2015年09月28日

玉砕71

インパール作戦は7月5日に中止ときまり、総退却となっていた。我々第一線の者は大局の戦況などなにひとつとして知ることもなく、みずからの肉体をもって防戦につとめていたのである。
井坂

責任の所在なき、インパール作戦であった。
前線の兵士たちは、7月に中止と決まりとあるが・・・
実際は、その二ヶ月前に、中止が決められていた。

その二ヶ月間の間・・・
悲劇が更に、悲惨を生んだのである。

強行に作戦を指示した、牟田口司令官と、河辺司令官の、二人の司令官は、5月に、おおよそ作戦中止を暗黙のうちに、決めていた様子である。

すでに、第三十一師団は独断撤退に踏み切っていた。
事実上、作戦の失敗が決定的になっていたのである。
ただ、司令官たちは、優柔不断だった。

その、二ヶ月間、前線の兵士たちは、悲惨な戦いを強いられていたといえる。

インタンギーの司令部にて、両司令官が、作戦中止を決定していたら、戦死者の数は、減っていたはずである。

両司令官は、4月には、作戦の失敗を認識していた。
しかし、正式な作戦中止は、7月に入ってからである。

6月22日、コヒマーインパール道が、連合軍により、突破され、1000両もの、戦車、自動車が、インパール平地に進出してきた。
この事態が、ついに、牟田口司令官に、作戦中止を決意させたという。

6月末、ビルマ方面軍から、南方軍、そして、大本営へと、戦局の重大転機であるという、報告が入る。7月1日、インパール作戦中止の上奏がなされ、大本営は、作戦中止を認可したのである。

ガダルカナル以上の被害を出した、作戦である。

日本軍は、10万人以上で、そのうち、戦死者は、3万人、負病者は、4万人とされている。
イギリス側の戦死、戦病者は、1万7000余名である。

これは、インパール作戦だけの、犠牲である。
ビルマ戦線を総括すると・・・

撤退の道が、白骨街道と呼ばれた。
第三十二師団のみならず、残りの二師団も、敗走が始まった。
兵士たちは、疲弊し切って、チンドウィン河に辿りつくまでに、次々と倒れ、インパールから、ビルマの山々、谷、街道には、おびただしい、日本兵の死体が、横たわった。

証言
本山孝太郎少尉の部隊は、フミネまで夜間行軍で退がってきたが、そこからは、昼間歩くことにした。
山間の小道の光景は、いやがうえにも、目に飛び込んでくる。
木陰、岩陰には、死体が、かたまって、並んである。

ボロボロの軍服を着た白骨に、別の白骨が、もたれかかり、その上にまた、別の死体がもたれかかっている。
三つ目、四つ目の死体になると、死んで間もないため、まだ内蔵が残って、蛆が湧いている。
蛆は、死体の腹の上に、山のようになって動いていた。
死体は、一ヶ所に、20くらい並び、多いところは、30以上も、集まっていた。

そして、生きながらえた者たちも、異常な心理状態になり始める。
本田少尉の話し
「こういうことはあまり言いたくないんですが、皆、人間性をなくしていましたね。フミネでわずかでも、二合でも三合でも、カビのはえた米でも交付を受けています。
ところが、皆が同じような状態ならそうはならないんですが、健康状態に差がありますでしょう。そこに、強者と弱者が出てくるんです。元気な者は「もう少し食いたい」ということで、掠奪、強盗が始まったんですよ。だから、ここからはそれこそ地獄街道ですわ」
責任なきインパール NHK取材班

食べ物は、勿論、衣服や靴、薬などが、略奪された。
死んだばかりの兵隊、あるいは死にそうな兵隊の肉を剥いで、食った者もいたという。
飢えと、病と、雨、敵の追撃、平常な神経ではいられなかったのである。

また、悲劇は、自ら、命を絶つ者が続出した。
小銃で、手榴弾で・・・
自殺は、夕方に多かったという。

本田少尉の部隊は、120名いたが、48名になっていた。
だが、戦闘で死亡した者は、4名である。
あとは、皆、病死、餓死である。

悲劇が極まり、悲惨となり、そして、最後は、罪になる。
一体、誰が、その罪を引き受けるのか・・・

追撃した、イギリス軍も、日本軍の惨状を見ている。
部隊長だった、ジョン・ナナリー少尉の証言。

部隊はディマプールから、まず戦闘が終わったばかりのコヒマに到着した。丘には、一本の木も残っておらず、補給用のパラシュートがあちらこちらに散乱していた。息をしているものは何もないと思われるほど、荒涼とした景色だった。
そこからトラックを使ってパレルを経由してカボウ谷地に入り、タムに向った。タムで日本軍の野戦病院跡を発見した。草でできた小屋がいくつか並んでおり、小屋の中の簡易ベッドには、400人以上の日本兵の死体が残されていた。死体は軍服を着て包帯を巻いていたが、血の染みた包帯がほどけてベッドや地面に放り出され、まだ残っている人肉をウジや蟻が食っていた。ひどい死臭が漂っていた。
その死体のかたわらには、兵士の妻や子供、恋人の写真、富士山や桜の花、梅の花の絵葉書、そして日記帳などが落ちていた。今際の極みに、思いたち難く眺めていたと思われた。胸が締め付けられるような光景だった。
タムからカレワまでの道には、数メートルごとに日本兵が倒れていた。中には何とか逃げようとし、小銃を杖にして力を振り絞る者もいたが、やがて力つきて死んでいった。道のかたわらの川に、日本兵の死体がたくさん浮かんでいる光景も見た。川岸には、白骨化した死体や死んだばかりの遺骸が並んでいた。
死体は、ジャングルや道や小屋やトラックの中や、ありとあらゆる所にあった。腐敗ガスで腹がふくらみ、ぞっとする臭いがした。
タムから数十キロ南の村で、はじめて生きている日本兵に出会った。村はずれにほこらがあり、その中の仏像の足元に、裸の日本兵が倒れていた。痩せこけて骨と皮だけになっていたが、生きていた。空になった水筒しか、持っていなかった。簡単な担架を作って後方の医療部隊に運んだが、間もなく死んだという。
途中、何度か日本軍の反撃にあって、戦闘が行われたが、武器も体力もなくなっていた日本軍には、勝ち目はなかった。
NHK取材班





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2015年09月29日

玉砕72

インパール作戦中止を決めるまでの、二ヶ月間を前線の兵士たちは、倒れつつも、戦った。いや、斃れた者が多い。

その前線の兵士たちの様を、井坂氏が書き付ける。

「井坂、痛いよう。井坂、痛いようっ」
戦友の桜井が泣き出した。腰をやられているので横になることができないので、アンペラ壁に寄りかかったまま寝ていたのだ。
彼の左腕は腫れて腐ってきた。包帯は膿でよごれ、蝿と蛆が追っても取っても、湧いてでるようにうごめいていた。ガス壊疸は、私にはなんとも手のほどこしようがない。はやく腕を切断しなければ、死を待つばかりだ。
食料がないというのに、病舎のまえには野性のマンゴーが鈴なりに黄色く熟していた。だが、だれも落とすことができない。
死ぬ前に戦友たちに食べさせてやろうと、私は左手で棒切れを投げつけてみた。小粒のマンゴーが、パラパラと落ちた。五名くらいが這ってきてひろいはじめた。
「いいか、分けてやれよ。一人で食ったらぶん殴るぞ」

