2015年11月10日

玉砕81

サイパン島守備隊が、玉砕したのは、昭和19年、1944年、7月7日である。

斎藤義次第四十三師団長が、サイパンに着いて、その防備が進んでいないことに、唖然となった。
勿論、防備の貧弱さに驚いたのは、斎藤一人ではない。
先着の各指揮官も、同様であった。

サイパン島の最高指揮官は、南雲忠一中将であったが、陸上作戦指揮は、陸軍が担当という、協定が決められていた。

その第三十一軍が採用していた作戦は、水際撃滅戦法である。

サイパン島の東海岸は、断崖が続いていて、上陸するとしたなら、西海岸しかなかったのである。
その点は、陣地構築に、迷うことはなかった。

だが、艦砲や空襲に対抗するためには、海岸に防御線を敷くより、山、谷を利用して、縦深陣地を構築しなければならなかった。
軍としては、分りきっていることだが、セメントその他の資材は、水際の陣地を作るにも足りず、大部分は、素掘りの、タコツボを作るしかなかった。

サイパン、つまり、マリアナ方面の防備が遅れたのは、大本営の敵情判断の誤りである。
大本営は、敵の主反攻線は、マリアナではなく、ニューギニアから、フィリピンが、確実とみていたのである。

ダグラス・マッカーサーが、フィリピン進攻を主張して、内紛があった末に、米軍のマリアナ攻略は、三月の半ばに決定した。
実施の時期は、秋ごろである。
しかし、それが、六月の半ばに繰り上げられた。

何故か・・・
マーシャル、およびトラックに対する、機動部隊による空襲の結果、日本軍の基地航空部隊の戦力が、意外に弱いことが分ったからだ。

更に、マリアナ攻略の決定要素は、空の要塞といわれる、ボーイングB29の完成である。

第二次世界大戦に出現した最大の、長距離爆撃機は、四トンの爆弾を積んで、約2800浬を飛ぶことが出来た。

それを持って、サイパンを基地として、日本の首都東京を爆撃しても帰還することが、可能になったのである。

さて、大本営海軍部が、直轄部隊として帰隊を寄せていた、角田中将の基地航空部隊は、決戦を前にして、すでに壊滅状態となっていた。

それは、西ニューギニア・ビアク島方面に、敵上陸の報告を受けた、連合艦隊司令部は、「コン」作戦を発動していた。
角田中将以下の、二十三航戦は、すでに濠北方面にあり、続く、二十二、二十六航戦も、480機を「コン」作戦支援のかたちで、ビアク方面に派遣した。

結果、空戦による損耗のほかに、搭乗員たちの技量未熟と、基地の未完成などのために、移動中事故が頻発したのである。
加えて、パイロットの多くが、熱帯病にかかるなどのアクシデントが続出し、角田部隊は、戦力として、存在するのを、止めていた。

トラック諸島、グアムなどにある飛行機をかき集めても、総勢二百数十機である。
サイパン、テニアン周辺では、わずかに、三、四十機を残すのみである。

決戦を前に、制空権は、すでに敵の手にあり、更に、潜水艦が、跳梁跋扈するようになっていて、制海権も危うい状態である。

そのために、民間人のサイパン脱出も、思うようにはかどらない。
島民約4000名を含めて、一般市民は、約25000名とみられていた。
つまり、大量の市民を巻き込んだ、太平洋の最大の、戦場と化す可能性があった。

サイパンに対する、米機動部隊の空襲が開始されたのは、6月11日であった。

グアム島東方200浬付近に現れた、敵機動部隊は、数群に分かれて、サイパン、テニアン、グアムに対して、同時攻撃をはじめた。

翌日12日も、同様の空襲を続行し、サイパンに来襲した敵機は、延べ500機にのぼった。

現在、グアム、サイパンは、観光地として、多くの日本人が出掛ける。
しかし、玉砕の島であることを知る人は、少ないだろう。

13日は、空襲と併行して、戦艦八隻、巡洋艦三隻、駆逐艦約三十隻が、サイパン島に、接近した。
そして、猛烈な艦砲射撃を始めた。
14日には、前日の作戦を繰り返し、舟艇を繰り出して、島の西岸の偵察を始めた。

敵の上陸企図は、明らかである。

内地にあった、豊田副武連合艦隊長官は、小澤空母部隊と、角田基地航空部隊に対し、「コン」作戦の中止と、「あ」号作戦用意を下令した。

しかし、頼みの角田部隊は、疲弊して、戦力としては、期待出来る状態ではなかった。
一方、小澤部隊は、待機していたフィリピン南西部タウイタウイ泊地から、飛行訓練のために、中部フィリピンのギマラに向けて移動中、敵機動部隊来襲の報告を受けて、サイパン方面を目指した。

