2016年06月10日

生きるに意味などない8

恐怖症の患者がその恐怖の対象を抑圧しようとすればするほど恐怖が強まるのも、また、強迫神経症の患者が気にすまいと努めれば努めるほどますます強迫観念が頭にこびりつくのもそのためである。
かくして対象の不在と現前、否定と肯定との妥協形成としてイメージが成立する。
そして対象そのものから遮断され、抑圧された本能は今やイメージと結びつき、イメージによって支えられて欲望に変質する。
欲望とはつねに過去の欲望である。欲望とはまずイメージに向かうのであって、イメージを介してしか対象に向かわない。
そしてイメージは対象そのものではなく、つねに対象から多かれ少なかれずれており、イメージを介する欲望はつねに空振りの危険にさらされている。
岸田 改行は私

ここでイメージは、私に言わせると、意味ともなる。
欲望とは、つねに過去の欲望・・・

そして、イメージに向かう。
そのイメージから、意味を見出そうとする人間である。

岸田氏の、論調を勝手に解釈して、私の言い分を言う。
意味意識とは、まさに、イメージなのである。
私は、それを妄想だと言う。

イメージが、人間に意味意識を持たせるのである。

だが、そのイメージとしての、妄想なくば、生きられぬ人間である。

わたしの考えによれば、エスは本能やリビドーの貯蔵庫ではなく、むしろイメージの貯蔵庫である。
イメージとは私的幻想であり、エスとは私的幻想の世界である。イメージは、一方において否定した不在の対象を他方において幻覚的に現前させようとする試みであり、決して対象の忠実なコピーではない。すなわち、われわれの想像力が生み出した幻想以外の何ものでもない。
岸田 改行、省略は私

岸田氏は、幻想と言う。
日本の心理学では、フロイトなどを崇拝するが・・・
岸田氏は、自分の考えを述べている。

人は、このイメージを固定するために、意味付けを行う、動物である。

人間に与えられた、大脳化ゆえの、悲劇である。

イメージはわれわれと現実とのあいだに立ちはだかる。このイメージが現実の対象の忠実なコピーではないということは、われわれを耐えがたく不安にする。
それは、不動の大地の上に立っているつもりでいたところ、実は薄氷の上であることを知ったときのような不安であろう。というのも、このことを認めれば、われわれが現実との直接的接触を失っていること、われわれが現実と思っているところのものは実は擬似現実でしかないことを認めざるを得なくなるからである。
岸田 改行は私

擬似現実・・・
現実と思っていたが、擬似とは、哀れである。

ましてや、我が身、我というものも、擬似だとしたら・・・
我という意識が、幻想、妄想であることも、考えられるのである。

その我が、意味を見出す・・・
冗談ではない。
我も、まともでなくば、その我が、意味付けするものは・・・
単なる、妄想に過ぎなくなる。

だから、生きるに意味などない、と、私は言うのである。

この不安を避けるためであると思うが、原始的思考においては、イメージの具象化であるシンボルと現実の対象との区別が否定される。
というより、シンボルが対象そのものと見なされる。・・・
岸田 改行、省略は私

シンボルが対象そのもの・・・
実に、恐ろしい蒙昧である。
しかし、生きるためには、そのようにしてきた。

未開人の信仰と、現代人の信仰に差は無いという、驚きである。
イメージを現実と、信じる行為が、信仰である。

岸田氏は、更に、深く掘り下げる。

フェティズムということもあるから、われわれだってこの種の誤信と縁が切れているわけではないが、普通われわれはシンボルを実物と間違えたりはしない。
しかし、一歩しりぞいて、イメージが現実の対象の忠実なコピーであるという線は執拗に守ろうとする。イメージあるいはシンボルが現実の対象そのものではないのなら、せめてその忠実なコピーであると思いたいのである。
かずかずの反証があるにもかかわらず、古典的な認識模写説や唯物論的な反映説が根強いのはここに理由がある。
だが、さらにもう一歩、この線からしりぞかなければならない。そして、われわれが現実との直接的接触を失っており、現実の対象からずれたイメージ、幻想としてのイメージを介して間接的にしか現実に戻り得ないこと、しかも間接的にすら戻り得るとはかぎらないことを認めなければならない。
岸田 改行は私

このことを、喝破した人がいる。
仏陀である。
現実、大地は、いつも、揺れている。

実は、存在していたものは、無いものだった。
何一つ、確実なものはない。
そして、何を信ずる行為も、何の役にも立たないのである。

それは、妄想だからである。

posted by 天山 at 06:24| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月09日

生きるに意味などない7

言語は他のすべての分野での表示に不可欠であるから最初から充分に強調される必要があるのは明らかである。
フェニックス

前回も、引用したが・・・

この言語に関しては、私も、精神活動として、納得している。
言葉なくして、精神活動は、有り得ない。
勿論、言葉なくしても、芸術活動が、精神活動になる人もいるだろうが、数少ない。

その言語に関して、面白い意見を取り上げる。

日本の心理学者である、岸田秀、である。

まずわかり切ったことからはじめると、言語をもっているのは人類だけであり、言語は人類が築き上げた文化の一つである。この意味において言語も他の文化的諸現象と共通の基盤に立っていると考えなければならない。いやむしろ、言語なくしては文化はいっさい不可能であると言えよう。
そして文化とは抑圧に発するものであり、いわば集団神経症、つまり集団において共同化された神経症であるから、言語は文化のこのような本質をもっとも明確に具えているはずである。
岸田 改行は私

日本の心理学は、欧米の心理学の紹介学問だと、思っていたら、岸田という学者が、ようやく、少しは、心理学者らしいことを、書く。

学問は、文化的行為である。
そして、その根幹を支えているのは、言語である。
言語なくして、教育も、そこから発する、意味、意味意識も、皆無となる。

上記は、画期的な、考え方である。
何せ、文化を支える、言語は、文化という抑圧に発するものの、根幹であり、それが、神経症だというのである。

更に、
言語はその起源に関する合理的説明をいっさい拒絶するであろう。
言語は、便利な道具として発明されたものではなく、人類の病いであり、根源的な神経症症状である。
人類が言語をもち、動物が言語をもたないのは、その能力が人類にはあって動物には欠けているからではなく、その必要が人類にはあって動物には欠けているからである。
では、なぜ人類は言語を必要とするのか。
岸田 改行は私