ある日、便所から帰ったとき、
「いま、肉を売りに来た兵隊が、金がなければ物交でもいいといってたんだ」と一人の患者が言う。
「肉なんか、なんでいまごろ、あるはずがない」
「ほんとうに来たんだ。なにもないと言ったらかえって行ったんだ」
不吉な予感がした。だれか兵隊の肉を、と話そうとしたとき、蒼白な顔をした兵隊が、遠くから大声をだし、
「川に、たおれた兵隊の太股が切り取られていた!」
連呼しながら、よろよろ近づいた。
「死んでいる兵隊か、生きている兵隊か」
「わからないが、死んでいた」
「肉売りの、さっきの兵隊、どっちへ行った!」
「わかんない」
「どこの言葉だ」
「茨城弁じゃなかった」
やっぱりそうか、われわれ弓兵団がやるはずがない。全身が怒りでふるえだし、私はしゃにむに小銃を持ってかけだした。べつの病舎をまわったが、病院からはすでに姿を消していた。
帰ってみると、桜井が静かになっていた。水筒の水を口に入れてやるのだが、思うように飲む力もなかった。他の兵隊と違い、見取ってやれただけよい方だろう。やがて、帰らぬ人となってしまった。
「桜井、楽になってよかったなあ・・・。もうこれから二度と苦しむことはないんだからなあ」
私は一人つぶやいた。7月4日の昼ちかく、衛生兵に連絡し桜井を埋葬してもらった。

前線の兵士たちは、作戦中止を知らない。
それが、悲劇と、悲惨を益々、生むことになる。

パレル東北方高地の味方のようすなどつゆ知らずに、7月5日ころ、私は中隊に復帰しようとテグノパール付近にさしかかった。一日もはやく孤独から解放されたい、生きるも死ぬも中隊員とともにと、ひたすら急いだ。
今振り返れば不思議な心境であった。おなじ友軍同士でも、他の部隊の兵では安心できない心理状態になっていた。これを現代の人にはどう説明したらよいのだろうか。
テグノパール付近を退いてくる兵隊は、軍人でもなく青年でもなかった。軍衣袴はやぶれて泥にまみれ、軍靴は形がくずれ、飯盒ひとつを腰にさげて杖をついている。髪はのび放題で目は落ち窪み、肌は人間の色ではなかった。
あるとき、路傍にたたずむ兵隊に手をかけると、そのままくずれ落ち、すでに息絶えていたのであった。部隊から一人はなれたのみの兵隊は、数日後には白骨となって名前も分らなくなるだろう。

当時、われわれを悩ましたのは、英印軍ばかりではなかった。雨期の雨は炊事用の薪をぬらし、簡単にはマッチでは火がつかず、黒色火薬や棒火薬を手に入れて、ようやく火を起こした。

身体のよごれと湿気と暑さで皮膚病が発生し、皮膚の吹き出物のうえに一つの字の線が浮き出て、そんなところから、だれいうとなく、一文字皮膚病と名がついた。

さらにマラリアは四十度からの高熱をだし、草食の胃腸は衰弱し、やがて血便から粘液便となり、赤痢が蔓延した。食糧の欠乏は、死相の顔をおびただしくつくり上げるばかりだった。

ある日、北方の道路上を警戒していた歩哨から報告がはいり、英印軍一個小隊50名の進出を早期に発見した。ねらいさだめて待つわれわれ七名は、悲壮な覚悟でこれを迎えた。敵は二列で道路上をこちらに近づいてくる、インド兵の黒い顔が大きくなる。われわれは軽機の発射を合図に、いっせいに射撃を開始し、敵に発砲の余地をあたえぬほど銃弾をあびせて、数人を倒した。
いったん退却した敵は、態勢をととのえるとすぐさま反撃してきた。はげしい撃ち合いの中で、戦死傷者を収容した敵は、ついに後退し、来た道をもどっていった。わずか七名で撃退したわれわれは、自信と誇りを感じ、意を強くしたことはたしかだった。

陣地を確保している隊員の中にも、極度の栄養失調にともない、マラリア、下痢、脚気におかされ、動けなくなる者が出た。彼らは濠の中でうずくまり、苦しんだ。陰険な状況の中で、重要な高地を守る兵士七名は、そのうち三名は動けず、四名で守ることになってしまった。

患者を後方へ退けることができないのだ。後方から傷病兵を迎えにくるなどは、夢の中の話しだった。ここでは入った濠をわが墓穴とするほかに、なんの方法もない。この濠が自分の墓と考えると、無性に目の前の土がいとおしくなり、私は濠内の土を手でなでた。
やがて、口をきく力もなくなった戦友にしてやれることといえば、水を少しずつ流しこんでやることだけだった。暗闇に降る雨の音を聞きながら、濠内で銃を抱きしめまどろんでいると、突然、ズダーンという爆発音がひびいた。不覚をとった、敵襲かと銃をかまえたが、それはあわれにも苦しみを断つための手榴弾自決だった。

死人のように動けない身体で、深い濠からどうやってはい上がれたのだろう。二十メートルも木立の間をはった跡が、どろどろの土の上に残っていた。
故郷の家族につたえてほしいこともあったろう。戦友にも一言お別れもいいたかったろうに、一人で先に逝くその悲痛な気持ちはいかなるものか。戦友隊員を負傷させまいと、全精神力で何時間かをついやして濠をはなれ、みずからの生命を断ったのである。

自決は一人では終わらなかった。亡くなった戦友を埋葬しながら、
「楽になって、よかったなあ」
「死んだほうが、よっぽど極楽だろう」
亡き戦友に語り掛け、生きる苦しみに涙した。

更に、
クデクノーにたいする敵の反撃は増大し、ついに温井部隊はチャモールに撤退し、ここレータン西方高地が第一線となった。後方からの連絡もなく孤立し、7月24日の英印軍の総攻撃まで死守をつづけ、後衛尖兵の任務をまっとうしたのである。

インパール作戦が終わっても、ビルマ戦線は、終わらない。
敗戦まで、戦うのである。




posted by 天山 at 06:33| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月30日

玉砕73

インパール作戦は七月五日に中止ときまり、総退却となっていた。われわれ第一線の者は大局の戦況などなにひとつとして知ることもなく、みずからの肉体をもって防戦につとめていたのである。

インパール作戦が中止になっても、戦争は、終わっていないのである。
退却するが・・・
その間も、戦闘行為が続く。
退却、敗走の無常である。

歩兵の第一線は悲壮だ。軍の前に師団があり、師団の前線に連隊が、連隊の前に出る大隊、そしてそのまた前面にわれわれがいた。少数の戦友とともに、戦いにやぶれ夢も希望もすてて、かろうじて高地を確保死守しているのだ。固守の命令を忠実に実行し、戦闘をつづけている。ただ一日の生命、一時の命をたもつために、草を食べ水を飲んで、飢えをしのいでいたのだ。

ビルマ独立のため・・・
日本軍のため・・・
日本の勝利のため・・・
大義がなければ、出来ないことである。

七月に入り、犠牲は日をおって激増していった。六月三十日までの調べによれば、第三十三師団の損耗は戦死傷者約70名に達し、総人員の70パーセントにのぼった。第一線歩兵部隊のみとすれば、90パーセントを越えたであろう。
六月下旬前後に、わが部隊から独歩患者として後送された傷病者は、名ばかりの野戦病院で、道路ばたで、そして渡河のさい渦巻く濁流に流されて、全員が死亡した。

二十日にいたり、兵団をはじめ師団の撤退は急を要した。連隊の撤退にさいし、中隊長代理の広瀬義久少尉、そして、ただ一人の小隊長である山田芳枝准尉以下二十数名が、パレル支隊の後衛中隊となり、レータン西方高地とテグノバール付近の高地死守を命じられた。そしてパレル・タム本道正面により防戦することになった。

撤退、敗走しつつも、戦うのである。
戦争は、終わっていない。
兵士たちは、絶望感の中で、戦う。

そのころ、われわれは山麓の谷間で、友軍のおきざりにした小銃弾二箱を見つけ、狂喜した。・・・

連隊本部が襲撃された直後、中隊からも連絡係下士官が本部にいっていたが、わが陣地下の本道を当番兵と二人でいちもくさんに退却してきた。
山田准尉が呼びとめたが止まりそうもないので、われわれも遠ざかる後ろ姿に、
「曹長殿、曹長殿!」と大声で叫んだが、振り返ることもなく走り去った。やかで准尉は静かな声で、
「もういいから」と隊員たちをとめた。
曹長のように走り去って行くのも、我が身をまもり、命ながらえる一つの方法かもしれないが、残って陣地に散る覚悟のわれわれは、兵の長たる曹長の行動を情けなくあわれに思った。

