文には、共感する。

そして、私は言う。

つまり、敵国条項というもの・・・
法的トリックというもの・・・

差別以外の何物でもない。
それは、戦争に負けたからである。

今、現在も日本は、国連において、敵国条項に当てはめられている。

沖縄の殖民地化というより、日本の植民地化である。
つまり、今も、アメリカの殖民地になっている、日本であると言う事を、肝に銘じる。

では、それから、脱するために、どうするのか。
再度、アメリカと戦う以外に無いのか・・・

現在の日米同盟により、日本は、70年間一度も、戦争せずにきた。
平和を享受した。
それが、問題なのか・・・

次の矢部氏の言葉を、書く。

戦後日本とは、とにかく戦争だけはしない。それ一本でやってきた国でした。そのために、どんな矛盾にも目をつぶってきた。沖縄に配備されていた米軍の核兵器にも、本土の基地からベトナムやイラクに出撃する米軍の部隊にも、首都圏上空をおおう米軍専用の巨大な空域にも、ずっと見て見ぬふりをしてきたのです。

それもすべては、とにかく自分たちだけは戦争をしない、海外へ出かけていって人を殺したり殺されたりしない、ただそのためでした。戦後の日米関係の圧倒的な力の差を考えれば、その方針を完全な間違いだったということは、だれもにできないでしょう。ところがいま、その日本人最大の願いが安倍首相によって葬られ、自衛隊が海外派兵されようとしているのです。

こうしたとき何より重要なのは、右の明仁天皇の言葉にあるように、歴史をさかのぼり、事実にもとづいた議論をすることです。数え方にもよりますが、少なくとも半世紀のあいだ、私たち日本人はそういう根本的な議論をすることを避け続けてきたのです。
矢部

ここで、突然のように、
戦後の日米関係の圧倒的な力の差を考えれば、その方針を完全な間違いだったということは、だれもにできないでしょう。ところがいま、その日本人最大の願いが安倍首相によって葬られ、自衛隊が海外派兵されようとしているのです。

だれにもできないと、言い、安倍首相が、云々とは・・・
私の勘違いか、矛盾している。

アメリカの殖民地である日本であって、平和だった。
その方針には、誰も、間違いということは、出来ない。
しかし、今、自衛隊が海外派兵されようとしている・・・

最大の矛盾である。
この矢部氏は、具体的に、では、どうするのかという、アイディアはない。

このまま、アメリカの殖民地になっている日本であれば、アメリカの要請に従わざるを得ないのである。

日本が、本当の独立を勝ち取るためには、どうしなければならないのか・・・
と、私は、疑問符を付ける。

米軍を撤退させて、日本が独自に独立国として、安全保障を担うとするということ。
それは、理想である。

だが、核兵器を作らなければならなくなる。
そして、戦争も辞さない国となる。

現実としては、そういうことになる。

矢部氏の分析は、実に参考になるが・・・
私の知る限り、元都知事の、石原慎太郎氏のみが、現実的なことを、提案していたと思うが・・・

posted by 天山 at 05:42| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月10日

玉砕121

戦争をしない国、という本がある。
文は、1960年生まれの、矢部広治さんという方である。

この本は、明仁天皇、今上天皇、皇后陛下のお言葉を紹介し、色々な疑問を投げかけている文である。

その中から、
2005年6月28日、第二次世界大戦の戦没者を追悼するためサイパンを訪れていた明仁天皇と美智子皇后は、当初の公式日程には含まれていなかった沖縄や朝鮮半島出身者の慰霊塔などを含む、島内の主な慰霊の地すべてをめぐり、拝礼されました。
国籍や軍人・民間人の区別なく、戦争で命を落としたすべての人びとの魂をなぐさめる。それは沖縄南部の戦跡に立つ「魂魄の塔」に始まり、その後、国内での旅によって確立された明仁天皇の慰霊の思想が、海外にまで展開された最初の例だったといえるでしょう。
右の文中にある「海外での戦死者240万人」の半数以上は飢死だったといわれています、
さらに「全体の戦死者310万人」のうち、1944年以降の戦死者が、大多数をしめています。それは対馬丸のところで見たように、サイパン島の戦いと併行して行われたマリアナ沖海戦で、日本軍が空母と航空機の大半を失い、戦いに完全に決着がついたあとも、なんの展望もないまま、ただ戦争を継続したからでした。
みなさんもよくご存知のとおり、サイパン島から直接本土を爆撃できるようになったB29に対して、日本は竹ヤリの訓練をしていたのです。
こうした戦史を具体的に見ていくと、そもそも旧日本軍の参謀たちには、最初から海外で戦争をする能力など、まったくなかったといわざるをえないのです。

上記は、一理ある。
理解する。

しかし、これは、矢部氏の考えた、戦争である。

最初から、海外で戦争をする能力がなかった・・・
確かに、その通りであろう。

だから、何度も書くが、昭和天皇はじめ、多数の人たちが、和平交渉を続けていたのである。
この調子で、語られると、誤る。

日本の外交努力を無視して、単に、終わった戦争の当事者を批判することは、簡単である。

また、参謀たちのせいにすることも、簡単である。
上記を否定しないが、この記述だけでは、誤るのである。

もし、戦争をしなかつたら・・・
戦わずして、アメリカの言いなり、つまり、植民地になったという、可能性も、大である。
勿論、今の日本は、アメリカの植民地であるといえる。
だが、戦争をして、敗戦した、しないで、殖民地になるとは、訳が違う。