岸田の論調は、次に続くが・・・
人類は、自己満足が必要な生き物であると、私は言う。

その、自己満足が、神経症なのである。

便利な道具として発明されたものではなく、人類の病いであり、根源的な神経症症状である・・・

実は、生まれた時から、言葉を覚える、更に、教えられる。
つまり、神経症を与えられるのである。

別名、ノイローゼである。
人類が、言語を発明したのは、ノイローゼになりたかった・・・

岸田は、
それは人類がその本能を抑圧した結果として、本来の現実との直接的接触を失ったからである。と言う。

これは、悲しい人類の性である。
そのようにしか、生きられないモノとして、人類は、始まった。いや、造られたのか・・・

動物は現実と密着している。動物は現在の刺激に反応し、その本能を満足させる。何らかの外的条件のため、その本能の満足が得られなかった場合でも、みずからそれを抑圧することはない。いいかえれば、動物の本能は決して欲望を構成しない。
岸田

鋭い指摘。
人間に飼われている、動物は、しばし、人間のようになることもあると、付け加えておく。が、それは、矢張り、本能なのである。

動物は、欲望を構成しない。
しかし、人間は、欲望を構成する。
何故か・・・

ある本能が欲望として経験されるのは、本能が満足されず、本能と本能の対象とのあいだに越えがたい障壁を知覚し、かつ、その障壁を乗り越えようとする努力をみずから放棄するときのみである。
そして、みずから遠ざけたかぎりにおいて、本能の対象はイメージとして残存する。
というのも、抑圧するとは、ご存知のように、一つの矛盾した行為であって、否定すると同時に肯定すること、肯定を合意する否定だからである。
対象についての認知がなければ抑圧は不可能であり、抑圧はその認知を永続させるのである。
岸田 改行は私

抑圧・・・肯定を合意する否定・・・
何と、生き難い、生き物なのだろうか。

ここでいう、イメージが後に、意味付けという、行為になることを、付け加えておく。

結論から言えば、イメージ=妄想なのである。

だから、私は、意味などないと、言うのである。


posted by 天山 at 06:35| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月08日

生きるに意味などない6

この六領域が可能な意味を網羅するとすれば、それは一般教育が各人に育成しなければならない基礎的な能力を含むと考えてよい。完成された人は言語、象徴や身振りの使用に熟達し、多くの事実情報を習得し、美的に優れたものを創造し、鑑賞でき、自分と他の人びとの関係において豊かでよく訓練された生活を営み、良識ある決断や善悪の判断ができ、また統合的な展望をもたねばならない。これらのことは全人的発達を意図する一般教育の目的である。
フェニックス

これは、大きな勘違いを生む。
この教育を受けて、高学歴になると、上記のことを、破壊する。

傲慢不遜になり、上記で言うような人間には、ならない。
大半が、そうである。

また、完成された人は・・・
一体、人間が、完成されるものだろうか。

完成されたモノになるのだろうか。

完成を目指して、死ぬまで、努力を続けるというならば、理解出来る。
だが、教育により、完成するという、考え方は、誤りである。

この基礎的な能力を育成する教育過程は、また意味に対する人間の根本的欲求を充たすことをもくろむ。言語、科学、芸術、個人的知識、道徳、歴史、宗教と哲学の授業は破壊的な批判精神や一般化した現代の無意味性への教育的応答となる。そのうえ、これらすべての要素は成熟した人を形成するのにぜひ必要な内容である。
フェニックス

必要な内容である・・・
それは、理解する。

だが、これは、教育全能主義である。
勿論、人間は、教育によって、人間になっていくものだ。

破壊的な批判精神や一般化した現代の無意味性への教育的応答となる・・・
破壊的な批判精神、無意味性への、という言葉に、何か、嫌な物を感じる。

単一的な人間を教育するのではないはず。
また、その意味する、意味というものも、である。

学問という現場によって、教育は、成り立つ。
だが、学問を身につけるということが、人間性を育むということにはならない。

教育により、意味を見出して、豊かな人間性を得るものだろうか。

多くの意味付けは、多々、想像であり、妄想である。
更には、願望、希望の場合もある。

意味の諸領域は区々明確な一全体を形成しているのであるから、それに基づいて立てられた教育課程は無意味性の源の一つである経験の断片化を除去する。各種の意味は、それぞれ分離した分野ではなく、相互に関連し相互に補足し、意味の段階的な単一を構成している。とくに、象徴界と通観界は意味の各分野に及ぶ諸要素を結合し、それを単一な意味豊かな形態に接合するのに役立っている。
フェニックス

全く、その通りである。

無意味性の源の一つである経験の断片化を除去する・・・
つまり、無意味性は、経験の断片ということ。

これは、全体的、統合的なものではない、ということか。

沢山の言葉を覚えることにより、人間は、その表現の幅を広げる。
そして、意味付けを行う。
その、意味付けという、行為を、教育は、行う。

教育程度が高ければ、その意味付けも、複雑怪奇になる。

それについて、
学習順序の第二の要因は、各種の意味に固有な論理的順序である。
言語は他のすべての分野での表示に不可欠であるから最初から充分に強調される必要があるのは明らかである。
と、なる。

当然のことである。
言語なくして、人間の精神を表現することは出来ない。
勿論、芸術行為、その他もあるが・・・

兎に角、言葉である。
精神は、言葉によってなる。

現在の日本では、小学生から、英語教育をとの、掛け声である。
が、不思議なことだ。
母語を全うに、身に付けないうちから、別の言語、言葉を身に付けるという。

これは、一体、どんな問題を含んでいるのか・・・
バイリンガルという人たちがいるが・・・

母語を徹底的に身に付けることで、人間の精神が、成り立つ。
その頃から、他国語を学ぶと言う事は、まともに、思考が成り立たなくなる可能性がある。

つまり、論理的な、ものの考え方である。

勿論、この論理的という言葉も、説明が充分に必要だろう。

論理破綻といわれることもある。
私などは、論理破綻の部類に入る。

三拍子を、四拍子に変換する。
あるいは、ロ短調をハ長調に変換する。

論理破綻であると、なる。

では、論理とは何か・・・
それを書き始めれば、終わらなくなる。

posted by 天山 at 06:01| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月07日

玉砕130

第八十四師団の、追走打ち切りが、第三十二軍首脳を動揺させた。
そして、海軍の不満を大いに買った。

何故か・・・
すでに海上部隊の、大半を失った海軍にとって、残された戦力は、航空機だけである。
歩兵を重視する陸軍と違い、本土決戦に海軍は、見切りを付けたともいえる。

