2016年04月19日

玉砕116

25日朝、エンガノ岬の東方洋上において、小澤部隊は、敵に捕捉されつつあった。

小澤は、確認できないが、遠くから、自隊を見張る敵を、肌で感じていた。
米空母部隊は、確実に、食いついてきていた。

小澤中将は、連合艦隊、および関係各部隊にあてて、
機動部隊本隊、敵艦上機の触接を受けつつあり
と、打電した。

この重大な電報は、肝心の栗田長官には届かなかった。
栗田中将こそ、この電報を鶴首して、待っていたはずなのである。
原因は、今日に至るまで、解明されていない。

結局、大和では、受信されなかったのである。

小澤部隊の旗艦瑞鶴は、電探により、米機の大編隊を探知していた。
一方、米空母の索敵機は、小澤部隊に、触接し、その兵力と行動を、次々と、打電報告していた。

いまや、小澤部隊は、完全に、オトリの任務を達成しょうとしていた。

7時29分、北上しつつあった、小澤部隊の旗艦瑞鶴は、電探により、米機の大編隊を探知していた。

そして、米空母の索敵機は、小澤部隊に、触接し、その兵力と行動を、次々と打電報告していたのである。

8時15分、艦隊の上空に舞い上がった直衛の、ゼロ戦18機は、群がり襲ってくる米機の大軍に向かい、毅然と突入していった。

こうして、米側呼称の、エンガノ岬沖海戦の火蓋が切られた。

その結果、小澤部隊は、瑞鶴、千歳、千代田、瑞鳳の全空母を失い、直衛機全滅、駆逐艦秋月沈没である。

しかも、これらの犠牲により、達成されたオトリ作戦の成果も、栗田艦隊には、届かなかったため、使命達成に寄与することが、できなかったのである。

では、その後の、栗田艦隊である。
敵の魚雷にはさまれて、一時、北進した大和は、反転して、南進に移ったが、艦艇の大部分は、敵を追って、視界から消え去っていた。
敵情も、分からない。

大和の艦隊司令部では、幕僚たちが、この追撃戦に、疑念を抱き始めていた。
敵空母部隊は、遁走してしまったのではないか。

実は、司令部は、相手が、改造空母であることを、見破っていなかった。

栗田長官は、幕僚の意見を受け入れ、追撃中止を決定した。
そして、再び、栗田艦隊は、レイテ湾に向かって、進撃を開始した。

結果、戦果は、改造空母一、駆逐艦三の計四隻であったが、日本側は、それを、敗戦後まで知ることが無かった。
もっと多くの戦果を上げたと思っていたようである。

栗田艦隊の進撃再開の地点は、レイテ湾口スルアン島から、約90浬の北方であり、目的とする、タクロバン沖まで、同じく90浬、22ノットで前進すると、四時間半で到達する計算になる。

再出発を開始した時、
敵ノ正規母艦部隊、ヤキ一カイリアリ 0945
という内容の、南西方面艦隊の発信と思われる、電報が送られてきた。

新たな、敵空母出現の情報である。

ヤキ一カ、とは、航空機用の兵要地図により示された符号であり、スルアン灯台から、約160浬の地点を意味した。

このときの栗田艦隊の一からすれば、その地点は、北方約80浬の近距離である。

大和の司令部では、この電報をめぐり、騒然となった。
広げられた海図を前に、幕僚たちの意見が、二つに割れた。

栗田長官は、一旦、レイテへの進撃を決意し、艦隊は、輪形陣を作り、しばらく南下した。しかし、新しく出現した敵の存在が気にかかってきた。
その上、新しい敵に向かうべきだという、小柳参謀長を介した、大谷藤之助作戦参謀の進言があり、動揺する栗田長官の心が決まった。

ただ、キカ一の電報には、何故か、発信名が記録されていない。
敗戦後、この電報は、虚偽であると、判明した。

未だに、それは、謎である。

栗田長官は、全軍に反転を下令した。
しかし、当然のこと、その地点には、敵はいなかった。
ここに至って、さすがに、レイテを目指す意欲が失せていた。

艦隊は、29日までに、全艦、ブルネイに帰還した。

一週間前、同地を出発した際、戦艦7、重巡11、軽巡2、駆逐艦19、合計39隻という、堂々たるものが、戦艦4、重巡3、軽巡1、駆逐艦9の、合計17隻という、姿に変わっていた。

つまり、無くなったものは、すべて、玉砕である。



posted by 天山 at 05:47| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月20日

玉砕117

今までの状況を少し、まとめると、
マリアナを失い、絶対国防圏の最も重要な、一角に破綻をきたした大本営は、その防衛網を、一段と縮小して、フィリピン、台湾、南西諸島、本土、千島にわたるラインを想定して、それらの地域のいずかに、敵が来攻してきても、随時陸海軍の戦力を結集して、迎撃するという、構想を立てた。
それを総称して、捷号作戦と呼ぶ。

昭和19年9月半ば、米軍は、ぺリリュー、モロタイ、アンガウル島に上陸して、その飛行場を占領し、フィリピン上陸の戦略態勢を、構成した。

大本営は、先の新防衛線上の地域の中で、フィリピンを第一号に擬し、次の米軍の進攻地は、ここだと、予想していた。

ミンダナオ、レイテ、ネグロス島など、中南部の防衛を、強固にすべく、同方面にあった、大十四軍に昇格させ、新たに、第三十五軍を編成した。

大本営海軍部も、戦艦大和、武蔵を擁する第二艦隊を、原油地帯のスマトラ島リンガ泊地で訓練させ、アリューシャン方面から呼び戻した、第五艦隊、および、空母部隊の第三艦隊を、内地に待機させていた。

日本軍は、開戦以来、はじめて、空と海だけではなく、地上軍をもあわせて、立体的な戦争展開を意図し、大本営は、昭和19年8月19日の、御前会議決定の、今後採るべき戦争指導の大綱に基づき、「捷」号作戦に、国運を賭けた。