少なくとも、日本は、日本人は、何もせず、殖民地を望まず、敗れても、戦ったという、事実が大切である。

なんの展望もないまま、ただ戦争を継続した・・・
後付で、意味は、何とでも、付けられる。

起こってしまった、起こしてしまった、戦争というものを、追悼するならば、その過程を、十分に見つめることである。

日本軍は、人命軽視の考え方で、更に、天皇を利用して、軍部は、大勢の若者を、戦死させたということは、私も、その通り書いてきた。

二度と、このような、戦いほしないという、誓いと共に、考えることは・・・

今上天皇のお言葉の、願いと、希望、そして、理想を追い求めることである。
しかし、ここで大事なことは、現状を鑑みて、行為するということである。

理想は、現実に遠い。
その遠い理想に向かい、現状から、出発するのである。

当時の、軍部を批判し、更に、誤りだったというのは、簡単なことである。
しかし、それによって、多くの人たちが、命を落とした。
その命を捧げた人たちも、その不可抗力に生きた時代。

その、時代性と、時代精神を無視できないのである。

現在から、過去の史実を考える時、当時の状況を無視できない。

矢部氏の論調に共感するが、具体的なことが記されない。
問題提起の投げ掛けである。

それでも、天皇皇后両陛下のお言葉を紹介するという、試みに深く、共感するものである。

この矢部氏の、発言を少し俯瞰して見て、更に、考えてみたい。

過去を取り上げて、極端に裁くこと、あるいは、極端に礼賛することも、私は、否定する。

右翼、左翼、右派、左派、等々、あまり意味のないことだ。
それより、事実を知ることである。
そして、その事実を、どのように受け止め、未来に生かしてゆくかである。

理想は、高くてもいい。しかし、まず、現状、現場からの一歩である。
今、目の前にある問題を、過去に囚われて、先に進めないことが、最も不憫なことである。

昭和天皇は、実に、極端を嫌った。
天皇を神の如くにして、その名を利用して、兵士たちを死に駆り立てた、軍部を嫌った。
しかし、天皇は、君主であり、国の大本、国体でもある。

一度、戦争が始まれば、それを励まし、そして、戦果に対して、労いのお言葉を発するのである。

幾度も、昭和天皇は、戦争ではなく、外交による、和平の道を説いた。
しかし、時代性、と、時代精神がある。
それには、誰も、逆らうことが出来ない。

当時、有色人種の国々が、欧米列強の殖民地であったこと。
そして、力の世界であったこと。
唯一、日本だけが、列強に対処出来る立場だったこと。

それを鑑みて、考えるべきことが、多々ある。

posted by 天山 at 05:07| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月09日

もののあわれについて810

六条の院にもきこしめして、「いとおとなしうよろづを思ひしづめ、人のそしりどころなく、めやすくて過ぐし給ふを、おもただしう、わがいにしへすこしあざればみ、仇なる名をとり給うし面おこにし、嬉しう思しわたるを、いとほしういづかたにも心苦しき事のあるべき事。さばかりの事たどらぬにはあらじ。すくせといふもの逃れわびぬる事なり。ともかくも口入るべき事ならず」と思す。「女のためのみにこそいづかたにもいとほしけれ」と、あいなくきこしめし嘆く。紫の上にも、きし方ゆく先のこと思し出でつつ、かうやうの例を聞くにつけてもなからむのち、うしろめたう思ひ聞ゆるさまを宣へば、御顔うち赤めて、「心憂く、さまでおくらかし給ふべきにや」と思したり。




六条の院、源氏も、お耳にあそばして、源氏は、たいそう落ち着いて何につけても、心騒がず、誰も悪く言うところなく、立派に、毎日を暮らしていらしたのを、誇りに思い、自分が昔、少々浮かれすぎて、発展家と、評判をとった名誉挽回だと、嬉しく思ってきたのだが、可愛そうに、どちらに対しても、具合の悪いことと、なるだろう。他人の間でさえなくて、太政大臣なども、どのように思いになるだろう。それくらいの事が分からないはずはない。運命というものは、うまく逃げられないのだ。あれこれと、自分が口出すべきことではない。と、思いになる。また、女の身として、どちらも可愛そうなことだ。と、せん無くも、このお話をお嘆きになる。
紫の上に向かっても、院は、過去のこと、将来のことを、思い出しになりながら、このような話を聞くにつけ、死んだ後が、心配になる旨をおっしゃると、お顔を赤くして、情けないこと。そんな私を後に、残されるのか、との思いだった。




「女ばかり身をもてなす様も所せう、あはれなるべきものはなし。物のあはれ折りをかしきことをも、見知らぬ様にひき入り、沈みなどすれば、何につけてか、世にふるはえばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべき。そは、大方ものの心を知らず、いふかひなきものにはあらずや。心にのみこめて、無言太子とか、小法師ばらの悲しき事にかる昔のたとひのやうに、あしき事よき事を思ひ知りながらうづもれなむも、いふかひなし。わが心ながらも、よき程にはいかで保つべきぞ」と思しめぐらすも、今はただ女一の宮の御為なり。




源氏は、女ほど、身持ちが窮屈で、可愛そうな者はない。感ずべきことも、面白いことも、分からない振りで、人前に出ず、引っ込んでいたりなどするものだから、一体、何によって、生きている間の喜びも、無常の世の無為をも、紛らわせるのか。そういうことは、一切分からず、お話にならないものとなっていては、それでは、手塩にかけて、育ててくれた親も、残念に思うはずではないか。胸一つに収めて、無言太子とか、つまらない小坊主どもが、悲しい話にする、昔のたとえのように、悪いこと良いことは、きちんと分かりながら、口に出さずにいるのも、お話にならないこと。自分ながら、立派に、どうして、身を持ち続けることが、出来ようか。と、心配されるのも、今は、ただ、一に、女一の宮のためだけなのだ。




