2016年06月01日

玉砕126

平成8年1996年、12月19日、63歳の誕生日会見での、お言葉

沖縄の問題は、日米両国政府の間で十分に話し合われ、沖縄県民の幸せに配慮した解決の道が開かれていくことを願っております。沖縄は、先の大戦で地上戦が行われ、大きな被害を受けました。沖縄本島の島民の三分の一の人々が亡くなったと聞いています。さらに日本と連合国との平和条約が発効し、日本の占領期間が終わったあとも、20年間にわたって米国の施政権下にありました。
このような沖縄の歴史を深く認識することが、復帰に努力した沖縄の人々に対する本土の人々の務めであると思っています。戦後50年を経、戦争を遠い過去のものとしてとらえている人々が多くなった今日、沖縄を訪れる少しでも多くの人々が、さんご礁に囲まれた島と美しい海で大勢の人々の血が流された沖縄の歴史に思いを致すことを願っています。

矢部氏は、
ここで語られている「沖縄の問題」とは、前年の少女暴行事件がきっかけで高まった米軍基地反対運動のなかで、象徴的な存在となっていた普天間基地の返還問題をさしています。
けれどもその後、「普天間基地の返還期間」は、いつのまにか「辺野古での巨大新基地建設問題」にすり替えられ、その問題が2010年には鳩山内閣を崩壊させ、現在でもますます深刻さを増していることは、みなさんよくご存知のとおりです。

こうした「沖縄の問題」に一度でもきちんとふれると、その人の政治を理解する力「リテラシー」は飛躍的にアップします。それは本土では厳重に隠されている「身もふたもない真実」とは何か。たとえば昨年、2014年、沖縄で自民党は県知事選挙でも衆議院選でも大敗を喫しました。いずれも辺野古での新基地建設を、ただひとつの争点として戦われた選挙です。しかし、それでも新基地建設の動きはまったくとまりません。

一方、本土でも、近年この頃知られるようになったように、首都圏の上空は一群八県にわたって米軍に支配されており、日本の飛行機はそこを飛ぶことができない。
「いったい、なぜなんだ!」
と、書く。

これについても、石原元都知事が発言していたことを、私は覚えている。

矢部氏が、戦後再発見という歴史シリーズで、四年間にわたり、その謎を解くことで、条文の中に、その謎を解く鍵があったと書く。
以下

旧新部地安保時要約第一条(部分)
「(米軍を)日本国内およびその附近に配備する権利を、日本国は認め、アメリカ合衆国は受諾する」
重要なのは、この条文によってアメリカにあたえられた権利とは、日本に「基地を置く」権利ではなく、「軍隊を配備する」権利だということです。
つまり「米軍は日本の国土全域で、なんの制約も受けず、自由に軍事行動ができる」ということです。そうしたメチャクチャな条約を「日本側から希望して結んだ」という形になっている。それが日米安保の本質なのです。

その実情について、詳しくのべた、アメリカ側の公文書が存在するとして、

それは1957年、アイゼンハワー大統領への調査報告資料として日本のアメリカ大使館が作成したもので、だから絶対にウソがない内容のものですが、そこには、
「米軍は1952年の日本の独立後も、占領中に持っていた権利をすべてもちつづけている」
「米軍は日本政府との協議なしに、日本国内で自由に行動することができる」
「米軍は日本政府の許可なく、自由に日本に出入国することができる」
「米軍は新しい基地の条件を決める権利も、現在の基地を使いつづける権利も持っている」
といった衝撃の事実が、赤裸々に報告されています。

さらにそうした米軍の特権は密約によって、1960年の安保改定後も変わらず維持されたことが、やはりアメリカの公文書からわかっています。

「健全な法治国家であること」と「外国軍に100パーセントの坑道の自由を提供すること」

この完全に矛盾する命題を共存させるため、1959年12月、戦後日本という国家においては「在日米軍の問題について憲法判断をしない」というルールが、日米合議のもと、最高裁で決定されています。「砂川裁判最高裁判判決」
その結果、日本国憲法は事実上その機能を停止し、現在の「法治国家崩壊」というべき状況がスタートしてしまったのです。

しかし、こうした憲法に関する問題だけは、明仁天皇の言葉に頼ることはできません。

「天皇は憲法にしたがってつとめを果たすという立場にあるので、憲法に関する議論については言をつつしみたいと思っています」との、お言葉である。

ではいったいどうすれば、憲法を正しく機能させ、日本を健全な法治国家として再出発させることができるのか。それは私たちがみずから考え、行動する必要があるのです。

以上

みずから考え、行動する・・・
つまり、それは、選挙しかないのである。

私は、これを、砕いて、平たく、私なりの言い方で言う。
これが、キリスト教白人主義というものなのである。
つまり、人種差別の何物でもないという。

別エッセイにも、多々書いてあるが・・・
敗戦後でも、ドイツは、白人の国ゆえ、優しい対応であるが、日本に対しては、徹底的に、痛めつけるというのである。

この状態を打開するためには、再びの戦争しかないと、言う。

それほど、大変なことなのである。
何度も言うが、日本は、アメリカの殖民地である。

宗主国に逆らうことが出来ないのである。
もし、本当に、独立国家で、法治国家でありたいのなら、戦争に勝つしか、方法が無いのである。

今、現在も、国連での、日本の立場は、敗戦国の立場である。
敵国条項に従う国、日本なのである。

矢部氏が、
みずから考え、行動する必要があるのです・・・
と、言うが・・・
問い掛けで、終わっている。

勿論、十分に価値のある、問い掛けであるが・・・
これは、命懸けの問い掛けになる、可能性があるのだ。



posted by 天山 at 05:16| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月02日

玉砕127

さて、サイパン陥落以来、本土空襲が始まる。

昭和19年11月から、小規模な、B29による空襲が、東京から始まる。

そして、昭和20年3月10日、B29が279機という大編成で、東京の下町に焼夷弾攻撃をかけてきた。
116万人が罹災し、死者は、8万人にも達した。

当然、これは国際法違反である。
そして、死者は、玉砕でもある。

アメリカは、平然と国際法に違反して、日本の各都市への空爆を行ったことを、忘れてはならない。

今年の五月、オバマ大統領が、広島を訪れる。
だが、謝罪は、しないと言う。
あれほどの、国際法を犯していながら、謝罪しない理由は何か。

日米同盟・・・
それと、これとは、別物である。

アメリカは、一度も、日本に謝罪しないのである。
これについては、後でまた、詳しく書くことにする。

大編成の空襲から、八日後、昭和天皇は、焼け跡を視察して廻った。
かなり片付けられていたとはいえ、行き場のない、罹災者たちは、焼トタンなどを集めて、バラック小屋に住んでいた。

