2015年07月07日

打倒・韓国

韓国という、ほとほと、嫌な国。
自滅する国だが、その自滅を早めるように、打倒・韓国を書くことにする。

韓国の反日活動は、何一つとっても、一つも本当のこと、事実が無いのである。
すべては、妄想の域である。

韓国には、真っ当な歴史と言うものが、無いのである。
子供の頃から、反日を教えるという、愚劣を繰り返している国。
呆れるというか・・・
救われない国である。

何より、日本に植民地にされた、という馬鹿な発言は、歴史を知らない者の言うことだ。
日本は、植民地にしたのではない。
併合したのである。

そしてそれは、正しい手続きによって、為されたものである。
その証拠は、日本は、韓国から何も奪わなかった。
奪わないどころか、与えて、与えて、与え過ぎたのである。

突然だが、韓国人が書いた、醜い韓国人という本から、日本帝国支配の状況を見る事にする。
作者は、朴・テヒョク氏である。

私は1935年、昭和10年に、小学二年生だった。私は、京畿道平沢群のあるムラで生まれて育った。韓国は日本統治下にあり、その後、尋常小学校と呼ばれていた小学校が、国民学校に改められた。

名が改められたのは、戦争に向っていた時期である。
大東亜戦争、第二次世界大戦が始まるのである。

朴氏の子供時代の話が続く。

しかし、李朝時代からの暗い、おぞましい因習が村を支配していた。

ここで、躓く。
李朝時代のおぞましい因習である。

村は、李朝時代からの韓国社会の特権階級であってきた両班(ヤンバン)たちが住んでいる区域と、中人(チゥンイン)が住む区域と、常人(サンイン)かたまって住んでいる区域に分かれていた。

そこは、線を引くように、分れていたわけではない。

常人は、ほとんどが小作人で、両班の多くが地主だった。両班の家は、二百軒ほどあっただろう。

両班、中人、常人という階級の区分けは、李朝時代のものだった。さらに、その下には、賤民と呼ばれた奴婢(ノビ)がいた。

日本統治時代に入ってから、このような階級の区別は廃止されだが、現実の生活では、まだこのような差別が行われていた。

常人は、常奴(サムノン)という蔑称で呼ばれていた。奴は日本語の「野郎」といった意味である。

引用と、私の解説が交じるが・・・
何を言いたいのかが、問題であるから、続ける。

ほとんどの両班は、常人に対して横暴で絶対的な支配者だった。

結論を言えば、この両班という、存在が韓国社会の、大きなガンだったということだ。
それが、無意識的に、現在の韓国社会を支配する。

李朝時代には、男尊女卑が徹底していたので、常人の女の子は、名前をつけられた者もあったが、父母が無知だったので、生まれ月を名前とした者も多かった。

もし両班の子どもが、老いた常人に対して過って敬語を使ったとしたら、親に叱られた。常人の老人が七十歳であろうが、八十歳であろうが、両班の子どもであれば、目下の対する言葉を用いねばならなかった。

常人は、両班をつねに恐れて生きていた。もう日本統治時代に入って二十数年もたってい
たから、都市部では、古い階級による頑迷な差別が弱まっていたが、農村では、まだ差別が残っていた。常人はみな、両班に対して戦々兢々としていた。常人は両班と出会ったら、顔をあげて歩くことができなかった。そこで、いつも腰を屈めて、頭を下げて地面を見ながらうつむいて歩いた。

それでも、日本統治時代になってから、村の人々の生活は、大きく改善されていた。私は、父や母から日本人がやってくる以前の李朝末期の村の暗い生活について聞かされたものだった。父や母だけではなく、親戚の者たちがしばしばこんな話しをしてくれた。

常人が両班の家の前の道で、うっかり唾や痰を吐いてしまったり、収穫が少なくて、地主の両班に規定どおりの年貢を収めることができなかったりすると、両班の家の前庭に引き立てられた。それから罰としてムシロに巻かれて、地面の上に転がされたうえで、両班の雇い人たちによって棒でしたたかに打ち据えられた。

その拷問に似た状態が、まだエスカレートしていたようである。
暗い時代・・・
それを書き付けても、意味が無いと思うので、省略する。

日本統治時代になってからは、日本の警察は厳しく、このような私刑を禁じた。

私的リンチを禁じたのである。
この、警察という組織も、日本が韓国にて作り出しものである。

つまり、日本統治時代になり、司法権が、両班の手から、日本の警察に移ったのである。
それは、李朝時代は、両班は常人に対して、生殺与奪権まで、持っていたということである。

ただし、日本人たちは、韓国を治めるに当り、両班を優遇することもあった。
地域社会に持って来た、伝統的な力を利用したのである。

時に、両班が、横暴な振る舞いをすることがあっても、村の日本人巡査や、韓国人巡査は、見て見ぬ振りをしたこともあるという。

ここで、韓国人巡査という存在である。
韓国人を巡査として、採用していたという事実である。

日本人による、日本人たちのための、統治ではなかったのである。


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2015年07月08日

打倒・韓国2

戦後、韓国が独立を回復した後には、日本統治時代は悪いことばかりであって、よいことは一つもなかったといわれているが、私が育った村だけとっても、日本は、多くの解放的な改革をもたらしてくれた。そのようなことがまったくなかった、という者は、李朝末期の韓国社会の状況を無知なため知らないか、故意に眼をつむっているのだ。

韓国人が言うのである。
それが、本当だろう。

村には、小学校をつくった。どこの村にも小学校があった。

と、これだけでも、凄いことである。
つまり、学校などは、無かったのである。
庶民は、読み書きが出来なかったということ。

学校では、授業が日本語を使って行われたが、私の小学校は韓国語のハングルの読み書きも教えられた。その後、ハングルの教科書がなくなって、教科書はすべて日本語になった。小学校にはオルガンがあった。音楽の時間には、日本の唱歌が教えられた。都市部の小学校には、ピアノもあった。

小学校のつぎには、公会堂が建てられた。公会堂では、昼間村民が集められて、日本の宣伝や、農村振興のための講習が行われた。夜は夜学(やはく)と呼ばれていたが、字の読めない村民には、無料でハングルと日本語が教えられていた。李朝時代にはなかったことだった。・・・