大将の君参り給へるついでありて、思う給へらむ気色もゆかしければ、源氏「御息所の忌果てぬらむなむ。昨日今日と思ふ程に、みそとせよりあなたの事になる世にこそあれ。あはれにあぢきなしや。ゆふべの露のかかる程のむさぼりよ。いかでかこの髪剃りて、よろづ背き捨てむと思ふを、さものどやかなるやうにして過ぐすかな。いとわろきわざなりや」と宣ふ。夕霧「まことに惜しげなき人だに、おのがじしは離れがたく思ふ世にこそ侍めれ」など聞えて、夕霧「御息所の四十九日のわざなど、大和の守なにがしの朝臣、一人あつかひ侍る。いとあはれなるわざなりや。はかばかしきよすがなき人は、生ける世の限りにて、かかる世のはてこそ悲しう侍りけれ」と聞え給ふ。源氏「院よりもとぶらはせ給ふらむ。かの御子いかに思ひ嘆き給ふらむ。はやう聞きしよりは、この近き年ごろ事にふれて聞き見るに、この更衣こそ口惜しからずめやすき人のうちなりけれ。おほかたの世につけて惜しきわざなりや。さてもありぬべき人の、かう失せゆくよ。院もいみじうおどろき思したりけり。かの御子こそは、ここにものし給ふ入道の宮よりさしつぎには、らうたし給ひけれ。人様もよくおはすべし」と宣ふ。夕霧「御心はいかがものし給ふらむ。御息所は、こともなかりし人の気配心ばせになむ。親しううちとけ給はざりしかど、はかなき事のついでに、おのづから人の用意はあらはなるものになむ侍る」と聞え給ひて、宮の御事もかけず、いとつれなし。「かばかりのすくよか心に、思ひそめてむこと、いさめむにかなはじ、用いざらむものから、われさかしに言いでむもあいなし」と思して止みぬ。




大将の君が参上された機会に、心の様も知りたいと思い、源氏は、御息所の忌みは、明けただろう。昨日、今日と思ううちに、三十年以上の昔になる、世の中だ。儚く、つまらないものだ。夕方の露が、草葉にかかっているぐらいの、寿命をむさぼっている。何とかして、この髪を剃って、何もかも捨て去って、と思いつつ、いかにも、のんびりした態度で、日を送っている。まことに、良くないことだ。と、おっしゃる。
夕霧は、本当に、惜しくない人でも、それぞれは、去りがたく思う、この世でございます。などと、申し上げて、更に、御息所の四十九日の法要など、大和の何某朝臣が、一人で、お世話いたしますのは、まことに奇妙なことで、ございます。しっかりとした、縁者のいない人は、生きている間だけのことで、死後は、惨めなことでございます。と、申し上げる。
源氏は、上皇様からも、ご弔問されたことであろう。あの内親王は、どんなにお嘆きになってしらっしゃることか。昔聞いていたよりは、ここ一年余り、何かに付けて、見たり聞いたりするが、この更衣は、お付き合いできる感じのよい人の一人であろう。知り合いとしてではなくとも、惜しいことだ。まずまずの人が、こうして死んで行くことだ。上皇様も、酷く驚き遊ばしたのだ。あの内親王は、こちらにいらっしゃる入道の宮の次には、可愛がっていらした。ご様子も立派で、いらっしゃるだろう。と、おっしゃる。
夕霧は、お気立ては、どのようでいらっしゃいますか。御息所は、悪い点のなかった感じの性格でいらっしゃいました。親しくお話し合いくださいませんでしたが、ちょっとしたきっかけで、いつとはなく、たしなみの程は、分かるものでございます。と、申し上げて、女二の宮の事は、口にされず、冷静である。
これほど物に動じない人が、思いつめていることは、忠告しても、役に立つまい。聞きもしないのに、いい気になって、口出ししても、つまらないと、源氏は思い、おやめになった。


posted by 天山 at 06:11| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月06日

もののあわれについて809

上はまめやかに心憂く、雲居雁「あくがれたちぬる御心なめり。もとよりさる方にならひ給へる。六条の院の人々が、ともすればめでたき例にひき出でつつ、心よからずあいだちなきものに思ひ給へる。わりなしや。われも、昔よりしかならひなましかば、人目も慣れて、なかなか過ごしてまし。世のためしにしつべき耳頃ばへと、親兄弟よりはじめ奉り、めやすきあえものにし給へるを、ありありては、末に恥ぢがましき事やあらむ」など、いといたう嘆い給へり。




奥方は、本当に嫌な気がして、うつつを抜かしていらっしゃるようだ、初めから、そういうことに慣れていらっしゃる、六条の院の、ご婦人方を、どうかすると、結構な例に、引いたりして、私を気に食わない、愛想の無い女だと、思っているのは、酷いこと。私だって、昔から、そういう習慣になっていたら、人の見る目も平気で、いっそ、気楽に過ごすことも出来た。世間の模範にしてよいご性質だと、親兄弟をはじめとして、結構な果報者として下さっているのに。挙句の果てに、今頃、世間に顔向け出来ないようなことが、起こるだろうか。など、酷く、嘆かれるのである。




夜も明け方近く、かたみにうち出で給ふことなくて、そむきそむきに嘆き明かして、朝露の晴れ間も待たず、例の文をぞいそぎ書き給ふ。いと心づきなしと思せど、ありしやうにも奪ひ給はず。いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶき給ふ。忍び給へど、漏りて聞きつけらる。

夕霧
いつとかは おどろかすべき 明けぬ夜の 夢さめてとか 言ひしひとこと

うへより落つる」とや書い給へらむ。おしつつみて、なごりも、いかでよからむ。など口ずさび給へり。人召してたまひつ。御返事をだに見つけてしがな、なほいかなることぞと、けしき見まほしう思す。




夜明け間近で、互いに口に出すこともなく、背中を向け合って、嘆きのうちに、夜を明かして、朝露が晴れるのを待たず、例により、手紙を急いでお書きになる。
なんて、嫌なと思うが、以前のようにはしない。細々と書いて、下に置き、低く吟じる。声をひそめていらっしゃるが、漏れ聞えて、分かるのである。

夕霧
いつになったら、お尋ねすれば、よろしいのでしょう。夜の夢が覚めてからと、おっしゃったお言葉では・・・

お手紙もないので、とか、お書きになったのでしょうか。さっと、包んで、その後も、どうして良いか、など、口ずさんでいらっしゃる。
人を呼び寄せ、お渡しになる。宮様の、ご返事でも、見たいものだ。矢張り、本当は、どうなのか。と、様子を知りたいと、思うのである。

