2015年11月30日

玉砕85

大西中将は、開戦時、第十一航空艦隊参謀長として、フィリピン攻略作戦を成功させ、後に中央に帰還して、海軍航空の兵術、訓練、技術開発、生産などを担当する要職を歴任した。

航空本部総務部長在任中、連合艦隊は、南東方面において、ガダルカナルに始まる、巨大な航空消耗戦に巻き込まれる。
そして、たちまちのうちに底を突く、飛行機械の補充は賄えず、次々と、戦死する熟練搭乗員の代わりの養成も、思うに任せなかった。

その間、大西は、中央のポストの中でも、特に、現地部隊の要求が直接響く要職にあった。それゆえ、戦局の推移は、手に取るように分ったはず。

その後、軍需省に移り、戦争を、外側から眺める立場に変ったが、戦況は、益々悪化し、「あ」号作戦が敗れた後は、もはや、最終段階を迎えたことは、誰の目にも、明らかだった。

更に、敵の空母部隊の威力は、日を追うごとに強大となり、戦前からの、大西の予言の通り、航空機が戦争の主役であることが、今こそ、明確に立証されたのである。

特攻が、大西の、全くの、独創であるという、言い方は、正しくないといえる。
命令としての形を与え、責任の所在を明らかにしたのは、確かに、大西である。だが、反跳爆撃の発想を検討すると、体当たりをすることで、機材や技量の不足を補うという、考え方は、海軍内部に、広く醸成されつつあったのである。

現に、当時、水上機母艦千代田艦長である、長城英一郎大佐のように、航空機による特攻を個人的に意見する者も出ていた。

更に、「捷」号作戦時、すでに大本営では、回天(人間魚雷)、震洋(体当たりモーターボート)、甲標的(特殊潜航艇)、桜花(ロケット推進の小型飛行機)などの、奇襲兵器が、採用され、整備され始めていたのである。

時間的に間に合わなかったが、いずれも、生きた人間が操縦して、目標に体当たりする、肉弾戦法である。

つまり、間に合ったならば、様々な、特攻攻撃を行ったということである。

そして、それを成す者は、皆々、若者たちなのである。
一体、人の命を、何だと、心得ていたのか・・・
呆れ果てると共に、人命無視も、甚だしいのである。

人命無視といえば、この戦争の、日本軍は、実に、人命無視を続けたといえる。

中央において、「特攻」も、やむをえないと考え、この後に、大西自身が「統率の外道」とも思われる戦術を、航空関係者に信望のある、大西個人の責任の下、断行させようとした。

大西は、10月9日、東京を出発し、10日、鹿児島県鹿屋基地に着く。
ところが、同日、米機動部隊が、沖縄に来襲との報に接した。

すぐに、上海を経由して、11日、台湾、高雄に到着する。
ここで、マニラから迎えに来ていた、新任の副官、門司親徳主計大尉と合流した。

当時、高雄には、福留繁中将以下の、第二航空歓待司令部があった。
後に、福留長官が、マニラに渡り、大西は、熱心に「特攻」を勧告するのだが、このときは、それほど積極的に説くことはなかったという。

その翌日、12日から14日まで、台湾は、台湾沖空戦の余波ともいうべき、猛烈な米機動部隊の襲撃を受け、大西は、豊田長官と共に、新竹に足止めされた。

16日、新竹を発ち、17日、マニラの一航艦知れ零部に到着した。
ギリギリのタイムリミットだった。

ここで、大西は、自分が率いる一航艦の、戦力を知ることになる。
実に、ゼロ戦、30機のみである。

「捷」作戦を立案した当初、予定していた保有機数は、350機である。
今は、その十分の一にも満たない。

さすがの大西も、愕然とした。
そして、その驚きから、心中ひそかに考えていた、特攻の計画が、俄かに、現実味を増してきたのである。

しかし、敵は容赦なかったのである。
翌18日、レイテ湾内に、艦艇が侵入して、掃海を始めた。
輸送船を発見するまでには至らなかったが、米側の上陸計画は、明確となり、報告を受けた、神奈川県日吉台に本拠を置く、連合艦隊司令部は、同日夕、「捷一号作戦発動」を下令した。

この、捷一号作戦とは、フィリピンの何処かに敵が上陸してきたとき、基地航空部隊の協力のもとに、戦艦大和、武蔵をはじめとする、艦隊を敵上陸地点に突入させ、艦砲射撃で、爆破するという、作戦である。

基地航空部隊に課せられていた使命は、艦隊突入日まで、これと渡り合うことであった。
だが、可動機30機という状態では、果たすべき使命も、夢と化すのである。

普通ならば、諦めるはずが、大西は、なお粘る。
米空母を沈めることは、出来ないまでも、せめて、飛行甲板だけでも、破壊して、飛行機を使用出来なくすることは、出来ないか。

大西は、この18日の夜、寺岡中将に、自身の決断を述べ、同意を得たとされる。
寺岡中将は、後任予定者である、大西に、編制を一任した。

ここ、ここに至ると、体当たりしかない。

大西は、19日、マニラ北にある、クラーク基地の、第七六一航空隊司令前田孝成大佐と、飛行長庄子八郎少佐、マバラカット基地にある、第二○一航空隊、司令山元栄大佐、および飛行長中島正少佐を、マニラの、艦隊司令部に召致した。

正午過ぎに到着した前田司令一行に対し、大西は、とりあえず自分の意向を伝えた。
大西が、特別攻撃隊の編制を考えているのは、二○一空である。
その、山本司令の一行は、中々姿を現さない。

実は、手違いがあった。
その後、搭乗した飛行機が不時着し、山本司令は、負傷で入院し、中島飛行長は、20日になって、マバラカットに帰った。

19日、大西は、マバラカット基地の、二○一空本部を訪れ、隊員の主だった者を集めた。
大西中将は、一同を前にして、語った。
「戦局は皆も承知の通りであり、今度の捷号作戦にもし失敗するようなことがあれば、それこそ由々しき大事を招くことになる。一航艦としては、是が非でも第一遊撃部隊のレイテ湾突入を成功させなければならない。そのためには、敵の機動部隊を叩いて、少なくとも一週間は、空母の甲板を使えないようにしたいと思う」

第一遊撃部隊とは、栗田艦隊のことである。

そして、続けて、
「それにはゼロ戦に250キロの爆弾を抱かせて、体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うが、どんなものだろう?」




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2015年12月01日

玉砕86

時間の余裕はなかった。
早速、編制に着手した、玉井中佐は、昭和18年10月、練習航空隊教程を卒業して、一航艦の二六五空に入隊して以来、中佐と共に、苦楽を共にして来た、第九期飛行予科練練習生出身の搭乗員の中から、人選を行おうとした。

彼らは、玉井中佐の直接の教え子でもあった。
集った第九期練習生は、23名。
玉井中佐が、「捷」号作戦と、大西新長官の決心を説明すると、感激して、全員諸手を挙げて賛成したのである。

