2015年07月29日

玉砕51

背に一杯の収穫物を背負い、だらだら坂を八分目ほど登った時である。いきなり左肩にガーンという衝撃を受けた。石かなと思って目をこらすと、大型の手榴弾である。シューッという音も聞えなかったので、不発かなと考えていると急に足もとで「シューッ」と発火しだしたのである。あわてて炉端に伏せた。とたんに猛烈に爆発し、私は左肩、左頬などに熱いものを感じた。・・・

手榴弾や小銃の音を聞いて物資収集班の連中がとんできた。鼻血がとめどなく流れだす。左肩、左脚に痛みを感じる。皮脚絆には小さな穴が二つあいている。左腕から血が流れ、皮脚絆の中でも生ぬるい液体の流れる感じがある。やられたな、と思ったが、気持ちは意外に平静なのだ。たまたま物資収集班の中に衛生兵がおり、私も非常用にと包帯包をベルトに結んで持ち歩いていたので、被服を切り裂き、応急手当を受けることがたできた。

ところが驚いたことに、私より約十メートル後方からついてきていた山口中尉の当番兵が、その手榴弾の破片を咽喉に受けて即死したのである。とにかく敵地に侵入した格好になっていたため、みんな警戒を怠らず遺品と遺体の指とを残してあとを埋葬した。

毎日、死者が出る。
それが、当たり前の戦場である。

そして、必ず、時が過ぎる。
昭和20年を迎える。

太陽は少しずつ西の山並みへと落ちていく。私たちの帰りを待ち望んでいる司令部の身の上を考えると、どうしてもこのままでは帰れない。そこでついに意を決して私たちは非常手段に訴えることにした。というのは農園の近くにきて兵隊たちに物資収集の準備をさせた上、要所に配置しておき、原住民のガヤガヤという声が聞えると、空に向って数発の実弾をぶっ放させたのである。原住民たちはびっくりして叫び声をあげながら逃げていったと同時に、夢中になって農園から芋やその他の食べられそうな物をできるだけ大量に奪って、ただちにそこを引きあげたのである。
「何も罪のない原住民の農園から、こんな方法でとりあげるなんて原住民が可哀相だ」
帰り道、誰かがしんみりした口調でいう。
「そうしなければ生きていけないわれわれはなおさら可哀相じゃないか」
誰かがそれに答える。

敵の攻撃に怯えつつ、日々の生活をするのが、やっとの戦場と化している。
その中でも、死者は、毎日のように出る。

そして、昭和20年の8月を迎える。

八月に入ってから日を重ねるうちに、第十八軍の玉砕は事実となって目前に迫ってきた。

ここままで推移すれば、師団と軍との連絡も絶たれ、師団は当面の敵にも対せねばならず、事態は収拾つかぬものとなってしまう恐れがあった。私たちはすでにずっと前から内地帰還などということはまったく諦めていたし、せめてこの戦いにおける日本の最後の結末を見て死にたいというのが唯一の念願なのであった。

この戦闘の勝敗をいうものは私たちのおかれた現状から見てまるで論ずるに足らぬものであった。ただ私たちにとっての関心事といえばわれわれが先か内地が先かという一点であった。

すでに、敗戦を予知しているのである。

八月の十五日のことであった。
経理部長の所へ武越主計大尉がやや興奮して、
「これが本当なら大変だ」
といいながら、一片の紙片を手にしてとびこんできた。その紙きれを読むと「日本降伏せり、速やかに戦闘を停止すべし」と書いてある。豪軍から投下させられたものである。

これまでにも、私は現在の諸状況から推して、日本の敗北はもはや明確であり、必ずやすでに一部では講和のために尽力しているに違いない、それにはソ連に頼るしかない、したがってソ連に対して、英米と和を講ずるように斡旋を依頼しているに違いないと考えたことがあった。

一方では、ここに到ったからには、日本はいさぎよく降伏すべきだとも考えていた。がしかし、わが国民にとって天皇というものは絶対なものであるのだから、この天皇制という問題を連合軍が認めない場合には、あるいはそれこそ国が焦土と化すまで戦い抜くというようなことになるかもしれぬとも考えた。結論として、日本は天皇制という問題を認めてさえもらえるならば、その他は無条件でも降伏すべきだという考えを持つようになっていた。これは現実が私にそのように教えたのである。

日本が降伏したというのが、信じられない兵士たち。
だが、日が経つにつれて・・・

果たして四日目であったか、やっと軍から伝令が来て、それがもたらした軍命令の第一条項には「大日本帝国は戦闘を停止せるもののごとし・・・」というような風に書いてあった。

いよいよ戦いは終わったのだ。今や陛下の命によって戦いを終了するのだと思うとさばさばした気持ちになった。・・・
われわれのように、ここまで徹底的に、ついに玉砕という切羽つまったところまできてしまった者にとってはむしろ「やれやれ」というのが実感なのであった。

だが、生き残るということも、また、問題だった。
敵方の、捕虜になるのである。

陛下の命により戦争を中止するというものの、実質的には無条件降伏であることを知るや、参謀長はじめ高級将校の間で捕虜になるについて大きな危惧の念を持つ者がいた。その点、学生時代から欧米人にも接し、その書物を読み、その文化の程度を知っているものにとっては比較的気が楽であった。彼らが捕虜を遇するのに決して無法をしないこと、国際法規等は必ず厳守するだろうといったことは容易に想像されたからである。

しかも私たちは節をまげて敵に屈するのではなく、あくまで戦い抜いてのち、陛下の命によって堂々と矛を収めるにいたったのであるから、そこには戦争継続中に投降して捕虜となった者が抱くに違いない精神的な苦痛もない。そう思うとたしかに気楽ではあった。

長い戦記の中から、特徴的なものだけを、取り出して、書写したが・・・
ニューギニア戦記は、数多くある。

これは、東部ニューギニアを舞台にしたものであるが、西部ニューギニアの戦記もある。
ニューギニアの、北側、東側海岸線を網羅する、戦場である。

そして、その行き着く先は、ビアク島だった。
現在は、インドネシア領になる。
イリアンジシャヤ州の、小島である。

当時の兵士の中にある、天皇陛下に対しての思いも、参考になる。
陛下の命により、戦闘が停止されたと、考えるのである。
軍部を超えた、最後の決断は、陛下によってなるのである。


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2015年07月30日

玉砕52

「あ」号作戦とは、昭和19年5月の、大本営指示によると、
決戦兵力の大部を集中して、敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を覆滅
するという、帝国海軍伝統の、殲滅攻撃作戦に基づいたものだ。

その原型は、殉職した、古賀連合艦隊司令長官が、主張していた「Z作戦」にあった。

だが、昭和19年2月、クェリンゼ、ルオット等のマーシャル失陥により、古賀長官の第一次Z作戦は、潰える。

しかし、古賀長官は、尚屈せず、2月29日、パラオに移動し、3月8日、新Z作戦を発令する。
それは、
マリアナ、カロリン、ニューギニアを結ぶラインは、絶対確保しなければならない。敵の来攻に際して、わが艦隊は、付近の島嶼に展開した基地航空部隊と協同、集中可能の全兵力を挙げて、航空機を主体として決戦す
というものである。

古賀長官は、決戦線を、マーシャル諸島から、マリアナ、西カロリンの列島に後退させた、今こそ、伝統の攻撃戦法を実現する好機だと、考えたのである。

こうして、サイパンは、本土から西部ニューギニアを結ぶ「縦列不沈連合艦隊」となるはずだったが、古賀長官の不慮の死により、実現されなかった。

そこでは、小澤中将の指揮する、第一機動艦隊の活躍もさることながら、角田中将の率いる、基地航空部隊である、第一航空艦隊に、大きな期待をかけていた。

だが、この航空兵力は、米側から見ると、七面鳥狩りのような経過を辿り、急速に消耗した。いざ、決戦の日には、役に立たなかったのである。

その内容に関しては、省略する。

さて、豊田連合艦隊司令長官は、第一機動艦隊に対し、5月3日、「あ号作戦開始」を発令したが、このときになっても、連合艦隊司令部も、大本営も、米軍が、進攻してくるのは、ニューギニアの線か、マリアナであるのかと、いずれとも、決めかねていた。