主語が無いのが、夕霧と、雲居雁の、所作と、心境である。




日たけてぞ持て参れる。紫のこまやかなる紙すくよかにて、小少将ぞ例の聞えたる。ただ同じ様に、かひなきよしを書きて、小少将「いとほしさに、かのありつる御文に、手習ひすさび給へるを盗みたる」とて、中にひきやりて入れたり。目には見給うてけりと思すばかりの嬉しさぞ、いと人わろかりける。そこはかとなく書き給へるを、見続け給へれば、

女二
朝夕に なくねをたつる 小野山は 絶えぬ涙や おとなしの滝

とや、取り成すべからむ。ふるごとなど、物思はしげに書きみだり給へる御手なども見所あり。「人の上などにて、かやうのすき心思ひ入らるるは、もどかしううつし心ならぬ事に見聞きしかど、身の事にては、げにいと堪え難かるべきわざなり。怪しや、などかうしも思ふべき心いられぞ」と思ひ返し給へど、えしもかなはず。




日が高くなってから、返事を持参した。
紫の、濃い立派な紙で、小少将が、いつも通り、お返事したものである。全く、いつもと同じで、何にもならなかったとの趣旨を書いて、あまりお気の毒なので、あの頂戴したお手紙に、宮様がお筆を染められたのを、こっそり取りましたのです。とあり、中に引きちぎりいれてある。
御覧になることは、なったのだと、思いで、嬉しいとは、体裁の悪い話である。とりとめもなくお書きになっているのを、文句を続けて、御覧になると、

女二宮
朝に晩に、声を立ててなく、小野山は、流れ続ける私の涙が、音なしの滝となっているのだろうか。

と、でも読み取るべきか。古歌など、嘆きに沈む気持ちで、あれこれと、お書きになっている。その御筆跡なども、見事である。他人のことで、こんな女二の宮に思い込んでいるのは、歯がゆくもあり、正気の沙汰ではないと、見たり、聞いたりしていたが、自分のことだと、本当に、とても我慢できることではない。変な具合だ。何故、こんなにまでして、いらいらしてしまうのか、と反省されるが、思うに任せないのである。

小野山・・・
拾遺集 恋二 題知らず 読み人知らず
恋ひわびぬ ねをだに泣かむ 声たてて いづこなるらむ 音無の滝

少将が、宮の手習いを届けたのである。
少将は、夕霧の手紙を見せても、何にもならないと言うのである。

その、宮の手習いを、夕霧に届ける。

posted by 天山 at 06:41| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月05日

もののあわれについて808

この人も、ましていみじう泣き入りつつ、小少将「その夜の御返りさへ、見え侍らずなりにしを、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにし程の空の気色に、御心地惑ひにけるを、さる弱目に、例の御物の怪の引き入れ奉るとなむ見給へし。過ぎにし御琴にも、ほとほと御心惑ひぬべかりし折々多く侍りしを、宮の同じ様に沈み給うしを、こしらへ聞えむの御心強さになむ、やうやう物おぼえ給うし。この御嘆きをば、御前には、ただわれかの御気色にて、あきれて暮らさせ給うし」など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしうもあらず聞ゆ。夕霧「そよや、そもあまりにおぼめかしう、言ふかひなき御心なり。今は、かたじけなくとも、誰をかはよるべに思ひ聞え給はむ。御山住みも、いと深き峰に、世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞えかよひ給はむ事かたし。いとかく心憂き御気色聞え知らせ給へ。よろづの事さるべきにこそ、世にありへじと思すとも、従はぬ世なり。まづはかかる御別れの、御心にかなはば、あるべき事かは」など、よろづに多く宣へど、聞ゆべきこともなくて、うち嘆きつついたり。




この人も、なお更、酷く泣き出して、小少将は、あの世の、御返事さえ、拝見せずじまいでしたので、最後の息の下の、お心に、思いふうにばかり思いつめなさり、暗くなった時分の空具合に、具合が悪くなってしまい、そういう弱り目に、計によって、物の怪が取り込み申したのだと、拝見しました。亡くなられた、柏木のことでも、ほとんど、お心も崩れずれそうだった時も、何度もございましたが、宮様が、同じように悲しみに暮れていらしたのを、慰め申そうとのお気持ちから、次第に、気を取り直しました。などと、涙を抑えられず悲しんで、はきはきと、申すことが出来ない。
夕霧は、それだよ。それも、あまりに、弱々しく、張り合いのないお考えだ。今となっては、恐れ多いが、他に、どなたを頼りに思われよう。お山住みも、とても深い山中で、世の中を思い捨てさった、雲の中みたいに、お手紙をやり取りなさるのも、難しい。本当に、こんなつれないお態度を、ご意見申し上げてください。すべて、こうなる運命だった。生きていまいと、思いでも、ままならぬ世なのだ。第一、こうした死別が、お心のままになるなら、あるはずがない。などと、色々と多くをお話しするが、少将は、申し上げる事場もなくて、悲嘆に暮れて、座っている。




鹿のいといたく鳴くを、われ劣らめや、とて、

夕霧
里遠み 小野のしの原 分けて来て われもしかこそ 声も惜しまね

と宣へば、
小少将
藤ごろも 露けき秋の 山びとは 鹿の鳴く音に ねをぞ添へつる

よからねど、折からに、忍びかなる声づかひなどを、よろしう聞きなし給へり。




鹿が、とても酷く鳴くので、自分もあれに、劣るまいと、

夕霧
この山里まで、遠く小野の篠原を分けて来て、私も鹿のように、声を惜しまず泣くのだ。

と、おっしゃると、

小少将
藤衣も、しめりがちな、この秋の山里にいる私は、鹿の鳴き声と共に、泣き声を上げています。

よい歌ではないが、時が時なので、低く口ずさむ声などを、かなりなものだと、お聞きになる。




御消息、とかう聞え給へど、女二「今は、かくあさましき夢の世を、少しも思ひさます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞えやるべき」とのみ、すくよかに言はせ給ふ。いみじう言ふかひなき御心なりけり。と嘆きつつ、帰り給ふ。