崩れかけたコンクリートの残骸、黒こげの木材の凄惨な光景である。

天皇は、大震災のときは、何もかも綺麗に焼けてしまったから、これほど、惨くは感じなかった。今度は、はるかに悲惨で、一段と胸が痛む。これで東京も、焦土になった。
との、お言葉であった。

だが、それは序の口である。

四月の、山の手北部、五月の大空襲、24日は、562機、25日、520機という、恐るべき米軍の空襲である。

日本は、迎撃する飛行機もなく、敵機の成すがままである。

特に、25日は、焼け残っていた銀座、麹町のビジネス、官庁街、山手住宅街一帯を、3260トンという、膨大な焼夷弾が投下された。

これも、勿論、国際法違反である。

天皇のおわす、宮城内の「お局」と称する女官宿舎、半蔵門、乾門、吹上御苑の東屋などが、焼かれていたが、この日は、宮城には投下しなかった。

配置されていた、皇居警察、警視庁特別消防団、近衛師団、宮内省防衛団など、二千人の要員は、もっぱら、周辺一帯から飛んでくる、火の粉、燃え盛る板片などを、消しとどめた。

ホッとしたのもつかの間、仕人が、正殿の廂がくすぶっているのを、発見し、あわてて警備の者達に通報したのが、五分後のこと。

だが、正殿は、回廊の内側にあり、消火活動が阻害され、たちまち、紅蓮の焔が噴出した。

消化準備が整った頃は、手の付けようが無い。
火の粉が風に舞う中を、殿中のものを運び出そうと、皆、必死になった。

宮殿は、明治17年から五年の歳月を要して完成した。
5500坪、最高のヒノキ材を使い、各天井には、一枚一枚、極彩色の絵が描かれ、天井のシャンデリアは、ヨーロッパから取り寄せたものである。

もはや、奥宮殿にも、延焼すると見た工兵隊は、つなぎ廊下の半ば附近を、ダイナマイトで爆破し、火の勢いを止めようとしたが、効果がなかった。

ついに、奥宮も、猛火の中に、崩れ落ちた。

ただ、天皇は、半年も前から、御文庫に移り住んでおられたから、無事だった。

空襲警報発令中は、御文庫の北東百メートルにある、地下防空壕に待機しておられた。

宮殿に火が回っていることが、天皇に伝えられた。

その時の、お言葉は、
正殿に火がついたか。正殿に、あの建物には、明治陛下が、大そう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とか、消したいものだ。

だが、ついに駄目だと知ると、
局に火がついていないなら、全力を尽くしてもらいたい。局がなくなったら、明日から、困るだろう。
との、仰せである。

何とか、局は、事なきを得た。

天皇は、賢所(神殿、恩明殿、皇室廟を総称する)への延焼を気遣った。

賢所が焼けるとは、日本の崩壊を暗示し、国民に与える影響は、計り知れない。

この日は、明治神宮も、全焼した。
すでに、伊勢の神宮も一部を焼失していた。

伊勢と熱田の神器は、結局、自分の身近に移してお守りするのが、一番よいと思う。しかし、いつ移すかは、人心に与える影響を考え、慎重を要する。万一の場合には、自分がお守りして、運命を共にするしかない。
天皇のお言葉である。

これをもって、天皇は、国民より、神器を第一にしたという、説明をする者がいるが・・・
全く、論外の話である。

天皇、神器、国体、国民は、同一である。


posted by 天山 at 06:24| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月03日

玉砕128

東京を廃墟にした米軍は、その後、全国の地方都市に向けて、空爆を行う。
甚だしい、国際法違反である。

更に、米機動隊も、日本沿岸を我が物顔に、遊弋し、軍や工場施設に、砲弾を加えていた。

天皇は、大局を判断して、何とか、速やかに、講和に持ち込みたいと考えていらした。

4月5日、重臣会議が開かれ、総辞職した、小磯国昭内閣の、次期総理を選考したが、席上、東條大将は、
本土決戦をひかえて、国務と統帥一体化のため、次期総理は、陸軍から出したい、
と力説する。

そして、鈴木貫太郎枢密院議長が、推された。
だが、鈴木は、高齢であり、とても、国家存亡の大任を負う自信がなかった。

その鈴木に、天皇は、
頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい
との、仰せである。

そこまでのお言葉に、断る訳にはいかなかった。

天皇は、速やかに、終戦にこぎつけようと考えた。

しかし、軍部は、強固に戦争続行を叫び、和平を口にすれば、国賊、敗戦主義者として、投獄されるという、情勢下で、いかに天皇とはいえ、講和の推進は、至難の業だった。

そして、その頃、最後の悲劇、沖縄戦が、始まるのである。

沖縄方面の、海軍作戦を要約すると、「菊水作戦」に始終する。

この菊水作戦とは、本州、四国、九州、そして南西諸島、つまり、沖縄本島、宮古島、石垣島、徳之島、伊江島などに、基地を置く、第一機動部隊の兵力を持って、沖縄に来攻した米軍に対し、攻撃を仕掛けるものである。

昭和20年4月6日の一号から、沖縄本島の地上戦が終息した、6月22日まで、続けられたもの。

その本質は、捷号作戦、つまり、レイテ決戦以来の、特攻である。

昭和20年3月17日、それは、硫黄島の戦闘が、終わりに近づいていた頃である。

神奈川県日吉台にあった、連合艦隊司令部は、米機動部隊が、3月14日頃、当時、米機動部隊の一大策源地であった、カロリン諸島西の、ウルシー環礁を出発し、九州方面に向かいつつあるとの情報を得た。

