2008年09月01日

ベトナムへ 1

今回の旅を、書き始めるに当たって、非常に良い問題提起を、受けた。

それは、バンコクに出た、5日の日曜日、チェンマイから、慧燈財団の小西さんが、わざわざやって来られて、色々と、お話を聞いた中にあった。

チェンマイで、日本のボランティア団体、NPO関係、そして、地元の、ボランティア団体の人々が、集い、ディスカッションをしたという。
その時、タイ側の人から、こんなことを、日本側の人々が、質問されたという。

日本人の、ボランティア団体の、主旨は、何ですか。
欧米のボランティアの人々の、目的は、キリスト教の布教であると、解りますが、日本の人の、目的が、解らない。
日本国内でも、助けを、必要としている人がいるでしょう。それなのに、何故、タイに来て、ボランティア活動をしているのですか。
そこには、どんな目的があるのですか。
タイを、何か別の目的で、支配したいのかと、考えてしまいます。と、言ったという。

日本国内でも、何にもやらない者が、それに似たような、海外ボランティアをする前に、日本国内の、助けを必要としている人のために、云々という人がいる。

これについて、論じていると、終わらないエッセイになるので、ある程度の、結論的、見解を書く。

ボランティアをするのに、どこの場所などに、拘る必要はない。
国内で、する人もあれば、海外でする人もいる。
それは、どちらでも、いい。

その人の、体質や、性格などによるものだと、思われる。

国内で、しないで、海外でするとは、云々という言う者、それでは、何をしているのかといえば、何もしてないのである。
こういうのは、言葉遊びの何物でもない。

一つ、私の例を、上げると、衣服支援をしているが、それは、すべて、一度着たものである。
一度、人の手を通した衣服を貰うということに、抵抗ある、日本人は、多い。
中には、貧しくても、人様の着たものなど、着られないという人もいるだろう。そして、プライドがある。
幼児、子供の場合も、その親が、受け取るとは、限らないのである。

更にである。
私の、衣服支援は、実に、支援は、困難であり、至難であると言う。
どんなに、貧しいといわれる人にも、生きる尊厳のブライドというものがある。

投げ捨てるようにして、支援をすれば、受け取るどころか、怨みに、変わるだろう。

私は、日本から、衣服を持ってきました。
もし、必要であれば、差し上げたいと思います。
と、必ず言う。

更に、ある年齢の人々には、中学生、高校生程度の人には、いずれ、日本は、あなたたちに、助けてもらうことがあります。そのために、友達になりたいと、思います。
よろしければ、必要なものを、差し上げます。

ラオスで、支援した、スタッフは、一度、二三枚の、衣服を、持参して、村人のところに行き、このようなものを、持ってきましたが、必要ですかと、尋ねて、支援している。

差し上げることは、至難の業なのである。

更にである。
私は、対面での、支援をしている。
一人一人との、語り合いである。
観念の、語り合いではない。

世界の平和について、いくら、語り合っても、平和は、訪れない。しかし、そうして、世界の平和について、語り続ける、アホが、多い。

さて、もう一つ、実に、ゆゆしき、問題がある。
法人として、活動しているように、見せかけて、実は、単なる、金集めである。
それらは、現地の人の見抜かれている、はずである。
しかし、日本では、見抜けない。

タイで、優雅に、暮らすために、ボランティアに似たことを、行い、日本での支援金を、集めるという、面々である。

つまり、それは、商売なのである。
そのように、ある、団体もある。

組織が大きくなれば、なるほど、使途不明金が、多くなる。

結論は、私は、私個人による、支援をするということである。
NPOなどの、法人にしない。
責任も、私一人に、帰結する。

ちなみに、私は、日本国内でも、支援活動をすることにした。
沖縄は、ホームレス天国である。
温かいからだ。
それでは、沖縄には、テラの会の、根幹である、戦争犠牲者の追悼慰霊を、するために、出掛けるので、そこで、衣服支援をするというものである。

私の、活動の根幹は、あくまでも、戦争犠牲者の追悼慰霊である。
日本人だけではない。
日本が、攻撃したり、また、日本軍のために、働いた人々の、追悼慰霊である。

この、追悼慰霊がなければ、私の支援活動も無い。
意味を成さない。
追悼慰霊と、いう、目に見えない行為を、支援という一つの、目に見える形にしたのである。

そして、衣服とは、現在只今、日本では、フリーマーケットや、リサイクルバザーでも、衣服の大半は、売れずに、処理するために、金がかかると、聞いている。
この、豊かな日本では、良質の衣類が、捨てられている。

私も、衣類の捨てる日に、少しばかり、近所を歩いてみた。
すると、そこに、捨てられた物は、すべて、着られるものである。
驚いた。
衣服も、使い捨てなのかと、思えた。

それを、拾い、洗濯をして、干してみると、新しいものと、変わらないのである。

また、今回、ベトナムの人と、お近づきになれた、多くの縫ぐるみは、すべて、私が、拾ったものである。

ゴミ袋に、一つ分である。
何の、問題もないものだった。
その、一つ一つを、点検して、私が、袋に詰めたのである。

貧乏人の、私が、志して、支援をするのは、捨てられる物なのである。
それを、貰って頂くのである。

支援は、至難の業であり、支援は、実に困難な行為なのである。

もし、日本人に、拾った物を、上げたら、何と言われるか。

日本には、物に、心が宿るという、考え方がある。
私は、一度捨てられた物に、心を込めて、差し上げる、という、行為を、アジアの国で、行っているのである。

そこには、何故、日本で、云々という、議論の次元ではないという、こと。

私の、活動は、実に、多岐に渡るテーマを、見いだす。

追悼慰霊から、支援に、至り、更に、それぞれの国の、福祉政策の在り方を、見るもの。
日本が、立派な福祉国家であることが、解る。
勿論、上を見れば、キリが無い。

さて、もう一つは、トランスジェンダーの問題である。
この頃、NHKが、それらの問題を、多く取り上げるようになったという。
その、真意はよく解らないが、今の日本は、テレビの全体主義が、闊歩しているから、一応は、良い事だと、言っておく。

タイの、歓楽地パタヤでは、トランスジェンダーによる、トランスジェンダーのための、福祉施設がある。
公的機関ではなく、アメリカと、タイの有志による、寄付によって、行われている。
今回は、そこで、長い時間、多くの情報を得たのである。

更に、ゲイによる、ゲイのための、施設もある。
次は、そこに、行く計画である。

明治維新は、多くの国の有様を、見聞したことにより、開国と、大政奉還という、大事業を行った。
外の国を、見なければ、我が国の有様を、判断するには、足りないのである。

後進国には、日本では失われた良き文化を見る。
それを、保護しつつ、新しい時代や、世紀に生きる、生き方を、模索する、人々がいる。

私は、それを、30円から、50円程度で、食事が出来る、屋台で食べつつ、考えている。

そんな場所に、そんな安いゲストハウスがあったの。
その辺りに、立つ、売春婦や、体を売る、レディーボーイに、尋ねると、親切に、教えてくれる。

巷の情報は、彼女たち、彼らに、適わない。

バンコク、スクンビットの一角の、中小路で、一人の女性から、日本語で、声を掛けられた。
傍に、座る、物乞いのおばさんがいる。
この、おばさんは、可愛そうな人、20バーツ上げてください。

どうして、日本語ができるの。
学校で、習ったの。
あなたは、何をしているの。
会社が、潰れて、今は、悪いことをしているの。

悪いこととは、売春である。
私は、食べるためにすることで、悪いことは、一つも無いと言った。
そうした出会いが、私の活動の根幹である。

ベトナムへの、長い旅がはじまる。
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2008年09月02日

ベトナムへ 2

1954年から、1975年の十年間の、ベトナムでの、死者数は、米軍が、58000名強、ベトナム側は、300万人である。

名高いベトナム戦争の、犠牲者である。

アメリカ人が、一人死ぬと、ベトナム人が、50人死ぬのである。しかし、ベトナム人の犠牲者は、民間人も含むので、更に多いはずである。

ベトナム戦争の大義は、ドミノ理論であった。
つまり、南ベトナムが、共産主義の手に落ちると、タイ、インドネシア、フィリピン、日本などの、アジア諸国が、ドミノゲームのように、次々に倒される危険がある、というものである。

1954年、ディエンビエンフーで、フランスが大敗して、北が勝利した時、アメリカ政府は、アメリカ在住カトリック教徒の、ゴー・ディン・ジエムを担ぎ出し、北緯17度線を、軍事境界線として、ベトナム共和国を急遽設立し、ジエムを大統領に据えた。

そして、南と、北を、ジュネーブ協定で、分離を認めさせたのである。

それはまた、北の、急進を好まない、中国の考えとも、一致した。

一方、ホーチミンは、この戦争を、植民地から、ベトナム民族を解放する、民族解放の戦いと、意味づけた。

さて、この、ホーチミンとは、今のホーチミン市のことである。
つまり、人の名を冠して、名づけられた町である。
昔は、サイゴンと、言った。
サイゴン陥落とは、ベトナム戦争終結の言葉とされた。