この統治時代に、爆発的に、文盲が無くなったのである。
それは、大変な、進歩だった。

ただし、
両班の子どもたちは、全員が小学校に通うことができたが、常人は貧しい家が多かったので、小学校の適齢期の少年たちのなかの五人に一人ぐらいしか、学校教育を受ける恩恵に浴することができなかった。中学生は、村の中で四、五人いただろう。高等教育や、専門学校や、大学へ進んだ者は、一人か二人しかいなかった。

常人のなかでも、小金を持つようになった者もいた。村の近くに、ソウルと釜山を結ぶ鉄道の京釜線が通っていた。日本人は、京釜線を敷くのにあたって、村の男たちを雇って、農業用水池としていくつも池を掘らせ、掘った土を用いて線路の盛り土を築いた。この仕事は、村人を大いに潤した。

地主階級と小作人の貧しさについて、書かれているが・・・
あまりの差に、愕然とする。

李朝末期までは、常人は、教育をまったく受けることができなかった。しかし、日本統治時代に入ってから、わたしの小、中学校時代には、とくに都市部では両班、中人、常人、奴婢の階級が平等化され、常人階級の子どもたちの学歴が高まるようになった。

子どもたちの間では、だれが両班の子であるとか、どの親が中人であるとか、常人であるとかをいっさい口にすることがなかった。日本人教師が、そのような差別を行なうことを固く禁じたからだった。もし私たちがそのようなことを話題にしたり、そういうことが先生の耳に入ったりしたら、厳しく罰せられた。

常人たちは、蔑視された歳月を思って、子供の教育には力を注いだ。

韓国の夜明けである。
暗い時代から、解放の明るい時代への道・・・

それが、日本統治によって、成ったのである。
日本が、奪ったものなど、一つもない。
奪うものなど、韓国には無かったのである。

ただ、日本は、与えた。
その昔、ハングルも、日本が復活させて、与えたものである。
そのハングルを受け付けなかったのは、何より、両班の知識人たちである。

今では、正しい韓国語、ハングルとなっているが・・・
その最初は、日本が、復活させたのである。

室町期に、当時、朝鮮から届いた、親書のハングルを解読して、作り上げたのである。

日本人たちは、村の振興に力を注いだ。私が小学校に入学すると、しばらくして電力会社が村まで電気をひいた。両班、常人の家に区別なしに、ほとんどの癒えには電灯がともるようになった。

ただし、
戦闘が激しくなると、電化計画が中断されたので、戦争が終わるまで農村の一部とくに僻地の村落では、電灯がともらなかったところも少なくなかった。

私が、韓国、釜山に出掛けた時である。
戦後30年を過ぎていた。
農村を見回ると、電信柱が立つが、電線が無かったのを、覚えている。
つまり、日本が敗戦してから、暫くの間、韓国では、電気の利用が出来なかったところがあるのだ。

学校の話しだが、その中には、日本人の子どもたちも、一緒に勉強していたということである。
それも、全く、差別が無い。

日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代依然の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。

日本統治が始まってからの、韓国人の人口の増加は、甚だしいのである。
つまり、食べるものがあるという、時代になったのだ。
日本統治になり、人口が三倍に増えたのである。

この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

それをまた、貸し、その繰り返しで、どんどんと、畜産が栄える。
日本は、与えたのである。
与えて、与えたから、現在の韓国が存在する。

日本統治時代が去ってからの、韓国の闇は、李朝時代の差別意識が、頭をもたげてきたことである。
潜在的に、差別感情が、蘇った。

現代の韓国社会の、差別には、恐るべきものである。
posted by 天山 at 06:29| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月09日

打倒・韓国3

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山藍(さんかん)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。
私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山藍や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

と、いうことで・・・
私が、19歳の頃に韓国に出掛けた際に、説明を受けた。
あの禿山は、皆、日本が行なったせいだ、というものだ。

日本が、韓国の山を禿山にしたというのである。
その後で、調べて、呆れた。
そして、その呆れる話で、山盛りだった。

日韓併合以前の韓国の山々といえば、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまた勝手気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。

いかがだろうか・・・
つまり、本当のところは、そういうことだった。
日本統治時代に、緑溢れる山々が、また、禿山になっというのである。

当時の私の心境は、それを聞いて、本当に身の縮む思いをした。
日本は、何と悪いことをしていたのか・・・である。
だが、事実を知って、それを説明した韓国人の人たちの、傲慢不遜さを思い出す。

平気で、ウソをつくのである。
あれ以来、韓国には、行かないし、行きたいとも、思わなくなった。
今も、勿論、出かけることは無い。

統治時代に、韓国に渡り指導した人たちは、真剣に韓国を思い、韓国のために、そのエネルギーを使った。

朴氏が、書く、日本の農村教導師の話しで、感銘深いものがある。
「力を合わせて朝鮮を蘇生させましょう。今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の恵みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に水を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」という話しである。

もし、植民地と考えても、このような植民地政策を行なう国が、何処にあるのか。
植民地にされた国々は、どうだったのか・・・
また、植民地支配をした国は、どうだったのか・・・
皆々、搾取、搾取の連続である。

更には、文盲にして、植民地の人たちを、愚昧にする。
反抗できないように、徹底した、脱教育である。

日本は、併合したのである。
つまり、それは、本国と同じ扱いなのである。
いや、あまりに、朝鮮に持ち出す金が多く、国民から、不満が出るほどだった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判がよかった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物分りがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の目で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

様々な角度から、朝鮮の状態を俯瞰するが・・・

李朝時代の朝鮮では、三月から六月までは、食糧が不足する時期である。
当時の人口は、八割が農民である。
その、飢餓の時期を迎えると、総人口の六割が、草根樹皮を採取して、命をつなぐと言う、状態である。