そして、沖縄こそが、帝国海軍の、死に花を咲かせる、最後の戦場となったのである。

ここでは、もう、勝敗の有無ではない。
帝国海軍の有様を、後世に残すという、心意気である。

後世の人たちは、言う。
当時の軍部には、戦争の仕方が明確ではなかったかのように・・・
だが、実際、私は、調べていて、現場では、精一杯戦ったと、思われる。

勿論、多くの軍人の中には、臆病者もいたが・・・

さて、第三十二軍は、第九師団を引き抜かれるという、事態に応じて、従来の海岸地帯における決戦方針から、持久戦へと転向する。

それは、問題の、北、中飛行場地区を放棄して、南部地区においては、持久戦態勢をとることに、決したのである。

大本営は、この作戦変更を不満として、台湾にあった第十方面軍司令官安藤大将は、再三にわたり、北、中飛行場の確保を要求したが、三十二軍は、頷かなかった。

当時、第三十二軍戦闘指令所は、首里山上にあり、首里前面に、第六十二師団、知念半島は、第四十四旅団、南部に、第二十四師団を配置し、小禄半島は、海軍根拠地隊が、守った。

4月1日、米軍が上陸してからも動かぬ、第三十二軍の態度は、大本営軍部のみならず、航空決戦を目指す海軍の意にも染まなかった。
特に、連合艦隊司令部は、草鹿龍之介参謀長名を持って、
ここ約10日間、敵の北、中飛行場の使用を封しするため、あらゆる手段を尽くし右目的を達成せられたし・・・幾多の困難あるは想察するに難からざるも、以上全般の状況をおもんばかり失礼を顧みず、意見を具申する次第なり
との、打電である。

だが、八原参謀は、持久戦の堅持をなお、主張したのである。

これは、沖縄南部の戦跡を見ると、その悲劇の状況が、よく解る。
軍隊だけの、持久戦ならば、良かったが・・・
多くの市民を、巻き添えにした。

米軍が、沖縄本島の飛行場使用を開始する前に、陸軍第三十二軍の反攻と呼応して、航空の総力を上げて、反撃に転ずるという連合艦隊の作戦は、「菊水」一号作戦と、呼称された。

豊田長官は、この作戦の一環として、残存の水上部隊主力である、戦艦大和以下、巡洋艦、駆逐艦八隻をもって、海上特攻攻撃を編制し、沖縄米軍泊地に突入させる決心を固めた。

豊田長官の、訓電を読むと、勝敗は念頭になく、後世に帝国海軍の栄光を伝えるための、最後の一戦を挑むという、心意気である。

だが、当初は、出撃する全員が、納得したわけではない。
特に、旗艦矢矧以下の、水雷戦隊司令部、および各艦隊長の中に、反対の声が多かった。

この海上特攻は、ごく短期間のうちに、決まった。
引き金になったのは、この祖国存亡の時に、航空部隊が連日孤軍奮闘しているのに、残存の水上部隊は、何をやっているのか、という声である。

昭和20年3月末、戦艦大和は、その六万四○○○トンの巨体を、呉港内沖の大型浮標に繋留していた。

3月24日、連合艦隊から、出撃準備命令を受ける。
行く先は、知らされていない。

26日、米軍が、慶良間列島に上陸の報が、届く。

大和以下、艦隊は、29日、出航した。
瀬戸内海西部、三田尻沖で、待機する。

大和乗組員は、3332名、うち過半数は、20代の若者で、20歳以下の少年も、100名近くいた。

4月9日、突如、連合艦隊司令部から、機密電、
第二艦隊大和以下は、水上特別攻撃隊として沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃、撃滅
である。

大和艦長有賀幸作大佐から、連合艦隊命令が伝えられる。
出撃に際し、いまさらあらためていうことはない。全世界がわれわれの一挙一動に注目するだろう。ただ全力をつくして任務を達成し、全海軍の期待にそいたいと思う
との、訓示である。

10日未明、燃料の補給作業を行う。
大和は、片道燃料で出撃したといわれるが、約6000トンの燃料を積んだ。
一応、往復の燃料は搭載したのである。

その日、14時30分、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が、飛来した。このたびの、大和特攻の意図について、直接説明するためだった。

草鹿参謀長が、伊藤長官に反問されて、窮したあげく吐いた言葉、
一億総特攻の魁となっていただきたい
である。

本土決戦も鑑みての言葉だったのだろうが・・・
今となれば、本土決戦をしなくて、本当に、良かったと、思う。

軍人の中には、本当に、一億総玉砕を求めていた人たちもいた。

posted by 天山 at 06:57| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月06日

玉砕129

3月20日、未明、九州南端宮崎県、都井岬の東方320浬附近に、南下中の米空母二群が、発見された。

その上空に、直衛戦闘機が見当たらないことから、宇垣長官は、損傷艦であると、判断した。
この機を逃してはならぬと、彗星艦爆隊が、発進する。

更に、翌21日、小型体当たり機、桜花を腹に抱いた、一式陸攻の通称「神雷部隊」を出撃させ、米機動隊に、トドメを刺そうとした。

この日の神雷部隊の編成は、一式陸攻一八で、第一神風桜花特別攻撃隊、神雷隊、攻711隊長野中五郎少佐が直接率いて、出撃することになった。

部下で、分隊長の甲斐弘行大尉が、
隊長、今日は私をやってください。
と、代わりを申し出たが、たちどころに、拒絶された。

勿論、未帰還、玉砕である。

それも、直衛戦闘機が見えないどころか、早くからレーダーに捕捉され、60浬も前方に、150機のグラマンが、待ち受けていた。

陸攻は、桜花を捨てて、応戦したが、旧式爆撃機が、新鋭戦闘機に勝てるわけが無い。

ここにおいて、これまでの戦果報告に疑惑が、生じたのである。

この三日間に渡る、「九州沖航空戦」は、結果から言えば、米機動隊が、残る13隻の空母を再編制して、そのまま沖縄上陸作戦の、支援準備にかかったのである。

米空母四隻を、戦列から落伍させたが・・・
その代償として払った犠牲も、多いのである。

日本側は、300機以上が、失われてしまった。

しかも、本州、四国にあった、三航艦、および十航艦が、九州に進出し、展開を終えるのが、四月に入ってからではないと、無理だという。
こうして、基地航空部隊は、米軍の沖縄上陸という、最も重要な時期に、支援したくても、出来ないという、状況に追い込んだのである。