連合艦隊としては、兵力の温存から、しばらく成り行きを見守る考えだったが、九州南部の、鹿屋基地にあった、第五航空艦隊司令長官、宇垣中将は、承服しなかった。

陸上で、飛行機をむざむざ爆破されるほど、愚かなことはないと、即、出撃を唱えて、譲らない。

3月17日、23時、飛行機の航続距離内に、米機動部隊四郡の確認が報じられると、宇垣は、ただちに全力攻撃を決意した。

同日深夜の、雷撃隊を皮切りに、黎明から、昼間にかけての発進が、夜に入っても続き、全出撃は、441機、そのうちの59機は、特攻である。
未帰還79機を出して、18日の攻撃は、終了した。

59機の、特攻隊である。
玉砕だ。

沖縄戦に関して、一つ書いておく。
沖縄戦は、市民も巻き込んでの、激戦である。
だが、内地から、続々と、兵士が終結し、沖縄を守るために、戦ったということである。

更に、その特攻隊の数である。
沖縄を守るために・・・

ただ、沖縄を犠牲にしたのではない。

ここに、敗戦後の、沖縄に対する、様々な感情論が生まれた。
沖縄県民に、申し訳が無いという、思い・・・
勿論、それは、それでいい。

しかし、全日本の兵隊が、出動したということだ。
沖縄戦は、陸海空の、三位一体の働きがある。

翌19日、米艦載機は、広島と阪神地方を襲った。
宇垣は、119機を発進させ、25機が、未帰還となった。

この攻撃では、米側の資料によると、
空母ワスブに命中した一弾が、飛行甲板を貫き、格納庫で爆発し、大事に至るところを、防ぎとめた。
だが、そのわずか数分後、特攻機が突入し、舷側すれすれに海中に落ちた。
外部リフトに触れて爆発し、死傷者300名近くを出した。
その後、ワブスは、戦場から引き揚げた。

また同じ時刻、空母フランクリンに、爆弾が二発命中し、大爆発を起こして、死者700名、負傷者265名が出て、戦場離脱を余儀なくされた。

戦争である。
両軍に、犠牲者が出る。

特攻隊、25機の未帰還も、玉砕である。


posted by 天山 at 05:26| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月06日

玉砕129

3月20日、未明、九州南端宮崎県、都井岬の東方320浬附近に、南下中の米空母二群が、発見された。

その上空に、直衛戦闘機が見当たらないことから、宇垣長官は、損傷艦であると、判断した。
この機を逃してはならぬと、彗星艦爆隊が、発進する。

更に、翌21日、小型体当たり機、桜花を腹に抱いた、一式陸攻の通称「神雷部隊」を出撃させ、米機動隊に、トドメを刺そうとした。

この日の神雷部隊の編成は、一式陸攻一八で、第一神風桜花特別攻撃隊、神雷隊、攻711隊長野中五郎少佐が直接率いて、出撃することになった。

部下で、分隊長の甲斐弘行大尉が、
隊長、今日は私をやってください。
と、代わりを申し出たが、たちどころに、拒絶された。

勿論、未帰還、玉砕である。

それも、直衛戦闘機が見えないどころか、早くからレーダーに捕捉され、60浬も前方に、150機のグラマンが、待ち受けていた。

陸攻は、桜花を捨てて、応戦したが、旧式爆撃機が、新鋭戦闘機に勝てるわけが無い。

ここにおいて、これまでの戦果報告に疑惑が、生じたのである。

この三日間に渡る、「九州沖航空戦」は、結果から言えば、米機動隊が、残る13隻の空母を再編制して、そのまま沖縄上陸作戦の、支援準備にかかったのである。

米空母四隻を、戦列から落伍させたが・・・
その代償として払った犠牲も、多いのである。

日本側は、300機以上が、失われてしまった。

しかも、本州、四国にあった、三航艦、および十航艦が、九州に進出し、展開を終えるのが、四月に入ってからではないと、無理だという。
こうして、基地航空部隊は、米軍の沖縄上陸という、最も重要な時期に、支援したくても、出来ないという、状況に追い込んだのである。

ちなみに、ここで言う、桜花、おうか、とは、特攻隊の遺文、遺書でも書いたが、その名の通り、桜の花のように散るという、攻撃法である。

頭部に、1,8トンの爆薬を装備し、母機である一式陸攻の腹に抱かれて、目的の10浬附近まで運ばれ、突撃するのである。
特攻である。

さて、3月23日、沖縄は、米機動隊の艦載機、延べ350機にのぼる、強烈な空爆を受けた。
更に、翌日、沖縄本島沖合いに、駆逐艦を従えた、戦艦郡30隻が現れ、猛烈な艦砲射撃を開始した。

朝から夕方まで、断続的に、知念半島、南西の喜屋武地区にかけて、おびただしい砲弾を撃ち込む。
同時に、朝七時頃から、延べ600機にのぼる艦載機が、襲い掛かる。

3月25日、沖縄本島の南東70~170浬の海域に、三郡の機動部隊である。
沖縄本島周辺の米艦艇は、70隻に達した。

そして、ついに、26日、米軍は、慶良間列島に上陸する。

豊田連合艦隊長官は、沖縄方面の戦機が熟したことを知り、3月25日20時、「天」一号作戦、つまり、沖縄作戦を下令し、翌日、発動した。

同時に、三航艦、十航艦に足して、宇垣長官の指揮下に入れて、九州への至急進出を命じたが、両部隊が実際に兵力の展開をし終えたのは、3月31日である。

陸軍では、第六航空軍が「天」一号作戦に参加することとなり、3月19日、連合艦隊長官の指揮下に入ったが、九州進出は、遅れた。

ここから、悲劇の沖縄戦が、はじまる。

慶良間列島の攻略に成功した米軍は、26日から実施された、広範囲にわたる掃海と、29日以降の艦砲射撃の後、北、中部飛行場の、嘉手納海岸に上陸していた。

沖合いの海面は、おびただしい数の艦艇で埋め尽くされた。
米側の記録によると、英機動部隊を含めた各種艦艇1317隻、艦載機約1200機、人員は、45万人である。

4月1日、上陸開始である。
盛んな砲爆撃の後、第一、第六海兵師団、第七、第九十六歩兵師団の、第一派、三万人が、嘉手納海岸に殺到した。

だが・・・
覚悟していた、日本軍の反撃はなかった。
結局、その日のうちに、やすやすと、五万人の人員が上陸した。

そして、当日の夕刻には、大本営が重視していた、本島中部の、北、中飛行場を占領したのである。

この飛行場陥落には、訳があった。
そもそも、大本営の沖縄を中核とする、南西諸島の対する作戦構想の主眼は、来攻する米軍を、本島の周辺海上に釘付けして、以上の各島の航空基地、および、九州、台湾、華中海岸基地から、飛行機を飛ばして、集中攻撃を加えて、敵兵力を輸送船共に、沈めるというものだったのだ。