9月15日、第十四方面司令官、黒田中将を更迭し、山下泰文大将に替えた。

当時、満州にあった、山下大将が、マニラに着任したのが、10月8日である。
その9日後、マッカーサーの大軍が、レイテに殺到する。

レイテ島を守備するのは、第十六師団であったが、当初から、水際死守の作戦は放棄していたため、米軍の上陸は、簡単に許した。

米軍は、日没までに、兵員約六万、物資約、一万トンの揚陸を終わり、第十軍団は、タクロバン飛行場を占領した。

ここから、レイテの悲劇が始まる。

さて、ここから、日本軍が、あらかじめ描いていた、シナリオ通りの展開である。
そして、「捷」号作戦の真髄である、陸海空が、三位一体となって、攻撃が開始されるはずだった。

大本営陸軍部は、この時点で、なお重大な戦術転換を行う。
それは、台湾沖航空戦における、海軍の幻の大戦果報告を、鵜呑みにした結果といえる。

陸軍部は、この際、従来のルソン島戦案を、レイテ湾における、決戦に切り替え、一挙に米大軍を、撃滅すべきだと、主張した。
この案に、もともと、フィリピン作戦の早期決戦を唱えていた、南方軍が、飛びついた。

だが、山下大将は、しかるべき準備も対策も不十分な、レイテにおける決戦は、成功の見込みなしと、反対した。
だが、大本営と、南方軍に負けた形で、妥協する。

勇み立った南方軍は、驕敵撃滅の神機到来せり、と、下令し、第一師団、第二十六師団、独立混成第六十八師団を、レイテに増派することにしたのである。

大本営陸軍部が、決戦場を変更したのは、海軍の台湾沖航空戦の戦果報告を信じたことにある。しかし、その根本にあったのは、連合艦隊の命令を遵守して、栗田艦隊が、レイテ湾に突入すれば、陸海空の三位一体の攻撃が出来、上陸した米軍を粉砕できるという、願望だった。

大西瀧治朗一航艦長が、統率外道と承知しながら、神風特攻隊を編制したのも、栗田艦隊の突入を、ひたすら援護するという、一念からだった。

その頼みの栗田艦隊が、レイテに近づき、痛恨の反転をするのである。

こうして、レイテの決戦は、陸軍の地上作戦に一任された形となる。

しかし、フィリピン沖海戦の終了後、レイテをめぐる戦闘は、たちまち決戦の性格を失ったのである。

つまり、レイテ戦も、玉砕である。

昭和19年10月から、二ヵ月後、米軍は、レイテから、戦場の舞台を、ミンドロ島に移してきた。
ミンドロ島は、ルソン島の南のある小さな島である。

12月15日、米軍が、ミンドロ島に上陸する。
それは、フィリピン諸島の主要島、ルソン島攻略のための、布石であった。

ここにおいて、山下第十四方面軍司令官は、12月19日、第三十五軍司令官鈴木宗作中将に対し、自今、中南部比島において永久抗戦を継続し、国軍将来において反抗のしとうたるべし・・・
と、以後の自給自足の戦いを命じ、事実上、レイテ戦の終了を通告した。

どこかで、歯車が狂ってしまった、戦争である。
開戦三ヶ月の間に、勝ち戦を続けていた日本軍である。

米軍の物量に圧倒的に、負けたのである。

戦争を始めたら、勝たなければならない。
勝たない戦争は、しない方がいい。

戦争をせずに、勝つことを、考える。
実に、大東亜戦争は、それを考えさせられるのである。

だが、まだ、玉砕は、続く。

posted by 天山 at 05:33| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月21日

玉砕118

硫黄島は、東京からサイパンの中ほどに位置し、それぞれ、約1200キロの距離を隔てた、小笠原諸島の中核をなす島である。

米軍側から見れば、日本本土空襲に向かう、中継基地として、また、マリアナからの、長距離爆撃機B29の不時着地として、絶好の島であった。

この島が、米軍の手に落ちるとは、東京をはじめ、東部の都市、および工業生産地帯が、頻繁に、米機の空襲にさらされることになる。

硫黄島を守備する小笠原兵団の前身である、第百九師団の編制は、マリアナ沖海戦、当時の、「あ」号作戦前の、昭和19年1944年、5月22日に、さかのぼる。

第百九師団は、小笠原所在の父島要塞守備隊、要塞歩兵隊などを基幹として、編制されていた。

師団長は、栗林忠道中将である。
開戦時は、第二十三軍参謀長として、香港攻略に参加した。
昭和初年、米国およびカナダに、公使館つき武官として、駐在した経験もある。

栗林中将は、着任後、あとから追及した、第百九師団の兵員を加えて、陣地の構築を推進した。

「あ」号作戦発動後は、飛行場の整備や、空と海に対する警戒などに、人員を割かなければならなくなったが、それでも、陣地構築を休むことはなかった。

ただ、「あ」号作戦の余波は免れず、特に先の八幡部隊が進出してきたからは、敵襲の可能性が、増大した。

昭和19年6月24日、空母四隻からなる、機動部隊から発進した、敵機郡が来襲した。

艦載機、約60機が、午前7時過ぎに上空に達し、八幡部隊の戦闘機59機が、邀撃のために、飛び上がった。
結果、相当数の米機を撃墜したが、相討ちの形で、八幡部隊も、24機を失った。

6月15日以来、米軍の上陸を許したサイパン島が陥落する直前の、7月3日から4日にかけて、米機動部隊は、再び、小笠原方面を空襲し、硫黄島に艦砲射撃を浴びせた。

二日間で、八幡部隊は、早くも、壊滅状態に陥ったとされる。

この攻撃により、それまでに栗林中将に芽生えていた、水際撃墜作戦に対する、疑問が、益々確定的なものとなった。

栗林の敵上陸に対する、防御の考えは、水際を偽陣地とし、主陣地は、あくまで、後方に整備するという、考え方が、急速に固まった。

激戦地、硫黄島の玉砕である。

硫黄島の将兵にとり、サイパンが陥落した後は、敵がいつ上陸するか分からないという、焦燥感があった。そして、レイテ決戦がはじまり、ほっと一息ついたというのが、実情である。

当時の大本営では、米側の進攻コースについて、四通りを考えていた。
イ フィリピン~沖縄~九州南部~東京
ロ フィリピン~朝鮮南部~北九州~東京
ハ フィリピン~東京
ニ フィリピン~小笠原~東京
である。