ご挨拶を、あれこれと、申し上げされるが、女二宮は、今は、こんな思いがけない夢のような、有様、少しでも、落ち着きを取り戻すことがあれば、たびたびのお見舞いの、お礼も、申し上げましょう。と、だけ、そっけなく言う。ずいぶん、取り付く暇もないお心だと、嘆きつつ、お帰りになる。




道すがらも、あはれなる空を眺めて、十三日の月のいとはなやかにさし出でぬれば、小倉の山もたどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。いとどうちあばれて、ひつじさるのかたのくづれたるを見入れば、はるばるとおろしこめて、人影も見えず。月のみ、やり水の面をあらはにすみましたるに、大納言ここにて遊びし給うし折々を、思ひいで給ふ。

夕霧
みし人の 影すみはてぬ 池水に ひとり宿もる 秋の夜の月

とひとりごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心はそらにあくがれ給へり。
さも見苦しう、あらざりし御くせかな、と、御たちもにくみあへり。




道すがら、心に染入る空を眺めて、十三日の月が、とても明るく差し昇るので、小暗いというなの、小倉山も、迷うことなく、通り過ぎると、一条の宮は、その途中にあるのだった。以前にまして、荒れた雰囲気で、南西の方の築地の崩れている所から、中を覗くと、一面、格子を閉め切って、人影も見えない。月だけが、鑓水の面を、くっきりと、光らせているので、大納言が、ここに来て、管弦の遊びなどなさった折々を思い出す。

夕霧
あの人が、もう住んでいないこの家の、池水に独り、宿守りをしている、秋の夜の月だ。

と、独り言をいいながら、邸に帰っても、月を眺めて、心を空に漂わせている。

本当に、みっともない。これまでなかった、ご様子だと、女房たちも憎らしく思っている。

posted by 天山 at 05:52| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月04日

もののあわれについて807

なほ、かくおぼつかなく思し侘びて、また渡り給へり。御忌など過ぐしてのどやかに、と思し静めけれど、さまでもえ忍び給はず。今は、この御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは、と思したばかりにければ、北の方の御思ひやりを、あながちにもあらがひ聞え給はず。正身は強う思し離るとも、かのひと夜ばかりの御恨み文をとらへどころにかこちて、えしもすすぎ果て給はじ、と頼もしかりけり。




矢張り、大将、夕霧は、このように、お手紙もないのに困り、改めてお越しになった。御忌みなどが明けてから、ゆっくりと、と思いを抑えておられたが、それまで、我慢が出来ないのである。今では、あの、あらぬ浮名を、何の無理に隠すことがあろう。ただ世間の人をまねて、ついに、思いを遂げるまでのこと、と思案を巡らすので、北の方の想像を無理に、打ち消すことも無い。
本人は、まるきり、お気持ちなしでも、あの、一夜ばかりの、とあった母君が、お恨みのお手紙を手がかりに、押し入って、よもや、言い逃れが、おできにならない、と、うまくゆきそうに、思えるのだ。

御忌とは、御息所の四十九日のこと。
夕霧は、ただ世づきて・・・、つまり、世間の男たち並にと、考えている。
女二宮に、迫るつもりである。




九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だにただにやは覚ゆる。山風にたへぬ木々の梢も、峰の葛葉も、心あわただしう争ひ散る紛れに、尊き読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人の気配いと少なう、木枯らしの吹きはらひたるに、鹿はただまがきのもとにたたずみつつ、山田のひたにも驚かず、色濃き稲どもの中にまじりてうち鳴くも、うれへ顔なり。滝の声は、いとど物思ふ人を驚かし顔に、耳かしがましうとどろき響く。草むらの虫のみぞ、より所なげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より竜胆のわれ独りのみ心長うはひ出でて露けく見ゆるなど、みな例の頃の事なれど、折から所からにや、いと堪え難き程のもの悲しさなり。




九月の十日過ぎ、野山の景色は、何事も分からぬ人でも、何とも思わずにいられようか。
山風に堪え切れない木々の梢も、峰の葛葉も、気ぜわしく争い、散る中に、尊い読経の声が、かすかに聞えて、念仏の声ばかりして、人のいる感じはなく、木枯らしが、吹きすさんでいる。鹿は、まがきのすぐ傍に佇んで、山田の鳴子にも驚かず、色の濃くなった稲の中に混じり、鳴いているのも、悲しそうである。滝の水音は、ひとしお、愁いを抱く人を、はっとさせるように、やかましく、とどろきわたっている。草むらの、虫ばかりが、頼りなさそうに、鳴き声が弱り、枯れ果てた草の下から、竜胆が、われ独りだけの、のんびりと這い出して、露っぽく見えるのなどは、皆、いつもの晩秋の姿だが、こういう折か、こういう場所か、とても、堪え切れないほどの、もの悲しさである。




例の妻戸のもとに立ち寄り給て、やがてながめ出だして立ち給へり。なつかしき程の直衣に、色こまやかなる御衣のうちめ、いとけうらに透きて、影弱りたる夕日の、さすがに、なに心もなうさし来たるに、まばゆげに、わざとなく扇をさし隠し給へる手つき、「女こそかうはあらまほしけれ。それだにえあらぬを」と見奉る。物思ひの慰めにしつべく、えましき顔のにほひにて、少将の君を取り分きて召し寄す。すのこの程もなけれど、奥に人や添ひいたらむとうしろめたくて、えこまやかにも語らひ給はず。夕霧「なほ近くてを。な放ち給ひそ。かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべくやは。霧もいと深しや」とて、わざとも見入れぬ様に山のかたを眺めて、「なほなほ」とせちに宣へば、鈍色の几帳を、すだれのつまより少し押しいでて、裾を引きそばめつついたり。