体当たり、特攻を、賛成した・・・
戦争に参加した以上は、死ぬことを、覚悟していたからか・・・

こうして、参加搭乗員の問題は、解決した。
あとは、指揮官の人選である。

玉井中佐は、戦闘第三○一飛行隊分隊長の、関行男大尉を選んだ。

関大尉は、海軍兵学校第七○期生で、昭和18年1月に、練習航空隊教程(艦爆)を卒業してから、霞ヶ浦航空隊、台南航空隊の飛行教官を歴任し、同年9月2日付けで、現職に補任された。
つまり、艦爆から、戦闘機に転進である。

約一ヶ月前に、フィリピン戦線に転進したばかりである。

関大尉は、しばしば、玉井中佐に、戦局に関する所見を申し出て、戦闘への参加を熱心に要求し、中佐に強い印象を与えていた。

玉井中佐は、人選について、第一航空艦隊参謀の、猪口力平中佐に意見を求めた。
猪口も、同意した。

すでに深夜になっていたが、関大尉を呼び、ほどなく士官室に出頭した、関大尉に対し、玉井は、その肩を抱くように、特別攻撃隊の指揮官になって欲しい旨を告げ、大尉の意向を尋ねた。

玉井の言葉は、語尾が震え、最後は、涙ぐんだ。

関大尉の反応は・・・
ちなみに、関大尉には、新婚の妻がいた。

机を前に、椅子に腰掛けた関大尉は、唇を結び、しばらく返事をしなかった。
机を前に座り、両肘を机の上につき、オールバックにした長髪の頭を、両手で支えるようにして、瞑目したまま、一瞬、深い考えに沈んだ。

ごく短い時間だった。
大尉の両手が動き、髪をかき上げたと思うと、静かに顔を上げた。
「是非、私にやらせてください」
少しも淀みなく、明瞭な口調で言った。
その心中を察するのは、無理である・・・

特別攻撃隊24名の人選が、決まった。

猪口参謀は、ただちに、別室で待っていた、大西中将に、報告した。
20日、午前一時過ぎである。

特攻隊は、神風特別攻撃隊、と呼称された。
そして、四隊に区分けされ、それぞれ、敷島、大和、朝日、山櫻と、隊名がつけられた。

敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山櫻かな  本居宣長
この歌から、取られたものである。

大西は、20日午前10時、関大尉以下、特別攻撃隊全員を、二○一空本部に集めて、門出の激励と、訓示を行った。
訓示が終わり、隊員の一人一人と、握手を交わす。

この時、大西は、自決する覚悟を決めていた。

神風特別攻撃隊の編制を終えて、20日、マニラの司令部に戻った大西は、前長官寺岡謹平中将との交代を終わり、ここに正式に、一航艦を指揮することになった。

21日、全軍に長官交代の通電を行い、二○一空司令山本大佐対して、正式に、特別攻撃隊の編制を命じた。
一、 二丸一空司令は現有兵力を以って体当たり特別攻撃隊を編制、10月23日までに比島東方海面の敵航空母艦殲滅に任ぜしむべし。
二、 本攻撃隊を神風特別攻撃隊とす。
三、 司令は今後の増強兵力を以ってする特別攻撃隊編制を準備すべし。

大和隊は、編制当日、ただちに、出撃基地である、セブ島に進出した。
また、朝日、山櫻の両隊は、23日、ミンダナオ島、ダバオに進出した。

24日まで、マバラカットにあったのは、指揮官、関行男大尉が直卒する、敷島隊である。

各隊は、次々と出撃し、そのまま、還ることはなかった。

関大尉の敷島隊が、未帰還となったのは、栗田艦隊が、レイテ湾に突入する予定日の、10月25日である。

それでは、ここから、特攻隊について、少し詳しく書くことにする。

特攻攻撃日数、10ヶ月、総出撃機数3461機、うち海軍2367機、陸軍1094機、特攻戦死者総数4379人、うち海軍2535人、陸軍1844人、

与えた損害、艦船沈没26隻以上、損傷368隻、戦死者12281人、負傷者4824人。

マッカーサー元帥の言葉
自殺攻撃の神風パイロットが本格的に姿を現した。この驚くべき出現は、連合国軍の海軍指揮官たちを、かなりの不安に陥れ、連合国軍艦隊の艦船が、至る所で撃破された。空母群は、この危険な神風攻撃の脅威に対抗して、搭載機を自隊を守るために使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を援護することには手が回らなくなってしまった。

今で言えば、自爆テロの形相である。
しかし、基本的に違うことは、自爆テロは、一般人も狙う。

この、神風特攻隊は、あくまで、戦闘員、戦闘態勢にあるもの、軍隊に対してである。

一般市民、兵士でも、戦う力の無い者を、狙うのではない。
立派な戦闘行為である。
これは、明確にしておく、必要がある。


posted by 天山 at 05:44| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月02日

玉砕87

すべては1944年10月25日に始まった。いや、より正確にいうなら、全世界はこの日驚くべきニュースに接したのである。新聞とラジオは、日本軍の飛行機がレイテ沖でアメリカ海軍艦船に決然たる体当たり攻撃を敢行し、大損害を与えたことを報じた。ニュースの解説者たちは、これらの攻撃が秩序だてて実行されたもののように見えるところから、これが日本軍司令官の命令に発したものであろうということを力説した。このときをもって、太平洋戦争の局面はまったく異常な展開を見せることになったのである。この日以来、それは世界戦史のいかなる戦闘にも似つかぬものと化した。
フランス人ジャーナリスト ベルナール・ミロー「神風」

最初の、特攻隊攻撃である。
敷島隊・・・

米機動部隊に突入し、空母セント・ローを撃沈し、米軍将兵に戦死また、行方不明1500人、負傷者1200人の大被害を与え、飛行機128機を、爆破したのである。

レイテ島慰霊の際に、私は、その現場の海岸で祈りを捧げた。
紺碧の空と、海の美しさ。
そんなことが、行われた場所なのか・・・

大きな、マリア観音が建つ。
私は、一人だった。
トックトックの運転手に写真を撮ってもらう。

正午に近い時間で、太陽が、燦燦と照りつける。
日の丸を掲げて、黙祷する。

何か言葉に出来るだろうか・・・
ただ、黙祷以外にないのである。
そして、想念の祓い清めのみ。

ベルナール・ミローは、書く。
太平洋戦争。その末期においてこれほど交戦国間で海空の戦力の懸絶した大差が生じた戦争はかつてなかった。そこには救いがたい劣勢におちいってしまった側にとって、それを挽回するチャンスも見込みも、事実上皆無だったといってよい。