そこへ、突然、5月27日、敵、約一個師団が、ビアク島に上陸したとの知らせが入った。

連合艦隊、大本営陸海軍部が緊張した。
これまで、米軍の進攻は、豪北から、フィリピン南部の線だと、判断し、それまで同時に警戒していた、マリアナ方面に対する可能性は、薄れたとみていた。

ビアク島の悲劇である。
現在は、インドネシア領、イリヤンジャヤの西部にある島である。

当時、西北ニューギニア最大の湾口にある、ビアク島は、戦略上の要衝でもあった。
飛行場の適地が多く、ここを失えば、フィリピン、タラカンの油田地帯が、敵機の爆撃圏内に入る。

更には、パラオ等も、敵機の攻撃圏内に入り、ミンダナオ東方洋上での、機動部隊の行動が、極めて困難になり、「あ」号作戦自体が、成り立たなくなるのである。

ビアクを敵に渡すわけにはいかない。
しかし、ビアク島の悲劇が起きる。
玉砕である。

実際、私が追悼慰霊に出掛けて、その様を見ている。

ビアクには、陸軍の、海上機動第二旅団を、急遽派遣することになった。
連合艦隊は、この上陸作戦を支援する「渾」作戦を発動した。

中部太平洋方面に展開していた、基地航空部隊の大部分が移動することになり、この部隊の潰滅の原因となる。

当時、連合艦隊司令部は、この敵のビアク上陸を、戦局転換の好機と見なす雰囲気があった。
戦闘の推移によって、米主力艦隊を、パラオ近海に誘い出し、決戦するチャンスが生まれたと読んだ。

しかし、ビアク上陸作戦は、マリアナ上陸をカムフラージュするための、米軍の牽制作戦の意味合いがあった。

としても、ビアク島の悲劇は、惨憺たるものであった。

このビアク島の、玉砕については、戦記の類がない。
約12000名の兵士が、玉砕した。

その有様は、洞窟である。
疲れ切った兵士たち・・・更に、病者、そして、遺体のある洞窟に籠もった日本軍兵士たちは、ドラム缶を投入され、火炎放射器で、焼かれたのである。

私は、その洞窟に佇んだ。
更に、日本兵の遺品の数々である。

未だに、遺骨が存在する。
古い慰霊碑が、洞窟の前に建つ。

そして、新しい日本政府が建てた慰霊碑が、ビーチにある。
大きなものだ。
その裏側に、未だ日本に帰還していない、遺骨が並んでいた。
更に、未だに、ジャングルの中にも、兵士の遺骨が眠るのである。

ジャングルの中で、自然と同化した遺骨の数々である。

ビアク島の兵士たちは、援軍を待ったというが・・・

戦況は、敗戦に向けて、まっしぐらであった。

6月11日、一時行方不明だった、米空母部隊が、グアム島東方洋上に出現する。
以後、マリアナ各基地に、連続三日間の空襲と、艦砲射撃を反復する。

サイパン、テニアン島に対する攻撃は、苛烈を極めた。

12日、ロタ、グアムなどの各地に展開していた、基地航空部隊の兵力が、壊滅的な打撃を受けた。

昭和19年、敗戦の一年前の年である。
到る所の戦地で、日本軍は、壊滅的打撃を受けている。
そして、玉砕である。
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2015年07月31日

玉砕53

サイパン、テニアンに対する攻撃は、翌日、6月12日も、再び、米艦隊が、改めて艦砲射撃を加えた。

更に、小艦艇が泊地に侵入して、掃海作業を開始するにより、米軍のサイパン上陸が、確実になった。

こうなれば、ビアク島どころではない。
ビアク島の兵士たちは、捨てられたのである。

「渾」作戦は中止になり、第一戦艦大和、武蔵は、反転して、機動艦隊主隊との、合同地点に向った。

6月15日、朝、米軍は、サイパンに上陸して来た。
豊田連合艦隊長官は、「あ号作戦決戦発動」を下令した。
午前八時、小澤艦隊に対して、
皇国の興廃此の一戦に在り、各自一層奮励努力せよ
と、激励電を発した。

ここから、サイパンの悲劇が始まる。
そして、サイパンの玉砕である。
それは、兵士だけではない。
サイパンに居住していた、日本人のほぼすべてが、犠牲になった。

そして、海では、マリアナ沖海戦である。
それも、敗走となり、結局、日本軍の負けである。

詳しい説明は、省略する。

「あ」号作戦は、日本海軍が30年来練り上げてきた、対米漸減戦略の集大成であり、総決算の意味を持っていた。
それが、米軍の強固な反撃により、頽勢の中で、決行しなければならなかった。
日本海軍全体の、悲劇を映し出している。

さて、少しばかり、横道に逸れるが、日本軍敗戦の一つの要因は、物量の問題である。

開戦当初は、それに気づくことがなかった。
輸送船の護衛を、考えることはなかったのである。

しかし、第二段作戦に移行すると、途端に、躓く。
昭和17年5月の、珊瑚海において、初めて米機動部隊と衝突し、その闘志と戦力を見せ付けられた。と共に、輸送船団による、ポートモレスビー攻略が、あえなく頓挫する。

ソロモン、ニューギニア方面における、際限の無い補給戦と、船舶損耗の、幕開けだった。

続く、ガダルカナル島の攻防戦において、巨大な消耗戦を強いられた。
海上交通の重要さを、つくづくと思い知らされたのである。

船舶の損失が、累計で約250万トンに達した、昭和18年11月、日本軍は、たまりかねて、従来の護衛兵力の再編と、強化に着手する。

海上護衛総隊である。
11月15日、東京に司令部が設置され、初代の司令長官は、海軍大臣の前歴を持つ、及川
古四郎大将である。

しかし、その再編も、実質は、実に粗末なものだった。
艦艇の絶対数が、不足しているゆえに、連合艦隊から、一隻の駆逐艦を抽出してくるも、実際問題としては、大変なことだった。