生きながらえるために、逃げる。
誰が、それを責められようか・・・

敵と対峙すれば、戦う。それが、戦争である。
敵を倒さなければ、こちらが倒されるのである。

中隊員二十名は、本道を一望する小高い山すその岩盤に、不眠不休で濠を掘りつづけた。器具も不足で、円匙と十字鍬を交換しながら、やっと腰の深さになったころ、すでに朝を迎えていた。

やがて山間にこだまするエンジンの音がちかづいてきた。いよいよ戦車かとわれわれは緊張し、赤く充血した目は異様なほどに光った。ここには手榴弾があるだけで、火炎瓶もない。手榴弾を持って飛び降りるには、あまりにも高い絶壁であった。
敵のエンジン音は五、六百メートル前方の山の後ろでとまった。われわれは身を隠し、息をころして待った。すると前方の山すその道路を敵は突兵もださず、いきなり五十名の小隊が二列になって向って来た。さらに百メートルの間隔をおき、五十名が同じく二列になって進んでくる。

斥候も突兵もださないという、あまりにもわれわれをバカにした隊形に、しめたっ、と思ったのは自分だけではなかった。山田准尉は落ちついた声で、
「引きつけろ、分隊長の合図で射撃だぞ」
と命令した。後続の五十名が百メートルの射程に入るまでがまんした。さきに前進した五十名は、われわれの高地真下にちかづいた。

ついに、一発の合図と同時に、われわれは満を持した射撃を開始した。撃って撃って撃ちまくるが、右往左往する敵の目標がありすぎる。小銃の五発ごとの弾込めがもどかしく感じるほどだ。ダダダダン、と軽機もけたたましく唸り声をあげている。

激しい攻撃が、続くさまが、描かれている。
戦闘行為である。
兵士は、戦闘行為のために、存在する。

しかし、敵は、見ず知らずの人間である。
戦争とは、実に恐ろしい。

「戦友隊員の仇討ちだ、いままでの、いままでの・・・思い知ったか」
味方有利のおもわぬ情勢に、うれし涙が出そうだ。山を登る敵を狙い撃つ。下に着弾すると上に逃げ、上に弾着すると下にとび下りる。どいつもこいつも背中丸出しで、演習の標的のように命中した。

兵士は、その戦闘行為の中で、死ぬことを善しとする。
多くの戦記を読むと、それが分る。

しかし、餓死、病死となると・・・
不幸なのである。

更に、日本軍の場合は、捕虜になることも、恥ずかしいことだった。
生き延びることは、タブーである。

だが、その人たちのお陰で、戦争の悲惨さを知ることが出来るのだ。
死んで来いと、送られて・・・
お国のためと、送られて・・・

斬り込み隊、特攻隊・・・
皆々、お国のために、そして、名誉のために死ぬ。

しかし、戦争を美化するのではない。
その死に行く際の、心の模様を、後々、特攻隊の遺書から読み取る。





posted by 天山 at 06:53| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月01日

玉砕74

敗兵の末路は、哀れである。
ビルマ戦線、インパール作戦の戦記を読むが、それは、すべての戦場にいえることだ。

第一線の歩兵は捨石と同じだった。死守・固守せよの命令はうけても、撤退せよの命令を持って来ることはまずなかった。レータン西方高地も同様で、友軍の確保陣地さえおぼつかないありさまだった。片道の命令は、お前たちはそこで死ねということであった。

撤退する道端には、動けない兵隊が置き去りにされていた。顔にあつまる蝿を追うこともできず、やせた手足は関節ばかりがめだち、雨期の雨にぬれて寒いのか、それともマラリアのためなのか、小刻みにふるえていた。われわれをぼんやりと見送る兵隊たちは、みな丸腰だった。
隊員たちは、それぞれ声をかけて、連れて行こうとした。
「いっしょに行くんだ、この後から友軍はこないぞ」
「戦友殿、手榴弾を一発ください」
力ない声で言うが、友軍の自決に使われるほどは持っていなかった。
「この後から敵がちかくまで来ているんだ、はやくしろ、立てよ」
兵隊たちは、みな同じことを言う。
「戦友が、迎えに来ますから」
「来るのは敵だ。退がるんだ」
「立って歩けよ」
彼らの姿を見ていると、涙が出る。どうしてわれわれが三日間も敵をおさえているうちに退がらなかったのだろう。一人でも助かるものならと口々に促がすのだが、一人として立ってくる兵隊はいなかった。
こんどばかりは生きて渡ることはないだろうと思ったシボン鉄橋にちかづくと、一発また一発と散発的な砲弾が炸裂していた。

退路の方向の山に、白いパラシュートが、緑の木々にぶら下がってみえる。英印軍は、われわれの退路を遮断したという。ただ一本の道路を敵に確保され、部隊の退く道はなくなった。この後どうなるかと考えるのも嫌になる。
これより傷病兵の患者部隊は山越えで南進し、健脚部隊は山中をさらに迂回して、モーレを確保するため急進することになった。第一中隊は広瀬義久少尉、山田芳枝准尉、そして渡しをふくむ三人の、計五名だけとなった。第一中隊は五十名くらいにみえた。

急進によって列の前後は長くなるばかりで、二人、三人とやがて遅れはじめた。健脚部隊といっても、なんとか歩ける兵士が選ばれたにすぎず、精神力というか、緊張したなかでの気力だけである。こうなれば歩けなくなったところが最後の場所と、懸命にがんばった。
やがてチークの根本に、一人の兵士が歩行困難になって座っていた。かたわらに同じ部隊の下士官がたっていた。私も立ち止まって心配気に様子をうかがう。
「元気を出せよ、もう少しのがまんだから」
下士官が文句を言った。いたわりの言葉ではない。
「歩けないのか!」
「・・・」
「どうする、だめなら自爆しろ」
「・・・」
座ったままの兵隊は返事をしなかった。下士官は手榴弾を持ち、
「手榴弾をやめから、やれ」
「・・・」
兵隊はだまって目を閉じ、うつむいたままだった。
「できないのか!」
下士官は思い余って銃をかまえた。部隊は遠く離れて、さきの山中へ入って行ってしまった。このままだと下士官はほんとうにやりかねない。あまりの見幕に見かねて、
「何をするんだ、そこまでやらなくても」
「このまま置いて入ったら、一人で苦しむばかりだ。かまわず行ってくれ」
「そのままにしておいてやれよ」
他隊のことなので、それ以上のことも言えず、二十メートルばかり離れたとき、「バーン」と鈍い音がした。振り返り立ち止まっていると、下士官が追ってきた。ほんとうにやったのか、と心中、怒りを覚えた。
「やってしまったのか」
「うん・・・」
「やるなと言ったのに!」
「しかたがないんだ・・・」
下士官も涙声になった。だれだっか兵隊の氏名も聞かなかったが、戦友に撃たれて死ぬとは情けなかったであろう。自分の中隊員であったら、下士官といえどもただではすまないが、他隊ゆえに私はがまんした。

上記は、戦記の書かれてあることで、事実である。
そのような、玉砕も、あったということだ。

戦場とは、通常の場ではない。
尋常ではない場が、戦場である。

苦しませて死ぬより、即座に死ぬ方がいいと、判断したのか・・・
分らない。

本道の南を迂回し山中を歩いた部隊は、やっとモーレに入った。そこには驚くべきことに、道路ばた、木の下、家の中から床下にいたるまで、友軍の死体が散乱していた。動いている兵隊はほとんどなく、死臭があたり一面にたちこめ、鼻をついた。激戦をへたわれわれ兵士でさえ、まさに目をおおうばかりの惨状であった。

