2015年06月26日

玉砕41

それでは、欧州の状態を見る。

昭和18年、1943年、1月末。
それまでヨーロッパ全土を席巻してきたドイツが、初めて大敗を喫し、大軍をもって、降伏した。

スターリングラードにおける、ドイツ軍9万の降伏である。

北アフリカ戦線では、1942年11月、アルジェリアとモロッコに上陸した、米英連合軍は、翌年春、チュニジアに進入し、独伊軍に、痛打を与えた。

その後、北アフリカ所在の、連合軍は、アイゼンハワーの統一指揮下に、4月22日から、ロンメン軍団に対して、総攻撃を開始し、5月下旬、ついにチュニジア全土を攻略し、25万以上を捕虜にした。

チュニジア全土の陥落を最後に、独伊軍は、北アフリカから、駆逐され、地中海の南岸は、ことごとく連合軍の手中に落ちた。

1943年5月を機に、日本軍がそれまで抱いていた、ドイツ軍とインド洋で手を結ぶという、願望は、実現不可能となったのである。

更に、地中海が、連合軍の支配下におかれたということは、海軍にも、心理的な圧迫を与えた。

南方占領地の西域に対して、海と空より、新たな脅威が加わることになった。

北アフリカに続いて、米英連合軍は、7月10日、イタリアのシチリア島に、東南部から上陸を開始した。
激戦の後、独伊軍は、しだに背後連絡線にあたる、メッシナ方面へと圧迫され、7月下旬には、大勢が決した。

この情勢下の中で、突如として、イタリアに一大政変が起こる。
イタリア国内では、厭世気分が高まり、連合軍のシチリア島上陸で、特に民心の動揺が激しく、チアノ外相および、ファシスト党幹部デイノ・グランディらが中心となり、ムッソリーニ政権転覆の謀議が、進められていた。

その後、ムッソリーニは、軟禁され、ピエトロ・バドリオ首相兼参謀総長に任命され、ファシスト党は、解散された。

8月17日、独伊軍は、シチリア島から撤退し、9月3日、連合軍が、イタリア全土に上陸するにおよび、バドリオ政府は、9月8日、無条件降伏を行なった。

つまり、ここに、日独伊三国同盟、共同戦争遂行の基本構想は、崩壊するのである。

この頃になると、日本も、敗戦への道を、転がるように進む。

日本政府は、9月30日、御前会議を奏請して、
絶対国防圏の設定を含む、今度採るべき戦争指導の大綱
を、採択するに至る。

国内において、益々の持久戦態勢確立のための諸施策が、政治、産業、経済および、国民生活の各分野にわたり、行われた。
戦時体制の一層の強化である。

それが、昭和18年に入ると、企業整備、衣食生活簡素化、学徒動員、地方行政の総合運営、軍需省、農商省、および、運輸通信省の創設などである。

昭和18年6月25日、閣議において、学徒戦時動員体制確立要領が、決議されたが、同年10月、中等学校以上の学生生徒に対する、勤労動員が義務づけられた。
更に、徴兵予備兵となった法文科系学徒の壮行会が、明治神宮外苑競技場において、雨中決行された。

さて、絶対国防圏とは、その外周は、カムチャッカ半島南端から、サイパンを中心として、マリアナ諸島、カロリン諸島、西部ニューギニアのヘルビンク湾、更に、チモール、ジャワ、スマトラの各島から、ベンガル湾を北に縦断して、ビルマに至る、約7000浬にもおよぶ長大な、防衛線であった。

しかし、この構想も、時既に遅く、米軍の反抗勢力は、日本陸海軍の航空機増徴などの兵備充実はおろか、その新防衛線への、兵力の配備すら、整っていなかった。

つまり、絶対国防圏の危機である。

大本営が、絶対国防圏の命令をしたのは、9月30日であるが、それより以前の、22日、ダグラス・マッカーサー大将の指揮する、米壕連合軍が、国防圏の前衛最右翼の要衝にあたる、東部ニューギニアのフォン半島の、フィンシュハーフェン北方アント岬に上陸してきた。

このフィンシュハーフェンは、東部ニューギニアのラエ、サラモア攻略作戦の時期には、後方補給のための、基地だった。
五月以来、第一船舶団司令部があった。
海軍警備隊約4000名の善戦にもかかわらず、10月1日、敵の手に渡ったのである。

更に、連合軍は、飛行場の整備を開始し、10月4日には、飛行機の離着陸が認められた。

これが、敗戦の序曲である。

10月12日、連合軍航空機は、大挙して、ラバウルを空襲した。
日本軍前衛線に対する、本格的攻撃の、前触れだった。

そして、11月19日、マキン、タワラ、およびナウルに対し、大規模な空襲が始まった。
連合軍は、20日、空襲を反復し、21日の早朝、マキン、タワラ島に上陸を開始した。

わずか、700名の守備兵員しかいない、マキン島との無線連絡は、途絶した。
タワラ島は、激戦となった。だが、22日、無線連絡が、途絶える。

のちに、連合軍側の放送により、マキンは24日、タワラは、25日、それぞれ全滅したものと、認められた。
つまり、玉砕である。

こうして、玉砕が続くことになる。

悲しいことだが・・・
戦争を追い詰めれば、日本軍が、敗戦して行く様が、見て取れる。

何にも増して、敵の物量の圧倒さである。
日本軍は、武器、食糧も失い・・・
ただ、精神力で、戦いを続けていたのである。
その先が、玉砕である。

posted by 天山 at 06:24| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月30日

玉砕42

ここで、生き残り兵士だった、八木与太郎さんの、手記から引用する。
ラバウルの話しである。

このように初めての外洋の航海、それも人間が貨物同然に押し込められていた輸送船で、18日間、ほかの頑健な兵隊が弱っていくなかを、病後の体で倒れずにいられたということは、とても本来の自分にそんな強さがあったからとは思えない。しかも札幌出発時のぎりぎりの場面での回復や、さらにはるか6000キロの南の島で戦火の中を過ごし、ようやく生還することができた長い道のりを振り返ってみたとき、すべは一筋の強い糸で結ばれていたのではないかという深い感慨さえ覚えてしまう。

八木さんは、1942年12月、野戦照空第五大隊要員として、ニューブリテン島、ラバウルに上陸し、敗戦により、1945年8月、同島のタブナ収容所に部隊集結し、連合軍の使役生活を体験する。

一筋の強い糸・・・
それは、日本人が感じる、心の風景、心象風景である。何かの縁とも、言う。

さて、矢張り、マラリアに罹るのである。

時揚陸してから丸一年たって初めて罹ったマラリアで、闇の中へ沈んでゆくような体験をした私は、「死」というものをそれまでとは違った目で見てゆくようになった。そのときはただ無性に淋しかったという思いだけが鮮やかだったが、それ以来私は戦地での日常を、「死」の瞬間と「死」に近づく過程とはまったく違う別の世界なのだと思って過ごすようになっていた。

確かに「死」に至る過程での肉体的苦痛や精神的苦悩は、それ自体恐ろしいと思うし、耐え難いもののように思う。しかし、たとえそれがそのまま「死」につながっていったとしても、「死」の瞬間というものはまったく別のものとして存在し、それは想像しているよりも簡潔で、単純で、ただ限りなく「淋しい」だけの世界なのではないか。そう思うと、苦痛や苦悩の彼方にある「死」そのものが実に易しいもののように思われ、戦場生活における気持ちの支えにもなっていたようである。

このように、感じたということを、そのまま受け入れる。
それぞれに、死に対する、思いがあるだろう。
そして、死は、戦場に置いては、当たり前の事実である。

マラリアを通して、死というものに、慣れて行く過程が、書かれている。

1944年、昭和19年三月、闇の中へ落ちていった私は、その後いったん意識を取り戻したものの依然重体のまま大隊本部へ送られ、さらにラバウル患者療養所通称「ラバ患」という、山腹に掘られた洞窟の病院に転送された。当時すでに死線を彷徨していた私は、ここで自分の人生で初めて極限に近い体験を重ねることになった。

