2015年08月26日

玉砕61

インパール作戦
この戦場の有様について書きたい。

私は、このインパール作戦で、撤退、敗走した兵士の追悼慰霊のために、何度も、タイ、チェンマイ、そして、日本兵の遺体が数多くおかれたという、タイ北部、ミャンマー国境付近へ出掛けた。

思い入れが、特にある。
戦場は、何処も、地獄の形相である。
そして、このインパール作戦という、無謀な作戦の、その末に、敗走した兵士たちの悲劇は、簡単には、書き切れない。

白骨街道と言われた、敗走の道々・・・

何故、そのような無謀で、責任のない、作戦が実施されたのか・・・
今も、私には、よく分らないのである。

その作戦の源を遡ると、昭和17年7月に、突き当たる。

ビルマ国内を平定し、更に、周辺の地域を占領したとき、その余勢を駆って、東インドに進攻するという、構想が、南方軍司令部に、宿ったのである。

しかし、このときに、第十五軍の指揮下にあった、各師団長は、この大作戦、二十一号作戦と称した、準備命令に接して、一様に当惑の様だったという。

特に、中・北部ビルマの防衛を担当し、その地形の詳しい、当時、第十八師団長の、牟田口中将が、難色を示した。

その後も、検討されたが、結局、兵力不足と、補給の困難を理由に、賛成出来ない、ということになった。

それが、一転して、インド東部進攻となった原因は、イギリス軍の反攻気勢が、挙げられる。
一旦、ビルマを撤退したイギリス軍が、態勢を立て直して、各方面に反攻の気勢を示したのである。

このような情勢で、大本営陸軍部は、ビルマ方面の兵力を、従来の一軍、四個師団から、三軍、九個師団に増設するに決し、それらをビルマ方面軍として、支那派遣軍総参謀長川辺中将を、最高指揮官に任じた。

更に、新設軍の増設と共に、第十五軍司令官だった、飯田中将が、内地の防衛総司令官部付きとなり帰国し、その後任に、第十八師団長、牟田口中将が、新補された。

牟田口中将は、何と、慎重論を捨てて、強硬にインドへの進撃を主張し始めた。
川辺方面軍司令官も、これを認めるのである。

悲劇の、始まりである。

昭和18年6月下旬、ラングーンの方面司令部において、兵棋演習が行われた。
大本営、南方軍、第三航空軍の幕僚をはじめ、在ビルマ全軍の首脳が、参加した。

その結果、牟田口中将の主張する、遠くアッサムにまで進攻するという構想は、最初から論外とされ、出された結論は、インパールを急襲覆滅し、防衛線を、インパールの西側、印緬国境山系に、推進するということである。

問題になるのは、一番重要と思われた、補給が懸案ということで、未解決のままに、残されたことである。
これが、後に、重大な失敗になるのだ。

そして、アッサム進攻案が、論外として研究の対象から外されたにも関わらず、実際の、戦闘部隊の最高指揮官である、牟田口中将の、功名心に微妙に反映し、その後の軍の作戦に、その影響が認められるのである。

大本営陸軍部は、昭和18年9月初め、インパール作戦準備について、正式に指示し、これを、「ウ」号作戦と呼んだ。

19年3月、作戦は実施され、4月3日、コヒマ~インパール道を遮断し、6日、インパール~ディマプール道上の要衝コヒマを占領する。
ここまでは、順調に進んだ。

しかし、その後、日本軍は、急激に戦力を消耗し、逆に敵の抵抗が、日増しに強化された。5月上旬には、日本軍の攻撃は、頓挫したのである。

その、根本的原因は、補給手段の不備である。
進攻開始以来、一ヶ月近く、全く糧食、軍事品の補給を受けない師団が、続出した。

更に、三師団長の罷免という、前代未聞の不祥事を出したのである。
大本営は、7月4日、作戦中止を決定した。

このように、簡単にまとめるが・・・
兵士たちにとっては、筆舌に尽くし難い苦難の、作戦だった。

その頃は、モンスーンの季節であり、連日の豪雨、すると、地形が一変するのである。

すべての河川、渓谷が巨大な流木を浮かべて、氾濫し、奔流し、道路は崩壊して、一切の交通は遮断される。
その中を、退却した兵士たちの苦労は、言語に絶する。

この作戦での、戦死者数は、三万五千名を超える。

その撤退、敗走の道を、白骨街道と呼んだ。

この説明だけでは、実に足りない。
そこで、再び、生き残りの兵士の戦記を、掲げて、追悼する。

弓兵団インパール戦記
井坂 源嗣
大正12年2月3日、茨城県に生まれる。
昭和16年2月千葉県佐倉の東部第64部隊に入隊する。
昭和19年5月、インパール作戦に参加する。
20年1月より、モニワ、イワラジ援護の任につく。モンメール南方防衛中に敗戦。
21年5月、復員。陸軍伍長。

この方は、中国、そして昭和17年7月より、ビルマ戦線赴く。
インパール作戦以前の、ビルマ戦線に就いているのである。
昭和18年1月には、有延挺進隊員として、アラカン踏破後、アキャプ方面で、作戦に従事している。
インパール作戦以前の、ビルマ戦線にもいたということである。

生き残ったという、思いは、実に複雑である。
戦友の死に多く出合い、悲劇を通り越して、その悲惨な戦争を報告している。



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2015年08月27日

玉砕62

弓兵団インパール戦記から

昼間、英軍機は間断なく飛来し、わが部隊を捜索するためか上空を旋回する。そのため炊飯には、とくに神経をつかった。部隊の行動は、すべて隠密に夜間に移動行軍し、朝から夕方までは休養をとる。
三月八日の夕刻をまって、ふたたびアポークワの英印軍を包囲攻撃すべく出発した。一千名をこえる敵部隊との知らせに、対等の兵力だと思うと身がひきしまる。時計はないが、乾期の夜の冷気を肌で感じ取り、おおよその時間もはかれるようになった。
暗黒につつまれた山野、草原の中を一列になり、長い隊列が南十字星に向ってすすむ。

これは、昭和18年のことである。
兵隊とは、命令によって、動く。従って、その命令が、どのようなものであっても、拒否は、出来ない。
これも、不可抗力である。

戦争に参加することも、敗戦近くになると、駆り出された。
それも、不可抗力である。
その時代に生まれ合わせたという、運命をどのように考えるのか・・・
戦争で、死ぬという、運命を持って、人は生まれるものだろうか。

戦記を読むと、そこでは、簡単に人が死ぬ。
そして、それを見る兵士たちである。
それが、度重なり、人の死に、鈍磨してくる。
さらには、我が身の上にも、その死が見えてくる時、人は、どのように、その死を受容れられるのだろうか。

戦争とは、自分が死ぬか、相手、敵が死ぬか・・・である。
人間とは、実に恐ろしい生き物といえる。

たおれているのは、軽機をかかえて突撃した鈴木林蔵上等兵だ。私のすぐ後ろを駆けていたが、私が、右にとんだときに、おそらく敵弾を受けたのだ。身代わりなってくれたような気がした。あのとき直進していたら自分がやられたはずだ。
鈴木上等兵は軍旗祭で優勝し、中隊会食の人気者である。
鈴木の腹からは、血が流れでて止まらない。
「苦しい。痛いよう」
「鈴木、しっかりしてな」
「戦友の情けだあ、はやくっ、はやく楽にしてくれ・・・」
「傷は浅い。しっかりしろ。鈴木」
上竹伍長が声をかけると、
「だますなっ」
声に力が入ったが、つづけてでた言葉は小声になり、
「おれには分る。楽にしてくれ、頼むから・・・」
と弱々しくなり、最後の声をふりしぼっての絶叫だった。
傷口をふさいで応急手当をしたが、包帯をとおした血は大量に草の上に流れ出した。小隊の戦友に抱かれ、手をにぎられて静かになったと思ったら、ぐったりと息をひきとった。