朝鮮の土地は、旱害、水害、風害、病虫害が、まだんなく、続いた。
農民は、乞食、農奴同然である。

その上の、両班と酷使に食い物にされて、小作人たちは、慢性的な食糧難と、借金苦にあえいでいた。

それを思えば、日本統治時代は、天国に生まれ変わろうとしていた。

それでも、韓国人は、ウソをつく。
良い土地は、日本人がみな奪ったというのである。

全く逆である。

日本農民が、朝鮮にて、どんな土地を耕したか・・・
大河の遊水地で、交通不便、更に、塩害がある土地を、開墾地として、開拓したのである。

日本人が土地を、奪ったのではない。
両班らが、奪ったのである。

ダレ神父の「朝鮮事情」から見ると、
両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合は、支払いなしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない」
ということである。

今、現在も、韓国には、両班のような人物が存在する。
例えば、歴代大統領たちである。
必ず、大統領後に、不正蓄財、あるいは、汚職などで、山盛りである。

韓国社会には、そのような存在が絶えることがない。
その地位を利用して、何とでもする者が、いつでも存在する。
posted by 天山 at 06:09| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月10日

打倒・韓国4

探検家ペ・エム・ジェロトケヴィチは、1885年12月6日から、翌年2月29日にかけて、ソウルを出発し、北朝鮮を経て、ポシェートに至るまでを陸路で踏破した。

その時の記録は、「朝鮮旅行記」に掲載されている。
その中で、
労働者の受け取る賃金はごくわずかで、元山にて日本人へ金を売りさばく役人たちの懐にすべて消えてしまう。

勤労の民は非常に貧しくて飢えている。
鉱山の近くに村があって、労働者たちはそこで食事をし、酒を買い、給料には手をつけないで、ほとんど裸同然でうろついている。
と、書く。

更に、日本人がはげ山にした、美田を奪った・・・等々、韓国人は、ウソばかりを言うが・・・
また、そのように、子供の頃から教育するが・・・

朝鮮旅行記では、
どこまでいってもはげ山と赤土ばかりで、草もすべて燃料のために刈り取られる。
山地が痩せていて、昨年もたくさんの餓死者が出た。
ここは退屈極まりない土地で、山ははげ山、植生はほとんど見られない。
朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴えている。樹木は皆無で、燃料には藁と草が使われている。

だから、日韓併合の際の、朝鮮総督府設置当時の、半島の林野状況は、酷いものだったと、分る。

それを、韓国人は、日帝時代に、森林資源濫伐、掠奪などという、ウソを言うのである。
また、モンゴル軍が、日本征伐のために、森林を濫伐して、造船を行なったという説もあるが、それも、ウソである。

朝鮮人がやったことである。
勿論、自然の過酷なこともあるだろう。

日本人が、美田を奪ったなどという、ウソは、まことに、嘆かわしい。
その逆である。
朴氏も、書いているが、日本人が、美田に変えたのである。

土地を奪ったのは、両班たちである。

朝鮮に移住した、日本農民が行ったことは、不毛の地を開拓したのである。

その仔細は、
1908年、東洋拓殖株式会社、東拓が、朝鮮で設立され、農業拓殖の主要事業としたのである。
東拓は、土地買収と移民事業に重点を置き、日本内地の農民を全15回にわたり、半島へ招致し、農地をあてがい、耕作を推進した。

東拓の良いところは、良田ではなく、荒れ地を移民に与え、不毛の地を耕作地に開墾したことである。

朝鮮人には、到底出来ないことである。

ここでも、韓国人は、ウソを言う。
字の読めない農民の土地を、騙して取ったというのである。

その彼らに、字を教えたのは、他でもない、日本人である。

土地を騙し取ったのは、両班たちであろう。

朝鮮総督府が、日本と朝鮮の土地兼併を嫌う、当時の風潮を重んじ、東拓の土地買収を規制したのである。
更に、駐屯土と称される、国有地の処分においても、東拓へは譲渡せず、自作農創設として、朝鮮人小作人に分譲した。
そのため、東拓の移民事業は、途中で、頓挫したのである。

どうであろか・・・
これが、朝鮮人であれば、どんなことになったか。
彼らがするであろうことを、日本人がしたと言う。
呆れた根性である。

李朝末期には、土地の所有権は、ほとんど、両班や地主たちの手にあり、字の読めない小作人には、もともと、土地など持っていないのである。

こうして、彼らのウソを一々上げていると、キリが無いのである。

日本人農民は、朝鮮の農民が、無視していた、不毛の地を開墾し、僻地の干拓を行った。
そして、それらが今、立派な美田になっている。
こんなことは、彼らには、出来ないことである。

日本人の地味で、真面目な努力により、朝鮮半島は、数千年来の農耕国家では、考えられないほどの、農業改革を経ることが出来たのである。

それも、これも、すべて日本人の手によって、実現したことなのである。

ところが、現在も、延々として、子どもたちに、ウソを教え込み、反日教育を続けている。
それほど、反日であれば、日本と関わる必要が無いのである。

そして、何かと言えば、日本に賠償を求めるという。
日本統治時代に、どれほど、朝鮮に金をかけたか。
そして、それ以降も、である。

韓国は、第二次世界大戦後に、戦勝国の側に入れてくれと、アメリカに頼んでいる。
実際は、韓国人は、日本軍として、戦ったはずなのに、である。
つまり、戦勝国としての、地位を持ち、日本に戦後賠償を求める算段である。

大陸の千年属国の国である。
それも、下国の下国である。

その歪な精神が、今も尚続いていて、逃れられない。
つまり、その根性である。

いずれ、韓国が独立した経緯を書くが・・・
自力では、独立を勝ち得なかった国である。
更に、国際社会でも、国として、認められていなかった国。
それが、何故、独立できたのか。

日本のお陰である。
何の努力もせずに、日本によって、独立を手にした国である。
posted by 天山 at 05:41| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月13日

打倒・韓国5

朴氏の、醜い韓国人から、引き続き続ける。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うよにできなかった水田地域を「ペベーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911年明治14年、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「ペベーーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話しは、私の父がしてくれた話である。

つまり、日本の統治により、灌漑設備を整えたのである。

日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことができるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けば、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルポンサラムン・キョンウカバツダ」(日本人は、事理に明るい「すべて正しい」)という言葉がよく交わされた。