戦うより、マラリアとの、闘いである。
洞窟の中の様子が、詳しく語られている。

その頃の、ラバウルは、すでに廃墟と化している。

「ラバ患」は、ラバウルの市街から背後の小高い山の中に移っていた。

療養所と言っても山の中腹にいくつもの横穴を掘り、内部は炭鉱の坑道を低く狭くしたような洞窟で、天井と壁は椰子の丸太を組み込んで土留めとしていた。
私が入った洞窟には重症の患者ばかりが集められ、重なり合うようにして収容されていた。両方の入り口からわずかに日の光が差し込む程度で、中は薄暗く、その中にほとんど起きることのできない兵隊ばかりが、土の上に敷かれた椰子の葉の上に毛布をひろげ、横一列になって寝かされていた。

体温が40度を越すという日々。
そのうちに、精神に異常をきたす者も出てくる。

こうした高熱が連日続くうちに、当然のことながら私は脳分裂に近い症状を起こし始めていた。体は衰弱しきっていたので仰向けに寝たままだったが、すでに眠ることもできなくなっていた。・・・

椰子の葉の取れた節を、数えるようになったという。

数えている自分に対して自分がしきりに言い聞かせているのだが、言い聞かせている自分に逆らうように、もう一方の自分が勝手に数えている。頭の働きが真ん中から左右別々になっている。それぞれが独立してかってな動きをするばかりでどうにもならない。気が狂う寸前の症状だったのかもしれない。

死ぬということを、覚悟するも、何も・・・
意識が混濁しているのである。
だが・・・

洞窟の病床と別れる日がきた。真夜中に大編制と思われる空襲があり、爆撃が始まったのだが、洞窟で「死」を迎えたかもしれない私にとっては、この空襲が文字とおり決死回生の転機となった。

連合軍は、徹底的に、ラバウルを叩いたのだ。
すでに、灰燼と帰している街を、更に、攻撃するという。

洞窟も、攻撃の対象となったのである。

幸運だったのは、洞窟を出て、トラックが止まっていたことである。
それに乗り、西側の海岸線近くに出た。
そして、トラックは、全員を降ろし、来た道を戻る。

ニューブリテン島は、私も慰霊に訪ねたが、ラバウルと、その隣に、ココポという街のみで、あとは、ジャングルである。
ココポには、日本軍の飛行場と、野戦病院があった。

私の脳裏にはいつか桟橋の近くで見たガ島の兵士のことが浮かんでいた。
とぼとぼと歩き出したが、少し歩いては立ち止まるのでどうしても皆から送れてしまう。はぐれないように吉呑一等兵が皆との間を歩き、時々呼んでくれる。しかし歩くと言ってもただ脚を引きずって前に出す動作の繰り返しにすぎない。呼ばれては進み、進んでは立ち止まる。
このあたりからあまりはっきりとした記憶はないのだが、時々椰子の木の間から見上げた南十字星が、まるで天を壁にしてその壁に吊るしてあるかのように見えていたのを覚えている。道は細い山道に変わり、私は登るというよりもほとんど這うようにして上がっていったようだ。・・・

辿りついた場所は、山の斜面を削り込んで作ってある、病床だった。・・・

これは、ココポの街に近い場所であろうと、思われる。
私は、ココポにて、三度、追悼慰霊を行なった。
小高い丘と、海岸である。
posted by 天山 at 06:04| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月01日

玉砕43

引き続き、八木さんの、手記を紹介する。

ラバウルというと、南洋の小さな島のように思っている人が意外に多いが、パプアニューギニアの東、赤道から南へ五度ほど下がったあたりに、東北から南西へかけて500キロの長さで横たわっているニューブリテン島の東北にある街の名称である。海峡を隔ててその東側から北にかけては、ニューアイルランド島という島があり、向き合ったこの二つの島には英本国の名がつけられてある。第一次大戦まではドイツ領だったので、今でもこのへんの島々を総称してビスマルク諸島という名が残っている。ニューブリテン島の大きさは日本で言えば九州くらいに相当し、さしずめラバウルは、北九州市あたりに位置しているということになる。

昭和18年、1943年も暮れ近くになると戦局はとみに緊迫してきて、ニューブリテン島の各所にも米壕軍が上陸してきた。海峡を挟んでニューギニア島と対するツルブ地区あるいはマーカス岬など、九州にたとえれば、鹿児島や宮崎、熊本さらには大分あたりに相当する地点が激しい地上戦の場と化した。
そしてこれらの地域の日本軍は、兵力、火力、食糧すべての点で圧倒的に優勢な米壕軍の前に、一部は玉砕したが、生き残った者はラバウルへ向けて撤退することになった。遠いところで500キロ、近いところでも200キロの道のりを一ヶ月から三ヶ月かかって引揚げてきたが、文字とおり死の行進だったようである。
飢餓、病魔、豪雨による川の氾濫、鰐、泥濘の道など、それらによって途中脱落した兵士の数は何千とも言われ、屍は累々とし酸鼻をきわめたという。

そして、生き残った者も、ラバウルにて、玉砕するのである。
今は、美しいビーチの広がるラバウル・・・
70年前に、そんな悲劇があったとは、思えない場所になっている。

救いは、現地の人たちの、日本に対する思いである。
実に、親日なのである。
私が出掛けた年は、パプアニューギニア建国30年の年だった。
その、祝いの壁絵には、日の丸が、描かれていた。

象徴的な現地の人の言葉・・・
日本人は、すべてを与えてくれた。白人たちは、ただ、奪うばかりだった。

私がこの病棟に移されてからどのくらいたったころかははっきり覚えていないが、ある日、数名の兵士が衛生兵にともなわれて病棟に現れた。まとっている軍衣はボロボロで泥にまみれ、履いている靴や地下足袋は底が剥がれ縄で縛ってあった。枯れ木のような体の腹部だけが異常に膨らんでいたが、マラリアにやられ栄養失調にさいなまれながら、かろうじてたどりついた兵士たちの悲惨な姿だった。

着いた兵士たちは食べるものを欲しがった。軍医の指示で、植物は体が回復するまでは少しずつしか与えないことになっていたが、皆、衛生兵の目を盗んでは何かを食べ、食べた翌日には必ず死んでいった。哀れなことにすでに食物を消化する力さえもなくしてしまっていたのだろう。しかし、それでもここまでたどりついて、たとえ一口でも口に入れることができた者は幸せだったというべきなのかもしれない。

死んだ兵士たちは、病棟のはるか下の谷間に掘られた大きな穴に次々と放り込まれていった。やっとの思いで死の行進を生き抜いてきた兵士たちなのに、たどりついた先もやはり死の穴でしかなかった。

玉砕である。

未だに、英霊の遺骨は、114万柱が、日本に帰っていない、現状である。
つまり、それらの兵士たちの、ご遺骨が、そのままであること。
更に、自然に同化してしまった、兵士たちの、ご遺骨である。

後から後からと出る死者を埋める穴が足りない。そのためには一人用の穴ではなく、二メートルぐらいの赤い穴を掘り、いっぱいになるまで投げ込むのである。次から次へと必要とする穴を掘るには衛生兵の手だけでは足りなかったし、むしろ常時患者を作業要員としていたと言ったほうが実態に近かった。