第一中隊主力の方も混戦だった。この交戦で木川田種三軍曹と、温厚な富永厳一軍曹が戦死した。佐藤軍曹はインド兵と組討になり、助けにかけこんだ同年兵の坪井兵長が、暗闇のため敵と味方の判別がつかず、
「上かっ、下かっ」と声でたしかめ、
「下だあっ」という声をたよりに、上になっていた敵兵を短剣で刺した。坪井は軽機の射手のため、短剣は持っていなかったが、まことに沈着な行動だった。

敵は、山林深く逃げ込んだのか、物音ひとつ聞えない。三月八日の夜はふけた。一夜に二回の日本軍の突撃により、英軍の戦線は混乱した。
中隊では三名の遺体の担架をつくり、戦友がかついで部隊は引き返し、アポークワではなくドンランに向った。

私がこの戦闘で疑問に感じたことは、日本軍が夜間の攻撃にさいし、銃弾を一発も撃たせずに突撃させることだった。
夜間であっても、軽機を前面にだして撃たせ、もちろん他の火器も前面では一斉射撃をおこない、あるいは一部を射撃させ、その間に他の兵力を迂回させて突入させる方が、敵に多くの損害をあたえることができるではないか。
この戦闘では、手榴弾も浴びせずじまいだった。
夜間は、日本軍は撃ってこないとなれば、敵はゆうゆうと何の恐れもなく、こちらの突撃まで射撃をつづけることができる。そして突撃がかかると、後方にいっせいに逃げる。これでは、損害を出すのは日本兵だけではないか。
そればかりか、撃ちもしない重い軽機を持たせ、短剣だけの射手にも突撃させるのだから、犠牲者がふえてあまり戦果があがらない。
勇ましいからというなら、戦国武士のように名乗りでもあげ、一人ごとに斬り込んだらよいであろう。
昭和の陸戦も、日露戦争当時とかわらぬ戦法で、みるみる兵力をむだに消耗して、兵隊は不利を承知で、命令のまま無念の涙にたえ、戦死していった。

戦記を読むと、斬り込み隊という名称が度々出てくる。
この、斬り込み隊とは、特攻攻撃と同じである。
バンザイ攻撃とも、言う。

殺してくれと、敵の前に姿を晒すようなものである。
何故、そのような、無謀な攻撃をするのか・・・
未だに、解らない。

近代の戦争には、全く、どうかしているとしか、思えないのだ。
だが、それを日本軍、日本兵士たちにやらせたという・・・

戦死者三名をだしたわが中隊は、戦場整理のためドンランに残り、他中隊は夜のあいだにアポークワへ向った。
三月九日の早朝、戦死者の中隊葬をおこない、その後、われわれは山砲隊護衛の任務についた。各小隊ごとに配置についたころ、ジャングルの木の間からは、まぶしいほどの陽の光がさしてきた。
昨夜の敵は、アポークワを守備していた第十バルッフ連隊の第八大隊約一千名の部隊であった。それがどこへ雲がくれしたのか、移動しているのか、いずれにしてもこの付近の平地林内にいることはたしかだ。

アポークワに急進したわが部隊主力は、急遽、反転して南から追撃にうつった。
大隊から、命令が伝達された。
「昨夜来の英印軍はアポークワを脱出せる部隊である。これを包囲撃滅する」というものである。

わが中隊百数十名は配備につき、山砲二門も砲口を南に向けて決戦の態勢にうつった。一門は南に面し、水無川の開墾地を前にしてそなえ、他の一門は私たちとともに二百メートルほど左方に布陣した。そこは雨期には川となるが、乾期のいまは砂地の道路となって、正面の山林内をほぼ直進している。

いよいよ、総攻撃が始まる。
まだ、日本軍は、戦況有利な状態だった。
だが、それは、いつまでも、続かない。
英軍が、戦力を益々と増強させてくるのである。


posted by 天山 at 05:50| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月28日

玉砕63

ビルマ戦線、そして、インパール作戦に参加した日本兵、井坂源嗣氏の、戦記を紹介している。

日本軍は、最初は、勝ち戦だったが・・・

射撃をやめてしばらく対峙した。
そのうち、だれかが大声で何か呼びかけた。日本兵のインド語のようだが、われわれには分らなかった。同年兵の二中隊の森島上等兵が習いたての言葉で、
「投降せよ」と言ったのが役立ったことが、後でわかった。
激戦は終わった。百三十余名の捕虜と兵器多数を捕獲し、同数以上の損害をあたえた。第十パルップ連隊の第八大隊残余の兵は、少数に分れモードク山系内を西へ敗走したのだった。

戦いが終わると、急に暑くなったのに気づいた。やがて、どちらの小隊、どちらの山砲が敵を多くたおしたかくらべてみたくなり、中隊員は戦場見物をした。
右翼山砲の正面は水無川がひろく、はじめ敵兵は南から追撃をうけ、われわれに気づかず退却してきたために、死体は前面いっぱいに不規則にころがり、すでに蝿が黒くたかっていた。わが小隊と山砲は北側に位置していたため、敵との接触は右翼とくらべ少なかった。

捕虜のところへ行ってみると、担架の上に負傷したイギリス人将校が寝ていた。頭と足を包帯でまき血が赤くにじんでいて、かなり重傷のようすであった。まわりのインド兵がうまそうに缶詰を開けて食べている。戦いに勝ったわれわれより、すばらしい食事がしゃくにさわる。
インド兵がわれわれに、「イングリ、ノー」という。イギリス人中尉には食物もあたえない。水をくれといっても無視した。さきほどまで上官としていっしょに戦ってきた仲ではないか。将校を哀れに思い、向きをかえ、
「このバカ野郎っ。それを食わせてやれ!」
缶詰と水筒をむしりとらんばかりに、大声で怒鳴りつけ、軍靴を踏み鳴らすと、インド兵はおどろいて将校に差し出した。

捕虜は武装を解除し、連隊にひきつぐため十余名の護送兵が着剣してついていった。なかなか屈強な体格のインド兵ばかりで、日本の兵隊が見劣りする。後方の川にある大発艇までいく間に逃亡されないかと心配しながら見送った。
陽は西にかたむき、日中の暑さがやわらぐころ、英印兵の死体はみるみる変色し、蝿が真っ黒に群がって、カラダンカラスが上空で騒いでいる。死人が分るのか、やがて獰猛な禿鷹が舞い降りて屍の腹の上にたった。こいつらはかならず目をえぐりぬき、口を食べつくし、つぎに服をやぶって腹をさく、そして臓物を思いのままに引き出して食べる。その貪欲さは目をおおうばかりだ。
立場がもし反対であればと思うと慄然とし、憎いと思った敵より禿鷹が悪魔に見えてきた。小銃のねらい撃ちで一羽を殺したが、何十羽かの残りは逃げるそぶりすらせず、平然とむさぼり食っていた。

これが、敵だからいいが・・・
身内の日本兵ならば、どう思ったのか。

戦時では、考えられないことが、起こる。
この死全の有様も、その一つである。

だが、ビルマ戦線では、日本兵も、残酷な死に目にあっている。
河で、ワニに襲われて死ぬ。
濁流に飲まれて死ぬ。

死が、日常と化すのである。

更に、病気で死ぬ。
餓死で死ぬ。

戦闘で負傷したまま、治らずに、死ぬ。

無念である。
しかし、その時代に逆らうことが出来ないのである。

日本は、敗戦後、70年、戦争をしていない国になった。
それは、僥倖である。
そして人は、それを、平和と呼ぶ。
戦争の無い状態を平和と呼ぶのである。

それでは、その平和な状態を維持するために、どんな努力をしているのだろうか。
大半の人は、我関せずとしている。
戦争があったから、平和を貴ぶことが出来るはずなのに、それを、知らない人が多い。


posted by 天山 at 06:05| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月31日

玉砕64

中隊は、ほどなくムロチャン付近の山麓で連隊にしばらくぶりに合流し、軍旗中隊となった。われわれは谷間に入り、なによりも先に、軍旗を安全に奉納するための壕と連隊長の壕をともに掘り上げた。そのあとで各自の壕と、さらに山上に陣地を構築する。

