2016年02月29日

玉砕106

台湾の第八飛行師団特攻隊で、25歳、沖縄奥武島で特攻死した、安原正文が、出撃5日前に、妹、千鶴子に宛てた遺書である。

沢山貰った御手紙は、みなポケットに入れて持って行きます。
御守袋(お人形の寝ている)も忘れず連れてゆきます。
コリントももう出来なくなりましたが、これからは兄ちゃんは御星様の仲間に入って、千鶴ちゃんが、立派な人になるのを見守っています。
泣いたりなどしないで、朗らかに笑って、兄ちゃんが手柄を立てるのを祈って下さい。
御父さんや御母さんの言いつけを守って、立派な人になって下さい。
                               さやうなら

この妹のために、死ぬのだ、と、思えば、死ねる。
誰かのために、何かのために、大義のために・・・
そう考えて、死ぬのである。

何も国のためだけではない。
しかし、結果的に、国のために死ぬ。

人が生きられるのは、誰かのために、何かのために、そして、大義のために、生きられる。
我が身のたに、生きる人など、この世には、いない。

私は、そのように考えている。

さて、その戦死者たちが、祀られているのが、靖国神社である。
便宜上、一つの宗教法人となっているが・・・

神道という、日本の伝統に上にあるものだ。

更に、何度も言うが、A級戦犯などという、存在は日本にはない。
それを言うのは、中国、韓国である。

だが、中国も、韓国も、その資格がない。
つまり、それに関して、云々する資格がないのである。

当時は、台湾、中華民国であり、中国共産党の、中華人民共和国は、存在していない。また、韓国は、日本であった。

だから、彼らの、言い分は、全くの根拠がない。
それなのに、日本のマスコミが騒ぐ。
そして、左翼系の知識人たちが、モノを言う。

アメリカの、アーリントン墓地の入り口には、かつて、硫黄島で六人のアメリカ兵が、星条旗を打ち立てた様子が、像となって、建っている。
日本の最後の砦となった、島である。

戦勝国アメリカが、自国内に、その勝利の記念碑を建てている。
それを、日本人観光客が見ても、また、日本政府も、一度も、軍国主義強化につながるなどと、いうことは無い。

両国は、共に、過去の戦争に対して、理解している。
戦争とは、こういうものだと、納得している。

そして、過去を弔うのである。

だが、その権利さえない、中国や、韓国の非難を、真っ当に、取り上げて議論する、日本のおかしさを、誰も言わない。

首相が参拝すると、公人か私人かと、問う、愚かな、マスコミである。
国に準じた、兵士の霊に対して、国のリーダーは、特に篤く、慰霊するのが、真ともである。

真っ当な行為にさえ、日本のマスコミ、反日日本人、左翼系の人達は、モノを言う。
呆れるのである。

こんな国は、世界に2つと無い。

更に、日本が戦争の加害者かのように言う、人々。
戦争には、加害者も被害者もないのである。

勿論、国際法違犯にて、死んだ多くの一般人は、被害者である。

だが、日本は、国際法を犯した、攻撃は、行なっていない。
それを、行なったのは、アメリカである。

アメリカに、謝罪を求めるべきである。
日本の各都市、そして、広島、長崎への、原爆投下は、明らかに、国際法違犯である。

靖国人車を、軍国主義の云々という人は、正常な神経を持たない。
戦死者を奉る場所が、何故、軍国主義に結びつくのか。
それには、何か、他意があるのだろう。

また、更に、近隣諸国に対する配慮と言う・・・
近隣諸国とは、朝鮮であり、中国のみであろう。

諸国は、日本に何も言わない。
逆に、日本に感謝し、更に、実に親日である。

唯一、発言の権利の無い国を、近隣諸国に配慮するという、マスコミから、反日左翼たち。

恐るべきは、教育の現場で、日本の侵略、侵攻と教えているのである。
一体、何のことか・・・

満州事変からのことならば、別エッセイ、天皇陛下について、国を愛して何が悪い、に、多く書いているので、そちらを参照してください。

日本軍が、出て行った場所が、すべて、侵略と説明される始末である。

日本軍が、出て行って、皆々、独立を果たしたとは言わない。
日本軍が、出て行く前は、皆々、欧米列強の、植民地だった。

それも、略奪、掠奪、収奪の、植民地支配である。
日本軍は、それを開放した。

中国共産党は、チベット、ウイグル、南モンゴルを開放したと言うが・・・
今は、どんな状態なのか。

同じ開放という言葉でも、内容が全く違う。
開放ではなく、虐殺に継ぐ、虐殺行為を繰り返している。
そんな国に、何事かを、言われる筋合いはない。



posted by 天山 at 06:39| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

玉砕107

靖国神社に関して、もう少し、考えてみたい。

戦勝国は、敗戦後、一ヶ月目から、戦犯狩りをはじめ、年内に逮捕して、翌年、4月29日に、起訴して、5月3日から裁判を開始し、敗戦三年目には、七人のA級戦犯を、抹殺した。

戦勝国の意思に、逆らうことが出来なかった、占領下の体制である。

処刑されたのは、七人だが、A級戦犯としては、ほぼ250名が指名されたのである。

勿論、この裁判は、今では、茶番だと、知られている。

その、A級戦犯が、祀られているということが、近隣諸国の感情に配慮するということになる。だが、それは、中国と、韓国のみである。

更に、国内では、政教分離の原則に反するという、人達がいる。

だが、不思議なのは・・・
内閣が成立すると、伊勢神宮に参拝するが、それに関しては、何も問題がないのである。

首相の、靖国神社参拝が違法なら、伊勢神宮への参拝も、違法であろう。

そして、国立追悼施設の建設をという、馬鹿げた者もいる。

ここで、中国に関する、無知を上げる。
東京裁判で、裁く側になったのは、11カ国であり、その中には、中華人民共和国は、存在していない。
つまり、毛沢東が、中華人民共和国の名乗りを上げたのは、1949年、10月1日であり、A級戦犯の処刑が行われたのは、前年の、1948年、昭和23年、12月23日である。