いつものように、妻戸のところに、お立ち寄りになって、そのまま、あたりを眺めて立っていらっしゃる。少し着慣れた直衣に、濃い紅のお召し物の、砧の打ち目が、とても美しく透いて見える。光の弱くなった夕日が、それでも、何気なく差してきたので、まぶしそうに、わざとでもなく、扇で顔を隠していらっしゃる手つき、女は、こうありたいものだ。女でさえ、こうは出来まいと、人々は拝見している。
物思いの時の、慰めにしたいほどの、微笑まれてくるような、お顔の美しさで、少将の君を、名指しで、お呼び寄せになる。すのこは、幅もないが、奥に人が一緒にいるだろうと、気になって、打ち解けた話はなさらない。夕霧は、もっと近くで。逃げないでください。このように、山の奥へやってきた私の気持ちは、他人扱いして、よいものでしょうか。霧も深い、と、わざと見る振りでもなく、山のほうを眺めて、もっと近くと、しきりに、おっしゃるので、鈍色の几帳を簾の端から少し押し出して、着物の裾を、引き寄せて座った。




大和の守の妹なれば、離れ奉らぬうちに、幼くよりおほし立て給うければ、衣の色いと濃くて、つるばみの喪衣ひとかさね、こうち着たり。夕霧「かくつきせぬ御事はさるものにて、聞えむかたなき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂もあくがれはてて、見る人ごとにとがめられ侍れば、息はさらに忍ぶべきかたなし」と、いと多く恨み続け給ふ。かの今はの御文の様も宣ひいでて、いみじう泣き給ふ。




大和の守の妹なので、血縁の御縁者の上、幼い頃から、御息所がお育てくださり、着物の色を黒くして、つるばみの喪服一そろいに、こうちぎを着ている。夕霧は、こういう尽きないお悲しみは、それはそれとして、申し上げようもない宮様の、お心のつれなさまでを思うと、魂も抜け出して、見る人ごとに、怪しまれるので、今は、全く我慢のしようもないのです。と、沢山の恨み言を言い続ける。あの最後の時の、御息所のお手紙の内容も、お話されて、酷く、泣くのである。


posted by 天山 at 05:46| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月03日

もののあわれについて806

山おろしいと激しう、木の葉の隠ろへなくなりて、よろづの事いといみじき程なれば、おほかたの空にもよほされて、干る間もなく思し嘆き、命さへ心にかなはずと、いとはしういみじう思す。候ふ人々も、よろづに物悲しう思ひ惑へり。大将殿は、日々にとぶらい聞え給ふ。寂しげなる念仏の僧など慰むばかり、よろづの物をつかはしとぶらはせ給ひ、宮の御前には、あはれに心深き言の葉を尽くして恨み聞え、かつは、つきもせぬ御とぶらひを聞え給へど、取りてだに御覧ぜず。すずろにあさましき事を弱れる御心地に疑ひなく思ししみて消え失せ給ひにし事を思しいづるに、のちの世の御罪にさへやなるらむと、胸に満つ心地して、この人の御事をだにかけて聞き給ふはねいとどつらく心憂き涙のもよほしに思さる。人々も聞えわづらひぬ。




山おろしが、とても激しく、木の葉の影もなくなり、何もかもが、酷く心に沁みる頃なので、宮は、わが身一つではない秋空に誘われ、涙の乾く間もなく、悲しみにくれて、命さえ、思い通りにならないと、わが身をいとい、辛く思うのである。お傍の人々も、何につけも、物悲しく、おろおろしている。
大将殿は、毎日毎日、お見舞い申し上げされる。心細い念仏の僧などの、喜ぶほど、何くれと、物を持たせて、お見舞いなさり、宮様の、御前には、あはれなる心をこめた言葉の限りを尽くして、お恨みもうしあげると共に、限りもなく、お慰め申し上げるが、手にとって、御覧になることさえなく、思いがけず嫌だった、あのことを、思い出されると、母君の後世の邪魔になってさえいようと、胸もいっぱいになる気がして、この人の、お話をふと耳になさるのは、ひとしお辛く、侘しい涙の種と、思うのである。人々も、お勧めの申しようがない。




一行の御返りをだにもなきを、しばしは心惑ひし給へるなど思しけるに、あまりに程へぬれば、「悲しき事も限りあるを、などかくあまり見知り給はずあるべき。言ふかひなく若々しきやうに」と恨めしう、「こと事のすぢに、花や蝶やとかけばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの嘆かしきかたざまの事を、いかにと問ふ人は、睦まじうあはれこそ覚ゆれ。大宮の失せ給へりしをいと悲しと思ひしに、致仕の大臣のさしも思ひ給へらず、ことわりの世の別れに、おほやけおほやけしき作法ばかりの事を孝じ給ひしに、つらく心づきなかりしに、六条の院のなかなか懇に、のちの御事をも営み給うしが、わがかたざまと言ふなかにも、嬉しう見奉りし。その折りに、故衛門の督をば、取り分きて思ひつきにしぞかし。人柄のいたう静まりて、ものをいたう思ひとどめたりし心に、あはれも勝りて人より深かりしが、なつかしう覚えし」など、つれづれと物をのみ思し続けて明かし暮らし給ふ。




一行のご返事さえないので、しばらく気が転倒していらっしゃるのだと、お考えになるが、あまりに時がたったので、悲しいことでも、限りがあるのに、何故こんなに、全然、お分かりにならないはずがあろう。話にもならない、小娘のような態度でいてと、恨めしく、見当違いに、花や蝶やと書いたのなら兎も角のこと。自分でも、悲しい思い、嘆いている筋のことを、どうですかと、尋ねてくれる人は、嬉しく感動するものだ。大宮が亡くなられたことを、とても悲しく、思っていたのに、致仕の大臣が、それほどにも悲しみにならず、当然の死別として、世間向けの儀式的なことばかりを、供養されたので、悲しく、不満に思ったが、六条の院が、かえって、懇ろに、後々の法要まで、営んだことを、自分の身内だということだけではなく、嬉しく拝見したものだ。
その時に、亡き、衛門の督、柏木に、特別好意を持つようになったのだ。人柄がたいそう落ち着いて、物事を、注意深く、心に留めていた性格で、悲しがるのも、ひとしおで、誰よりも、深かったのを、親しみの持てる人だと、思ったのだ、などと、あはれに、物思いに耽ってばかりいて、夜を明かし、日を暮らしになる。

