2008年02月01日

タイ・ラオスへ 1

タイ・ラオスへ行く。

出発の前日、関東に大雪が降った。
高速道路が通行止め、電車や、飛行機も運転見合わせということで、翌日のことが、心配になり、横浜駅から、成田エクスプレスで行くことにした。

翌日は、午前中まで、通行止めだったようで、列車にして、安心だった。

この時期は、それほどの混雑なく、スムーズに出国手続きが済む。
私の荷物は、子供服が、二袋で、後は、持ち運びの鞄に、自分ものを入れて、機内に持ち込む。
子供服は、向こうで配ると、無くなる。
暖かい国に行くので、夏物の薄い着物なので、鞄で十分に間に合うのが、いい。

一万円が、バーツにすると、3005バーツになることを確認する。

飛行機は、時間通り、飛びたった。
丁度、夜であるから、寝ていればいい。
バンコクまで、七時間と少しである。
到着は、現地時間の、11:30頃になる。

バンコクでは、以前泊まった、安いホテルを、二泊予約していた。
スクンビット通りにあるが、地図に、名前の載っていないホテルである。
一泊二千五百円で、朝食付きである。二人で、その値段である。
泊まれれば、いいのである。

バンコクは、雨だった。バンコクの雨は、初めてである。

バンコクの 夜は雨なり 涼しくも あり新鮮な 街並み光る

タクシーに乗り、ホテルに到着した。
以前に泊まった時にもいた、無愛想な女が、いた。
イサーン出身である。つまり、私たちが、向かう、イサーン、タイ東北部の出である。

野中が、あれが、イサーンだと言う。つまり、あのような、無愛想な顔が、イサーンの顔だという。

12日間の、旅の始まりである。
バンコクの夜には、興味がないので、ホテルの部屋のビールを飲み、飛行機のせいで、すぐに酔うので、そのまま、寝た。

日本時間より、二時間遅れが、タイの時間である。
深夜十二時は、日本では、二時である。
三時頃に寝たから、日本時間では、五時である。

朝は、八時に目覚めた。
私は、すぐに、一階のレストランに似せたような、オープンカフェに出た。
無愛想な女から、チケットを取りに行く。
ナンバーと、訊くので、私は、キーを見せた。
朝食券二枚をくれた。

若い男がいた。
前回は、おじさんだったが・・・
コーヒーを頼む。
たまごは、どうすると訊く。
スクランブルで、ソーセージにした。

トースト二枚に、それらが付いてくる。
私は、タバコを吹かして、コーヒーを飲んだ。
コーヒーは、何倍お替りしてもいい。

他の客は、すべて、欧米人である。
若い欧米人は、カップルで、年老いた欧米人は、タイの女を連れている。
中には、中年のおじさんも、タイの女を連れていることもある。

二杯目を飲み終わる頃、野中が、降りてきた。
次第に、ホテル周辺が、騒がしくなる。朝の、状態である。

野中は、周辺に出掛けると言う。私は、この辺りにいると、言った。
行きたいところは、無い。

夜は、チェンマイから、野中の友人の、タンニャが、バンコクに来ることになっている。逢えると、いいと、野中が言う。
お客と、ベトナムに行くらしい。

部屋に戻り、野中が、ディジュルドゥを担いで、出て行った。
私は、部屋で、のんびりと、イサーンの空港、ウドーン・ターニと、その後行く、ノーン・カーイについて、調べていた。

国内線の格安チケットを予約していた。
ウドーン・ターニに、一泊するか、そのまま、ノーン・カーイに行くかと、迷った。
ノーン・カーイは、ラオスとの、国境の町である。
その距離感が、解らないから、迷う。

私は、8日にラオスに入り、翌日、ノーン・カーイに戻る予定である。野中は、そのまま、二三日、滞在する予定だ。

昼になったので、ホテルを出る。少し、その周辺を回った。
食堂に、日本語が多い。
驚いた。
これは、日本人が、多いということである。

一軒の、日本語で書かれた、タイ料理の店に入った。
タイ語、英語、日本語で、書かれたメニューがある。
私は、焼きそばを注文した。

待っている間、店にある、雑誌を手に取った。
日本語のものがあり、無料配布されているものを、取った。
開いた。
驚いた。
すべて、ピンク系の広告で、埋まっている。
オイルマッサージ、2000バーツから、2500バーツである。
それは、射精するまでのコースである。
オイルマッサージは、200バーツから、250バーツが、普通であり、その値段は、高級ホテルの、マッサージ並である。

出張もあるという。
ここまで、日本人が、多く来ているのだと、感心した。

焼きそばは、量が多くて、すべてを食べると、満腹を通り越した。
勿論、日本の焼きそばに似せたものである。
タイ料理は、野菜を半生で、平気であるから、戸惑う。
更には、すべて、生ということもある。

その雑誌を持って、ホテルの部屋に戻り、体を横たえた。
そして、寝た。

野中が、戻って、例の雑誌を見て、こんなもの、持っていると、勘違いされるよとの、アドバイスである。

タイの売春は、有名であったが、タイ政府が、牽制して、少し収まった経緯がある。
売春に準じる方法を、考えたのだろうと、思えた。

知り合いの男の子たちは、必ずタイでは、売春を一つの、目的にしていたものである。
私は、その度に、コンドームの使用を、勧めていた。

夕方、タンニャから、電話があった。
ホテル近くに来るらしい。
野中が、逢いに行くと言っている。
時間が、遅くなりそうだというので、私たちは、先に、夕食を済ますことにした。

夜になると、日本語の店が、続々と開店する。
私は、肉が食べたくなり、近くの、韓国料理店に野中と入った。
野中は、ビビンバを注文したが、私の焼肉セットの野菜を食べているうちに、腹が一杯になったようで、ビビンバをキャンセルした。というか、野中の注文を店の者が、忘れていたようだった。

二人で、ビール一本を飲んで、一杯になり、食べてすぐに、ホテルに戻った。

タンニャからの電話があり、野中が出て行った。
私は、ベッドに横になり、うとうと始めた。
野中が、鍵を持って出ないので、鍵は、開けたままである。

眠れず、これからの予定を考えていた。
野中は、十二時前に戻り、明日のタクシーの予約が出来たと言う。
ホテルに、十一時に来てくれる。
野中が戻り、安心して、私は眠った。
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2008年02月02日

タイ・ラオスへ 2

タクシーが、時間通りに来たが、昨夜の人ではないという。用事が出来て、替わりに来たという。メータータクシーなので、安心して乗る。

高速道路を通り、その料金を払った。
そして、メーターは、200バーツと少しである。ところが、300バーツと言う。
私が、メーターを指して言うが、野中が、帰りの客がいないと、困るんだって、という。
帰りの客がいないことは、無いと思うが、面倒なので、300バーツを払う。
まあ、チップだと、思えばいい。