私は、ホーチミンに出掛けた。
現在のベトナムを、理解する上で、ホーチミンについてを、語ることが、必至である。

ホーチミンは、1890年5月19日に、ゲアン省ナムダン県キムリエン社、つまり、キムリエン村で、生まれた。
本名は、グエン・シン・クンである。

父は、グエン・シン・サックといい、彼は、第三子である。
父のサックは、村で寺子屋の先生をしつつ、勉強を続けて、1901年に、科挙に合格する。
科挙とは、官使東洋試験である。

だが、サックは、フランスが祖国を植民地にしたことを、憤慨する、愛国者であった。
それゆえ、フランス保護の下にある、官使の生活に馴染むことが出来ず、結果、アルコール依存症が原因で、トラブルを起こし、失職する。

クンは、父親の窮状を助けるために、フランスに渡り、定期航路の雑用係りに就いて、ベトナムと、フランスを往復しつつ、父親に仕送りを続けた。

そして、父の愛国の精神を受け継ぎ、フランスにて、祖国の独立を要求する、運動に参加するようになる。

1919年、ベルサイユ講和会議にて、アメリカの、ウッドロー・ウイルソン大統領に直訴しようと、ベトナム人の祖国解放のための八項目要求、という請願書を作成した。
その時、ベトナムの代表として、ホーチミンが使用した名前が、グエン・アイ・クォックというもの。クォックとは、愛国者という意味である。

グエンという苗字は、ベトナムで、一番多い、苗字であり、ベトナム人の愛国者ということで、たちまち、ベトナムの人々の間に、知れ渡った。

そして、政治的活動をしているうちに、左化、左傾してゆくのである。
更に、フランス社会党の創設メンバーとなるが、フランス人の、植民地の惨状に対する理解の無さに、憤ることになる。
その時、レーニンの、植民地問題に関する理解ある論文を読み、急速に、共産主義に、親近感を抱くようになる。

更に、フランス共産党の創設に参加するということになり、その後、コミンテルンのメンバーとして、モスクワに移住するのである。

それから、ベトナム解放のために、本部を説得して、活動の中心を、中国に移すことになる。

ここで、問題は、民族解放を求める、愛国の精神が、それを、理解するという共産主義というものに、曳かれたのであり、共産主義に曳かれたのではないということである。
ここのところを、理解しないと、ホーチミンの主義を、理解出来ない。
共産主義が、主ではない。
民族解放という、愛国精神が、主体なのである。

色々な、研究家が、ホーチミンの思想について語るが、私は、ここのところで、明確にしておきたいと、思う。

方法の問題である。
主義の問題ではない。

自主独立、自主統治である。
それは、後でも語るが、ベトナムの今後の、民主化のために、必要なことである。
現政権である、ベトナム共産党の、共産共和国ではなく、民主共和国にならなければ、発展は無いのである。

1941年、ホーチミンは、30年ぶりに、祖国に戻り、祖国解放のために、指導力を発揮する。

1945年8月から9月にかけての、権力の真空の間に、一気に、独立を勝ち取るのである。

9月2日に、ベトナム民主共和国の独立を、一方的に宣言し、初代国家主席に就いた。

翌年、46年から始まった、第一次インドシナ戦争を指揮する。
54年、先に書いた通り、フランスに致命的な敗北を与えて、戦争に勝利する。

だが、大国が指導権を握る、ジュネーブ会議にて、北緯17度線を軍事境界線とされ、ホーチミンも、従わざるを得なかったのである。

その、カラクリは、東西冷戦が始まり、ベトナムも、その最前線の一つとなっていたからである。

そして、間も無く、ベトナム戦争が勃発する。
ホーチミンは、70歳を超えていたが、軍事問題では、最高指導者として、国民を鼓舞し続けた。

1969年9月2日に、亡くなった。

一旦、ホーチミンについては、置いて、おく。その思想については、実に謎に包まれているのである。


初めての、共産国に入国するという気持ちは、何とも言えないものだった。
事前に、ホーチミンには、公安や、私服警察などが、至るところにいて、見張りをしていると、聞いていた。
更に、路上では、喧嘩などしては、公安に捕まるということも。
また、観光客のための、警察も、緑の制服で、至る所にいるのである。

私が感じたのは、タクシーなどを頼む時も、私服警官のように人に頼むと、ボラれないで済むというものだった。
その人が、警官が否かは、確認できないが・・・

観光客のための、というより、それも、観光客を見張るというものと、考えて良いと思う。

道端で、一人の幼児を抱えて、宝くじを売る、女性に、縫ぐるみを差し上げた時、歩いていた一人の男が、俺にも、と言い、近づいてきたと、すると、至る所から、人が駆けつけて、縫ぐるみを下さいと言う。
その時、矢張り、人が集うので、公安、警察の人が、近づいて来たと、スタッフが言う。

すべての、縫いぐるみが無くなり、人も去って、安堵したが、集会が、禁止されているとのこと。
着物姿の日本人が、人を集めて、何をしているのか、ということになるのである。

ちなみに、最も、貧しい人は、宝くじや、ガム、ティッシュを売り歩く。
日本では、道端で、配られるティッシュである。

一度、私は、夜の食事をしてい時、物売りが、しつこくて、大声を上げて、怒った。
すると、あたり一面が、静まり返った。
皆、私を注目した。
これは、ヤバイと思った。

騒然とした雰囲気は、他の国では、見られないものだった。
私の、怒りまくりは、共産国では、ご法度である。

元々、声が大きい私だが、ホーチミンでは、怒るのを、抑えると、決めた。

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2008年09月03日

ベトナムへ 3

成田から、ベトナム航空に乗り、ホーチミンに到着したのが、現地時間で、午後二時半である。
日本時間では、午後12時半。
二時間、早い。タイと、同じである。

バンコクに向かう人が、このベトナム航空を使う。

私は、ホーチミン三泊の予定である。

速やかに、入国審査を終えて、ベトナム、ホーチミンに出た。
ベトナム空港の前から、タクシーに乗る。

荷物を持って出ると、必ず、タクシー、タクシーと、近寄って来る者あり。
ハウマッチ。
15ドル。

ちょっと、待って、と、向こうにいる、お姉さんのいる、タクシー乗り場に行く。
ハウマッチ。
8ドル。

何で、15ドルと、8ドルなの・・・
勿論、8ドルの方に乗る。

ベトナムでは、ドルと、ベトナムのドンが、両方使えるのである。
これがまた、私の頭を、こんがらかせるのである。
一ドル、15000ドンである。
つまり、日本円の百円が、約一万五千ドンなのである。

これで、私は、老化防止をする。

タクシーに乗り、知った風に、行き先を告げる。
初めての、場所である。
一泊、22ドルの部屋のある、ホテルの名を告げる。

22ドルは、約2200円である。
そのホテルは、無かった。というより、名が変わっていた。
ある、旅行雑誌に、出ていたホテルである。
しかし、何とか、そのホテルであるということで、探し当てた。

兎に角、二人で、泊まるダブルベッドの部屋が、空いていた。

東南アジアの国は、一部屋の料金である。
一人につきの、料金ではない。
一つの部屋についての、料金である。

日本の、ビジネスホテルの、シングルルームの広さの部屋だった。しかし、設備は、整っていた。
綺麗な部屋である。

しかし、後の、二泊は、他のホテルにしようと、思った。
もっと、安いホテルがあると。
その付近は、多くのホテル、ゲストハウスがある。

夕方の、ホーチミンである。

まず、用意するものは、水。
水を買うために、荷物を置いて、外に出る。
ホテルの前に、コンビ二がある。

ベトナム、ドンでの、買い物である。
空港で、一万円をドンに替えた。
約、150万ドン。

水は、五千ドンから、一万ドンまである。
一番安い、五千ドンの水を、二本買う。
そして、周囲の状況を見るのである。

コーヒーを飲むために、一件の店に入る。
ベトナムは、コーヒーの国であると、知ることになる。
ブラックコーヒー。
驚いた。
出てきたコーヒーの、味は、抹茶のようなもの。コーヒーのエキスのようなものである。
初めて、コーヒーのそのままを、味わった。
コーヒー本来の、甘さである。

非常に濃い。その濃い加減が、コーヒー本来の、甘さを引き出している。

私は、お湯を、貰った。お湯で、割るのである。
到底、飲めないのである。
濃すぎる。

ベトナムは、コーヒーの産地で、有名である。

茶の湯を、やっていたので、茶本来の味というものを、知っていたことが、幸いした。
苦味にある、甘味である。
そして、その、香り。
ベトナムでは、それが、当たり前のコーヒーなのである。