6月15日、未明、敵輸送船約40隻が、サイパン西岸沖に姿を現し、空襲、艦砲射撃の援護のもとに、西海岸南部に、上陸を始めた。

この朝、小畑軍司令官は、ヤップ島に滞在していた。
井桁軍参謀長は、小畑軍司令官の名をもって、第四十三師団および、第五根拠地隊に対して、敵上陸の壊滅を命じた。
その後、サイパンの、陸上戦闘の総指揮は、斎藤師団長に委ねられる。

豊田連合艦隊長官は、小澤部隊に、「あ号作戦発動」を電令し、サイパン島上の南雲中将は、敵上陸の模様を、刻々と、東京に打電した。

だが、これから、サイパンの悲惨、悲劇の玉砕が始まる。
市民も巻き添えになり、阿鼻叫喚の様である。

サイパンの悲劇の場所のひとつ、バンザイクリフ・・・
市民が、崖から身を投げるという。
それを見た、米兵は、銃を持ったまま、呆然と眺めたという。





posted by 天山 at 06:44| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月11日

玉砕82

サイパンにおける、日本軍の反撃は、当然激しかった。
だが、空と海からの敵の援護射撃もまた、熾烈だった。

午前7時40分、舟艇の第一波が、海岸に到着し、敵の上陸は、その後も途切れることなく続いた。
ことに、敵の艦砲射撃により、通信施設が破壊され、そのことが戦闘にひびいた。
日本軍は、指揮系統が混乱し、各個小部隊が孤立して、戦うことになる。

この日、米軍は、夕刻までに、チャランカノアの海岸に、約二個師団の海兵隊を上陸させた。

翌日、16日も、米軍は、夜明けと共に、依然として艦砲射撃と、飛行機のもと、チャンランカノア西側に上陸を続けた。

16日夜、斎藤四十三師団長は、師団独自の夜襲を企図した。
実質、歩兵四個大隊の師団主力と、戦車一個連隊を指揮して、敵の橋頭堡の右翼方面に向って、夜襲を決行した。
海軍の唐島部隊も参加した。

実際に攻撃を開始したのは、翌日17日の午前三時半になっていた。
攻撃は、戦車四十四台を中核として、砲兵の援護下に実施された。
敵拠点の一部を突破して、指揮所、砲兵陣地付近まで迫ったが、米軍は、艦砲による照明弾を打ち上げた。
それは、昼間のように明るく、敵は、おびただし火力で、反撃してきた。

その威力は、絶対で、ほどなく夜が明け、日本軍の夜襲は、失敗に終わった。

米軍は、17日も新たな師団単位の兵力を、上陸させた。
翌日、18日は、兵力を二分し、全線に渡り、攻撃を開始した。

更に、隣の島、テニアンに対しても、砲撃を開始するに至る。

その間、一般市民は、戦乱を避けて、島の東海岸沿いに、北へと避難した。
老人、子供を伴った逃避行は、難渋を極めた。
着の身着のまま、持てるだけの荷物を手にした人々の列が、北へと移動していく。

サイパンは、河川が少なく、飲料水に不自由した。
更に、米軍は、水源地のほとんどを、占領していたのである。

日本軍司令部と、斎藤師団長は、残存兵力を、北部タナパグ南東地区に集結させて、最後の抵抗を試みることにした。
しかし、米軍の急迫は厳しく、日本軍が二二一高地と呼んでいた、西側から日本軍陣地に侵入し、戦況は、急速に最終的段階に達した。

繁華街である、ガラパン地区に、最後まで踏みとどまっていた、海軍第五根拠地隊も、玉砕した。

7月5日、中部太平洋方面艦隊長官、南雲忠一中将、第四十三師団長、斎藤義次中将、第三十一軍参謀長、井桁少将、初期の段階で、潜水艦の指揮に任じていた、第六艦隊長官、高木武雄中将らは、それぞれ中央に対し、訣別電を発した後、6日に、自決したのである。

残存兵力、約3000は、7日、三時三十分以後、おのおの正面の米軍に対して、総攻撃を行い、サイパンの地上戦闘は、終わった。
玉砕である。

9日、サイパン島の北端に、組織系統を失った兵士と、約4000名といわれる市民が、追い詰められていた。
市民の多くは、「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」という、戦陣訓を守り、軍から手渡された手榴弾で、自決した。