タイの民間機は、実に、適当である。
搭乗手続きをすると、三時間遅れであると言う。
前回も、チェンマイで、遅れて、日本行きの便に乗られないかもという、事態になったが、本当に、当日になってみなければ、解らない。

決して、信じてては、駄目である。
勿論、帰りも、三時間遅れだった。
結果、四時間を、空港で、過ごすことになる。

新しい空港、スヴァルナプ空港は、国際線、国内線と、入り乱れている。
私たちは、いつも、一階のロビーで過ごす。
人が少なくて、心地が良い。ただし、冷房は、きつい。全体に、冷房が行き渡り、下手をすると、風邪を引く。
私は、外に出て、暑い風を楽しみ、タバコを吹かすのが、好きだ。

漸く、時間になり、搭乗口に行く。
ところが、時間になっても、誰もいない。
また、遅れているようなのだ。
結局、30分過ぎで、案内が流れた。

座席は、自由席である。
私たちは、一番後ろの席に座った。結構、席が空いている。私は、途中で、隣の空いている席で、体を横にした。
一時間程度で、ウドーン・ターニに、到着した。

空港から、国境の町、ノーン・カーイまでの、バスがあるというので、それに乗ることにした。
約、一時間である。丁度良い。

ミニバスに乗り込んできた、最後の方々が、日本人の、榊原夫妻だった。
私の後ろの座席に座った。
老後をタイで、暮らし、ビザのために、一度海外に出るということで、ラオスを選んだという。

その榊原さんとの、話で、様々な情報を得ることになる。

四方山話から、ラオスの話になった。
山の上に行くほど、信じられないような生活の様であること。日本の戦後の生活より、悪いという。
私たちが、子供服を持ってきたというと、それは、何よりだという。
裸で生活している、子供たちが大勢いる。それは、貧しさゆえである。

私は、日本の戦後より悪いと、聞いて、少し考えた。
日本の戦後は、最低最悪である。
それより、悪いということは、どういう事態だろうと。
もし、そんな所に、私が行けば、あまりのことに、また、アホなことを、考え始めるだろうと、思えた。
つまり、支援活動の拡大である。
果たして、私個人に、それ程の、能力があるのか。
これは、宿についてからも、考え続けた。

そして、私が、戦争犠牲者の追悼慰霊から、この活動が始まったと言うと、榊原さんは、是非、戦場に掛ける橋という、映画で、有名になった、カンチャナブリーに、慰霊に行って欲しいと言った。
日本兵だけではなく、多くの捕虜を犠牲にした、橋の建設である。
泰緬鉄道である。

榊原さんは、慰霊ではなく、見学に行ったが、花などを持たなかったことを、後悔したと言う。
せめて、花でも、供えてくれば良かったと。

日本軍慰霊塔には、日本語、英語、マレー語、タミル語、ベトナム語で、慰霊の辞が、刻まれているという。

戦争とは、愚かなものだと、言ってられない程の、悲惨な犠牲を出したのだ。

連合軍共同墓地にも、日本人として、追悼慰霊に、行くべきであると、思う。

榊原さんの、お話は、随分と、私に、多くの思索を与えてくれた。

バスは、ノーン・カーイの国境まで来た。
そのまま、国境を通る人もいる。
私たち、榊原さんは、ノーン・カーイに、宿泊する予定である。
皆、バスを降りた。

ソンテウや、トゥクトゥクを探すが、見当たらない。
夜であるから、知らない場所に降ろされると、不安になる。

私が、ミニバスの運転手に行った。
ホテルに行きたいと。
すると、運転手が、オッケー、送るよ、と言う。

すると、降りた人の中で、町に行く人が、また、乗り込んだ。
タイ人もいた。彼らが、先に行き先を言うので、そちらに向かった。そして、欧米人たちである。最後が、私たちであった。

街中の、中流ホテルである。
私たちは、そのホテルの、コテージを取り、榊原さんは、ホテルを取った。
荷物を置いて、一緒に食事をすることになった。

一泊、600バーツの部屋である。約、二千円。
ベッドが、二つある。
私は、二泊を、そこにした。その後は、ゲストハウスにする予定だった。

榊原さんとの、食事で、ラオスのことを、多く聞いた。
その時点で、私は、ラオス行きを、断念していた。
瞬時の決断である。

行けば、とんでもないことになるという、直感である。

バリ島、タイ北部、トラック諸島である。そして、ラオスとなれば、私の個人活動は、限界である。
相当な、支援金が、必要である。

榊原さん夫妻は、明日、ラオスに出るという。
私のことを、尋かれて、野中だけが、ラオスに入りますと、答えた。
私は、この町で、ゆっくりしていますと、いうことにした。

真っ暗闇の街中である。
ホテルの明かりだけが、異様に、輝く。
そして、夜が、以外に寒いのである。

夫妻に別れて、部屋に入った。

部屋も、寒くて、野中が、窓をすべて閉めた。
そこで、明日、ゲストハウスを探し、明後日、そちらに移り、野中も、明後日、ラオス入りすることにした。

疲れたのか、すぐに、眠った。

翌朝の、朝食の時に、榊原夫妻に会った。
すでに、町を散歩していた。これから、ラオスに向かうという。
野中に、向こうで、会うかもしれませんねーと、話している。

私は、食事を終えて、野中と、散歩がてら、ゲストハウスを探すことにした。
料金は、おおよそ、400、300バーツの部屋である。

メコン河に向かって歩いた。
イミグレーションの建物の前に出た。この建物も、日本の援助によって、建ったものである。
その、界隈には、多くのゲストハウスがある。
私たちは、その、一軒、一軒を見て回った。
部屋の中に、シャワー、トイレのある、ゲストハウスを選んだ。始めは、400バーツの部屋を紹介されたが、野中が、二階の300バーツの部屋もあると、言うので、そちらを見せてもらい、300バーツの部屋に決めた。約、千円である。
私は、帰る日まで、そこに、滞在することに
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2008年02月03日

タイ・ラオスへ 3

メコン河の流れは、雄大である。
たゆたう、如くに流れている。
向こうには、ラオスが見える。

8日、私は、野中をラオスの、国境まで送った。その足で、ノーン・カーイの町を巡った。といっても、トゥクトゥクの男が、回ると言うのだ。
観光見物は好きではないが、連れまわされた。

市内見学を終わると、二時間が過ぎていた。
本当は、一時間のはずである。
すると、トゥクトゥクの男が、二時間だから、一時間、200バーツで、400バーツだと言う。
その通りであるが、私の約束したのは、一時間である。