ところが、昭和19年12月、大本営は、台湾防備の急務を口実に、第三十二軍から、一個師団を抽出転用を決し、先の軍作戦計画を、根底から突き崩していまうのである。

その間のことについては、省略する。

つまり、結論を言えば、本土決戦を考えていたということである。
もし、本土決戦になれば・・・
沖縄以上の悲惨なことになっていただろう。

今となれば、本土決戦で、ボロボロにされていたら、沖縄の人たちも、被害者意識が薄れていただろうが・・・


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2016年06月07日

玉砕130

第八十四師団の、追走打ち切りが、第三十二軍首脳を動揺させた。
そして、海軍の不満を大いに買った。

何故か・・・
すでに海上部隊の、大半を失った海軍にとって、残された戦力は、航空機だけである。
歩兵を重視する陸軍と違い、本土決戦に海軍は、見切りを付けたともいえる。

そして、沖縄こそが、帝国海軍の、死に花を咲かせる、最後の戦場となったのである。

ここでは、もう、勝敗の有無ではない。
帝国海軍の有様を、後世に残すという、心意気である。

後世の人たちは、言う。
当時の軍部には、戦争の仕方が明確ではなかったかのように・・・
だが、実際、私は、調べていて、現場では、精一杯戦ったと、思われる。

勿論、多くの軍人の中には、臆病者もいたが・・・

さて、第三十二軍は、第九師団を引き抜かれるという、事態に応じて、従来の海岸地帯における決戦方針から、持久戦へと転向する。

それは、問題の、北、中飛行場地区を放棄して、南部地区においては、持久戦態勢をとることに、決したのである。

大本営は、この作戦変更を不満として、台湾にあった第十方面軍司令官安藤大将は、再三にわたり、北、中飛行場の確保を要求したが、三十二軍は、頷かなかった。

当時、第三十二軍戦闘指令所は、首里山上にあり、首里前面に、第六十二師団、知念半島は、第四十四旅団、南部に、第二十四師団を配置し、小禄半島は、海軍根拠地隊が、守った。

4月1日、米軍が上陸してからも動かぬ、第三十二軍の態度は、大本営軍部のみならず、航空決戦を目指す海軍の意にも染まなかった。
特に、連合艦隊司令部は、草鹿龍之介参謀長名を持って、
ここ約10日間、敵の北、中飛行場の使用を封しするため、あらゆる手段を尽くし右目的を達成せられたし・・・幾多の困難あるは想察するに難からざるも、以上全般の状況をおもんばかり失礼を顧みず、意見を具申する次第なり
との、打電である。

だが、八原参謀は、持久戦の堅持をなお、主張したのである。

これは、沖縄南部の戦跡を見ると、その悲劇の状況が、よく解る。
軍隊だけの、持久戦ならば、良かったが・・・
多くの市民を、巻き添えにした。

米軍が、沖縄本島の飛行場使用を開始する前に、陸軍第三十二軍の反攻と呼応して、航空の総力を上げて、反撃に転ずるという連合艦隊の作戦は、「菊水」一号作戦と、呼称された。

豊田長官は、この作戦の一環として、残存の水上部隊主力である、戦艦大和以下、巡洋艦、駆逐艦八隻をもって、海上特攻攻撃を編制し、沖縄米軍泊地に突入させる決心を固めた。

豊田長官の、訓電を読むと、勝敗は念頭になく、後世に帝国海軍の栄光を伝えるための、最後の一戦を挑むという、心意気である。

だが、当初は、出撃する全員が、納得したわけではない。
特に、旗艦矢矧以下の、水雷戦隊司令部、および各艦隊長の中に、反対の声が多かった。

この海上特攻は、ごく短期間のうちに、決まった。
引き金になったのは、この祖国存亡の時に、航空部隊が連日孤軍奮闘しているのに、残存の水上部隊は、何をやっているのか、という声である。

昭和20年3月末、戦艦大和は、その六万四○○○トンの巨体を、呉港内沖の大型浮標に繋留していた。

3月24日、連合艦隊から、出撃準備命令を受ける。
行く先は、知らされていない。

26日、米軍が、慶良間列島に上陸の報が、届く。

大和以下、艦隊は、29日、出航した。
瀬戸内海西部、三田尻沖で、待機する。

大和乗組員は、3332名、うち過半数は、20代の若者で、20歳以下の少年も、100名近くいた。

4月9日、突如、連合艦隊司令部から、機密電、
第二艦隊大和以下は、水上特別攻撃隊として沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃、撃滅
である。

大和艦長有賀幸作大佐から、連合艦隊命令が伝えられる。
出撃に際し、いまさらあらためていうことはない。全世界がわれわれの一挙一動に注目するだろう。ただ全力をつくして任務を達成し、全海軍の期待にそいたいと思う
との、訓示である。

10日未明、燃料の補給作業を行う。
大和は、片道燃料で出撃したといわれるが、約6000トンの燃料を積んだ。
一応、往復の燃料は搭載したのである。

その日、14時30分、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が、飛来した。このたびの、大和特攻の意図について、直接説明するためだった。