陣地構築がほぼ終わった三月二十七日、広瀬小隊に出動命令が出た。新しい任務はナヤチャン付近の平野部にある百一フィートの高地確保である。
われわれは中隊とわかれ、闇の中をときどき発射する英印軍の野砲弾の間をくぐりぬけ、北西方の敵前へと行軍をつづけた。広大な荒地の上を無言で足もとに注意してすすんだ。ムロチャンを目標に砲弾が頭上に飛んでゆき、背中に炸裂音を聞いた。壕は横穴まで完全に掘っていたし谷間だから、本部や中隊はなにも心配ないだろう。

101高地をめざして二時間ほど歩いたころ、われわれは湿地帯に踏み込んだ。軍靴が泥に吸い付き歩きにくい。このままでは、泥沼の真ん中で動きがとれなくなるのではと心配になった。
星明りに見ると、潅木や草の一メートル以上の高さのところに水位が上昇した跡がある。マユ河支流のここまでも海水の干満の影響があることを知った。

われわれは苦労のすえ、湿地を三百メートルも歩いてやっと川の渡し場にでた。そこに竹の束の筏があり、渡河は一度に七、八名ずつ行った。それでも竹の上に水が上がるので膝をつき、背嚢を負ったまま順に位置につく。対岸に渡してある鉄線をたぐりながら進むのだが、流れは急だ。
「動くな!」
と言うが、何回となく傾く。軍靴の底の鋲が水びたしの竹の上で滑り、つかまる物がないので身の危険を感じた。ちょうど川の中央に出たとき、左側が急に沈んだ。
「あっ!」
小斎兵長が背嚢を負ったままの姿で、濁流へほうりだされた。その後、一度頭を出し、「おおっ」と叫んだが、そのまま見えなくなった。下流に目をそそいだが、浮上する気配すらなかった。
どこかに流れ着き助かってくれるよう祈ったが、むなしい結果となり、小斎兵長はマユ河な消えた。

他の、ビルマ戦記を読んでも、多くの兵士が、川で流され、そのまま行方不明になる。
また、ワニに襲われて、命を失う。
更に、ビルマのジャングルでは、トラなどの猛獣に食われるなど・・・

敵との戦いだけではないのである。
自然との闘いでもある。

砲撃は日ごとに正確になり、炊事場付近も発見されたのか敵弾が落下しはじめた。携帯した少ない副食物も底をつき、バナナの茎の白い芯が最高のおかずになった。
五日目の昼ちかく、はげしい連続砲撃をうけ、各自、横穴に飛び込んだ。砲撃中に英印軍が進攻してくることも考えられるので、歩哨の任務をまっとうするため、双眼鏡をはなさず警戒をしなければならない。
「やられた!」
頂上部の声が、斜面壕のわれわれにも聞えた。歩哨だと直感した。
やがて交通壕づたいに助けられ運ばれてきた。砲撃のつづく中を壕から出て待ち、安全な場所へ寝かせた。運んできた分隊員は、ふたたび頂上へ駆け上っていった。
小隊長と私と同年兵の大谷三郎衛生兵で、負傷者の手当てをおこなう。みると同年兵の立原正則兵長だ。大腿部を砲弾の破片で貫通され、軍袴はやぶれて血に染まった。日ごろ大胆な立原だが、苦痛で顔をゆがませた。
「痛いか、立原」
「痛いなあ」
「貫通だから血が止まれば、だいじょうぶだからな」
「痛くてだめだ。ううっ、少しゆるめてくれ」
「がまんしろよ、立原」
大谷が大きな体で治療する。破傷風とガス懐疸の注射をし、ようすを見る。大谷も、
「出血したらだめだ。がまんしろよ」
どうしたら助けられるだろうか。衛生隊は近くにいない。まして、いまの容態では動かすこともできないだろう。潮の干満によっては退くこともできない。
容態がしだいに悪化していく、かなり出血していたのだ。輸血は不可能である。顔面蒼白となって、元気な髭面の面影がうすれ、
「残念だ、死にたくない・・・天皇陛下・・・万歳」
小さな声だった。
「立原あっ」
二回とは名を呼べない。みんな声がつまり、顔じゅう涙でぬれている。立原が死ぬのだろうか、ほんとうに死ぬとは思えない。信頼する数すくない同年兵の仲間でもある。脈をとっていた大谷が、
「終わりだ。とうとうだめだ!」
みんなで無言の敬礼をおこない、近くの低いところに墓穴を掘って埋葬した。彼の腕一本を、砲弾落下の合間にやっとの思いで荼毘に付した。三月三十一日が、立原正則の命日となった。

立原からは、以前、恋人があったという話を聞いていた。最後の言葉の、「死にたくない」の気持ちが、遠い日本の彼女にとどいたであろうか。もしかしたら、彼女の名前を呼ぶかわりに出たのかも知れない。
数多くの戦友が第一線から消え、散ってゆくなかで、母の名も恋人の名もださず、天皇陛下万歳を口にしたのは二、三名しか記憶にない。立原は完全な兵士であり、立派な軍人であった。

天皇陛下万歳という、兵士は、実に少ない。
その母を呼ぶ、妻を呼ぶ、恋人の名を呼ぶのである。
子供の名を呼ぶ兵士もいる。

戦場での、死は、ごく当たり前のことだったが・・・
その現場を繰り返すと、人の死に、麻痺してくる。
更に、自分が死ぬことも、麻痺するのである。

限界を超えた状態の中で、冷静に死を考えることは、出来ない。
だから、狂う兵士も出でくるのである。

更に、自決である。
戦場の極限状態に耐えられず、自決する。
絶望して、自決する。

人間を、極限状態に追い込む、戦場という場である。
一体、誰に、その追い込む権利があるのか・・・
人間を、そこまでに、追い込む権利は誰にも無い。

戦争を見る。
そこで、平和を考えることが出来る。
それでは、平和とは、何か・・・
戦争のないことである。

そして、平和は、人の心の中に、毅然として存在するものだ。
そこには、人間の命への尊厳がある。

更に、多種多様な考え方を、許容する寛大、寛容な心構えがある。
誰一人も、裁くことが無い、寛容さ、慈悲の心である。


posted by 天山 at 05:53| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月11日

玉砕65

部隊がひとつところで腰をすえ、防空壕、便所、宿舎内と整備が完了するころ、かならずといってよいほど移動の命令がでる。雨期最盛期のなかで、われわれはキョクトー地域に移動することになった。

道路も水田も原野もみな水につながった中を、膝まで没して少しでも高いところをえらび行軍する。前かがみの背嚢の上から天幕をかぶり、ガッポガッポと足を上げないようにして歩く。たいせつに手入れした軍靴の損傷を気にしながら、北へ北へと水中行軍はつづけられた。

途中、アポークワ付近を過ぎたが、ここは二ヶ月前の三月八、九日、英印軍と衝突した戦場だ。二度と訪れることもあるまいと思った場所に、いまこうして進攻時と反対の方向から近づきつつあった。
「ここだ、英軍のテントのあったマンゴー林は」
「この左翼の山林内が三名の戦死したところだ」
「あっ、この道だ。川になっているが、ここで山砲が零距離射撃をやったんだ」
わずか二ヶ月前の戦場ドンランは、水の流れをのぞけば何ひとつ変らぬ風景だった。初年兵たちも、われわれの話しを聞きながら黙々と行軍する。
「三人の墓はもうすぐだ」
見覚えのある林が目の前にあらわれてきた。墓標があった。とたんに涙が汗といっしょに流れおちる。中隊は停止した。隊員たちは口々に、
「中隊が恋しかったろうなあ」
「こんどこそ最後の別れだ」
あたりを見回すが、そなえる花とてないジャングルである。中隊全員、墓をかこんで整列し、号令一下、
「着け剣。三英霊にたいし、捧げえ剣!」
全員の力強い一糸みだれぬ敬礼に、地下の三名からは、「後をたのむ」という声が伝わってくるように思えた。