相手が、確認しなかったことも、悪い。また、私が、一時間を過ぎたことを、言わなかったことも、悪い。

私は、男に、譲らず、あなたの、ミステイクだと、繰り返した。
相手も、よく解らないと、英語で言う。

最後に、私は、200バーツを出し、そして、100バーツを、チップだと言って、渡した。
男は、どうしても、400バーツが欲しいらしいが、私は、平然として、ゲストハウスに入った。
暫く、男は、留まっていたが、そのうちに、エンジンを掛けて、行った。

こういう場合は、相手の言いなりになるという、方法もあるが、私は、これからのために、妥協しなかった。
実際、私は、市内見学は、ほどほどで、良かったのだ。
日本人の悪い癖で、ついつい、相手に、乗ってしまう。

トゥクトゥクとは、バイクの後部に、二人用の座席を作って、お客を乗せるものである。
男は、街中の人ではなく、観光客専門の者だったと思う。
つまり、20バーツや、30バーツの、仕事はしない。大物を狙うのだ。

それっきり、その男には、会わなかった。

ゲストハウスで、過ごす一人の時間が、始まった。

まず、食べ物を、どこで食べるかである。
ゲストハウスの付近には、多くの食べ物屋がある。
地元の人を対象にした、食堂、欧米人向けの食堂、レストランである。

私は、地元の人の行く、食堂に出掛けることにした。
メコン河沿いにある、オープンハウスの食堂である。

店先で、鶏肉、豚肉、ソーセージ、その他を、焼いている。
ここ、ノーン・カーイは、鶏肉の産地であるという。

私は、もち米と、サラダを頼んだ。
と言っても、言葉が通じないから、指で指して、欲しいものを、言う。
もち米は、竹の米びつを指し、サラダは、店先にあったものを、指した。
この、サラダが好きになる。名前を、後で知る。

もち米は、日本の赤飯を食べる感じに似る。もち米だけ食べても、十分だ。

食べ終えて、清算すると、45バーツである。約、150円。

夜のために、店先で焼いていた、鳥のモモ肉を買う。
ついでに、豚のソーセージも買う。手作りである。

一度、部屋に戻り、体を横にする。
食べた後は、休むに、限る。

実は、私は、タイパンツと、Tシャツで、過ごしていたが、何となく、寒く感じていた。
それで、注意深く考えてみると、この地の、気候が、今までにない、ものだと気づく。

つまり、24時間のうちに、日本の四季があるのだ。信じられないようだが、まさしく、そうなのだ。

明け方の寒さは、冬である。そして、次第に、春に向かう。正午を過ぎると、夏になるのである。そして、夕方は、秋である。

その証拠に、人々の服装を見る。
一番、手っ取り早いのは、子供たちである。
皆、てんでに、季節の服装をしている。
ある子は、夏服、ある子は、冬服というように。

翌日の、朝は、格別に、寒かった。
Tシャツで、下に降りると、ゲストハウスのオーナーが、防寒服を着ていた。そして、私に、そんな格好で、大丈夫かと言うのである。

タイという国は、どこもかしこも、暖かい訳ではない。

時間差によって、温度の幅が、実に大きいのである。

ここは、ラオスとの国境に、位置する、タイ東北部、イサーンである。
風の強いのは、川風のせいである。

他のタイの人は、イサーン人を、やや軽蔑するように、イサーン人と呼ぶ。
これには、長い、物語がある。
18世紀末から、20世紀初頭にかけてのことである。

最初に、インドシナ半島で、植民地化を進めたのは、イギリスである。
次いで、フランスが、東から、半島を狙った。フランスは、アヘン戦争後、中国と条約を結び、中国進出を本格化させる。そのための、拠点をベトナムに求めた。
1847年、逮捕された宣教師の釈放を求めて、ダナン港を攻撃する。さらに、ダナンの割譲を求めて、1856年以降、断続的に、攻撃が続く。
ついに、1862年、フランスは、コーチシナを獲得する。これが、フランスのインドシナ植民地化の、第一である。

さらに、フランスは、メコン川を通り、中国に進出するルートを確保することを、画策する。さらに、そこから上流は、カンボジアである。
カンボジアと、1863年に、保護条約を結ぶ。
しかし、タイ側は、カンボジアの宗主権は、タイにあるとして、保護条約に反発する。
だが、フランスは、ベトナムが、カンボジアに持つ、宗主権を根拠に、タイに譲歩を求める。これにより、1867年、タイ仏条約が結ばれ、タイとカンボジアの保護条約の破棄と、フランスのカンボジア支配権を、認めることとなった。

カンボジアを手に入れたフランスは、さらに、ベトナム全土を、保護国化したのが、1884
年である。

ベトナムを確保すると、次は、メコン河流域の、ラオスである。
紆余曲折を経て、1888年国境画定交渉を行い、タイの属国の、ルアンプラバーンの支配下にあった、シップソーンチュタイが、フランス領となる。
タイ族の居住地であったものの、バンコクとは、今まで関係が無かった土地である。

フランスは、さらに、メコン河の左岸(東側)の全域確保に進み、1893年、メコン左岸から、タイ軍を撤退させるよう、要求したが、タイが拒否したため、フランスは、軍事行動を起こす。
パークナーム事件と、呼ばれる事態である。

結果、タイ側は、フランスの要求を全面的に、受け入れる。
300万フランの賠償金と、メコン川左岸と、メコン右岸25キロ地帯と、カンボジア北西部の、非武装化と、徴税権喪失である。
これにより、メコン河左岸は、すべて、フランス領となり、メコン河が、国境線としての、機能を持つことになる。

ただ、フランスは、これだけに、留まらなかった。本当は、タイ全土を、植民地化したかったのである。
しかし、1886年に、ビルマ全土を植民地化した、イギリスがいる。
両国は、1896年、英仏宣言を発表して、チャオプラヤー川流域を、緩衝地帯とする。
この、緩衝地帯は、バンコクから、北部タイまでは、含まれていたが、メコン河流域の、東北部、マレー半島は、除外された。

東北部と、マレー半島に、英仏が、それぞれ、進出しあうことを相互に容認する内容である。

東北部とは、イサーンのことである。

1909年の、領土、割譲によるまで、東北部は、タイではなかったのである。
およそ、100年前に、現在のタイの地図に、入ったのである。
不運である。
その時、ラオスから、タイとなった東北部に、人々が、流れたという。
先祖に、ラオス人が、多いはずである。
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2008年02月04日