戦後、韓国が独立を回復してから民族主義教育が行われるようになった。韓国では、日本人を指して「チョッパリ」(日本人の蔑称)とか、「オランケ」(侵略者)という言葉が使われるようになったが、日本統治時代には、私の村の人々だけではなく、韓国人の間で、広く日常会話のなかで日本人を話題にするときには、ただ「日本人」(イルポンサラム)と呼んだ。日本語がよくできる韓国人ほど、日本人のよさを理解していたと思う。

上記で、注目すべきは、日本統治時代になってから、村の人々の生活が、まともなものになった、というところだ。
それ以前は、まともではなかったのである。

そして、独立を回復してから、日本人に対して、蔑称が使われるようになった。
つまり、そういう人が、韓国人なのである。
その独立といっても、努力して得たものではない。

農業一つを例に上げても・・・
日本統治時代が、いかに優れていたかである。
その、恩義さえも、感じなくなるという、朝鮮人である。

今も、朝鮮民族は世界一の優秀な民族である。
世界の文明は、韓国から始まった。
という、実に、馬鹿げた話しをしている。

日本も海外から、刺激を受け続けているが・・・
韓国のように、自惚れることはない。

敗戦後に、軍部の洗脳であった、大和魂、日本民族は、云々という話し。
昭和天皇は、あっさりと、仰せられた。
どの民族が優れているというのではない。すべての民族が大切なのである。

国の元首が、すべての民族が大切なのである、と仰せられる国民の一人として、本当に幸せである。

我が民族が一番優れていると、言いつつ、世界から大にして、孤立している国が、韓国である。

東南アジアに出掛けると、その尊大で、傲慢な態度が、嫌われているとは、知らないようである。

何せ、フィリピンでは、女性たちに、ゲイの男性にもか・・・韓国人男性に対して、厳戒令を出したほどである。
更に、カンボジアでは、韓国人男性との結婚を、法律で禁止した。

ベトナムでは、韓国軍の指導による、慰安所、慰安婦の強制と、虐殺の様を記念館にして、保存する。

日本統治は、植民地支配ではない。
拓殖であり、与える併合であった。

欧米の植民地支配とは、全く意味が違う。
その証拠は、台湾でも、パラオでも、チューク諸島でも・・・
戦地とした、パプアニューギニアの各地域でも、日本は、感謝されている。

自慢するが・・・
私は、最も危険な街である、パプアニューギニアの首都、ポートモレスビーで、支援活動を、最も危険な場所で行った。

決して、やっては駄目ですと、言われた。
強奪されるから、赤十字に渡すことと、言われた。
が、
日の丸を掲げて、その場所に行くと、大歓迎であり、男達が、手伝うという状態だった。

更に、日の丸が欲しいと言う人もいた。

その時、中国人排斥運動の最中だった。
中国人と間違えられないように・・・とのアドバイスを貰ったが・・・
着物姿である。

入国審査の列は、中国人入国で、揉めて、進まない。
すると、向こうから、私を呼ぶ人がいる。
審査官を素通りしても、何もいわれない。
そして、パスポートを見る事もなく、スタンプを押して、オッケーと言われた。

日本のパスポートの信頼なのか、私の着物姿なのか・・・
本当に、驚いた。

更に、ラバウルでは、建国30年の壁画に、日の丸である。
オーストラリア人が、観光客で来るのか、オーストラリアの国旗も、申し訳程度に描いていたが。

そして、彼らは、兎に角、私の傍に来て話をする。
日本は、いつも与えてくれる。
白人たちは、いつも奪いに来る、とのこと。

衣類支援の場所を探していると、一人の婦人が、すぐに声を掛けて来た。
事情を話すと、病院には、貧しい人たちが沢山居ると教えてくれ、更に、バスを止めて、私たちを、病院前までと乗せてくれた。

バスも、本当に病院の前に止めてくれたのである。
驚いた。

支援の後も、男性が追いかけて、子どものために差し上げた、テーシャツを出して、私のサインを求めた。
今度は、いつ来てくれますか・・・
との、問いに、すぐに、と答えたが・・・
未だに、行けないで、いる。



posted by 天山 at 06:33| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月21日

打倒・韓国6

私たちの小学校には、校長を含めて五人の日本人教師と、四人の韓国人教師がいた。子どもたちの間では、だいたい日本人教師のほうが、韓国人教師よりも好かれていた。韓国の伝統的な儒教文化によるものだろうが、韓国人の教師は、とっつきにくかった。日本人教員のほうが、温和だったし、子どもたちに対して優しかった。韓国人教師は怒りっぽく、厳しかった。もっとも、当時は日本人教師も、韓国人教師も男の子を叱るときには、しばしば手をあげて体罰を加えた。

日本人教師は、おそらく日本人の児童に対するのとまったく変らない愛情を、私たちにそそいでくれた。また、日本人教師と韓国人教師が互いに仲間として親しくしていたことは、子どもたちにもよくわかった。

これが、逆だとしら・・・
実に、恐ろしいのである。

日本人教師が韓国の児童を慈しんだことは当時、小学校や、国民学校に通った多くの韓国人が今日でも、かつての恩師を慕っていることからも分ろう。・・・

その例を上げている。
大統領になった人でさえ、日本統治時代の小学校の恩師を、日本から招待して、青瓦台、大統領府で、もてなしている。

朴氏も、
今日までも、小、中学校当時の日本の恩師たちと、手紙の往復はもちろんのこと、師弟関係が昔と変わりなく結ばれている。
とのことだ。

韓国人が、友人の人は、よく言う。
個人的に付き合うと、とても良いのだが・・・
いざ、国の話しになると、豹変するという。

さて、日本統治時代の、教育である。

日韓併合前は、中国にならい、官使登用試験である、科挙制度が廃止され、教育機関としては、習字と、漢籍の素読を教える書堂が、約1万6000ほどで、学習児童は、14万人である。

それは、当時の人口の一パーセントである。

ところが、日本統治時代により、昭和18年には、就学率が、61パーセントに達し、昭和19年には、国民学校が、5213校、生徒数は、239万8000人あまりである。

ちなみに、同じく日本統治の台湾では、就学率が92,5パーセントに達している。
更に、台湾では、京城帝国大学が、1924年に創設されている。
台北帝国大学は、1928年である。