三人の死はかならず無駄にはしないから、ビルマを独立させ、戦いに勝つまではおれたちが代わってがんばる、安心して眠ってくれと心に誓った。わかれを惜しみつつ、かつての戦場をあとに、われわれはカラダン河に向って歩をはやめた。

ビルマ戦線では、その移動が不変的である。
行きつ戻りつを繰り返している。
その、ビルマ戦線から、インパール作戦へと、参加命令が下る。

当初の日本軍の目的は、ビルマの独立であった。
それは、つまり、ビルマを植民地にしていた、イギリス軍を敗北させることだ。

一度は、撤退させたイギリス軍は、力を付けて、再び、日本軍に向って攻撃を仕掛けてくる。
当初は、ビルマ人の兵士も、日本軍に参加していたのである。

インド兵は、矢張り、インドを植民地にしていた、イギリス軍の兵士として、参加した。
だが、それとは別に、インド独立のために、日本軍に接触してくる、インド人たちもいたのである。

ビルマ独立の英雄とされる、アウンサン将軍も、日本軍により、その戦い方を習っている。今も、ミャンマーの独立歌の中に、アウンサン将軍は、日本軍と共に・・・という、歌詞を歌うのである。

ただ、日本軍が優勢な時期に、日本もイギリスと同じように、ビルマを植民地にするのではないかとの疑いが出てくる。
一点の曇りは、それだけである。
結果的には、日本は敗戦した。
しかし、ビルマは、独立を勝ち取ったのである。

六月になり鴨志田信義中尉が着任し、しばらくぶりに中隊長ができた。この時期から下官斥候もたびたび出されたが、われわれ広瀬小隊に将校斥候の命令があり、ふったり止んだりの空模様の日に出発した。
われわれは谷をさけ、山すそをまわり、高いところを行軍するが、木や枝が茂って歩きにくく、モードク山系をカラダン河上流へと入り、ジャングルに近づいたとき、光機関の田中中尉の一隊と合流した。

ビルマ人隊員たち六、七名は素足に英軍の小銃と背嚢を背負い、田中中尉はシャツにロンジーを腰に巻き、皮のサンダル履きの軽装で、拳銃をつっていた。
小さな村で昼飯を炊く。ビルマ人隊員は現地住民と竹を切り、中に米を入れて焚き火であぶって準備した。この炊き方のほうが、日中の暑さにも飯が長持ちする。・・・

ビルマ人隊員は松明をかかげると弓を持って駆け出し、日本の兵隊ならば往復に一昼夜を要する前方の高い山まで、われわれが大休止の間に行ってもどって来た。この付近は、カラダン河の上流パレトワから北方の山岳地帯だった。
ふたたび夜明けとともに行軍をはじめ、川を見下ろす高地を行く。周辺は高山が連続し、流れは右に左にまがりくねって、ところどころに砂原をつくっている。やがて前をゆく小隊が停止した。ビルマ人のスパイが敵陣地へ出るという。師団からか軍からか知らないが、光機関が指示を与えているようだ。このあたりは英軍も斥候やスパイを出してくる地点だと聞いた。

・ ・・
これよりさき七月の下旬、二百十三連隊主力は、第二、三大隊とともに、インパール作戦に参加のため師団主力のいるカロー方面へ転進し、第一大隊がここキョクトー周辺の警備に残置され、五十五師団の指揮下におかれていた。

情報では、英印軍の斥候がカラダン河上流に出没しありといい、日ごとに緊張の度をましていった。そうしたなかで、ふたたび広瀬小隊に将校斥候が下命され、四日分の糧食をたずさえて出発となった。前回よりも行程があるものと察し、われわれも覚悟した。
晴れ間も出るようになったから、九月から十月に入ったかも知れない。小さな畑と原野をすぎて、北の山系内に入ってゆく。夜も松明をともし、休むことなく鬱蒼とした森林を一列で急いだ。そのため昼間も行軍中に、歩きながら居眠りする。

ビルマ戦線の、日本軍は、色々な地域に広がり、活動したが・・・
その総司令部が、ラングーン、現在のヤンゴンに存在していた。
ただし、インパール作戦の司令官、牟田口は、マンダレーの司令部にいた。

ビルマ全土にかけて、日本軍が戦線を拡大していったということだ。
当初は、イギリス軍も、撤退を余儀なくされたのである。

戦記にあるように、ビルマ人の隊員も共に、行動していたという。

しかし、スパイ活動は、難しい。
両者に情報を提供していた、スパイもいるとのこと。

イギリス統治のビルマゆえに、イギリスに味方する人たちも、いたのだろう。

ただ、日本軍は、このビルマでは、現地の人たちを、戦場に巻き込まなかったのが、幸いだった。

フィリピンの島々では、現地の人たちを、巻き込んだ戦闘が多いのが、悲劇である。



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2015年09月12日

玉砕66

さきに撤退した英印軍は、兵器、弾薬、兵力を補強して、ふたたび攻勢をとり南進を開始した。
兵力は第十五軍団で、第一線に第五、第七師団、第二線に第二十六インド師団が配置についた。昭和19年1月はじめには、第七師団にブチドンを、1月9日、モンドーを第五師団に占領された。

昭和19年になると、戦況は、日本軍に不利になる過程である。
イギリス軍は、物量の補給を完全たらしめた。
逆に、日本軍は、補給を考えていないのである。

兵士たちにとっては、大変な戦争の現場になった。

われわれの前面では、一月中旬、第八十一西アフリカ師団がダレトメにたっし、カラダン河谷を南進中で、ちょうどこのころ、私は山中の陣地を確保していたのだった。
陣地についてから十日の一月十二日、中隊から二名の連絡兵が到着した。斎藤伍長がまたおとずれ、陣地引き上げ命令が伝えられた。二人の顔は真剣でひきつっていた。状況は一刻を争そうことがうかがわれた。西アフリカ師団は、ダレトメよりパレトワに南下したのだった。

命令を受けた小隊は、ただちに陣地から下山し、強行軍になった。帰りは往路からはなれた山中に入る。敵がさきにパトワレからカラダンに進出すれば、われわれの出口はなくなり、パレトワ北西部の山奥に孤立か置き去りになって、万事休すだ。連絡兵と合わせて十三名では、大部隊を相手に戦いようもない。小隊長があわてたのもうなずける。敵との衝突を避けるため、けわしい山岳の地形を昼夜踏破することになった。

強行軍につぐ、強行軍である。
だが、これは、序の口である。
これは、まだ、ビルマ戦線の辺りだ。

すでに12月25日、第二中隊は第四中隊、第一機関銃中隊、大隊本部とともにカラダンからトングバザー攻撃に出動し、わが第一中隊と第三中隊が、カラダン地区にあって文壇行動をおこなっていた。
これよりさき、弓兵団の第二百十三連隊主力はインパール作戦に参加のため、昭和18年6月末、アキャブからタウンジーに移動し、師団のもとにあり、われわれは第五十五師団騎兵第五十五連隊長の指揮下にあった。

師団の下に、それぞれの連隊があり、そして、大隊、中隊などがある。
素人には、とても、分りにくいものだ。

昭和19年1月21日、西アフリカ師団との交戦により飯島幸三郎、佐々木千代治上等兵がパレトワ北方八キロの地点で戦死した。佐々木上等兵は1月9日、われわれと山中陣地でわかれてから12日目の戦死だった。
翌22日には、パレトワ南方三キロのカンワで鈴木順光上等兵が、25日には同じくカンワで小林幹雄兵長、渡辺幸一一等兵が戦死した。