それまで、国家が存在していない・・・
つまり、A級戦犯を裁いた法廷について、知っている人は、中国にはいないのである。

それゆえに、中国は、日本に対して、靖国神社参拝に関して、云々する資格はないのである。

東京裁判に参加していたのは、台湾、中華民国である。

その後、1971年の、国連加盟以降、中国は、一つになったのだから、東京裁判の件は、中華人民共和国に継承されているという、説があるが・・・

果たして、台湾と、中国は、同じ国だろうか。
中国共産党が、勝手に息巻いているが・・・

台湾は、民主主義国家であり、中国は、共産党一党独裁政権である。
同じとは、言えないのである。

台湾からは、一度も、靖国神社について、関与するものはない。

つまり、中国と、韓国は、全く、靖国神社に対して、云々する、権利がないのである。

何度も書くが、韓国は、当時、日本であった。
戦勝国では、無かった。
韓国も、日本と同じく、敗戦したのである。

その後、アメリカ主導により、独立した。
それだけのことだ。

東京裁判について・・・
少し述べる。

連合国11カ国の裁判官の中で、唯一、国際法専門の判事は、インドのパール判事であった。

そして、そのパール判事が、ただ一人、日本無罪論を唱えたのである。
と言われが、違う。
無罪とは、言っていない。

ただし、A級戦犯が「平和に対する罪」を犯したとして、処刑されたことに、真っ向から、反対した。
つまり、「平和に対する罪」は犯罪ではないというのである。

当時、国家には、それぞれ交戦権があり、他国に対する武力行使を犯罪とする、国際法は無かった。

これに対して、検察側は、日本は、不戦条約を破ったから、犯罪に値すると述べた。
これに対して、パール判事は、不戦条約締結以後、第二次大戦まであの間に、条約に違犯して武力行使を行い、犯罪とみなされた例は無いと反論した。

まして、その指導者の個人的責任を問いただした例は、皆無であること。
日本のみが、このような法廷に被告として立たされ、罪状を科せられるのは、不当だとしたのである。

更に、東京裁判の矛盾を、最も明確に表すものとして、日本との間で、中立条約を結んでいたソ連が、条約の有効期間でもあるに関わらず、前年の2月に、一方的に、ヤルタ会談で対日参戦を決定したことに対して、そのソ連が、日本を裁く権利を与えられていることの、理不尽を、鋭く指摘している。

また、東条一派が、共同謀議により、一方的に事態を開戦に持ち込んだという、議論を頭から、否定した。
東条首相は、全力を尽して、外交交渉にあたったが、アメリカ側はすでに、調整不可能の結論を出していたと、延べ、あの時点で戦争は、避けられないものだったとしている。

正論である。
あの大戦は、日本にとっての、自衛戦争だったというように、同時の状況を分析した。

それを、もっと突っ込んで行けば・・・
戦争を仕掛けたのは、アメリカにあると、なる。

パール判事は、労作、パール判決書を書いた。
しかし、それは、法廷で読まれること無く、占領政策に有害だとして、発禁の扱いを受けている。
日本で、正式に発刊したのは、東京裁判から、20周年に当たる、1966年である。

勿論、それは、注目を集めた。

東京裁判とは、戦勝国が、勝手に、敗戦国である、日本を裁いた、世界史上類のない、暴力である。
戦勝国・・・アメリカの、実に汚い手であった。

ちなみに、彼らキリスト教白人主義の犯した、植民地政策から、何から何までの、罪を、日本に背負わせたのである。
捏造の裁判であった。

posted by 天山 at 06:26| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

玉砕108

昭和26年、9月8日、サンフランシスコにおいて、対日平和条約、サンフランシスコ条約が調印された。

日本の独立である。

即座に、日本政府は、吉田茂首相以下、閣僚、衆参両議長を引き連れて、靖国神社に向かった。
平和条約から、一ヶ月と10日、秋の例大祭の、10月18日である。

敗戦後、初の公式参拝である。

これは、何より、真っ当な感覚である。
日本人として、真っ当な行為である。

さて、戦犯問題に関する、大切な取り決めは、サンフランシスコ条約第11条に書かれている。
これを了承して、日本は、占領六年目に、独立した。

第11条の取り決めは、大きく分けて、二つある。

一つは、日本は、戦争裁判の「判決」を受け入れるということ。
ところが、この「判決」の部分を「裁判」と、誤訳してしまったのである。

原文は、「判決」を認めるということになっている。

それでは、判決と裁判では、どう違うのか・・・
判決を受け入れるという場合は、A級戦犯の処刑に対し、さかのぼり、クレームをつけないということ。
事実上、処刑が行われた場合、受け入れるも、受け入れないもない。
取り返しがつかないのである。

だが、裁判を受け入れるという場合は、戦勝国が敗戦国を裁いた、裁判の理不尽な報復の構図を、認めろということになる。
日本は、未来永劫、東京裁判の内容について、異論を認めないということになる。

したがって、敗戦後、40年近くも、裁判を正当なものとして、受け入れねばならなかったかのように、取り沙汰されて、戦勝国の裁判について、一切、批判、糾弾することは、出来ないという、受け取り方をしてきたのである。

何たる、不覚か・・・

誤訳・・・
つまり、焦っていたゆえに、論議の仔細について、見逃していたのか。

そして、もう一つの、取り決めは、独立日本として、自らの手で、戦犯を釈放するのは、当然だが、その場合も、裁判の当事国の了解を得るようにということに、なっていたのである。

平和条約締結後、フィリピン・モンテンルパ、オーストラリア・マヌス島から、それまで戦犯として拘留されていた、日本兵が、続々と帰国している。
帰国後は、引き続き、巣鴨プリンズに収容された。
およそ、千人である。

日本としては、勝手な行動を取ってはいない。
平和条約第11条の規定通り、関係諸国の了解を求め、結果として、日本の手で、次々と、戦犯を釈放して、1958年、巣鴨プリンズは、閉鎖された。