米軍は、此の頃すでに、艦隊決戦思想を捨てて、海上交通線の破壊が、日本軍を屈服させる、有効な手段であると、確信していた。

昭和19年2月、米機動部隊による、トラック空襲、続いて、3月の、西カロリンのパラオに対する襲撃で、日本軍は、艦艇ばかりか、船舶にも、甚大な被害を出した。

この年の、8月までに日本の喪失した船舶は、500万トンを突破したのである。

そこで、同年の8月、残存の貴重な船舶を保護し、維持するという名目で、護衛総司令部の改編が行われた。

この改編の主たる目的は、護衛総司令部を、連合艦隊の指揮下に入れるということであった。

独立していた、護衛総隊の指揮権が、連合艦隊司令部に、委ねられたのである。

これは、護衛部隊にとっては、憂うべき結果を招き、その危惧は、10月には、早くも現実のものとなった。

米機動部隊の襲撃に、連合艦隊司令部は、特に対潜水艦戦用として、特別訓練していた、護衛総隊所属の、96式陸上攻撃機全機に、出動を命じたのである。

それも、不慣れな夜間攻撃に使用された。
結果、護衛部隊にとって、大切な飛行機が、一夜にして、消滅してしまったのだ。

護衛総司令部は、有名無実の存在となり、昭和20年5月、司令部は、解消され、豊田連合艦隊長官の兼任となったのである。

そして、そのまま、敗戦へ進む日本軍である。

開戦の三ヶ月間の、信じられないほどの日本軍の進出は、一体、何故、このようになってしまったのか・・・
それは、専門家に任せる。

次ぎに、サイパン玉砕の仔細を書く前に、西部ニューギニア戦線で、生き残った兵士の戦記を、紹介する。

日本軍が、進出した、多くの戦地は、皆、玉砕の連続となって行く。
そして、そこには、現地の人たちも、その被害を受けるのである。

その、被害に受けて、亡くなられた霊位に対しても、追悼の意を顕す。

例えば、フィリピンの島々・・・
多くの市民が犠牲になった。
それは、日本軍が、責められても、ただ、謝罪するしかない。

ニューギニアも然り。ビルマも然り。

ただ、救いは、現在それらの国々は、反日ではなく、親日であることだ。
感謝せずには、いられないのである。


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2015年08月03日

玉砕54

ニューギニア大密林に死す
前人未踏の熱帯雨林六百キロの撤退路
植松 仁作

大正7年、兵庫県に生まれる。
昭和14年12月、旧制室蘭高等専門学校在学中に、広島の電信第2連隊入隊。
北支派遣軍電信第10連隊を経て、15年12月、陸軍通信学校へ幹部候補生として入校。
16年11月、少尉任官、南方総軍司令部通信班長として、サイゴン、シンガポールに赴任。18年9月、陸軍中尉。
11月より、電信第24連隊本部付として、西部ニューギニアを転戦。
終戦時、陸軍大尉。

最初の部分を、少し長いが、引用する。

ここは西部ニューギニア、ヘールビンク湾にあるヌンホル島で、戦前は教会だったこの家も、今は寺子屋で、今日も原住民の子供たちが大勢集まって「いぬ」「いえ」と日本語の勉強がはじまっている。次ぎは私の出番だ。昨日教えた軍歌のおさらいをするので、子供たちと一緒に土間に腰をおろしていた。なにしろ子供たちを集めるのが大変で、タオルをやったり、飯を喰わしたりで、授業料は先生のこちら持ちになっている。

その代わり、勉強が終わればこちらのもので、後は農園に出て働いてもらう。原住民たちは、自分に必要なだけしか作らないのだから、こうでもしないと私たちの口には野菜一本さえ当らないのである。
ところで、いざ私が先生という時、一人の原住民が息をきりながら駆け込んできた。
「大変だ、モシモシトアン」
原住民の身振りはただ事でない、何かあったらしい。

今、この島には、森中佐を守備隊長にして約二千の兵がおり、私はその中の通信隊を指揮している。私の隊はここから海上80キロのマノクワリから派遣されている。そこでヌンホル通信隊長の私を、原住民たちはモシモシトアン、電話の旦那と呼んでいる。

原住民の知らせで私は大急ぎで帰った。兵舎の前に、衛生兵と他にも三人ばかりいる。
「さては急病人か」
いや皆今日の炊事当番だし、忙しそうにその用意をしている。すると原住民は、私の手を引いて、彼らのそばに置いてあるバケツを指した。中には十匹以上もの鰻が入っていた。
「なんだ鰻じゃないか」
と思いながら中へ手を入れようとして驚いた。数匹が首をあげ、私の指先をねらって飛びついてきた。海蛇だ。原住民の様子がどうもおかしいと思った。

ここにはコブラのような猛毒の蛇はいないが、まむしなら日本より多い。原住民はまむしを見てさえ逃げるのだから、海蛇を手づかみにして来たのには、びっくり仰天で、私を呼びに来たのだろう。原住民は絶対喰わないものだ。
それにしても、よくもこんなに沢山とってきたものだ。
「誰だ、あんなもの獲ってきたのは。喰えるのか」
「吉野が鰻だと思って獲ったらしいけど、指を二、三ヶ所咬まれている」
今日の炊事当番は潮干狩りで、夕食にはそのご馳走とのことだった。

現地の様子が、実によく分る描写である。

吉野兵長は一ヶ月ほど前、マノクワリから連絡に来たが、乗っていた船は沈められ帰れずにいる。そのためかこの頃では様子がどうもおかしい。だが゛変なのは、なにも彼だけではない。毎日やって来る敵の爆撃で、私たちの神経はすっかり鋭くなっている。
昨日の爆撃の時も、防空壕へ逃げる間のなかった一人が、井戸へ飛び込み、引き上げるのに一騒ぎしたところだ。今の私たちは皆、多少おかしくなっている。

ところで、この日、夕食の箸をとろうとしていると、今度は兵隊が、
「隊長、緊急電報だ」
と飛び込んできた。発信地はホーランジャ飛行場からで、
「敵、航空部隊来襲、被害甚大、貴地に向け退避中、収容の準備を乞う」
宛は、各地飛行場中隊長になっている。
「すぐ飛行場へ電話してやれ、ホーランジャがひどく叩かれている」
私も次ぎの電報を待つため通信所へ走ったが、次ぎに入った「敵機延べ数千機」の電報をみて、愕然とした。少なくとも数百機の波状攻撃を受けているのだ。

この頃は豪雨つづきで、西部ニューギニアの数十の飛行場は、ホーランジャ地区を除いて、ほとんど使えなくなっていた。折も折、後方からは、東部ニューギニアの戦勢挽回をねらって次々に航空部隊が到着して、それがほとんどホーランジャ地区に集結している。

これを知った敵の大空襲だったが、このためホーランジャの空は敵機で蔽われ、終結の航空部隊は二百十数機の損害を受けてしまった。昭和19年4月上旬のことだった。

ところで、この大空襲のため、ニューギニア方面の航空戦力の差は、一層大きくなってしまった。もう制空権は完全に敵のもので、輸送船は次々に沈められ、船舶部隊は舟艇だけになり、地上部隊も勿論各地に孤立で、連絡はただ電波によるだけになってしまった。

その上、敵は各個爆破の戦法で次々にニューギニアの各地に上陸してきた。このため、西部ニューギニアに布陣の我々第二軍、勢部隊も四月下旬にホーランジャを失い、五月にワクデ、サルミ、ビヤクに敵の上陸を受け、六月にはとうとう私のヌンホル島にも敵を迎えてしまった。

ここで、私は、ビアク島以外の、島があることを、この戦記で知った。
この、ヌンホル島は、ビアク島の南西に位置する、小さな島である。

さて、次ぎに敵の狙う所は恐らくマノクワリだろう。このマノクワリには第二軍司令部がいるのだから、敵も用心して、ニューギニア最大の火力を打ちこむに違いない。
マノクワリの兵力は二万余、決して少ないものではなかった。しかしその大半は兵器、貨物、船舶部隊などの後方部隊で、主戦闘部隊は第三十五師団の一部だけだった。

これでは装備のすぐれた敵に、とても対抗できるものではない。その上、マノクワリの食糧は、もう三ヶ月分ぐらいしかなかった。このため、軍司令官は、とうとう兵力移動を決心し、マノクワリの兵力の半分、一万二千に、マノクワリの南方六百キロの地、イドレへ転進を命じた。
これは昭和19年7月1日だった。

ここでも、輸送船舶への攻撃を受けて、物資が無いという、状況が分る。

昭和19年の後半の日本軍は、撤退、敗走の連続となる。
米軍の物量には、敵わないのである。

この悲劇の、西部ニューギニアの戦いは、あまり語られることがない。
現在の、インドネシア領、イリヤンジシャに当る。

島から陸に移動して、更に、撤退を続ける日本軍に、米軍、連合軍は、痛烈な攻撃を加えてくるのである。

武器、食糧も足りなく、もう、戦闘状態とは、言い難い。
だが、翌年の敗戦、つまり、八月までの間、この日本軍の敗走が続くのである。





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2015年08月11日

玉砕55

植松氏は、ヌンホル島から大陸に渡り、ジャングルの中を、行軍することになる。

今日の行程には、かなり長い崖が続いている。この上を歩くか、下にするかが問題だが、歩くのには、引き潮を利用して下を行くのが楽だ。
しかし問題は敵機だった。海岸線の哨戒に、毎日やって来る。逃げ場のない崖の下で、敵機に見つかったら、それこそ大変だ。とにかく崖まで行ってみることにした。
崖は思ったより高く、二十メートルぐらいあったが、いい具合に引き潮で、砂浜が出ていた。私たちは大急ぎでそこを歩きだした。敵さんは、午前中ゴロゴロしているわけだろう、まず来ない。だが昼からは油断できない。