タイ・ラオスへ 4

タイ・ラオスへ 4

東北部、イサーンは、100年前に、タイになった。
それゆえ、そこに住む者は、複雑な心境を持つ。

最初のホテルの時に、レストランの女の子に、タイ人かと、尋ねると、全くのタイ人で、ラオ人ではないと、きっぱりと言った。それ程、タイ人としての、誇りがある。
彼女は、三代目あたりであろう。しかし、生まれながらのタイ人であると、信じる。

私が、ノーン・カーイで、探っていたことは、どうも、タイではないような気がするのは、何かということである。

微笑みの国タイという、イメージは、ここ、イサーンには、全く無い。

笑顔が、極端に少ないのだ。
さらに、言葉遣いである。
早口である。タイ人のように、ほんわかとしているものではない。
まくし立てるといった風である。

こちらが、笑顔で、近づかないと、笑顔にならないのである。
勿論、例外は、ある。ホテルや、ゲストハウスの人である。また、食堂経営の人。それでも、何度目かで、漸く、安心した、笑顔を見る。

警戒心が強いという訳ではない。そういう、体質なのである。
しかし、皆、人は良い。

イサーンから、バンコク、チェンマイに、出稼ぎに出る人が多い。彼らは、イサーン人と、呼ばれる。少しの、蔑称を込めてである。
書きたくないが、売春婦の、産地とも言われる。

無愛想であるということを、体験した。
マッサージは、安い。一時間、150バーツからある。約、400円と少しである。
ある、美容室兼用の、マッサージ店に行った。
タイマッサージを一時間、状況によっては、オイルマッサージを一時間と、決めて行った。

店に入ると、オーナーの女性が、カッテングの最中である。
私が、入ると、挨拶したが、一人の女の子は、入り口のソファーに、座り、動く気配無い。
少し、立っていると、オーナーが、英語で、マッサージと、訊く。
オーナーたけが、英語が出来る。

女の子に、何か言うと、その子は、やっと、立ち上がり、私を二階に案内した。
タイマッサージ、ワンアワーと、言うが、通じない。
時計を指して、二時間を示すのだ。
下手で、二時間もやられては、たまらないと、一時間を示すが、解らない。
その内に、下に戻り、オーナーが、やってきた。オーナーが、時間を確認して、女の子に言う。

漸く、その子の、マッサージが、始まった。
普通は、足から始めるが、彼女は、肩から始めた。
まずまずの調子である。

上手ではないが、その雑さに、私のようなコリを持つ者は、丁度いい。
下手に、やさしくやってもらうと、逆に、具合が悪くなる。

終わった。
そこで、物は試しと、オイルマッサージを一時間、頼んだが、言葉が通じない。
私は、全身を使い、表現したが、解らない。
後で気づくが、アロマだったのだ。

結局、オーナーの女性を呼んだ。
話はついた。
今度は、彼女の指示である。
服を脱げという。
私は、パンツひとりになった。憮然としているので、パンツもかと、仕草で表現すると、首を振る。要するに、無愛想なのである。

ところが、オイルマッサージの時に、彼女は、もう一人の女の子を呼び、二人で、するではないか。それが、また、上手なのである。
単なる、撫で回すものではない。コリを、取るのである。
これで、無愛想も、許せた。

だが、清算の時に、600バーツを請求された。少し、ボラれたのである。
約、2000円である。
勿論、そこには、二度と、行かなかった。

典型的な、イサーンの人を見た思いがした。

9日の朝は、ゲストハウスで、アメリカンスタイルの朝食を取ったが、100バーツである。お客は、ほとんどいない。330円の食事は高い。
向かいの食堂に入ると、その半額程度である。私は、一度で、ゲストハウスの朝食をやめた。

午前中、私は、メコン河を眺めて過ごした。

言葉が出るままに、歌を詠む。

何ゆえに 我タイにいる 日の本の 大義を求めて ここにいるなり

実に、傲慢な歌である。

川ひとつ 隔てた国を なんとする 国境なくば 親しきものを

老いの口 ラオス貧しく してありて 手出しできぬと 足を留める

東北を イサーンと呼んで 吐き捨てる 微笑の国も 差別ありてや

ひとりにて 出来ることなど 限られて 奉仕の心 萎える時あり

今回、持ってきた本は、西行の山家集のみ。しかし、読たいとは、思わない。
昼近くなると、気温が、ぐんぐんと、上がるのが解る。夏の気候である。

川沿いに、お土産小路がある。それが、延々と続く。
面白い。
その大半の品物が、中国産である。
後は、ラオス、ベトナム、イサーンの民芸品である。
値段を見て、日本円にして、歩くと、頭の体操になる。

これも、あまり書きたくないことだが、中国人が、おおよそ、席巻しているのが、解る。
大型の店は、中国人の経営である。
そして、丁度、中国のお正月の最中だった。
町の至るところに、新年を祝う言葉を書き付けた、旗や、幟が立つ。
ある、道路などは、すべて、中国の新年を祝う旗が、道に、横断幕になっているから、驚く。
中国人を、無視出来ないということだ。

ただし、それを言えば、日本も言われる。
電化製品、自動車、食品に至るまで、日本製品が、大半を示す。
驚くべき、席巻である。

そして、私は、一つの、問題の解決を見た。
何故、日本が多くの支援をするのかということだ。
つまり、日本企業の進出のために、日本政府が、支援して、後押しするというものだ。
現地で、作らせても、日本企業である。

税金というもの、そのように、使用されている。
大企業優先であることは、事実である。しかし、世界的企業を、育てるために、必要なことでもある。それを、国内の問題と、どう、折り合いをつけるのか、ということである。

ゲストハウスには、英字新聞が、多数ある。
それらに、目を通す。私の英語力では、読めないが、ジャパンを探す。無い。経済新聞のみに、日本企業の不祥事の記事がある。
それだけ。

陽気なドイツの、じいさんに、声を掛けられた。
寒くて、ゆかたを、羽織っていたゆえ、日本人と、理解された。
英語で、捲くし立てる。
解るか、と、言われて、頷くと、さらに、喋る。
日本とドイツは、世界で、最も強い国だと言う。
日本の、長崎と、東京に、カンパニーをやっている、友人がいるらしい。

このように、欧米人の、おじいさんが、実に、多い。そして、現地の、タイ女性を連れている。これも、老人介護の一つであろう。

オーストリアからの、老人にも、話し掛けられて、適当に、応えていた。彼らは、自分が、喋れば、満足するのである。どこの、国の老人も、一緒である。
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2008年02月05日