第一中隊は第三中隊とともに、川島部隊に申し送り、キョクトーのわれわれは中隊主力と合流した。中隊はキョクトーからモードク山系をふたたび西へ向い、大隊に追及しようとした。この間も強行軍で、カラダン河上流よりも暑く、山の起伏がはげしかった。

途中、五十五師団の一部隊とも、すれちがった。
「現役はん、がんばりまんな。わてら、もうあかん」
この部隊は老人兵がほとんどで、これではたして戦闘ができるのかとあわれに思えた。大正11年、12年兵というから、私の生まれたころの兵隊である。

彼らが通過したあとには、手榴弾や小銃弾がかなりすててあった。それをひろいながら行軍し、われわれは防毒面と鉄兜をすてた。五十五師団の兵は毛布、鉄兜、防毒面を大切に持って行軍していった。

日本兵たちは、ビルマの至る所を、行ったり来たりしている。
それが、ビルマ全土に広がる。
私が慰霊に行くのは、タイであり、多くは、ビルマとの国境沿いである。
タイ北部は、ビルマの東北部に当る。
出掛けるのは、そこまでが、限界である。

ビルマの北部は、中国と接する。
クリー、荷物持ちとして、多くのタイ人、中国人も、参加していたはずである。
参加というより、強制的に日本軍に、協力させられたといってよい。
であるから、戦争犠牲者という時、そのすべてを含めて、言うのである。

日本兵のみではない。
すべての、戦争犠牲者を追悼慰霊するのである。

第一大隊主力は、マユ山系の西側へ挺進隊となって出撃し、わが第一中隊は遠くインパール作戦に参加のため反転して、第一大隊とはなれラングーンへ向うことになった。
二百十三連隊を追及のため、二月下旬、中隊全員が合流し、モードク山系西側から行軍を起こした。アポークワにいたる途中、ドンラン付近を通過したが、四キロもはなれた戦友の墓地へのより道はゆるされなかった。

敵はカラダンからキョクトー付近まで、川島部隊を圧迫し進出してきた。アポークワは指呼の間であり、機関銃音が聞えてくる。転進するわれわれは油断することなく、道路の両端にわかれて行軍し、第一線を後にした。
隊員はラングーン行きを心から喜べなかった。第一大隊の各隊が、まだあとに残って戦闘中だからである。

二回目にわれわれが渡河を終わったとき、「爆音」という声に河岸から急いではなれ、草の中に隠れた。工兵の渡河は一時中止となった。

そこで、空中戦が行われていたのである。
英機は、六機で、友軍機は、三機である。

「がんばれよ、がんばれっ」
兵隊たちはみな応援する。ひろい空なのに、われわれの頭上でばかりやっている。
とつぜん、上流から一機が超低空で飛来し、河に渡した高さ十メートルの無線の下をぬけ、河面すれすれにグワーンと流れにそって飛び去り、見えなくなった。迷彩色にあざやかな日の丸があり、友軍機だ。水面までは四、五メートルがやっとなのに、猛スピードで屈曲したところをよくぶじで飛べるものとびっくりした。

上空でははげしい空中戦がまだつづいている。ふいに、友軍機一機が煙をはいた。機首が下がり、こちらの渡河点方向に突っ込んでくる。胴体まで真っ赤な炎と黒い煙につつまれている。
「友軍機だ」
機影が大きくなり、スピードを増しつつ落下してきた。
「早く飛び出せ、下は友軍だぞ」
「出ないぞ」
戦闘機はさばにあった集落の池の築堤に、火だるまのままズドーンと激突し、あたりには炎がとんだ。おそらく機上で戦死したにちがいない。渡河前の中隊員が、池に向かって駆け出すのが見えた。
空は静かになり、やがて渡河してきた隊員が飛行隊将校の遺骨を胸に下げていた、悲壮な戦死だった。昼夜連続の行軍中、通過点のミヨホーン飛行隊に遺骨をとどけた。

陸上戦、空中戦・・・
共に、壮絶である。
悲壮である。

戦争とは、死ぬことなのである。
生きることを、考えない戦争というもの・・・









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2015年09月14日

玉砕67

やがて船から汽車に乗り換え、3月7日、ラングーンに到着した。そこで弾薬、糧食を受領し、いよいよインパールかと覚悟をきめ、遺書を書いた。年老いた祖父母の身を案じつつ、強大に後半を託し、仲良く助け合って暮らすように書きしるした。これで最後とは書かなかったが、弟が二人もあり、万が一戦死しても心配ないと思う。

状況は急変した。インパール作戦に参加するための追及は中止となり、3月7日、即日、出動命令を現地でうけた。ただちに出発準備だし全員が緊張する。
敵は3月5日、マンダレー・ミイトキーナ線の要塞、カーサ付近に空挺部隊を降下させたので、第一中隊は軍直轄となり、緊急湯送によって攻撃に向うことになった。われわれはこれを空挺部隊討伐と称していた。ウィンゲート空挺部隊討伐の「九号作戦」である。

わが軍はインパール作戦の開始時で、攻撃部隊がなく、各方面から少数の兵力が向けられた。このような状況のため、一中隊は休む間もなく列車に乗り込んだ。敵の制空権下にあり、敵機の襲撃をうけて退避と乗車を繰り返し、寸断された鉄道を自動車に乗り継ぎ、インドウを目指し前進した。

この、マンダレーは、ビルマの中心部に位置する。
イワラジ河を720キロほどさかのぼったところにあり、ビルマ第二の都市で、最後の王朝があった場所として、有名である。
最近は、中国などからの、様々な物資、資本が流れ込んで、急激に近代化が進む。

更に、街自体も、広がっている。

この、マンダレーでは、日本軍と連合軍の、激しい戦闘が、繰り広げられた。
幅70メートルの掘りによって囲まれた王宮も、市街戦により、大半が炎上した。
現在は、修復され、観光の名所となっている。

その、イワラジ河にかかる、アパ鉄橋は、マンダレーの郊外と、イワラジ河対岸の、サガインを結ぶ鉄橋である。
サガインは、北部の激戦地に至る鉄道と道路、双方の起点となった場所である。
アパの鉄橋は、軍事上極めて重要な橋である。

戦時中は、イギリス軍に爆破され、日本軍は、最後まで修復することが出来ず、物資の運搬に、大変苦しんだのである。

マンダレーにつくと宿舎に入り、中隊梱包のほか戦闘用以外のいっさいの私物などをまとめた。日の丸の寄せ書き、千人針、操典類、預金通帳、軍隊手帳にいたるまで梱包し、戦友の遺骨もそこにおいて荷物監視の兵が残った。
薄暮れ前、われわれは宿舎を後にして、王城の外濠を右に見て行軍の途についた。濠の水面にうかぶ睡蓮や城壁が、どこまでも長くつづき美しかった。
アパの鉄橋はなかほどがV字型で破壊され、下流から工兵隊による門橋でサガインに渡った。すでに数少ない機関車が待機しており、小用するひまさえないくらいである。前線にちかづくほど鉄道は破壊されているが、トラック部隊との連携は敏速円滑で、たった一個中隊の移動にしては待遇がよすぎた。

ラングーンを出発しから二日目に、インドウ付近に到着した中隊は、ただちに鉄道警備隊の救出に赴いた。そこでわれわれが乗り込んだのは、軽列車と呼ばれている、二両編制のガソリンカーだった。・・・

われわれは明早朝、方面軍参謀の北沢少佐とともに、自動車でモールの敵地まで行くことになった。昼間の敵機の襲撃は確実だから、何台か運のない車はやられると覚悟した。

夜が明けると道路両面の山林内で偽装をほどこし、そのまま乗車を待っていた。太陽が高くなり、敵機の危険は倍増した。

とつぜん、爆音がわれわれに向ってくるのを予感し、全員、道路をはなれ山林内へ走りこんだ。爆音がグワーンとくるなり、ドンパーンと撃ってきた。みんな太い木の反対側にまわって盾にした。