支払いの時、二人分で、三万ドン。約、200円である。

支払いの後で、私は、いつも、ドルに換算し、そして、日本円に換算した。ボケない、頭の体操である。

さて、ベトナムで、最初に食べたのが、フォーである。
米の麺による、スープ麺。
薄味で、実に美味しく感じた。
何も、味付けをせずに食べて、私は、十分だった。

最初は、レストランのような店で、食べたが、それからは、屋台、路上で店を出している所で、食べた。
一万ドン程度、つまり、75セント、約75円である。

朝の食事は、フランスパンと、玉子焼きで、二人で、八千ドン。
二人で、百円もしない、朝食である。

フランスパンは、どこにでも売っていた。
フランスの植民地時代に、ベトナムの食生活が、大きく影響を受けたのである。
一本の長さが、日本で売られているものより、半分である。
もう少し食べたいと、思う量だ。

泊まったホテルは、9月23日公園の近くで、有名なベンタイン市場にも、歩いて10分の場所で、ホーチミンの中心部である。
旅行誌では、フアングーラオ通り付近となる。

そこは、ホテルや、ゲストハウスが、混在している。
三泊の予定だったので、翌日からは、もっと、安いホテルを探し、二泊することにした。

ただ、小路を歩いて、とんでもない場所にも、ホテルがあることを、知った。
庶民の、買い物通りのような場所に、突然、ホテルがあるというもの。

細い路地に、所狭しと、肉や野菜、生活必需品が、売られていた。
観光客は、決して行かない小路を、私と、スタッフは、歩いた。

勿論、着物を着ているから、日本人と、すぐに解る。
ベトナム人は、笑わないと、知った。
特に、戦争体験者の世代は、ニコリともしない。
その、彼らに、微笑みをもたらしたものが、縫ぐるみであったという、驚き。

同じ路を通ると、私に手を上げたり、微笑む人が、現れた。
インターネットカェフに入ると、お姉さんが、何と、私の持ってきた、縫ぐるみを、二つ持ち上げて、私を歓迎した。
小さな、二つの縫ぐるみを、私の知らないうちに、持っていた。

一変に、無くなった時、彼女も、手を出していたのだろう。

それから、物売りのおばさんたちが、また、親切にしてくれるのである。

ホーチミンの人は、何かあると、必ず、二三人が、寄って来るようになった。
言葉は、解らないが、色々と説明してくれるのである。

ベトナムには、二度と行きたくないという人もいる。その気持ちも、解る。笑わないベトナム人は、怖いのである。
しかし、それも、打ち解けると、変わる。
ただし、二三日の旅では、それ以上を知ることはない。
だが、人間である。
タクシー運転手が言う。
良い人もいる。悪い人もいる。
どこも、同じである。

縫ぐるみと、衣服を街中で、配ったことで、次に行く時は、私を知る人がいるというのが、楽しみである。

ある小路の前で、衣服の大きなバッグを持った私に、やーというように、声を掛けて、案内する、屋台のおばさんがいた。
案内した先は、小路の中にある、小さなホテルである。
私が、ホテルを探していると、思ったようだ。
そんな、親切は、考えられないという、ベトナム人である。だが、矢張り、人情は、健全にある。

私の活動を見ていた、屋台のおばさんたちは、実に親切にしてくれた。

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2008年09月04日

ベトナムへ 4

私は、ホテルの部屋で、ゆっくりと、眠れるタイプである。
よく、人には、不思議がられるが、ホテルでは、何も無いからである。
電話も無い。今は、携帯があるが・・・海外では、無用である。
本も読まない、書くことも無い。要するに、眠ることしかない、空間になるのだ。

ゆっくり寝るためには、ホテルが一番であると言うことは、旅寝が良いということである。

最初の日は、夜九時に寝た。
ただ、いつもより早いため、深夜二時頃に目が覚めて、しょうがなく、缶ビールを飲んだ。
それから、また、寝て、朝五時過ぎに、目覚める。

ホーチミンの朝は、早く、五時過ぎから、人が動き出している。
朝の屋台の、準備である。
そして、お客は、六時を過ぎると、やってくるという。

七時頃に行くと、すでに、混雑している状態である。

まず私は、ホテル並びの、レストランに入り、コーヒーを注文した。
濃いコーヒーをお湯で割り、砂糖を入れず、ブラックで、味わいを楽しむ。しかし、慣れていないせいか、胃に負担が大きい。

屋台の朝食は、明日からにしようと、そこで、サンドイッチを頼む。
屋台の値段に比べると、五倍程、高いのである。

ある程度のレストランだと、英語が出来るウエイトレスがいる。
そこで、少しばかり、色々なことを尋ねた。

日本から、少し衣服を持ってきている。必要な人はいるかと、尋ねると、沢山いると言う。
どの辺りに持って行けばいいかと、また、尋く。
地図で、私たちの泊まるホテルから近い、大きな通りの辺りを指し、ここに沢山の人が住んでいて、衣服の必要な人は、いるという。

こんな、街中でも、と、思った。
もっと、郊外になるのではないかと、思えたが、違った。
本当は、車をチャーターして、町を抜けて、村村に、行くつもりだったが、ホーチミンの街中で、衣服を渡せるとは、と、ウーンと、考えた。

しかし、街中を歩けば、貧しい人こそ、街中にいて、暮らしていると、知る。

町を抜けて、村に向かえば、ほとんどは、農業をしている人々である。
後で、ベトナムの、経済政策について書くが、農業に従事する人々は、今、大変な状況にある。

兎も角、それでは、ホーチミンの街中を歩いてみることにした。

その前に、チェックアウトが、正午なので、二泊するホテルを、探すべく、付近を歩くことにした。

ホテルの状態を知りたいということもあり、手当たり次第に、アタックした。
そして、それぞれの部屋を見せて貰う。

ホテル料金は、すべて、ドルである。
20ドル前後が、相場である。
30ドルも出すと、高級感がある。
つまり、三千円程度で、良い部屋に泊まれるのである。
ただし、高級ホテルは、200ドルを平気で、超える。二万円である。まあ、日本では、普通の料金である。

私には、興味の無いホテルである。

別に、貧乏旅行を、気取る訳ではないが、安くて、良いホテル、ゲストハウスに泊まるということが、楽しいのである。
高級ホテルにはない、現地の人との、交流がある。
それは、追々書いてゆく。

一時間以上も、回ってみた。それも、一丁角である。
随分とホテルがある。

その中で、一泊、15ドルの部屋があるという、ホテルに着いた。
早速、部屋を見せてもらうが、その前に、受付の女の子が、一人用ですと、言った。
一人用なら駄目かと、二人で話していると、女の子が、一人用でも、二人で、泊まれますと、言う。

変な話であるが、日本のように、一人一泊、幾らではない。部屋、一つについて、幾らなのである。
だから、三人で、泊まっても、15ドルなのである。

さて、私たちは、部屋に案内された。
ところが、一階から、二階、そして、三階と上がるが、階段が長いのである。
えー、まだ、上るの。

その部屋は、四階にあった。
ホテルは、五階建てである。

私は、息を切らせていた。

広くて良い部屋である。
古いが、設備も整っている。つまり、ホットシャワーであり、エアコンもあり。
大きな、ベッドが、どんと、置いてある。
天井が高く、一面窓で、開放感に溢れる。

天井が高いということは、階段が長いということ。
いちいち、あの、長い階段を上るということになる。
しかし、15ドルは、安い。

いい、いい、とは、言いつつ、スタッフが、私に、大丈夫と、尋く。
階段のことである。
エレベーターが無いということが、致命的である。
しかし、もし、若ければ・・・勿論、私も若いが、即決まりである。

フロントに、戻り、後で来ると言って、一度、ホテルに戻ることにする。

その間に、二件のホテルを見たが、矢張り、四階のホテルの部屋が、一番安い。

面白いのは、日本人だと知ると、まず、一番高い部屋を紹介される。
それで、決まりだと、相手が、思いこむ。
金持ちに見られるのである。

22ドルの、小奇麗なホテルの部屋に戻り、さて、どうすると、二人で、相談する。
問題は、ただ、階段である。
ただ、それだけでである。
それなら、問題はないということになった。
最後の私の、答えは、運動になる、という結論である。

二泊で、30ドルは、安い。
三千円である。
あの、ホテルに決めた。

早速、荷造りをして、チェックアウトの準備である。

支援物資を運んで、あの四階を上るというのが、難だったが、閃いた。フロントに、支援の衣服の二つのバッグを、預けるのだ。
ああ、これは良いアイディアだった。

最初のホテルに、泊まり続けると、余計に、12ドルかかる。その金額は、それからの、すべての食費分である。

私は、荷物を持って、意気揚々と、次のホテルに向かった。
歩いて、五分もかからない、場所である。

ホテル探しのお蔭で、その辺りの地図が頭に入った。

午前十一時前でも、部屋が空いていれば、チェックイン出来るのである。

中小路を、見下ろせる、大きな窓から、辺りの風景を、眺めて、満足した。
バスタオル二枚のみの、シンプルな備品。
歯ブラシも、二本セットがあった。シャンプー、リンスの、使いきりのもの、それぞれ、一つ。
これで、十分である。