タイ・ラオスへ 5

タイ・ラオスへ 5

街角で、子供が、とうぎひの茹でたのを、売っていた。
値段を訊く。
小学生くらいの、男の子である。
トェンティと、指折り数えた。

私は、小銭を、差し出すと、10バーツ硬貨を、一つ取った。
テンだったのだが、まだ、英語の数が、よく解らないのだろう。

その、とうきびと、少し歩くと、焼き芋が、売っていた。
日本の、サツマイモと同じである。
一つの、値段を訊いた。
タイ語である。よく解らない。小銭を出すと、7バーツを取った。

それを、部屋で食べた。
旨い。
とうきびは、子供の頃に食べたものと、同じ、味だった。そして、焼き芋は、中が、黄色で、旨い。

タイだから、安心して、お金を見せることが、出来る。
財布の中味を見せることは、海外では、危険である。
しかし、私は、大半、こうして買い物をした。

皆、一々説明して、お金を取り出した。
小銭は、10バーツ、5バーツ、1バーツである。それを、私に確認させて、取るのである。

お札は、20バーツ、50バーツ、100バーツ、500バーツ、1000バーツである。

お札を、使うと、小銭が貯まるので、小銭も、使うようにする。
一番安い水は、ペットボトル6本で、20バーツである。
食堂の水は、大半が、10バーツである。

現地で、ろ過して作る水は、500ミリリットルで、6バーツである。
約、20円。

土曜の夜、私は、トゥクトゥクの運転手に、ナイトバーを紹介してくれと、乗り込んだ。
夜の街である。
ゲストハウスの、周辺も、夜になると、小さな電球が点滅して、それらしくなるが、ノーン・カーイの飲み屋街に、出てみたくなった。

普通では、面白くないので、レディボーイバー、ゲイバーと、言うと、驚いた。
しかし、二軒並びの、ゲイバーに、連れて行かれた。
ところが、ゲイは、一人もいない。

ビールを頼んで、少年たちと、話をした。
彼らは、体を売る、普通の少年たちである。
20歳から、27歳程度の、幅である。

だが、20歳の子は、17歳と、私に言う。後で来た子が、嘘をばらした。ただ、悪気ではない。彼らは、英語も通じないので、私の質問に、ちんぷんかんに、応える。

その、飲み屋街は、何と、三軒のみで、後は、二つのゲイバーの前に、レディバーがあるだけである。

私は、一時間ほどいた。
帰りの車を、どうするかと、考えていると、一人の男の子が、やって来た。
ボーイである。
一番、しっかりとした顔付きをしていた。

そのバイクで、ここまで、行ってくれるかと、ゲストハウスの、名刺を見せた。
すぐに、オッケーと、言う。

彼らが、付き合うのは、多く、欧米人である。一晩、最低、1500バーツのようである。
だが、ゲイは、一人もしないという。金を得るためだけに、体を売るのである。

バイクの後ろに乗ると、彼から話しかけてきた。
明日の予定を、訊く。
私は、リラックスタイムで、ゲストハウスで、休んでいると言った。
彼は、バイクで、町案内をしたかったようである。
ガイドで、金を得ようとしていた。

私は、もう、市内見学は、嫌なので、その話には、乗らなかった。

ゲストハウスに着いて、私は、100バーツを彼に渡した。
喜んだ。
二度と会わない相手であろう。

ビールを飲んで酔うのであるから、矢張り、異国である。一本飲むのに、やっとである。
しかし、日本酒を飲みたいとは、思わない。不思議だ。
矢張り、酒は、雰囲気で、飲んでいるのだろう。

ただ、ゲストハウスでは、私の話題が上っていたようだ。
トゥクトゥクの、運転手が、ゲストハウスのオーナーの知り合いで、私を、ゲイバーに連れたと行ったのだ。
そこで、私が、ゲイボーイを、連れてくると、思ったらしい。
勿論、部屋に、連れて帰っても、問題はない。
オーナーが、私が庭に入ると、何か言った。
よく解らない英語である。
すると、横から、英語の堪能な、お手伝いの、青年が出てきて、私が、男の子を、テイクアウトしたのかと、尋ねる。
ノーノーノーと、私が言う。
危ないことを、して欲しくないという、思いなのだろうと、思った。

最初の夜、私の隣の部屋で、欧米人の男が、女を連れて帰り、激しい行為を始めた。それは、朝方まで、続いた。
一度、目覚めて、朝、目覚めると、まだ、続いていたから、驚いた。

そういうことが、普通なのだろうが、まさか、ゲイボーイを連れ込むとは、考えていなかったようである。

私は、オーナーと、青年に、グッナイトと言って、部屋に上がった。
シャワーを浴びてすぐに寝た。

夜風は、冷たいが、私は、少し窓を開けて寝た。
野中がいたら、完全に閉めるたろうが、私は、どうしても、少し空けておきたいのだ。

翌朝、激しい、鳥の鳴き声で、目を覚ました。

すぐに歌が出た。

朝に鳴く 目覚めの一声 あざやかに 異国の鳥の その強烈さ

名も知らぬ うぐいすに似た 異国鳥 大和心を かきたてられし

私は、そのまま、浴衣を羽織り、階下に降りた。その鳥を、見たかった。しかし、鳥の姿は、見えない。

そのまま、ゲストハウスに置き付けの、インスタントコーヒーを飲んだ。
暫く、そうして、朝の気配を感じて、楽しんだ。

鳴く鳥も 涼しげにあり タイランド 吹く風薫 メコンの流れ

大陸は 国の境に 妙ありて 微妙な意識 聞けば驚く

その日の朝は、歌遊びをした。

国離れ 国見る目が さわやかに 国を思うて 何が悪い

川一つ 挟んで国境 作る人 その賢明さ 見事なりけり

旅人の 我は読むこと することなく ただ見つつと 見尽くすなりて

あまりにも 悲惨なるやと 語る人 それ聞く我は ラオスに入らず

ただ今は、日本にて、引きこもりが、多いと聞く。
家の中に、籠もっている。しかし、それとは別に、外こもりという、現象があるという。
つまり、一定期間働いて、そのお金で、タイに長期滞在するというものだ。

榊原夫妻も、そういう話をしていた。
ただ、その人たちが、年を取った時、どうするのだろうという。
若い時は、いいが、年老いてゆく。その時、彼らは、どうして、老後を過ごすことができるのかと。

非常に、難しい問題である。

日本に無いものを、求めて、タイに逗留する。
物価も安い。しかし、いつまでも、そうしては、いられないのではないのか。

次第に、タイも、物価が高くなっている。
榊原さんの知り合いも、タイに、家を持っているが、売りたくても、高くなって、売れないという。
持ったのは、いいが、手放して、日本に戻りたいと思っても、うまくいかないのだ。