サンフランシスコ平和条約に、日本と合計49カ国が、署名、批准し、日本は独立した。
それらの国々・・・

省略するが・・・
中華民国、つまり、台湾も、中華人民共和国も、韓国も、参加していない。
これは、事実である。

つまり、戦勝国扱いではなかったのである。
全く、論外だった。

そして、重要なことは、この条約に署名、批准していない国は、この条約に関するいかなる権利も権限も、与えないと、明記されている。

だから、中国、韓国は、全く、論外の対象であり、何の権利も権限も、有しないのである。

更に、条約には、署名、批准しない国が、日本に対して、減損され、害されるものではないと、明記されている。

平和条約締結の場から、外されていた国は、一切の、クレームをつけることは、許されないのである。

原文
対日平和条約第25条
この条約の適用上、連合国とは・・・、該当国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする・・・。ここに定義された連合国の一国ではないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によっても前記のとおり定義された連合国の一国ではない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

中国も、韓国も、論外なのである。
つまり、何ら、クレームをつける権利などはない。

A級戦犯が合祀されている、靖国神社に裁判するのは、近隣諸国の感情に対して云々・・・と言う話は、中国、韓国のことを言う。
他の、諸国は、何も言わない。

東南アジア、南アジア、そして、太平洋の島々のよる、国々・・・
一切、干渉しないのである。

靖国神社に参拝することは、当然なことであると、理解し、知っているのである。

戦没者に対する、慰霊の心は、何処の国も、変わらない。
当然なことである。

更に、日本国内法には、戦犯という、存在はない。
次に、その証拠を書き付ける。


posted by 天山 at 06:14| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

玉砕109

サンフランシスコ平和条約発効二日後の、4月30日、早くも国会にて、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を成立させた。

それは、戦場にて、傷ついたり、病気をしたのがもとで、亡くなった人、および戦死者の遺族に、遺族年金を保障するということを、決めたものだ。

更に、翌年、昭和28年、1953年、8月1日、前記の「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の一部改正を行い、戦犯とされた人達にも、この法律を適用し、戦犯の遺族にも、同等の遺族年金、および、弔慰金を支給することを決めた。

それは、全会一致だった。

これは、この時点で、戦勝国が、どんな決定を下そうとも、独立日本政府として、戦死、戦傷病者も、戦犯による、刑死も、すべて国家の犠牲になったとして、厚生大臣の認定により、その扱いに、差をつけないというものだった。

つまり、言い換えれば、ここで、日本からは、戦犯という存在が無くなったのである。
戦犯処刑という言葉は、公文書にて、「法務死」と書かれることになった。

何と、温情のあることか。
それは、天皇の御心に添うものである。

当時の国会議事録には、戦死者は、戦勝国から見れば、犯罪人であろうが、日本人にとっては、犠牲者であるという、意識である。

ここで一人、木戸幸一内大臣の日記から見ると、
昭和20年12月6日、戦犯容疑者として、逮捕状の出た、木戸は、昭和天皇から、夕食に誘われている。
木戸が、戦犯容疑者指名を理由に、それを辞退したところ、
天皇は、「米国より見れば犯罪人ならんも、我が国にとりては功労者なり」との、仰せである。

つまり、天皇の御心が、広く日本には存在したのである。

独立日本は、戦犯に対して、国を守った人としての、揺るぎない、位置づけを行なったのである。

当時の政治家は、偉いものである。
用意周到に、独立国日本として、戦犯の名誉を守った。

つまり、恩給法第九条によれば、
「死刑又は無期刑若しくは三年を超える懲役者は禁錮の刑」に処された者は、恩給権が消滅すると決められていた。その通りにすれば、戦犯として、処刑された者は、恩給が受けられなことになる。
だが、援護法の適用により、戦犯刑死という言葉を一掃して、「法務死」と呼び変えたことにより、戦犯として死刑となった者も、事務手続き上、なんら問題なく、恩給の支給対象になったのである。

同時に、戦犯刑死者の、靖国神社合祀となれば、問題が起きたかもしれないが、これも、国家で、法務死と規定した以上は、支障のないことになる。

つまり、靖国神社に祀れたのは、「戦犯」ではなく、「法務死」をされた方という形になる。

この、援護法制定の後に、衆議院本会議にて、戦犯の赦免に関する決議、可決により、サンフランシスコ平和条約、第11条の規定に従い、関係諸国の了解を得た日本には、自国の手で、戦犯の赦免に結論をつけて、巣鴨プリンズを閉鎖したのである。

日本には、戦犯は、存在しないのである。

再度、言う。
戦犯の問題は、昭和28年、独立から二年目に、すべて解決済みとなったのである。

日本のマスコミ、そして、中国、韓国の言い分には、全く、根拠の無いものである。
戦犯を祀る、靖国神社に参拝することは・・・云々・・・

あの、毛沢東でさえ、言わなかった。

特に、日本のマスコミは、悪意ある、言いがかりである。
反日左翼、マスコミという。

総理大臣は、公人として、堂々と、靖国神社に、参拝すべきである。
当然のことである。

カトリック作家の、曽野綾子氏でさえ、戦没者慰霊は、その夫、三浦氏と共に、靖国神社に詣でると言う。
何故か・・・
それは、靖国に帰ると、約束したからだという。
約束した以上、当然、靖国に詣でるのである。

そして、それは、国が、約束したことでもある。
戦死者は、靖国に英霊として、神として、祀る。

日本は、宗教の自由がある。
しかし、靖国神社は、宗教施設と言う前に、戦没者慰霊の、社、やしろ、なのであるということ。

政教分離には、当てはまらない。
別格なのである。

靖国で会おうと、斃れた兵士たち・・・
その心を、無下にすることが出来るのか。

私のように、遠く、異国の戦場まで出掛けて、追悼慰霊をせずとも、靖国神社に参れば、充分な慰霊になる。
その、慰霊の心を、知る者なのか・・・

更に、宗教を問わず、靖国神社は、誰もが参ることが出来る。
戦没者に対する慰霊であり、神道の信仰の問題ではないのである。

付け加えておく。
祈りの最高の形は、黙祷である。
これは、長年、慰霊を続けた私の、確信である。

余計な言葉、祈りの言葉は、必要ない。
祈りは、黙祷である。

靖国神社は、それの最たる場所である。
posted by 天山 at 06:20| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