悲惨だったのは、女性達である。
マッピ岬の断崖から、身を投げて命を絶つ。
幼児を抱いて、宙に身を投げる姿を見ていた米兵たちは、銃を握り締めて、ただ、その場に、立ち尽くした。

つまり、「あ」号作戦の失敗は、サイパン同様に、グアム、テニアンをも、孤立させた。

当時、グアム島に留まっていた兵力は、第二十九師団を基幹とした、約18500名である。

グアムに対する、米軍の上陸は、7月21日から、開始された。

28日、高品二十九師団長が、戦死し、その後は、小畑軍司令官が、約5000名の残存兵力を指揮したが、8月10日を最後に、外部との連絡を絶った。

テニアン島は、第一航空艦隊長官角田覚治中将が位置していたが、多くの航空機と、搭乗員を失い、その務めは、すでに終わっていた。

7月24日以来、米軍の上陸を受けていたが、8月3日、その組織的抵抗は終わっていた。
玉砕である。

ここで、サイパン、グアム、テニアンが、玉砕した。

私は、サイパンに慰霊に出掛けた。
美しい海の色・・・
至る所で、祈りつつ、歩いた。

今も、観光地として、多くの日本人が出掛ける。

私の慰霊の、きっかけとなった、話しは、このサイパンに軍人たちの、霊が出るというものだった。
それは、もう、30年も前の話である。
その際に、戦後、50年を経ても、幽霊になると言う話しに、是非、慰霊の旅をしたいと、思った。

霊の存在の、有無ではない。
そういう、記憶が残るという、悲しさである。

霊とは、思念であり、念であり、思い、である。

その、思いを深く受け止める行為が、慰霊である。
そして、祈りである。

敗戦後、60年から慰霊の旅を始めた。
そして、良かったと思う。
それにより、私は、戦争のことの、多々を知った。
平和運動をせずとも、慰霊の行為は、そのまま、平和への行為であることを、知ったのである。
posted by 天山 at 07:28| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月12日

玉砕83

サイパンの玉砕は、大本営の「絶対国防圏」の、最も重大な一角である、中部太平洋方面が、破綻したことである。
より具体的には、太平洋戦線に、新しく出現した、長距離爆撃機B29の、日本本土直撃の前進基地と化すこと。

首相経験者などの、重臣を中心とする、一部の人たちの間には、以前から、反東條内閣への動きがあったが、この時期に至り、これらの人たちの動きが、にわかに積極性を帯びてきた。

戦争終結の声も、一部では、囁かれたのである。
そして、今振り返れば、戦争終結を早々に成していれば・・・
あれほどの、被害はなかったのである。

だが、開戦も、難しいが、終結もまた、難しいのである。

昭和19年、1944年、7月17日、七名の重臣が、平沼邸に集まり、陸軍の長老阿部信行をはぶく、全員が、東條の退陣に一致した。

木戸幸一内大臣は、参内して、天皇に重臣会議の結論を上奏した。
だが、東條は、その情報を未明に知らされ、即座に辞職を決意した。

7月18日、東條内閣総辞職にともなう、後継内閣首班の奏請につき、重臣会議を開いて、結果的に、上請されたのは、当時の朝鮮総督、小磯国昭陸軍大将、および、米内光政海軍大将だった。

重臣会議の発言では、戦争完遂が第一目的、戦い抜かねばならないという、内容が主流を占めた。
つまり、戦争続行内閣である。

小磯内閣は、東條内閣とは、変わりなく、あったということだ。

サイパン、ビアク島の、玉砕により、絶対国防圏が一挙に崩壊した後、フィリピン、沖縄、台湾を結ぶラインにおいて、連合軍の進攻を迎えなければならなくなった。
そればかりか、直接本土に対する、上陸作戦さえも、懸念されるに至ったのである。

当時、大本営海軍部は、三つの選択肢を考えていた。
一つは、マッカーサーが、ニューギニア西北部から、フィリピン奪還の後、日本本土に至る。
二つ目は、ニミッツ攻勢をもって、一挙に台湾、南西諸島を衝き、フィリピン奪還のマッカーサー勢力と、合流して、九州に進攻するというもの。
三つ目は、ニミッツ攻勢による、マリアナ諸島から、日本本土に至る。
である。

特に、二つ目の可能性が高いと、見ていた。

いずれにせよ、連合軍は、艦艇の修理、航空機の整備などに、二ヶ月を要すると考え、以上の、いずれかの攻勢ルートを進攻してくるとの、確信である。

それは、大本営海軍部においては、本土、南西諸島、台湾、およびフィリピンを最後の防衛要所として、八月以降に行われる、連合軍の侵攻に対処しなければならなくなったということだ。