崖下は岩もあるし、所々ほら穴もある。これなら敵が来ても大丈夫だろう。そのうち昼近くになった。敵機もそろそろ出る頃だ。
やはり不安になってきた。いくら慣れていても撃たれるのは気持ちのいいものではない。とうとう崖をよじ登ってジャングルに入ることにした。最後の一人が登り終わるまでに一時間以上もかかったろう。はっとして汗をふいていると、思った通りだ。爆音がしてきた。時間も昨日と同じ頃だ。私たちは思わず顔を見合わせた。
「早く登ってよかった」
「あのまま歩いていたら、今頃ヒヤヒヤだ」
しかし、私たちはハッとした。それは、今朝から見え始めた漂流船だった。でも誰も双眼鏡を持っていない。私のはケースだけで、中味はマリクワリに残して中に煙草をつめている。確かめようがないので、初めは敵の水雷艇と思ってドキンとしたものだ。・・・

漂流舟に突っ込んだ敵の編隊は、とうとう銃撃を始めた。先頭機が旋回の姿勢に移り、舟を囲んで銃撃のしぶきが何本も海面に尾を引いた。編隊が船の上を通り過ぎたとたん重油タンクに引火したのだろう。パッと火を吹き船は黒煙を上げはじめた。
「もう駄目だな」
あんなに撃たれては、船体も蜂の巣だろう。燃料があるところをみると、機関の故障だったのだろうか。
まだきっと生存者がいるのに違いない。敵機はまた舞い降りて黒煙の船をめがけて、全機銃撃を始めた。そのうち目標が、船から次第に海面へ移った。そして海面への銃撃範囲が拡がっている。

やはり生存者がいたのだ。海面には火の船から逃げ出した人たちが浮いているのだ。それを狙って、海面すれすれに下り、銃撃を浴びせては飛び上がり、旋回してきてはまた銃撃を繰り返している。
あの下では、恐らく漂流に疲れ切った戦友が、血しぶきを上げながら、一人一人海底へ撃ち沈められているのだ。私たちは息を呑み、歯をならしながら見守った。畜生め、力のない者に力を振るう残酷さだ。

だがこれを残酷、非人道といくら叫んでも所詮は戦争だ。弱者の抗議、敗者の言葉として踏みにじられ、勝者の作る法がその残酷を正当化するのだ。しかも戦争のつづく限り、この悲劇はくりかえされるのである。

戦争というもの自体が、残酷なものである。
その残酷さが、延々と続くことになるのである。
そして、死に行く兵士たち・・・
末期の水さえないのである。

そんな中で、絶望的な知らせが届いたことを、作者は知る。

7月13日、最後尾を行軍していた小張軍医が、海岸で遭遇している舟艇を見つけたので、薬をあさっていたら行李の一つから、東条英機大将が軍司令官にあてた手紙が出て来たと言う。
「・・・ニューギニア作戦は、余の不明のいたすところ、戦況は悲境におち、重大決意を要する段階に入った。以後の作戦は、ニューギニアを切り離して行わねばならなくなった・・・貴官の武運長久を祈る・・・」
という意味のものだったらしい。東条大将は軍司令官の四年先輩に当る。関東軍でも二人は同じ頃にいた。また東条大将が陸軍大臣の時、軍司令官は憲兵司令官をつとめた仲だから、恐らく軍司令官への私信だったのだろう。

それより大変なのは、その内容だった。以後の作戦はニューギニアを切り離して行うと言っている。作戦の拙劣を補うために、多くの人命をうちこんで、戦勝をかちとった例も戦史には多い。しかし何千、何万の兵力を投入し、その生死を賭けても敗北、ただ屍の山を築かせた例も決して少なくない。ニューギニア作戦もその一つである。

ジャングルに蔽われたニューギニア、ここに作戦の将兵には、十分な食糧さえない。その上、悪疫が待っていた。

絶望的な内容である。
確かに、この戦記の、帯付けには、ジャングルに食糧もなく、銃を捨て、600キロの道を歩いた12000名の将兵の無残、とある。

昭和19年の日本軍は、到る所で、このような捨てられた戦場になって行くのである。

私たちは、イドレ転進後、さらに後退して今後の第一線の作戦任務につくものと思ってきた。これは兵隊なら誰だって考えることである。しかし、この手紙からみると、私たちはもう日本軍の直接戦力ではなくなったのである。

この長い戦記の全貌を説明するのは、難しいが・・・

兎に角、当時の兵士たちの、現状を少しでも知ることと、思う。
これが、追悼である。

反対に勝っている方では、戦利品を手に入れるし、物量の転用も全戦局にできる。現に敵は、頭部ニューギニアのウエワクやホーランジャ地区で、我々の膨大な軍需品を手に入れた。いま我々の頭の上に雨と降らしている爆弾も、そのほとんどが日本製である。

道は間もなくタピオカやパパイヤ畑の中に入った。
日本では、澱粉は主にじゃがいもからとっているが、南方ではほとんどこのタピオカに頼っている。タピオカは原住民の主食の一つで、ダーリヤや菊芋に似たもので、白い小さな花をつけている。
野菜の欠乏しきった私たちには、まさに地獄で仏の歓びだ。特に黄色に美しく熟したパパイヤが気になって、このまま通りすぎるなどとてもできない。
早速ここに露営と決め、背丈ほどもある草を踏み倒して、天幕の準備を始めた。後から来ている者も、右を見、左を見ながら、ちょうどおもちゃ屋の前を通る子供のようだ。

踏み倒した草も意外に柔らかい。こんなベッドに寝られるなんて、今の私たちには全く豪華だ。しかもよく熟しているパパイヤの香りが、この草一杯の畑の中に漂っている。

この日の午後は、この畑の中で、休養と栄養に恵まれながら、しかも、日光の下で楽しく過ごしたが、この日が転進間を通じて、最も楽しく恵まれた日であった。

その後は、地獄の行軍である。
密林の中を、方角もよく分らず、進む。
それが、また、意味のあるものならば・・・
一体、何故、このようなことをしなければならないのか、という疑問を持てば、進めないのである。

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2015年08月12日

玉砕56

若者たちが、毎日、死というものを、目の前に見る、戦争というもの。
戦争反対を言うが、では、戦争をしないためにはと、考える癖をつけなければならない。

斜に構えた者が、戦争も、国際社会の一つの解決法だなどという。
その通り、国際社会の一つの解決法である。
それでは、戦争をしないで、日本は、70年を経ている。
何故か・・・

何故、日本は、戦争をしないで来られたのか・・・

「あれは君の乗った船だったのか」
あの漁船には、私の隊の予備の暗号書を積み込んでおいた。乗ったのは軍司令部から30名ほど、私の隊から四名だったが、助かったのは、この根本兵長ら二人だけだった。

この二人も、海に飛び込んで二日間、海水と潮風日光をじかに浴びていたのだから、首から上は赤く火傷のようにただれている。
もちろん他の人々は、ほとんど船上で銃撃を受けて死んでしまった。やっと海に飛び込んだ人たちも、水雷艇からの狙い撃ちで死んでしまったという。でもよくまあ助かったものだ。しかも意識を失っているままでいる所へ、船が通り合わすなんて!
私は、この遭難の二人のことから、つくづく人の運命というものを考えさせられた。