八木さんは、ようやく、中隊に戻り、ココポに近い、南飛行場で、戦闘に加わるが・・・

食糧・衣類など軍中枢からの補充は皆無となり、中隊手持ちの量はわずかであったが、貴重な備蓄として手をつけてはならないことになっていた。兵士たちは日常生活のすべてにわたって自活するための工夫が要求された。たとえば靴などは戦闘訓練の場合は別として、日常はめいめいが椰子の実を裂いた線維で草鞋を作り、それを代わりとした。草履を履くための足袋も作ったが、それには古い天幕地を利用した。なかには針まで作り出す器用な者もいた。

これでは、戦争に勝つことは出来ないだろう。
それらの記述を読むと、呆然とするのである。

昭和20年、1945年、八月、戦争は終わった。日本は敗れた。しかし我々には敗れたということがどういうことなのか、日本が、国自体がどうなっているのか、それがまったくわからなかった。わかりようもなかった。祖国は遠い。一体これからどうなるのか、何もかもわからなかった。最初は終わったということさえよくわからなかった。

ただはっきりした違いは音の世界が一変したということだった。毎日聞く定期便のような爆撃機のエンジンの音、爆弾が空を切って落ちてくる音、戦闘機のけたたましい急降下の音、そして狂ったような機関銃の発射音、そうしたすべての音がぱったりとなくなった。

見上げる椰子の葉の間にのぞく青空は昨日のものとは変っていないが、その空から一切の音が消え、森閑とした静けさだけが残った。その静けさに戦争は本当に終わったんだなという実感があった。

日本兵士たちの、行為と行動は、悲惨だったが・・・
その後、八木さんは、敗戦後の日本を見回して、書く。

戦場という有無を言わさぬ場に身を置き、運命を共有する集団の中で命を賭す以外に途のなかった苦しみ、その苦しみを抱いて戦った若者たちの心の在りようは、後世の論者の憶測の域をはるかに超えている。

私が「無念」としか言い表せないこれら死んだ若者たちの心の傷跡は、あとから「殉国」というようなひとかけらの賛辞でたたえられようが、あたかも当時であったかのような「反戦」という歴史批判の言葉の中で悼まれようが、けっして消え去ることはないし、そんな騒々しい意味づけをしてもらっても喜ぶはずがないと思っている。

一緒に戦場にあった者としては、ただただ「死なせないでやりたかった」と思うばかりで、言ってやれる言葉は何一つもない。生きていてこそ人生だったと思うし、生きる自由を失い、自分ではどうしようもなかったたった一つの人生の喪失に対して、何をどういってやったところで慰めにはならないと思っているからだ。

「死なせないでやりたかった」ということがかなわなかった以上、生き残った者としては、せめて静かに眠ってくれと願うだけである。

戦争を知らない世代の人たちには、こうして死んでいった当時の若者たちの「無念さ」を踏みつけ踏み固めた歴史の上に今日の平和が築かれ、それぞれが貴重な生をうけているのだというだけは知っていてもらいたいと思う。

以上。

ほんの一部を抜き出してみたが・・・
私が言えば、戦争で死んだ若者たちに対して、ただ、追悼慰霊があるのみだと、思う。

追悼とは、追って悼む、つまり、その歴史である。
そして、慰霊とは、この今、生きる命の、尊厳の重さである。

慰霊をすることによって、戦争に対する、反対を行為するのである。
つまり、平和運動である。
それは、極めて、個人的なものである。
何者にも、それを止める権利は無い。




posted by 天山 at 06:25| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月02日

玉砕44

昭和18年、1943年、9月30日に、大本営は、絶対国防圏の命令を発した。
しかし、それより以前の、22日、ダグラス・マッカーサー大将の指揮する、米壕連合軍が、国防圏の前衛線最右翼の要衝にあたる、東部ニューギニアのフォン半島の先端、フィンシュハーフェン北方アント岬に上陸してきた。

そこは、同じく東部ニューギニアの、ラエ、サラモア攻略作戦の時期に、後方支援のための、舟艇基地となっており、5月以降、第一船舶団司令部があった。

海軍警備隊約4000名の善戦にも関わらず、10月1日、敵手に渡ったのである。

これが、序曲となった。
10月12日、昼間、連合軍航空機は、大挙ラバウルを空襲した。

敵の大胆な白昼空襲は、南東方面作戦開始以来、最初の出来事である。
それは、日本軍の前衛線に対する、本格的攻撃の前触れである。

11月に入り、ブーゲンヴィル島の、タロキナに、また、ギルバート諸島の、マキン、タワラ両島に上陸し、一連の本格的な攻撃を加えてきた。

以後、翌年、19年3月に至るまで、南東、および中部太平洋戦線の各島において、激戦が展開された。

そして、連合軍の攻勢は、国防圏前衛が、あいついで崩壊するという、有様となった。

昭和19年1月末、チェスター・ミニッツ大将の、中部太平洋艦隊は、その猛攻撃を、防衛線の、マーシャル諸島に加えてきた。

クェリンゼ、ルオット、ウオッゼなどにある、航空基地を、猛撃した。
これは、完全に奇襲となり、日本軍は、全く反撃の余裕を持たないまま、100機にのぼる飛行機が、地上において、廃物となったのである。

ルオット島には、第二十四航空戦隊の司令部があった。
総兵力は、約2900名を数えたが、その大半は、航空隊の人員で、地上兵力要員としては、第六警備隊の約400名がいるに過ぎない。

1月30日以降の砲爆撃により、敵の上陸前に、すでに大半の人員が、死傷し、防御陣地が破壊され、米軍は、やすやすと、島を占領した。

クェリンゼ島には、陸海軍あわせて、約3900名の兵員がいた。
これらの守備隊は、2月1日の敵上陸は、撃退したが、翌日の強行上陸は制しきれず、4日夕刻まで抵抗したが、全滅した。
玉砕である。

マーシャルの前衛線を瞬時にして潰滅させた、米空母部隊は、その勢いで、日本の絶対国防圏の、真横となる、トラック諸島に手をかけてきた。

2月1日、戦争始まって以来といわれた、大量の米空母機が、乱舞したという。

トラックは、ガダルカナル、ツラギに、連合国軍が反攻して以来、長く連合艦隊司令部、および、水上部隊の所在地であったが、マーシャルの陥落にともない、古賀峯一司令長官が、空襲を予期して、水上部隊を内地、およびパラオ方面に撤退させ、自らも、パラオに移っていた。

当時のトラック諸島には、第四艦隊、南西方面艦隊所属の航空戦力、そして、陸軍第五十二師団のほかに、訓練が目的で上陸していた、南東方面艦隊所属の航空兵力があり、指揮系統は複雑だった。

そのために、2月17日、早朝の敵艦載機の襲来は、小林第四艦隊長官の邀撃部署命令が達しない間の隙を衝くことになった。

更に、事態を悪化させたのは、飛行隊員の大半が、外出を許可され、出払っていたことである。

この日の、トラック基地には、各飛行隊所属の飛行機、約135機があったが、敵襲の結果、実質可能機数は、艦戦一機、艦攻五機だけだった。

その攻撃時間の過小さと、被害の甚大さは、比類がない。
翌日も、攻撃を受けたが、敵は、艦砲射撃を実施する。

両日の損害の累計は、艦艇沈没九隻、損傷九隻、特殊艦船沈没三隻、輸送船沈没三十一隻、飛行機270機という、膨大な数だった。

古賀長官は、在ラバウルの航空兵力の、トラック転用を命じた。
このように、南東方面には、2月20日以降、一機の海軍航空機も、存在しなくなり、ラバウルをはじめとする方面の、地上兵力は、剥き出しとなり、各地区ともに、戦略威力の大部分を、喪失したのである。

トラック諸島は、太平洋における、日本海軍の最大の根拠地で、南東方面からの、米軍反抗開始以来、連合艦隊司令部、および、水上部隊主力の、泊地であった。

そして、ソロモンの制空権を巡る死闘の大基地ラバウルは、遂に、見捨てられることになる。
この間の、喪失機7096機、戦死したパイロットら、搭乗員7186名である。
玉砕。