最初の特攻から、五ヵ月後の沖縄戦では、レイテとは比較にならぬほど、計画的、連続的、大規模に実行された。

それは、米兵に対して、精神的に酷く打撃を与えたのである。

陸上よりも海上では、アメリカ水兵たちはよりいっそうの不安と焦燥にとらえられていた。今日までに受けた自殺攻撃による損害は比較的軽微だったけれども、これから先もこの程度で済もうなどとは考えられなかったからである。日本人がすべての戦力をふりしぼってこの沖縄の防衛にあて、狂暴な決闘をいどんでくることは疑いはなかった。アメリカ人にはみなそのことがわかっていた。だからこそ彼らは沖縄戦のこのような始まり方(無血上陸)を、何も増して気味悪く感じたのである。
ベルナール

レイテ湾に突入した、特攻隊は、24機だった。
しかし、沖縄戦では、303機の特攻機だった。

4月1日、アメリカ軍が上陸した。
その五日後の、6日、特攻総攻撃を企図した、菊水一号作戦が発動された。
陸海軍が共同して行った、一大特攻作戦であり、大量の特攻機が、広範囲にわたり行動することにより、敵の防御網を拡散させて、特攻機突入のチャンスを高めて、敵艦隊を完璧に撃滅することである。

フィリピンの最初の神風以来、彼らはこの種の日本人の自殺攻撃を皮肉り、茶化して考えてきた。しかしこの日ばかりは機関科員などの艦内部署についている者以外は、ほとんどの者が実際に煙を曳きつつも突っ込んでくる特攻機の凄惨な姿を見、かつ多くの者はそれが味方艦艇に激突して爆発する光景を目撃したのであった。彼らの理解をこえた敵のこのような神秘的な闘魂に、水兵たちは仰天し、圧倒されてしまったのである。このことはまさに自殺攻撃に大西中将らが期待した心理的効果そのものであった。アメリカ艦隊の将兵は、日本人のこのような祖国愛の熱中がどこまでエスカレートするのか、そしてまた自分たちがそれに対抗していつまで生きつづけられるかということを、自問しはじめるにいたったのである。
ベルナール

米兵たちは、味方の圧倒的な優勢を信じていた。
しかし、日本の特攻隊は、艦艇から打ち上げる、猛烈な弾幕をものともせず、真一文字に、突っ込んでくる。

撃墜される特攻機が、圧倒的に多いにせよ、現実に、何十隻もの艦船が、炎を噴き出し、黒煙を上げる。

突入してくる、特攻機には、人間が乗っている。
米兵たちは、信じられなかった。また、理解の範疇を超えていた。
このような連中を相手に、戦うことが出来るのか・・・
戦争に勝てるのか・・・

大戦勃発以来すでに五年、世界の人々は軍の発表や戦闘のニュースには食傷していたけれども、この事件のニュースだけには感銘を受けた。だが、これに対する意見はかなり分裂した。ある者はこの途方もない勇気の持主だったパイロットたちに尊敬と感嘆を惜しまなかった。また他のある者はこの戦闘手段の性質自体に戦慄をおぼえ、眉をひそめ、一種の集団的発狂だときめつけるものであった。
ベルナール

米海軍最高指揮官である、チェスター・ニミッツ元帥が言う。

四ヶ月にわたる沖縄作戦中、残存日本海軍と強力なアメリカ第五艦隊が矛を交えたことは一度もない。だが、我が海軍がこうむった損害は、戦争中のどの海戦よりも、はるかに大きかった。沈没30隻、損害300隻以上、9000人が死亡、行方不明または負傷した。この大損害は、主として日本の航空攻撃、とくに特攻攻撃によるものであった。

沖縄戦における連合国機動部隊指揮官、レイモンド・スプルーアンス大将は、ニミッツ元帥に、
日本機の自殺攻撃による攻撃は、作戦的な効果を累積しつつある。わが艦船のこれ以上の喪失と損傷は許されない。したがって、これを阻止するためにはあらゆる手段を尽くす必要がある。よって、太平洋艦隊は使用可能の全飛行機を動員して、至急に九州及び台湾の飛行場を攻撃されたい。
と、報告している。

沖縄戦は、地元住民も巻き込むという、悲惨な戦いだった。
だが、沖縄を守るという、日本軍の、この心意気をよくよく、見ておく必要がある。

もし、沖縄が大切な場所でなければ・・・
更に、日本人と同じ同胞がいるという、場所でなければ、あれだけの、被害を出さなかった。それは、台湾でも、同じである。



posted by 天山 at 06:29| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月04日

玉砕88

ルソン島、リンガエン湾で、特攻攻撃の猛威にさらされた、米海軍第七艦隊の、オルデンドロフ中将は、同艦隊司令長官、キンケイド大将に、緊急電報を打っている。

航空兵力の増強を考慮されたし。本件は緊急にして、かつ致命的である。わが護衛空母は対空支援には不適当であった。日本の自殺機はレーダーの使用困難のため、大した妨害を受けることなく攻撃可能のように見えた。・・・
さらに敵飛行機はリンガエン湾付近の小飛行場にいたるまで、常時爆撃して制圧するの要有りと認める。敵の攻撃は朝および夕刻においてさかんであり、とくに午後六時前後において最高潮に達したり。もしさらに損害が加わるならば、今後の作戦に影響するところ極めて大であり、かつ不幸な結果を招来する恐れなしとしない。なおわが損害がさらに甚大とならば、わが指揮下において、準備不十分のまま、日本水上艦艇の攻撃を招来する恐れもなしとしない。敵自殺機はやがて到着するわが輸送船団を攻撃するであろう。その結果は想うだに寒心の至りである。第五航空軍にこの緊張滋養今日を通報し、航空支援の必要を要請されたし。また第三艦隊に当地区にただちに航空兵力を増加し、対空防御を強化するよう請求されんことを乞う。緊急なる現状に鑑み、現作戦方針に対し再考をお願いする。

この時、リンガエン湾では、25時間内に、艦艇21隻が、特攻機に撃沈されていたのである。

前代未聞の、攻撃方法、特攻隊であった。

沖縄戦を取材した、米従軍記者、ハンソン・ポールドウィンは、特攻機に襲われた、米艦の悲痛な状況を報告する。

悪天候が時々休息を与えてくれる以外には、自殺機が連日襲ってくるために、過去40日間は、将兵は休む暇がなかった。眠るといっても、それは夢まぼろしの状態で身体を横にするに過ぎない。照準器の上に頭を垂れて、がっくりと寄りかかっている将兵が甲板のいたるところに見られる。そして艦長たちの目は真っ赤で、頬はこけ、命令はとげとげしくなっている。

敵の暗号を解読して、敵の攻撃があることが前夜に拡声器で予報されるのを聞くと、兵員たちの中にはかんしゃくを起こして、「もう止めてくれ」と怒鳴るものすらある。全員がまさしくヒステリーになりつつある。

特攻の度重なる猛撃のために、精神に異常をきたした米兵も多い。

米ジャーナリスト、A・パーカーは、語る。

西欧人の目には、天皇と国家にために、よろこんで自己の生命を捧げるように、国民を慎重な考慮の末に利用した軍部の指揮は最も卑しむべき野蛮な行為であったと映っている。しかし、連合国軍は、神風特別攻撃隊たちを尊敬している。それはおそらく彼らが特別攻撃で手痛い打撃を受けたためであろう。