しかし、攻撃態勢というものの、連合艦隊においては、「あ」号作戦の敗北は、米空母部隊との艦隊決戦は、不可能となっていたのである。

連合艦隊としては、次の作戦を、基地航空部隊を中心に進めるしかなかった。

いずれにせよ、日本軍にとっての最後の防衛要域である、フィリピン、台湾、沖縄などは、それらの、どれ一つを失っても、また、各要域を維持することが出来たとしても、海上交通の確保が出来なければ、戦争の続行は、無理であった。

この窮地に追い込まれた日本が、今後も、戦争を継続するとすれば、本土の防衛のみならず、蘭印を始めとする、南方資源地帯をも、確保しなければならない。
そして、そのルートを確保するためには、以上の要域の防衛が絶対に、必要であった。

米軍の次期進攻に対する海軍の作戦構想は、否応なしに、ギリギリの、最終決戦の形相を帯びてくる。

陸軍もまた、従来のソ連に対する配慮を捨てて、最後の要域防衛に、全力を傾注する姿勢を見せていた。

つまり、この時点で、戦争の趨勢は、決していたのである。
つまり、敗戦である。

戦争を終結するという問題・・・
はじめる時より、複雑化している。

そして、結局、対米決戦指導要領では、フィリピン方面における、地上決戦の方面は、北部比島付近とすることになった。
それは、作戦上の要求というよりも、主として、地上兵力量の関係から、やむなくとられた処置である。

「捷」号作戦の策定・・・
この言葉、文字の意味は、戦勝、勝ち戦を意味する。
捷、しょう号作戦である。

捷一号作戦は、フィリピン方面。
捷第二作戦は、九州南部、南西諸島、台湾方面。
捷第三作戦は、本州、四国、九州方面。小笠原諸島。
捷第四作戦は、北海道方面である。
以下、仔細については、省略する。

大本営は、そのほかに、源田実参謀の着想を採用した。
それは、悪天候に乗じた奇襲作戦、または夜間攻撃を、専門にする特別部隊の編成である。

これを、基地航空兵力の中核にして、米機動隊打倒の突破口を開くものである。

フィリピン、沖縄、台湾など、当面予想される、決戦正面は、台風のコースである。
源田の立案した、この特殊部隊は、台風観測の、気象班を加えて、全海軍から抜擢された、精鋭飛行隊をもって編制され、T攻撃部隊と呼称された。

その総兵力は、実動約150機で、戦闘機二隊、攻撃機六隊からなり、指揮官には、久野修三大佐が、任命された。

米機動部隊は、依然連合軍進攻の、中核的兵力をなしていたが、これに対するわが機動部隊には、もはや、その本格的な再建を期待することは、出来なかったのである。

当時、第三艦隊に所属する各種空母は、近く就航予定を含めて、九隻存在していたが、それに搭載する、艦上機が、間に合わないという状態であった。

更に、これらの空母は、内海西部に留められた。
空母搭乗員の養成が、基地航空部隊よりも、時間を要したのである。




posted by 天山 at 06:14| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月13日

玉砕84

「捷」号作戦実施の直前になり、突如、第一航空艦隊指令官長官、寺岡謹平中将が、更迭された。
この人事の裏には、「ダバオ誤報事件」がある。

これは、フィリピン・ダバオにおける、見張り所が、沖合いの白波を、米軍の上陸用舟艇と、見誤ったことに端を発した、事件である。

寺岡中将が、第三代目にあたる、一航空長官に新補されたのは、昭和19年8月7日である。早速、幕僚を帯同して、ダバオに着任したのが、8月2日だった。

ダバオに開設された、新司令官部の前には、早急に解決しなければならない問題が、山積みされていた。

まず、フィリピンにおける、決戦に備えて、機材や搭乗員を補充し、その訓練に努める。同時に、ミンダナオ、セブ、ルソンなどの、フィリピンと各地に散在している、航空基地の整備も、急ぐ必要があった。

「あ」号作戦当時、指揮下にあった数多くの航空隊は、大部分が解隊されて、戦闘機隊の、第二○一航空隊、陸攻隊の、第七六一航空隊、偵察機隊の、第一五三航空隊、輸送機隊の、第一○二一航空隊などが、発展解消の形で残っていた。

ただし、以上の部隊は、ダバオではなく、サンボアンガ、セブ、ニコルスの各基地に、それぞれ駐留していた。

特に、二○一航空隊は、セブ島において、爆弾を搭載した、ゼロ戦による、反跳攻撃の特訓を行っていた。
この攻撃法は、昭和18年の中期、米軍によって開発された必殺中の、新戦法だった。