私は、トラック諸島に追悼慰霊に出掛けた。
エモン島という、滑走路のある島である。
日本名は、春島であり、その向こうに、夏島がある。
その夏島に、日本軍の司令部が置かれていたという。

そして、その辺りの海には、日本軍の艦船、輸送船、ゼロ戦の多くが、沈む。
海上慰霊を、執り行った。

地元の漁師に頼み、船外機のボートに乗り、夏島近くの海の上での、慰霊である。

現在は、チョーク諸島と呼ばれ、天国を思わせるような島である。
紺碧の海の色は、美しく・・・

海底には、今も、多くの日本将兵が、眠る。
旅日記に、詳しく書いているので、仔細は省略する。

出掛ける前に、不思議なことに、知り合いの父親の兄が、夏島からゼロ戦に乗り、戦ったが、散華したと聞かされて、私は、その人たちの思いも胸に、向ったことを思い出す。

暑くても、木陰の入ると、涼しく、何ともいえぬ、天国のような島だった。
島の人たちに、日本軍の要塞跡を案内されて、見た。
更に、敵の攻撃を受けた、大きな穴が、今もそのままである。
島の人たちは、日系の人が多く、勿論、大変な親日である。


posted by 天山 at 06:39| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月14日

玉砕45

トラックが、空襲と艦砲射撃にさらされたということは、中央にも、大きな衝撃を与えた。

その結果、2月21日、東條首相が陸相のまま参謀総長を兼任し、嶋田繁太郎海相もまた軍令部総長に、新補されるという前代未聞の人事が行われた。

そして、トラックを完璧なまで叩かれた、古賀連合艦隊長官は、今後、敵はマリアナ諸島に来ることを予想し、サイパンを中心に防衛する決心を固めた。
もうすでに、防衛戦なのである。

マーシャルを失い、トラックが潰滅され、太平洋における、防衛は、小笠原、マリアナ、カロリン諸島のラインのみ残され、古賀長官は、この線における、決戦を強調した。

この、依然として、連合艦隊が決戦思想を棄てることができないのは、兵力が底を突いてしまい、すでに後が無いからである。

大本営も、古賀長官の意見に同調し、サイパンを根拠地とする、中部太平洋艦隊の新設を計画する。
陸軍も、中部太平洋方面防備を担当する、第三十一群を編制した。

この間、前年七月以来、決戦用の兵力として、編制、内地において、訓練を続けていた角田中将の、第一航空艦隊に対して、古賀長官は、マリアナ進出を命じた。
角田は、サイパンの隣の島、テニアン島に飛んだ。

ところが、着いた翌日の、22日、米空母部隊が、マリアナに接近との報が入る。
角田中将は、すぐさま対応し、兵力不足の上、夜間であるにも関わらず、未明攻撃を命じた。

結果、それは、失敗である。
搭乗員と航空機を、一夜にして、94機も、失うことになった。

そして、翌日、述べ約350機をもって、大挙した米機は、疾風のように、テニアンをはじめ、マリアナの各基地を襲撃したのである。

2月25日、古賀長官は、旗艦武蔵に乗り、パラオに移り、次期作戦に備えようとした。

しかし、3月28日、偵察機が、ニューギニアのウエワク北方250浬の洋上を、西進中の敵機動部隊を発見した。

同時に、大本営海軍部から、
アドミラルティ諸島北方に、大輸送船団あり、
との、情報が与えられる。

パラオに対する、襲撃を予感した古賀長官は、29日、主力部隊の泊地からの退避を命じた。はたして、30,31日、パラオは、敵機に襲われ、駆逐艦14隻、船舶15隻が、撃沈された。

古賀長官は、その直後、フィリピン、ミンダナオ島に移ることを決心する。
そこで、サイパンから、二式大型飛行艇三機が、呼び寄せられたが、一機が遅れたため、二機に、古賀長官および幕僚14名が、分乗して、3月31日夜パラオを飛び立った。

ところが、到着予定時刻の午前零時半を過ぎても、二機は、ダバオに現れなかった。

小型と予想された低気圧は、意外に大きく、古賀長官は、雷雲の巻き込まれて、暗夜の海に墜落し、そのまま、沈んだという。
その後の、捜索でも、機体の一片すら発見できなかった。

二番機の、参謀長以下を乗せたものは、低気圧を迂回して、セブ島東海岸の沖合いに、不時着した。

古賀長官の、死は、日本海軍の前途に、不吉な暗雲を投げかけた。

大本営も、連合艦隊も、さしあたり、マリアナ方面における決戦方針を、踏襲するしか、策はなかった。

米軍のマリアナ諸島上陸作戦は、3月11日、インパール作戦が実施される、四日前に、決定した。
当初の計画では、マリアナ上陸は、10月に予定されていた。
約四ヶ月も、短縮されたわけだが、その理由の一つは、先のマーシャル攻略、ヤルート、マリアナ等に対する、空襲の結果、日本軍の基地航空部隊の戦力が、意外に弱いことが分ったからである。

そして、もう一つは、B29長距離爆撃機の実用化である。
ここで、有名なB29が登場する。

マリアナ攻略作戦は、こうして決定し、サイパン上陸予定日に、そのB29をもって、いったん、中国基地を経由させ、日本本土、九州を空襲する計画が立てられた。

日本側からすれば、米側の四ヶ月近い攻勢の短縮が、致命傷となったのである。

日本軍は、マーシャル諸島を手中にした米軍が、次ぎにマリアナを狙うということは、予測しないではなかった。
予測はしていたが、大本営海軍部において、今すぐの来攻はないだろうと、見ていた。

敵の主反抗線をニューギニアから、フィリピンの線だと、判断していた。また、サイパン島の、防御に自信を持っていたためだといわれる。

しかし、大本営には、確信がなかった。その裏づけも。
その大きな原因は、メンバーのうち、誰一人として、現場を確認した者が、いなかったのである。

現場を知らぬ者の、戯言。
そういうことは、多々ある。

何処のかの情報を鵜呑みにして、人に情報を与えるという、馬鹿者がいる。
追悼慰霊に出掛ける私は、現地に行く。
現地でなければ、分らないことが、多々ある。

また、支援活動に関しても、現地に出掛けなければ、分らないこと、多々ある。
情報通など、信用しない。

この眼で見る。
それが、最も大切で、確実である。

だから、大本営も、後半になると、机上の空論が多くなるのだ。

5月3日、新連合艦隊長官に、豊田大将が新補されると、大本営海軍部は、「あ」号作戦計画を、指示した。
その内容は、
我が決戦兵力の大部を集中して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を撃滅して敵の反攻企画を挫折
させるというもの。

海軍は、米機動部隊に対し、水上部隊による決戦を挑むことで、マリアナ防衛の務めを果たそうとしたのである。
それが、パラオ近海である。
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2015年07月15日

玉砕46

何故、パラオ近海だったのか・・・

それは、油槽船不足からきていた。
給油のために、始終連行しなければならない油槽船の数が、足りなくなっていて、当時、水上部隊の行動範囲は、約1000浬に制限されていた。

従来の空母部隊である、第三艦隊を発展解消して編制された「第一機動艦隊」の待機地点は、フィリピン南西部の、タウイタウイ島だった。

ここから、1000浬というと、決戦海面は、最大限パラオ近海にならざるを得ない。
この時点で、すでに海軍としては、陸軍と呼応して、マリアナを固守するという、意思を放棄していたともいえるが、海軍としては、その伝統的戦術思想でもある、海上決戦を、今度は、パラオ近海に求めようとしていたのである。

さて、昭和18年8月15日、連合艦隊司令部は、益々顕著になってきた、連合軍の本格的反攻に対処する、第三段作戦を発令したが、その防衛ラインは、あくまで、中西部カロリン諸島、トラック諸島を根拠地とするものである。