玉砕110

特攻隊員の、遺書、遺文、日記を紹介しているが・・・
実際、時間がかかっている。

それは、読み込むうちに、涙が出るからだ。
何の事はない、文であるが・・・
だからこそ、感慨深い。

死を目の前にして、書く行為は、末期の眼がある。

更に、驚くべきは、その若さ。
若くして、死ぬことを前提に、物を書き付ける行為は、一体、どんな心境なのかと、想像する。

陸軍初の特攻隊である、富嶽隊の一員として、ルソン島東方の海上で、27歳にして、特攻死した、米津芳太郎少尉は、出撃前日、母と兄宛に、「訣別」と題する、遺書を残している。

再び還らざる出撃命令降りました。
今に及び何等心残りは御座いません。吾々人間として最大なる修養、ししとして死に赴く境地もさらに会得し、只軍人勅論、戦陣訓の訓をそのまま実行するのみです。
二十七年間の生涯を、何等子として弟としての道を守りあたはざりしを深く恥ずる次第です。
すべてを兄上に委ね、心置きなく悠久の大義に生きんとしております。
男子の本懐これに過ぎず。
遺品の中にある「マニラ」産の化粧石鹸、参謀長より賜った品です。二個の中、一個を峯子嬢に差し上げて下さい。
では呉れ呉れも母上をお願い致します。
迎寒の折、呉れ呉れもご自愛の程。

原文を読みやすくしている。

三人兄弟の末っ子として生まれた。
父を知らない。

戦友の話では、出撃前に、爆撃機の尾翼の陰で、泣いていたという。

後に、母よね、に、届けられた骨壷には、米津の汗のしみたシャツ一枚が、納められていたという。

二十七
人の世を生き
特攻す
語り継がれる
大和魂   天山

悠久の大義に・・・
それは、日本が存続する限り、続く大義である。

知覧から、出撃して、沖縄海域にて、22歳で、特攻散華した、和田照次は、出撃当日、両親と三人の妹に宛てて、遺書を残している。

昨年の七月以降、遂にお目にかかる機会はありませんでした。しかしあの時、夏の清々しい夕べ、明るい燈の下で皆様と楽しくお話した時の事はいつも忘れません。
私が居なくなってもみんなげんきで、御父さんは外でお働きになる、お母さんは内の仕事をおやりになる、けさ江やふき江、ともえはすこやかに大きくなって幸福な家庭を持つようになる。そして皆が明るく楽しく助けあって美しい生活を営む。私はそれを希ひ、それを祈っております。
出撃前で時間がありません。
私の心は如何にしてもこの大業を完遂する事と、みな様のお元気であることを願う事です。
では、御機嫌よう、さようなら

特別な文ではない。
ただ、思いの通りに、書いている。

だが、それが、遺書なのだ。
肉親に宛てた、遺書を、他人の私が読む。
まさか、その死後、70年を経て、他人が読むとは、考えなかっただろう。

特攻隊員は、実に優しい人間だった。
そこに、軍国主義のかけらもない。
ただ、使命に真っ当すること。

私は、どうしても、彼らのお陰で、生きているような気がする。
彼らの、死によって、生かされて、生きていると、感じる。

陸軍特攻振武隊の、第四剣隊の隊長として、23歳で、沖縄海域にて、特攻死した、中島秀彦は、出撃前日に、妹周子と栄子、出撃当日に、父母に、短い遺書を書いている。

周子宛
出撃前日。
何も言う事はない。
唯銃後女性としてひたすら驕敵撃滅に邁進せよ。戦争は意志の闘争だ。大戦果を挙げてやるから待っておれ。

栄子宛
毎日元気か。
お母さんにあまり考えなさるなと言って呉れ。
今度外出したら何か買ってやる。
体に気をつけよ。

父・六郎宛
拝啓。
只今当地に居ります。後、数時間後出撃、見事撃沈して見せます。私物品は整理して送付致しました。当地からは軍刀だけです。敬具

母・かた子宛
拝啓
色々とお世話になりました。晴の出撃も後数時間後です。お体を大切に。一足先にさよなら。

とても、短い。
その短さの中に籠る、思いは・・・

現実というものは、ただ、このように淡々として、存在する。
数時間後に、別の世界の人になる。
死ぬ。

平和を語るためには、戦争を知るべきであり、防衛と、軍備の有り様を知るべきである。
彼らが守った国を、只今の人も、守らねばならない。

posted by 天山 at 06:30| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

玉砕111

陸軍特攻隊扶揺隊の一員、小川真一は、23歳で、沖縄・渡嘉敷島海域で、昭和20年3月29日に、特攻死する。
その一月ほど前、岡山の自宅に、日の丸の鉢巻姿の写真と、遺髪を送っている。
そして、3月13日、特別休暇を与えられて、帰省し、一泊して帰隊したが、自宅を出る時、姉、千恵子に、
「あまりにもオンボロの飛行機で、途中不時着するかもしれない。たとえ成果が上がらなくても、国のためにこの命を捧げる気持ちは、同じだから、嘆くことのないように」
と、告げている。

この小川を含めた、振武隊が、知覧基地から出撃する、初めての、陸軍特攻隊であった。

小川は、父宛に遺書を残している。

絶筆
本日攻撃命令下る
動中静あり 笑って滅敵に
基地を蹴ります
何も 申し残す事なし 三月二十八日・二十九日
之れ命日となりましょう
御両親姉上の御多幸を祈ります