ちなみに、ここで言う、桜花、おうか、とは、特攻隊の遺文、遺書でも書いたが、その名の通り、桜の花のように散るという、攻撃法である。

頭部に、1,8トンの爆薬を装備し、母機である一式陸攻の腹に抱かれて、目的の10浬附近まで運ばれ、突撃するのである。
特攻である。

さて、3月23日、沖縄は、米機動隊の艦載機、延べ350機にのぼる、強烈な空爆を受けた。
更に、翌日、沖縄本島沖合いに、駆逐艦を従えた、戦艦郡30隻が現れ、猛烈な艦砲射撃を開始した。

朝から夕方まで、断続的に、知念半島、南西の喜屋武地区にかけて、おびただしい砲弾を撃ち込む。
同時に、朝七時頃から、延べ600機にのぼる艦載機が、襲い掛かる。

3月25日、沖縄本島の南東70~170浬の海域に、三郡の機動部隊である。
沖縄本島周辺の米艦艇は、70隻に達した。

そして、ついに、26日、米軍は、慶良間列島に上陸する。

豊田連合艦隊長官は、沖縄方面の戦機が熟したことを知り、3月25日20時、「天」一号作戦、つまり、沖縄作戦を下令し、翌日、発動した。

同時に、三航艦、十航艦に足して、宇垣長官の指揮下に入れて、九州への至急進出を命じたが、両部隊が実際に兵力の展開をし終えたのは、3月31日である。

陸軍では、第六航空軍が「天」一号作戦に参加することとなり、3月19日、連合艦隊長官の指揮下に入ったが、九州進出は、遅れた。

ここから、悲劇の沖縄戦が、はじまる。

慶良間列島の攻略に成功した米軍は、26日から実施された、広範囲にわたる掃海と、29日以降の艦砲射撃の後、北、中部飛行場の、嘉手納海岸に上陸していた。

沖合いの海面は、おびただしい数の艦艇で埋め尽くされた。
米側の記録によると、英機動部隊を含めた各種艦艇1317隻、艦載機約1200機、人員は、45万人である。

4月1日、上陸開始である。
盛んな砲爆撃の後、第一、第六海兵師団、第七、第九十六歩兵師団の、第一派、三万人が、嘉手納海岸に殺到した。

だが・・・
覚悟していた、日本軍の反撃はなかった。
結局、その日のうちに、やすやすと、五万人の人員が上陸した。

そして、当日の夕刻には、大本営が重視していた、本島中部の、北、中飛行場を占領したのである。

この飛行場陥落には、訳があった。
そもそも、大本営の沖縄を中核とする、南西諸島の対する作戦構想の主眼は、来攻する米軍を、本島の周辺海上に釘付けして、以上の各島の航空基地、および、九州、台湾、華中海岸基地から、飛行機を飛ばして、集中攻撃を加えて、敵兵力を輸送船共に、沈めるというものだったのだ。

ところが、昭和19年12月、大本営は、台湾防備の急務を口実に、第三十二軍から、一個師団を抽出転用を決し、先の軍作戦計画を、根底から突き崩していまうのである。

その間のことについては、省略する。

つまり、結論を言えば、本土決戦を考えていたということである。
もし、本土決戦になれば・・・
沖縄以上の悲惨なことになっていただろう。

今となれば、本土決戦で、ボロボロにされていたら、沖縄の人たちも、被害者意識が薄れていただろうが・・・


posted by 天山 at 06:24| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月03日

玉砕128

東京を廃墟にした米軍は、その後、全国の地方都市に向けて、空爆を行う。
甚だしい、国際法違反である。

更に、米機動隊も、日本沿岸を我が物顔に、遊弋し、軍や工場施設に、砲弾を加えていた。

天皇は、大局を判断して、何とか、速やかに、講和に持ち込みたいと考えていらした。

4月5日、重臣会議が開かれ、総辞職した、小磯国昭内閣の、次期総理を選考したが、席上、東條大将は、
本土決戦をひかえて、国務と統帥一体化のため、次期総理は、陸軍から出したい、
と力説する。

そして、鈴木貫太郎枢密院議長が、推された。
だが、鈴木は、高齢であり、とても、国家存亡の大任を負う自信がなかった。

その鈴木に、天皇は、
頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい
との、仰せである。

そこまでのお言葉に、断る訳にはいかなかった。

天皇は、速やかに、終戦にこぎつけようと考えた。

しかし、軍部は、強固に戦争続行を叫び、和平を口にすれば、国賊、敗戦主義者として、投獄されるという、情勢下で、いかに天皇とはいえ、講和の推進は、至難の業だった。

そして、その頃、最後の悲劇、沖縄戦が、始まるのである。

沖縄方面の、海軍作戦を要約すると、「菊水作戦」に始終する。

この菊水作戦とは、本州、四国、九州、そして南西諸島、つまり、沖縄本島、宮古島、石垣島、徳之島、伊江島などに、基地を置く、第一機動部隊の兵力を持って、沖縄に来攻した米軍に対し、攻撃を仕掛けるものである。

昭和20年4月6日の一号から、沖縄本島の地上戦が終息した、6月22日まで、続けられたもの。

その本質は、捷号作戦、つまり、レイテ決戦以来の、特攻である。

昭和20年3月17日、それは、硫黄島の戦闘が、終わりに近づいていた頃である。

神奈川県日吉台にあった、連合艦隊司令部は、米機動部隊が、3月14日頃、当時、米機動部隊の一大策源地であった、カロリン諸島西の、ウルシー環礁を出発し、九州方面に向かいつつあるとの情報を得た。