私も運のいい男である。シンガポールにいた頃、私の後任者が内地を船で出た。ところがその船が途中でやられ、後任者はとうとう来なかった。もしその人が来ていたら、私は内地への途中で死んでいたはずだ。乗船を予定していた船は海南島沖で沈められた。
その後、私はこのニューギニアに来て、ヌンボル島へ渡ったのだが、私の脱出が最後で、ヌンボルは玉砕している。また、マノクワリに帰った私は、暗号業務の連絡で、マニラに飛ぶ予定だったのに、無理に希望して私に代わって行った者がこれまた、戦死した。

「人の生死はまったく運だ。いや生まれた時に、もうそれが決まっているのかもしれない」
そして、これからイドレに着くまでの私の上にも、この運命のままに生死の瀬戸際を渡る瞬間が繰り替えされていった。
人には、それぞれしなければならない事があって、それを終えねば死ねないのかもしれない。もしそれが人生なら、死ぬ時が、人生有終の花のかおる時である。そして我々をその終着駅に導くものが運命であり、我々はその運命の波間に浮いているに過ぎないのではなかろうか。
さて、それはともかく今の私たちは、ただ命令のままに歩く他はない。

生きていれば・・・
生きているから、考えることができる。

運命・・・
戦争を体験する運命が、与えられた、人生だったのか・・・
誰にも、それは、分らない。
それにしても、辛い、苦しい、時代の運命を受けたものである。

戦争に生きる運命を、呪った多くの兵士もいるだろう。

お国のために、戦うという、時代。
その時代を、振り返り、追悼する、私というもの。
恥ずかしいことであると、思う。

死ぬ、という、追体験は、出来ない。
武士は、今日が死ぬ日と定めて、生きる、という。
それは、実に、美しい生き方である。

何故なら、人は、必ず死ぬからである。

今日が、死ぬ日という、もののあはれ、である。

戦記は、絶望の行軍に入る。

二日間の休養で、マラリアもどうにか落ち着いた。落伍していた者も二名が追いついてくれた。これからもまたじめじめした密林の行軍だろう。私たちは、よく乾いた山頂の空気を、胸一ぱい吸い込んで出発した。
谷間へ下りてみると、先日の二人のインド人のそばに、また一人が倒れている。
「水なら上の谷間にもあるのに、どうしてここまで下りて来たのだろう」
「やはり、友引、なんだろう」
上の集落には、患者のインド兵が数十名もいる。彼らもあのままでは同じ姿になる。それにしても彼らは救援に来てくれると思っているのだろうか。それともイドレまでもう二日だから、と安心しているのだろうか。この頃から私たちが死体と呼んでいた言葉が、いつの間にか仏と呼ぶようになっていた。

その死体、仏も、毎日、毎日見ることになる。
そして、それに対する、感覚も麻痺してゆく。

さて希望をかけた日が明けた。幸いに発熱患者は一人もいない。しかし、平時の一食を一日分の食糧にして、しかも行軍しているのだから、体力の衰えはどうすることもできない。もうほとんどの者が杖を手にしている。私もそうだった。だが、神は必ずしも弱者の味方ではない。いや、かえって酷な運命をさえ与えるものだ。この日の私たちにも、この運命の厳しさを避けることができなかった。
露営の天幕をたたんで、三時間ほど歩いた時、天幕に出会った。中に海上輸送隊の藤井大尉がいた。
「やあ久しぶりだな。元気か」
「それより大変だぞ、道が全然わからん。大体この道はでたらめだ。イドレへ着くかどうか怪しいものだ」
「まさか」
彼はとんでもないことを言い出した。私は驚いて、二の句が告げない。
「本当だよ、この先にも先発の部隊がたくさんいる」
「そんな馬鹿な」
私と伊藤大尉は、半信半疑で先へ行ってみた。やはりそうだった。そこには一日前に出発させた田中曹長が座り込んでいた。
「この先に、独立有線中隊の高田隊、二葉隊もいますが、どうしましょう」
高田隊、二葉隊は、ワサリを私たちより三日も前に通っている。もうイドレに着いていることばかり思っていた。一体どうしたというのだろう。すぐに、高田大尉、二葉大尉のところへ急いだ。ところが、
「君の来るのを待っていた。これからどうしょう」
と思案にくれていた。これを聞いた私は、身体中の力が抜けてしまった。

密林の中を、さ迷うというアクシデント・・・

ムミからの死没者や落伍者の合計は、もう二百名を越えている。予定どおりの行軍でこの有様だ。今もし進路を間違えたら、その結果はどうだろう。今まで見てきた落伍者や、死没者を思うと、私たちの動揺は当然だ。
「でたらめだ。無責任きわまる転進計画だ」
「しかも転進の責任者は誰一人この行軍に参加していない」

私たちは今更ながらジャングルの恐ろしさを知った。視界をふさがれたジャングルの中では地図さえ役に立たないのである。
「これから先は、磁石とお日さんだけが頼りだ。それでヤカチ本流を目指して歩く。落伍したら最後だぞ。元気を出してくれよ」
今までは、落伍者が出ても、イドレに着いたら迎えに帰るという気持ちがあった。だがもうそれどころではない。残っている米は二日分だから、これをなんとか十日分にするように言い渡した。今まで平時の一食を一日分にしていたが、今日からはその一食分を四日分にして、しかも行軍するのだ。



posted by 天山 at 06:27| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月13日

玉砕57

戦地に追悼慰霊に出掛ける、そして、戦記を読む。
しかし、私は、実感として、戦争を感じられないのである。
肌で、感じ取ることが出来ないでいる。

想像力の不足なのであろう。

ただ、飢えるという感覚・・・
それについては、少しは、分る。

支援活動をしていて、ストリートチルドレンなどに、食べ物を渡す。
また、ストリートアダルトもいる。
飢えるということは、人間の理性も知性も、感性も、奪う。

食べているから、生きている。
飢えた状態で、果たして、まともに事を考えることが出来るだろうか。

貧しい国では、食べるために、女は、体まで売るのである。

戦死は名誉あることであった、らしい・・・
だが、餓死であれば・・・
名誉と言えるのか。

私は、この世は、地獄と心得ている。
戦地は、地獄の最たる現場である。
人間は、地獄に生きているという、私の考え方は、一つの救いになると、思う。

命の大切さを、伝えるとは、死ぬことを、伝えることと同じである。
死を伝えずして、生きることを、伝えられないのである。

ここで、こうして、私が戦記を引用して書いていることも、私が空腹ではないからだ。
そして、当事者ではない。
いい気なものである。

私は、私の軽薄さと、軽率さを、十分に感じている。

地獄の戦場を生き抜いて、生還した兵士の皆さんたちには、頭が上がらない。
そして、また、そこで、死ぬことになった、兵士の皆さんの霊位に対し奉り、心からの慰霊と、感謝を持つ。

時代の不可抗力に、生きなければならなかった人たち・・・
本当に、あはれ、である。
長い年月をかけて、日本人が、創り上げた、もののあはれ、という、心象風景を現す言葉、あはれ、というものを、つくづくと感じ入る。

小張軍医が、
「この川水は危ないから飲むな」
と伝えてきた。薬はマラリアの薬だけ。このうえ大腸炎患者が出てはたまらない。
今の私たちに満腹感を与えてくれるのは、川の水だけなのに、その水さえ十分に飲めなくなってしまった。といっても口は渇くし、喉はからからで、とうとうひいひい鳴り出した。水筒の中は、先ほどの川水を一ぱい入れてあるが飲めない。