ここで休憩となるが、腰をおろす場所がない。付近一帯には血便が散乱し、屍を見ながら立ったまま銃を枕にして休んだ。出発にさいしては、銃床に付着した便を草や木の葉でふきとってから担いだ。

日本軍将兵たちのいたしまい姿はここだけにとどまらず、行く先で動かない兵隊が腐った骸となり、あるいはなかば白骨化していた。敗戦にともなう敗兵の末路を見せ付けられ、悪寒が背筋を走った。悲惨、無情、神も仏も、わが軍を見捨てたのかと思った。

たどり着いたモーレには友軍の死体だけがあり、糧食はなにひとつ準備されていなかった。ただ、敵が残していった純毛の毛布が、簡易倉庫の天井にとどくほど山積みにされていた。敵の入ってくるものも時間の問題となったいま、ふたたび敵の掌中に帰するのかと思うと、無性にしゃくにさわる。
「毛布をだめにしてやれ」
倉庫内にたまった水の中に毛布の山をつきくずし、何十枚もの毛布の上でやっとわれわれは休憩した。

タムに入っても、兵隊の死体が同じようにつづいた。このまま死体を整理する者もなく、朽ち果てるのにまかせるのかと思うと、感慨無量、悲嘆にくれる。

この有様を見続けて、兵士たちは、更に、敵と遭遇して、戦うことを、繰り返す。
延々と続く、戦記の記述に、呆然とする。

だが、何度も、繰り返して読むべきだと、思う。
これが戦争であり、戦争反対というならば、読むべきである。

ただし、現在は、戦争ではないかと言われれば、私は、戦争状態にあると、言う。
戦闘の戦争ではなく、情報の戦争である。
中国、そして、その属国、韓国が、捏造した日本軍の蛮行を、世界に向けて、繰り返し発進しているのである。

これも、戦争であると、意識、認識すべきなのだ。

そして、本当の戦闘が起こったとき、世界の国々が、そのウソの情報を信じたら・・・
日本を叩き潰そうとするだろう。


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2015年10月19日

玉砕75

タムについて、やっと古い米にありついたわれわれは、追撃してくる敵に対峙するため、少しでもはやく体力をつけようと、むさぼるように食った。しかし、飯盒で炊いたせっかくの飯は、喉を通らなかった。

いよいよおれも終わりかと思っていると、隊員たちも騒ぎだした。長い間、ドロドロしたジャングル野草に馴らされたわが身のためだった。三分粥に炊きなおして、やっと胃にいれた三ヶ月ぶりの米の飯も、期待したほどうまいとは感じなかった。どうしたことかと心配したが、たずねてみると、だれも同じだったのでひと安心した。

七月三十日ごろ、部隊はヤナン渡河点にさしかかった。だが、ここには撤退する患者が集い、昼間敵機がアラカンを越えて銃爆撃を繰り返した。やがて砲弾も落下するようになると、友軍の混乱はますますひどくなった。

われわれはミンタミ山系に入り、チンドウィン、ユー川支流にそって南下し、ミンタミ河を渡河しようとした。
渡河は、対岸まで張られた鉄線を自力でたぐりながら越えるのである。一回四名ずつが川に入って、鉄線をにぎり交互に手をのばす。
大きな川ではないが、流れははやく水量が多いので、両足が川底からはなれると、鯉のぼりのような格好で流されてしまう。それでも対岸に近づこうと腕をのばす。

川のなかほどで進めなくなった隊員が、精魂つきたのか手を放してしまい、あっという間に押し流された。
「助け・・・くれえ・・・」
と絶叫し、水面に二度、姿をあらわしたが、やがて濁流が渦巻く下流に消えてしまった。三途の川を渡らなければ、われわれには生きる望みはなかった。

それでも、敵がその後を、追ってくるという、状態である。
撤退、ではなく、もはや、逃げるのである。

この記述は、他のビルマ戦記にも多くある。
川で流れて、死ぬ。
また、ワニに襲われて、死ぬ。

敗走する日本軍は各地で防戦をつづけ、雨期の病魔と飢餓に苦しみつつ行軍した。昼なお暗い谷底の水にジャングルの落葉がくさり、山中はすさまじい臭気となる。
一ヶ月前、この悪路を中隊に追及しようとした補充兵の一隊があった。しかし、中隊に到着したのは二名だけで、あとは途中から引き返し、名前すらわからない兵隊もあった。

今あえて、当時の、大本営、軍の幹部たちについて、非難、批判するのは、避ける。
しかし、どの戦場、それは、日本だけではなく、他国の兵士たちも、死ぬのは、若者である。

戦争を始め、指揮する者たちは、戦場にはいない。
特に、当時の日本軍の悪質さは、天皇を盾にして、その天皇のために、戦えと、激励したことである。

洗脳・・・
当時の、洗脳の中で、不可抗力を生きなければならなかった。

大東亜戦争、第二次世界大戦という、人類史上初の、大戦を日本が戦ったということだけを、考える。

戦記は、細部を見つめるものである。
そして、大局を見つめる必要がある。

大局とは、この戦争の意義である。
結果的に、この戦争は、世界の植民地解放の、重大な大戦となったということ。

白人支配の、植民地が、すべて独立を果たした。
それが、何よりの、意義である。

戦った兵士たちは、日本のために・・・だけではなく、世界の植民地のために、戦った。
それを、言うのが、独立した国々である。

日本に対する、独立した国々からの感謝と、賞賛の言葉が、救いである。

そして、更に、恐ろしいのは、白人たちの、人種差別である。
敗戦になり、突然、日ソ不可侵条約を破棄して、開戦を宣言した、ソ連などは、悪魔の形相である。

そして、アメリカの、原爆投下は、全く必要なかった。

更に、日本が原爆投下を受けて、その有様が悲惨であり、使用出来ないものだとの、認識がありながらも、核兵器を造り続ける世界。

人間とは、何か・・・
この世は、魔の世界が支配しているとしか、思えないのである。

中隊は大隊とともに、八月五日にモーク付近に到着し、敵を迎え撃とうと悲壮な覚悟で前線の高地を確保し、陣地構築に専念した。・・・

七月二十日より、モークに集結した患者が後送された。八月二十日までにわが中隊からは十三名が後送されたが、彼らは回復することなく全員が亡くなった。

この作者も、遂に、歩くことが出来なくなった。
それでも、這いずりながら、隊員のために、食事を作ったという。

牟田口軍司令官は戦闘司令所から後退するさいに、兵隊の襲撃をおそれ、みずから兵隊の服を着用して後方へ逃走した、と兵隊間につたわった。牟田口司令官はウ号作戦(インパール作戦)を策定し、無謀な攻撃をおしつけておきながら、第一線の視察すらしなかった。

われわれの考えとはうらはらに牟田口中将は、ビルマ方面軍司令官河辺中将とともに、八月三十日付けで参謀本部付きに発令され、ビルマをあとに日本へ帰ってしまった。数万の兵士を犠牲にし、屍のつづく白骨街道を見ておりながら、その重大な責任の所在はいまもって明らかにされていない。

チンドウィン河の付近に残された日本軍将兵は、これからふたたび血みどろの戦闘に入り、終戦までねばり強い戦闘をつづけた。

敗戦から、今年で70年を経た。
どこまで、当時の戦争を理解している人がいるのかは、知らない。

そして、平和を叫ぶ人たちが、どこまで、当時の戦争の有様を知っているのか、知らない。

日本は、それから、70年、戦争をしていない。
そして、日本は、70年経ても、当時の戦死者たちに対する、当然の処置をしていない。

未だに、帰還しない、兵士たちの遺骨は、113万人である。
もう、遺骨収集は、無理だろうと思う。
自然と同化した。

残る行為は、ただ、追悼慰霊である。




posted by 天山 at 06:22| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

玉砕76

運命とは不可解なもので、英印軍との戦闘の前に私は鴨志田中隊長と入れ替わるように、十月上旬、モークをあとにしてカレワをめざして急いだ。
死刑を宣告された者が無罪放免になったようなものか、あるいはそれ以上だ。全員が死刑のなかから、一人だけ助けられたのも同然だった。