連合艦隊としては、兵力の温存から、しばらく成り行きを見守る考えだったが、九州南部の、鹿屋基地にあった、第五航空艦隊司令長官、宇垣中将は、承服しなかった。

陸上で、飛行機をむざむざ爆破されるほど、愚かなことはないと、即、出撃を唱えて、譲らない。

3月17日、23時、飛行機の航続距離内に、米機動部隊四郡の確認が報じられると、宇垣は、ただちに全力攻撃を決意した。

同日深夜の、雷撃隊を皮切りに、黎明から、昼間にかけての発進が、夜に入っても続き、全出撃は、441機、そのうちの59機は、特攻である。
未帰還79機を出して、18日の攻撃は、終了した。

59機の、特攻隊である。
玉砕だ。

沖縄戦に関して、一つ書いておく。
沖縄戦は、市民も巻き込んでの、激戦である。
だが、内地から、続々と、兵士が終結し、沖縄を守るために、戦ったということである。

更に、その特攻隊の数である。
沖縄を守るために・・・

ただ、沖縄を犠牲にしたのではない。

ここに、敗戦後の、沖縄に対する、様々な感情論が生まれた。
沖縄県民に、申し訳が無いという、思い・・・
勿論、それは、それでいい。

しかし、全日本の兵隊が、出動したということだ。
沖縄戦は、陸海空の、三位一体の働きがある。

翌19日、米艦載機は、広島と阪神地方を襲った。
宇垣は、119機を発進させ、25機が、未帰還となった。

この攻撃では、米側の資料によると、
空母ワスブに命中した一弾が、飛行甲板を貫き、格納庫で爆発し、大事に至るところを、防ぎとめた。
だが、そのわずか数分後、特攻機が突入し、舷側すれすれに海中に落ちた。
外部リフトに触れて爆発し、死傷者300名近くを出した。
その後、ワブスは、戦場から引き揚げた。

また同じ時刻、空母フランクリンに、爆弾が二発命中し、大爆発を起こして、死者700名、負傷者265名が出て、戦場離脱を余儀なくされた。

戦争である。
両軍に、犠牲者が出る。

特攻隊、25機の未帰還も、玉砕である。


posted by 天山 at 05:26| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月02日

玉砕127

さて、サイパン陥落以来、本土空襲が始まる。

昭和19年11月から、小規模な、B29による空襲が、東京から始まる。

そして、昭和20年3月10日、B29が279機という大編成で、東京の下町に焼夷弾攻撃をかけてきた。
116万人が罹災し、死者は、8万人にも達した。

当然、これは国際法違反である。
そして、死者は、玉砕でもある。

アメリカは、平然と国際法に違反して、日本の各都市への空爆を行ったことを、忘れてはならない。

今年の五月、オバマ大統領が、広島を訪れる。
だが、謝罪は、しないと言う。
あれほどの、国際法を犯していながら、謝罪しない理由は何か。

日米同盟・・・
それと、これとは、別物である。

アメリカは、一度も、日本に謝罪しないのである。
これについては、後でまた、詳しく書くことにする。

大編成の空襲から、八日後、昭和天皇は、焼け跡を視察して廻った。
かなり片付けられていたとはいえ、行き場のない、罹災者たちは、焼トタンなどを集めて、バラック小屋に住んでいた。

崩れかけたコンクリートの残骸、黒こげの木材の凄惨な光景である。

天皇は、大震災のときは、何もかも綺麗に焼けてしまったから、これほど、惨くは感じなかった。今度は、はるかに悲惨で、一段と胸が痛む。これで東京も、焦土になった。
との、お言葉であった。

だが、それは序の口である。

四月の、山の手北部、五月の大空襲、24日は、562機、25日、520機という、恐るべき米軍の空襲である。

日本は、迎撃する飛行機もなく、敵機の成すがままである。

特に、25日は、焼け残っていた銀座、麹町のビジネス、官庁街、山手住宅街一帯を、3260トンという、膨大な焼夷弾が投下された。

これも、勿論、国際法違反である。

天皇のおわす、宮城内の「お局」と称する女官宿舎、半蔵門、乾門、吹上御苑の東屋などが、焼かれていたが、この日は、宮城には投下しなかった。

配置されていた、皇居警察、警視庁特別消防団、近衛師団、宮内省防衛団など、二千人の要員は、もっぱら、周辺一帯から飛んでくる、火の粉、燃え盛る板片などを、消しとどめた。

ホッとしたのもつかの間、仕人が、正殿の廂がくすぶっているのを、発見し、あわてて警備の者達に通報したのが、五分後のこと。

だが、正殿は、回廊の内側にあり、消火活動が阻害され、たちまち、紅蓮の焔が噴出した。

消化準備が整った頃は、手の付けようが無い。
火の粉が風に舞う中を、殿中のものを運び出そうと、皆、必死になった。

宮殿は、明治17年から五年の歳月を要して完成した。
5500坪、最高のヒノキ材を使い、各天井には、一枚一枚、極彩色の絵が描かれ、天井のシャンデリアは、ヨーロッパから取り寄せたものである。

もはや、奥宮殿にも、延焼すると見た工兵隊は、つなぎ廊下の半ば附近を、ダイナマイトで爆破し、火の勢いを止めようとしたが、効果がなかった。

ついに、奥宮も、猛火の中に、崩れ落ちた。

ただ、天皇は、半年も前から、御文庫に移り住んでおられたから、無事だった。

空襲警報発令中は、御文庫の北東百メートルにある、地下防空壕に待機しておられた。

宮殿に火が回っていることが、天皇に伝えられた。

その時の、お言葉は、
正殿に火がついたか。正殿に、あの建物には、明治陛下が、大そう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とか、消したいものだ。

だが、ついに駄目だと知ると、
局に火がついていないなら、全力を尽くしてもらいたい。局がなくなったら、明日から、困るだろう。
との、仰せである。

何とか、局は、事なきを得た。

天皇は、賢所(神殿、恩明殿、皇室廟を総称する)への延焼を気遣った。

賢所が焼けるとは、日本の崩壊を暗示し、国民に与える影響は、計り知れない。

この日は、明治神宮も、全焼した。
すでに、伊勢の神宮も一部を焼失していた。

伊勢と熱田の神器は、結局、自分の身近に移してお守りするのが、一番よいと思う。しかし、いつ移すかは、人心に与える影響を考え、慎重を要する。万一の場合には、自分がお守りして、運命を共にするしかない。
天皇のお言葉である。