さて、上記、誰の心境なのか。
最初は、夕霧であるが・・・
矢張り、すべて夕霧の思いなのだ。
つまり、話の筋を知らぬと、分からないのである。




女君、なほこの御中のけしきを、「いかなるにかありけむ、御息所とこそ文交はしも細やかにし給ふめりしか」など思ひえ難くて、夕暮れの空を眺め入りて臥し給へるところに、若君して奉れ給へる。はかなき紙の端に、

雲居雁
あはれをも いかに知りてか 慰めむ あるや恋しき なきや悲しき

おぼつかなきこそ心憂けれ」とあれば、ほほえみて、「さきざきもかく思ひ寄りて宣ふ。似げなのなきがよそへや」と思す。いととく事なしびに、

夕霧
いづれとか 分けて眺めむ 消えかへる 露も草葉の 上と見ぬ世を

おほかたにこそ悲しけれ」と書い給へり。雲居雁「なほかく隔て給へること」と、露のあはれをばさし置きて、ただならず嘆きつつおはす。




女君は、矢張り、このお二人の間を、どうだったのか。御息所となら、手紙のやり取りも、ねんごろにしていられるようだったが、などと、判断が、つきにくくて、大将が、夕暮れの空を眺めて、横になっていられるところへ、若君を持たせて、差し上げになった。何でもない紙の端に、

雲居雁
お悲しみを、どう考えて、お慰めしたのか。生きている方が、恋しいのか、亡き人が、悲しいのか。

はっきりしないのが、嫌なのです。と、書いてあるので、微笑んで、前々から、こんな想像をしていらっしゃる。見当違いな故人の話を持ち出して、と、お考えになる。とても早く、気づかぬようで、

夕霧
どちらと決めて、特に悲しもうか。草葉の上の露も、すぐ消えると思う、この世なのだから。

何もかも悲しいのだ。と、お書きになった。雲居雁は、矢張り、こんなに隠していらっしゃる。と、お歌にいう、露、の悲しさは、思わず、並々ならず、嘆いていらっしゃる。


posted by 天山 at 05:27| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月02日

打倒・韓国79

打倒・韓国も、これで、おしまいにする。
書いても、書いても、終わらないだろう。
どこかで、おしまいにする。

極めて遺憾なことだが、韓国は、救いようがないという事実である。

巨視的に見れば、朝鮮総督府の半島経営は韓国人がよく言うような植民地的収奪とは逆に、日本人の税金で財政を支えてきたのである。朝鮮人を圧迫、搾取、収奪したりはせずに、むしろ日本人の税金を使っても財政を支えて近代国家として育てあげようとしていた。
黄 文雄

上記の言葉に、尽きるのである。
以前、金額については、大まかに紹介した。

だから、これ以上、具体的に書くことはしない。

朝鮮は、ずっと中央政府の財政補助を受けつつ、終戦まで、日本の資金と資本を得ていたのである。

1998年の日韓共同声明以後も、日本から30億ドルの支援を受けている。海外からの借金によって国民経済を支えるという経済構造は、終戦後半世紀以上たってOECDに加盟した今日に至っても、ほとんど変わっていない。韓国の他力本願体質は、いつまでたっても変わらないということだろうか。


変わらないだろう。
だから、救いようがない。
また、日本との関わりにより、全うに出来てきたのである。
だから、日本との関係も、遮断されれば、もう、道は無い。

その民族の性格からして、望みは無い。

韓国人が、現在の韓国を、ヘル韓国、つまり、地獄韓国と呼んでいる。
まさに、その通りだろう。
それが、また、自業自得なのである。

韓国人は日帝36年の間、日本国民の血税におんぶにだっこだったばかりではなく、生存権を守る国防費さえほとんど一銭も払わなかった。そのうえ、日本の敗戦につけ込んで、日本が資本投下した施設や日本人資産を食い逃げしてしまった。さらには、逆に日本に謝罪と反省を求め、ゆすりたかりを繰り返してきた。そんな理不尽なことがあっていいのだろうか。


その通りである。

まともに、付き合う様ではない。

そして、救いようのないことは、日帝の植民地支配は、人類史上最悪の搾取という。
誇大妄想の類である。

それでは、他の殖民地支配を、見回してみるがいい。
全うに、その歴史を直視して欲しい。
が、韓国人は、それも、出来ないのである。

英語は、話すが、勉強はしない。

何度も言うが、日帝36年が韓国から奪ったものは何もなかった。統監時代を入れた40年にわたる半島経営の間に投入した資本、技術、韓国の民力をはるかに超え、韓国人が自力では絶対に不可能であった近代化建設をもたらしたと、ここで断言したい。


韓国が千年属国から開放されることができたのは、西風東漸、西力東来という歴史的条件と、列強の洋摂や倭摂、そして日帝があったからこそだろう。それらがなければ、韓国は中華帝国から独立、自律できただろうか。私の考えは否定的である。