作戦に対しては、批判し、非難しても、特攻隊員には、批判も非難もない。
また、誰も、彼らを、裁くことは出来ない。

国の防衛のために、命を賭けるからである。
愛国心の発露として、最大の行為である。

私も、特攻作戦には、是非もなしとは、言わない。
だが、特攻隊員を誇りに思う。
美化するのではない。

命を捨てる以上の、大いなる愛の行為はないのである。

私は、特攻隊は、ある程度の強制があったのかと、思い、調べだか・・・
全く、予想に反していた。

第一航空艦隊による、最初の神風特攻が成功した。
その後、大西中将は、第二航空艦隊司令長官、福留中将に、二航艦も至急に、特攻隊を編成すべきだと、進言した。

しかし、福留は、十死零生の特攻に疑問を抱いていた。
当然である。
死に行くのである。
確実に、死ぬ行為を、容認できる人は、いないだろう。

だが、二航艦所属の、若きパイロットたちは、特攻を熱望したのである。

福留に、部下の隊員に、自殺攻撃を命令する、決心をつけさせたのは、彼の部下のパイロットたちなのである。

志願した、特攻隊員である。

これには、長い説明が必要だ。
更に・・・

志願した、若い兵士たちは、一時の熱狂や、興奮に駆られたのではない。
事実は、その逆で、冷静に考え抜き、効果的にじっくりと、見極めをつけた結果の行動だった。
その、部下たちの、冷静で、恐ろしい覚悟が、福留を動かした。

私は、文を書き続けて、40年以上を経た。
少しは、文を読むという行為も、出来るだろう。
そして、その良し悪しなども・・・

特攻隊員の、その遺書、書き物を読んで、自然に涙が出るのである。

こんな、私にでも、その文が、理解出来るのだ。
文の良し悪しではない。
書いている内容である。

今、死を目の前にして、少年といってもいい、青年といってもいい、年齢の若者たちの文が、心に染みるのである。

それも、紹介するが・・・

先に紹介した、フランス人ジャーナリストの、ベルナール・ミロの記した「神風」から、引用して、冷静に、彼らを見つめたいと、思う。

日本の自殺攻撃の本質的な特徴は、単に多数の敵を自分同様の死にひきずりこもうとして、生きた人間が一種の人間爆弾と化して敵にとびかかるという、その行為にあるのではない。その真の特徴は、この行動を成就するために、決行に先んじて数日前、ときとしては数週間前、数ヶ月も前からあらかじめその決心がなされていたという点にある。
ベルナール

誰でも、死ぬ日を知れば、その精神に変化が生ずるだろう。
並大抵の精神ではない。
覚悟という、強靭な精神力・・・

それは、年齢に関わりなくである。
ガンと告知されただけで、狼狽する人も入るだろう。

だが、私は、彼らが若いということに、注目した。
それは、純粋で有り得るということである。

この、純粋という精神が、どのように冷静に、特攻を願い出るのか、である。





posted by 天山 at 07:38| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月07日

玉砕89

志願する特攻隊員について・・・

この特殊な点こそが、我々西欧人にとっては最も受け容れがたい点である。
ベルナール・ミロ

それは我々の生活信条、道徳、思想といったものとまさに正反対で、真っ向から対立してしまうことだからである。我々の世界には、いまだかつてこれと同様のことも似たようなことも事実としてあったためしをきかない。あらかじめ熟慮されていた計画的な死―――繰り返していうが、これは決して行為ではないーーー、そうしたものの美学が我々を感動させることはあっても、我々の精神にとってはそのようなことは思いもつかぬことであり、絶対に有り得ないことである。
ベルナール

何処の国にも、殉国の英雄という者はいる。
そして、その数は、数名、数十人程度である。
しかし、特攻隊は、十ヶ月の間に、4000名を超える殉国の勇士が、出現している。

その年齢は、十代後半から、二十代前半の、若者たちである。

日本の兵士には自己犠牲がポテンシャルとなって存在している。だから指揮官はそれを正当化しも意味づけさえすれば十分だったのである。このことはすべての日本の兵士たちが死にだっているとか、退却を否定し、生還を機隊しないなどということを意味するのではないことを、よくよく考えられたい。
彼らが絶体絶命の守勢にたたされたり、悲壮な状況下におかれたりしたときは、彼らの決意はきわめて自然に自発的な戦死にみちびかれたが、それも自己犠牲がこのように彼らにとっては象徴的な意味をもっていたからのことである。
ベルナール

特攻隊の編成は、完全に志願制によって、行われた。

このような精神構造があったればこそ、特攻志願は自発的に広がったのであり、志願者がかくも多数となったのである。もしもこの思考が高所から発してきたのだったら、これほどの興奮や集団的昂揚は、おそらく生じなかったことであろう。
ベルナール

フランス人であるから、実に、冷静に特攻隊を分析する。

多数が特攻隊入りを許可されたために、彼らは飛行隊にあふれていたが、すでに隊員となった者は次ぎには毎日のように上司に対して、先頭を切って出撃させてもらうことを主張したり、ねばりづよく交渉していたのである。
この態度を我々は決して誤解してはならない。これはなにも命を縮めたがっている人間の、過剰な神経の緊張の結果としての行動ではなかった。彼らは自分たちが実際行動に移り得ないままに戦闘が終わってしまうことを恐れていたのである。とにかく彼らの行動には我々西欧人はただ驚かされるばかりである。
ベルナール

西洋の合理主義は、戦争が終われば、その戦いに参加しようが、すまいが、問題ではなというするのである。
ところが、日本の軍人は、まず、戦場に立つことを、望む。
そして、勝ち負けではなく、戦場の中にこそ、軍人としての、存在理由がある。

だから、こそ、特攻隊員になったことを、殊更、言うこともない。また、それを、彼らは、嫌った。

「我々は軍人になった時に身命は天皇に絶対的に捧げているはずだ。そしてこのような苛烈な戦闘局面におちいった今となっては、飛行機に乗って出撃してゆく自分の身が、生きて再びここに帰って来れようなどと誰が考えるものか。神風であろうとなかろうと出撃は確実な死だ。だから我々を特別扱いするような名前をつけてもらうのは適当ではない・・・」

この言葉の中に、この時の戦況の展開を前にしての彼らの冷静で勇気ある動機づけと選択の理由が認められないであろうか。これらの「ポテンシャルの英雄たち」の行動が、あまりにも偉大な素朴さに帰せられる点で、我々の思考は混乱し、困惑してしまいもするけれども、とにかくこの通り彼らは完全に意識的で、考えは聡明で、正気だったのである。
ベルナール

菊水作戦の最高指揮官であった、宇垣司令長官は、歴戦の老練なパイロットは、決して特攻隊員とはしなかった。
老練なパイロットの任務は、高性能の戦闘機に搭乗して、未熟な特攻隊員を目標まで誘導し、敵が襲撃してくれば、その敵を迎撃するというものである。
特攻機を目標地点まで送り届けると、再び、基地に戻ることを、義務づけられていた。