これをもって、天皇は、国民より、神器を第一にしたという、説明をする者がいるが・・・
全く、論外の話である。

天皇、神器、国体、国民は、同一である。


posted by 天山 at 06:24| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月01日

玉砕126

平成8年1996年、12月19日、63歳の誕生日会見での、お言葉

沖縄の問題は、日米両国政府の間で十分に話し合われ、沖縄県民の幸せに配慮した解決の道が開かれていくことを願っております。沖縄は、先の大戦で地上戦が行われ、大きな被害を受けました。沖縄本島の島民の三分の一の人々が亡くなったと聞いています。さらに日本と連合国との平和条約が発効し、日本の占領期間が終わったあとも、20年間にわたって米国の施政権下にありました。
このような沖縄の歴史を深く認識することが、復帰に努力した沖縄の人々に対する本土の人々の務めであると思っています。戦後50年を経、戦争を遠い過去のものとしてとらえている人々が多くなった今日、沖縄を訪れる少しでも多くの人々が、さんご礁に囲まれた島と美しい海で大勢の人々の血が流された沖縄の歴史に思いを致すことを願っています。

矢部氏は、
ここで語られている「沖縄の問題」とは、前年の少女暴行事件がきっかけで高まった米軍基地反対運動のなかで、象徴的な存在となっていた普天間基地の返還問題をさしています。
けれどもその後、「普天間基地の返還期間」は、いつのまにか「辺野古での巨大新基地建設問題」にすり替えられ、その問題が2010年には鳩山内閣を崩壊させ、現在でもますます深刻さを増していることは、みなさんよくご存知のとおりです。

こうした「沖縄の問題」に一度でもきちんとふれると、その人の政治を理解する力「リテラシー」は飛躍的にアップします。それは本土では厳重に隠されている「身もふたもない真実」とは何か。たとえば昨年、2014年、沖縄で自民党は県知事選挙でも衆議院選でも大敗を喫しました。いずれも辺野古での新基地建設を、ただひとつの争点として戦われた選挙です。しかし、それでも新基地建設の動きはまったくとまりません。

一方、本土でも、近年この頃知られるようになったように、首都圏の上空は一群八県にわたって米軍に支配されており、日本の飛行機はそこを飛ぶことができない。
「いったい、なぜなんだ!」
と、書く。

これについても、石原元都知事が発言していたことを、私は覚えている。

矢部氏が、戦後再発見という歴史シリーズで、四年間にわたり、その謎を解くことで、条文の中に、その謎を解く鍵があったと書く。
以下

旧新部地安保時要約第一条(部分)
「(米軍を)日本国内およびその附近に配備する権利を、日本国は認め、アメリカ合衆国は受諾する」
重要なのは、この条文によってアメリカにあたえられた権利とは、日本に「基地を置く」権利ではなく、「軍隊を配備する」権利だということです。
つまり「米軍は日本の国土全域で、なんの制約も受けず、自由に軍事行動ができる」ということです。そうしたメチャクチャな条約を「日本側から希望して結んだ」という形になっている。それが日米安保の本質なのです。

その実情について、詳しくのべた、アメリカ側の公文書が存在するとして、

それは1957年、アイゼンハワー大統領への調査報告資料として日本のアメリカ大使館が作成したもので、だから絶対にウソがない内容のものですが、そこには、
「米軍は1952年の日本の独立後も、占領中に持っていた権利をすべてもちつづけている」
「米軍は日本政府との協議なしに、日本国内で自由に行動することができる」
「米軍は日本政府の許可なく、自由に日本に出入国することができる」
「米軍は新しい基地の条件を決める権利も、現在の基地を使いつづける権利も持っている」
といった衝撃の事実が、赤裸々に報告されています。

さらにそうした米軍の特権は密約によって、1960年の安保改定後も変わらず維持されたことが、やはりアメリカの公文書からわかっています。

「健全な法治国家であること」と「外国軍に100パーセントの坑道の自由を提供すること」

この完全に矛盾する命題を共存させるため、1959年12月、戦後日本という国家においては「在日米軍の問題について憲法判断をしない」というルールが、日米合議のもと、最高裁で決定されています。「砂川裁判最高裁判判決」
その結果、日本国憲法は事実上その機能を停止し、現在の「法治国家崩壊」というべき状況がスタートしてしまったのです。