その上で、南東方面は、ラバウルを中心とする、基地航空部隊で防備し、マーシャル方面は、機動部隊を中核にする、水上部隊で、適宜、米機動部隊の進攻を迎え撃つという、構想である。

大本営においては、ヨーロッパの戦況、つまり、イタリア降伏と、我が国を改めて、検討した結果、連合艦隊の言う、ラバウルを中心とする戦域および、マーシャル方面の維持を諦め、防御ラインを、マリアナ、カロリン、西ニューギニア、バンダ海の線に、縮小しようとした。

九月末、決定した、絶対国防圏である。

この、大本営の防御ラインの戦備が整うまで、連合艦隊は、極力、南東方面の敵をくい止めようとした。

矢張り、米軍は、北部ソロモンと、ダンピール海峡から、ラバウルに対する攻撃の輪を縮めてきた。

古賀連合艦隊長官は、大本営の言う、絶対国防圏の戦力整備に協力しようと、敵の輸送の遮断を企画する。

そのために、従来マーシャル方面の邀撃に備えていた、第一航空戦隊に所属する、空母機を基地に揚げ、南東方面の戦線に、投入しようとした。

これは、故山本五十六の「い」号作戦に倣ったもので、「ろ」号作戦と呼称された。

この連合艦隊の作戦命令に基づいて、第三艦隊司令長官小澤治三郎中将は、第一航空戦隊の、空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳所属の、二式艦偵六機、ゼロ戦82機、99式艦爆45機、97式艦攻40機、計173機、搭乗員728名を率いて、11月1日、トラックからラバウルに進出した。

その他の空母は、トラックに残る。

同日、古賀長官は、「ろ」号作戦に備えるために、第二艦隊長官栗田健男中将が指揮する、遊撃隊に対しても、ラバウルへの進出を命じた。

10月31日、早朝、ブーゲンヴィル島沖中西部の洋上に、敵輸送船の北上を発見する。
翌日、タナキロ付近に上陸してきたことが分った。
この新たな局面を重視した、古賀長官は、水上部隊まで動員して、敵の上陸作戦を阻止しようとする。

その後、一週間ほど、過激な空戦が展開されることになる。

敵上陸の第一日、延べ120機の攻撃隊が、ラバウル基地を飛び立ち、現場の上空に殺到したが、同日夜から、翌日2日の早朝にかけて、海上においても、戦闘が起こった。
これを、ブーゲンヴィル島沖海戦、という。

それは、第一次から、第三次まで続く。

さて、先に連合艦隊長官の命令を受けた、栗田第二艦隊長官は、11月3日、トラックを発し、5日、ラバウルに到着した。

ラバウルに到着した当日の午前、早くも、敵空母部隊の猛撃にさらされた。
ラバウル基地にあった、ゼロ戦70余機の反撃にも関わらず、五隻の巡洋艦、駆逐艦一隻が、傷つき、他部隊に属する、軽巡阿賀野、駆逐艦一隻も、被害を受けた。

更に、320名以上の戦死傷者が出た。

ラバウルにあった、南東方面艦隊司令官草鹿中将は、先任指揮官であったが、栗田艦隊の損害に驚き、トラックに引き揚げを命じた。

ラバウルも、敵の制空権が伸長しており、艦船を進出させることが、不可能になったのである。

結果的に、「ろ」号作戦発動以来、連日のように、航空機の消耗が続き、特に、11月11日の損害は、甚大であった。
10日間で、三分の一にも満たない数に激減する、損害である。

その上、飛行隊長、飛行分隊長クラスの戦死者が、12名にも達した。

この惨状を知り、古賀長官も、作戦の失敗を認めざるを得ない。
翌日、12日、「ろ」号作戦の終結を宣言したのである。

そして、ラバウルは、孤立した。

米軍は、二飛行場を完成し、堅固な橋頭堡を築いたのである。
11月いっぱいに、タロキナ湾に入った、米軍輸送船は、170隻、輸送物資50トン、陸軍一個師団、及び海兵一個師団と推定され、ラバウルの孤立化は、いよいよ鮮明になった。

「ろ」号作戦の実施は、他の戦局にも、大きな影響を与えた。
マーシャル方面における、水上部隊の兵力を、弱体化させた。
11月末の、米軍のギルバート諸島来襲に対しても、島上所在の各兵力と、一部潜水艦をもって、対抗する以下に、手がなく、善戦むなしく、同諸島の守備隊は、全滅した。
玉砕である。

南東方面に固執する「ろ」号作戦を含めた、この間の、大本営海軍部、連合艦隊の作戦指導は、搭乗員不足に拍車をかけ、陸軍兵力の、マリアナ方面に対する輸送配備を、いちじるしく遅らせるなどの、弊害を生み、後の「あ」号作戦に、大きな影響を与えたのである。

マリアナ沖海戦の前に、ニューギニア戦線を戦った兵士たちの、手記を紹介することにする。
posted by 天山 at 06:19| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月16日

玉砕47

激闘ニューギニア戦記 
星野 一雄
大正3年3月、東京に生まれる。
昭和13年、東京商科大学、現・一橋大学卒業後、会社勤務を経て、14年、習志野騎兵第15連隊に入隊。
幹部候補生として、騎兵学校卒業後、15年、見習士官として、騎兵第41連隊に配属され、華北に渡る。
18年2月、ニューギニアに転進する。
敗戦時は、第41師団参謀部付、陸軍大尉。

今まで説明した、戦場の中に送り込まれたのである。
昭和18年というと、戦況が次第に怪しくなってくる時期である。

華北で第41師団の一員として三年の月日を過ごしてきた私は、同部隊が華北当時の偉効を認められて風雲急を告げる南方ガダルカナル方面へ転進の命を受け、上海、青島地区に集結している時、東京の参謀本部に連絡に向う参謀長三原大佐の随行員として三年ぶりに故国の土を踏んだのだった。しかし東京滞在も束の間、横浜から飛行艇に乗って、サイパン経由、パラオへ向って部隊に追いつくために出発したのである。

戦記の文章は、作家並のものである。
詳しい当時の状況が、伝わってくる。

サイパンを経由して、パラオに、そして、東部ニューギニアに進む。

当時、ニューギニア東部北海岸のサラモア方面では、第51師団が連合軍の反撃に対して敢闘中であった。間もなく第20師団もマダンを指して前進し、私の属する第41師団は、当分の間ウエワク地区に位置して、もっぱら同地区の後方基地としての態勢強化に従事することになった。厳寒の地から、十数日にわたる対潜水艦、対航空機を顧慮しつつ航海の後、酷暑の地で自分らの寝る宿舎もできぬうちから、さっそく飛行場設定作業、道路作業にとりかかったためにマラリア患者が続々と発生し始めた。

矢張り、ここでも、マラリアである。
現在でも、マラリアの危険がある。
私が、慰霊に出掛けた際も、マラリア対策のために、日本から、蚊取り線香を持参した。

やがてガダルカナルやブナ方面の惨敗に引き続き、ラエ、サラモア方面の形勢が日本軍にとってますます不利となってきたので・・・

八月十五日の夜、珍しく四機ないし六機編制と思われるコンソリデーテッドがやってきて、入れ替わり立ち代わりウエクワ地区を爆撃し始めた。・・・
異様な雰囲気に思わずはっとして後ろを振り向いたところ、何と、その飛行機が断末魔の苦しみに落としたのか、ちょうど司令部が被服倉庫として使用している建物に爆弾が命中して、大騒ぎしているのであった。そのうちに、軍医部宿舎付近から獣医部宿舎付近にかけて投下された爆弾のために数名の死傷者が出ていることがわかって肝を冷やした。師団長用として造られていた防空壕の入り口で、参謀部の兵隊が一人死んでいた。その晩は、戦死者の遺骸や負傷者の手当てなどで大わらわであった。