その中でも、イとロの可能性が高いと考えられていた。

フィリピン攻略の後、米軍が一挙に日本本土に手をかけてくる見込みは、絶無とはいえないが、極めて少ない。
本土前縁の作業、それは、本土に上陸する前に、一段、場合によっては、二段の基地占領を、行う。

10月下旬頃は、米軍は、フィリピンから、沖縄を経て、本土に向かうことがあるということ。つまり、硫黄島は、黙殺するのではないかという、推測である。

11月に入ると、レイテ決戦の望みを失いつつあった。
その間、硫黄島の、小笠原兵団は、絶え間ない米機の空襲に悩まされつつ、陣地構築に全精力をかけていた。

地下に潜伏する、守備隊陣地である。
その内容については、省略する。

12月に入り、戦争開始三年目に当たる、12月8日から、14日にわたる約一週間、述べ192機が、来襲し、米側の記録によると、約800トンに達する爆弾を投下したという。

そして、11月30日、米軍輸送船団約80隻が、スリガオ海峡を通り、12月15日、ミンドロ島に上陸を開始した。

大本営は、12月25日、全情勢、米軍のミンドロ島基地獲得による、新情勢と、その西太平洋方面における兵力の余裕にかんがみ、米軍の次期進攻に関して、一月下旬、硫黄島および父島上陸の算大なりと、ほぼ正確な見通しを報じた。

簡単に説明すれば、米軍が上陸する、昭和20年1月までに、地下坑道は、居住区で、12,9キロ、交通路3,2キロ、陣地1キロ、貯蔵庫1キロ、総延長距離で、約18キロを連結する、地下交通路は、二月上旬までに計画の、五分の二を、それぞれ完成させた。

この坑道作業は、言語に絶する重労働であった。
島特有の地熱のため、土中の温度は、常に摂氏49度に達し、同じ人間が5分から7分作業を続けるのが、やっとだった。

五名一組で掘るのだが、24時間で一メートル掘り進むのが、精一杯だった。

そして、また、食糧、飲み水なども不足し、パラチフス、下痢、栄養失調患者が多発して、作業は、思うままに進まないという、状況である。

戦闘も、さながら、この作業も、兵士たちを苦しめたと言える。

posted by 天山 at 06:39| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月22日

玉砕119

2月14日、黎明時、硫黄島発進の、艦偵彩雲は、輸送船170隻からなる大船団が、サイパン島の西方80浬の地点を北西に航行中であることを、発見した。

この報告に、小笠原兵団は、ただちに、戦闘準備を下令。

16日、米機動部隊は、延べ1400機にのぼる艦載機をもって、関東・東海各地を襲った。

一方、本土来襲と平行して、護衛空母12隻を基幹とする、機動部隊が同日早朝、硫黄島海域に進出、同島を包囲するようにして、艦砲射撃を開始した。

18日、水際陣地および、飛行場破壊のため、大規模な艦砲射撃を加えた。

米軍は、19日午前より、戦艦7隻、重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦10隻、砲艦9隻の艦砲射撃と、空母6隻の甲板から、発進する艦載機の援護を受けつつ、島の正面三キロにわたり、上陸用舟艇無慮500隻で、上陸を開始した。

午前10時30分頃には、上陸兵力は、約一万、戦車100以上に達した。

日本軍守備隊は、この米軍の猛爆撃を冒し、水際陣地の部隊と砲兵火力をもって、果敢に応戦する。

しかし、絶対優勢な米軍の火力に圧倒され、水際陣地は、次第に沈黙させられる。

20日には、日本側命名の、千鳥飛行場を失い、全島を南北に分断された。

21日には、米軍は、更に大型輸送船30隻による、後続兵団の揚陸を開始した。
22日夕刻、米軍第一線は、南波止場から元山飛行場南側、千鳥部落に至る線に達し、その進出度は、二キロにおよび、橋頭堡を成した。

2月23日から3月3日にわたり、中央地区陣地地帯において、彼我の必死の攻防が続いた。

26日頃には、主陣地地帯を侵され、大阪山方面の陣地を失い、元山、屏風山において、双方決死の、争奪戦が反復された。

21日まで、艦砲射撃が継続され、更に、飛行機と戦車の猛撃を受けて、23日に至るまで、高地をめぐる戦闘は続いたが、日本軍は、ついに力尽きた。

同日、10時20分頃、擂鉢山山頂に、星条旗が翻った。

硫黄島全島が見渡せる地形を、占領されたことは、精神的、戦術的に、元山方面の日本軍主力の戦闘に、大きな影響を及ぼすことになった。

しかし、米軍側から見ると、これから先が、大変だったのである。
寸土を争う、激戦が連日、繰り広げられた。

栗林兵団長は、硫黄島を東西南北と、擂鉢山の五つの地区に分けて、北地区に、その主力を配置していたからである。

仔細なことは、省略する。

玉名山上にあった、千田旅団長は、栗林兵団長から、玉砕攻撃は、思いとどまるべしとの、指示を受けていたが、海軍陸戦隊司令井上左馬二大佐と共に、残存兵力800名で、最後の総攻撃を決意した。

日の丸の鉢巻に、地下足袋、巻脚絆という身なりの千田少将は、命令を下達した後、集まった部隊長クラスの者と、コップ一杯の水で乾杯し、
皆さん、長いことご苦労をかけました。靖国神社で会いましょう
と、低く重い口調で言った。

米第四海兵師団が、苦戦している間にも、第三および、第五海兵指弾は、次第に、栗林兵団主力を、島の北部に追い詰めた。

3月13日、ついに、天山地区が落ちたことにより、北拠点左地区、つまり北部落東側の、防備が手薄となった。

14日から15日にかけて、米軍は、拠点の左側背に迂回浸透して、露出していた海軍第二十七航空戦隊司令部のある洞窟の、東方約100メートルまで迫った。
米軍は、戦車による火炎放射器、ナパーム弾等を、集中した。

また、洞窟の上に乗り、空気孔から、爆破攻撃を加え、坑道攻撃を採り始めた。

日本軍の損害は、増大した。

第二十七航空戦隊司令官市丸利之助少将以下、海軍司令部は、栗林兵団司令部洞窟に、合流し、北拠点方面の戦況は、いよいよ最期の時を迎えようとしていた。

残存兵力は、約900名、うち海軍、約200名である。

3月16日、深夜、栗林兵団長は、決別電報を、大本営参謀総長宛に、打電した。

今や弾丸尽き水枯れ全員反撃し最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩を思い粉骨砕身もまた悔いぬ。特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思い至りたとい魂魄となるとも誓って皇軍のけんど重来の魁たらんことを期す。ここに最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝すると共にひたすら皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へに御別れ申上ぐ・・・
読みやすいように、書き改めた。