しかし、こうした憲法に関する問題だけは、明仁天皇の言葉に頼ることはできません。

「天皇は憲法にしたがってつとめを果たすという立場にあるので、憲法に関する議論については言をつつしみたいと思っています」との、お言葉である。

ではいったいどうすれば、憲法を正しく機能させ、日本を健全な法治国家として再出発させることができるのか。それは私たちがみずから考え、行動する必要があるのです。

以上

みずから考え、行動する・・・
つまり、それは、選挙しかないのである。

私は、これを、砕いて、平たく、私なりの言い方で言う。
これが、キリスト教白人主義というものなのである。
つまり、人種差別の何物でもないという。

別エッセイにも、多々書いてあるが・・・
敗戦後でも、ドイツは、白人の国ゆえ、優しい対応であるが、日本に対しては、徹底的に、痛めつけるというのである。

この状態を打開するためには、再びの戦争しかないと、言う。

それほど、大変なことなのである。
何度も言うが、日本は、アメリカの殖民地である。

宗主国に逆らうことが出来ないのである。
もし、本当に、独立国家で、法治国家でありたいのなら、戦争に勝つしか、方法が無いのである。

今、現在も、国連での、日本の立場は、敗戦国の立場である。
敵国条項に従う国、日本なのである。

矢部氏が、
みずから考え、行動する必要があるのです・・・
と、言うが・・・
問い掛けで、終わっている。

勿論、十分に価値のある、問い掛けであるが・・・
これは、命懸けの問い掛けになる、可能性があるのだ。

posted by 天山 at 05:16| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月31日

もののあわれについて815

夕霧「かく心をさなげに腹立ちなし給へればにや、目なれて、この鬼こそ今は恐ろしくもあらずなりにたれ。かうがうしき気を添へばや」と、たはぶれに言ひなし給へど、雲居雁「何事言ふぞ。おいらかに死に給ひね。まろも死なむ。見れば憎し、聞けば愛敬なし、見捨てて死なむはうしろめたし」と宣ふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、夕霧「近くてこそ見給はざらめ、よそにはなにか聞き給はざらむ。さても契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契り聞えしか」と、いとつれなく言ひて、何くれとこしらへ聞え慰めたまへば、いと若やかに心うつくしう、らうたき心はたおはする人なれば、なほざり事とは見給ひながら、おのづからなごみつつものし給ふを、いとあはれと思すものから、心は空にて、「かれもいとわが心をたてて、強うものものしき人のけはひには見え給はねど、もしなほ本意ならぬことにて、尼になども思ひなり給ひなば、をこがましうもあべいかな」と思ふに、しばしはとだえ置くまじう。あわただしきここちして、暮れ行くままに、「今日も御返りだに無きよ」と思して、心にかかりて、いみじうながめをし給ふ。
昨日今日つゆも参らざりけるもの、いささか参りなどしておはす。




夕霧は、このように幼く怒りになるからか、見慣れてしまって、この鬼は、今では怖くもなくなった。神々しい感じが欲しい。と、冗談を言うが、雲居雁は、なんてことを言うのです。おとなしく死んでしまいなさい。私も死にます。見ると憎いし、声を聞くと、嫌だし、先に死ぬのは、気になるし、と、おっしゃる。
夕霧は、益々、愛らしさが勝る一方、心から笑って、傍で御覧にならないにしても、離れていて、どうしても、噂をお聞きにならずに済むだろうから。それでは、深い約束の、三途の川を知らせようというお気持ちなんですね。すぐ後追いして死ぬはずの、あの世への旅立ちは、そういう約束だったから、と、平気で言って、何やかにやと、辻褄を合わせて、慰めになると、若々しく、心が綺麗で、可愛らしい性質があるので、口先だけのこととは、思い思いになりながらも、いつしか、和らいでいらっしゃるのを、可愛そうにと、思うが、心は、上の空で、あちらも、酷く我を張って、強くきっぱりとしている性質とは、見えないが、万一、矢張り望みと違うことだからと、出家などという気持ちになったら、笑いものになのだろう。と、思うと、当分は、途絶えを置かないようにしょうと、ゆっくりしていられない気持ちがして、日が暮れてゆくにつれ、今日も、お返事さえ来ないと、思いで、気になり、酷く物思いに耽るのである。
女君は、昨日も、今日も、召し上がらなかったお食事を、少しばかり、召し上がっている。




夕霧「昔より、御為に心ざしのおろかならざりしさま、大臣の辛くもてなし給うしに、世の中のしれがましき名をとりしかど、堪へがたきを念じて、ここかしこすすみ気色ばみしあたりを、あまた聞き過ぐしし有様は、女だにさしもあらじとなむ、人ももどきし。いま思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、いなしへだに重かりけりと思ひ知らるるを、今はかく憎み給ふとも、思し捨つまじき人々、いとところせきまで数添ふめれば、御心ひとつにもて離れ給ふべくもあらず。また、よし見給へや。命こそ定めなき世なれ」とて、うち泣き給ふ事もあり。




夕霧は、昔から、あなたへの、私の愛情が、並大抵のものではなかったことは、大臣が酷いお扱いをされたので、世間から、馬鹿な男という評判を受けたけれど、こらえられない所を、我慢して、あちこちから、進んで娘をやろうとの申し出があったのを、幾つも聞き流してきたのは、女でも、あのようなものではないだろうと、誰も、笑ったものだ。今考えても、どうして、あのようであったのかと、自分の事ながら、若い時でも、慎重だったとわかるが、今になって、こんなに、憎むとなったところで、放り出す訳には行かない、子供たちが、そこらじゅう、いっぱいになるほど、増えたのだから、お気持ち一つで、出て行かれることではないはず。それに、よく御覧よ。寿命というものは、不定な人の世なのだ、と、涙を流したりなさる。




女も昔の事を思ひいで給ふに、あはれにもありがたかりし御中の、「さすがに契り深かりけるかな」と思ひいで給ふ。なよびたる御衣ども脱い給うて、心ことなるを取り重ねて、焚き染め給ひ、めでたうつくろひけさうじて出で給ふを、火影に見出して、しのびがたく涙のいでくれば、脱ぎとめ給へる単衣の袖をひきよせ給ひて、

雲居雁
ななる身を 恨むるよりは 松島の あまの衣に たちやかへまし

なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」と、ひとりごとに宣ふをね立ち止まりて、夕霧「さも心憂き御心かな。

松島の あまのぬれぎぬ なれぬとて ぬぎかへつてふ 名をたためやは

うちいそぎて、いとなほなほしや。




女も、雲居雁も、昔の事を思い出し、あはれにも、またとない二人の間は、何と言っても、約束が深いのだと、思い出すのである。柔らかくなったお召し物を、お脱ぎになって、立派なものを、何枚も着て、香を焚き染め、見事に手入れして整え、お出になるのを、ともし火の光で見送り、こらえきれず、涙が出てくるので、お脱ぎになった、単衣の袖を、引き寄せて、