ところが、内地の大阪帝国大学は、1931年、昭和6年。
そして、名古屋帝国大学は、1939年、昭和14年である。

内地の大学より先に、台湾に作るという、心意気である。
何度も言うが・・・
植民地支配という言葉に、注意である。

欧米のそれと、同じ意味ではない。
白人は、ただ、奪うだけである。
日本は、与える、改革する、拓殖するのである。

韓国人は、ウソを言う。
日帝時代は、愚民化政策がとられ、多くの文盲を作り出した。
それは、全く逆であろう。

愚民化政策をとったのは、韓国、朝鮮自体である。

また、歴史に関して、韓国人たちは、妄想を積み上げているだけである。
真っ当に、歴史感覚を持ち得ないのである。
現在は、ハングル一本やりで、昔の書籍を読む力も無い。

日本統治時代より、今のほうが、愚民化していることは、間違いない。
そして、歴史の捏造である。
妄想と、捏造の歴史・・・
この韓国に未来は、あるのか。

テレビドラマで、韓流ドラマというものがあったが・・・
内容が皆無で、単なる、猿芝居だった。
つまり、言葉の世界が、貧弱なのである。
それは、文芸作品などにも言える。

日本のテレビでさえ、見ていたら、馬鹿になる。
それでは、韓国のテレビを見ていたら、アホになるだろう。

勿論、日本のテレビ局には、多くの在日が関わっているから・・・何ともいえないが・・・

言葉について出たので・・・
日本は、ハングルという、「大いなる文字の意」を普及させ、韓国独自の文化を保護し、近代教育をほどこしたのである。

自国の国語を捨てたのは、韓国自身である。

朝鮮半島が漢字に出会ったのは、漢初、または、漢の武帝が半島に「四群」を設置したといわれる時代からである。
だが、朝鮮半島には、漢字以前から、独自の古代語があった。

漢語と韓語は、全く異なるものである。
そのため、当初は、使いにくいものだったはずだ。
新羅時代は、はじめ漢字の音と訓を応用して、新羅語を表記した、文字「郷札」があった。

そして、統一新羅以後、新羅語、高麗語、朝鮮語に、次第に漢字が混じり、同時に中華帝国、唐の朝貢冊封体制に組み込まれてゆく。
新羅23代の法興王、30代の文武王などいう、シナ風の呼び方に変わっていった。

そして、現在では、あれほど先祖が大切だという韓国人は、皆々、シナの姓を名乗るという、不思議。

さて、ハングルである。
それが、つくられたのは、15世紀である。
しかし、朝鮮人は、いっそう漢字や儒教に傾倒し、それは、狂信ともいえる状態だった。
更に、ハングルを排斥したのである。

漢語が韓語の、八割を占めるのである。

その後、日本統治時代に、和語が入り、これにより、戦後いくら和語や和色の追放に躍起になっても、言語の世界では、漢語と和語がなければ、言語の自立、独立はありえなくなってしまったのである。

ところが・・・
つぎに続ける。
posted by 天山 at 06:51| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月22日

打倒・韓国7

唐の隆盛期には、漢字が東亜世界諸族共通の文字として、使用されていた。
聖徳太子が、隋の煬帝に送った国書も、漢字で書かれた。

だが、唐が衰退し、騒乱が頻出するようになると、周辺諸国は、独自の文字を創出して、唐と一線を画して、独自性を強調するようになる。

このとき、最も早く独自の文字を創り出したのは、日本である。
この潮流は、10世紀前後の東アジアに、共通する。

そのような中で、朝鮮半島だけは、中華文明の支配を甘受し、高麗人、朝鮮人が、宗主国を求めて、右往左往していたのである。

つまり、唐の隆盛が過ぎて、諸民族が文字を創出すると、諸民族は、中原に進出してきた。遼、金、西夏、元帝国などである。

東亜世界に君臨するようになるのだ。
そのどの国に付こうかと、朝鮮半島は、右往左往していたという。

それでは、朝鮮半島で、独自の文字が考案されたのは・・・
李朝朝鮮の世宗25年、1443年である。

時の国王、世宗により、「訓民正音」(民に教える正しい音の意)の、28文字が、創出された。今日の、ハングルである。

漢語と韓語は、違うので、一般人には、漢字での表記が難しいとのこと。
だから、ハングル文字を、使用せよという内容である。

つまり、文明国の中で、文字創出がもっとも遅かったのである。
何故、朝鮮だけが、独自の民族文字を作るのに、時間がかかったのか。
それは、事大主義に徹していたため、創造性に欠けていたからだ。

事大主義とは、大に付くという意味である。
中華帝国からの、誤解、疑惑を避けるという、何とも、情けないものである。

ところが、ハングルは、使われない。
公文書は、漢文である。
これも、事大主義である。宗主国への、遠慮。

実際、世宗が三年をかけてハングルの28文字を作った時には、両班から、猛反対が起こったのである。
ここでも、驚きの意味不明な反対声明がある。

日本やモンゴル、チベットなどには独自の文字があるが、それは野蛮な地域だからだ。我々が独自の字をもったら、彼らと同様に野蛮人になってしまう。その上、我々は中国を宗主国として仰いでいるのだから、新しい文字を作ることは、中国からして見れば、謀反であり、怒りを買う恐れがある。

呆れた、言い分である。

勿論、朝鮮における、ハングルの使用には、当然、宗主国である、中華王朝の是認が絶対不可欠な条件だった。

さすがに、徹底した、属国根性である。

結果、ハングルは、婦女子専用で、無学な庶民が用いる「諺文」オムモンと呼ばれ、主に仏教や経書の解説、散文、小説、農書、婦女子の私文書に、用いられただけだった。

この、ハングルが、正式に使用され始め、更に、「ハングル」という名称が考案されたのは、20世紀に入ってからである。

400年に渡り、蔑まれてきたのだ。
更に、世宗が創ったハングルだが、第10代の燕山君によって、ことごとく、焼き払われたというから、驚く。

そして、1504年、学問の府であった、成均館が、遊蕩の場とされて、ハングルの教授と、学習が禁止された。
次代の中宗は、1506年即位するなり、ハングルを完全に廃止した。