米側資料によれば、3月26日未明から、栗林兵団長の総攻撃は、万歳攻撃ではなく、火器も備えたある程度組織立ったものだった。

戦闘は、三時間に及び、米軍側にも、死傷者が出た。

この戦争を通じて、最大の激戦地となった、硫黄島戦は、終息した。
当然、米軍も、多量の犠牲を伴った。
上陸軍と、艦艇乗務員合わせて、約6000名が戦死、負傷者は、約一万八千名に上った。

米軍は、当初、占領するまでの期間を、五日間と計算していた。それが、一ヶ月を擁したのである。
この戦闘で使われた爆弾等は、先例を見ない大量なものだった。

日本軍、守備隊、陸軍、5万5500名
    海軍 7500名

中には、俘虜となった者がいるが・・・
六万名以上の玉砕である。

posted by 天山 at 05:34| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月25日

玉砕120

玉砕について、書いている。
そろそろ、最後の沖縄戦になった。

それを書く前に、これはエッセイであり、論文ではないから、一度、立ち止まり、私の考えることを、書いてみる。

その一つは、大東亜戦争は、アメリカに引き摺られて、始まった戦争であることだ。
何度も、他のエッセイでも触れているが、日本は、戦争を回避したが、特に、昭和天皇は、外交努力により、解決の道を示唆したが・・・
すでに、戦争に突入すべき状況が、作られていたということだ。

アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルが、望み、そして、ソ連のスターリンである。
つまり、皆、白人たちである。

これは、白人支配の当時の、時代性、時代精神を理解することだ。
有色人種の国は、すべて、日本とタイを除いた国々は、植民地支配を受けていた。

そして、唯一、日露戦争に勝利した日本が、有色人種の国として、五大列強の仲間入りをしたのである。

戦争の根底には、人種差別があると、私は言う。
特に、キリスト教白人主義と、私は、呼ぶ。

そして、もう一つは、当時の、日本の軍部というもの。
それは、統帥権という問題があった。

つまり、軍部は、唯一、天皇の望みに行為するという、統帥権である。
これが、軍部を単独行動に駆り立てた、ポイントである。

昭和天皇の意見さえ、聞くことが無かった、軍部、特に陸軍である。

もし、軍部の強行な意見に、天皇が賛成しなければ、昭和天皇は、暗殺されていただろうという、見方である。
昭和天皇御自身の、お言葉にもある。

昭和天皇は、自分が暗殺され、国内に、内戦が起こることを、恐れた。
だから、ギリギリまで、戦争を回避した。

だが、敗戦により、天皇のご聖断が必要になった。
敗戦の御聖断が、出来なら、開戦を阻止することも、出来たではないかという、意見は、当時の状況を知らない者が、言う事である。

そして、もっとも早く、敗戦を認めて、云々という、意見も同じである。

軍部には、本土決戦もありという、兵士も大勢存在していた。
本土決戦をしていたら、日本は、消滅していただろう。
また、確実に、アメリカの植民地になっていた。

勿論、現在も、アメリカの植民地である。
それは、日米安保条約、それらの密約を見れば、一目瞭然である。

それでも、戦争をせずに、敗戦後70年を経た。

今上天皇は、丁度、戦中派である。
私の母とも同じ年である。
今年、82歳である。

その、今上天皇のお言葉から、象徴天皇の願いと、希望を見ることにする。

昭和天皇は、同じく象徴であり、君臨すれども、統治せずを、守られた、御方である。

当時も今も、君主であるが、昭和天皇は、側近君主であらせられた。
つまり、側近が、多くの決断をするというもの。

それを、陛下が了承して、政治が進む。

両天皇は、平和主義であり、共に、憲法を守るという、一点にある。
だが、時代性と、時代精神が違う。

今上天皇72歳の誕生日会見での、お言葉を見る。
平成17年、2005年

先の大戦では非常に多くの日本人が亡くなりました。全体の戦没者310万人の中で、外地で亡くなった人は240万人に達しています。戦後60年に当たって、私どもはこのように大勢の人が亡くなった外地での慰霊を考え、多くの人々の協力を得て、米国の自治領である北マリアナ諸島のサイパン島を訪問しました。・・・
昭和19年6月15日、米軍がサイパン島へ上陸してきたときには日本軍はすでに制海権、制空権を失っており、大勢の在留邦人は引き揚げられない状態になっていました。このような状況下で戦闘が行われたため、7月7日に日本軍が玉砕するまでに陸海軍の約4万3千人と在留邦人の1万2千名の命が失われました。軍人をはじめ、当時島に在住していた人々の苦しみや島で家族を亡くした人々の悲しみは、いかばかりであったかと計り知れないものがあります。
この戦闘では米軍にも3500人近い戦死者があり、また900人を超えるサイパン島民が戦闘の犠牲になりました。またこの戦闘では朝鮮半島出身の人々も命を落としています。この度の訪問においては、それぞれの慰霊碑におまいりし、多くの人々が身を投じたスーサイド・クリフとバンザイ・クリフを訪れ、先の大戦において命を落とした人々を追悼し、遺族の悲しみに思いを致しました。・・・
日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。