そんなことを、考えていると、川柳が出て来た。

ひきこもる 男も異国で 女買う

更に、歌一首

ひきこもり 今外こもり タイランド 日本の男の 逃避行なり

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2008年02月06日

タイ・ラオスへ 6

タイ・ラオスへ 6

10日の日に、新しいマッサージ店に、出かけた。
地元の人が来る店である。
一時間、150バーツと、安い。約、480円。

程よい、愛想のおばさんが、担当だった。
足から、よく揉み解す。実に、丁寧に、指圧する。
矢張り、タイマッサージは、足のマッサージが、主である。下半身は、実に、有意義である。ただ、肩が、惜しい。肩の凝りを取ることが出来れば、最高だ。

おばさんは、日本語を、三つ知っていた。
気持ちいい。ありがとう。痛い。
私とは、英語で話した。お互いに、あまりよく出来ない英語なので、通じるのである。

私は、そこに、二日通った。

足をよくよく揉まれると、全身の血行が良くなる。そして、体が、軽くなる。
ただ、今までのタイでは、肩凝りを、あまり覚えないほど、暑いのだが、ノーン・カーイでは、寒さで、肩が凝るのである。

最初と、最後に、お茶を出してくれる。
ジャスミン茶だと思う。

お客は、皆、地元の人である。
二回目の時、欧米人のおじさんが、フットマッサージをしに来た。
それ以外は、地元の人。

その後、部屋に戻り、暫く、休んだ。昼食も、買ってきた、パンなどを食べて過ごした。

持ってきた、西行の、歌集を読み始めた。
珍しいことである。
旅の間は、あまり、本を読まない。
読むより、見る方が楽しいのである。

ノーン・カーイは、見るものが少ない。
メコン河のみ、眺めていても、飽きない。

西行の歌は、素直で、解り易い。それは、万葉に続くものである。
私は、西行を、万葉の精化とみる。

万葉集が、西行で、一つ完成するのである。

西行は、生まれ持っての、歌詠みである。
小細工無しの、歌詠みである。
口から出る言葉、そのままが、歌になる。

23歳で、出家し、旅をして、歌を詠む。
日本の精神の底流に流れる、もののあわれ、というものを、歌で表現する。
いずれ、私の、もののあわれについて、の中でも、触れることになる。

西行も 詠まざりしなり 東南の 国の風情を 我は詠むなり

メコン河 西行歌集を 詠ずれば 大和心に 流れも変わる

部屋の中で、辛吟して作る、藤原定家のような、歌詠みもいる。それも、ありである。
多くの日本古典文学は、定家によって、現代に、継承されている。その功績は、非常に大きい。そのような、文学者、歌人もいる。

そして、旅をして、歌を詠む、西行のような歌詠みもいる。

それぞれが、いい。

野中から、電話が入る。
ラオスからである。
ラオスの首都、ヴェンチャンから、バスで三時間の町に行き、そこから、山に向かい、中腹の村のゲストハウスにいるという。

子供服の、配布の状況を聞く。
ゲストハウスの、付近も、貧しく、ある二人の姉弟は、親を亡くして、村の老人たちによって、育てられているという。
子供服を、二三持って行き、まだ、必要かというと、必要だと言うので、皆持って行くと、村の人々が、待っていた。
そこで、皆、広げて、村の人に任せると、取り合うようにして、無くなったという。

持っていって、本当に、良かったと言う。
この上の村は、まだ、貧しい所だが、今回は、それ以上に行かないとのこと。

実は、ヴェンチャンから、バスで三時間の町は、欧米人たちで、大賑わいであるという。
麻薬と、セックスである。
勿論、日本人もいる。

警察官がいない、町だという。
取り締まる誰もいない。
そこで、皆、麻薬とセックスを楽しむために、その町に集うのである。

野中のゲストハウスにも、二組の、日本人がいた。
野中が、ノーン・カーイに戻ってから、色々と、話を聞くことになる。

子供服は、まだまだ必要であるらしい。
兎に角、物が無いという。
服の無い子は、裸であるが、暖かいから、救われている。

それでも、子供たちは、楽しそうであるとのこと。

あまりにも 貧しきゆえに 貧しさを 知らぬ子たちが 楽しく遊ぶ

私は、その電話を受けて、少しして、夕食のために、近くの、タイレストランに出た。
そこは、地元の人が、集う店だが、精一杯、欧米人向けにしているのが、解る。
メニューは、タイ語と、英語で書かれている。

私は、もち米と、野菜スープを注文した。
ところが、野菜スープは、塩が効いて、しょっぱいのである。
ダシの味がしない。
少しつづスープを飲み、もち米を食べる。
何とか、食べ終えて、早々に、店を出る。
45バーツ、約140円。
安いが、味は、酷い。

そのまま、メコン河のイミグレーションの通りの、店に買い物に行く。

二軒続けて、小売店がある。
同じような物を売っている。
私は、手前の店に入った。

ビールと、ピーナッツ、パンを少し買う。
突然、日本語が飛び出した。
その店の主人である。

八年間、日本に出稼ぎに出ていたというから、驚いた。
大阪、川崎などに、いたという。

その時に貯めた資金で、きっと、この店を開店したのだろう。

この地から、日本に出稼ぎに行くという。
驚きと、感激である。
出る時に、よろしくお願いしますと、声を掛けられた。
仕事の時に、覚えたのだろう言葉であろうか、驚いた。

私は、毎日、その店に買い物に行くことにした。

南国の 四季無き国の 夕風も 国思うべき 寒き風吹く

国境の 町は静かに 暮れ行きて 家路急ぐに 国境なし

どこで、どんな出会いがあるかもしれない。
それを、不思議と思えば不思議である。
ノーン・カーイは、どうですかと、尋ねられて、私は、いい町です、と答えた。
もう、来ない町かもしれないが、そういうことが、礼儀である。

河を見る。

ノーンカーイの 夜風に触れる メコン河 岸辺向こうに ラオスの灯あり

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2008年02月07日

タイ・ラオスへ 7

タイ・ラオスへ 7

12日、野中から、明日帰るとの、電話あり。
私も、一人で三泊した。
今日で、四泊目である。

朝は、日本に電話をしてみた。携帯電話から、簡単に掛けられるのである。
本当に便利になった。

朝は、ゲストハウスのコーヒーと、ゲストハウスの前にある、手作りジュースの店で、絞りたての、みかんジュースを買う。
その店の、女主人は、全く愛想が無い。憮然としている。
10バーツを置いて、みかんを指すと、憮然として、絞ってくれる。
小さなビニール袋にいれた、ジュースを持って、部屋に入り、ストローで飲む。
みかんは、日本のみかんと、同じである。ただ、種が入っている。