この熟練パイロットの、援護があるからこそ、宇垣は、技術未熟な特攻隊員を、旧式飛行機に乗せて、出撃させることが出来たのである。

燃料の窮迫から、新米パイロットたちは極度に訓練時間を切り詰められて巣立っていた。それらのうちのある者は、基地にやってくるなり、いかなる応用的な訓練を一度もうけることなく、そのまま特攻に駆り出されて行った者さえある。
しかしながらこうしたパイロットたちでも、愛国心と闘魂の激しさにかけて、決して劣ってはいなかった。このような若人たちが、祖国の重大危機をよくわきまえて、自らの信念をいささかもひるませることなく、敢えて死地におもむいていったことはまことに感嘆するとともに、またきわめていたましいことである。
ベルナール

通常ならば、未熟なパイロットは、軍が、そもそも前線に出さないのである。
そして、本人も、出撃を拒むだろう。

しかし、特攻隊員の場合は、拒否するどころか。多少の怪我、病気でも、進んで、熱烈に、出撃を願ったのである。

西欧人であれば、その行為は、完全に、狂気の沙汰と、見なされるはずである。

特攻隊員には、全く、その狂気は見られない。
完全に意識的であり、考えは、澄明であり、正気だったのである。

だから、彼らを美化することは、彼らの思いとは、逆になる。
だが、彼らを見送った多くの人々・・・
整備士たちや、その他の任務に就いていた者たちには、彼らの姿が、神に近い存在として、映った。

それは、死ぬことが、決定しているからだ。
戦争の現場は、死に満ち溢れている。
しかし、誰もが、死にたいとは、思わない。
死なずに勝って、勝者になるために、励むのである。

だが、特攻隊は、死に、行くのである。
それが、決定している。
その決定を受け入れている姿は・・・
神に近いだろう。




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2015年12月23日

玉砕90

とにかく特攻隊への志願に強制というものが、どのような意味にせよ形式にせよ、いっさいなされなかったという事実は、すでに繰り返し述べた。また志願者の決意が決して一時的な興奮によるものではなく、熟慮した上での結論としてなされたことも、まちがいなく事実である。

もとより特攻志願者とても、正常な意識と間隔をもった人間であるから、内心の苦悩がなかったとはいえない。人間の本能である生への執着と、それを克服しようとする意欲とが複雑にからみ合い、彼らの心中にはしばらくのあいだ深刻な葛藤がにえくりかえたであろうことはまちがいない。しかし数日たって平静がもどってくると、彼らの態度も澄み切ったすがすがしいものとなり、諦観というものがなされたことがありありと認められたということである。
ベルナール

二十歳前後の若者たち・・・
それは、純粋性を、そのまま行為出来る、年代である。

今の若者との、比較は、出来ない。
当時の、時代性、時代精神というものを、鑑みれば、理解出来ることだ。

教育は、洗脳ではないが・・・
少なくとも、洗脳に近いものがある。
強制性の無い、洗脳である。

敗戦後、戦前と比較出来ないほどに、自由を許された。
そして、言論も、である。

勿論、敗戦後の教育は、極端に、自虐的史観が登場したが・・・

当時、天皇とは、大君であり、矛盾なく、天皇のために、いのちを捧げる教育が行われていた。
若者の、純粋さというものは、巌も、砕くものがある。
当然、特攻攻撃というものが、理解される。

時代性と、時代精神を無視することは、出来ないのである。

何度も言うが、特攻作戦を、批判、非難することは出来ても、特攻隊員を、批判、非難する人はいない。
出来るはずもないのである。

勿論、世の中には、何もせずして、人の批判ばかり出来る人たちも、大勢存在する。
また、その方が、多いだろう。

フランス人が、特攻隊を徹底的に、調べ尽くしたということも、驚きだが・・・
ベルナール・ミロが、著した特攻隊の出撃風景がある。

その、第一号の、敷島隊の様子である。

整備員が暖機運転を終わった。いよいよ出撃である。そしてこれが日本の特攻隊の最初の出撃となったのであった。定刻に敷島隊は離陸を開始した。基地の全員が眼に涙をたたえてこの出撃を見送った。この平然として確実に定められた死に向って出発してゆく人々を、どのように感嘆しても感嘆しすぎることはなかったであろう。
ベルナール

特攻隊の日常を調べ尽くした、ベルナール・ミロは、
特攻を志願して許された者たちは、この日まで実に平静な日々を過ごしてきていた。彼らの日常の生活態度は、どうみても死があと数日迫っている人たちとは思われなかった。
と、言う。

最後の使命を帯びて飛び立つ前に、特攻パイロットは身近を整理し、家族に遺書をしたためて頭髪や爪を封入し、所持品を残留する人々に分かち与えた。そしていよいよの出撃に際しては、操縦席から笑顔でもってさらばの合図に手を振り、そして離陸していった。これは出撃を見送る人にこらえ切れぬ感動をさそうものであったが、読者は考えてもみられたい。いったいこのような態度が、狂気のとりこになった者とか、過剰な興奮にのぼせきった人間などにとれるものであろうか。
ベルナール

それが、どのような境地なのか・・・
冷静で、平静なもの。
死を前にして・・・

私は、宗教が言うところの、悟りを知らない。
知る必要もないと、想っている。
だが、もし、悟りの境地とは、彼ら、特攻の隊員の心境を言うとしたら、理解出来るのである。

人間は、死を目の前にして、何を言い、何を語れるのか。
超越した、覚悟があれば・・・
ただ、笑って行くしかない。

また、大義のために・・・
国のため、郷土のため、家族のため、そして、天皇のために。
この場合の、天皇とは、国体ということである。
国体とは、国土と、国民を言う。天皇は、その象徴であった。

特攻隊員は出撃の離陸のその瞬間まで、粗末な給養で、苦行僧同然の生活を送っていたのである。だが誰も不満を訴える者はいなかった。いや真実、誰も不満をおぼえていなかったようである。残り少ないこの世での生活とあっては、それをできるだけ快適なものとするために、彼らはあらゆる贅沢と自由を要求して然るべきだっただろう。だが誰もそうしなかった。彼らは物質から超脱していた。
ベルナール

何故、そのようなことが、出来たのか・・・
彼らは、少年、青年という、若さゆえであると、私は考えている。
その、若さの純粋さが、彼らを、神の如くにした。

神風精神のみなぎりは、他の方面にも深い影響を及ぼしていた。特攻パイロットと行動を共にできないもの、たとえば主計科や整備兵、それに滑走路補修の施設隊員たちも、みな共通の感動をもっていた。彼らは特攻パイロットたちが出撃までのこの世の生を享受できるようにと、自分たちなりに考え得るすべてのことをした。彼らは自らに休息を課さない働きだけが、特攻パイロットに捧げ得る唯一のプレゼントなのであった。また、彼らの希望をおくパイロットに対するねぎらいと感謝の表現なのである。
ベルナール