上記、天皇陛下は、不戦の誓いをしているのである。
また、それは、祈りであり、希望である。

天皇は、憲法を守るとの、強い決意がある。
それは、平和憲法のことだ。

そこで、私は、天皇陛下の、願いと、希望を日本人として、しかと、受け止めたいと思う。

だが、現実は、願いや、希望の叶わぬことも、多々あると言う事。
昭和天皇は、いつも、希望します、という言葉で、お言葉を締めくくった。

だが、希望は、そうやすやすと、叶うものでないことも、十分に、ご承知だった。

だから、問題は、これからである。

posted by 天山 at 06:09| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月10日

玉砕121

戦争をしない国、という本がある。
文は、1960年生まれの、矢部広治さんという方である。

この本は、明仁天皇、今上天皇、皇后陛下のお言葉を紹介し、色々な疑問を投げかけている文である。

その中から、
2005年6月28日、第二次世界大戦の戦没者を追悼するためサイパンを訪れていた明仁天皇と美智子皇后は、当初の公式日程には含まれていなかった沖縄や朝鮮半島出身者の慰霊塔などを含む、島内の主な慰霊の地すべてをめぐり、拝礼されました。
国籍や軍人・民間人の区別なく、戦争で命を落としたすべての人びとの魂をなぐさめる。それは沖縄南部の戦跡に立つ「魂魄の塔」に始まり、その後、国内での旅によって確立された明仁天皇の慰霊の思想が、海外にまで展開された最初の例だったといえるでしょう。
右の文中にある「海外での戦死者240万人」の半数以上は飢死だったといわれています、
さらに「全体の戦死者310万人」のうち、1944年以降の戦死者が、大多数をしめています。それは対馬丸のところで見たように、サイパン島の戦いと併行して行われたマリアナ沖海戦で、日本軍が空母と航空機の大半を失い、戦いに完全に決着がついたあとも、なんの展望もないまま、ただ戦争を継続したからでした。
みなさんもよくご存知のとおり、サイパン島から直接本土を爆撃できるようになったB29に対して、日本は竹ヤリの訓練をしていたのです。
こうした戦史を具体的に見ていくと、そもそも旧日本軍の参謀たちには、最初から海外で戦争をする能力など、まったくなかったといわざるをえないのです。

上記は、一理ある。
理解する。

しかし、これは、矢部氏の考えた、戦争である。

最初から、海外で戦争をする能力がなかった・・・
確かに、その通りであろう。

だから、何度も書くが、昭和天皇はじめ、多数の人たちが、和平交渉を続けていたのである。
この調子で、語られると、誤る。

日本の外交努力を無視して、単に、終わった戦争の当事者を批判することは、簡単である。

また、参謀たちのせいにすることも、簡単である。
上記を否定しないが、この記述だけでは、誤るのである。

もし、戦争をしなかつたら・・・
戦わずして、アメリカの言いなり、つまり、植民地になったという、可能性も、大である。
勿論、今の日本は、アメリカの植民地であるといえる。
だが、戦争をして、敗戦した、しないで、殖民地になるとは、訳が違う。

少なくとも、日本は、日本人は、何もせず、殖民地を望まず、敗れても、戦ったという、事実が大切である。

なんの展望もないまま、ただ戦争を継続した・・・
後付で、意味は、何とでも、付けられる。

起こってしまった、起こしてしまった、戦争というものを、追悼するならば、その過程を、十分に見つめることである。

日本軍は、人命軽視の考え方で、更に、天皇を利用して、軍部は、大勢の若者を、戦死させたということは、私も、その通り書いてきた。

二度と、このような、戦いほしないという、誓いと共に、考えることは・・・

今上天皇のお言葉の、願いと、希望、そして、理想を追い求めることである。
しかし、ここで大事なことは、現状を鑑みて、行為するということである。

理想は、現実に遠い。
その遠い理想に向かい、現状から、出発するのである。

当時の、軍部を批判し、更に、誤りだったというのは、簡単なことである。
しかし、それによって、多くの人たちが、命を落とした。
その命を捧げた人たちも、その不可抗力に生きた時代。

その、時代性と、時代精神を無視できないのである。

現在から、過去の史実を考える時、当時の状況を無視できない。

矢部氏の論調に共感するが、具体的なことが記されない。
問題提起の投げ掛けである。

それでも、天皇皇后両陛下のお言葉を紹介するという、試みに深く、共感するものである。

この矢部氏の、発言を少し俯瞰して見て、更に、考えてみたい。

過去を取り上げて、極端に裁くこと、あるいは、極端に礼賛することも、私は、否定する。

右翼、左翼、右派、左派、等々、あまり意味のないことだ。
それより、事実を知ることである。
そして、その事実を、どのように受け止め、未来に生かしてゆくかである。

理想は、高くてもいい。しかし、まず、現状、現場からの一歩である。
今、目の前にある問題を、過去に囚われて、先に進めないことが、最も不憫なことである。

昭和天皇は、実に、極端を嫌った。
天皇を神の如くにして、その名を利用して、兵士たちを死に駆り立てた、軍部を嫌った。
しかし、天皇は、君主であり、国の大本、国体でもある。

一度、戦争が始まれば、それを励まし、そして、戦果に対して、労いのお言葉を発するのである。

幾度も、昭和天皇は、戦争ではなく、外交による、和平の道を説いた。
しかし、時代性、と、時代精神がある。
それには、誰も、逆らうことが出来ない。

当時、有色人種の国々が、欧米列強の殖民地であったこと。
そして、力の世界であったこと。
唯一、日本だけが、列強に対処出来る立場だったこと。

それを鑑みて、考えるべきことが、多々ある。

posted by 天山 at 05:07| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月11日

玉砕122

平成27年、4月8日、パラオ御訪問、歓迎晩餐会での、お言葉。

ミクロネシア地域は第一次大戦後、国際連盟の下で、日本の委任統治領になりました。パラオには、南洋庁が設置され、多くの日本人が移住してきました。・・・
しかしながら、先の大戦においては、貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行われました。・・・
ここパラオの地において、私どもは先の大戦で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。

明仁天皇にとって、パラオ訪問は20年越しの懸案でした。実は即位直後の1990年代前半から、すべてパラオやサイパン、マーシャル諸島への慰霊の旅をしたいと希望されていたのです。2005年にまずサイパンへの訪問が実現したのは、パラオには適当な宿泊施設がないことが主な理由だったようです。
・ ・・
しかし明仁天皇が長年、パラオやサイパンというミクロネシアの地にこだわってこられたのは、右の言葉にあるように、それが戦前は「南洋諸島」とよばれる日本の委任統治領だったからということもあるのです。
そのために戦後、この地域の人びとは、沖縄の人びととよく似た苦難の道を歩むことになりました。国連憲章で定められた信託統治制度のなかで「戦略地区」という差別的な位置づけをされ、とくにマーシャル諸島などはアメリカの核実験場にされてしまったのです。