ゲストハウスにある、コンピューターで、インターネットを見る。
ホームページを確認するが、日本語で、打ち込むことができない。
30分程見て、20バーツを払う。

今日は、川沿いの、お土産小路に行き、何か、買おうと思う。
基本的に、人に、お土産などは、買わない。観光旅行ではない。必要な物を、買う。

この、お土産小路には、面白いおばさんがいる。
ギターを持ち、肩のところに、マイクをつけて、歌うのだ。マイクは、効いていない。単なる飾りである。
その歌である。
ただ、アァー、アァーと、それを、繰り返すのみ。
ギターも、形だけ。それだけの芸で、勝負である。

今日で、三度目である。
私を見ると、笑顔になる。
初めて、5バーツを缶に入れる。
すると、即座に、その、小銭をポケットに入れる。

タイの、物貰いは、曲者が多いと、聞いていた。
それで十分、生活出来る。さらに、良い家に住んでいる者も、いるという。

だが、彼女は、一発芸での、勝負をしているから、大したものだと思う。
アァーアァーである。
それで、お金を得られるとは、玉である。

それとは、別に、カラオケを背中に背負って、歌う、目の不自由な、男がいる。それが、また、旨い。上手である。
最初は、歌のテープを流しているのかと、思った。しかし、本当に、歌っているのである。
感激した。

小路には、同じ物を売る店が多い。
そこで、同じ物の値段で、違いを見て歩く。
小物入れが、一つ10バーツである。それを、見た。6つで、55バーツ。それが、50バーツの店がある。
行きつ戻りつして、私は、6つで、50バーツの店で、買った。
店員が、一つ得だと、身振りで言う。その通りである。

私は、それを、薬入れにするために、買った。ただ、余れば、誰かに、お土産として、上げてもいい。

その途中で、昼の食事を買う。
フランスパンの、サンドイッチを買う。
25バーツである。きっと、食べきれない量だと、思う。
途中、中国系のスーパーに立ち寄り、色々と見て回る。
日本のダイエーのような、安売りの店である。
サンマの缶詰を買ってみた。10バーツと、安い。そのまま、缶に、サンマと、書いてある。興味である。そして、水を二本買った。

部屋に戻り、パンと水で、昼の食事をする。
そして、サンマの缶詰である。
開けて、爪楊枝で、サンマを引き上げてみた。小さい。それが、3つのみ。後は、汁である。
これだけかと、考えた。
少し考えて、タイの食事は、ご飯に、汁を掛けて食べるのが普通である。つまり、身は、3つでも、汁で、ご飯を食べるのだと、納得した。

味は、悪くない。しょうゆ味である。

フランスパンの方は、矢張り、半分で、十分だった。

ハムと、干し肉と、玉ねぎが、挟んであった。それに、小さな袋の、タレをつけて食べる。そのタレが、特性で、辛い。ところが、それが、美味しく感じられた。
魚醤に、辛子などを入れて作る。
それぞれの店で、少しつづ、その味が変化する。それが、面白い。

食べてから、私は、少し体を横にした。

夕食のことを、考えるから、また、面白い。

旅は、食べることである。
ただ、私の場合は、安くて、現地の物という、定義であるから、高級料理店には、行かない。また、行けない。

ノーン・カーイでも、高級ホテルは、ある。
そこに行けば、それなりのメニューがあるだろう。
だが、行く気にも、なれない。

以前、チェンマイのホテルで、日本食のレストランに行った。
日本並みの料金である。
味は、駄目。
完全に、駄目。それで、料金は、現地の価格の何倍である。
二度と行かないと、決めた。
それは、現地の物で、食あたりしたせいで、ホテルの和食と、思ったのである。
しかし、それ以後は、止めた。

さて、ここで少し、イサーンと、タイとの、相違を見ることにする。

それは、信仰形態である。
ゲストハウスの近くにも、お寺があり、中でも、僧を養成するお寺もあった。
小僧さんたちを、多く見た。
また、地元の食堂に、托鉢に来ている、小僧さんたちもいた。
おおよそ、仏教徒であろうが、他の地域と、その温度差が違うと感じた。
熱心さが違うのである。
それ程、強い意識は無い。それでは、元からの信仰があるのかといえば、そうでもない。

バンコクの空港などでは、僧が、警備の者に、何か尋ねると、帽子を脱いで、対応するほどの、姿勢だが、それ程のものはないようである。
そして、仏教の前の、ピーという精霊信仰である。
あるにはあるが、それ程、熱心ではない。
ゲストハウスの、玄関の横にも、ピーの、祠があったが、一度も、そこに、供え物を置いたのを、見ていない。

国王の肖像も、他の地域より、少ない気がした。

勿論、道路を車で走ると、国旗と、王旗が、たなびいている。これでもか、というほど、掲げられてある。

お寺には、必ず、国王の、出家した時の写真もある。

だが、少し違う気がする。
まだ、私の、滞在期間が、短いせいもあろうと思う。

イサーンの人々は、生活することに、追われて、そこまで、手が回らないのではないかと、思えた。つまり、余裕を持てない。
日々が、戦いである。生活との。

また、中国系の活躍が、目覚しく、それに、飲み込まれているのかもしれない。
ゲストハウスには、国王の写真も、仏教関係のものも無かった。

ラオスから、1975年に亡命して、ワット・ケータという、異色の寺院を作った、ルアンブー・ブンルア・スラリット師の寺院を見た。
仏教というより、ヒンドゥーの影響が強く、驚いた。
色々な、像を見た後、寺の中に入った。
一階は、仏陀の像があったが、二階に上がると、そこは、ヒンドゥーの世界である。
仏陀を、ヒンドゥーの一部と、捉えていると、感じた程である。

また、メコン河に、生息する、魚の一種である、パヤナークという長い魚の像が多く、信仰の対象となっている。

七頭の、パヤナークの像の下に、仏陀を置いている像などは、明らかに、仏陀の保護として、扱われている。
日本で言えば、八大竜王のようである。

きっと、生命力が、旺盛なのであろう。
町の至るところにも、パヤナークの、像があるのだ。

ピーという精霊信仰より、パヤナーク信仰の方が、勝っているようである。

原始信仰を観る時、その地の、生き物に、一種の呪術的なものを、投影する。
メコン河、周辺は、この、パヤナーク信仰が、それに当たるのだろう。
ラオスの方は、どうかと、興味がある。

中国寺院もあり、私は、そこに行かなかったが、道教、儒教のものだろう。

ビルマ、タイ、ラオス、カンボジアは、仏教が主である。
しかし、歴史を見ると、侵略、戦争の跡が多い。
歴史家は、マンダラ型の、国家という、表現を使う。
王室を中心に置いた、マンダラである。