伊藤大尉が水筒に口をつけたまま、ごくんごくん飲んでいる。
「伊藤さん、生水だろう、いかん」
「なーに、遅かれ早かれ野たれ死にだ」
もう痩せこけ、目ばかり大きい伊藤大尉の顔には、投げやりなところさえ見える。それにしても、野たれ死には禁句だ。皆が私たちの一言に神経をとがらせ、前途を気にしている時だ。野たれ死にを口にするようでは、彼も大分疲れているらしい。そこへ上村主計もきた。
「また現在地がわからなくなったじゃないか。俺はもうどうでもなれと思って、ピストルを時々ぶっ放して気を紛らせている」
と腰をおろした。彼の達磨そっくりだった顔も、すっかり頬が落ち、髭だけがぼうぼう残っている。マノクワリ出発の頃のような生き生きした色は、もう誰の顔にもない。食糧も一食で食い尽くせる程しか残っていない。このままでは、あと十日もすれば全員倒れてしまう。
「さっきの天幕の人たちのように、タレ流しで死ぬのを待つより、これでバンとひと思いに死んでやる」
上村主計は、何のこだわりもなしにそんなことを言った。ほんとうに彼ならそう割り切っているのだろう。私は両手を頭に、果たしてその時になって死ねるかな、誰かが知らないうちに殺してくれると一番いいんだが、と思った。
自分の命を絶つことが、そう簡単にできるはずがない。

ある時、私は敵の密偵を処分したことがあった。私には初めてのことで、いくら陣中でも冷静ではおれなかった。今まで生きてきた人間が、一つの物体に変ってしまう事実。私も同じように戦場にいるのだから、いずれは同じ姿になるのだろう。そしてその事実はただ時間の差だけだ。私はそれを思いながら、また悩みながらその一夜を過ごしたのだった。

それにしても、人の命も実にはかないものである。わずか一瞬のうちに消える。その際、「あ」とも「す」とも言う余裕がない。そのように死んでいくのも、またジャングルの底で野たれ死にするのも、皆いくさだと思わなければならない。

昨日からの小川に沿って今日もまた歩く。あるいはこの皮がヤカチ河に通じているかもしれないからだ。私たちは、ヤカチ河の位置さえ逃がしてしまった。まして今どこを歩いているのか、見当さえつかなくなっている。

その河に着くことが出来た。
だが、その河を渡る苦労・・・
一体、何のために、このようなことをしているのか・・・
その疑問に答えを探すより、食べ物を探すという。

第三者から眺めれば、ただ、無益なことに見える。
だが、この状況化におかれる、それが、戦争である。

「陸行隊は全滅だぞ、これじゃうどうせ野たれ死にだ」
そんなことがあってなるものか、と思うが、私の食糧も今日限りになってしまった。明日からは一粒の米もない。この窮状の中で、陸行隊長伊藤大尉の焦燥は日増しに激しくなっていた。
「全員野たれ死にだろう、覚悟をきめよう」
私の耳に口をよせて、「野たれ死に」を日に何度も心配している。彼の青白く痩せた顔が憔悴で一層目が落ち込んでいる。
「気が変になったのかな」
いやそうじゃない、こんな時は誰だって同じだ。

軍隊の綱領の中に、困苦欠乏に耐えよと教えている。だが今は、その困苦欠乏も通りすぎ、困苦皆無の状態である。全員の餓死はもう時間の問題である。
昭和18年の初め、マレー半島を東西に貫いて、タイからビルマへの泰緬鉄道がつくられた。それに当った部隊は、密林を切り開き、谷間をぬって大変な難事業を続けていた。そこへ配備の有線中隊も、そのジャングルの中に天幕を張り、半数以上がマラリアにかかっていた。それをみて慄然とした私は、南方総軍の折田参謀に、
「マラリア患者の熱が下がった者が、交代で作業に出ている」
と窮状を訴えたものだが、それにしてもあの部隊は、そこに鉄道の偉業を永遠に残した。しかし私たちには、一体何が残る。彼ら異常の苦難をなめている私たちだが、今は全人類から隔離されたまま、このジャングルの中に消えようとしている。誰にも知られずに死ぬことの淋しさ! 誰だって、こんなジャングルの底で餓死したくない。死ぬなら、せめて人のいる所で死にたい。

この絶望に自決する兵士もいる。







posted by 天山 at 06:54| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月14日

玉砕58

南方といえば椰子が実り、バナナ、パパイヤなどの果物が野生していて、喰うに困らない所と思うが、このニューギニアでは大変な見当ちがいである。野性の果物など全然ない。ましてこんな所だ、食糧になるようなものは、何一つない。

こうして、戦記を書写しているうちに、自然に、作者の心境に近づいてゆく。
ような、気がするだけかもしれないが・・・

先発した私は、この昼過ぎ、木に刻んだ斧の跡を見つけてたちどまった。蛮刀の跡だ。
「原住民の目じるしだろう」
その切り跡には、もう苔が生えているが、私はほっとした。
「ヤカチ本流が近いのだろう。その本流に沿って下れば、この斧の跡をつけた原住民の集落がある。恐らくシンヨリだろう」
今までは、人はおろか鳥も通わぬ所だったが、もう大丈夫、これからは人の跡が残っている土地だ。地形はやがて低地に変った。いよいよ河だろう。励まし合って歩いていると、夕暮れ近くになって、やっと河の音が聞えてきた。
「ヤカチ河だ」
私たちは、ジャングルの木立をぬって、その音に引かれていった。河の響きは次第に大きくなってきた。

この夜、加賀候補生が一握りだけ残していた米を、三人で喰った。これで、明日からは三人とも、手当たり次第の拾い喰いだ。
生活には、衣食住の調和が必要で、その一つが欠けても理性を失いがちである。シャツもズボンも汗と泥にまみれているが、それでも私たちの肌を守ってくれている。また夜は、私たちを休ませてくれる一枚の天幕があるし、寒さを防いでくれる一着の雨外套もある。
このように、衣と住は、今の私たちにふさわしい物を持っているが、食の危険はどうにもならない。一本の野草にも目を光らせ、またそれを手にしても味など感じる余裕もない。ただむさぼり喰うだけで、もう私たちはすっかり野獣の性格に変ってしまった。

世界には、飢えで苦しむ人たちが、何十億人もいる。
その人たちのことを、思い出す人は、いるだろうか。
満腹に食べている国の人たち・・・

私は、何度も、空腹で倒れそうになっている、子供たちを見た。
フィリピンの島々では、今も、そのような子供たちがいる。
戦地ではなくても、そのような状態にある、人たちがいる。

この椰子は、普通の椰子とちがって幹がない。根元から長い葉が何本も出ていて、その間に、沢山の実をつけている。この葉は、枯れても余り縮まない。雨に濡れると平べったく伸びるので屋根には都合がよい。原住民を見習って我々も宿舎の屋根や壁かわりによく使ったものだ。
ただし今は、そんな葉に用はないが、この実を喰うのは初めてだった。実は拳ほどで早速、口にしてみたがその堅いこと、また味のまずいこと、まったく蠟をかむ味とはこのことだろう。それでも我慢して喰ったが、何としても堅くて、歯が折れそうだ。それに、
「こんな物でも、栄養になるかな」
と言われては仕方ない、とうとう喰うのもやめてしまった。私はこの夕方から、一番気にしていた下痢になってしまった。それが一時間おきぐらいになった。

「この下痢が、俺の命とりかな」
と思いながら、じっと火を見つめていた。
人の生命は不滅であるという、親を通じて無限の祖先につながり、また子供を通じて永遠の子孫につづく一つの鎖の輪が、いま生きている我々である。
子供があれば今ここで死んでも、私の心と肉体が子供に残っていくだろうが、私にはそれもない。私が受け継いできた人間の、永い歴史の一本の鎖は、私の命と共に、このジャングルの中で断絶するかもしれない。
後続の私の隊も、もう米を食い尽くしている。私たちの命もいよいよ時間の問題だ。そう思うと、なかなか寝られない。そして、この静寂の中に、私の目だけがぎらぎら光っているのだと思うと、不気味でなおさら眠られない。