西に低い山々がつづき、わずかに開けた平地の道路を、今日も傷病兵の群れが助け合いながら歩いている。闇の中を行軍してゆくと、やがて野戦病院の付近らしく、患者輸送の車を待つ一団が、道路近くに集まっていた。昨夜は来なかったが、今夜は来てくれるのかと待っているという。病舎の小屋があるのかと見回したが、暗い木立の中にはなにも見えなかった。

足もとを這う二人の患者がいたので、私は声をかけた。
「どうしたんだ」
「状況が悪いので殺される。自動車が来てませんか」
夜露にぬれながら、しばらく這ってきたのか、その兵隊は体をふせたまま苦しそうに、泥にまみれた手で顔をおおって泣いていた。いくらなんでもそんなことが、病院で動けない者を殺すなんて、あるわけがないと思った。
しかし、病院を閉鎖する直前に、動けない患者を注射で死なせ、残りの者には手榴弾をくばって、自爆をすすめたというモーレ野戦病院のうわさを聞けば、本当かもしれないと、ぞっとした。それがここでも行われているのだろうか。

患者の悲憤の涙、だれにすがることもならず、死ぬ一瞬までひとり煩悶する兵士たち。彼らの胸中を思うと涙がでてくる。第一線同士の傷つき病んだ二人の戦友に、
「きっと迎えがくるよ。自分らは命令で急がなければならないが、至急もどってくるんだよ。力を落とさないでがんばれよな」
力づけたつもりだが、何もしてやれずに別れる弁解だったかも知れない。

戦記を読まずにいたら、こういう事態も、知らずにいた。
動けない兵士を、射殺する。
傷病兵を殺す。
これは、地獄である。

雨期も終わりに近かったが、道路にはいまだに水たまりも残っていた。われわれは夜行軍のあとも、つづけて昼間も歩くことにした。道を避けるように両側に休んで寝ている兵隊がいる。彼らは生きている兵隊ではない。永久に眠りつづける若き骸だった。

死骸の状態はそれぞれ異なっていたが、悪臭はおなじで、気分が悪くなる。彼らは背嚢と兵器は持たないが、軍服を着て、頭蓋骨が戦闘帽をかぶり、足の骨が靴をはく。大きな目の穴、小さな鼻の穴、白い歯のならぶ口。そのとなりで口や目から蛆があふれ出て、地面にうごめいている。この世のものとは思えない光景がしばらくつづく。

息絶えたばかりの苦しそうな顔、憤怒の形相にはさもあろうと思い、眠るがごとき安心した顔には、われわれも心がやすまる思いがした。
だが、いったい、これらはどこまで続くのか。やぶれた襦袢の腹から、傷からこぼれる蛆虫、汚れた軍服と対照的な白い蛆が、兵隊の肉を食べていた。われわれは休憩したくとも場所がない。いまさらに驚く死体の数。敗け戦とはあまりにも悲惨だ。親兄弟が、妻や子が、恋人がこれを見たらどう思うだろう。

これからも果てしなくつづく戦闘に、ふるえるであろう亡き数に入る兵士たち。その一人が自分でもあるのだ。
「おれもこの中の一人になるのかよう。悔しいなあ」
銃床をにぎる手がしびれるほどに力が入る。死んだ兵隊も残念だろうが、生きている自分のゆくすえを思うと、無念の涙で狭い道がかすんでしまう。ビルマ鳥が不気味に鳴いて飛んでいった。

ここに斃れている兵隊たちは、パレルから、モーレ、モーライクから、独自で後退した傷病兵たちだ。五十キロも百キロも歯を食いしばって、杖をつき、生きたい、生きようと最後の一歩まで歩いた、ここがその終点である。

この長い道のりは、靖国の社で家族や戦友に会えると信じて疑わなかった亡き兵隊たちにかわって、生き残りの戦友たちが名付けた「靖国街道」であったのだ。

靖国街道、白骨街道・・・
目に浮かべることさえ、躊躇われる。

だが、ビルマ戦線は、敗戦まで、転戦、転戦が続く。
終わりの無い戦いになっていた。
それも、撤退、撤退の戦いである。


posted by 天山 at 07:01| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月21日

玉砕77

六一四高地から三日間の脱出行が終わりをつげ、私は背中の戦友をおろして軽くなったが、帯革のあたった部分が擦り切れて血がにじみ、しばらくのあいだ汗がしみて痛かった。一大隊への合流復帰は、一月二十八日であった。

この年が、敗戦の年となる。
その敗戦まで、戦い続ける兵士たちである。

モニワ付近のタメンガン村東南二キロの六一四高地を撤退し、第一大隊主力に追及したわが中隊は、南下中の敵第二十インド師団を阻止、防戦すべく、イラワジ河畔に向って転進した。
一月二十九日、サメイコン周辺の、イラワジ河とチンドウィン河の合流地点の中洲に、われわれは配備された。第一中隊は、その後、追及者もあり、稲葉少尉、山田少尉以下の二十名になった。

いたるところに進出した敵は優勢をきわめ、日一日と緊張の度がくわわる。この平野部で戦車、砲、飛行機を有する敵にたいし、どうしたら有利な戦いが展開できるのだろうか。いよいよ中州が最後の地となるのか。前にも後ろにも大河をひかえ、これがまさに背水の陣であろうと観念した。

二月中旬ごろ稲葉少尉は、各中隊から三名を選び、十五名をもって師団直轄斬り込み隊を編成した。それぞれナベ川を渡河出撃し、一中隊は山田少尉が指揮をとった。

この、斬り込み隊とは、特攻攻撃と同じである。
特攻隊のみが、特攻ではないのだ。
斬り込み隊も、命掛けで、敵に対処する。

斬り込み隊は各師団、各隊ごとに連夜、無数に出されており、英印軍は戦々兢々たるありさまで、夜の警戒もしだいに厳重になった。
したがって斬り込み隊においても、戦死傷者が出るようになり、二人やられた、三名の犠牲を出したと、戦果とともに損害も伝わっていた。

これは、今で言えば、自爆テロの形相である。
連合軍は、日本軍の、その斬り込み隊、特攻攻撃に、恐怖したのである。
それも、玉砕である。

日中の強烈な日ざしで熱せられた地面と川の水面から、乾期の夜の冷え込みで霞が発生し、あたりの平地に白くたなびいている。
隊員はやがて、南から西に方向をかえて進んでいった。小さい川は水量が少なく、渡渉は容易であった。二つ目の川は水量が多かったが、杭木を打ち込んで雑木でせき止められたところを見つけた。ここはナベ川のようだった。雑木の上を歩くと、中央の堰のうえの水面に、丸木船が横付けされてある。あふれた水が滝となり、一メートルくらい下に白く光って流れ落ちていた。
その後、川はなく二、三時間の時が過ぎた。月も沈み、星空だけになった暗い畑のなかを急いだ。

前方に森が盛り上がって見えてきた。われわれは静かに停止した。上竹軍曹が、
「あの村のようだ、偵察してみる」
「おれも行くか」
「多数だと発見されるから、一人のほうがいい」
上竹軍曹のいうのも的を得ている。
「気を付けて」
「うん、おれが発見されて撃たれたら、てい弾筒を撃ちこめ」
軍曹は真っ暗な原野に音もたてず入っていった。村まで三百メートルくらいあるだろうか。待つ時間がやけに長く感じられた。