特攻隊員でない者にとって、特攻隊員たちは生きながらの神であり、敬うべく、奉仕すべき存在であった。彼らは隊員に感謝し、かつ肉弾攻撃を実行できない自分たちを卑下していた。その気持ちを彼らはサービスにこめたのである。これは整備兵だろうと主計兵だろうとみな同じであった。整備兵たちは、離陸前の最後の瞬間まで機体にとりついた。
ベルナール
posted by 天山 at 05:53| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月24日

玉砕91

圧倒的な物量を誇る、米機動部隊に対して、特攻隊は、戦闘機、回天、桜花、震洋といった、小兵器を持って、特攻を敢行した。

実際にこれらの武器で、戦果をあげ得る前にあえなく散華した多くの純粋な若者たちには、彼らの驚嘆すべき祖国愛の高揚と、その比類ない勇気のゆえに、いっそういたまくし、まことに胸えぐられる悲痛さを禁じ得ないものがある。
しかし、これらの武器が我々の眼にはいかに悪魔的と映り、それによってあたら命を捨てた若者たちの冷たい勇気と決意のほどがいかに我々を畏怖せしめようとも、それでもなおかつこれらの日本の若者たちは、言葉の最も高貴な意味において英雄であり、未来永劫、英雄として我々の心中に存在しつづけることはまちがいない。
ベルナール・ミロー

それは、彼らが、無名の戦士だったからである。
その行為は、無私、無償の行為である。
地位と名誉とは、無縁なもの。

筆を進めつつも、著者は日本人の特攻隊員に敬意を禁じ得なかった。

神風は著者にとってひとつの叙事詩となった。なぜなら数千人の日本の若者が、愛機をあやつって滑走路に出てきて、そこから敵撃滅の意気に燃えて絶対の死が待つ所へ出発していったのであるが、その各人が実にさまざまに様子の異なる感情を抱いて出て行っているので、そのさまは大きな叙事詩を形成しているように思われたからである。
ベルナール

日本と日本人がアメリカのプラグマティズムと正面衝突をし、そして戦争末期の数ヶ月間にアメリカの圧倒的な物量と技術的優位の前に、決定的な優勢を敵に許してしまったとき、日本人は対抗手段を過去から引き出してきた。すなわち伝統的な国家への殉死、肉弾攻撃法である。
このことをしも、われわれ西欧人はわらったり、あわれんだりしていいものであろうか。むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となったと著者は考える。
ベルナール

彼らは人間というものがそのようであり得ることの可能なことを、はっきりと我々に示してくれているのである。
ベルナール

つまり、人間は、信じられるという可能性である。
これについては、多くを言葉にしない。
様々な角度から見ても、そうである。

彼らの採った手段があまりにも過剰で恐ろしいものだったにしても、これら日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの使命を、取り出して見せ付けてくれたのである。
ベルナール

美化するのでも、美談にする、あるいは、英雄譚と見れば、意味がない。

精神の純粋性といった人間性の尊厳を世界の精神史に鮮烈に刻みつけた一大モニュメントとして把握するとき、特攻は世界史的意味においても、充分すぎるほどの現代的意義を持つものなのである。
特攻の本

私は、特攻作戦を讃美しない。
特攻隊員を、讃美する。

邪な心では、それ、特攻隊を理解出来ないばかりか、屁理屈の下手な批判や、非難を聞くだけである。

その、時代性と、時代精神が生んだもの、それが、特攻隊である。

日本の歴史に存在する、大君、天皇という存在の意義と意味も、私は、ここから考えることが出来る。
この、純粋性というものは、伝統があって、成り立つものであることだ。

伝統のないところに、どうして、純粋性などいう、精神の輝きがあるだろうか。

そして、彼らの多くが、万葉集を持参していたということでも、分るのである。
それも、万葉集は、昭和初期に、ようやく現在の形で、世に現されたものである。

その、万葉集の中にある、防人たちの歌の数々・・・
彼らは、その歌の一つ一つに、身を持って読んだことだろう。
身読という。

彼らの行為は、英雄である。
無名の戦士である。

雲湧きて 流るるはての 青空の
その青の上 わが死に所     古川正崇
くもわきて ながるるはての あおぞらの そのあおのうえ わがしにどころ

昭和25年5月29日、神風特別攻撃隊振天隊の一員として、沖縄海域で戦死した、23歳の若者が、出征の日に歌った。

単純素朴な歌である。
だが、そこに、死に場所を見た若者の心・・・

昭和18年10月1日、第十三海軍飛行隊予備学生として、三重、土浦の海軍航空隊に入隊した、若者は、4726名である。
それから、敗戦までの、一年十ヶ月のうちに、1605名が、戦死した。
更に、そのうち、特攻隊員として、散華した若者は、447名である。

それらの、若者たちの、遺書、遺稿をまとめた、「雲流るる果てに」から、紹介する。

それらの若者たちは、入隊時には、操縦の知識、技術も皆無である。
入隊早々から、猛訓練に明け暮れた。

一瞬の飛行作業もすなわち戦闘なり。
救世の務めなり。最後の忠節なり。
今日も一日最善を尽さん。

23歳で、フィリピン方面で、特攻死した、市川猛の言葉である。

最後の忠節・・・
現代の若者が、忠節の意味を知るだろうか。
勿論、救世という言葉も、である。

死を覚悟しなければ、容易に出て来ない言葉である。

これから、しばらく、特攻隊の若者たちの、遺書、遺稿を眺めてみる。

posted by 天山 at 06:47| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月25日

玉砕92

お母さん、ご安心下さい。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。
―――それだけで僕は幸福なのです。
日本万歳万歳、こう叫びつつ死んでいった幾多の先輩達のことを考えます。
お母さん、お母さん、お母さん!
こう叫びたい気持ちで一杯です。何かいって下さい! 一言で充分です。いかに冷静になって考えても、いつもいつも浮かんでくるのはご両親様の顔です。父ちゃん! 母ちゃん!
僕は何度もよびます。

飛行機乗りは必ず死するものであります。

「お母さん、決して泣かないで下さい」
修が日本の飛行軍人であったことについて大きな誇りをもって下さい。勇ましい爆音をたてて先輩が飛んで行きます。ではまた。

23歳、台湾、高雄にて殉職した、富田修。

ではまた・・・
悲しい。

死を前にして、ではまた。
もう、会うことはないのである。

教育とは、緩やかな、洗脳である。
当時の教育は、軍国の教育である。
当然、国のために、死ぬという、教育が成される。
国の歴史には、どの国も、そういう時期がある。

多くの、特攻隊は、独身だった、しかし、妻帯者も少なからず存在した。

出発してよりすでに半月、便りしたいと思いながらも、心に余裕もなくご無沙汰いたしました。ちょうど、明日帰る者がいるので、好便に託します。お前に泣かれるのが辛かったので、どうせ分ることとは知りながら黙ってまいりました。しかし心では感謝の言葉を、幾度繰り返してたか分らない俺の心もくんで許してくれ。この頃少し心に余裕ができると、お前のこと、生まれてくる子供のことが気になってならない。どうか体にだけはくれぐれも気をつけてくれ。