いままで戦闘機は機関銃だったのに、敵は機関砲か速射砲も装備しているようだ。薬莢の太いのが木の枝にあたり、カランカラ、ドバーンと私の目の前に落ちた。

敵の激しい攻撃に晒されたようである。
文面だけでは、想像がつかない。
この場所が、激戦の場所となったということ。

現在、サガインの街の山の頂には、多くの慰霊碑がある。
ビルマ、マンダレー付近は、慰霊の巡礼地である。

やがて敵機は銃撃いっぽうに変り、執拗に攻撃を繰り返した。そのたびに、バシッバシッバシッと枝が折れて、バサッと頭の上に落ちてくる。右から左からと休む間がない。ダダダダダー、ビシビシッ、ブスッブスッと、地面の山土が草といっしょに飛び、グワーンと爆音が遅れて頭上を飛び去る。終わりかと思うと、また来て撃たれる。ずいぶん長い時間に感じたが、やがて機銃弾を撃ちつくしたのか敵機はいなくなった。
頭上の敵機はさったが、周辺は爆音が絶えることがない。このときの襲撃で、木村芳郎兵長が大腿部貫通の負傷で後退した。

3月12日、われわれは空挺部隊攻撃隊長の長橋中佐の指揮下に入り、17日の夜、モール陣地攻撃に参加した。第一中隊は陽動作戦をとり、菊十八師団の一隊が攻撃したが、成功しなかった。3月21日も菊部隊が攻撃したが、犠牲者を多くしただけであった。
わが中隊はおもに夜間、敵陣地の正面・左右両翼と周囲をまわったが、兵には徹底した説明はなく、ただ移動し歩きつづけた。モール攻撃準備行軍中の十六日は夜半、敵地雷のために大串守上等兵が戦死した。

3月26日、第一中隊池田小隊が、モールの敵前数百メートルの捜索拠点に出ていったが、翌27日の夜明けに、敵の急襲をうけ全滅にひとしい損害をだした。

次第に、日本軍の不利な状態が続いてゆく。
当初の勢いは無い。
つまり、英軍が、相当の覚悟を持って、戦闘を始めたということ。

「どうした!」
顔面は硝煙のためか黒ずんで、襦袢がやぶれている。恐怖と緊張のため、声がかすれる。
「池田小隊全滅だ」
「よく来たな、後は」
「みんなやられた」
「そうか、治療してもらえ」
だれかほかにも帰ってこないかと、手に汗して待った。
「来たっ、二人だ。迎えに出ろ!」
一人が負傷した隊員を支えながら歩いてきた。駆け出していき、交代しながら、
「後はどうした」
「どうなったかわからない。全滅だ」
「不意討ちで、手榴弾を投げ込まれ、自動小銃と機関銃で一斉射撃をくらったんだ」
「歩哨が発見できなかったのか」
「歩哨がさきに撃たれて、小隊はぜんぶ低いところに入っていたんだ」
歩哨以外は眠ってしまったのだろうか。一瞬の奇襲をうけて、池田小隊長以下多数の死傷者を出し、二小隊は壊滅してしまった。
これまでともに励まし、慰めたすけあってきた同年兵、戦友、初年兵を一度に失い、呆然とした。負傷して動けない身体に、とどめの銃撃をうけた戦友もあったろうと悲嘆にくれ、涙が出た。

夜も昼も、上空に敵機が見えないときはない。どの方向へ移動しても、頭に敵機の帽子をかぶって歩くようだ。

敗戦に向っているとは、知らずに、命を落とす。
散華する。
玉砕である。

posted by 天山 at 06:13| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

玉砕68

当時、日本陸軍の指導者たちは、早くから、インドに目を向けていたと言う。

インドへの進攻で、戦況を好転させるというものだ。
大本営は、昭和17年の、21号作戦の立案で、はじめてインド進攻を、作戦として、具体化した。
その後、昭和18年3月、東条陸相が、河辺ビルマ方面軍司令官との間で、インドへの働きかけを念押ししている。

その昭和18年、日本は、インド進攻を推進すべき状況に置かれた。
つまり、太平洋方面では、ガダルカナル島を攻略した、米軍が攻勢に転じている。

5月には、アッツ島、8月に、キスカ島を奪回。以後、11月には、中部太平洋の、マキン、タワラを占領される。

この太平洋での、米軍の反攻作戦は、日本の資源輸送を脅かして、国内の工業生産力は、日増しに、低下していった。

悪化する、戦局を打開するため、首相になった東条は、太平洋とは反対の、ビルマに目を向けた。

ビルマをテコに、イギリスの屈服を図るというものである。
それを、実行するため、8月1日、パー・モーを首相として、ビルマを独立させる。

更に、この頃、独立運動に動いていたインドを、刺激し、イギリスの戦略に揺さぶりをかける狙いである。

インド独立に関しては、別の工作も行われた。
インド国民軍の結成である。

それは、昭和16年12月に始まった、マレー進攻作戦の際に、大量に捕虜にした、インド兵たちを懐柔し、インド独立を国外から目指すために結成させた、インド人部隊である。

日本の軍司令部は、インド国外に亡命している、独立運動家、チャンドラ・ボースを日本に招き、インド国民軍を母胎とする、自由インド仮政府を組織させた。

7月には、シンガポールで、インド独立連盟大会が開かれ、東条首相は、チャンドラ・ボース総裁と共に、インド国民軍を閲兵した。

インドを圧迫するための戦略を進める東条にとって、インパール作戦は、その突破口を開くものになる。

8月に、大本営が、作戦準備の指示を出したのは、こうした動きからである。

更に、11月、東条は、フィリピン、ビルマなど、アジア諸国の首脳と共に、チャンドラ・ボースを東京に招集し、大東亜会議を開いた。
これは、最初のアジア会議である。

大東亜共栄圏内の、アジア諸国が一致して、連合軍に立ち向かうというものであり、民族の独立を死守しようとするものである。

インドの、チャンドラ・ボースは、後に、インド独立の父として、英雄と讃えられることになる。

ただ、そのインパール作戦は、あまりにも、犠牲が大きかったのである。

更に、無謀な作戦であった。

27日、インドウの武兵団司令部が敵の急襲をうけ、中隊に急遽、出動命令がくだった。夜間の強行軍で夜明けに山下大隊とともにインドウに赴いた。到着と同時に分隊長は、私の下痢のはげしさを見かねて、診察をうけるようにと言われ、橋本佐内戦友と兵・病院の診察をうけた。二人ともアメーバ赤痢で、翌日入院させられた。
これで二度目の入院になるが、どうしようもない。軍医でいる時間がないほど、日に三十数回もの血便と粘液便になやんだ。腹痛がひどく、キリキリと腹の中をえぐりとられるようだった。

入院して数日後、病院の向かい側高地の山林内で、とつじょ、機関銃の発射音がした。敵の進出はここまでおよんでいるのだ。
すぐに小銃を持ち、かた手で痛む腹を押さえて配置についたが、銃撃は一回だけだった。山林方向を透視したが、敵影も発見できず物音もなかった。
一刻が経過して爆音があり、やがて敵機が焼夷弾の投下をはじめた。さきに銃声のあった付近に落下傘がいくつも落ちて燃え出した。

乾期の山林は推積した木の葉と枯れ枝がおびただしく、類焼の危険を感じた。みるまに燃え広がり、とつぜん、大音響を起こした。ダダン、ズドン、ズズンとものすごい爆発だ。とたんに、破片がわれわれのまわりに飛んできた。

まさに陣地が爆撃と砲撃を同時にうけるのと同じだった。堅固な防空壕に破片がつきささり、そのまま落下する大小の砲弾まであり、三時間も誘爆を起こし、赤い炎と煙が上空にたちのぼった。
英印軍の斥候が、わが軍の弾薬庫を発見して報告し、爆発炎上させたのだが、日本軍陣地内に深く進入したのは、敵ながら天晴れだと思った。これで友軍は菊十八師団はもとより、第十五軍のインパール作戦などにも重大な影響をおよぼすことになったのだった。