みなさんもビキニという環礁で繰り返されたアメリカの核実験について、耳にされたことがあると思います。そこでは1946年から1958年までのあいだに、もうひとつの実験場(エニウェトク環礁)とあわせて計67回の核実験が行われました。
そのうちのひとつが、日本ではマグロ船・第五福竜丸の被爆で知られる水爆実験「ブラボー」です。その威力は広島原爆の1000倍とされる15メガトン。実はこのとき第五福竜丸以外にも、日本の1000隻以上の漁船が被爆しています。

当然、周囲の島に住む住民もこのとき被爆し、その被害は現在までつづいています。

基本的人権の尊重をうたった戦後の国連憲章のもとで、いったいなぜそんなメチャクチャな核実験が可能だったのか。その理由は「敗戦国=敵国の戦後処理の問題については国連憲章は適用されない」とした、敵国条項の悪用にありました。この法的なトリックは、沖縄を軍事植民地化しつづけた法的トリックとまったく同じものでした。

日本に委任統治されていたというだけの理由で、そうした理不尽な差別を経験しつづけたミクロネシアの悲劇。明仁天皇がどうしてもと希望された理由は、その声なき人びとの苦しみに寄せるという意味もあったのではないかと私は思っています。
矢部宏治

上記の、天皇の御心に関する文には、共感する。

そして、私は言う。

つまり、敵国条項というもの・・・
法的トリックというもの・・・

差別以外の何物でもない。
それは、戦争に負けたからである。

今、現在も日本は、国連において、敵国条項に当てはめられている。

沖縄の殖民地化というより、日本の植民地化である。
つまり、今も、アメリカの殖民地になっている、日本であると言う事を、肝に銘じる。

では、それから、脱するために、どうするのか。
再度、アメリカと戦う以外に無いのか・・・

現在の日米同盟により、日本は、70年間一度も、戦争せずにきた。
平和を享受した。
それが、問題なのか・・・

次の矢部氏の言葉を、書く。

戦後日本とは、とにかく戦争だけはしない。それ一本でやってきた国でした。そのために、どんな矛盾にも目をつぶってきた。沖縄に配備されていた米軍の核兵器にも、本土の基地からベトナムやイラクに出撃する米軍の部隊にも、首都圏上空をおおう米軍専用の巨大な空域にも、ずっと見て見ぬふりをしてきたのです。

それもすべては、とにかく自分たちだけは戦争をしない、海外へ出かけていって人を殺したり殺されたりしない、ただそのためでした。戦後の日米関係の圧倒的な力の差を考えれば、その方針を完全な間違いだったということは、だれもにできないでしょう。ところがいま、その日本人最大の願いが安倍首相によって葬られ、自衛隊が海外派兵されようとしているのです。

こうしたとき何より重要なのは、右の明仁天皇の言葉にあるように、歴史をさかのぼり、事実にもとづいた議論をすることです。数え方にもよりますが、少なくとも半世紀のあいだ、私たち日本人はそういう根本的な議論をすることを避け続けてきたのです。
矢部

ここで、突然のように、
戦後の日米関係の圧倒的な力の差を考えれば、その方針を完全な間違いだったということは、だれもにできないでしょう。ところがいま、その日本人最大の願いが安倍首相によって葬られ、自衛隊が海外派兵されようとしているのです。

だれにもできないと、言い、安倍首相が、云々とは・・・
私の勘違いか、矛盾している。

アメリカの殖民地である日本であって、平和だった。
その方針には、誰も、間違いということは、出来ない。
しかし、今、自衛隊が海外派兵されようとしている・・・

最大の矛盾である。
この矢部氏は、具体的に、では、どうするのかという、アイディアはない。

このまま、アメリカの殖民地になっている日本であれば、アメリカの要請に従わざるを得ないのである。

日本が、本当の独立を勝ち取るためには、どうしなければならないのか・・・
と、私は、疑問符を付ける。

米軍を撤退させて、日本が独自に独立国として、安全保障を担うとするということ。
それは、理想である。

だが、核兵器を作らなければならなくなる。
そして、戦争も辞さない国となる。

現実としては、そういうことになる。

矢部氏の分析は、実に参考になるが・・・
私の知る限り、元都知事の、石原慎太郎氏のみが、現実的なことを、提案していたと思うが・・・

posted by 天山 at 05:42| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月12日

玉砕123

平成27年2015年、元旦の今上陛下の感想

本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京をはじめとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なことだと思っています。

私も、この玉砕というエッセイを、それに促されて、書いている。

そこで、矢部氏の次の言葉である。

こうしたとき何より重要なのは、右の明仁天皇の言葉にあるように、歴史をさかのぼり、事実にもとづいた議論をすることです。数え方にもよりますが、少なくとも半世紀のあいだ、私たち日本人はそういう根本的な議論をすることを避けつづけてきたのです。
右の文中で、明仁天皇がとくに、「満州事変」という固有名詞を出している点に注意が必要です。あきらかにいま、その具体的な歴史に学ぶべきだと警鐘を鳴らしておられるのです。

ではその「満州事変」とは何か。それはひとことでいうと、海外に駐留する軍隊が、本国の指令を聞かずに暴走し、勝手な謀略をめぐらして、海外の広大な領土を占領したという出来事です。
この無法な軍事行動を境に、日本は満州国の建設、国際連盟の脱退、日中戦争、三国同盟、真珠湾攻撃と、破壊への坂道を転げ落ちていくことになったのです。

その過程で昭和天皇は軍部の暴走に対し、何度か、はっきり止めようとしています。しかし同時に、天皇以外は軍部にブレーキをかけられない大日本帝国憲法の法的構造の中で、昭和天皇がみずから大きなリスクを負ってまでは暴走を止めようとしなかったことも事実です。

昭和史研究の第一人者、保坂正康氏がのべているように、
「昭和天皇は好戦的ではなかったが、平和主義者だったということもできない。昭和天皇が何より大切にしていたのは「皇統の継続」で、それがあらゆる判断に優先した」
というのが正確な評価だと私も思います。