実際に敵はいるだろうか。もし目的地でなかったら、ふたたび先へ潜行しなければならない。これ以上、前進時間をついやせば、途中で夜が明けてしまい、帰途は危険である。発見されて不意討ちされまいか、と気遣っていたところに、軍曹が戻ってきた。
「おい、いたぞ、敵の歩哨が、五人で近づいたら完全に発見されたよ」
「歩哨が立っているところは、どこあたり」
「それが、右も左も間隔をせまくして立っていて、警戒は厳重だぞ」
上竹軍曹は、ちょっと考えてから、
「よし、同士討ちさせるか、てい弾筒用意」
筒手が照準をきめ、弾薬手が横にならんだ。
「距離三百、つづけて三発だ。撃ちこめ」
小声で指示が出るやいなや、軽い音をたてて発射された。ダーン、ダーン、ダーンと森の中央で炸裂した。

そうすると、同士討ちが始まったのである。
この、戦いの臨場感は、想像しか出来ない。
こうして、日本兵は、敗戦まで、戦い続けたのである。

敗戦の年の戦いは、英印軍の物量により、大人と子どもの戦いの形相を呈してくる。

ビルマに来てからというもの、私はどこでも、自分のことをゴ・サンニュと名乗っていた。そして、日本人とビルマ人は兄弟だ、肌の色も同じだといって腕を見せてくらべさせ、イギリス人はわれわれと色がちがうと主張した。日本軍はビルマ独立のために戦っているのだと言い聞かせ、事実、私もその信念で戦っていた。
わが連隊正面の頑強な抵抗と勇戦にあい、敵はイラワジ河の突破を断念した。
第二十インド師団は騎兵一個連隊、砲兵一個中隊を残し、ミンム方面に転用され、ミンム付近よりイラワジ河を渡って橋頭堤を築いた。
また、遠く南方ニャング付近では、英印第四軍団の第七インド師団、第十七インド師団ならびに第二百五十五旅団が、二月十五日、イラワジ河を渡河して進撃を開始した。そして、われわれのいる中州のみが敵中に突出、包囲されつつあった。

ある日、陣地の上空に飛来した敵機が、伝単を投下した。
内容は、硫黄島が米軍により占領されたことがくわしく記してあり、米兵が日本の子供を抱かかえた写真がそえられていた。
そして、・・・あなたたち兵隊は軍閥に騙され死ぬことはない。この伝単を持って投降すれば優遇する。楽しい給養が待っています。英軍の献立はライスカレー、サラダ、肉料理、日本の献立は胡麻塩、梅干しーーーと書かれてあった。
「なにを寝言いいやがる。胡麻塩と梅干しがどこにある」
「おれたちは塩だけなんだ」
「少しひろっておくか、尻ふきに使えるぞ」
ひろってはみたが、登校するとき持って来いというのが気に障る。戦死したとき、自分の体から出てきたら、末代までの笑い者になると考え、いちど使用してから焼き捨てた。

この、投降呼びかけは、至る所の、戦場でも、行われた。
すでに、連合軍は、日本が敗戦することを、知っていたのである。

だが、多くの日本兵は、それを、信じなかった。
また、負ける訳が無いと、信じていた。

戦線は混沌たる情勢にあり、われわれはもちろんのこと、小隊長や中隊長ですら、現状をつかんでいなかった。牛車の上の私には、このたびの連絡事項さえしらされていない。ただ襲撃をうけたときの処置さえ分ればよいのだった。

現場の兵士達は、戦争の全体が、全く分らずにいたのである。



posted by 天山 at 05:35| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月22日

玉砕78

昭和20年3月13日、急遽、キャウセ付近への転進命令があり、わが中隊はイラワジ河を東に渡河した。
マンダレーを守備する「祭」第十五師団が、敵に包囲されて苦戦におちいり、この脱出撤退を援護するためだった。各中隊は合同し、カドウより自動車輸送で出発した。頑強に守りとおした中州も、放棄のやむなきにいたった。
自動車から見るマンダレー街道には、退却する友軍の姿はあったが、前線に向う兵隊は、われわれ以外にはまったくなかった。

夜明け前に道路端の草むらの中に入った。通過部隊が入ったあとなので、トンネルのようになっていた。そこで私は大型ナイフと磁石をひろった。六一四高地を脱出するさい、ビルマ人に私物を持ち去られ、不自由していたのでありがたかった。
付近一帯はひろい平野がつづき、早朝から、敵の観測機がゆっくりと旋回をはじめていた。炊事も思うにまかせず、舗装路付近の濠もないところでは、このうえない危機感をいだいた。

三月中旬、わが山田小隊および第一機関銃の一個小隊は部隊とはなれ、キャウセ北方ピリン地区の新任務につくため、夜を待って出発した。マンダレーからラングーン鉄道にそって、北方のマンダレーに向って進んだ。

敗戦の年である。
日本軍は、撤退、退却が大半だった。
それでも、前線の兵士は、戦うために、進んだ。

私は漠然と思っていた。一個師団の友軍を敗走させた敵にたいし、わずか二十数名で迫撃あるいは迂回してくるのを迎え撃ち、なおかつ友軍の退路を確保できるだろうか。その前に、敵の大部隊に圧殺されてしまうのではなかろうか。考えながら行くうちに、幅が五十メートルほどの川にでた。左方向に鉄橋がみえる。
「この鉄橋付近は陣地に近いな」
「ああ、ここか」

大隊本部は後方ピリン地区の村にあり、ここから四キロ以上の道程である。わが小隊との連絡係として、斎藤清治軍曹と兵二人がいた。
この本部には、糧秣を受領するため、一度行ったことがあったが、本部は第一線陣地から、四キロ離れたにすぎないのに、濠一つ掘るでもなく、のん気なようすを見て驚いた。昼をあざむく月光の明るさのなかを、夜半、敵の出撃はないものと、自分たちも気楽に水田を横切りながら帰隊した。

三月十七日の夜、斎藤軍曹、木村幸一郎上等兵、大聖寺雄一一等兵の三人が、小隊陣地への連絡を終わり、帰途についたとたん、ダーン、パパンと銃声がした。
「やられたのでは、それ」
小隊でも陣地から応援に出発すると、まもなく木村が駆け戻ってきた。
報告によると、水田を歩行中、英印軍の待ち伏せ攻撃をうけ、大聖寺一等兵戦死、斎藤軍曹重傷とのことだった。斎藤軍曹を助け出して草むらに担ぎ入れ、天幕でおおってローソクの灯で手当てしたが、出血多量でまもなく絶命した。

それ以後は、犠牲者が益々と多くなる。
その頃になると、大半の戦場では、日本軍の敗北である。
そして、戦争は、最終的に、沖縄本土決戦となる。

三月二十四日、真昼の太陽が、さえぎるものもない濠のうえに、容赦なく照り付けていた。
ドードーというにぶいエンジン音が、濠内のわれわれの耳に伝わってきた。敵車両か、敵戦車か、対岸の藪がどうしてもじゃまをする。エンジン音はやがて、ググーンと力強い音になった。

全員、日中は濠に入ったまま離れず、じっと中にいた。目だけを草の間から出して、音のする方を見つめていた。
やがて、五十メートル側方の偽装陣地正面対岸の藪の切れ目に、戦車一両が姿を見せた。長い椰子の葉を車体に取り付けたべつの一両が、その横に並んだ。先頭車の合図で、さらに右に左にと、計四両のM型戦車が全容をあらわした。
われわれは息を殺して凝視していた。渡河してくる気か。それとも戦車砲で撃ってくるのか。

敵戦車は動きがとまると同時に、機関銃を発射した。
「ダダダダダダッ」
歩兵のもつ機銃とちがい、すさまじい連続発射だ。弾道が高いとマンゴーの樹木に、低い弾道は川岸の土砂をはねとばす。バシバシッ、バシッと枝と葉がとびちり、空中に舞う。やがて四両がいっせいに撃ち出した。