昔、私は、日本で言うところの、高級ホテルに、泊まった経験は多いが、何故か、今の方が楽しいのである。
何故か。
根っからの貧乏好きなのであろうと、思う。
それで、今は、イメージが貧乏なので、貧乏なのである。
だが、それを、楽しめるというのは、傲慢であることを、知っている。
ホーチミンの人に、私は貧乏ですなど言えば、軽蔑されるだろう。

貧乏人が、ベトナムになど、来れるものではない。
意識を認識し、それを判断するということは、実に、難しいものである。
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2008年09月05日

ベトナムへ 5

安くて、快適な、少し階段がしんどいホテルに、落ち着いた。

何度も、階段の上がり降りをしていると、次第に、慣れてきたが、普段あまり、歩くことの無い生活を、痛感した。
しかし、私は、運動やスポーツは、しない。絶対に、しない。
あれ程、体に悪いものは、無いからである。

普通の生活をしていれば、人間の体は、自然に、健康体になるようになっている。
要するに、何事も、適度にしていれば、いいのだ。
食べ過ぎ、呑み過ぎ、やり過ぎが、一番悪いのである。

その反対の、節制というものも、度を越すと、体に悪い。

そんなことは、普通に考えていれば、解ることである。
更に、生きていることが、一番健康に悪い。
死ねば、すべて解決する。

二年続けて、胃痙攣のような痛みに、襲われた。
三年目に、検査をして、胃潰瘍であると診断され、更に、胃カメラを飲んで、検査をすると、ピロリ菌によるものとのことで、ピロリ菌除去の薬と、一年程、薬を飲み続けて、完治した。
しかし、私は、ガンであることを、望んだ。
ガン保険を掛けていて、ガンと、診断されると、大金が、貰えるのである。

楽しみにして、行きつけの病院に行くと、先生が、胃潰瘍と、十二指腸潰瘍と言うので、がっくり、した。

今なら、初期の胃ガンならば、一週間ほどの入院で済む。
それに、保険会社に、怨みがあり、何とか、大金を取ってやろうと思っていたのである。

この話は、旅日記に関係ないので、以下省略する。

さて、その部屋から、何度も出掛けた。
食事をするため、水を買うため、インターネットをするため、そして、衣服の支援をするためである。

縫ぐるみの話は、書いたので、衣服支援の話である。
大半を、道端で、差し上げることになった。
ホーチミンの街中である。

東京の街中で、衣服支援をするようなものである。
その、大半は、子供を連れて物売りをしている、女性たちであった。

私は、一々、子供服を持っています、必要ですかと、尋ねて、必要だといわれると、バッグを、開いて、その子に合うサイズの服を探した。
それを、周囲の人も見ている。
そして、私たちを、微笑みつつ、見ている。

ベトナムの人は、笑わないと、言った。本当に、彼らを、笑わせるのは、至難の業である。
しかし、子供服を差し上げていると、皆、私たちに、微笑むのである。

さて、少し難しい話になるが、ベトナム経済について、書く。

1986年に、ベトナム共産党は、ドイモイという、刷新政策を採用した。
中国の、改革・開放路線から、八年後のことである。

その同じ年、ソ連では、情報公開と、ペレストロイカ、刷新政策を掲げた。

ベトナム共産党は、従来の社会主義の政策では、時代に適応せずに、機能不全を起こしていると、自覚していたのである。
特に、改革派のリーダーたちが、目覚めた。

ベトナムの大きな問題は、ベトナム戦争の後遺症である。
敗者となった、南ベトナムの、サイゴン、現在のホーチミンを中心とする、南部が、勝者である、北の首都であるハノイと、その周辺の、北部より、経済的に発展する条件と、要素が、揃っていたことである。

しかし、敗者が、生成発展し、勝者である、北が、それを追いかけるという図は、政治的に、不可能であった。
そこで、考え出されたのが、南部、中部、北部という、それぞれの地域で、独自の発展を考えるという、戦略を立てることになるのだ。

ところが、ベトナムは、戦争でも、経済でも、多々試練を受ける。
ソ連の崩壊によって、東側の経済支援が、止まった。
故に、財政破綻である。

1986年から、1990年の、インフレ率は、774パーセントである。

国家が管理する経済システムを、計画経済という。
国民の生活が、国によって、丸抱えされる、システムである。
しかし、この制度では、簡単に言うと、皆、同じである。つまり、誰もが、皆、同じ服を着て、同じものを食べて、没個性を生きるしかない。
しかし、果たして、そんな生活が、続くだろうか。
まして、世界の状況が、次第に、明らかになる時代である。

しかし、計画経済から、市場経済に移行するというのは、ただ事ではない。

そのために、必要なインフラの整備などを、考えても、気の遠くなるような、大事である。

ベトナムの最大の問題は、今も、解決されていない。
それは、経済の核である、鉄が作れない、石油の精製が出来ず、原油を輸出して、更にそれを、輸入するという。
そして、通貨主権が確率していないことである。
現在の、ドンも、オーストラリアで、造られている。

最大の問題は、共産党の一党独裁である。

ここで、共産主義の、理想的哲学を云々しても、始まらない。
本当の共産主義によれば、中国や、ソ連とは、違う理想的な、共産主義が、実現するという、アホや、馬鹿の話を、聞いていられる場合ではないのである。

ベトナムを、指揮しているのは、20名ほどの、リーダーであるという。極端な、中央政権である。
それも、旧ソ連で、教育された、爺さんたちであるから、万事休すということになる。
すでに、ソ連は、崩壊して、もう、旧ソ連で、学んだものが、生かせる時代ではない。

余談であるが、共産主義国家とは、汚職天国国家である。

現在の、ベトナムも、ご多分に漏れず、汚職花盛りである。
日本の、ODAによる支援政策で、日本側の代理店が、ベトナムの役人の口利に、大金が、賄賂として動いたという話は、私が、ベトナムに出掛ける前だった。

勿論、汚職は、民主国家にも多いが、共産国家は、半端ではないということである。
中国を上げるまでもないが、金持ちは、共産党の幹部に関係する、親子兄弟、親戚である。

王制廃止しても、それに変わる存在が、共産主義幹部ということで、話にならないのである。

さて、それでは、国民の暮らし、その経済活動は、どのようになっているのか。

これをまた、書くのは、大変なことであるが、それを、知らなければ、ベトナムでの、支援活動の道が、見えないのである。

極貧から、貧しさへと、言われるが、ベトナムの農村などは、また、極貧に近づいているのである。

実は、私がベトナムに興味を、持ったのは、ベトナム戦争ではない。
約、20年前のことである。
日本の、ドックフードの会社が、ベトナムの海岸地方の、小魚を買い漁って、その漁民たちが、それにより、食べ物にも困り、塗炭の生活を強いられていると、聞いた時である。

金にあかせて、日本が、とんでもなく、傲慢に振舞っていた時代のことである。

申し訳ないなー、と思っていた。
だが、その時期は、私も、金儲けに、奔走していた時期である。
一人で、五人前の仕事をして、普通のサラリーマンの十人前の、年収があった時期である。

今は、人に貰って食う生活である。
ホント、人生って、楽しいものである。
今、現在、私の部屋には、人から頂いた米が、50キロある。
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2008年09月06日

ベトナムへ 6

ホーチミンで、衣服の半分ほどを、差し上げた。
残りの半分は、タイのパタヤで、差し上げたいと思っていた。
縫ぐるみは、ホーチミンで、ほとんど、なくなっていた。ゴミ袋一枚分の、分量だった。
別の、バッグに、少しだけ、残っていたのみ。

ここで、気の重いことを書く。
ホーチミンにて、サイゴン川で、慰霊の儀を、執り行おうと思っていた。
しかし、それさえ、間々ならない気分で、過ごしていた。

町の至る所、空気の違う場所が、多かった。
霊的空間である。

これは、私の妄想である。と、言っておく。
やたらに、疲れて、精神的に、動揺するのである。
これは、単なるものではない。単なるとは、通常の、幽霊が出るというようなものではない、ということである。

結局、慰霊の行為は、行わずに、タイに向かった。
しかし、バンコクからホーチミン、そして、日本に帰国する日、五時間という余計な時間があり、一度、空港を出て、サイゴン川で、慰霊した。
それは、後で、書く。

私は、衣服を街中で、差し上げつつ、あるカトリック教会に出た。
大きな教会である。
あえて、名前は、記さない。

ほとんど、霊の溜まり場となっていた。
重い空気が、教会を覆い尽くしている。
ルルドの聖母の祈りのコーナーも、その隣の、聖母のコーナーも、恐ろしく、空気が重い。
聖母のコーナーとは、聖母に、色々な名称をつけて、奉るのである。
無原罪の聖母とか、ルルドの聖母とか、である。

無原罪とは、聖母マリアには、初めから、原罪がなかったという、教会の、教義である。
聖母信仰は、新しい土地に、キリスト教を根付かせるために、縦横無尽に利用された。
日本では、聖母観音と言われるように、である。