では、そのハングルが、再び日の目を見るのは・・・
何と、日本統治時代になってからである。

簡単に言えば、ハングルを復活させたのは、日本なのである。
ダレ神父の「朝鮮事情」の中から見ると、

中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において二つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問はまったく民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。

写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である。

これよりもっと大きなもう一つの差異は、朝鮮では自らの特権に過度に執着し、特権維持のために絶対権力を発揮する多くの両班が、国王と人民との間に存続している点である。

更に、驚きは、

朝鮮の学者たち自身も、自国の文献に何ら信用を置いておらず、また決して研究対象にする事なく、中国の歴史書だけを読むことにしている。

と、言うことは、現在もそれが、続いていて、自国の歴史書などは、信用していないのである。
だから、ウソも、捏造も、やりたい放題なのである。

兎に角、驚くべき事は、現在、ハングルを世界一の言葉だとして、優越意識に浸っているようだが・・・
そのハングルを捨ててしまいと・・・

更に、それを日本が、復活させたなど、誰も信じたくない事実だろう。
だが、それが、史実であり、事実である。

韓国人は、日本が韓国の言葉を奪ったというらしいが・・・
逆であろう。
ハングルを与えたのは、日本人である。

勿論、自国の歴史を信じないというか、学ぶことが無いのだから・・・
押して知るべし。
歴史教科書の三分の二は、反日の記述だというから、また、呆れる。
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2015年07月23日

打倒・韓国8

李朝時代になると、揚儒排仏のため両班階級は、漢文を利用し、大国人の真似をする。

言語の世界でも、両班、良民、常人の間で、大きな隔たりが出来るのである。
常人は、両班の支配下で、韓語より、漢語に学び、韓語は、両班の漢文漢語専用により、急速に、漢語化されていった。

李朝の詩歌は、朝鮮語で表現されず、伝統的な歌謡である「時調」シジョ「歌辞」カサ、小説は、韓語の代わりに、中途半端な漢語や故事熟語が、おびただしく使用されていたため、奇形で生半可な朝鮮文学、文化を創ることになった。

それでも、両班は、漢字に対しての、崇拝思想が極めて強く、己がどれだけ漢字を知っているかを、得意にしていた。

現代の韓国語の、漢字含有率については、韓国語のうち、名詞約77パーセント、形容詞14パーセント、副詞1パーセント未満が、漢字語である。
完全な韓国語で、数千の文化を語ることは、出来ない。

李朝時代は、ハングルが蔑まれていた・・・
現在の韓国人は、どう思うだろう。
世界一の言葉、ハングルと胸を張るが・・・

時代は、やがて、西力列強の波に飲み込まれる。近代化の波が、東アジアに訪れた。
しかし、朝鮮は、相変わらず事大主義を守り、近代化への道を、拒否していたのである。

勿論、朝鮮に近代化を与えたのは、日本である。
日本の統治がなければ、今頃は、ロシアか、中国か・・・
惨めな、三等国であった。

日本は、近代化を遂げて、朝鮮がこのまま中国との宗属関係を続け、独立、近代化を断行しなければ、やがて、欧米列強の波に飲み込まれると共に、日本の脅威となることは、明らかであるとして、行動するのである。

日本は、日清戦争による、朝鮮半島の独立、そして、日韓併合へと突き進んだ。
朝鮮は、眠っていて、独立を得たのである。
日本の、お陰である。

言葉の問題に戻す。
日本は、朝鮮半島の近代化に努め、そのための国語教育に力を、傾注するようになる。

福沢諭吉が提案した、漢字、ハングル混じりの文章体系を、19世紀末から、使用し始めた。

そして、日本で鋳造したハングル活字を使って、印刷された、1886年、明治19年の新聞「漢城週報」が、はじめであった。

ところが、韓国人は、ウソを言うのである。
日本によって、国語を奪われたと。

そもそも、自らのオリジナルである、ハングルをないがしろにしてきたのは、誰か。
朝鮮人、韓国人ではないか。

話しはまだある。
日韓併合後、金沢庄三郎、小倉進平の両博士を中心とする、日本人学者たちは、近代朝鮮語の表記を科学的に体系化し、言語として完成させた。

小倉博士によれば、
朝鮮が清国の文化から離脱し、独自性を強調するために、国学、国文の使用を鼓舞し、ハングルを奨励したのは、1897年の、日清戦争後からで、朝鮮が、大韓帝国として、清から独立してからである。
この時、はじめて公文書での、漢文の使用をやめ、漢字・ハングル混じりの新訂国文を発布し、使用を奨励することになった。

ハングルが、韓国の全国民に教えられはじめたのは、1910年、日韓併合以後である。
そこで、朝鮮総督府は、現代ソウル語を標準語とする、朝鮮語を、教育を通じて、朝鮮社会に普及させた。

誰のお陰で、ハングルを使用するようになったのか・・・
韓国人には、声を大にして言いたい。

更に、日本の、総督府は、努力を重ねた。
1911年7月、「諺文綴字法研究会」を発足させ、日韓の学者を集めて、研究と普及をはじめた。
また、「普通学校用諺文綴字」を決定し、教科書として、採用した。

当時に、朝鮮の文化は、漢文の文化であり、従来ハングルは除外されてきたので、漢文を知らなければ、朝鮮文化を知らないとなるだけではなく、ハングルさえ、読み書きできないということから、寺内総督が着任してから、一年後の、1911年8月、朝鮮教育会が発足され、「朝鮮語及び漢文」を教育することが、決定したのである。

そして、同年、朝鮮教育令により、普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校に、「朝鮮語及び漢文」の毎週の授業数を規定した。

勿論、日本人子弟も、小中高校とも、朝鮮語を学んでいた。
学校では、朝鮮人と日本人の区別は、一切ないのである。

朝鮮総督府の教育政策は、ハングルも、漢字も禁止するどころか、日常の手紙すら朝鮮語で書けない朝鮮人知識人のためにも、双方に教えたのである。

朝鮮人の独自の文字創出は、東アジアの史上もっとも、遅かったのに加えて、両班による、排斥にあったことから、国字・国文としての、体系は、ずっと後にならなければ、進まなかった。