この辺りは、まだ序の口である。
次第に、戦場が地獄と化して行く。

当時マダンにあった軍の後方参謀が直ちにウエワクにやって来て、
「これでウエワクの後方基地としての用途も終わりだ。これに力を得た連合軍は、今後必ず悠々と戦爆連合で当地を襲うであろうから輸送船の当地入港はもはや不可能となるだろう。次ぎのニューギニアの後方基地はホルランジャである」
と、言い、そのホルランジャに向けて飛んでいった。それから数次にわたって輸送船が入港したが、わが方のあらゆる努力にもかかわらず、はるばる長途の危険な航海の後、かろうじて入港したそれらの輸送船のほとんどが、私たちの見ている目の前で、連合軍の航空機の餌食となって沈んでいくのを、どれほど悲痛な思いで見つめたことだろう。

つまり、物資の不足が飛躍的に大きくなる。
戦死より、餓死の方が、多いという戦場である。

九月に入ると同時に米軍は一挙に東北部海岸のフィンシュハーフェン付近に上陸したので、第51師団、第歩兵団司令部等は後方補給路を絶たれ、そのため、再度スタンレー山脈越えの場合と同様なフィニステル山系の悲劇が展開されたのである。

悲劇、続きである。
物量により、負けた戦争である。
それは、戦記のいたるところに、書かれることになる。

第一線で日夜米軍と対峙して頑張っているのに食べるものがない。しかもそれに対する唯一の空中輸送の手段もこんなありさまなのである。これでは駄目だ、てんで戦にはならないと思った。それでもその後の情報記録によれば、ほんの僅かながらも物量投下は実行されたそうだが、日中の行動が危険なので夜間、それも米軍機を避けながらの投下なので、ほとんど友軍の手中には入らなかったとのことであった。

この戦記は、東部ニューギニアを舞台にしている。
戦いは、ニューギニアの東の海岸から、西の海岸に至るのである。
それが、現在の、インドネシア領、イリヤンジャヤまである。

ニューギニアの東、西海岸を舞台にして、日本兵は、悲劇の戦い、そして、玉砕となる。

戦記は、激化する空襲の、マダンへ向う。
しかし、そのマダンへの道のりも、困難になる。

作者は、
ウエクワのポーラム岬の一隅にかたまって駐屯していた。

そして、
しかし、きたるべき時はついにきた。松の岬の攻撃を終えた米軍機は、こちらの高射砲の猛烈な射撃にもかかわらず、悠々と大編隊のまま鵬翼を連ねて私たちの方に向ってきたのである。これは危ない、というので防空壕に入り込んで息をころしていると、「ウァーン、ウァーン」という爆音が近づいて、突然「ドカドカドカ」と地響きがして防空壕が揺れ、中の音はみんな顔中どろだらけになってしまった。爆風による被害を避けるため、近くに爆弾が落ちるたびに耳をふさいで、口を大きく開いて「ハーッ」と息を吐き出す。それでも相当な圧迫感を感じた。

その攻撃の後は、凄まじいものがある。
何も無くなるのである。
残るのは、爆撃の後の、大穴である。

私たちが食料の足しにと余暇をみて開墾した畑も、大根の葉、芋の葉一枚もない砂漠と化している。私たちが数日前までいた部付将校の部屋も至近弾のために、ぶっつぶされている。

毎日が、この繰り返しとなる、戦場の有様である。
よくぞ、正気な精神でいられたものだと、つくづくと思う。
この戦記の記述を、少しばかり、詳しく紹介することにする。
posted by 天山 at 05:53| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月17日

玉砕48

昭和18年は、徐々に、日本軍が劣勢になってゆく。
その大きな原因は、輸送船の沈没である。
つまり、物資が届かないという、状況になるのである。

連日ウエワクとハンサ間で人員、隊貨の輸送に当っていた数隻の海トラも次第に撃沈され、私がハンサにいた時、その最後の一隻が湾内で米軍機の爆撃によって沈没するのを見た。その他にも輸送に大活躍をしていた漁船が、ウリンガンという所に退避中を集中的に襲撃され、大発、小発併せて数十隻が爆沈された。さらにマダン地区では米軍の魚雷艇の活躍が盛んになり、これによる大発、小発の被害も甚大となって、マダンへの前進はますます困難となっていった。

私たちがハンサ滞在中に、たまたまマダンへ緊急に輸送しなければならぬ部隊があるからというので、私たちはその大発から降ろされ、ここからマダンまでを徒歩で行軍しなければならなくなった。背嚢に何日分かの糧食を背負って、東京から沼津までの間を、米軍の航空機と海上からの魚雷艇の攻撃を避けながら、とぼとぼと歩くのである。途中で、激戦を終えてきた第二十師団や第五十一師団の傷病兵が、最小限の荷物を背負って、ぼろぼろの服に素足に近い格好で杖にすがりながら退いて来るのにしばしば出合った。

兵士たちは、まだ若者たちである。
それが、杖をついて・・・
裸足に近い格好・・・
これが、日本兵の格好である。

そういう描写が延々と続く、戦記である。

誰いうとなくこの道路を、東海道ならぬマダン街道と呼ぶようになっていた。昼間は米軍機が道路に沿って低空で飛んでくるので用心しないと歩けない。ことに集落の付近は銃撃ばかりではなく爆撃もするので絶対に避けなければならない。川で水浴中の兵隊が飛行機に見つけられて銃撃でやられることもあった。夜は夜で、なにしろ道路が海岸に沿っているので、岬のかげや、渡河点等にひそんで待っている魚雷艇の突然の猛射にやられることもある。だから真っ暗な晩でも灯火は絶対に禁物なのだ。ある憲兵が一休みして煙草に火をつけようとして、ふいに魚雷艇の射撃にあうという例もあった。

これでは、すでに敗戦である。
戦争ではない。
敗走である。

マダンに到着するまでの、状況も悲惨である。
そして、マダンに到着してからも・・・

そこでは、戦争に参加している。つまり、死ぬと、意識していることだ。
どのように死ぬか・・・
栄養失調、病気で死ぬなら・・・どうせ死ぬなら、と考えている。

マダンにおける生活も決してよくはなかった。宿舎は、じめじめしたジャングルの中に建てられ、米軍機は朝は五時半頃からわがもの顔に頭上を跳梁していて、仕事をしている途中、たびたび防空壕へ入らねばならなかった。したがって炊事も夜間だけに限られ、いつも夕食は夜の八時半か九時頃、それもどろどろの雑炊で、飯盒の蓋にやっと七分目か八分目の量である。朝と昼食は前夜に炊いたご飯に冷たい汁、暑くて湿っぽいせいで昼食の時には少し味が変わってしまうし、分量も少量であり、仕事をしていてももたないので、爆撃の合間を見ては少し離れた所にある椰子林に行って、椰子の果実やその新芽をとってきて食べたものだった。

上記は、まだマシな方である。
そのうちに、それも、出来なくなる。

そのうちに、米軍に後方との連絡を絶たれた第二十、第五十一両師団の者が、山中を迂回して原住民の農園の芋を食べながら、相当数の行き倒れやら、渡河中の溺死者やらを残して、服もぼろぼろになってマダンへ辿りついてきた。これらの者に対しては、米の定量を増やしてその体力の回復をはかったのであるが、芋から米に変わったとたんに、多くの胃腸病患者が発生した。あまりに米のご飯がおいしくて、つい食べ過ぎてしまうのだということであった。