聖堂には、入れなかった。
通常は、カトリック教会の、聖堂の扉は、いつも、24時間開いているものである。
開かれた教会である。
しかし、ホーチミンでは、危険が[危ない]ために、ミサ礼拝の時間以外は、閉じているのだろう。
どうしても、入りたい場合は、司祭館に申し出れば、聖堂に入ることが、出来る。

教会の上空に、多くの霊的存在が、集っていると、感じた。
しかし、私は、一切の霊的所作を行わなかった。
教会の上空を、天国と、思い込んでいるならば、致し方ないのである。

ベトナムには、その他、仏教も、イスラムも、中国寺院もある。
私のホテルの並びには、小乗仏教の寺院があり、毎朝夕、読経していた。
朝は、五時に鐘が鳴る。
その寺院も、自由に入ることは、出来なかった。
いかに、ドロボーさんが、いるかということだ。

また、カオダイ教という、習合宗教もある。不思議な国である。

これでは、慰霊の儀など、到底出来るものではないと、感じたのである。が、矢張り、最後の最後に、執り行った。そして、来る度に、それを、行おうと思ったのである。

ベトナム人の、信仰については、また別の機会に、書くことにする。
私も、まだ、調べつくしていないし、それについて、ベトナムの人と、話をしていない。

ただ、精霊信仰のようなものもあり、非常に不気味な、供え物で、精霊信仰のような行為をしているのを、見た。
鳥の丸焼きに、線香を幾本も立てて、その周囲に、水や、何やかにやと、奉っていた店もある。
ブラジルの、黒魔術のような感覚で、それを、見た。

そして、単に、線香だけを、家の前に、捧げているだけのものも、見た。
タイの、精霊信仰とは、違うものである。
タイの場合は、可愛らしいのである。楽しい感じがするのだが、ベトナムの場合は、少し違う。
重いのである。

また、多く見たのは、中華系の信仰である。
仰々しいのは、開店する店の前に、沢山の茶碗に、水やご飯、鶏肉、豚肉などを置いて、御祭りしているものである。
また、天神というものか、二体ほどの像の両側に、いつも、赤い電燈を点けている。
たまに、タイでも、見掛けるものである。

道端に、線香のみが、数本あるものもある。

自然に、身についた浮遊霊に対する所作であると、思う。
東南アジアは、浮遊霊の、宝庫ともいえる。
それらが、精霊として、扱われるのである。

私が感じたのは、それではない。
塊と、表現するのが、一番合っている。
空気の圧さを感じさせる、塊である。
これは、戦争犠牲者の霊であろうと、思う。

既存の宗教は、それの、清め祓いが、出来ない。
例えば、小乗仏教というか、仏教には、本来、死者のための、慰霊という行為は無い。また、キリスト教も、無いのである。

仏教は、仏になるための教えであり、キリスト教は、天国に入る教えである。

先祖崇敬、慰霊は、皆、民族宗教による。

小乗に支配される国では、人生をそのまま受け入れるという、諦観派である。
今の状態は、前世での、結果であると、考えるから、その現状を受け入れる。そして、布施をすることによって、来世を良くしようとする。
それが、タイでは、タンブンと言い、お寺に、寄進するのである。
貧しい人に布施をするより、まず、お寺に布施する。

ただ、救いは、タイは、福祉政策が無いゆえ、お寺が、それを、する。
少年僧の受け入れは、実に、見事な、福祉である。
寺に入れば、食べて、学べるのである。

ただし、女には、それが無い。
それで、ようやく、人々の懇願で、タイの寺でも、女子部を作るところもあるという。ただし、それは、少年僧の下に位置し、少年僧の予算の、余りで、行うという。

貧しい少女たちは、そこで、食べて、学ぶことが出来る。
しかし、予算が、足りない。
慧燈財団の小西さんが、その施設を視察した。
女の子たちに、何か足りないものがありますかと、尋ねると、バスタオルと、生理用品だと、答えたという。
そこで、小西さんは、160人分のバスタオルを、寄付したという。

ベトナムの、福祉政策は、どうかといえば、無いに、等しい。
これは、また、改めて、書く。

仏教の、供養という行為は、仏、菩薩、そして、生きている貴い人にするものである。
死者に対する、回向というものは、随分と後のことである。
つまり、死者に読経するという形は、仏陀滅後、1500年経てからである。

読経は、すべて、我が身の功徳のためである。
キリスト教の祈りも、神に対する、感謝と賛美である。イスラムも、然り。
道教、儒教も、様々ないみにおいて、現世利益が、主である。

死者に対する、所作は、後々、付けたしのように、行われるようになった。

イエス・キリストは、死者は、死者に任せるがよい、との、名言がある。
それより、神の国と、その義を求めよ、なのである。

確かに、因果応報、自業自得が、事の理であるから、死者の霊も、それに任せられる。だが、である。

それは、認識不足である。

死者の霊の存在の有無を論じるのではない。
在るものなのである。
その証拠が、地場の、磁気である。
宗教施設に出掛けて、具合の悪くなる人は、それを、体で、感じるものである。
霊感など、必要無い。それを、感じる人がいる。
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2008年09月07日

ベトナムへ 7

ベトナム共産党の、計画経済の話を書いた。
そして、それを、市場経済に移行するという、試みが、なされた。

ドイモイ、という、刷新経済である。
今までは、国が、丸抱えでやってきた、国民は、非常に戸惑ったはずである。
何せ、お金など、使用することがなかった人々である。

その混乱は、余りある。
1986年12月からの、市場経済の様を、俯瞰してみる。

確かに、ドイモイ政策が、軌道に乗り出すと、ベトナムは、少しつづ、インフレから脱し、市場経済システムが、うまく推移して、ある程度の体制が、整えられた。

1989年に、東西冷戦状態が、終結して、社会主義は、機能しなくなる。
市場経済を導入して、それを成功させるべく、歩むこと以外に道がないことを、知ることになる。

ベトナムは、カンボジアとの、和平の成功もあり、国際社会は、ベトナムに対する、経済制裁を解除して、国際社会への、復帰を促した。
それは、実に、良きことだった。
国際社会から、孤立しては、どうしようもない。
未だに、国際社会から、平気で孤立し、国民を、塗炭の苦しみに、追い込めている、アホな国もある。

勿論、共産主義を、掲げて、全体主義にある、国である。

最も、ベトナムの、経済を変容させたのは、アメリカとの、関係だった。

その前に、1991年に、中越戦争以来断絶していた、中国との国交を正常化している。

ベトナム戦争終結して、20年を経た、1995年7月、長い交渉の末に、アメリカとの、国交正常化が、成立した。
その直後、アメリカの承認を受けて、アセアンに加盟することが、許された。

これにより、国際社会に、完全復帰したのである。
最大のポイントである。

1996年以降は、インフレも、4,9パーセントと、安定する。
年間GDP成長率は、約7パーセント。
一度それが、下がったのは、97年の、タイからはじまった、アジア通貨危機の時である。

そして、21世紀に入ると、成長率7,5パーセントと、堅調な経済成長である。

一人当たりの、平均所得が、二倍以上になるという状況である。
ドイモイ政策の直後は、一人当たりの、GDPが200ドルだったのが、2006年の、20年後は、約600ドルになるという状態である。
20年で、三倍になるというのは、僥倖である。

ただしである。
世界の基準で見ると、年間200ドルというのは、一日50セントであり、一日一ドルという基準を満たしていない、極貧である。
それが、三倍になって、一ドル50セントになったというもので、貧しさは、極貧から、抜け出たということである。

ちなみに、日本の場合は、2006年の、一人当たりは、三万五千ドルである。
五十分の一の、GDPである。

国連開発計画が、毎年発行している、人間開発指数というもので見れば、日本は、大体、十位以内にあり、ベトナムは、2005年で、177カ国の105番目である。

しかし、国民の生活は、確実に、豊かになったといえる。
国民の生活を、ミクロ経済という。
全体経済を、マクロ経済という。
マクロでは、問題があっても、ミクロでは、改善されたと、考えていい。

ただし、である。

ここからが、ベトナムの大きな、問題である。

この、二十年間の経済を、俯瞰すると、発展、成長といっても、実際は、経済の根本を、築いていないというのが、実感である。

ベトナム自体が、新たなる産業を起こし、国際的に通用するような、物を生み出していないのである。
発展成長は、単に、外国政府からの、ODA、そして、国際金融機関の融資、外国企業の、直接投資などによるものであり、外国からの、支援や、投資によって、輸出額が、伸びているだけである。