気持益々冷静 平常心でやれそうです
家門の名誉この上なし
最後に扶揺隊の歌をやりながら
全機 元気出発します
                 さようなら

この、気持ち、益々、冷静・・・
見事な、心持である。

目の前の死に対して、平常心を持つという。
自らの死が、名誉であると、得心する心に、深く哀悼の意を。

これを受け取った、父親の心境は、思うことも出来ない。
小川の父は、何も語らなかったという。
語る言葉がないのである。

本人も、その家族も、その時代の不可抗力に生きた。

人生は、何とでも出来るとは、現代に言える。
いや、私は、人生は、いつの時代も、不可抗力を生きると言う。

思うに任せない事ばかりである。
勿論、中には、思うように、生きる人もいるだろう。
だが、それは、限られている。

戦争時の不可抗力は、悲惨である。
悲劇である。

だが、それを大義として、生きた人たち、若者たちがいる。
それが、救いである。

同じく、22歳で、沖縄・慶良間列島沖にて、特攻死した、倉沢和孝の父、安市は、心境を述べている。

倉沢は、昭和20年1月19日、形見のつもりで、髪を切り、安市に送った。
台湾の特攻基地に進出が決まると、父宛に、
向こうへ行ったら、便りも思うように出来なくなると思いますが、便りがなければ、元気でやっていると思ってください。
と、手紙に書く。

3月29日のことである。
そして、その一週間後、倉沢に出撃命令が出た。
その出撃直前に遺書を書いた。

我 今 壮途につかんとす
生還を期せず
今までの不孝お許し下され度
尽忠の大義に生く
では御両親様始め
弟達の壮健を祈ります
            出発前一筆 和孝
                   
家族が、この遺書を受け取ったのは、三ヶ月あまり後の、7月13日であった。

父、安市の衝撃は大きかった。
今までの不孝御許し下され度
という箇所に目を止め
「何たる事だ、何が今まで不孝なことがあったか?何もないではないか」
と言い、号涙したという。

特攻隊員にまつわる話は、多々ある。
私は、それらを省略しつつ、紹介している。

勝ち負けに関わりなく、戦争は、悲劇である。
しかし、その戦争の中に身を投じて、生きた若者たちが存在していたということが、大切な事実である。

祖国のために、命を燃やした若者たちが存在した。

それを、忘れては、日本人が、廃る。
それ以後、日本は、70年間、平和であり、戦争をしていない。
それは、彼らの犠牲の上にあると、私は、思う。

時代の不可抗力は、いつ訪れるのか、分からない。
もう、未来永劫、戦争はないとは、言えないのである。

防衛のために、戦いが必要なこともあるだろう。
その時、どう、その不可抗力を生きるのか・・・

特攻隊の精神を、見習いたい。


posted by 天山 at 06:44| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月29日

玉砕112

特攻隊の遺書、遺文、日記などを、読んでいる。
ここで、一度、戦争の経緯に戻ることにする。
後に、再度、特攻隊員の、遺書、遺文を見る。

その前に、戦前の日本が、軍国主義であるという、言い方について、言う。

私が、認識するのは、戦前の日本は、軍国主義とは、言えないということである。

簡単に言う。
軍国主義とは、アメリカなどに言える言葉である。
あの、時代を俯瞰すれば、世界の大半が、欧米列強の植民地であった。

その中で、唯一といっていいのが、日本である。
裏では、イギリスの植民地化にされそうだったが・・・

タイ、エジプトも、辛うじて、植民地ではなかったが。
日露戦争後に、日本は、その列強と同じ位置になった。

そういう意味では、アジアで唯一、独立国だった。

そんな中で、列強国は、日本に脅威を与えていた。
中でも、アメリカは、友好国と信じていたが・・・
明らかに、日本に対して、戦闘意識があった。

そして、ロシアの脅威である。
そのために、朝鮮半島は、守るべき場所だった。

日本の防衛のためにも、である。

当然、必然的に、軍国化してゆくのである。
必要に迫られたものだ。
それを、軍国主義とは、言わないだろう。

防衛準備主義と、私は言う。

何もかにも、抑えられた故に、日本は、南に活路を見出さなければならなかった。
それを、侵略と言う人たちが、いるが、違う。
自衛のために、行くしかないのである。

そして、結果的に、日本が敗戦したが、すべての植民地が、結果、独立したのである。
これは、画期的なことだ。
歴史はじまって以来の出来事である。

白人支配からの、開放を成したのである。

そして、何より、日本の戦争により、人種差別撤廃がなされた意義は、大きい。評価しても、し切れない程の事である。

さて、昭和19年七月に戻る。

第一遊撃部隊と名を変えた、第二艦隊は、また栗田艦隊とも言うが、スマトラ島の東南部の、リンガ泊地で、次期作戦に備えて、猛訓練に、明け暮れていた。

これは、戦艦武蔵が、フィリピンのシブヤン海に、消える話である。
昨年、その武蔵の海底の様子を、米国人が撮影した写真が、話題になった。

確かに、それは、戦艦武蔵だった、ということだ。

栗田艦隊が、リンガに到着した、翌々日の、7月21日、大本営から、「捷」号作戦の、指示が送られてきた。

それから、20日たった、8月10日、マニラにおいて、「捷」号作戦に関する、作戦打ち合わせが行われた。
実際、作戦の内容は、実に具体性に欠けていたのである。

そこで示された、連合艦隊の戦術は、小柳参謀長にとって、極めて意外なものだった。
栗田艦隊の行動に関して、神参謀は、以下のように説明した。

敵来攻の公算は、フィリピン方面がもっとも強いということは、衆目の見るところである。その上陸地点については、北部ではラモン湾付近、中部ではレイテ湾、南部ではダバオ付近と予想される。以上いずれの場合でも、敵侵攻のキザシを認めたら、基地航空部隊の襲撃によって敵の空母を漸減しつつ、敵輸送船が上陸地点に接近したところで、全力をあげ一挙的輸送船団を殲滅したい。したがって、栗田艦隊は状況を見て、あらかじめボルネオ・ブルネイ湾に進出待機していて、命令あり次第発進して敵輸送船団を洋上に捕捉、これを撃滅する。もし手遅れとなって、敵がすでに上陸を開始していたような場合には、その港湾に強行突入してこれを殲滅し、敵の進攻意図を撃破する。