この、マンダレー付近の戦闘は、ビルマ戦線、インパール作戦に深い影を落としたのである。
それほどに、激しい戦闘だった。
作者が、その生き残りであり、書き残す意義が多いにある。

3月30日、私が入院後、第一中隊は山下大隊とともにインドウ飛行場を攻撃し、これを奪還したが、矢口晴信曹長が戦死した。そしてインドウ湖ちかくの掃討作戦では本山清伍長が戦死した。・・・

3月31日、中隊はモール陣地の死守を命じられた。激しい砲撃、銃爆撃のあと、地上軍の猛攻は数度におよび、部隊はそのつど撃退し、敵に多大の損害をあたえたが、わが中隊もまた、増田少尉戦死のほか多数の負傷者をだした。
そのさい、中隊長は濠にもぐったまま動かず、各陣地は混戦になった。各個の連絡もとれず、増田少尉は戦死、各部隊でも負傷者が続出した。

四月上旬に武兵団が到着し、病院付近から前線へ出て行った。第一次総攻撃、第二次、第三次攻撃も成功せず、そのたびに甚大な損害をうけて、戦傷者が血だるまになって、ぞくぞくとトラックで運ばれてきた。

負傷者の話しによれば、突撃直前に照明弾を上げられ、突入すると各種自動火器によるいっせい射撃をうけ、さらに接近したところを火炎放射器で焼かれ、攻撃のたびに大きな損害を出したという。

激戦の場所、マンダレーである。
そして、今は、追悼慰霊の場所となる。
posted by 天山 at 06:14| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月16日

玉砕69

わが軍は砲の援護射撃もなく白兵戦でのみ攻撃した。そのため、敵の陣地には無数の友軍の死体がかさなったという。攻撃に失敗した大隊長は、林兵団長に、
「生きて帰るな、死んで来い」と殴られ、罵声をあび、辱めをうけた。
「わが生きることは、部下を死なせるばかり」と、再度の突撃には敵前で大手をひろげ、大隊長は敵の銃弾を立ったままうけて倒れふしたという。
攻撃不成功の状況で日が過ぎ、五月十日、一夜にして敵は陣地を撤退し、敵兵の姿が消えた。
私は中隊が移動するのを知り、退院を願い出た。病院では後送するといわれたが、中隊とともにインパールへ行きたいと懇願し、多量の薬を受領した。四十日間の入院は長かった。同時に発病した松岡友治上等兵、茂呂一郎一等兵は病死した。

インパールへ行く前から、このような状態だった。
それが、インパールへの道のり、そして、敗北、更に、敗走の悲劇である。

英印軍がチンドウィンに河西岸近くまで進出していたころ、大十五軍司令官牟田口中将は、各師団長の意見をしりぞけ、三週間の糧食弾薬で、四月二十九日の天長節までにインパールを占領すると豪語した。
だが、その日はすでに過ぎ、五月中旬になっていた。各部隊は英印軍をアラカン山系に追撃したが、すでに食料弾薬の欠乏と兵員の布告に苦しんでいた。
わが第二百十三連隊主力の第二大隊は、歩兵団長山本少将の指揮下にあり、モーライク北方からウェーク、タム、モーレを攻撃、パレルに向い、アラカン山系の峻険な山頂に構築された堅陣にたいし、一山ごとに肉薄攻撃による熾烈な戦闘をつづけていた。また、第一大隊の主力は、いまなお遠くカラダン方面で、「ハ号作戦」に参加しており、悪戦苦闘中だった。

わが第三十二師団は第二百十三連隊をはじめ、第二百十四連隊、第二百十五連隊とも、全滅にちかい打撃をうけたにもかかわらず、五月十三日、牟田口軍司令官は戦闘指令所を第三十三師団の後方にすすめ、直後、師団の指揮をとった。

こうした状況下、私たち第一中隊と機関銃小隊は、連隊追及の強行軍をはじめた。
イエウからムータイクの間は、連日の雨で道路は泥濘と化して、兵隊たちはトラックからおりて歩くという状況であった。ボンネットの短い車が動かなくなった。シボレーとトヨタが健闘したが、ついに車をすてて、泥の道を行軍することになる。

敵機の襲撃は増加の一途をたどり、昼をさけて薄暮から屋明けまで行軍をつづけた。雨天のさいは敵機が飛来しないので、昼夜不眠で前進する。背嚢がたいせつな兵は天幕でつつみ、身体は汗と雨水でびしょ濡れとなった。乾かぬ体のまま谷間でしばしの眠りについた。
そうした連日の行軍で疲れたころ、第一線から負傷兵が退いて来るのに出会った。日ごとにその数は増し、その様はあまりにも哀れであった。

患者ばかりがひとかたまりで来る。その一団からも離れ、一つまた一つと杖をつき傷ついた足を引き摺り、のろのろとよろけながら動かぬ自分の脚を見ては立ちすくんで、ぼんやりと前方を見つめる兵隊がいる。その間を通り抜け、がんばれよと声をかけてやるが、前線へ向うわれわれの出来るかぎりのことであった。

前線の模様は悲劇的なことばかりが耳につき、暗い雨期の雨とともに、われわれの心まで暗くした。

自分たちが、出掛ける場所から、戻る兵士たちを見て、哀れに思う。
つまり、それは、明日の我が身の姿なのである。

ビルマ戦線の撤退ほど、悲劇的なものはない。
また、インパール作戦の敗走の様である。
未だに、ミャンマー、タイ国境地帯には、彼らの遺骨が眠る。

撤退の道は、タイ、チェンマイの野戦病院へと、至る道である。
チェンマイ郊外の地では、今も、日本兵の遺骨が出るという。

「牟田口が師団長まで更迭した」
「突撃すると、中隊は全滅した」
「敵陣地を占領しても、砲爆撃で濠が掘り返されてしまうんだ」
「食べるものがないんだ。戦うにも兵隊がいない」
後退していく兵はいう。しかし、われわれは命令であれば火の中へも行くほかはない。兵の命は羽毛よりも軽し。最後の散る場面をいくどとなく想像した。

戦記を先に進むと、悲惨のこと多々あり。
しかし、その悲惨さが、戦争である。

カラダンを出発したとき百数十名あった中隊員は、モール空挺部隊の攻撃をへて、現在七十余名がなにも知らず、地獄の入口へと進んでゆく。そして戦い敗れ撤退するとき、ふたたびこの橋を渡れたのは、わずか二十名たらずであった。

それでは、話しを進めて、インパールにての様子である。

16日の薄暮、山砲の支援をうけたわれわれは四四九二高地に突入占領し、独立速射砲隊が確保した。部隊はさらにパレルに向って進んだ。
わが第一中隊は先発し、ランゴール付近に到着した。敵情を山上から偵察し、濠を掘りつつ陣地を確保して、パレル方面をはじめて見た。なんと遠かった道のりか、だれもが無言で見つめるインパール平野だ。・・・

やがて、この陣地も一斉射撃をうけるのか、日一日と弱る身体を思い、戦わずして全滅するよりは、敵中へ斬り込んで死にたいと、だれもが真剣に考えた。
各個濠などどれほどの効果があるだろうか。防空壕のような陣地濠など掘る余裕も気力もなかった。

いよいよ米も底をついて、なにも食べるものがない。やがて草と木だけを食べ飲んだ便は、血便になってしまった。脚気、マラリア、赤痢の併発者が多くなり、医療品など皆無のわれわれは、下痢をとめたい一心で炭をかじった。
一両日はさいわい敵に発見されなかったが、ときをへずして、敵の斥候が麓に進出し銃声が起こった。