その間、ベトナムがやったことは、石油、米、コーヒー、海産物、野菜、果物などの、一次産物の輸出だけである。

つまり、ベトナム経済の発展成長とは、幻想なのである。

経済成長著しいベトナムの、云々というのは、嘘なのである。

ベトナムには、実は、一次産物しか無いのである。

原油産出が、年間1200トン以上あっても、自国では、精製出来ず、シンガポールに輸出し、そこで、精製されたものを、輸入しているという、仰天。

そして、大規模な製鉄所が無いために、ほとんどの、鉄鋼製品を輸入しているのである。

産業化出来ないということは、蓋を開ければ、実は、何も無いということと、同じである。

これについては、戦争後遺症を、見なければならない。
実は、ベトナム戦争を、私は、語りたくないのである。
それには、大きな負い目がある。

私自身の問題ではない。
日本の、ベトナム戦争に対する、態度と、平和運動をした者どもの、怠慢やるせない、怒りの思いがあるからである。

例えば、あの頃、ベトナム戦争反対を掲げた世代は、今、何をしているのだろうか。
青春の思い出として、思い出しているとしたら、アホ、馬鹿、間抜け、もう一つ、ついでに、自害して果てろ、である。

平和行進など、誰でも出来る。
サルでも、犬でも、猫でも、出来る。
ベトナム戦争を終結させたのは、誰であろう。
ベトナム人である。

途中で、誰も止められなかった。
そして、それは、日本の太平洋戦争にも、行き着く問題なのである、私には。

最新兵器の、アメリカとの、戦いに、ベトナム人は、着の身着のままで、戦った。
特に、南で戦う民族戦線のベトナム人は、アメリカ軍から略奪したり、闇市の横流しされた武器を使うという、ゲリラ戦を、戦った。

それを、調べて、私は、反吐が出た。

アリと象の戦いと、言われたという。

それでも、ベトナムは、アメリカを大敗させた。
その、ベトナム人の、戦闘的能力は、どこから、くるものなのかと、私は、ベトナムに、ベトナム人に、非常に興味を持ち、更に、畏敬の思いに溢れた。

ベトナム人と、友人になれば、世界に怖いモノ無しであると、思った。

嫌でも、ベトナム戦争を見渡し、そして、日本が、ベトナムと、特に友好関係を結ぶことを、考える。

タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、インドネシア、マレーシアなど、東南アジア、東アジアとの、連携が、日本の存続に関わる、大事なのである。

そこまで、この、ベトナムの旅日記で、書こうと思っている。
ただし、これが最後のベトナムでははない。
最初のベトナムである。

足繁く、ベトナムに通い続ける覚悟があって、こうして、検証して、書くのである。
posted by 天山 at 12:38| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月08日

ベトナムへ 8

ホーチミンの市内を、歩いて驚くことは、交通状態である。
バイク軍団が、凄まじい。
信号が少なく、道路を、横断するに、決死の覚悟がいる。

バイク軍団と、車の様子を見て、向こう側に渡るのだが、走っている中に、身を置いて、歩くという、危険極まりない、横断である。
しかし、それも、次第に慣れてくると、スリル満点になる。

市民は、慣れているのか、平然として、車とバイクの走る道を横断する。
年寄りは、両手を上げて、渡る人もいる。

そして、ホーチミンの道路は、サーカスを見ているような、状況なのである。
何せ、一台のバイクに、家族全員が乗っていたり、大きな荷物を積んで、奥さんとおぼしき人が、後ろ向きに、その荷物を落とさないように、抱いている、という。

道路に面した、店先で、じっと、その様を見ていても、飽きないのである。

そんな中、シクロという、自転車のタクシーがある。
また、自転車で、手漕ぎのものを、始めて見た。

更に、屋台を横につけて走るバイクもある。
日本の法律では、違反だらけの、状態。

一時間も、歩くと、緊張感で、疲れる。
衣服を担いで、街中を歩き、時々、オープンカフェで、ココナッツジュースを飲んで休む。
浴衣などは、汗だくで、背中に、生地が、ぴったりと、くっついてしまう。

トイレは、タイと同じであるが、時に、驚くべきトイレがあったりする。
普通のホテル、レストランなどは、まだ、ペーパーも用意されているが、そんなものが、一切無いトイレもある。
要するに、大便は、水洗いである。
お蔭で、私は、その必要がなかったが、ペーパーを持参しても、流しては、いけないトイレもある。
手動の水洗トイレである。

泊まっていたホテルも、紙は、流さず、横にある、ゴミ箱に入れるタイプだった。
一度、無意識に、紙を落として、同行の野中に、怒られた。
しかし、尻を拭いた紙を、横の箱に入れるというのは、抵抗がある。

所違えば、常識も違うのである。

屋台のおばさんたちは、実に、親切で、持ち物に関して、よく注意された。
要するに、引っ手繰られるので、持ち物は、体から離してはいけないということ。
カメラなどは、首から下げるように言われる。

屋台で、物を食べている時も、荷物は、手から離さないようにする。
私は、そんなことはなかったが、ベトナム人が、ベトナム人に、引っ手繰られることも、多々あるという。

道路を歩く時は、荷物は、車道の方に持たないなど、色々と、気を使った。
それは、日本も、同じである。
いつ、どんな、不運があるか、解らないのである。

だから、無事であることは、実に、幸せなことである。

さて、ベトナム人は、笑わない。
特に、戦争体験者の年代は、笑わないのである。
いつも、厳しい顔付きをしている。
しかし、仁義というものがある。

こんな体験をした。
靴磨きの、少年が来た。しかし、私は、下駄を履いている。ところが、少年は、中々、去らないのである。
年は、18という。
色々、お互いに、だとだとしい、英語で会話していた。

靴磨きは、二万ドンである。
話をしていると、情が出て、肩を揉むことが出来るかと、尋くと、出来るというので、それじゃあ、肩を揉んでもらうことにした。

暫く、肩を揉んでもらうと、本物の肩マッサージが、やって来て、売り込むのである。
しかし、私は、断った。
少年に、二万ドンを渡そうとした。
二万ドンを出すと、横にいた、マッサージ師が、二万ドンでは、足りない、二十万ドンだと、言うのである。

いかにも、ボッタくりである。
何故、少年の貰う金に、注文をつけるのか。後で知るが、その分け前を貰うのである。

私が、二万ドンで、と少年に言っていると、横にいた、相当年配の男性が、一言、何か言った。すると、マッサージ師は、すごすごと、退散した。

様子では、止めろと、言った雰囲気だ。
ボルなとでも言ったのか。

戦争体験者の年齢である。
泊まっていたホテルの、オーナーも、そうだった。
挨拶しても、決して笑わない。
いつも、苦虫を潰したような、顔付きをしていた。
しかし、不機嫌なのではない。
そのように、なってしまったのだ。

笑えない、人生を送ってきたのである。

ベトナム戦争体験者である。

戦争の後遺症を見渡すと、戦争は、未だに終わっていないというのが、現状である。
アメリカ軍が使用した、枯葉剤の影響は、今も、脈々と続いている。
これについて、書くことは、一冊の本になってしまう程、今も、その被害に苦しむ、多くの人がいる。

日本の原爆症に似る。

それを、見れば、アメリカが、キリスト教の国だとは、到底考えられないのである。
原爆や、枯葉剤を用いることが、出来る国であるということ。
これを、忘れてはならない。

更に、七十代から、九十代の、身寄りの無い高齢者が、30万人いると、言われる。
戦争によって、配偶者、子供たちが、死んでしまったのである。
その高齢者も、戦争犠牲者である。

更に、その人々の政府の対応も、戦争の後遺症があり、南ベトナム政府であった、南ベトナム解放民族戦線であった、北ベトナム側にいたかで、大きく違う。

ベトナム戦争とは、世界の人が認識する言葉であり、ベトナムでは、坑米救国戦争である。
そのもの、ズハリ、アメリカから、国を救う戦争である。

ベトナム戦争の定義は、人により、多少の違いがある。

広く定義する人は、1954年から1975年とする。
フランスが大敗して、ジュネーブ協定により、ベトナムから撤退する1954年を起点とする。

アメリカが、フランスに次いで、戦争を継続したと、考える。
そして、最後のアメリカ人が、サイゴン陥落により、ヘリコプターで、脱出する、1975年4月30日を、終わりとする。

フランスとの、戦いを、第一次インドシナ戦争とし、そして、次のアメリカとの、戦いを、第二次インドシナ戦争とする。その戦争をベトナム戦争という人もいる。

もう一つの、見方は、1960年、アメリカが、軍事顧問団を派遣して、実質的に、戦争への関与を始めた年から、73年とする。

南と北の、内戦の場に、アメリカが、介入してきた時期のみを、ベトナム戦争と定義するものである。

いずれにせよ、63年から、72年までの、10年間、アメリカ軍が、軍事行動を起こしたのである。

アメリカ軍の最大の介入時期は、68年で、その時は、50万人の兵士が、投入された。

そして、アリと象の戦いになる。

戦争は、膨大な数の犠牲者と、国土が荒廃する。
北の民族戦線側が、勝利して、国際社会が、ベトナムと、認定したのである。

しかし、ベトナムの不幸は、続く。

その後の、カンボジアとの、戦いである。

その意味付けは難しい。
ベトナム人は、カンボジアでの、ポル・ポト派による、人民の虐殺を止めるための、ヒューマニズムに基ずく行動であるとの、認識がある。

それは、国境地帯に住むベトナム人の、農民も、巻き込まれて、多数殺された事実もあるからだ。
ポル・ポト派は、何百万という人の命を、奪った。
残虐極まりない、その様である。
共産主義という、名の元に、殺戮の限りを尽くした。