以上である。

だが、小柳参謀長が、拘ったのは、大艦隊を挙げて、輸送船を攻撃せよという作戦目的であった。ゆえに、小柳は、
この作戦計画だと、敵主力の撃滅を放棄してしまって、敵輸送船を攻撃の主目標とするものである。作戦自体の目的がどのようなものであるにせよ、われわれ第二艦隊としては、あくまでも敵主力との決戦をもってその第一義の任務となすべきであると心得ている。一体、連合艦隊司令部は、この作戦で水上部隊をことごとく潰してしまっても、かまわないという考えなのか・・・

それに対し、神参謀は、
フィリピンを奪われてしまえば、本土と南方資源地帯とのルートは遮断され、日本は立ち枯れとなってついには戦争遂行能力も涸渇するであろう。そうなっては、艦隊を保持していても宝の持ち腐れである。この際、どうあってもフィリピンを手放すわけにはいかない。したがって、この一戦に艦隊をスリ潰してしまってもあえて悔いはない・・・

まさに、戦争全体の、帰趨は、すでに決しているわけである。
連合艦隊長官は、あえて、この一戦に全艦艇を葬り去ろうと意図しているのである。

これは、もう、連合艦隊と、栗田艦隊とは、微妙な意思の疎通を欠いたままで、作戦実行に移すということである。

矢張り、翌日、この作戦を、各戦隊司令官、幕僚、艦長、司令などの主要幹部は、容易に納得しなかった。

彼らには、開戦以来、敗れたのは、空母部隊であり、水上部隊は、本格的な艦隊決戦をやったことがないという、意識がある。いつか、決着をつけるために、日夜、訓練に励んできたのだ。

だが、大艦隊を挙げて、港湾に突入し、輸送船団を叩くという戦例は過去になく、参考にすべき何物もなく、作戦に立案にすべき資料もない。
非常な苦心を要した。が、各戦隊共に、一致協力して、事に当たった。

ここから、悲劇の、レイテ戦が始まる。

posted by 天山 at 05:59| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月30日

玉砕113

フィリピン全域にわたり、猛威をふるった台風が、やや下火になった、10月17日、レイテ湾口スルアン島にある、海軍見張り所は、雨に煙る海上に、敵艦隊を発見した。
各方面に、緊急急電を発した。

レイテに反攻を指向した、マッカーサー攻略部隊だが、この報告に、神奈川県日吉台にあった、連合艦隊司令部は、即座に反応し、全軍に対し、捷一号作戦警戒を発令した。

18日、リンガ泊地の栗田艦隊は、即座に行動を起こす。
第十戦隊の旗艦が先頭を切り、その後を続々と、戦隊が続いた。

栗田艦隊が、ブルネイに到着したのは、20日の正午近くである。
丁度その頃、レイテ湾に、マッカーサーの上陸部隊の、大軍が殺到していた。

レイテ湾に面した、タクロバンと、その南のパロ方面、および、サンホセと、その南のドラッグ方面に対し、軍団16万5千名のうち、兵員約6万、車両、弾薬、軍需品など、10万7千トンが、揚陸された。

私が、レイテのタクロバンに慰霊に出掛けた際に、当時、少女だった、お婆さんに出会った。彼女曰く、たくさんの日本人が死にました、と。
それはそれは、沢山であろう。

レイテ島は、全島に戦禍が広がったのである。
タクロバンの逆の、セブ島側の、オルモックという場所。
私は、まだ出掛けていない。

特攻隊の、最初は、レイテ島のタクロバンである。
そして、オルモックにも、散華した若者が多い。

ブルネイ泊地に入港した、艦隊、駆逐艦など、39隻からなる、大艦隊は、到着早々、栗田艦隊は、燃料補給に忙殺された。
時間の余裕がなかったのである。

21日17時から、旗艦愛宕の艦隊司令部に、各指揮官、関係科長以上が呼集されて、作戦計画の打ち合わせが行われた。
この席で、初めて、レイテ湾タクロバン方面に突入すると、具体的な目標が、指示された。司令部から発表された作戦計画は、リンガ泊地を出発して、ブルネイに回航するまでの間に、作戦参謀大谷藤之助を中心に、練られたものである。

この計画における苦心は、艦隊行動をより効果的にするため、南北両方面から、レイテ湾に進撃するというものであった。
大谷参謀は、速力の遅い、旧式戦艦山城と、扶桑の第二戦隊を、別動隊として、スリガオ沖から、北上突入させる案を立てた。

22日、栗田艦隊は、第一、第二部隊の順に、ブルネイを出撃、レイテ湾を目指した。

その後を、続々と、各戦隊が続く。

ブルネイ湾を出ると、艦隊は、大和を中心にする第一部隊と、金剛を中心とする、第二部隊の二群に分かれ、隊の間隔を6000メートルにとり、対潜警戒就航序列で北上した。

対潜警戒を怠っていたわけではないが、日没後は、16ノットに減速して、ジグザグ運動を止めて、パラワン島沖合い10浬を北上した。

栗田艦隊にとって、レイテへの道は、遠く、かつ困難極まるものだった。

その行程は、警戒航行や、途中の会敵を考慮すれば、1500浬を覚悟しなければならないほどだ。
当然、米艦載機の襲撃や、水上部隊との遭遇などが、予想された。
さし当たっての難関は、敵潜水艦に狙われることだった。

第一の米潜の出没地帯と予想されたブルネイ湾口は、無事に通過し、23日、第二の難所である、パラワン水道の南口に達した。

艦隊がこの水道を抜けるには、約300浬の行程を経なければならなかった。
誰の目にも、この狭い水路は、米潜が待ち受ける危険地帯である。

米軍側から見ると、23日午前1時頃、パラワン水道南口で、哨戒中の二隻の米潜水艦のうち、ダーターが、レーダーで栗田艦隊を発見し、栗太艦隊を追い越して、艦隊に向かった。

米艦隊は、こちらに向けて進む、日本艦隊のほぼ真正面に位置していた。
次の瞬間、艦隊は、ジグザグ運動を開始し、ダーターの視野から見て、右に艦首を振り、重巡四隻は、一斉に横腹を見せた。距離は約9000メートル。

