2016年07月08日

もののあわれについて822

楽人舞人などのことは、大将の君とりわきて仕うまつり給ふ。内、東宮、后の宮たちをはじめ奉りて、御方々ここかしこに御誦経、捧物などばかりの事を、うちし給ふだに所せきに、ましてその頃、この御いそぎを仕うまつらぬ所なければ、いとこちたき事どもあり。いつのほどに、いとかくいろいろ思しまうけけむ、げに、いそのかみの世々へたる御願にや、とぞ見えたる。花散里と聞えし御方、明石なども渡り給へり。南東の戸をあけておはします。寝殿の西の塗籠なりけり。北の廂に、方々の御局どもは、障子ばかりをへだてつつしたり。




楽人や、舞人、その他のことは、大将の君が特別に、お世話をして差し上げた。
主上、東宮、皇后方をはじめ奉り、六条の院の御方々も、あちこちで、御誦経、捧物などのようなことだけは、ご寄進なさるので、それだけでも、ご立派なことなのに、それどころか、その当時は、この御法会の御用を務めないところはなく、大変物々しいことが、多数あった。
いつの間にか、あれこれとご用意されたのか、まことに、遠くの昔からの、御願なのだろうと察せられる。
花散里と申し上げた御方、明石なども、お渡りになる。上は、東南の戸をあけて、御座なさる。寝殿の西の塗籠が、御座所であった。北廂に、御方々のお席が、つい立だけをしきりにして、しつらえてある。




三月の十日なれば、花ざかりにて、空のけしきなどもうららかにもの面白く、仏のおはすなる所のありさま遠からず思ひやられて、ことなる深き心もなき人さへ、罪を失いつべし。薪こる讃嘆の声も、そこらつどひたる響き、おどろおどろしきをうち休みてしづまりたるほどだに、あはれに思さるるを、ましてこの頃となりては、何事につけても、心細くのみ思し知る。




三月十日のことなので、花の盛りで、空の景色も、うらうらと面白く、仏のおわすという、極楽の有様も、このようなところかと思いやられ、格別信心の深くない人でも、罪障がなくなりそうである。
薪こる行道の声も、集まった大勢の僧たちの声が、あたりを揺るがし、やがてその声も、静まり返り、その寂しさを、あはれにお聞きになるが、まして、死後のことを、あれこれお考えのこの頃は、何事につけて、心細く感じられるのである。




明石の御方に、三の宮して聞え給へる。


惜しからぬ この身ながらも 限りとて たきぎつきなむ 事の悲しさ

御かへり、心細き筋は、後の聞えも心おくれたるわざにや、そこはかとなくぞある。

明石
薪こる 思ひはけふを はじめにて この世に願ふ 法ぞ遥けき




明石の御方に、三の宮をお使いにして、申し上げる。

紫の上
惜しくもない、この身とは思いつつ、これを最後に、薪の尽きることを思うと、悲しいことです。

お返事は、心細いことを、そのまま申し上げては、後々、気の利かない、歌詠みと非難されると恐れてか、当たり障りのないものであった。

明石
今日の結構な法会をはじめとしまして、この後、この世で願う仏法は、遥かなり、千歳も長く、お仕えなさいますことでしょう。




夜もすがら、尊きことに、うち合はせたる鼓の声絶えず面白し。ほのぼのと明け行く朝ぼらけ、霞の間より見えたる花のいろいろ、なほ春に心とまりぬべくにほひわたりて、百千鳥のさべづりも、笛の音におとらぬ心地して、物のあはれも面白さも残らぬほどに、陵王の、舞ひて急になるほどの末つ方の楽、華やかににぎははしく聞ゆるに、皆人の抜ぎかけたる物のいろいろなばも、物のをりからにをかしうのみ見ゆ。みこ達、上達部の中にも、物の上手ども、手残さず遊び給ふ。上下心地よげに、興あるけしきどもなるを見給ふにも、残り少なしと身を思したる御心のうちには、よろづの事あはれに覚え給ふ。




夜もすがら、読経の声に合わせて、打ち鳴らす鼓の音は、鳴り続けて、面白い。
やがて、ほのぼのと明け行く、朝ぼらけの霞の間から、様々な花の色が、矢張り、春に心がとまりそうに、一面に輝き、百千鳥のさえずりも、笛の音に負けない様子で、すべての悲しさも、楽しさも、ここに極まると思われたとき、陵王の舞は、急の調べに差しかかり、終わり近い楽の音が、華々しくにぎやかに聞えると、一座の人々の、脱いでは掛ける衣の色々も、折からの情景に溶け合い、いかにも、面白い。
親王たち、上達部の中でも、この道に堪能な方々は、技を尽くして、演奏される。身分の上下に関わらず、気持ちよさそうに、興じているのを、御覧あそばすにつけても、この世には、あとわずかと、思う心のうちには、何もかもが、悲しみを誘うのである。