草鹿参謀長が、伊藤長官に反問されて、窮したあげく吐いた言葉、
一億総特攻の魁となっていただきたい
である。

本土決戦も鑑みての言葉だったのだろうが・・・
今となれば、本土決戦をしなくて、本当に、良かったと、思う。

軍人の中には、本当に、一億総玉砕を求めていた人たちもいた。

posted by 天山 at 06:57| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

玉砕131

4月6日、16時5分、
各隊、予定順序に出港、との旗艦信号旗が、旗艦大和の前しょうに揚がった。

軽巡洋艦矢矧を先頭に、駆逐艦、冬月、涼月、雪風、磯風、浜風、朝霜、初霜、霞が、一列縦隊で出発した。

大和は、殿艦となり、16時45分、動き出した。

明けて7日、上空は暗雲に閉ざされ、洋上はうねりが高い。

午前8時15分、突如雲間を縫って、米機三機が、姿を現した。
この三機は、すぐに飛び去ったが、入れ替わるように、飛行艇二機が出現し、触接を開始した。

威嚇のため、大和が、三式弾三発を放った。だが、執拗に、食い下がる。

以後、艦隊は、迂回航路をやめて、目的の沖縄までの、最短距離を進むことにした。
米機に発見されたからである。

その間に、駆逐艦朝霜から、
ワレ主機械ニ故障
との連絡あり、停止した姿が見えなくなった。
米機に撃沈されたのである。

全員、玉砕である。
一人も、生き残りがいないので、仔細はわからない。

頭上の米偵察機が、刻々と報告する電報が、傍受される。

そして、昼である。
大和から、旗ゆう信号により、
開距離3000メートル
第五戦闘速力トナセ
との、下令である。

レーダーが、おびただしい数の黒点を捉えていた。

その後の、大和の戦いは、省略する。

生存者は、269名てある。
玉砕である。

4月6日の「菊水」一号作戦に参加した陸海軍機の総数は、海軍機391機、陸軍航空部隊は、第六航空軍133機、総数、524機である。

6日、午前10時15分から、12時30分までの間、九州各基地から、次々に発進した。
制空隊のゼロ戦104機は、四波に分かれて、沖縄の制空に任じ、陸軍戦闘機は、奄美大島附近の上空で、往復運動を行う。

その他の、陸海軍機は、すべて特攻隊である。
沖縄の海上に、ひしめく米艦船郡目掛けて、突入した。

この日の、特攻は、渡り鳥の大群のように、後から後から、尽きることなく、防御砲火の爆幕をものともせずに、突っ込んできたと、米側資料が言う。

たいていの特攻機は、撃ち出された近接信管に触れて、目標の上空に達するまでに、空中に飛散した。
だが、米兵に与えた精神的打撃は、深く大きかった。

沖縄を守るために、命を賭けた若者たちである。

大挙して決行された特攻の、効果はあった。

つまり、撃ち落されるのを覚悟の特攻機に対して、米軍の戦闘機は、酷く困難であったのだろう。

陸上の第三十二軍は、米側の悲鳴に近い電報が、打電されるのを、傍受していた。

だが、それも、今は虚しい。
「菊水」一号作戦も、玉砕で終わる。

本来は、4月6日の第一号で、中止にしたかった、宇垣航艦長官は、断続的に、6月22日まで、続けたのである。
それは、沖縄島上で、陸軍が戦闘を続けている。
海軍として、手をこまねいている訳には行かないのであった。

大本営は、6月25日、沖縄作戦、「天」号作戦の終焉を公表した。

ここで、悲劇の地上戦に、触れる。

沖縄の県民を戦闘に、巻き込んだことである。

様々な、戦記を読んだが・・・
部分的に、旅日記などで、紹介した。

この世の地獄である。

その事実に関して、様々な、そして、色々な意見がある。
その本質は、戦争というものの、有様である。

米軍は、市民を攻撃しなかった。
しかし、兵士混在している中で、結局、県民も大きな犠牲を強いられたのである。

沖縄南部戦跡を私は、廻った。
一つ一つの、ガマ、洞窟に籠った人々・・・

ひめゆり、白梅隊という、女学生の献身的な、兵士たちへの、看護姿勢は、ただ、涙する。

特攻機は、2393機であり、玉砕である。

結果、沖縄も、玉砕である。
その傷は、今なお深い。

沖縄の 地にて斃れた 人々の 悲しみの魂 今はいずこに
                 天山

沖縄は、日本の慰霊の聖地である。

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2016年06月23日

玉砕132

米軍が沖縄に、上陸した、4月1日の頃・・・

4月5日、重臣会議が開かれ、総辞職した小磯内閣の、次期総理を選考したが、東條大将は、
本土決戦を控えて、国務と統帥一体化のため、次期総理は、陸軍から出したい。
と、力説した。

天皇は、大局を判断し、何とか、速やかに、講和に持ち込みたいと考えていた。

結果、鈴木貫太郎枢密院議長が、推挙された。
だが、純粋な武人で、政治権力と無縁だった鈴木は、とても、国家存亡の大任を担う自信がなかった。
また、77歳の高齢でもあり、辞退するが、
鈴木が辞退する心境はよく解るが、この重大時局に、もう鈴木をおいて他にはいないのだ
との、天皇のお言葉である。

しかし、なお、辞退する鈴木に、
頼むから、まげて承知してもらいたい
との、天皇陛下のお言葉である。

もう、断るわけにはいかなかった。

天皇は、肝胆相照らす鈴木とで、速やかに、終戦に漕ぎ着けたかったのである。

だが、軍部は違った。
強硬に戦争継続を叫び、和平を口にすれば、国賊、敗戦主義者として、投獄されるという、情勢化である。

いかに、天皇といえ、講和の推進は、至難の業だった。

統帥権は、天皇にあるが・・・
軍部は、戦争続行である。
もし、本土決戦ならば、更なる、悲劇が起こるのである。

4月30日、ドイツ、ヒトラー自決。
5月2日、ベルリン陥落。
8日、新総裁デーニッツ、連合軍に、無条件降伏。

東郷茂徳外相は、それを聞いて、それ以前から考えていた、和平工作を急ぐ必要を感じた。
戦争をやめたければ、相手国、米英、重慶に直接申し出れば、いい。
しかし、それでは、無条件降伏は、避けられない。