6月17日の夜、防音装置を完全にして、静かにジャングルの谷を前進する。数時間後だれが死に、だれが生き残れるかなどとは考えなかった。ただ歩いているあいだは、なんとなくホッと気が休まる。このときまでに中隊員は、何人かが病気と栄養不良でたおれ、三十数名にへっていた。

ここにいたっては雑念も起きない。思考力低下のせいだろうか、それとも戦闘をかさねた結果だろうか。ただはっきりしていることは、生きるのを許されない状況と、長くは保てない体調を考え合わせ、遅かれ早かれ死ぬと決めていたことだった。

これが、当時の戦争である。

物資の補給を徹底して考えなかった、無謀な作戦、インパールだった。
戦争という、全体主義の考え方の、只中で、兵士たちは、ただ、黙々と、死ぬことを覚悟して、戦闘行為を続ける。

何にせよ、実に、憐れな事である。






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2015年09月25日

玉砕70

「撤退するよう、伝令がきました」
山中が、私の足もとまで這い上がりながらいう。突撃頓挫だ、失敗ではないか。
「お前、先におりろ」
私は、後ずさりでゆっくり下がりはじめた。東の空だけがいくらか白くなってきた気がする。敵は勝ち誇っているのか、恐ろしいのか、ますます撃ってきた。
私は右腕から手首に冷たさをおぼえ、手を見ると赤黒く血が見えた。右肩に手をやると、上衣の上から指が肩の傷口へ入った。しだいに右手がしびれ、左手に銃を持ち替え高地をおりた。

6月18日の黎明攻撃は不成功に終わり、私は午前五時三十分、敵と友軍両軍の手榴弾片をあびて負傷してしまった。

病気や、負傷した兵士は、更に、悲劇である。
ただでさえ、何も無い中で、堪えるしかなくなる。
更に、心理的な重荷である。

隊の邪魔になると、自爆する者もいる。

夕暮れを待ち、戦友の桜井上等兵と病気の患者あわせて五名で出発することになった。野戦病院のあるモーレまで歩かなければならない。中隊長は小指だけの負傷だったが、われわれといっしょにさがるのだろうか。連隊本部に報告のためにいくとも聞いた。
山田准尉が、優秀な伝令の川崎芳夫上等兵を、中隊においていただきたいと頼んでいたが、どうなったのか、彼の姿は中隊長とともになかった。

薄暮となり、患者だけが歩き出した。クデクノーに進出してきた道を、傷ついたからだで引き返さなければならない。桜井も病人も一本の杖では心細かっただろう。敵に暴露した道路には、間断なく砲弾が全行程にわたって落下している。途中、遮断する適当な山も無い。深い谷へ下りられるような患者たちではない。夜が開ければ敵機と砲撃で歩けなくなるので、中谷山までは急がねばならない。

「さあ、行くぞ、がんばって」
傷病者たちは、のろのろと動いては休む。だが、永く休むとこんどは立てなくなる。
「がっばって、がんばるんだ、早く」
何度繰り返した言葉だろう。
「歩けないから休んで、後から・・・」という。
「休んだから立てなくなる。一人だけ置いて行けるか、がんばれよ」
励ましながら二、三十メートルずつ歩かせたが、とうとう動かなくなった。
「他の物は少しでも、先にいってくれ」
一人また一人と、散り散りに歩いていく。
「このあたりは敵の斥候が出るところだ、早く」
それでも立とうとしない。
「先にいってくれ、死んだ方が楽だもの」
たしかにそうだ。ここでは生きるほど苦しいことはないだろう。しかし、隊員を置き去りにしたと、なんで報告ができよう。そのままにして先へ行ったら、手榴弾で自爆するのはまちがいないだろう。

これが、日本軍兵士の悲劇だった。
撤退と、敗走の道ほど、彼らを苦しめたものはない。
そして、生きようとしたが・・・
途中で、斃れてしまう。
白骨街道とも、靖国街道とも言われた、徹底の道。

みんなは痛々しいほどに痩せた足をひきずって前進する。五十メートルもつづけて歩けず、口々に、
「休ませてくれ、少し休ませて・・・」
涙声で哀願され、山かげまでいきたかったが、この付近で休憩することにした。一軒屋高地のふもとを直角にテグノパール方向にまがると、まもなく左のくぼ地に小屋を見つけた。路面と床が平らなので、雨のないところで休ませようと、竹の床に腰をおろそうとした。
そのとき、とつぜん、ふって湧いたように敵のいっせい射撃をうけ、屋根と床下を弾がつきぬけた。敵はちかい。ダダダーン、パパハンパパパン、と軽機と自動小銃を暗闇から撃ちつづけている。
「はやく道路へでろ、捕まるぞ」
小屋と路上にまたがり、四人を急がせた。
「静かにはやく」
・ ・・
敵は一軒屋高地のふもとのまがり角から撃ってきたのだ。五分も遅れていたら、われわれはちょうどあの位置だったと思うと、冷や汗がでた。二、三十名の敵が谷づたいに威力偵察にきたのだろう。英印軍も遠いところまで夜間行動をはじめたものだと思った。

その後も夜明けまで歩きつづけた。谷が深くて入れないので、歩きながら取って雑嚢へ入れてきたわずかな野草を、飯盒一つ分を煮て五人でわけて食べた。患者をみながらの行軍というのは、自分の肩の痛みもあり、これほど大変なものかとつくづく思った。

やがてテグノパールから、患者にばかり気をとられていつ渡ったのか気づかぬうちに、シボンの鉄橋を越えた。そしてついに四日目以上もついやして、やっと野戦病院についた。

全員を衛生兵にひきつぎ、ひと安心と思ったが、不安はつのる一方だった。見れば、山の中に転々と壁のない屋根だけの小屋が見える。そこには地上に負傷兵と病人が一杯転がっているのだ。彼らはほとんど歩けない者たちで、新しい包帯をしている者はなく、あっちこっち叫び声と泣き声があがっている。
「水、水をお願いします」
「痛いよう、痛い」
「衛生兵殿、包帯の交換をお願いします」
「傷の蛆を取ってください。痛いっ」
傷口から腐った手足、汗の臭いと大小便の臭いがすさまじい。傷からこぼれ落ちる蛆、肉の中に食い込む蛆がおびただしい数だ。竹でつくったピンセットがあるのだが、自分で取れる者は少ない。
「となりの戦友が死にました」
衛生兵を呼んでやると、死体を二人で運んでいった。私も右肩の傷を四日間も治療しなかったので、その場で治療をうけた。

やがて食事を衛生兵が配りはじめたが、取りにくる者はいない。米粒がわずかにのぞいた水のような食べ物を、ちかくの兵に配ってやった。もちろん副食もない。塩味だけの飯盒の蓋に一杯で終わりだ。これでは負傷兵の体力回復どころではない。・・・

傷が悪化して動けない兵隊や、病兵の身体の下には血便が散乱し、手も胴もその地面にすりつけるようにしてうごめいている。もはや死ぬこともできない兵隊は、体のほんの一部がかすかに動くだけで、目を細くあけて、私を見ているようだ。蝿がぎっしりと並んでその目をなめていた。

これは、いったいどういうことだ。命令一下、勇敢に戦った第一線の兵に対する軍の待遇と処置はこれか。
「牟田口の野郎、師団長まで更迭して、どこへ隠れていやがる。日露の二○三高地をいまごろさせて、自分でやってみろ」
私は、怒りに燃えておもわず口走りながら、水のような食事を配り、自分でもすこしずつ飲んだ。兵隊は軍の上層部をうらんで死んでいった。山本兵団長の姿も見たことがなかった。おそらく横穴にもぐったきりなのだろう。

この情景は、戦場の至る所で、出来た光景である。

ニューギニア戦線の、ビアク島などでの、洞窟でも、同じような光景が広がっていた。
この作者は、思わず、兵隊は、軍の上層部を恨んで死んだという。

同感する。
現場に出ることの無い、軍の上層部・・・


posted by 天山 at 06:12| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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