posted by 天山 at 05:46| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月11日

もののあわれについて823

きのふ例ならず起きい給へりしなごりにや、いと苦しうして臥し給へり。年ごろかかる物の折ごとに、参りつどひ遊び給ふ人々の、御かたちありさまの、おのがじし才ども、琴笛の音をも、今日や見聞き給ふべきとぢめなるらむ、とのみ思さるれば、しさも目とまるまじき人の顔どもも、あはれに見えわたされ給ふ。まして夏冬の時につけたる遊びたはぶれにも、なまいどましき下の心は、おのづから立ちまじりすらめど、さすがに情をかはし給ふ方々は、誰も久しくとまるべき世にはあらざなれど、まづ我ひとり行くへ知らずなりなむをおぼし続くる、いみじうあはれなり。




昨日は、いつになく起きておいでになったせいか、今日は、酷く具合が悪くて、横になっていらっしゃる。年来、こういう催しのたびごとに、参集して、演奏なさる方々のお顔や、ご様子、それぞれの才能も、琴笛の音も、今日のこの日が、聞き納め、見納めであろうと、そういう気持ちでいらっしゃるので、それほど目に留まらぬ人々の顔も、しみじみと、あはれに一人一人、御覧になる。
まして、四季折々の音楽会にも、遊びにも、何やら挑みあう競争心は、いつしか交じりもしたろうが、それでいて、お互いに親切にし合う方々に対しては、誰しも、長く住める世ではないとはいえ、先立って、自分一人が行方も知らず、消えてしまうことを、思い続けになるのが、言いようも無く、悲しいのであった。

あはれ、という言葉が、多くなる。
それは、死を目の前にしているからだろう。




事果てて、おのがじし帰り給ひなむとするも、遠き別れめきて、をしまる。
花散里の御方に、

紫の上
絶えぬべき 御法ながらぞ 頼まるる 世々にと結ぶ 中のちぎりを

御返り

花散里
結びおく ちぎりは絶えじ 大方の 残り少なき 御法なりとも

やがてこのついでに、不断の読経、せん法など、たゆみなく、尊き事どもせさせ給ふ。御修法は、異なるしるしも見えでほども経ぬれば、例の事になりて、うちはへさるべき所々寺々にてぞせさせ給ひける。




法会が終わり、銘々がお帰りになろうとする、それも、永久の別れの思いがして、名残が尽きない。
花散里の御方に、


これが、私の、この世で催す、最後の御法要とは思いますが、それでも、生々世々にかけて、あなたとの縁は、頼もしく思われます。

御返事
花散
世間普通の御法要でございましても、結ばれた縁は、深いものでございます。まして、今日のこの盛大な御法要会で結ばれました、私達の仲は、後の世まで、絶えることはありません。

そのまま、御法のついでに、不断経、せん法など、怠りなく、結構なことを、数々勤めさせなさる。
御修法は、これという、効験も現れなかったままに、長いことになり、常のことになって、引き続き、適当な、所々、寺々で、やらせになるのである。




夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入り給ひぬべき折々多かり。その事と、おどろおどろしからぬ御心地なれど、ただいと弱きさまになり給へば、むつかしげに所せく悩み給ふ事もなし。さぶらふ人々も、いかにおはしまさむとするにか、と思ひよるにも、まづかきくらし、あたらしう悲しき御ありさまと見奉る。




夏の季節になると、例年の暑さでも、気を失いそうになられることで、今年は、いっそう、それが度々起こる。どこといって、取り立てて、お苦しみになることはないが、ただ、すっかり弱くおなりのご様子で、むさくるしさ、激しいお苦しみもないのである。お傍に控える女房たちも、この先、どうおなりになるのかと、考えると、もう目の前が、真っ暗になり、もったいなく、悲しいご様子と、拝する。




かくのみおはすれば、中宮この院にまかでさせ給ふ。東の対におはしますべければ、こなたにはた待ち聞え給ふ。儀式など、例に変わりねど、この世の有様を見はてずなりぬなどのみ思せば、よろづにつけてものあはれなり。名対面を聞き給ふにも、その人かの人など、耳とどめて聞かれ給ふ。上達部など、いと多く仕うまつり給へり。




このようなご容態なので、中宮は、二条の院に、ご退出あそばす。東の対に、ご滞在あそばすはずなので、寝殿でも、お待ち申し上げていらっしゃる。行啓の儀式など、いつもと変わらないのだが、紫の上は、若宮たちの将来も、見届けずに終わってしまうと、思うと、何かに付けて、物悲しい。名対面をお聞きになっても、あれは誰、これは誰と、つい耳をとめて、お聞きになる。
上達部が、大勢お供申し上げた。

中宮は、紫の上が、育てた、明石の子である。

posted by 天山 at 05:22| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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