この機を逃さず、ダーターは先頭の一番艦隊に狙いをつけ、艦首発射管から、魚雷六本を発射した。

そのうちの、四本が命中した。
ついで、艦を急旋回すると、二番艦に向け。艦尾発射管から、魚雷四本を発射した。うち、二本が艦隊の中の、高雄に命中した。

その他の詳しい様子は、省略する。

高雄は、応急処置を行い、26日、ブルネイに帰還し、シンガポールに回航している。

その後、この海域で同じく第四戦隊の重巡摩耶が雷撃を受け、ほとんど瞬時に、沈没している。

私から言えば、遠回りにレイテに向かっていたのである。

栗田長官の乗る、愛宕が攻撃され、艦体が30度ほどに傾いたとき、栗太長官は、幕僚たちと共に、海面に浮かんだバジルから身を躍らせ、海中に飛び込み、駆逐艦目指して、泳いだ。
後に、司令部付近の職員たち、約30名が、続いた。

駆逐艦に乗り移ると、愛宕は、すでに沈んでいた。

駆逐艦岸波に移乗した栗田長官は、大和に信号を送り、
大和に旗艦変更の予定、本職移乗まで第一戦隊司令官指揮を執れ
と、命じる。

長官以下、愛宕生存者の大和への移乗は、夕方に終わった。
全軍の指揮は、再び、栗田長官が執ることになる。

大和の艦橋は、満員である。
艦隊司令部の移乗が終わると、艦隊は、ただちに行動を起こして、北上した。

そして、シブヤン海に進入する。
ミンドロ島沿いに南下した。

地図で見ると、レイテまで、大回りをしていることが、分かる。

フィリピン群島を二分する形の、シブヤン海は、栗田艦隊にとって、第二の難所であった。

米潜水艦、米空母部隊の行動範囲内に入ったことを、覚悟しなければならない。

ミンドロ島南方を迂回して、北東に針路を変え、タブラス海峡を抜けた艦隊は、24日、未明、ジグザグ運動をしつつ、シブヤン海に入っていった。


posted by 天山 at 03:56| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月31日

玉砕114

敵機跳梁の兆しは、未明からあった。
大和の電探は、しきりに、米機の反応をキャッチしていた。

姿は、見えずとも、遠方から、触接されていると、判断した栗田長官は、対空戦闘に備えて、輪形陣を敷くよう命じた。

艦隊は、一時複雑な行動を展開したあと、15分間ほどで、第一部隊は、大和を中心に、第二部隊は、金剛を中心に、それぞれ輪形陣を敷いた。
航空機の援護がない以上、対空砲火により、自分で自分を守るしかない。

やがて、米機が視認できるようになり、その数は、時間の経過と共に、増えていった。
敵の襲撃は、必至と見た艦隊は、速力を24ノットに上げて、対空戦闘態勢に入った。

シブヤン海の死闘である。

当然ながら、米軍の目的は、大物の大和と、武蔵である。

大和の右翼、輪形陣の外側に位置していた武蔵に、敵機が群がってきた。

その状況については、省略する。

ミンドロ島、タブラス島、シブヤン島の海域である。
後に、ミンドロ島の戦いについても、触れる。

結果的に、武蔵は、米機に集中して襲い、回避する力もなく、発射された魚雷は、ことごとく横腹に吸い込まれるように、命中した。

投下される爆弾もまた、命中であり、至近弾を問わず、武蔵を破壊した。

そして、この日の戦闘が終了した。

武蔵が沈んだ時刻、夕刻近くから艦隊行動につき逡巡を繰り返して、複雑な航路をとった栗田艦隊は、遥か離れた洋上にいた。

シブヤン海に沈んだ武蔵は、敗戦後から、70年目にして、ようやく、アメリカ人により、海底にあるのが確認され、写真が公開された。
昨年のことである。

その後、栗田艦隊は、いったん反転、西方に避退した。
米機のあまりの猛攻撃に、ひるんだのである。

このまま猪突すれば、目的のレイテ湾に到着する前に、全滅すると、思われた。

中止ということではなく、一時的な避退のつもりだった。
再出撃したほうが良いとの判断である。

この反転につき、栗田司令官は、連合艦隊長官に宛てて、電文を送った。
内容は、無理に突入しても、敵の餌食になるという意味のものである。そして、一時避退して、
友隊ノ性かニ策応シ進撃スルヲ可ト認メアリ
と、最後の電文である。

しかし、ここで栗田艦隊が前進を中止すれば、「捷」号作戦のすべてが、崩壊し、再興は不可能である。ここは、予定通り、突入してもらわなければならないという意見が、大勢を占め、有名な、
天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ
という、督戦命令が打たれることになった。

栗田艦隊は、漂泊する武蔵を置き去りにして、西に進んでいたが、その後、米機は一機も現れない。
あれほど、凄まじかった空襲が、嘘のようにやんでいた。

反転後、すでに一時間近くも経過しているのに、一機の敵機も現れないのである。

栗田長官が突然、引き返すことにした。
つまり、再反転である。

大和以下艦隊は、再度、武蔵を見る。まだ浮いていた。
しかし、そこから東に進むと、武蔵は、点として、やがて消えた。

栗田艦隊は、シブヤン海の横断を終えて、24日20時頃、ブリアス島とマスバテ島にはさまれた狭い、海峡に差し掛かっていた。
ここから、島と島の間を、蛇行しつつ、サンベルナジノ海峡へと進む。

艦隊は、予定より、すでに六時間も遅れており、このままでは、レイテ湾に到着するのは、25日正午頃となる。

艦隊は、能代を先導艦として、一列縦隊となり、サンベルナルジノ海峡を突破していった。

約一時間で海峡を通過した艦隊は、25日午前零時30分、無事にフィリピン海に出た。

しかし、海峡を出たときが、艦隊にとって、最も危険な時間である。
弱体な態勢にあり、海峡の出口には、米潜水艦が潜んでいる確立が、高いのである。

更に、水上部隊が、邀撃態勢を整えて、待ち構えていることもある。
単縦陣のままで、一時間、危険海峡を突っ走ったが、何事もなく、東方に変針した。

午前4時、艦隊は、南東に変針して、一路、レイテ湾を目指した。
約五時間後の、九時には、予定していた、西村艦隊との会合点、スルアン灯台の東10浬の地点に到着するはずだった。