ナチスドイツの、残虐を言うならば、共産主義という、名において、どれ程の、人の命が、無意味に、虐殺されたことか。

だが、国際社会は、ベトナムの行為を、カンボジア侵攻と、認定した。

これは、私の感情論であるが、それならば、あの、悪魔のポル・ポトの行為を、世界は、ただ、黙って見ていたということになる。
もし、時代が違えば、国連主導で、多国籍軍を派遣していたのではないか。

しかし、歴史を見ると、ベトナムは、カンボジア侵攻によって、11年間、国際的孤立を招き、経済は、疲弊した。

「この国際社会という中には、中国の意図と観点が大きく影響している。中国が「ヴェトナムを懲罰する」と称して中越戦争を起こした理由として、カンボジアへのヴェトナム群の進出を「侵攻」と認定しなければならなかった。中越戦争は中国のイニシアティブと米国の承認のもとに、ヴェトナムを叩くための戦争だった。大国の横暴という非難を避けるための自己正当化の理由として、ヴェトナムの行動は断じて「侵攻」でなければならなかった。だが、中国サイドの解釈を許すような傲慢さが、ヴェトナム戦争に勝利した当時のヴェトナム共産党指導部にあったと思う」
と、ヴェトナム新時代の著者、坪井善明さんの記述である。
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2008年09月09日

ベトナムへ 9

ここで、一度、ベトナムから、離れることにする。

ホーチミンでは、三泊した。その後、私たちは、バンコクに向かった。
ボッタクリのタクシーではない、正規の運賃を支払う、タクシー乗り場が、ホテルの並びにあった。

8ドルが、相場だと知っていたので、前日、予約をして、確認した。
確かに、空港までは、8ドルである。
そこには、運転手ではない、何の役目なのか、必ず、受付の者がいた。特に、事務所がある訳ではない。

もしかしたら、政府関係の、旅行者向け担当の、職員かもしれないと、思った。
その人に、8ドルを支払うと、それで、オッケーである。

バンコクまでは、一時間半の飛行機の旅であるが、出国手続きが必要だ。

私たちは、ホテルを九時過ぎに出た。
丁度、車や、バイクの込み合う時間帯を、空港に向かった。
海外では、兎に角、早め早めに、行動するようにしている。何が起こるか、解らない。

比較的スムーズに車は、進んだ。といっても、大変な道路事情である。
カーレースのような、運転に、感心して、乗っていた。

一時の飛行機であるから、11時までに行けばよい。
しかし、車は、10時前に到着した。

次の時は、路線バスを利用しようと、思っている。何せ、3000ドンである。
15000ドンが、一ドルであるから、25セントということになる。
また、路線バス乗り場も、知ったので、それで空港まで行くことにする。

ホーチミンの、タンソンニャット空港は、こじんまりとしている。日本の地方の、空港のようである。

まだ、登場手続きが始まっていないので、空港内の、唯一の、オープンカフェに入り、コーヒーを頼む。
何と、8ドルである。
とんでもない、料金で、驚いた。

しかし、空港は、どこも値段が高い。
私は、どうどうと、買い置きの、果物などを、取り出して、そこで食べることにした。そうそう、ヨーグルトも、あった。

私の旅の楽しみは、地元のスーパーや、商店で、買い物をすることである。
時に、それらを、すべて食べられないで、日本に持ち帰ることもある。
しかし、それは、違法である。
果物などの、生ものは、持ち込み禁止。

トイレに立ちつつ、ボードを見て、手続き開始を、待つ。
二度目のトイレの時に、手続き開始の、点滅である。

ベトナム航空の、チェックインカウンターに向かう。
混雑していないのが、いい。
待つことなく、スムーズに手続きが進み、そのまま、出国手続きに向かう。

そこで、また、あの、ブーである。
荷物をベルトに乗せて、門をくぐる時に、ブーと鳴る。
面倒だが、着物の袖の物を、すべて出す。
しかし、腹を指摘された。
これは、脂肪だと、言いたかったが、言葉が解らない。

担当の女が、帯を取れと指示する。また、ここで、裸になるのか。
グアムの空港で、パンツ一貫になったことを、思い出した。
ここは、穏便に、穏便にと、静かに、帯を解く。

同行の野中が、ライターを袖に入れるから、ブーと鳴るのだと言う。
最初から、ライターを取り出して、籠に入れるべきだと、言う。
解った、解った。

私の場合は、声が大きいので、相手を威圧するらしいのである。
最初に、大声を出すと、相手は、怯む。
しかし、生来のもの。どうしようもない。
だが、兎に角、穏便を心がける。

驚いたとこは、出発ロビーには、日本人が多い。
皆、ホーチミンを通り、バンコクに向かう人なのである。
そして、韓国人である。

喫煙室に入ると、日本語と、韓国語が、耳に入る。
飛行機に乗り込むまで、一時間半を、私は、喫煙室に出たり入ったりを、繰り返した。

喫煙室というのは、実に、面白いのである。
密室で、多くの人が、タバコを吸う。そして、それぞれの会話である。
聞くともなく、聞いていると、しょうもないことを、話していたりする。

フリーツアーで、旅行している人もいるようで、何となく浮かない顔をしていたりする。
ただ、旅の疲れのみで、旅の楽しみを感じていないようである。
中年のおじさんが、一人旅なのであろう。バンコクの旅行案内を、真剣に見ている。
カップルは、倦怠感に溢れている。
旅の間は、セックス三昧で、それだけで、疲れるのだろう。

韓国人の、おじさんたちは、元気である。
缶ビールを飲みつつ、タバコを吸い、大きな声で、談笑している。

若者の、一人旅の姿を、あまり見なくなった。
それより、三十代の男の姿が、目立つ。
バンコクで、どこの売春宿にするかと、思案している風情である。

日本で出来ない遊びを、思う存分、バンコクで晴らす、そんな雰囲気。
と、それを、想像する私の、想像力も、貧弱である。

だが、証拠は、ある。
後で、バンコクの、スクンビット地区に、行くが、そこで、立つ、売春の女、レディーボーイから話を聞くと。日本のサラリーマンの、お客が多いという。
少しの時間しかない。その少しの時間を、立ちんぼの、女と、また、レディーボーイと、過ごすというのである。

彼女たちは、売春宿より、断然安い。
一時間の、ショートだと、1000バーツである。約、3300円。
二時間で、2000バーツ。約6600円。
女好きでも、レディーボーイを買う日本人が多いと、聞いて、驚く。

レディーボーイ曰く、だって、私たち、男なの体、知り尽くしているのよ。
そりゃあ、そうだ。元は、男である。

さて、いよいよ、飛行機に乗り込む。
客が、意外に少ない。これは、寝られると、思った。

日本と違い、すべてのお客が機内に入ると、出発である。
時間通りではない。
さっさと、飛び立つ。
私は、それが、気に入っている。もたもたするのは、嫌いだ。
はい、全員乗りました。よし、行くぞ。
そして、動き出す。

カンボジアの上を飛んでいる、と、私は、窓から、下の風景を見下ろす。
近いうちに、カンボジアにも行く。
王国であるから、いい。王様のいる国には、親近感が、持てる。

カンボジアは、ポル・ポトによって、知的階級が、皆殺しにされて、一番必要なことは、教育である。
勿論、貧しさは、また、格別であろう。
日本のボランティア団体も、多く活動している。
特に、学校建設である。

一時間半の、飛行時間であるから、忙しい。
お絞りが、出て、飲み物があり、食事である。

オチオチ、寝てられない。
三席に体を、横たえていると、乗務員に起こされる。
飲み物は、何。
えーと、オレンジジュース。
ビールや、ワインもある。
しかし、私は、飛行機の中で、アルコールを、飲みたいとは思わない。

食事が終わり、横になっていると、着陸の準備です、という、アナウンスが流れる。
と、聞える。ベトナム語であるから、解らないが、機体が、激しく揺れるので、下降しているのだろう。

落ちることなく、バンコク、スワナプーム空港に、到着である。

あー、懐かしい。
私は、この空港が、大好きである。
なんか、自分の物のように、思えるのである。ホント、お目出度い。

入国、そして、荷物を受け取り、市内へ出る。

ここからである。
今までの方法を、止めた。
そのまま、外に出ると、タクシー乗り場がある。そこには、決められたタクシー乗車の場所と共に、個別にタクシーを売り込む人たちで、ごった返している。
私は、あえて、そこを避けて、出発ロビーに上がり、そこから、外に出る。