そのため、朝鮮人の歴史的諸知識の蓄積も、かなり遅れたのである。

更に、元々、独自の歴史の蓄積が無い文化である。
日本が、奪ったと、ウソを言うが・・・

奪えるものなど、何もないのである。

日本が与えたものの方が、絶大に大きかった。
だから、あまりに、馬鹿馬鹿しくて、話しにならない。

本当の歴史を知らない。だから、妄想の歴史観に陥る。
実に、憐れである。

日本にいる、在日、朝鮮、韓国人は、日本の学校教育で、少しは、真っ当な歴史というものを、教えられている。
それは、僥倖である。
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2015年07月24日

打倒・韓国9

日本統治時代の朝鮮社会では、日本語の普及は、20パーセントにも、達していない。

同じく、統治していた台湾では、70パーセントだった。

そして、20パーセントの日本語使用者は、朝鮮語も放棄していない、バイリンガルな知識人たちである。
これは、日本統治時代の、教育水準が高いということである。

更に、朝鮮総督府は、学校をはじめとする日本人公職者に、朝鮮語学習を奨励していたのが、歴史の事実である。

両班時代以来、儒教思想の影響が濃い、朝鮮人は、自分では何もせず、すべて人任せであった。
そんな朝鮮人に対して、日本は、国語である日本語と、朝鮮語及び漢文を、並列で教えていた。

本来ならば、国語、日本語に重きを置くのであるが、日本は、そうしなかった。
受身な朝鮮人は、教育をそのまま受け入れたために、日本語習得のメリットも、朝鮮語習得による、民族文化の育成も、できたのである。

これは、感謝であろう。
統治された場合は、統治した国の言語を習うのである。

ただし、日本統治時代の朝鮮教育政策は、一貫していたものではない。
大日本帝国の盛衰と共に、変化した。

初期の教育は、手探りで、大正8年、1919年、原敬内閣時代から、「一視同仁」による、差別撤廃を唱え、内地と同様の教育を行っていた。

日中戦争開戦後の、南次郎総督時代になると、「皇民化運動」などを進めるようになる。
1938年からは、朝鮮教育令が、全面的に改正され、日本国内と、全く同じ教育をした。

その後も、国語として、日本語が使用奨励されたが、朝鮮語教育も、必須科目とはされていないが、禁止もされなかった。

日本語教育奨励が、朝鮮語使用禁止ではないのである。
理想的な、教育を行ったという、事実である。

このように、日本語を獲得した朝鮮人の中には、まだ言語として、体系化されていない朝鮮語を捨てて、日本語を常用しようと考える者たちも、出て来た。

詳しく述べることは、止めるが、日本語推進を主張する朝鮮人たちは、少なくなかったのである。

1939年、昭和14年、10月に結成された、朝鮮文人協会は、1942年に、その他の団体と合併して、朝鮮文人報国会と改称して、200余名の文筆家が、名を連ねた。
そこで、教義された結果が、国語、つまり日本語による、新しい作品を創り、朝鮮人の日本語による、詩歌を作ろうということになった。

ハングルは、朝鮮半島では、普及しておらず、日本語に比べて、国際性に欠けていた。このような、歴史背景にあったゆえに、国語である、日本語使用の合理性と妥当性を論じ、文学創作には、国語、日本語を使用せよ、と、唱える朝鮮人も、現れたのである。

更に、朝鮮語の全廃を、強く主張されたことがあった。
近代化を目指す上で、言語使用の問題を考え、自国語に対する深い反省の気持ちからくるものだろう。

もし、今、日本語を韓国が使用していれば、少なくとも、少しはマシな社会になっていただろう。

大半の途上国が、外国語を国語として、使用する事も、少なくないのである。

言葉は、民族の心である。
言葉により、人間は、色々なことを、定義し、観念して、考えるものである。

だから、全廃運動は、朝鮮語という、未熟な言語に留まるより、日本統治時代の、国語、日本語を常用しようとする運動は、正しかった。評価できる。

それ以後の韓国の、言葉を世界を俯瞰すると、驚くべき事が、行われた。
戦後である。

漢字の非効率性、非大衆性が叫ばれ、ハングル国語純化運動が進められた。
1948年、李承晩大統領が、「ハングル専用に関する法律」を制定し、漢字を順次廃止する路線をとった。

更に、55年、臨時漢字制限法令を発布し、漢字を1300字に制限した。
65年から、一切の公文の漢字使用を禁止した。

67年には、朴正キ大統領が、「漢字廃止五ヵ年計画」を指示し、70年以降は、総理大臣訓令で、漢字使用を前面禁止にした。

それまでの、公文書には、漢文が90パーセント、大韓民国の憲法にも、90パーセントの漢語が含まれていた。

同音異語の氾濫が起こり、抽象度の高い概念語の、理解力と利用率が低下した。
韓国の伝統的固有語を漢語で代用することを、積極的に行ったが、ハングル単用の推進者たちは、新しい代用漢語を創造することが出来ず、失敗した。

漢字文化も、伝統である。
それが、朝鮮由来でなくても、伝統として生きてきたものである。

このような、愚かなことを、平然とする、韓国人である。

あまりに問題が多く、金大中政権時代に、再び、漢字復活論が出た。
しかし、賛成する国民は、10パーセントという状態。

韓国の伝統文化と、ハングルは、関係が無いのである。
漢字、漢文、漢語をベースに、二千年に渡り創られたものが、伝統文化に当たるのだ。

その結果、言語伝達能力が低下し、韓国人は、世界でも読書率の低い国民となった。
日本統治時代から培った、高い教育水準も、教育と有名無実になってしまった。

漢字、漢文放棄が、どれほど韓国社会に混乱を招き、伝統文化を放棄するということが、どれほど、国にとって、マイナスなのかを、韓国人は知らないのである。

ハングルで表記できない言語はないと、言うが、それは、言語の知識が無いということである。
呆れる。
ハングルの欠点を、あげつらう事が、韓国人には、耐えられないだろうから、この辺で、止める。