東郷でさえ、この時点では、無条件降伏を避け、いくらかでも、名誉ある講和をと、考えていたのである。

また、ここ、ここに至っても、陸軍の考えを考慮するなら、第三者の仲介なしの、和平交渉は不可能だと、思っていたのだろう。

中立国、ローマ法王庁を通す手段も検討されたが、日本に利する条件講和に関しては、全く、見込みの無いことが解ってきた。

結果、中立条約が生きている、ソ連に仲介を頼む以外に無いと、考えられた。

だが、ソ連は、すでに1943年昭和18年11月の「テヘラン会議」において、スターリンは、ルーズベルト、チャーチルに対して、対日参戦を約束していたのである。

日本と、日本人は、性善説的思考で、物事を考えるということを、指摘しておく。

だから、ソ連の好意的中立と、対日参戦を加味し、その仲介によって、有条件講和による、戦争終結を図るという、基本路線を決定した。

対ソ交渉の第一段階として、東郷外相は、非公式の会談を、駐日ソ連大使ジャコブ・マリクとの間に持つことを考え、その任を、外相、中ソ大使の経験者である、広田弘毅に委託した。

広田が、マリクと会見したのは、昭和20年6月3日である。
「日本政府は、日ソ両国の友好関係を強化し、中立条約の延長を欲している」という、第一段階の提案に対し、マリクは、検討したいので、しばらく時間をとの返答である。

もう、対日参戦が、決まっているのである。
だから、その後の、やり取りは、広田を疲労困憊させた。

しかし、戦争終結を手探りしつつ、政府と統帥部による、最高指導会議は、6月8日、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を決定し、戦争遂行を呼号するのである。

沖縄が、戦場と化していた時である。
そして、ついに、大本営は、6月25日、沖縄戦の終焉を公表した。

第三十二軍司令部のある、沖縄本島の南端、摩文仁の洞窟が、米軍の手に落ちた、6月22日、東京では、最高指導会議の構成員六名が、木戸内大臣の作成した時局収拾案について、天皇から、直接下問を受けた。

木戸の案は、ソ連に特使を送り、戦争終結への道を開くというものだった。

その、ソ連への特使に、近衛文麿を適任者と決めた。
天皇から、近衛に直接沙汰があった。

東郷外相は、近衛特派使節をモスクワに派遣したとき、日本政府の内意を、モロトフ外相に伝え、その受け入れにつき同意を得るよう、訓令した。
しかし、モロトフは、多忙を理由に中ソ大使、佐藤に会わない。
やむなく、佐藤は、外務次官ロゾフスキーに面会し、日本政府の趣旨を伝えた。

この、ソ連の対応を日本人は、忘れてはならない。
すでに、対日参戦を約束していたソ連である。

裏切り・・・
そんなことは、国際社会では、当たり前のことである。
更に、共産主義と、国益重視である。
当然といえば、当然のこと。


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2016年06月24日

玉砕133

トルーマン米大統領が、原爆実験成功の知らせを聞いたのは、「ポツダム会談」に臨むため、ベルリンの郊外、ポツダムに赴いたときのことである。

トルーマン、チャーチル、スターリンの連合国の三名が臨んだ、ポツダム会談の表向きの議題は、ヨーロッパの戦後処理だった。
当初は、日本に関する相談は、付けたしの域を出ないものだ。

降伏を促す、対日最後通告は、米国の要請により、副次的に出されたものというのが、事実である。

トルーマンの負っていた役割は、スターリンから、期限を切ったソ連対日参戦の確約を取り付けること、そして、ドイツ降伏後、ヨーロッパに対する、露骨な野望を見せる、スターリンと、チャーチルの間に立ち、仲介の役割を演じることである。

だが、原爆の出現により、三者三様の思惑の、バランスが一気に崩れるのである。

トルーマンが、ポツダムに着いた翌日、本国から、原爆実験成功の知らせを受けた。日本を早期に降伏させるために、ソ連の助けを借りるという最初の目的は、大きく揺らぐ。

ソ連に借りを作ることなく、米国単独の力で、日本の息の根を止めることが出来れば、それに越したことは無いのである。
更に、原爆の力を、実際に見ることが出来る。

更に、原爆実験成功の報は、スターリンをも、動かせた。
一刻も早く、対日参戦して、戦争終結後の権利を獲得しなければと、焦ったのである。

これが、後にも続く、冷戦のはじまりである。

つまり、ポツダム宣言は、米英、中国の対日最後通告とは、上記のような慌しさの中で、米国のスケジュールに沿って、提出されたものだ。

ベルリン時間、7月26日、21時30分、トルーマンは、戦時情報局に命じて、ただちにこの内容を、あらゆる手段を尽くし、日本国民に周知させよと、指令した。

まず反応したのは、日本の外務省である。
この「宣言」が、終戦の糸口となることを、読んだものの、天皇制について、具体的に触れられていないのが、廃止するという明確な字句が見当たらないことに、外務省は、光明を見た。

領土問題は、台湾、朝鮮は、当然捨てなければならないと覚悟した。
戦争責任者の処罰は、これも、致し方ないことであった。

政府と、軍は、それが持つ、重大な意味を、すぐに読み取ることが出来なかった。
閣僚の中でも、その重要性を認識したのは、東郷外相であるが、その段階でも、ソ連の仲介を充てにしていたのである。

以下、ポツダム宣言の主たるものを、上げる。
日本軍の武装解除
日本の軍国主義的権威と勢力の抹殺
民主政治の確立
民主的平和的責任政府の樹立まで連合国軍による保障占領
日本領土を四島とその付属諸島に制限
戦争犯罪人の処罰
等が、要旨だった。

三国側は、日本の対応に注視していた。
だが、鈴木首相は、
あの宣言に重大な価値があるとは思わない。政府は黙殺するだけであり、あくまで戦争完遂につとめる
と、記者会見で、述べたのである。