そこには、客を乗せて、到着したタクシーがいる。
そのタクシーを捕まえるのである。
戻りの、客がいるというのは、彼らにとっては、実に得である。
そこでは、こちらの言い分が通る。

空港から、直接、パタヤに向かう。
1500バーツで、交渉した。だいたい、それくらいで、まずまずである。
普通の車で、タクシーではなかった。
安いと、1300バーツでも行く。
何でも、相場というものがある。
あまり、叩いても、気分が悪いことになる。

約4500円である。
パタヤまでは、一時間ほどかかる。
高速道路も含めての値段であるから、納得。

パタヤのことを、説明しつつ、旅を進めてゆく。

posted by 天山 at 12:39| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月10日

ベトナムへ 10

パタヤ
バンコクから、高速道路に乗ると、約一時間少しで、着く。
昔、私が出掛けた時は、三時間ほどかかった、記憶がある。
その、昔出掛けた時、それほどの歓楽街とは知らず、ただ、滞在していた、三日間、散歩を楽しんでいた。

その時、日本からのツアー客のおじさんたちが、夕方になると、ホテルロビーに集い、皆で、出掛けていたのは、集団売春に行くためとは、後で知る。

ビーチ沿いに、色鮮やかな電灯をつけて、女たちが、客を呼ぶ姿は、今も変わらない。
そこで、女と交渉して、一夜を買うということも、知らなかった。

ただ私は、タイという国に行ってみたいという気持ちだけで、バンコク、パタヤへの、フリーツアーに、申し込んだ。

今、まさか、こんな活動をするために、パタヤを、訪れるとは、全く知らない。

1960年代、ベトナム戦争に従軍していた、アメリカ兵の、保養地、娯楽地として、拓かれた町である。

今では、日本人のみならず、欧米人にも、人気のアジアを代表するリゾート地としてある。

そして、ゲイ天国、更に、レディーボーイ天国である。
ゲイが遊ぶなら、パタヤである。また、レディーボーイが、普通にいる。

私は、二年前に、ある人の付き合いで、パタヤに来ている。
バンコクと、パタヤで、一週間滞在した。
それが、タイ国王在位、60周年記念式典の日に、バンコクにいた。
天皇陛下と、同じ日程だったと、後で知る。

バンコクのホテルロビーで、その式典を見ていた。
以前の、タイ旅行記にも、書いた記憶がある。

チャオプラヤー川での、式典の様も、丁度通りすがりに見た。
市民は、王様の黄色のシャツを着て、バンコク市内は、黄色で、埋まっていた。

その式典の際、国王は、つねに、天皇陛下の隣で、親しくお話していたという。
国王は、天皇に、特別の思い入れがある。
その一つに、今は、当たり前になった、淡水魚である、鯛に似た魚を、昭和天皇が、国王に贈った。国王は、それを、増やし、川に放流して、それが、今タイの国民の上質な蛋白源になっているという。

バンコクの、スワナプーム空港に、飾られる、その時の記念写真でも、天皇皇后陛下は、前列、国王と、王室の、次に並ぶ。
私も、その前で、写真を撮ってきた。

丁度、その場に、空港の清掃職員たちが、地べたに座り、休んでいた。
私が、写真を撮るのを、見て、皆、微笑んでいた。

良く私が、タイの人に、キングオブ、プーミポン、ジャパニーズ、エンペラー天皇、ベストフレンドと言っている。
変な英語だが、内容は、通じる。

タイに行き、国王の歌が流れると、起立し敬意をはらい、国王のことを、好きだと言うと、必ず、嬉しそうに、ありがとう、と言われる。

バンコク、スクンビットのナナ駅近くの、屋台連合のような、場所で、朝七時頃、コーヒーを飲んでいると、皆、出店の準備で、大忙しである。
そんな時、国王の歌が流れる。
私たちは、起立して、それを、聞いている。

そんな私たちに対して、その屋台の皆は、現地の人と同じように扱う。いや、それ以上に、親切にしてくれる。

色々と、話はあるが、先に進まないので、省略する。

唯一言、軍事力の無い、権威というものが、平和を、もたらす。
それを、私は、ゆるやかな、王制という。
天皇は、その存在の象徴である。日本の象徴だけではない。
無形の権威というものの、象徴である。
その、権威の幻想は、国家幻想として、非常に有効に生かされるものである。

老荘が、言う、道にある、無用の用とは、無形の権威のことである。
私は、そのように、解釈している。

さて、今回、パタヤに行くというのは、遊びたいからだ、と言えば、納得するであろうから、遊びに来たと言う。

一つは、衣服支援であり、一つは、トランスジェンダーの、施設見学と、その、取り組みを知りたいということである。

衣服支援は、ベトナムで、半分程、差し上げた。
残りを、パタヤである。
縫ぐるみは、数点残っていた。別のバッグににも、忍ばせていた。

縫ぐるみは、ビーチで働く人の、子供たちに差し上げた。
一人の子に、上げると、その親が、まだ、あすこにいると、言うので、ビーチに行くと、幼い子が、一人いて、差し出すと、すぐに受け取った。その横に、眠っていた、幼児の横に、一つを置いた。
その親は、手を合わせて、お礼を言う。

パタヤでも、縫ぐるみは、売られている。
キティーちやんも、ドラエモンも、ある。だが、すべて、大型であり、あれは、男が女に、プレゼントして、セックスのきっかけにするようである。

縫ぐるみが、友好の物になるとは、全く考えなかった。
やってみなければ、解らない。
それらは、すべて、私が、ゴミの日に、拾い集めたもので、その一つ一つを、選別して、バッグに押し込んだものである。

勿論、差し上げるものであるから、清め祓いをしてある。

さて、問題である。
15年ほど前、パタヤで、とんでもない事件があった。
五十代になる、日本人の男が、幼児を数名部屋に、連れ込み、性的暴行を行ったというもの。
幼児の、叫び声に、近所の人が駆けつけると、幼児を犯そうとしていたという。
即座に、警察である。
その場で、逮捕された。

貧しい子供たちに、物を上げたり、食べ物を与えたりして、性的行為をする者、多々あり。
児童買春ではない。
幼女、児童暴行である。

まだある。
今度は、女である。
日本では、教師をしていた女が、浜辺で、物売りをしている、少年を、ホテルの部屋に連れ込み、犯したというもの。
女が、少年を犯すというのは、どんなことか、想像するが、勃起させて、自分の膣に入れたのでろあうと、想像する。

パタヤでの、日本人に対する、感情は、最低最悪になった。

売春で、生活を立てている、真っ当な、売春という、仕事がある。
そうではなく、全く、性的対象にならない、幼児、児童を、性的対象にするという、稚拙である。

それが、私の心に、記憶として、沈んでいた。
それが、今回の、衣服支援の主旨である。
つまり、名誉挽回である。

着物を着て、バッグを持って、パタヤを回った。
現地の人に、手渡したかったのである。

最初は、スラムに向かった。
一つ、スタッフが覚えていた、バラック小屋が立つスラムに向かったが、着いてみると、スラムは、見事に、アパートが立ち並んでいたのである。
きっと、政府の指示により、そのように、スラムを変えたのであろう。

住む家が、そのようになると、住む人の気持ちも、変わる。
経済的に、以前と、同じでも、気持ちが違う。

小屋のような、雑貨屋さんの、ベンチで、休み、さて、どうするかと、考えた。
スタッフが、タイ語で、その店のおばさん、あいるは、おばあさんに、子供の衣服があるが、必要ですかと、尋ねた。
すると、おばさんは、必要だと言う。

それでは、と、スタッフが、取り出し始めたが、私は、シャツを三枚だけにした。
これでは、私の主旨が違う。
私は、一人一人に、差し上げたいのであり、支援をしてくれた人にも、手渡しで、差し上げると、言っていると、スタッフに言った。

幾人かの、子供が、お菓子を買いに来た。
そこで、私は、彼らに、シャツを取り出して、日本語で、プレゼントと言って、差し出したが、受け取らない。

アパートに住むようになり、少し意識が変わったのだろう。
しかし、アパートから出て来る、女は、厚化粧して、何の商売をしているかは、解る。
子供たちの、衣服も、決して、粗末なものではない。

私は立ち上がり、戻ることにした。

そこを、抜ける時、一人の男の子がいた。
父と母もいた。
私は、子供用の、ズボンを取り出して、必要でいすかと、母親に尋いた。
母親は、頷く。
私が、それを差し上げると、バイクに跨り、出掛ける前だった、父親が、コープクンカップ、ありかとうと、言う。

物を差し上げるということが、どんなに大変なことか。
くれてやる、のではない、差し上げるのである。

支援は、至難である。
どんなに、貧しくても、生きる尊厳という、プライドがある。

アイアム、ジャパニーズ
私は、差し上げる度に、そう言う。
勿論、着物を着ているから、当然、日本人であることは、解るだろう。しかし、あえて、私は、日本人ですと言う。

posted by 天山 at 12:40| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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