以前、私は黄色火薬をつめた布団爆雷を小隊長が持っていると、だれかに聞いたことがある。ここまで生き長らえてきたんだ、死んだ戦友を思えば長生きすぎた。同じ死ぬなら、いっそのこと戦車一台を吹っ飛ばして、刺し違えてやろうと覚悟を決めた。よし、おれが目にもの見せてやる。
「小隊長殿。布団爆雷、井坂に貸してください」
小声で近くの濠へ話しかけた。
「いや、あわてるな。まだだ」
だが、少尉は渡してくれない。決心して高ぶった気持ちが、ふたたび不安に落ち込んだ。
いざその時では間に合わないのだ。天蓋が締まっていては手榴弾も使いようがない。爆雷だってゆっくりと雷管をつけるくらいの余裕はほしい。布団爆雷以外には、破甲爆雷、火炎瓶など一つとしてなく、戦う武器のない兵隊ほどつらく悔しいものはない。小銃弾の一発も撃たず、濠の中にじっとひそんでいた。

突然、射撃の最中に、ピッピーと戦車の合図があった。前進するのか、砲を撃つ気か、われわれはいっせいに目をそそいだ。後尾一両が後退して動き出した。さらに、ピッピーと合図があり、また一両退がった。
合図があるごとに、四両すべてが潅木と藪の向こうに隠れた。まもなく、ドードードーとエンジン音をたてて、遠ざかっていった。
「まだ油断はできないぞ、渡河してくるかもしれん」
「歩兵があらわれないのは変だ、どこかに来ているはずだ」
「どっちから来る気だ、野郎」
遮断物のない地形にある濠は敵の意表をつき、偽装陣地は二度も敵をだましとおした。われわれもがまん強かった。必要以上には壕から出ることもなく、夜も、昼も、戦闘のさいにも敵に姿をみせず、偽装は毎日新しく交換し、努力したかいがあった。

今日も太陽がやっと西にかたむき。夜まであと二時間ほどと思ったとき、ゴーゴー、ドードーという音響が急速に接近してきた。
「来たな、敵部隊が」
お互いが目でうなずきあい、固唾をのんだ。エンジン音がつぎつぎと停止し、藪と潅木の後方で、ガヤガヤ、ワイワイと車から降りた敵兵たちの高調子の話し声とともに、陣地構築をはじめた。

友軍野砲の五、六発も援護射撃してくれたなら、思いきり敵中に突入し、撹乱してやれるだろうに、敵を目の前にして打つ手がない。
「明朝になったら、敵は砲爆撃の後に総攻撃に出てくることはたしかだ」
「こんどこそ年貢の納めどきがきたか」
「今晩のうちに撤退命令がなければ、全滅だ」
退路は平坦な水田地帯がひろがり、日中の撤退はおそらく死をまぬがれない。満月にちかい月が煌々と冴え渡り、付近を青白い風景に浮き出させた。
それにしても、ビルマの月の明るいことよ。陣地構築中は出撃して来ないだろうが、敵の濠掘りは楽々と進んでしまうことだろう。

明日の一日、いや一時が生死を決するであろう。今宵だけの命だ。夢を見る眠りに入れないいまでは、せめて故郷を思い出し、最後の別れとしよう。家族の一人ひとりの顔、村の風景、山や川で幼児のころ遊んだことなど、つぎからつぎへと脳裏をかすめ、消えてはまた浮かぶ。故郷の思い出を胸に明日は死ぬのだ。

私は、人間を、ここまで、追い詰めてはならないと、考える。
そして、誰にも、そんな権利はないのである。

だが、兵隊になった以上、この、死ぬ覚悟が求められた時代。
ただ、あはれ、極まる。



posted by 天山 at 06:52| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月23日

玉砕79

濠の中では、だれも一睡もしない。考えることはみな同じだろう。ただ、弱音をはくことを控えているだけだ。
敵の濠掘りも夜半には終了したのか、やがて対岸の喧騒が静かになった。ふと私は、撤退命令を待った川西伍長が、こちらに向ってくる予感がした。そんなうま過ぎることが、と思ってみても、まちがいなくこちらに向ってくる気がしてならない。
おもわず、となりの濠に声をかけた。
「おい、今夜中にかならず撤退命令がくるぞ」
「何で、ほんとうにか・・・」
「うん、ほんとうだ。おれの勘に狂いはない」
そのとなりの濠にも聞えたのか、
「来なかったら終わりだな」
「だいじょうぶだ、来る。心配するな」
山田少尉にも聞えていたと思うが、なんとも言わず、怒りもしなかった。

やがて、音はしないが、人の気配がした。敵か、川西伍長か、静かに着剣して銃を濠の上に出し、剣先を草の中に入れて月光の反射をふせぎ、匍匐して前に出た。
まだ姿は見えない。敵ならひと突きにと緊張する。隊員に合図もしないで出てしまった。
どうでもいい、やるだけだ。近いなと思ったとき、十メートルくらい前方の闇の中で、
「一中隊・・・」と、川西伍長の声がした。
「ここだ・・・」
敵に聞えてはまずい。這いながら近づき、
「おい、ここだ・・・」
「一中隊か」
ようやく頭が見えた。
「敵がきているからな」
「うん、わかった」
「撤退命令だな」
「そうだ、小隊長は」
「こっちだ。敵の大部隊が前で見てるからな」
川西伍長に念を押し、小隊長の濠を教えた。私は自分の濠にもどってから、
「おい、撤退命令だぞ」
だれもが歓喜し、つぎつぎに伝えられた。小隊長に撤退命令を伝達し終わった川西伍長は、
「ああ、よかった。本部では一中隊は全滅したかもしれないといってたんだ」
「ないだい、また一人で来たのか」
「うん、そうだ。稲葉小隊へもいって来た」

三月二十六日の夜、十日間にわたり守りとおした陣地を、われわれは危機一髪のところではなれた。

当初のビルマ戦線は、日本軍がイギリス軍を追い詰め、勝利していた。
だが、インパール作戦以後からは、イギリス軍の物量に日本軍は、撤退、また、敗走を余儀なくされる。

そして、悲劇のインパール作戦後も、日本兵は、戦うのである。
撤退しつつも、戦う。
退路を保持するためにも、戦う。

敗戦の報を聞くまで、戦うのである。

この戦記を続ける。
撤退した後も、また、戦うために、連隊と合流し、更に、撤退が続くのである。

われわれの心が休まるのは、夜だけだ。いま砲撃と戦車の蹂躙をうけないのは、天運というほかはない。
夜になると撤退命令がきた。濠を出た小隊員二十名は、月明かりの青白い闇の中を、脱出の準備をする。全員が着剣し、防音に気をつけながら尖兵と護衛を出し、間隔をおいて一列で突破することになった。

このとき、敵の襲撃で倒れた者は、そのまま置き去りにしていくと決した。

パゴダ高地の山麓付近で敵に発見されたが、射撃は一回で終わった。焼け落ちた村を右に見て、西から迂回する。しんがりになった私は、黙々と走る小隊員の後ろ姿を見ながら進んだ。

第十五師団は三月末、キャウセ付近に撤退した。われわれ二百十三連隊は任務を完遂し、三月二十九日、ピリン東方山麓に集結をおえると、シャン高原の西麓付近を南下することになった。
日中は敵機が跳梁し、行動不可能なので、分散して山中に退避し、夜間に強行軍の撤退となった。
平野部では、昼夜をとわず、砲声と銃撃音が絶え間なくつづき、後退する南下にも、すでに砲声が響いていた。ビルマの東方のシャン高原以外は、英印軍の勢力圏内に入りつつあった。

そして、ラングーンから、マンダレーの鉄道、道路、平原の各主要路は、敵の手中に帰したのである。

シャン高原の山脈が南はるかにつらなり、西の平野部の町々は敵の手中にあり、ふたたびビルマの人々とあうこともないだろう。これからのわれわれは山中の行軍がつづくことは想像できたが、目的地と任務などは、なにも聞いていなかった。
これよりさき、三月の下旬、稲葉小隊は、百数十両の車両部隊を援護せよとの命令をうけ、中隊とは別行動になった。しかし、任務の途中、敵の追撃包囲にあい、脱出不可能となって四月十三日、部隊は全車両を放棄して、敵中を突破した。その後、山越えをして撤退し、一大隊に合流した。