雲居雁
長い間一緒にいて、捨てられる我が身を恨んだりするよりは、いっそ、尼衣に着替えてしまおうか。

矢張り、今のままでは、生きてゆけそうにもない。と、独り言をおっしゃるのを、立ち止まり、夕霧は、なんて酷いことを、おっしゃるのだ。

長い間、一緒にいたからとて、脱ぎ替えたという、噂は、立たないほうがいいでしょう。

大急ぎなので、ごく単純な歌である。

歌の解釈は、文の前後より、理解する。
その文の、内容に沿って、理解する。

あはれにもありがたかりし御中の・・・
この、あはれ、は、心の状態である。
深くありがたいと、思った・・・

posted by 天山 at 04:53| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月30日

もののあわれについて814

花散里「人のいつはりにやと思ひ侍りつるを、まことにさるやうある御けしきにこそは、みな世の常のことなれど、三条の姫君の思さむ事こそいとほしけれ。のどやかならひ給うて」と聞え給へば、夕霧「らうたげにも宣はせなす姫君かな。いと鬼しう侍るさがなものを」とて、「などてかそれをもおろかにはもてなし侍らむ。かしこけれど、御ありさまどもにても、おしはからせ給へ。なだらかならむのみこそ、人はつひの事には侍めれ。さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうにはばからるる事あれど、それにしも従ひ果つまじきわざなれば、事の乱れ出で来ぬる後、われも人も憎げにあきたしや。なほ南の御殿の御心もちいこそ、さまざまにありがたう、さてはこの御方の御心などこそは、めでたきものには見奉りはて侍りぬれ」など、誉め聞え給へば、笑ひ給ひて、花散里「物のためしに引き出で給ふ程に、身の人わろき覚えこそあらはれぬべう。さてをかしき事は、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、いささかあだあだしき御心づかひをば、大事とおぼいて、いましめ申し給ふ、後言にも聞え給ふめるこそ、さかしだつ人の、おのがうへ知らぬやうにおぼえ侍れ」と宣へば、夕霧「さなむ。常にこの道をしもいましめ仰せらるる、さるはかしこき御をしへならでも、いとよくをさめて侍る心を」とて、げにをかしと思ひ給へり。




花散里は、誰かの、ウソなのかと、思っていましたが、本当に、そういうわけのある、ご事情だったのですね。皆、世間にいくらでもあることですが、三条の姫君のご心配が、お気の毒です。無事平穏に慣れていらして、と、申し上げる。
夕霧は、可愛らしいみたいに、おっしゃって下さる、姫君ですね。まるで、鬼みたいでございます。やかましいことを。と、おっしゃり、どうして、それを粗末に扱ったりいたしましょう。恐れ多いことですが、あなた方のことでも、ご推察ください。穏やかなのが、人間としては、結局、良いことでございます。やかましくて、仰々しいのも、しばらくは、煩くて面倒だと、遠慮するこひともありますが、最後まで、言うとおりになっているわけでもなく、ごたごたが起こった後は、お互いに、憎らしくて、嫌ですね。矢張り、南の上のなさり方が、あれこれにつけて、お見事で、それ以上では、あなた様のお気持ちが、結構だと、考えることになりました。などと、誉められると、笑いになって、
花散里は、何かの例にお引きくださるので、我が身の、聞くに堪えない評判が、はっきりしてしまいそうです。それにしても、面白いことは、院は、ご自分の女癖を、誰も知らない様子で、ちょっと女に心を動かされると、大変に思いで、お叱りになったり、蔭でも、お噂なさるのは、利口ぶる人が、自分のことは、知らないでいるという、感じがします。と、おっしゃる。
夕霧は、左様でございます。いつも、女のことでは、お叱りを受けます。実のところ、わざわざ教えいただかなくても、充分に気をつけております、私ですが。と、本当に、おかしいと、思うのである。




御前に参り給へれば、かの事は聞こし召したれど、何かは聞き顔にもと思いて、ただうちまもり給へるに、いとめでたく清らに、この頃こそねびまさり給へる御さかりなめれ。さるさまのすきごとをし給ふとも、人のもどくべきさまもしたまはず、鬼神も罪許しつべく、あざやかにもの清げに、若うさかりににほひを散らし給へり。物思ひ知らぬ若人の程にはたおはせず、かたほなるところなうねび整ほり給へる、ことわりぞかし、女にてなどかめでざらむ、鏡を見てもなどかおごらざらむ、と、わが御子ながらも思す。




夕霧が、源氏の御前に、参ると、この事件は、お耳に遊ばしていらっしゃるが、何も知ったふりをするには、及ばないと思い、ただ顔をじっと、御覧になると、とても立派で、綺麗で、今の年頃が、男盛りであろう。そういうふうな、浮気をされても、誰も悪く言える姿ではあらず、鬼神も、罪を許すに決まっているほど、飛びぬけて、綺麗な感じで、若くて、今を盛りに、溌剌としていられる。分別のつかない若者というのでもないし、何処から何処まで、成長して、完全である。無理もないことだ。女であれば、どうして立派だと、思われないでいられよう。顔を見ても、どうして自信を持たないであろうかと、自分の子ながらも、思うのである。





日たけて殿には渡り給へり。入り給ふより、若君たちすぎすぎうつくしげにて、まつはれ遊び給ふ。女君は帳の内に臥し給へり。入り給へれど目も見合させ給はず。つらきにこそはあめれ、と見給ふもことわりなれど、はばかり顔にももてなし給はず。御ぞを引きやり給へれば、雲居雁「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼と宣へば、同じくはなり果てなむとて」と宣ふ。夕霧「御心こそ鬼よりけにもおはすれ、様は憎げもなければ、えうとみ果つまじ」と何心もなう言ひなし給ふも、心やましうて、雲居雁「めでたきさまになまめい給へらむあたりに、ありあふべき身にもあらねば、いづちもちもうせなむとす。なほかくだにな思しいでそ。あいなく年ごろを経けるだに、くやしきものを」とて、起き上がり給へるさまは、いみじう愛敬づきて、にほひやかにうち赤み給へる顔、いとをかしげなり。




日が高くなってから、邸にお帰りになった。入りになる途端に、若君たちが、次々可愛らしい姿で、まつわりついて、お遊びになる。女君は、御帳台の中で、横になっていらっしゃる。お入りになったが、こちらの顔を、見ようともしない。酷いと思っているのだろうと、御覧になる。それも、無理のないことだが、遠慮する態度ではなく、お召し物を引っ張りなさると、雲居雁は、どこだと、思いになって、お出でになったの。私は、とっくに、死にました。いつも、鬼とおっしゃるから、同じことなら、成りきってしまおうと思い。と、おっしゃる。
夕霧は、お心は、鬼以上でしょう。見たところは、憎らしくもないから、とても、嫌にはなりきれない。と、何とも、思わない言葉にも、癪に障るようで、雲居雁は、結構なお姿で、じゃらじゃらしていらっしゃるお傍に、長くいられるような私ではありません。何処でも構わず、行ってしまおうと思います。私のことを、思い出さないでください。いつの間にやら、何年も過ごしたことさえ、癪でたまらないのに。と、おっしゃり、起き上がる姿は、とても可愛らしくて、生き生きとして、赤みを差している顔つきは、とても美しいのである。



posted by 天山 at 06:04| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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