ちなみに、日本は、すべての世界の言語を翻訳している、翻訳文化の、最高峰である。
posted by 天山 at 06:17| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月27日

打倒・韓国10

朴テヒョク氏の、醜い韓国人、を、続ける。

李朝末期の韓国は、政治が乱れに乱れていた。宮廷は国民の大多数が生活苦に喘いでいるのをよそに、政争に明け暮れていた。役人や、両班はみな私欲にかられて、自らの栄達と蓄財のみを求めて、弱い民衆を搾取することだけしか考えなかった。このために社会道徳が乱れて、精神も、文化も、経済も疲弊した。売官売職はふつうのことだった。どこでも賄賂がまかりとおった。黄金の力と暴力が支配していた。

現在の韓国と、同じ状況であろう。
そして、これが国の崩壊を招くのである。
だから、現在の韓国も、崩壊寸前であると言っても、いいのだ。

政治は、不正行為の別名でしかなかった。民衆への収奪が極限に達していた。いつもハルサリ(その日暮らし)を強いられていた庶民は、こき使われるだけ使われ、乱暴されるだけ乱暴されて、まったく希望を抱くことができない日々を送っていた。社会が停滞しきっていた。火賊や山賊と呼ばれる盗賊が、横行していた。火賊は村を襲うときに放火して、その混乱のなかで略奪したために、そう呼ばれた。
日本人は、徳川末期の日本について大いに誇ることができようが、情けないことだが、韓国人としては、李朝末期について、何一つ誇ることができない。

後ほど、どれだけのことが起こったのかを、詳しく紹介する。

日本は、日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは、どうしても否定できない事実である。日韓併合後、日本人は鉄道、道路、架橋、用水路、植林、河川整備、堤防、港湾、学校施設の建設をはじめとする、大規模な公共事業を始めた。このために、それまで韓国には、食うや食わずの失業者がひしめいていたが、一般の民衆に仕事が与えられて大いに潤った。

韓国人が、素直に、そのように、認めるのである。
己で、近代化を図ったというが、大嘘である。
更に、日本が邪魔をした・・・とは、呆れる。
すべて、日本が準備して、整え、韓国を近代化に押し上げたのである。

日本が韓国を統治した間に、一方的な収奪を行ったというのは、大きく事実に反する。今日、日本統治時代を体験した韓国の知識人は、それが事実であると知っていながら、客観的な事実を認めることを拒んでいる。韓国は日本の力によって短期間のうちに、日本人が咀嚼した西洋の実用主義を定着させ、近代世界に入ることができたのだ。日本統治時代になって、はじめて真面目に働く多くの者が報いられるようになった。また、韓国人の福祉が大きく増大したのだ。

今の韓国人が、聞いたら、泡を吹くような話である。
だが、それが、事実なのである。史実でもある。

真っ当に、自分たちの歴史と向き合わないという、不幸は余りある。
だから、また、同じことを、繰り返す。

朴氏は、日本を通じて、近代化社会を知ったとして、日本が作った鉄道に、父と共に乗って、旅をした話を書いている。

すべてを掲載しないが・・・
その中の、一部を抜粋する。

その瞬間、大きくひろがるブドウ畑を連想させるような変電所が、私の目に飛び込んだ。変電所は、五分間以上も続いた。地理の時間に興南窒素工場が大規模なことは教わっていたが、これほど大きいとは想像もつかなかった。私はその雄大さに頭を打たれたような気がした。私の目には近代的な科学の粋を集めたもののように、輝かしく見えた。

中学二年生のときには、世界的な名勝である金剛山に行くことにした。夏休みの一週間あまりを有効に過ごそうと思ったのだ。現在では、南北休戦ラインの上にあって廃墟となった鉄原から観光軽便電鉄に乗って、金剛山まで行こうと計画したが、そのときには、私は知らなかったが、もう戦争が激しくなっていたので、電鉄が運休し、線路が撤去されているのを待っていた。日本は観光用の鉄道までつくったのだった。

もし、日本の統治が無ければ・・・
朴氏は、電車になど乗れたのか。無理だっただろう。

韓国当地の収支決算は、日本にとって持ち出しだったはずである。このようなことをいうと、今日の韓国では「妄言」だという一言で片付けられてしまおう。しかし、そうではないのだ。歴史的な事実は、事実として認めねばなるまい。過去を過去として、率直に評価しなければならない。過去はどの社会にとっても、樹木にたとえてみれば、大地のなかに張った根にあたるものである。韓国人は率直に自分の根を見つめねばなるまい。韓国は戦後、独立を回復することによって再出発したが、まだ、その途上にある。再び出発するのにあたって、正しい目標を必要としている。これから韓国人は、誤った歴史観と価値観をもって過去を歪め、捏造することがないように、過去の事実を客観的に検証してゆくべきである。

とのことで・・・
今の韓国は、全く、その逆である。
ウソと、捏造の歴史観、満載である。

そして、自惚れ。
どんどんと、社会も、勿論、政治経済も、悪くなっている。
国民の八割が、他国へ移住したいと言う。

民族意識は、煽るが、愛国心は、皆無である。
まさに、李朝末期と、同じ。

精神が歪だと言うことだが・・・
韓国人は、根本的なことが、分っていない。
また、理解しようとする、能力がない。

つまり、国土があっても、浮浪の民なのである。
先進国だと、思い込む様は、甚だしい。

いつも、日本から、大枚な金を得て、それを我らが偉大だからだ・・・と言うあたりは、つける薬が無い。

東南アジアに旅する、韓国人の多く男性は、その国の人々を見下す。
そして、徹底的に嫌われていることを、知らない。
その、傲慢不遜は、何処からのものか・・・

それは、日本人が、自分が白人により近いと思い込み、日本人を、見下すのに似る。
決して、胴長、単足だとは、思わないのである。
実際は、見て御覧の通りなのだが・・・

その、日本人より、韓国人は、更に、程度が低い。
これを、あはれ、と言わずして、何を、あはれ、と言うのか。

posted by 天山 at 06:25| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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