では軍部が勝手な暴走を始めたときに、本当はそれにどうブレーキをかけるべきだったのか。その問題をまさにいま、私たちは考える必要があるのです。

以上

このエッセイを読まれている方は、十分に、満州事変からの様子を知られたことと、思う。

前回、安倍への意見が、集団的自衛権を可決したということに、矢部氏は、大きな危惧を抱いていたことは、引用して書いた。

そして、今、矢部氏は、
では軍部が勝手な暴走を始めたときに、本当はそれにどうブレーキをかけるべきだったのか。その問題をまさにいま、私たちは考える必要があるのです。

と、書くのは、どういう神経なのだろう。
それに、反対せよというのだろうか・・・
決まる前に、何故、反対し続けなかったと、私は思う。

更に、昭和天皇が、皇統を継続をあらゆる判断に優先したという、保坂氏の論説は、どうか。

天皇は、天皇が無くなり、天皇の無い日本は、有り得ないと、考える。そして、その歴史の長さである。天皇は、国体であり、天皇自身が、国なのである。
日本には、そういう歴史がある。

昭和天皇が、最も恐れたことは、内戦である。
何度も、それに近い、事変が起こっている。

ここで、見逃していることは、当時の国民の声である。
国民の支持があれば、そこ、軍部も動けたのである。

更に、その軍部、特に、満州に駐留した、関東軍は、何より、ソ連の脅威を知っていたのである。
そのままにしておけば、ソ連は、満州を落とし、朝鮮半島までに至る地域を支配し、日本にとっては、大変な脅威となった。

日清戦争で得た、遼東半島を、ソ連が主になり、三国干渉で、日本に破棄させた。しかし、そのすぐ後に、ソ連が、その地域を侵略したのである。

昭和天皇が、何度も、ブレーキと、お言葉を述べられた経緯は、記した。

私たちが考える必要があると、矢部氏は、言う。
当然、考えるべきである。
だが、現在は、当時と違い、文民政治である。

つまり、国民が許してはじめて、自衛隊が動けるのである。
その国民の代表が、国会議員である。
選挙がいかに、大切かということだ。

考える必要より、行動する必要である。
その唯一の方法が、国民にとっては、選挙である。

現在の自衛隊は、決して勝手な暴走をすることが出来ない。
当時とは、全く違う時代である。

何度も言うが、時代性と、時代精神を見逃しては、誤る。

敗戦したから、
破滅への坂道を転げ落ちていくことになったのです。
に、なるのである。

色々な角度、そして、時代性と、時代精神を持って、考えるべきことである。


posted by 天山 at 06:07| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月13日

玉砕124

平成25年、2013年、12月18日、天皇誕生日の会見での、お言葉

80年の道のりを振り返って・・・やはり最も印象に残っているのは先の大戦のことです。私が学齢に達したときには中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。
この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。
戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃して国土を立て直し、かつ改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。

矢部氏がこれについて、
明仁天皇は平成元年1989年1月9日、即位後の朝見の儀で、
「ここに皇位を継承するに当たり、・・・みなさんとともに日本国憲法を守り、これにしたがって責務を果たすこと」を誓いますと宣言されています。
それは右の言葉にもあるとおり、「平和と民主主義」を大切にする現在の日本国憲法を、自分は徹底して守っていくのだという強い決意の表明でした。
ここが明仁天皇と昭和天皇の最大のちがいであり、最終的に明仁天皇がたどりついた、新しい時代の天皇制の立脚点だといえるでしょう。

昭和天皇にも、立憲君主制のもとで「憲法を守る」という意識はあった。「国民と共にあること」も願っていた。それは事実です。
しかしその一方、戦前のもつ法的構造のなかで、国家の非常事態においては、自分はあらゆる制約を超えて行動することが許されるという認識を、昭和天皇がもっていたことも事実です。その非常事態とは、具体的には「三種の神器が守れなくなるような事態」、つまり天皇制が継続できなくなるような事態を意味していたということは、すでにのべたとおりです。

問題だったのは、それが戦後もつづいたことです。そのもっとも悪い例が、沖縄を半永久的に占領してほしいという意向を裏ルートでGHQに伝えた「沖縄メッセージ」でした。

この裏ルートの、沖縄メッセージは、知らない人が多い。
裏ルートであるから・・・
昭和天皇が、沖縄御訪問を切に願っていたことも、事実である。

当時、天皇は、何故、そのようなことを、メッセージとしたのか・・・

私は、当時の、昭和天皇は、実に、政治的配慮に長けた御方だと、考えている。また、そのように、考える人もいる。

沖縄の地政学的、意味を考えると、天皇は、そのままにしておくことは、大変に危険だと、考えていたのではないかと、思えるのだ。

沖縄の平和を考えれば、それが、一番の方法ではないか、ということ。
敗戦した日本が、沖縄の処置をする、術がない。
つまり、安全保障である。

単に沖縄を捨てたと、考えるのは、早計である。

荒廃した国土を見て、よくよく鑑みるに・・・
沖縄という、地域を守る術がない。
よって、米国の占領下としておけば、平和が保たれる。
そのように、考える。

さて、矢部氏の論調に対して、私から言えば、
歴代天皇が、同じ思いを持たれていたという、事実である。
天皇は、国体であり、国体とは、国土であり、国民である。
つまり、天皇は、それと、イコールなのである。

天皇は、国土と国民と、同体であるという、認識である。

平和と民主主義という言葉は、ある時代からの、価値観ではない。
日本は、その国だった。
君臨すれども、統治しないという、天皇の御姿である。

次の矢部氏の発言は、
「日本はなぜ、第二次大戦を止められなかったのか」という巨大な問題について、ここで本格的に論じることはできませんが、ひとつは戦前の憲法では軍部が天皇に直属し、軍事に関して天皇がすべての権限をもつ立場にあった。そのため軍部が暴走を始めたとき、逆にブレーキをかけられるのが天皇ひとりしかいないという構造的な弱さがあったこと。

もうひとつは、あまり知られていないことですが、とくに満州国建設から国際連盟脱退の過程で浮き彫りになる、日本の政治家や軍人たちの「国際法についての理解の欠如」があった。それは現在とまったく同じ、日本人が伝統的にもつ非常に大きな欠点なのです。