このときの戦闘において、同年兵の奥野正雄上等兵が、シンガイン東南方三キロのところで、壮絶な戦死をとげたことを知らされた。
いまは亡き戦友よ、ほんとうに魂があるなら、おれの背中に乗って、一緒に戦いのないところまで行こう。ひとりでに出る涙を、汗をふくふりをして手でこすった。遠い南の山々が雲か霞か涙のためか、おぼろになって見えなくなった。

連隊はラインデ、バヤンガス付近において、師団援護の任務をはたし、カロー到着後も休むことなく、ロイコー、ケマピューをへてトングーを目指した。わが「弓」師団は、マンダレーおよびメイクテーラより南下する英印軍を迎撃する任務にあった。

連隊はふたたびその後援となり、カローを進発した。すでに雨期となり、そぼ降る雨のなかの行軍となったが、敵中を突破して追撃の手からのがれた将兵たちは、生きる希望をいだき、元気をとりもどした。わが中隊も、一路ロイコーをめざして大隊とともに南下した。

昼夜のべつない強行軍は、一昼夜で六十キロを踏破したこともあった。このあたりは、山中までもゲリラが出没するようになり、牛車で退がった兵隊が車ごとバラバラに吹き飛ばされて、路上に散乱していた。
「地雷だな、これは、気をつけろ」

こうして、また、命令を受けて、進軍する日本軍である。
すでに、敗戦の色濃くなり始めた頃のこと。

命令があれば、どんな過酷な状況下でも、兵隊は、進む。
軍隊とは、そういうものである。



posted by 天山 at 06:00| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

玉砕80

戦記を紹介しているが、何度も言う、ビルマ戦線とは、インパール作戦だけのことではない。
敗戦まで、戦い続けたのが、ビルマ戦線である。
そして、日本兵は、ビルマの独立という大義を、持っていたのである。

タイ・ビルマ戦線とは、ビルマ戦線全体のことを言う。

登っては下り、下っては登る。動けなくなった兵隊も出てきた。これがインパール撤退の繰り返しにならなければよいがと心配する。
雨は降りそそぎ、道は泥濘になった。歩かなければ万事休すだ。だいぶ疲れが出てきたようだ。疲れなおしの気休めからか、
「どーせ下まで降りるんなら、登らなければよかったのに」
「また登りか、さっき降りなければよかったんだ」
「なるほどな。何いってやがる。それじゃあ日本に帰れねえじゃないか」

山岳内を二昼夜で五十キロ以上歩いた日もあり、われわれは連日の行軍の歩度をゆるめなかった。山中にふりつづく雨は全身をぬらし、部隊の通過でできた道に水溜りが光る。昼なお暗い樹林の下を急ぐわが舞台は、自分たちでも驚くほどに速かった。

急坂がいつの間にかなくなり、稜線なのだろうか、歩行がしだに楽になったが、泥んこ道は変わりなくつづいた。両側はどこまでも深いジャングルで、木々の間には根が複雑に地上に露出している。ふと前方を見ると、みょうな格好の兵隊が歩いている。
「難だ、あの丸腰の兵隊は」
「あれでも兵隊か」
兵隊服に帽子だが、どうも弱々しく、杖をつく者もいる。
「女だ」
だれかが叫んだ。そうだとすれば、軍隊と行動をともにしているのは、慰安婦以外には考えられない。

「師団のやつら、女たちを連れて歩いていたのか」
「くそ面白くもない。女なんか歩かせたら、山の中でへたばって死んじまうぞ」
近づくにしたがって頭髪、襟足と腰の形、なよなよと歩く姿がはっきりと見える。
「死んではもったいないねえ・・・」と口には出たが、体の消耗がはなはだしいうえに、緊張した状況下のため、性欲どころではない。
追い越しながらまぢかで振り返ると、やっぱり女である。白い顔には化粧っ気はないが、弱々しい体に疲れがめだち、悲しそうな顔で歩いている。前方を元気に歩くわれわれをうらめしく思ったのか、うつむい顔を上げた。

敗戦とはみじめだ。慰安婦も女の身で軍に協力しつつ、こんな苦労を味わうとは哀れな人生だと思う。六名の彼女たちの運命に幸あらず、山を越えることができずに死んだと、戦後、人づてに聞いた。

とくに悲惨だったのは、患者部隊であった。シャン高原を横断して、タイのチェンマイに出ようとした兵隊は、食糧医療品もないまま、自力で行軍を強いられ、山中に倒れていった。われわれの通過したあとの道すじには、病魔と戦いながらつぎつぎと体力を消耗し、倒れ伏した兵隊が、屍を山野にさらしていたと聞いた。

タイ、チェンマイ・・・
タイ・ビルマ戦線の兵士の遺骨、多数あり。
チェンマイには、野戦病院があった。
といっても、そこは、お寺である。

ムーサン寺という。
そこに、慰霊塔がある。
毎年、日本人の有志が集い、慰霊祭を開催している。

また、チェンマイから、車で30分程度の場所に、バンカート学校があり、その校舎の敷地に、慰霊塔がある。
そこには、井戸に捨てられた、日本兵の遺骨が、今でも、眠る。

そして、チェンマイ一帯に、12000柱の兵士の遺骨がある。
その慰霊のために、梵鐘も、設けている。

この戦記の作者、井坂氏は、最後は、カレゴ島という、小島に渡ることになる。
そして、そこで、敗戦を迎えた。

五月一日にラングーンが陥落した後、ペグー山中に立てこもった第二十八軍司令官桜井省三中将指揮下の将兵たちは孤立し、激戦中であると聞いた。第一線兵士の苦労を思うと、人ごととは言えない。脱出の成功をひたすら祈った。
後日、豪雨のシッタン平地の湿原と、濁流渦巻くシッタン河を渡るにさいし、敵の空陸からの火力をあび、凄惨な状況のもとで精根つきた彼ら各師団は、膨大な犠牲を出すにいたった。終戦を目前にして兵士たちの多くが、無惨な姿でビルマの露と消えた。

わが第三十三師団はモールメン付近に司令部を置き、シャイン河以北のテナセリウム地区で、英印軍の上陸にそなえ、海外船の防備についた。

そこで第一大隊本部はコドーに、第一中隊はカレゴ島に布陣することになった。カレゴ島はマルタバン湾上にあって、コドーから八キロの海上に浮かぶ島である。

戦争終結が、決まるまでは、兵隊は、戦う。

この五月・・・
六月には、沖縄戦が始まる。

井坂氏に、敗戦が知らされたのは、八月十七日である。

部隊全員、はるかな祖国に向って皇居遥拝を終えると、連隊長が、
「ただいまより、謹んで、天皇陛下の御言葉をお伝え申し上げる」
奉読されたのは、終戦の詔勅であった。日本は降伏したのだった。奉唱なかばにして熱い涙が止めどなく流れ落ち、胸もとまでも濡らした。

「何のために、苦しい戦いをがまんして頑張ってきたのだ。戦友の隊員たちは、何のために死んだのだ。それなのに降伏とは、われわれはもう生きる必要はないのか」

あまりにも、犠牲の多い、ビルマ戦線だった。
しかし・・・
終わったのである。

時は、前後するが、これからサイパン陥落について、書くことにする。
サイパン島玉砕は、昭和19年7月7日である。

つまり、インパール作戦中止の、三日後。

一般人を巻き込んだ、壮絶な玉砕の島である。
そして、隣の島である、テニアン島玉砕は、8月3日。
この、テニアン島から、原爆投下の、エノラゲイが飛び立つ。



posted by 天山 at 06:50| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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