強気の発言をしなければならない、当時の状況であった。

つまり、受諾に向けて努力する決意を固めていたが、軍部の突き上げにより、表面上は、強気の発言となったのである。

だが、この発言が、全世界に伝わった。
更に、黙殺が、無視と訳されて、放送されたのだ。

つまり、連合国側には、拒否すると受け取られたのである。

その首相発言に、驚愕し、立腹しながらも、東郷外相は、原爆を落とされるまで、実りなきソ連との交渉に、躍起となっていた。

中ソ大使佐藤に対して、督促電報を連打している。
その佐藤大使は、現地にあって、外交官として、冷徹な目で、現実を認識していた。

7月30日、佐藤大使の東郷に対する返電中に、
ソ連がいまさら何を好んで日本の肩を持つ必要があろうか。この点あなたのご観察と当方の実際は、はなはだしく食い違っていると考える
という、一節がある。

更に、佐藤が、8月5日、東京着で、
一日も早く日本の平和提唱の決意を通達すれば、さらに条件は緩和される可能性もある。だが、いかに緩和されても、ドイツの例にみるように戦争責任者の処罰はまぬがれぬ。戦争責任者が真に憂国の士ならば、従容として犠牲となるのもやむをえまい
と、打電してきた。

そして、翌日、6日、広島に原爆が投下された。

続いて、佐藤は、8月8日、クレムリンに呼ばれて、モロシフ外相から、8月9日を期して、日本と戦争状態に入ることを宣言する、との通告を受けた。
この現地時間は、日本時間にして、9日午前零時であり、ソ連軍が、旧満州に、なだれ込んだ時間でもある。

その同日、二発目の原爆が、長崎に落とされた。

ソ連の行為は、実に、忘れられないものである。
その軍事行動は、実に、卑劣に満ちたものである。

戦後の権益を保持するために・・・

posted by 天山 at 05:12| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

玉砕134

天皇は、報告に来た東郷外相に、
このような新兵器が使われるようになっては、もう戦争を続けることはできない。不可能である。有利な条件を求めては時期を失するから、速やかに終戦に向けて努力せよ
と、厳命した。

そして、9日のソ連参戦である。

精強を誇り、暴戻を極めた関東軍も、相次ぐ南方への兵力送出で、抜け殻となっていた。
各前線において、ひとたまりもなく、消え去り、満州は、たちまち、ソ連の手の中に入った。

将兵の大半は、ソ連へ拉致され、劣悪な条件化で歳月を重労働に駆り出された。
また、一般人も、掠奪され、婦女子は暴行を受け、母子は、離散した。

これは、民族のある限り、語り継ぐべき汚辱であり、悲劇である。

ソ連、現在のロシアは、その謝罪も、一切していない。

私は、その一般人が受けた様々な、悲惨な状況を知るが、ここに書くことは出来ない。それは、あまりに、残酷、無残であるからだ。

信じられないような、悲劇が繰り広げられたのである。

一体、ソ連にそこまでされる、理由は無い。

ソ連以前の、ロシアという国柄は、ただ、ただ、侵略を国是とする国である。
絶対に、油断できない、国であり、相手である。

鈴木首相は、最高戦争指導会議を招集して、ポツダム宣言への、対処を討議した。
総勢六名である。
三時間に渡る白熱の議論だったが、意見の一致を見ないのである。

天皇の地位を変更しない、即ち、国体護持を条件として受諾する、という点では一致するが、陸相と、両総長は、更に、三点の条件をつけると、主張したからである。

占領軍が日本に上陸しない、在外の日本軍は、無条件降伏の形ではなく、自発的に撤兵する。
戦犯の裁判は、日本側が行う。

東郷外相は、そんな虫のよいことが通る段階ではないと、反対したが、条件派は、譲らない。

条件派の面々は、敵がそれを飲まぬのは、百も承知であり、結局、徹底抗戦派なのである。

なお、安南陸相は、死中に活を求め、本土決戦で一億が火の玉となって戦えば、敵側の出血も多くなり、我が方がチャンスを捉えることもできる。その時に、和平を持ち込めば、少なくとも、条件和平が可能であるとの、意見である。
両総長も、それに賛同する。

結局、首相、外相、海相が、無条件派で、他の三人が、反対するという。

今度は、閣議で同じ議題をはかったが、矢張り、陸相の反対で、紛糾し、決着がつかない。閣議は、二時半から、夜十時まで、一時間の夕食をはさみ、六時間半にも、及んだが、堂々巡りであった。

首相と、陸海相は、午前十時からはじまった、最高戦争指導会議から、続いての会議であり、延べ十二時間に近く、鈴木首相は、疲労困憊のきわみにあった。

しかし、なお、気力を絞り、夜十一時五十分からの、御前会議に移った。

新たに、平沼枢密院議長が加わり、七人が、御文庫付属の地下防空室で、天皇の前に列座した。

鈴木首相は、それに先立ち、閣議の様子を天皇に報告していたが、陸相と、両総長の頑固さから、通常の手段では、これまでの二の舞必至と見極めて、御前会議では、一応意見が出尽くしたところで、首相がすかさず立ち上がり、天皇に決をとっていただくという、戦法を編み出して、天皇の内意を求めた。

天皇は、この日一日、会議や閣議が紛糾しているので、四度も、木戸を呼んで、その模様を報告させ、焦燥を深くしていた。
故に、首相の提案で、決をとる以外に、道がないことを、悟った。

御前会議は、東郷外相が、ポツダム宣言受諾のほかにない旨を、述べる。
すると、阿南陸相は、本土決戦を唱えて、譲らない。

平沼枢密院議長も、外相に賛成したが、作戦上の理由があるなら、なお戦争継続も可として、明確ではない。

両総長は、陸相に与して、結果は、予想通り、三対三であり、侃々諤々として、いつ果てるとも、知れない。

そこで、首相が立ち上がり、天皇の前に立ち、
すでに二時間半近くになりますが、いまだに、議決にいたりません。もはや事態は、一刻の猶予もない状況にあります。まことに異例で恐れ入りますが、かくなる上は、聖慮によりて、会議の決定といたします。
と、深々と頭を下げた。

六名は、意外な展開に、唖然として、凝視していた。
天皇は、待っていたかのように、
それでは、自分の意見を言うが、自分は外務大臣の意見に賛成する。
との、お言葉である。