ということで・・・

国際法・・・その前身は、万国公法である。
それらは、白人世界についての、覚書である。

知らなかったということも、事実ならば、白人世界の秩序に配慮する、注意深さの欠如である。

戦争をした後での、検証は、十分すぎる程必要である。
が、私は、日本の開戦は、自存自衛の戦争と見る。

何もかもの、権益を捨てよと、言われて、一体、どうして、国を立ち行かせることが出来るのか、である。

このエッセイでも、それに多く触れた。
あのマッカーサーですら、米国上院議員会にて、日本は、自存自衛のための、戦争であったと、証言している。

死ねと、言われて、はい、と死ぬことが出来るだろうか。
そういうことである。

日本が殖民地支配をしたというなら、すでに、中国には、欧米列強が、殖民地支配をしていたのである。

ただ、彼らに、特に、アメリカに利益をもたらさないことが、大問題だった。

もし、満州に米国の鉄道を敷くという話を受けていれば・・・
米国が、あれほどまで、執拗に、日本に戦争の一発を打たせなかったと、見ている。

また、ソ連のスターリンの魂胆である。
日米戦争を望み、そり裏から、働きかけをしていた。

ハルノートを書いたのは、ハル長官の部下であった、共産主義者の者だった。
つまり、ストーリーは、出来ていたと、私は、見ている。

posted by 天山 at 06:19| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月16日

玉砕125

戦争をしない国、矢部宏治
そこから、引用している。

戦争末期、海軍予備学生として旅順にいた私の父は、1945年6月の出来事をこう書き残しています。
「沖縄の戦局は日に日に劣勢で、6月になるとついに全島が制圧されたことを知った。
そんなある日、一枚の紙がさりげなく全員に配られた。
(あなたはと特別攻撃隊が編制されたとき、これに志願することを、
1,熱望する
2,希望する
3,希望しない
以上いずれかに○をつけよ)
アンケートはすぐに回収された。当時の情勢、雰囲気からいって、3はありえなかった。私もやむなく2に○をつけたが、この○の意味は大きい。いわゆる特攻志願とは、おおむねこういう形のものだったと思う」

戦争に関する庶民の手記が教えてくれるのは、旧日本軍の指導者は「天皇」の名のものに、驚くほど簡単に国民の命を奪うことができたという事実です。「一億玉砕」という国民全員を殺害するような「戦法」を、軍の「戦争指導者」が公式文書の中に表記していた過去をもつ日本、それは純粋な自衛以外の戦争など、絶対にやってはいけない国なのです。

上記、私も、共感し、賛成する。

人命軽視の思想は、まことに、残念なことだ。
この玉砕のエッセイでも、多々触れた。

ただ、特攻については、上記が、すべてではない。
進んで、志願をして、特攻隊員になった者も、多数存在したことを、加えておく。

純粋な自衛以外の戦争など、絶対にやってはいけない国なのです・・・
全く、その通りである。

そこで、自衛の場合は、戦争も辞さないという、心得、心構えは、必要不可欠であることを、確認しておく。

戦争自体、やっては、いけないことである。

事実、国連憲章では、個別の戦争を禁止している。
何事かある場合は、国連軍が、それに対処するという、規定がある。
しかし、後に、矢部氏の案内で、それが、法的トリックであることを、書く。

さて、もう一つ、矢部氏の書いたもので、重要なことがある。

今上天皇陛下は、
平成16年2004年の、秋の園遊会における、明仁天皇のお言葉を伝えている。

その内容は、
当時、東京都教育委員をつとめていた元人気棋士の米長邦雄氏が、おそらく天皇からおほめの言葉をもらおうと思ったのでしょう。
「日本中の学校にですね、国旗をあげて国歌を斉唱させるというのが、私の仕事でございます」
といったとき、こう返答されたのです。

「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」
天皇という権威をかかげて、国民に法的根拠のない義務を強制する。そうした日本の社会や権力者のあり方が、戦前の多くの国民の命を奪うことになりました。その代表がすでにふれた特攻です。明仁天皇のこと言葉には、二度とそうしたことがあってはならないという強い決意がこめられています。

上記、少しばかり、違和感がある。

天皇の権威を借りて、法的根拠のない、義務を強制するという・・・

私も、それに対しては、反対する。
しかし、国旗掲揚、国歌斉唱に関しては、法的根拠の問題ではない。

世界的常識の問題であり、天皇の権威云々の問題ではない。
天皇は、願い、希望、理想をお言葉にされる。
しかし、現場にいる者は、その現場に対処しなければならない。

教育の現場で、国旗掲揚、国歌斉唱を教えず、どうするというのか・・・
教育は、緩やかな、強制を伴うものである。

都知事だった、石原慎太郎氏も、あるテレビ番組で、そのこと、強制について、問われた時に、天皇のお言葉を示されて、強制のないようにとの、司会者に対して、私と同じように、発言した。

お言葉と、現場とは、違うのである。

これは、他国に出掛けた際に、明確になる。
日本の子どもたちは、教えられないが故に、他国の国旗掲揚、国歌斉唱の際に、起立することを、しないので、顰蹙を買う。

スポーツの親善大会でも、問題になる。
日本の子どもたちは、座っている。

更に、日本の国旗掲揚、国歌斉唱の際も、座っていて、注意されている。
教育の現場では、必要最低限の、礼儀作法を教えなければならない。

これは、日教組が言う、信条の自由とも違う。

天皇の権威を使い、法的根拠のない義務を貸せるという、言葉は、国旗掲揚と国歌斉唱には、当たらないのである。

勿論、明仁天皇の、又、矢部氏が書く、
天皇の権威をかかげて、国民に法的根拠のない義務を強制することは絶対にしない

という明仁天皇の強い決意だと思います。天皇がまず、誰よりも率先して憲法を守るのだという立憲主義の精神です。

上記に対して、私は、共に、共感するものである。

そして、加えて、天皇のお言葉は、限りなく、願いであり、希望であり、理想であることだ。

矢部氏は、
天皇制と民主主義は、そもそも矛盾するという根強い批判があります。申請のほとんどを出版会ですごしてきた私も、つい最近まで100%、そう考えていました。しかし沖縄の問題を調べ始めて、逆に考えが変わったのです。
と、ある。

私は、天皇の歴史から、天皇の政は、民主主義であると、考えていた。
日本流の、民主主義である。

君臨すれども、統治せず。
様々な意見を取り入れ、最終的に、決められたことを、天皇は、決済するという、形である。

posted by 天山 at 06:09| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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