このとき、艦隊司令部に、西村艦隊にあらずして、志摩艦隊から、「戦場到着」との連絡が入る。

その後、一時間経た、5時10分、当隊攻撃終了、一応戦場離脱、後図を策す」との連絡が入り、続いて、「第二戦隊全滅、最上大破炎上」との報告である。
しかし、その後、連絡がない。

司令部では、これだけの電文では、状況が分からない。

西村艦隊は、打撃を受けているようだが、何隻かは、約束のレイテ湾口に、現れるのだろう。
栗田艦隊としては、そのように、受け止めるしかない。


posted by 天山 at 06:16| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月01日

玉砕115

栗田艦隊と合流するはずだった、西村艦隊は、実際、スリガオ海峡で、死闘を繰り広げていた。

西村艦隊が、24日、午前八時、ミンダナオ海の西口に近づいた頃、米走策敵機に発見され、まもなく、急降下爆撃機、17機に襲われた。

損傷は、軽症だったが、西村中将は、未明に発進した、最上の水偵がもたらした情報により、レイテ湾頭に、自軍の約三倍に当たる、水上部隊が、待ち受けていたことも知っていた。

西村中将は、退かなかった。
栗田艦隊との約束は、取りやめになったわけではなく、今となっては、退くことが出来なかった。

24日夜半、スリガオ海峡南口に差し掛かると、まず、水道の両側の島陰に隠れていた、高速魚雷艇が、群がり、襲ってきた。
西村艦隊の隊形は、先頭が、満潮と、朝雲が、単縦陣で前衛となり、その後方4000
メートルに、山城、扶桑、最上が、各1000メートルの間隔で続行していた。

艦隊は、適切な回避運動と、集中砲火により、これら魚雷艇郡による、第一ラウンドの襲撃を退けることが出来た。

西村艦隊に味方したのは、魚雷艇が掻き回す夜光虫の、おびただしい光である。

途中経過は、省略する。

結果的に、最上は、落伍した扶桑を、追い越すと、山城の後方1000メートルについて続行した。
後落した、扶桑は、全艦火達磨になり、炎々と燃え上がった。

西村艦隊は、回頭しつつ、一斉に砲撃を開始したが、視界が悪いせいもあり、有効弾は、得られなかった。

反転避退する米艦は、煙幕を発しながら、応戦の反撃もせず、ひたすら北方に避退する。

一斉回頭して、しばらく経過すると、魚雷が回避しきれぬと思った瞬間、ほとんど同時に満潮と山雲に、魚雷が突き刺さった。
満潮は、航行不能になり、山雲は、爆発を起こし、大音響と共に、沈没した。

続いて、朝雲が、一番砲塔直下に魚雷を受け、艦首を切断されて、漂流状態となった。
これと、前後して、山城の左にも、魚雷一本が命中した。

西村艦隊は、山城、最上、時雨の三隻となった。
その後、レイテ島寄りに南下してきた、米駆逐艦五隻に、第二次攻撃にさらされた。

これ以下の、状況は、省略する。

志摩艦隊が、西村艦隊の後続部隊として、スリガオ海峡入り口に進出してきたのは、午前三時頃である。

当時、西村艦隊は、米駆逐艦の東側隊から、最初の魚雷攻撃を受けていた。
志摩艦隊は、丁度、このとき、激しいスコールに包まれて、視界が悪く、西村艦隊交戦の、光芒を認めることが、出来なかった。

ようやく、前方に、西村艦隊の戦闘の様子が見えてきた。
その中の一艦に、火災らしい、火の玉を見た。
その火の玉は、見る見る膨れ上がり、ほどなく、爆発したのか、海峡全体が、明るくなった。

だが、志摩艦隊は、結果的に、反転せざるを得なくなる。

米軍の攻撃から、逃れたのである。
一時は、全滅覚悟で、突入を決意したが・・・
幕僚の進言で、思い留まった。

志摩艦隊は、栗田艦隊宛に、
当隊攻撃終了、一応戦場離脱、後図を策す、
続けて、
第二戦隊全滅、最大破炎上
である。

その電報を受けた栗田艦隊は、全体の意味がつかめず、何隻かは、戦場を抜け出して、約束の合同地点に現れるだろうと解釈し、25日午前六時頃、スルアン灯台の北方80浬まで、進出した。

レイテに展開した、栗田艦隊、西村艦隊、志摩艦隊である。

その後、栗田艦隊は、サマル沖で、突然の米軍と、遭遇戦となる。

米護衛空母部隊は、栗田艦隊を視認した当初は、驚愕し、狼狽もした。だが、そのうちに、必死の反撃に出てきた。

艦載機が二機、三機と散発的ではあるが、ばらばらに隊形の乱れて各艦隊の上空に、飛来して、爆弾を投下し、機銃掃射を加えてきた。
更に、煙幕の中から、駆逐艦が突進して、魚雷攻撃を仕掛けてくる。

各艦隊は、米機を迎え撃ち、米艦に対する砲弾を行わなければならず、好調であるべきはずの、追激戦は、頓挫した形となった。

そのうちに、栗田艦隊の戦意を削ぐ出来事が、続いて起きた。

スコールの中に逃げ込んだ、米空母隊に対して、大和は、電探で探りつつ、無観測射撃を試み、前方のスコールは、敵が懸命に張り続ける煙幕と混じりあい、遮蔽幕を形成していた。

その幕の中に、巨弾が吸い込まれていくが、手応えが、得られない。

これ以上は、省略する。

結果、大和は、右に四本、左に二本の魚雷に挟まれた。
そして、米空母郡に接触する、望みがなくなったばかりでなく、戦況を正確に把握することが出来なくなったのである。

フィリピンのビサヤ諸島一帯を戦場とした様である。
私は、何度もビサヤ諸島の、セブ島、ネグロス島、パナイ島、レイテ島、ボホール島に出掛けている。

美しい海での、戦闘、激戦地である。

posted by 天山 at 06:11| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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