そして、時に、ジャングルの中で、食べられる物に出会い、歓喜する。
それは、絶望の中の歓喜である。
しかし、そこに、留まってはいられないのだ。

そして、食べ物と、情報の無い状態である。

ようやく、食糧のある、シンヨリまで到着した。
しかし・・・

この時の私には、これから後の惨状など夢想もできなかったのである。
と、作者が書く。

戦記は、まだ、終わることがない。
戦争の様を、俯瞰することは、出来るが、個人の兵隊たちの、思いを知るのは、生き残った方々の、戦記である。

八月十三日昼前、「副官おるか」と伊藤大尉の大きな声がきこえてきた。意外に元気な声だ。
「先発の者は元気か」
「大丈夫だ。本隊の米はすぐに受け取られるように手配してある」
「じゃあすぐ川を渡る。何しろ米の味を忘れそうだ」
伊藤大尉も思ったより元気だ。でも全員の野たれ死にを恐らく覚悟していたのだろう。私の耳もとに口をよせて、「米はほんとうだろうな」ともう一度念を押し、ギラリと光る目で今度は私の目をじっと見つめた。
「大丈夫。落伍者の分も用意してある」
上村主計もやっときた。
「すまなんだ、すまなんだ。軍司令部の経理部は誰が来ている。俺たちにこんな苦しみをさせて、どなりつけてやる」
皆は、私たちの立ち話をきいてほっとしたのだろう。目を輝かせながら川を渡り始めた。
今までは、野たれ死にを気にしながら、目を皿にして、喰う物を探しながら歩いてきたのだ。今の私たちには、ただ米が貰えるだけで有難かった。この上に、どれだけなどと欲を言う者はなかった。・・・

「部隊の名は」
後ろ向きでズボンをつけている参謀の身体の白いこと。
「軍通信隊、只今シンヨリに着きました」
「皆、無事か」
「シンヨリまでに八名落伍です。現在員百四十名、落伍者をここで待ちたい」
「よく来てくれた。早速、食糧を受けてくれ。ここで一日休養して、ヤカチへ出発し、そこで落伍者を待つように、ヤカチまで一日だ。そこはサゴ椰子地帯、その椰子を倒せばサゴ澱粉はいくらでもある。二十年や三十年は大丈夫喰える。そこで自活しながら、別命を待て」
「別命というと、イドレへの転進は」
「ヤカチで別命を待て」
イドレへすぐ出発と思っていた私には、これは意外だった。シンヨリまでの飢えの行軍、これは転進計画の無謀による、一言その恨みも言わねば気持ちが納まらないのだが、それどころではない。
サゴ椰子は湿地に繁る。サゴで自活することは、その湿地で生活すること、これは大変なことだ。

軍隊における、命令は、絶対的なものだ。
それに逆らうことが出来ない。
戦争の、悲惨さは、それも原因も一つである。





posted by 天山 at 06:58| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

玉砕59

将来のことより、私たちは今日明日のことが心配なのに。しかし残念なことに、私たちはサゴについては何も知らなかった。それで椰子から簡単に澱粉が採れるものと思い込み、それを食糧にして自活できるものと考えてしまった。
しかし、サゴ澱粉はサゴ椰子を切り倒し、その幹をくだいて澱粉をとるので、これは今の我々の体力では容易なことではない。まして澱粉の含み具合を、木を倒す前に知ることなど、まったく無知であった。
「ヤカチの地区での自活は承知しました。ところで、私の隊の吉森大尉ら水行隊は無事イドレに着いていますか」
「皆無事で通信の任務についている」
「連隊長は」
「ソロンを出発している。イドレに向ったらしいが、その後はわからない」
私たちの尋ねることはもうない。
「まずヤカチに出発し、その後の行動については別命を待ちます」
と応えた。参謀は軽くうなずいただけである。

私たちは、マラリアと下痢に悩まされながら、空腹に耐えつつ、やっとここまで来た。昨日までの何日かは、夜明けのない密林を、手さぐりで、野たれ死にを覚悟しながらの行軍だった。
今は何よりも食糧のある所へ、薬のある所へ出たい。この衰弱の身体を少しでも回復に向けねば自活どころではない。イドレも食糧が十分でないというが、そこは軍司令部のいる所だ、皆無ということもなかろう。イドレを夢にまで見て来た私は、参謀指示を受けても、やはり心はイドレに引かれた。

何故にサゴ椰子の温室の中で自活しろと言うのだろう。しかもこの体力の我々に。この参謀宿舎に来るにも杖を持たねばならないような我々に!
私はムミを出発した日にぶっかったマングローブの湿地帯のことを思い出していた。そこを通り抜けるのに四時間以上もかかった。「参謀殿は、密林や湿地のおそろしさを知らないのですか」と、口に出かかった言葉をやっと抑え、
「別命を待てというのですか」
ともう一度たずねた。私の語気の荒さに気づいたのか、参謀も重い口調で、
「そうだ。別命を待て」
と繰り返した。

恨むらくはこの一言である。この一言こそは、いつまでも参謀指示として私たちの胸に残り、遂に百四十八名中、百三十一名の死没者を出し、他の部隊もまた同じ状況下におかれたのである。だが上官の命令を至上のものとしてきた軍隊である。しかも作戦の最高計画者である高級参謀の指示である。返す言葉がない。
伊藤大尉と私が帰りかけた時、一人の将兵が川を渡って来た。手には杖、無帽で素足、兵隊の帯剣を腰にして、肩に天幕を細長くたたんで掛けている。
私たちの耳に、参謀に報告しているその人の声が聞えてきた。
「第二海上輸送隊長の北村中尉です」
「・・・やられたのか」
「はい申し訳ありません。舟艇は敵の水雷艇に出会い沈めてしまいました」
「兵は」
「その時の銃撃でほとんどやられました。助かった八名を連れて陸行して来ましたが、最後の二名も今朝死にました」
と言って、北村中尉は両手で顔を覆っている。
「泣くな。東部ニューギニアでは、揚陸までに八割が海没、残った者も戦と病気で倒れ、全滅した部隊が多い。君は一人だけでも残ってくれた」
恐らく参謀は自分に言い聞かせているのだろう。低いその声がきこえている。私はもう振り返る気にもならなかった。伊藤大尉も無言のまま、私の前を天幕へ歩き始めた。

戦争は、何も、戦闘ばかりを言うのではない。
威勢の良いものでもない。
実に、惨めで悲しい物語である。

だが、現代の戦争は、もう昔の戦争の様と違う。
ハイテク戦争の形相である。
無人機攻撃・・・
戦地にいずとも、相手を攻撃出来る戦争の様。

更に、戦争も、様々な分析が出来上がり・・・
情報戦争から、経済戦争に至り、そして、武器を使用する戦争というもの。

70年前の戦争・・・
今とは、全く違う形相だ。

ただ言えることは、戦争は、大量殺人であるということ。
そして、殺人が、肯定されることだ。

ヤカチ河左岸のここは、河に沿って五十メートルぐらいの幅がマングローブで、その奥がサゴ地帯になっている。そして少し下流の対岸にヤカチ集落が見える。私たちは、このヤカチ集落の見える所を選んで設営した。
自活の単位を十二、十三名にし、それに応じて天幕も張った。河岸には、水浴や水汲みの足場も作り、また天幕の中からでも、河が見通せるように木を取払った。こうしてサゴ椰子の伐採にかかり、自活の第一歩をふみ出したのが、八月二十一日だった。しかしこれは予想外の難事業だった。

一日のサゴの塊を叩いても、飯盒の蓋に半分もとれない。これでは一日の作業を支える食糧にもならないし、我々の腹をもちろん満足させてはくれない。また一日がかりで倒した椰子に、澱粉の入っていないこともある。すぐに次を倒さねば、他には何一つない。この一体は湿地のジャングルで、一本の野草さえないのである。サゴ自活は全く必死の仕事になった。
健康な者でも、杖を手に歩いているのだから、まず七十歳前後の老人の体力で、裸の姿は骨と皮ばかり、そんな私たちが作業に当っている。