戦死ではなく、行き倒れ、溺死である。
それは、戦場のあらゆる場所で起こったことである。
更に、餓死である。

戦う力の無い兵士を、また、前進させざるを得無いという、日本軍である。

ニューギニアでは、行ったり来たりと、兵士たちは、さ迷うのである。

事実、ホルランジャまでは、わが第十八軍の作戦地域内であるのに、そこには後方部隊のみをおき、その有する三個師団の主力全部をマダン以東に持っていたのである。そうした危惧が大となったので、群は転進の疲れもまだ癒えていない第二十、第五十一の両師団を、マダンで休養せしめる暇もなく、ウエワク地区へと前進せしめることにした。それも、連合軍側は艦船や舟艇などを使用して海路を楽々と前進するのに反して、こちらときたら一部の兵器類等は僅か残存していた少数の大発、小発によって、夜間魚雷艇の脅威にさらされながら運ばれたが、その他は例のごとく、背中に世帯道具一切を背負って、杖をたよりに夜間に歩き、昼間はジャングルに寝るという方法で進むのであるから、これでは問題にならない。
舟艇で僅か二、三日の行程でも、半月から一ヶ月くらいはかかるのである。

本当に、話しにならない状態である。
大本営は、その事実を知っていたのだろうか。

何事も、現実を見ることなく、云々する者たちがいるが・・・
また、現地を見ることなく、云々する者も・・・

激戦地に追悼慰霊に出掛ける私は、その現場を見ている。
そのジャングルの様。
自然の厳しい、状態。

ニューギニアの東部海岸線には、まだ出掛けていないが、南洋の激戦地は、理解出来る。
この、ニューギニアの最後の舞台となった、ビアク島に出掛けてみて、本当に、厳格な自然の様を、目の当たりにした。

兎に角、食べ物が無いと言う悲劇は、言葉に出来ないのである。

その後、この戦記も、また、マダンからウエワクへと戻る。
ニューギニア東部を、行き来する様である。

行けども行けども追いつかず、日は暮れそうになるし、水の便はなし、疲れ果ててどうしようかと思っている時、やっと水のあるところに出た。その時、日も暮れたのでここで野宿しようと座り込んでしまった。当番兵が、この上に灯が見えるようだから行ってみる、といって出ていったが、すぐに戻って来て、司令部がこの上で野宿していると報告したので、やっと這うようにして司令部に辿りついた。だが、三輪少尉は、すでに疲れ果ててしまっていたため、司令部の位置までの距離を歩く元気もなく、ついにそこで野宿してしまった。

久しぶりに会う戦友の何と懐かしいことか。みんなに労わられつつ、夕食をともにして、お互いの苦労を語り合った。彼らの話によると、セピックの湿地帯通過の時は、渡河点は敵機の銃爆撃を受け、やっと渡河してもそれから先も大変な湿地で、時には胸まで浸し、背嚢の中の米が濡れて、カビが生えてしまうし、病人はつぎつぎに倒れ、死体はそのまま湿地に呑まれる、部隊はその上を行軍してくるという悲惨な状況である。渡河点出発時の人員と渡河後における人員の差が何千人というほどだったというのである。

これは、何も、ニューギニアだけに言えることではない。
ビルマの、街道も、白骨街道、靖国街道と言われたほど、兵士の死体が横たわっていたのである。
posted by 天山 at 06:24| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

玉砕49

ある区間、私たちは山脚道を行軍した。その途中にあった小屋という小屋には、ほとんどといっていいほど被服をまとった白骨が側に水筒などをおいて横たわっていた。病気のせいで部隊と一緒に行動ができずに残った者が、そのまま死んでしまったものと思われた。それにしても作戦前の行軍で、患者の死体の収容もできぬようでは、この先いったいどんなことになってしまうのかと思いやられた。

こういう記述は、多々ある。
そして、この白骨化した兵士たちの、遺骨は、今は、どうなっているのか。
放置されたままである。
自然と化している。

帰還していない、兵士の遺骨は、120万柱といわれる。
敗戦後、それらの兵士の死を忘れて生きてきた、日本人である。
だが、そして、それらの兵士の霊位に守られて、日本は、豊かにあるという。
悲惨である。

私が第四十一師団司令部の一員として、ニューギニア中部北岸のアイタペに上陸した米軍を攻撃すべく、アイタペの東方を流れる通称坂東川から隔てること僅かに六キロの戦闘指令所に到着した時には、すでに私たちの所有している米は一升前後であった。しかも次ぎの補給はいつあるのか、また果たして補給があるのかどうかすらわからぬ状態だったのである。

そして、そこでの、総攻撃・・・
その様は、省略する。
何処の戦地でも、総攻撃があった。

日本軍が、バンザイ攻撃という、実に、愚かな攻撃態勢を取ったことを、付け加えておく。それは、ただ、死ぬために、敵の前に、踊り出すような攻撃である。

そして、もう一つは、斬り込み隊である。
それは、特攻に似る。
死ぬことを覚悟で、斬り込むのである。

やっと静まったと思ったら、一人おいて隣に寝ていた井上大尉が、間にいる関中尉に、
「おい、関中尉、やられた」
といい、うーんと唸る声が聞えた。冗談かなと思いながらもふと見ると大尉の背中に血がにじんでいる。これは大変と軍医を呼んだが、暗夜のジャングル内だし、地面がぬかっていて行動が思うにまかせない。井上大尉の当番兵も肩をやられている。
隣の下士官室では、端から寝ていた井上曹長が、うんともすんともいわずに即死していた。衛兵隊長中尉も肩をやられたらしく、腕を吊ってやってきた。経理部の方では腹部をやられた下士官が、苦しさのあまり一晩中「殺してくれ」と叫んでいる。よほど苦しかったと見えて、時どき「うわーっ」と猛獣のような声を張り上げている。
砲撃後の不気味な静けさ、暗夜である。聞えるのはこの下士官の断末魔の叫び声と、時どき苦しそうにうめく負傷者の声だけである。師団長の宿舎の柱も砲弾の破片で飛ばされて、その毛布の中からさえ砲弾の破片が出てきた。

こういう状況化で、兵士たちは、次第に、理性を失って行く。
更には、精神に異常をきたす者も出る。

そんな日々が、永遠に続くように思われてくるのだ。
耐えられないだろう。

いよいよ攻撃開始という日の数日前に、軍司令部が作戦指導のため私たちの戦闘指令所に姿を現した。世が世なれば自動車で乗りつけるところなのに、軍司令官といえども兵隊の軍靴に脚絆、それに尻当てをして杖をついての徒歩である。その際、私たち部付き将校にも土産として「ほまれ」を何本かずつ頂戴した。久しぶりの煙草であった。・・・

しかし、米軍の有様が、次第に変化する。
そこで、作戦変更が続く。
この頃になると、日本軍は、ただ米軍に翻弄されるようになるのだ。

「ポーン、ポーン、ポーン」
と軽い連続発射音が聞えたと思ったら、今度はいきなり、
「ぐわーんー」
と、なぐられたような気がしたと同時に指令所が一大修羅場と化してしまった。砲弾が指令所に命中したのだ。
一部の兵隊は、とても宿舎にいたたまれなかったのであろう。それかといって適当な退避場もなく、やむなく川の中に入って岸辺に身を寄せて小さくなっていた。それらの兵が大声で盛んに参謀長の当番の名を呼んでいるが、返事がない。どうも参謀長宿舎の付近がやられたらしいというので、真っ暗闇の中を軍医が飛んで行った。

暗闇の中で、兵士たちの死体が転がる有様。
これも、まだ序の口である。

戦闘指令所はその日のうちに山の手方面新予定地に向うことになっていたので、参謀長以下の遺品、遺骸の整理を私に命じてから、司令部は早朝に出発してしまった。私は遺骸の親指を参謀長の軍刀で切断して、遺骸を鄭重に埋葬し、遺品の軍刀や拳銃、時計等をその親指とともに持って戦闘指令所の後を追った。