更に、
本土決戦というが、肝腎な九十九里浜の防備も、決戦師団の武装さえも不十分である。飛行機の増産も予定のごとく進まず、計画はいつも実行がともなわない。
これで戦争に勝てるだろうか。忠誠な軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等のことを思うと、実に忍び難いものがあるが、いまは忍び難きを忍び、耐え難きを耐えねばならない。明治天皇の三国干渉のさいのご心中を偲び、自分は涙を飲んで外相案に賛成する。
そして、
自分一身のこと、皇室のことを心配しなくてもよいとのお言葉である。

鈴木首相は、椅子から立ち上がり、
ただいまの有りがたい思し召しを拝し、これをもって会議の決定といたします。
と、有無をいわせぬように、宣言した。
一同は、天皇に向かい、深く頭を垂れた。

8月10日午前2時20分である。

これが、日本の民主主義である。
天皇は、皆々の意見を聞いて、その裁決に任せ、そして、決定したことを、承諾するのである。

この、裁決は、例外中の例外であった。

posted by 天山 at 05:44| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月29日

玉砕135

聖断を受けて、外務省は、日本の宣言受諾意思を、海外、特に連合軍将兵に、早く知らせる必要があると、同盟通信および日本放送協会首脳の同意を得て、10日夜、ひそかに、海外に向け放送した。

この海外向け放送は、発信後二時間たらずで、まず米国の反響を得て、数時間後には、全世界に波及したことが、認められた。

8月12日午前零時45分頃、外務省、同盟通信および、陸海軍の海外放送受信所は、米国の回答を傍受した。
そのなかで、
天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置をとる連合軍司令官の制限のもとに置かれるものとす
と、あり、および、その他の個所が、政府および軍首脳のあいだに、再び、波紋を投げかけた。

当初は、外務省ですら、連合国側の回答を、明確なる意思表示を避けて、解釈、および推測を受け取る側に任せた点が多いとみた。
しかし、結局は、すべての条件を呑むしか術はなかった。

であるから、陸海軍両統帥部の反応は、いうまでもなく、強硬であった。
即時、受諾反対を決めて、梅津参謀総長、豊田郡司令部総長は、12日午前、国体護持の見地から、受諾不能を、列立上奏した。

阿南陸相も、同日午前、鈴木首相に、妥協反対を申し入れ、更に、平沼枢密院相も鈴木首相に、同様の主張をした。

ついに、異例中の異例である、二回目の御前会議が開かれる。

問題は、
天皇及び日本政府の国家統治の権限は・・・連合国軍最高司令官に制限の下におかれるものとする・・・最終的な日本国の政府の形態は・・・日本国民の自由に表明する意志により決定すべきものとする・・・
である。

天皇の存続に関しては、触れずに、国民の自由な意志で決める、としていること、天皇は、総司令官に従属するという言葉だった。

政府は、従属を、制限の下におく、と、和らげて訳していたが、陸相、両総長は、
これは日本を属国とすることである。国体に変更を加えないことを絶対条件にせよ
と、譲らないのである。

天皇は、阿南陸相に、
阿南、心配するな、朕には確信がある
と、優しく宥めた。

アメリカは、日本の天皇の存在を知らない。
国民が敗戦後に、天皇を見捨てると考えたのだろう。
白人の、浅はかなところである。

統治形態を国民の自由な意志で決めるという点に関しても、天皇は、
たとい、連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのでは、しょうがない。人民の自由意志によって決めてもらって、少しも差し支えないと思う
との、お言葉である。

この、お言葉に、歴代天皇の御心がある。
人民が離反する・・・
それは、天皇には、考えられないのである。
いつも、人民の側に立って、為政者に意見してきた天皇の、歴史である。
力によって、天皇の地位が成り立ったのではない。

見えざる権威が、天皇を天皇たらしめたのである。

二度目の御前会議には、新たに、陸海軍省の軍務局長、内閣書記官長らも加わり、首相以下、11名である。

ここに重ねて聖断をわずらわし奉るのは罪軽からずと存じますが、反対の者の意見も親しくお聞き取りの上、重ねて何分の御聖断を仰ぎたく存じます。
首相の言葉に、抗戦派は、最後の機会と、必死になり、涙さえ交えて、訴えた。

特に、阿南陸相は、溢れる涙を拭きもせず、ときに慟哭して、降伏反対を唱えた。
なみいる一同は、寂として、声なく、天皇もたびたび眼鏡を持ち上げて、白手袋を目蓋にあてた。

陸相発言のあと、静まり返る席上を見渡して、天皇は、決然と語り始めた。

ほかに別段の発言がなければ、私の考えをのべる。これ以上、戦争の継続は無理だと考えている・・・国体についての不安はもっともなことだが、先方も相当好意をもつと解釈し、そう疑いたくない・・・自分はいかようになろうとも国民の生命を助けたい。

この際、私になすべきことがあれば、何でもいとわない。私はいつでもマイクの前に立つ。将兵の動揺は大きいだろうが、陸海軍大臣は努力して、よく納めてほしい。

諄々と説く天皇に、一同は、嗚咽しつつ、聞き入っていた。
そして、
自分がいかようになろうとも・・・
と、声を震わせた天皇が目頭を押さえると、全員、号泣して、天皇の声が、かき消されるほどだった。

ここで、再度言うが、日本の天皇とは、君臨すれども、統治せず、なのである。
つまり、日本の民主主義の、あり方である。

天皇は、国民の様々な意見を取り入れて、そこで決定したことを、承認されるという、形である。

アメリカにより、民主主義が輸入されたと、考えるものではない。
日本が持っていた、民主主義なのである。

天皇を、テンノウと読むのは、漢語である。
すめらみこと、と、大和言葉では、読む。

すめら、とは、頭、かしら、である。
であるから、その前身は、大政頭、おほまつりごとかしら、である。
それでは、民の代表は、政頭、まつりごとかしら、である。

また、すめら、とは、統べる、すべる、とも意味する。
みこと、とは、お言葉を発する人である。

御言、みこと、である。

政頭が、揃って話し合い、決まったことを、承認し、伝える御立場が、天皇の姿である。

王でも、皇帝でもない、天皇なのである。
大和言葉によって、はじめて、日本のことが、解るのである。

posted by 天山 at 06:09| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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