お前の写真と、悦ちゃんの写真を出しては眺め、最初にして最後の死の出撃を待っていた。

この前やってきた荻原にも、お前のことを聞いた。しかし驚いてはいけない。荻原も来た翌る日の出撃に散ってしまった。
人の命の儚さは、今さらながら唖然とするものがあるが、この頃はだいぶ神経も太くなってきた。お前も心を太く持って、待っていてくれ、必ず帰る。お前が子どもを安産するまではそう簡単には死なないつもりだ。

その翌日、特攻散華する。

25歳、鹿児島県、出水沖にて特攻死した、古河敬生が、出水航空基地から、若妻に送った手紙である。

必ず帰る・・・
妻のために、嘘を書く。

これは、手紙というより、遺書である。
あまりにも、切ない遺書だ。

いかなる人間も、死を前にした時に、真面目になるだろう。
そうではない人もいるかもしれないが・・・
そして、死生観というものが、生まれる。

特攻隊員は、短時間のうちに、その死生観を身につけたと、思う。

追悼慰霊をしている、私は、いつも、死というものを、突き付けられた。
死ぬということを、見つめると、自ずと、生きるという、姿勢を問うことになる。

死ぬまで、生きる。だが、その時が来たら、見事に死ぬ。
死生観である。
現在は、大義のために、死ぬということはない。
これほど、死ぬという意識が、曖昧になった時代もない。

24歳、木更津で殉職した、石野正彦の遺文。

心卑しからば外自ずから気品を損し、様相下品になりゆくものなり。多忙にして肉体的運動激しくとも、常に教養人たるの自覚を持ちて心に余裕を存すべし。教養人なればこそ馬鹿になりうるなれ。馬鹿になれとは純真素直なれとの謂れなり。不言実行は我が海軍の伝統精神なり。黙々として自らの本分を尽くし、海軍士官たるの気品を存するが吾人のあるべき方法なり。吾今日痛感せる所感をあげ、もって常住坐臥修養に資せん。

しかして誠を貫くことは不動の信条なり、寡黙にしてしかも純真明快、凛然たる気風を内に秘め、富嶽の秀麗を心に描きて忘るべからず。

一緒に死ぬのは斎藤幸雄一等飛行兵曹とて二十一歳の少年? かわいい男です。なぜか私をしたってだいぶ前から一緒に飛んでいますが、死ぬのも一緒です。技術も非常に優秀な人です。伯父さんが仙台におるそうです。別便に住所があるから慰問してあげてください。
最後の夜に映画があります。今から。

一緒に死ぬ
慰問してあげてください・・・

死を確定して書いている。
その根性は、恐るべきものである。

ここまで、追い詰める。いや、追い詰めたものは・・・何か。
我が身で、問い詰め、追い詰めたのである。
つまり、積極的、能動的、死ぬ覚悟である。

武士道とは、死ぬことと、見つけたり。という、言葉があるが、正に、武士道である。

若者だから、ここまで、純粋無垢に、辿り着いたのか・・・
いや、誰もが、覚悟を持てば、出来ることである。

臆病な者でも、中途半端な者でも・・・
ふざけている者でも、誰もが、持つことが出来る、精神、根性である。

戦争という、場が、その覚悟を求めた。

戦争には、絶対反対するが・・・
人の覚悟には、賛成する。
今の時節は、何を持って、覚悟とするのか・・・
posted by 天山 at 07:23| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月28日

玉砕93

出撃の朝。
散歩に行くような、小学校の頃遠足に行くような気持ちなり。
○ 三○○朝めし。すしを食った。あと三時間か四時間で死ぬとは思えぬ。皆元気なり。

遺書の最後である。
22歳、南西諸島方面で特攻死した、牧野けん

若者だからか・・・
これは、死ぬことを無意識に追い出している。

午後、幾組かの飛行機○○基地へ向け進出す。館山から一緒だった高木少尉、渡辺功男一飛曹も出た。遠からず俺たちも出ることだろう。人生五十年、その半分を無事に生き抜いたことも思えば不思議なくらいだ。子供の頃が思い出される。三月十七日三浦君とであったが、これが最後であろう。三浦君も遠からず行くであろう。
突っ込む時は、どんなものであろうか?
さっぱりとしたなんともいえぬ気持ちだろうと思うのだが、何となく気に掛かる。

24歳で、沖縄海域にて、特攻死した、飯沼孟である。

ここでも、恐怖心は、無い。
一瞬の出来事で、死ぬのである。
純粋さゆえの、諦観なのか・・・

矢張り、24歳で、沖縄海戦で、特攻死した、千原達郎は、

遺言のごときは敢えて書かず、ただ立派にお役に立ちますよう夜昼となくお守り下さった母上に心からありがとうを申し上げるのみなり。

と、覚悟の決定をしている、様である。

この時代に、生まれ合わせた若者として・・・
不可抗力を受け入れている。

生死一如の心境を、多くの著作から、読み続けていた私は、この特攻死の覚悟には、及ばない。
ただし、今、私は、大義のために、死ぬことを善しとする。
大義のために、死ぬ機会があれば、私は、死ぬ。

私は誰にも知られずそっと死にたい。無名の幾万の勇士が大陸に大洋に散っていったことか。私は一兵士の死をこのうえもなく尊く思う。

22歳で、沖縄海域で、特攻死した、溝口幸次郎である。

いよいよ出撃もあます二三日だろう。明日より菊水四号作戦あり。一号より三号まで多大なる戦果とともに、数多の戦友は散華した。
ひととせを かへり見すれば なき友の
数へ難くも なりにけるかな
四号作戦終われば、いよいよ俺の中隊突入の番だ。最後まで自重せん。沖縄は断じて敵にゆずらず。生命もいらず、名誉も地位もいらず、ただ必中あるのみ。深山のさくらのごとく、人知れず咲き、散るべき時に潔く散る。何の雑念も含まず。
夜十時、進出命令下る。

23歳、南西諸島方面にて、特攻死した、西田高光である。

この心境を、一生に渡り、持続して持ち続けて生きることは、至難の業である。しかし、特攻隊は、若き一瞬にして、生死一如の境地を得たと思う。

海軍航空隊に生活して、初めて私も悠久の大義に生きる道を悟りました。戦地に来て未だ十日ですが、私の戦友部下達の相当の数が戦死しました。これらの友と部下達のことを想うと、生きて再び内地の土を踏む気持ちにはなれません。
私は必ず、立派に戦って、悔いなき死に場所を得るつもりでおります。

皇国三千年の歴史を考うる時、小さな個人、或いは一家のことなど問題ではありません。我々若人の力で神洲の栄光を護り抜いた時、皇恩の広大は小さな一家の幸福をも決して見逃しにはしないと確信します。

26歳、フィリピン方面で特攻死した、吹野匡は、母に書いた遺書である。

これを読むと、日本には、武士道と、特攻精神があると、納得する。

小さな個人、或いは一家のことなど問題ではありません
上記は、すでに国家と、そして、皇室、天皇を、信じている。
皇恩とは・・・
天皇を戴く、日本という、国を信じている。
この意識は、素晴らしいものだ。
愛国心・・・そんな言葉では、語れないのである。

国家に忠誠を尽くすという、心意気。
国家を信じている有様は、今現在の、日本の若者には、考えられないほどの、威力である。

我々に明日はない。昨日もない。ただあるものは今日、否、現在のみ!