指を斬り、埋葬する。
まだ余裕がある。

いよいよ渡河点まで来たので、荷物をおき、伝令と警戒兵二名を連れて渡河しようとしたら、上空を敵の観測機がのろのろと飛んで見張っているので、そのままそこで昼食を食べながらそれが飛び去るのを待った。やっと飛び去ったので急いで対岸に渡ったところ、そこには膨れあがって、うじ虫が一杯たかっている屍が数体悪臭を放って倒れていた。渡河するところを観測機に見つけられ砲弾でやられたものであろう。

そういう風景に、何の感情も湧かなくなるという、戦場である。
兵士の死体は、当たり前の光景になってゆく。

明らかに、戦況が不利でも、最初は、攻撃という大義があった。
しかし、そのうちに、退避、敗走という事態になってゆく。

その、退避、敗走が、ジャングルの中で、次第に、何処を何処へ向うのかも、分らなくなる。
ただ、敵の攻撃に、逃げ惑うだけの、兵隊になる。

戦争の状況を俯瞰することと、このような戦記を読むことと・・・
併せて行うことで、戦争の形相に近づこうとするが・・・

更に、その現場に佇む。
しかし、体験することは、出来ない。
それらをトータルにして、経験するしかない。

個人の戦記を読むと、玉砕、という言葉が、実に、虚しく響くのである。
posted by 天山 at 06:01| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月28日

玉砕50

撤退する日本軍である。
敗走とも言う。

ついに米軍陣地を陥落することはできなかったが、補給はまったく絶え、糧食も尽きたので今は撤退のやむなきにいたった。まず第二十師団が撤退し、続いて私たち四十一師団の戦闘部隊も矛をおさめて坂東川を渡って帰ってきた。

米軍の砲撃はあいも変らず盛んである。ところが戦闘指令所は、なかなか撤退しそうにないのだ。手持ちの米はなくなる。そのうち指令所近くに米軍の将兵斥候らしいものが出没し、自動小銃の音が間近に聞えたりする。戦闘指令所は自衛力も乏しいからこうなると心細い限りである。ほとんど大部分の部隊が撤退し去ったあとに、いよいよ戦闘指令所も思い出深いこの坂東川の地も引きあげることになった。

昭和19年8月3日から、5日にかけてのことである。
つまり、その頃は、日本の敗戦が色濃くなった時期である。

前進してきた往路にはすでに米軍が進出してきているので、前日衛兵の偵察によって発見された山伝いの新道を行く。司令部とっておきの乾パンが各人に一袋ずつ配給された。飢えていたので多くの者は一度に食べてしまったようだが、私は半分だけにして、あとの残りはポケットに入れて歩きながら食べることにした。だがこの半袋の威力は大したものであった。めきめき元気が出て、背嚢を背負い、杖をつきながらも谷の裏手の山を登り始めた。

栄養失調の上に急に急坂を登ったせいか息がきれて、心臓の鼓動が激しくて、まるで牛のようにそろりそろりとしか歩けない。誰しもがそうだとみえて、行軍は全般に非常にゆっくりなので助かった。それにあたかも私たちの行動を知ったかのように、例の観測機が私たちの頭上から行く手を超低空でゆるゆる飛び回っている。崖をよじ登るのに、うっかり木に手をかけてゆらゆらゆすぶったりすると危ない。大声も出せない。真昼間なのに、これではまるで夜逃げである。

最後は、食べ物を探す日々になって行くのである。
もう、戦争ではない。
生きるために、食べ物を探す生活である。

敵の目をくらましつつ、食べ物を手に入れるために、兵士たちは、翻弄される。

そして、敵の輸送機が、落とす、物資を求めるようになるという。

そのうち、独立工兵隊で米軍機の投下糧食を捕獲したというので、私たちが懇意にしていた井上副官に連絡して、二つばかりもらってきた。上等なビスケットやチョコレート、あんずの菓子に固型コーヒー、砂糖、塩、コーンドポークの缶詰など、みんながかねてから夢に見ていたものばかりである。チーズなどもあった。食うや食わずの日本軍と豊富な糧食を維持する彼らとを比較すると、もはやこれでは戦争にならないと思った。・・・

敵の食糧を見て、驚き、そして、自分たちの状況に、唖然とする様である。
確かに、これでは、戦争にならない。

ヤムカルに向う行軍の途中、珍しく脂肪分に富んだ米軍の糧食を食べたせいか、二度ほど猛烈な下痢をしてしまって、腹の中がすっかり空になってしまった。どうにかこうにかヤムカルの司令部に到着したところ、坂東川の戦闘指令所までは行かずにそこに留まっていた電報班長の沓掛中尉はじめ、山本中尉や鷲見少尉らが歓迎してくれた。私たちが出発してから後、同地区でも米軍が上陸したとの情報が入って大騒ぎしたそうである。・・・

そして、それからは、現地自給の有様。
更に、山々を転々とする、有様である。

それからの私たちは、いよいよ山中に分け入って現地自給の生活を開始する準備を始めた。今後何ヶ月、いや何年になるか、とにかく太平洋上の作戦がわが軍に有利に展開して、輸送船が迎えに来てくれるまで、どこからも何物も補給なしで頑張らねばならないのだ。もう今となっては、こちらから積極的に攻撃をしかけて活路を開くということもできないのである。

戦いにならない、戦争というもの。
餓死との、戦いである。

だが、内地、国内の食糧事情も、大変なことになっていた。
配給制度である。
戦争が長引くにつけて、内地の食糧も乏しくなった。

私たちは、最後になるであろうと思われる五合ほどの米と、若干量の粉醤油や粉味噌、岩塩を受け取って、直ちにサゴ椰子のある地区を求めて出発した。通称花川という川の流域に若干のサゴ椰子があるというので、ひとまずそこを目指すことになった。・・・

食べ物を求めての、行軍である。

サクサクというのは、サゴやしの幹の皮をはぎとり、その中の髄を取り出して、これを大根おろしをするように、空缶に穴をあけたものでこすって粉にし、それに水をかけながら捏ねて、蚊帳の切れ端みたいなもので漉し沈殿させる。すると澱粉状のものがたまる。その澱粉状のものを種々の方法で料理して食べるのだ。

夕食は、いつも日が暮れて飛行機の活躍がなくなるのを待ってから食べる。飯盒の中に草の葉や、木の根を入れて水で炊き、それに約二合の澱粉を入れてかき混ぜるのである。私たちはこれを「かき澱粉」とか「どろどろ」とよんでいた。砂糖でも入っているのならともかく、粉醤油か岩塩をなめながら食べるのだ。まあ六分目から七分目も食べると、いくら空腹でもうんざりしてしまう。


だが、次第に衰弱する兵士たち。
中には、死ぬ者もいる。

蛋白源が欲しくてたまらず、トカゲや蛙を追い回すのだが、これがなかなか摑まえられない。朝露に濡れながら、バッタやイナゴを捕まえては今日は蛋白質を摂ったなどと自分を慰めるほかなかった。

この頃の兵隊の仕事とは、食べ物を探すことだった。
そして、敵の攻撃から、逃れること。

昭和19年の暮れ、私たちの第四十一師団司令部はロアイテという集落付近に位置していた。この付近は比較的物資が豊かであった。その頃は、アイタペやホルランジャの米軍に豪州軍が加わり、豪州軍は、山中に逃げ込んだ日本軍に対して執拗に攻撃してきて、最前線に出ていた歩兵第二百三十八連隊がしだいに圧迫されてきた。

昭和19年とは、敗戦の前の年である。
もう、戦争とは、言えない事態である。
日本軍は、至る所の戦地で、敗走劇を繰り広げた。

そして、死者は、すべて玉砕であった。
posted by 天山 at 06:22| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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