患者となるとなおさらで、まったく死神の姿だった。その患者だって、戦友が作業に出たあと、水を汲んだり、薪を集めたりしなければならない。この人たちが、細くさしこんでいる日光の下に立って、褌一つで杖を両手に日光浴をしている姿のなんと痛々しいこと。

天幕で待っているこの人たちを思って、決心の力を出すのだが、体力にはやはり限界がある。どうしても椰子を続けて倒せない。しぜん、サゴの塊を木屑のままで喰うようになってしまった。

しかし、兵士たちは、限界を通り越して、死を待つ状態になる。
若者が、死を待つ心境・・・

もうマラリアの薬もほとんどない。熱が出てもそのままで、悲惨は日毎に激しくなっている。とうとうこのままでは、全滅を覚悟しなければならなくなった。今日は隣の幕舎の者と椰子を倒しに出ることになっている。ここの分隊長は、また発熱で寝込んでいる。

戦うどころの、話ではない。
生きるために、ジャングルの中で、食べ物を探す日々。
この戦記を読んで、少しでも、当時の兵隊の有様を、追悼したいと思った。

次第に弱り、心で行く兵士たち・・・
つまり、餓死である。
戦地での、餓死も、玉砕である。
実に、あはれ、である。
posted by 天山 at 06:03| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月25日

玉砕60

ある豪雨の夜だった。天幕の中の私たちに、雨漏りとしぶきが容赦なしに飛んでいた。雨外套を頭からかぶって、この激しい雨の音にうつらうつらしていると、雨の中からうめき声が聞えてきた。
マラリアの高熱に苦しんでいる声で、隣の幕舎からだった。声が次第に乱れてきた。普通でないがこの雨と闇では動きたくない。たとえ行ったところで薬一つあるわけじゃなし、処置なしだ。私はまた眠り込んでしまった。

夜中になって、また同じようなうめき声で目をさました。雨はまだ続いている。風の方向が変ったのか、声はずっと近くなっていた。まったく地獄へでも引き込まれるような声だ。気になりながらも、私はまた寝込んでしまった。

隣との間の木を回ると、その根元に手が二本伸びていた。一人倒れている。私はすぐに、昨夜、夢うつつで聞いた声を思い出した。
「そうだったのか、水が欲しかったのか」
最後の水が飲みたくて、苦しい中を天幕から這い出し、雨の中に出て来たのだろう、すまんことをした。
いくら飢えに迫られ、雨に濡れていても、私はまだまだ水を飲ましてやるぐらいできたのに。何故起きて、手をとってやる気持ちにならなかったのだろう。顔の泥を落としてやりながら、私は後悔のきびしい情に、胸をしめつけられた。
我々は、人の死、しかも戦地では格別の仲である戦友の死にさえ、もうこんなに無情になってしまった。

私の隊では、死者が出ても、埋葬の仕様もないので、天幕に包み引き潮をみて水葬してやるのが、もう精一杯の手向けだった。私たちには一般の塩さえない。このため川水に一番塩分の多くなる満潮の頃をみて水を汲み、それを飲んで、身体の塩分を補っていた。この水を汲みに行くと、折からの上げ潮で、水葬された仏が浮いていることが多かった。それほど毎日の死没者がふえている。
私たちは、この死地を、一体どうして生き抜けばよいのだろう。

この戦記も、そろそろ、終わりにするが・・・
延々と続く、絶望的状態の中で生きるということ。

もうこれは、戦争というより、死の行軍である。

シンヨリまでは行軍位置がわからず、進路の不安で、野たれ死にを覚悟したものだった。それでも、シンヨリに着けばなんとかなるだろうと、原住民集落に一縷の望みをかけながらイドレへ出発するのだとの希望にすがってきた。
だが、サゴ地帯がこの惨状である。夢にまでみるイドレへ一歩近づけば、それだけ私たちの行く手をさまたげる物が大きく立ちふさがってくる。私たちが全滅を覚悟したのは、このためだった。
兵隊も一難去ると、またそれ以上の難事が私たちを待ち受けているのを知って、全てを私たちに任せている。私も、筏にはがっかりしてしまった。伊藤大尉も一言も言わず私と肩をならべながら、天幕へ帰った。
この途中、私は「おや?」と立ち止まった。
シンヨリに残ったはずの小出軍曹が、こちらへ来る。
「おーい、小出軍曹、ここだここだ」
「・・・」
「一体、どうしたんだ」
「シンヨリの糧秣集積所が夜襲されました。それで私たちも追い出されてしまった。それまでは次々到着の部隊へ米を配っていたようでしたが、夜襲されてからの到着部隊は、米の配給も受けていません」
「無線機が到着しているだろう。イドレと連絡がとれているだろう」
「それどころでないですよ、無線機など来ませんよ。それに患者の薬だって来ませんよ。それで本隊に追及しろと言われて・・・」
「患者は」
「全員死にました」
なんということだ。あれほど米もある。薬も来ると元気づけて残してきたのに!
患者たちも、イドレへ行き着けば迎えにもどる、とさえ言ってくれていたのに!
私は悲嘆と怒りに、頭をかかえこんでしまった。気が狂いそうだ。

それでも小出軍曹は、本隊に会えた嬉しさに、一緒に来た二人を振り返って、
「ほっとした」
と涙をうかべている。ほんとうによく来てくれた。ご苦労さん。
「それから、副官殿の当番をしていた高橋上等兵が、一日歩いた所で落伍しました。歩けなくなったのです。シンヨリを出る時から食糧がなく、手当たり次第の拾い喰いでしたから、そのまま別れましたが、副官殿によろしく言っていました」
足の傷がひどく、とうとう歩けなくなったのだろうか。そんな者まで出発させるのは!
喰う物もないのに歩けなくなって、よろしくと言えば最後の言葉である。もしかしたら、私たちのサゴ自活を順調と思って、私の救援を願っているかもしれない。恐らくそうだろう。
私が元気なら、往復してたかが一日の行程だ、彼が歩けなければ背にしても連れて来たい。傷の足をかかえて、死を待っている高橋上等兵の髭の顔がまざまざと浮かんでくる。
「高橋よ、だが俺は行けない」
今は私だって次の一食のために、サゴを叩かねば何も喰えないのだもの。

この戦気は、東部ニューギニアでの、行軍の様子を詳しく記したものである。
さて、現在、そのジャングルに慰霊に出掛けられるのかといえば、無理である。

全く、人が入ることが出来ない場所である。
慰霊団も出掛けたが、そのジャングルには、近づくことも出来なかったという。

私は、この戦気の結論を、次の文章から読む。

この頃の死因は、栄養失調ばかりで、意識だけが最後まではっきりしていて、ぱたんと死ぬ。しかも死の数日前に死相の出るのが普通で、中には耳鳴りがしたり、耳が遠くなったり、また急に聞えなくなったりする。毎日顔を会わしている者でも、死相が出ると、急に人相が変り、誰だったのかなと首をかしげることもある。

そしてこの死相を見ても、耳の変調を知っても、その人の後ろ姿を淋しく見守る他ないのだ。こうして一人、二人と私たちの命が湿地の底へ吸い込まれていった。私もいずれはこの人たちの仲間に入るのだろう。そのためか、この頃では、もう誰が死のうと、一日に何人死のうと、慌てなくなった。

一万二千名・・・
銃を捨て、600キロの道なき道を、餓死と戦いつつ、散華した兵士たち。
これも、戦争である。

二度と、このような、ことは、しないで欲しい。
作者が言う。

人を怨むまい。私は戦争を導いた日本の運命を怨む。

この日本の運命とは、何か・・・
何度も、繰り返してきた言葉であるが・・・
アメリカに引き摺られて、戦争に巻き込まれたのである。
そして、あくまでも、日本は、自衛のための、戦争をしたのである。

戦争に至る経緯については、別エッセイ、国を愛して何が悪い、天皇陛下について、その他を、参照ください。


posted by 天山 at 06:03| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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