つまり、韓国は、日本が作ったのである。
そして、日本以外の国では、韓国は、成り立たなかった。

その生みの親に対しての、韓国の対応は、何か。
恩を仇で返すだけではない。

延々と終わりなく、日本に謝罪と反省を求め、そして、賠償を求める、堕落した民族なのである。

ウソ偽りで、塗り固めた、歴史というものを、創造して、韓国は、世界に対処出来る訳が無い。
つまり、時間の問題で、消滅するだろう。

私は、色々と調べてみて、これは、もう、付ける薬がないと、考えた。
滅ぶのを待つだけである。

そして、日本も、何も関与しないことである。

あの、韓国人、シンシアリー氏が、言う、基本に忠実であり、事が、終われば、ごきげんようと、別れる姿勢である。

何も、言い争うことも無い。
無視する必要もない。

ただ、基本的礼儀だけを、日本は、守ればよい。
世界は、韓国を見捨てるだろう。

幻想の、自画自賛をして、世界一の民族であると、言って、酔っていれば、そのうちに、消滅する。

日本は、韓国に、消耗させられる必要は、全く無い。
朝鮮半島統一も、勝手にさせていれば、いい。

日本の隣国は、韓国ではない。
世界の親日国が、日本の隣国である。

聖書に、あなたの隣人は誰か、という、問い掛けがある。
困った時にこそ、助けてくれる人を、隣人という。

そういう意味でも、韓国は、隣国ではないのである。

別に、打倒・韓国とは、他意はなかったが・・・
知れば知るほど、呆れ果て、そして、書くことも、嫌になった。

これで、本当に、おしまい。
二度と、韓国、朝鮮に触れることは、無い。

ごきげんよう・・・韓国


posted by 天山 at 06:34| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月29日

打倒・韓国78

戦国時代から江戸時代までの日本が世界有数の産金国のひとつだったことに比べれば、朝鮮の産金国としての存在など、世界市場にとってはとるに足りらないものだった。日帝批判をする多くの朝鮮近現代史学者たちは、この部分はほとんど触れずにごまかいしている。いったいどだけのものが眠っているのか、誰も把握していなかった朝鮮の地下資源について、本格的に調査をはじめたのは朝鮮総督府である。


韓国人は、ウソだけではない。
都合が悪いことは、無視する。
更には、出土したものでも、都合が悪いと、埋めてしまうのである。

呆れると共に、感心してしまうほどである。

さて、調査の結果、矢張り、大したものは、見つからないのである。

たとえば、当時もっとも重要な地下資源のひとつとして見られた、鉄鉱石と石炭は、分布のしかたが一定していなかった。
また、瀝青炭は皆無。
鉄鉱石は、日本より、幾分多めである。

これらの実情から、その地位が、「鞍山の鉄」「撫順の石炭」というように、満州に、たちまち取って代わられた。

日本が各種資源の掠奪をしたという証拠として、合邦の前と後の朝鮮の鉱産額が比較される。1910年の朝鮮人の鉱産額は全体の4,8パーセント、日本人は22,6パーセント、日本人以外の外国人が72,6パーセントであった。
それが10年後には、朝鮮人の鉱産額は全体の0,3パーセント、日本人以外の外国人が19,7パーセント、日本人は80パーセントとなり、日本が鉱業生産を独占していたと非難するのだ。


ここでも、ウソを言うのである。

鉱物資源の採掘は、大量の資本投下を必要とする。
そのため、上記の数字は、日本企業の鉱業事業への進出を言うのであり、盗掘を意味するものではない。

つまり、掠奪ではないのだ。

黄氏は、
むしろ、これは日本の工業生産の発展と貢献だと見るべきだろう。大規模な鉱産の採掘に必要な大量の資本投下、技術開発、労働者の雇用は、朝鮮経済の発展と民生の改善に、それなりに貢献しているはずである。
と、言う。

鉱業発展に伴い、鉱山労働者は、大きな階級として、成長していった。
1939年には、その数、22万人以上を超えていた。
人口過剰の韓国にとって、これは、雇用の拡大チャンスである。

どこが、搾取なのか・・・
自分たちならば、搾取するのであろう。だから、日本人も、搾取すると、考えるのである。

まだ、ウソがある。

鉱業部門の技術者は外国人が多く、朝鮮人は三分の一にすぎず、日帝は朝鮮労働者に対する技術教育を許さなかった、という非難もある。それも真っ赤な嘘にすぎない。
朝鮮人には、もともと技術の修業を蔑視する両班の伝統があったのだ。たとえば同じ商工学校でも、日本人学生が「工」へと集中するのに対し、台湾人は「商」に集中する。朝鮮人はどうかというと、どちらも忌避して文科へと進む場合が多いのだ。


つまり、働かないのが、上等だと、考えるのだ。
今、現在でも、汗して働く者を、蔑視する社会である。

実は、日本国内でも、朝鮮の地下資源に期待し、意気込んでいたが、実際に、掘ってみると、大したことがなかった。
やがて、軒並み、採算が取れないのである。
だから、廃鉱においやられた。

満州国建設後は、朝鮮より、満州の方へと移っていく。

もうそろそろ、結論を書く。
黄氏の、論説である。

それまでの「資源」の概念は、物質的・地下的なものに極限される傾向が強かった。しかし、地下資源と経済的採算を考慮して採掘しなければならない。また、掘ってみなければわからないという流動的な部分もある。
したがって、国力の充実と進歩を遂げるのは豊かな地下資源を有する国ではなく、それをもっとも有効に利用できる国家である。それは、戦後日本の経済大国化とアジアNIESの成長をみれば一目瞭然だろう。
との、こと。

資源は大したことはないし、有効利用も出来ないし、朝鮮は、終わっていたのである。
更に、それだけの、資金も無い。

それで、日本が、奪った、日本が、奪った・・・
呆れるのである。

自分たちでは、何一つ出来なかった。
それでも、言い分は、日本が、奪ったである。

日本は、朝鮮に与えたが、一体、何を奪ったのか・・・
何もかも、与えた。

いつまでも、被害者面をしている、韓国人。
付ける薬がない。

民族としての、何か、欠陥があるのだろうと、思える。
心理学という、へんてこな学問から見ても、韓国人は、強迫神経症。
その、強迫とは、色々、様々ある。
一つではないだろう。

ご苦労なことだ。

posted by 天山 at 06:10| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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