爆弾を直接的艦隊に命中させるのではなく、いったい海面に叩き付け、空中に反跳させて、目標にぶち当てるという、方法である。

威勢に乗る米機動隊に対して、いまや従来の方法では、歯が立たない。
更に、搭乗員の技量は、低下の一途を辿っていた。
技術を獲得するだけの、時間が、無かったのである。

この、反跳爆撃は、従来の攻撃法に比較すれば、錬度の低い搭乗員でも、かなりの成功率を期待できるとされた。
ただし、反面、敵艦に対して、正横方向から超低空で、接近しなければならないため、当然、犠牲も大きいことが、予想された。

だが、結局、この必殺攻撃法は、九月半ばの米機動部隊による、セブ島空襲により、大量の航空機が失われ、中止となった。

そして、このことにより、「体当たり攻撃をも辞せず」という考え方が、醸成されたのである。
つまり、特別攻撃隊の萌芽である。
特攻攻撃のことだ。

いったん芽生えた、悲壮な感情の素地は、のちに同隊員たちにより、「神風特別攻撃隊」の案が、すんなりと受け入れられたことと、無関係ではないのである。

さて、一航艦司令部は、ミンダナオ島の、ダバオの街外れの、林の中にあった。

低地でもあり、しかも基地には、偵察の飛行機もなく、受信能力は皆無で、艦隊司令部は、現地の根拠地隊からの、情報を、唯一の頼りにしている有様である。

寺岡長官は、不自由さをしのび、暫くは、戦う舞台ではなく、再建整備のための、司令部に徹しようとしていた。
当初、司令部は、マニラに移動する予定だった。
その移転先も、通信施設が不十分ということで、9月10日に延期していた。

その矢先に、ダバオ誤報事件が、起こったのである。

9月9日、ダバオは、初めて、米艦載機群の、猛烈な急襲を受けた。
温存主義の上に、ダバオには、戦力の備えがなかった。
敵の、思うがままの攻撃に、ただ任せるしかない。

米機は、翌日も、来襲した。
昼近く、敵の上陸用舟艇多数が、サマル島の沖をダバオ基地に向っているという報告が入った。
サマル島は、ダバオ湾の奥に浮かぶ島である。

敵がダバオに上陸という報は、全軍を駆け巡った。
取り返しがつかなかったのは、連合艦隊司令部が、「捷一号作戦警戒」を発したこである。

寺岡長官は、移動中の一航艦の指揮を、マニラにあった、二十六航戦司令官、有馬正文少将に委ねた。

その後、疑念を抱いた、一五三空所属の、第九百一隊長美濃部正大尉が、応急処置をほどこしたゼロ戦で、ダバオ湾内をくまなく偵察した結果、敵上陸は、見張りの誤認と判明し、一航艦は、取り消しに、大わらわとなった。

そして、翌日の11日、一航艦司令部は、予定通り、マニラに移動した。
ところが、それだけに終わらなかったのである。

ダバオを去った翌日、12日、米機動部隊が、セブ島等を、攻撃し、主力である、二○一空が、思わぬ大打撃を受けた。

実は、10日、マニラにあって、ダバオに敵上陸を知った、有馬正文二十六航戦司令官は、当時、ルソン島にあった、二○一空の戦闘機隊に、セブ基地集中を命じていたのである。

その後、敵上陸が誤報と分り、一部は元に戻したが、なおセブ基地には、100機余の戦闘機が残っていた。
そこを、急襲されたのである。
邀撃に飛び立ったゼロ戦も、不利な態勢からの空戦を強いられ、その大半が撃ち落された。

地上撃破と共に、約半数を失い、残りの約30機も、中小の損害を被ったのである。

それから、一ヵ月後の、10月15日、有馬少将が、衝撃的な戦死を遂げる。
マニラ北部の、クラーク基地において、攻撃に飛び立つ一式陸攻に乗り込み、そのまま帰ることがなかった。

有馬は、以前から、「この戦争では、上に立つ者が死ななければならぬ」と、口にして、死処を求めていた様子であった。
当時は、セブ島での、大損害に責任を感じてのこととして、認識されたが・・・

いずれにしても、司令官の身で、攻撃機に直接搭乗するなどとは、異例の行動であり、寺岡中将の衝撃は、あまりにも、大きかった。

これより先の、10月5日、第一航空艦隊司令長官として、軍事省航空兵器総局総務局長だった、大西龍治中将が、発令された。
この、大西中将こそ、特攻隊の決断者である。



posted by 天山 at 06:01| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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