私は郷土を護るためには死ぬことができるであろう。私にとって郷土は愛すべき土地、愛すべき人であるからである。私は故郷を後にして故郷をいまや大きく眺めることができる。私は日本を近い将来に大きく眺める立場となるであろう。私は日本を離れるのであるから。そのときこそ、私は日本を本当の意味の祖国として意識し、その清らかさ、高さ、尊さ、美しさを護るために死ぬことができるのであろう。

25歳、本州東方海上で特攻死した、林憲正の遺書である。

散る桜 残る桜も 散る桜
未だこういう大悟の境地をしかと把握してはいませんけれど、これはほんとうに真理だと思います。およそ生をうけたものはすべて死すべき運命をもって生まれてきております。必ず死ななければならないんです。だから死すべき好機を発見して死ぬことができたならば大いに意義ある人生を過ごしえたことになると思います。御国のために死ぬということは天地と共に窮りなき皇国日本と、とこしえに生きることであると思います。

22歳、南西諸島海域で戦死した、真鍋信次郎である。

現代の、少しばかり、賢い若者、そして、斜に構えた若者には、理解しえないことだろう。国のために、死ぬということ。

この時代の、不可抗力を受け入れた姿。
そこに、意味と意義を見出し、そして、大義を得たのである。

死ぬ意味を見出す行為は、ただでさえ、難しい。
しかし、その時代にあって、その意義を見出しえた若者である。

何度も書くが・・・
特攻攻撃を批判し非難しようと、特攻隊その人たちを、批判、非難することは、出来ないのである。

彼らの、死に対して、ただ、黙祷以外のことを、思わない。

posted by 天山 at 07:55| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月29日

玉砕94

日本の精神には、武士道と、特攻精神がある。
これは、日本人として、誇れることである。

そして、その精神の底流に流れているものは、もののあはれ、という、心象風景だと、私は言う。

特攻隊員の、遺書、遺文を見ている。

人には、それぞれ、百人百様の、幸福感というものがある。
それを、誰も、強制することは、出来ない。

一千万円あっても、一億円があっても、幸福ではない人もいるだろう。
逆に、それだけで、幸福という人もいるだろう。

兎に角、拝金主義がはびこっている、世の中になった。
迷惑メールには、お金儲けの話が、続々と、流れてくる。
お金さえあれば、幸福だと、思う人が多いことも事実だろう。

そして、その空虚さに、気づく人もいるだろう。
さらに、死を急ぐ人もいる。

意味もなく、死ぬ。意義もなく死ぬ。
これは、不幸なことではないか・・・

だが、時代性とはいえ、特攻隊として、死ぬことを余儀なくされた。いや、志願して、特攻隊に入った。
多くの特攻隊員のうち、心を迷わせた隊員もいるだろう。

死ぬことは、いい、だが・・・

24歳、金華山沖で、殉職した、宅嶋徳光は、「くちなしの花」という手記に書いた。

君に会える日はもう当分ないだろう。或いは永久にないかもしれない。
手向けの花にくちなしを約束しておいてよかったと思っている。
あの花は母も好きだった。

はっきりいう、俺はお前を愛している。しかし、俺の心の中には今ではお前よりもたいせつなものを蔵するようになった。
それは、お前のように優しい乙女の住む国のことである。俺は、昨日、静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから、俺達に頭を下げてくれた子供達のいじらしさに強く胸を打たれたのである。もしそれがお前に対する愛よりも遥かに強いものというなら、お前は怒るだろうか。否、俺の心を理解してくれるのだろう。ほんとうにあのような可愛い子供達のためなら、生命も決して惜しくはない。自我の強い俺のような男には、信仰というものがない。だから、このような感動を行為の源流として持ち続けていかねば生きていけないことも、お前は解ってくれるだろう。俺の心にあるこの宝を持って俺は死にたい。俺は確信する。俺達にとって、死は疑いもなく確実な身近の事実である。

サイパンの玉砕を聞いた時、私の胸は冷酷な事実の前に激しく痛んだ。どのようなことになっても私はサイパンの悲劇からお前達を救わねばならない。愛すべき小さなお前達の将来のために、私たちは戦わねばならない。
大儀のためにも、そして国家存続のためにも、私たちは戦わねばならない。

また、愛する、八重子を思い・・・

俺は、遥かに俺のイマアジュの中に住んでくれる淡い碧白のプリンセスを着たお前を思い出す。
それだけで幸福なのだ。お前は本当に優しかった。俺の母以外に、お前ほど俺を愛してくれた者はいない。遠い空の下で美しく生きていてくれるお前のことを思うと、それだけで俺は胸が一杯になる。平和に生活してくれることを望む。

俺の言葉に泣いた奴が一人
俺を恨んでいる奴が一人
ほんとうに俺を忘れないでいてくれる奴が一人
俺が死んだら白いくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
みんな併せてたった一人・・・

死ぬことが、確実であり、愛する人がいる。
何も言葉がないのである。
恨むべくは、戦争である。

平和は、万金の値だ。
そして、その平和に暮らす、私たちの現状である。

この日本の国のために、命を捧げてくれた。捨ててくれた特攻隊。
ありがたい・・・

それでは、その恩に報いるには・・・
平和を守り続けることだ。
そして、それは、防衛の意識を生む。

彼らが、命を張って守ったこの国を、蹂躙させてはならない。
彼らが、信じた、愛する国、皇国日本を、守り抜くことである。

日本は、2700年の伝統を戴く、天皇が国体の国である。
世界に唯一の国。

幸福とは・・・
人それぞれの、幸福がある。
しかし、国民国家が崩壊、全滅すれば、それぞれの、個人的な幸福など、有り得ないのである。

4000名以上の特攻隊の死を、無駄にしてはならない。
そのための、平和である。

そして、彼らに対する、追悼慰霊こそが、最大の義務であり、それは、平和を守ることと、同じに重いことなのである。

更に、特攻隊のみならず、英霊に対し奉る態度が、国の行く末を決める。

それぞれが、それぞれの形で、追悼慰霊をすること。
そして、国が、英霊に対し奉り、徹底的に慰霊することなのである。

黙祷は、誰もが出来る行為である。
場所も選ばず。

英霊を祀る場所では、黙祷をする。
国民の義務として・・・
その当たり前のことが出来ないとすれば、日本人ではない。
posted by 天山 at 06:54| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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