それが、紆余曲折を経て、現在に至る。
後で、それについてを、書くことにする。

兎も角、イサーンは、他のタイと、違う雰囲気があるということだ。

ピーの、祠は、ほとんど見ないといってもよい。
ただ、面白いのは、祠があり、仏陀が置かれている前に、髪の長い、女の像があり、それが、何を意味するものかが、よく解らない。
野中が、ラオスでも、それを、多く見たという。
何でも、仏陀を、助ける者のようである。
仏陀に、乳粥を差し出した、スジャータという、娘かとも思ったが、違うらしい。

タイの仏教は、小乗であるが、多分に、ヒンドゥーの影響を受けていると、思われる。
恐るべし、ヒンドゥーの魔力である。
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2008年02月08日

タイ・ラオスへ 8

夜に、もう一度、地元の人の行く、タイレストランに出向いた。

今度は、牛肉のミンチの炒め物と、もち米を頼んだ。
最初に、もち米と、大量の生野菜が出て来た。
生野菜は、水で洗っている。
少し心配だが、食べる。

ミンチの炒め物が出てきた。
何とも、不味い。
しょっぱいだけである。それを、生野菜と食べろ、ということなのだろう。
交互に食べる。
もち米だけは、美味しい。

生野菜は、キャベツ、ハニーレタスのようなもの、そして、いんげんの、生である。いんげんの生は、さすがに食べられなかった。

それでも、50バーツである。約、170円。
実に、安い。矢張り、地元のレストランである。

そのまま、日本で働いていたという方の店に行く。
ビールと、水を買う。
店番は、子供がいた。主人は、いなかった。

部屋に入ると、八時になっていた。

少し歌を詠む。

父母の 姿をみたり メーサイの 貧しき親の 生きる情熱

死にたくも 生きたくもあり この憂い 深き病に 陥る我は

さらにまた 旅行く空の あわれさに 流れる雲を 追い行く我は

通じぬは 言葉なりせば 同じ血の 人の思いは 通じぬわけ無し

微笑みは 国境越えて 共通の 人の心を 開く術なり

腹が、収まってきたので、ビールを飲む。
私は、酒を飲むためには、物を食べない。食べると、飲めなくなる。受け付けないのだ。
酒を飲んでいて、一口でも、食べると、もう、酒は、嫌になる。

一人で、夜を過ごすと、様々なことを、考える。
実にいい。

電話に、煩わされることもない。
好きなだけ、考えることが出来る。

世界の、グローバル化は、世界の縮小である。
世界の一地域で起こることが、即座に、世界に広がる。
世界は、狭くなっている。
一つの国の問題が、その国だけの問題ではなく、世界の問題になりえる。

そこに、大きく立ちはだかるのは、価値観である。その価値観を、宗教が、負う。
問題は、それである。
主義、イデオロギーというものも、宗教と同じである。

何とか、それを超えるべくの、働きかけが必要である。
つまり、それらを、包括して、超える行動である。

それが、人道支援である。また、そうでなければならない。
だが、それにより、逆に、宗教、主義の、偏狭さを、増す場合もある。それには、注意が必要である。
人道支援を受けて、その裏では、軍備を充実させるという国もある。

政府支援は、書いたように、大企業の世界化を、推し進めるものである。それも、よし。
それでは、私のように、個人や、民間の支援は、人と人の、結びつきを主にして、ある感情的、親密感を作るものである。

それが、後々に、日本と、その国との関係を良い方向に、向かわせると、信じる。
それが、大きな目的である。
私が言う、千年の日本のために、である。

国も、最後は、個人的感情に、動かされる。

良いことをするということには、やや、偽善的な感情の、抵抗感がある。
それは、私も、じゅうじゅう、承知している。

例えば、野中が戻り言う。
子供服を皆に、上げる。配布する時に、勇気がいったと言う。
つまり、良いことをしているという、偽善的感情である。
昔の、自分なら、鼻で、笑った行動であると。

しかし、実際に、それを実行して、相手が、非常に喜び、それが必要であることを、実感として感じて、それは、実に有意義なことであると、気づいた。

その子供服は、人から、貰ったものである。それを、ただ、渡すのみである。
こういう、旅の仕方もあると、思ったという。

日本人旅行者にも、多く出会ったが、もし、彼らも、子供服を持参して、村の人々に、配布したら、また別の付き合い、村人との、触れ合いが、出来たはずであると言う。
そして、それは、有意義なことである。

必要な物を、必要としている人に、支援する。
何の恥ずかしいこともない。

実際、野中に対して、村人は、その対応が、全く変わったという。
村を、見学するのに、抵抗がなくなった。
よそ者意識が、無くなったのである。
知り合いの関係になったという、僥倖である。

麻薬と、セックスを求める日本人旅行者に、新しい、旅の喜びを、伝えたいと、野中が言った。それだけではない、旅もあると。

使用しなくなった、子供服を持参して、配布するだけで、新しい関係が築けるのである。
そして、荷物は、そこで、無くなる。手ぶらになるのである。

私が、今回、ラオスに入らないということで、野中は、新しい体験と発見をした訳である。
ただし、私は、次には、タイを通らず、直接、ラオス入りして、支援活動をしようと、考えた。

無視、出来なくなったのである。

個人としての、活動を、これ以上に広げることは、無謀だと、思いつつ、矢張り、性格である。何とか成るだろうという、楽観である。

実は、寄付商売とか、NPO商売というものがある。
それで、殺された人もいる。
例えば、ベトナムで、学校建設をしていた、NPOの男が、行くへ不明になった。殺されたのだ。
彼は、ベトナムに、学校を作ると、日本にて、寄付を募り、一応は、学校を建てた。ただ、建てただけである。そして、更に、募金運動をして、金を集めた。
その地域の人には、実に、傲慢不遜に接していたという。
ところが、彼の本性が、ベトナム人に、見抜かれた。単なる、金目当ての、行動であること。学校を建てても、それは、使用されていないのである。
地域の人の、不信と、反発を招き、遂には、殺されるという事態になったのである。

こういう、団体は、多い。
表面は、確かに、ボランティア活動であるが、裏は、商売なのである。
金を、いかに、人から、巻き上げるかということである。
私は、それを、寄付商売と言う。

勿論、私も、その一人である。
ただ、寄付する人が、私と、行動を共にして、私の行動を確認すれば、いいことである。
ただし、同行であるから、私と同じように、安宿に泊まり、私と、同じ物を食べて、貰う。

ある団体は、その団体の施設に、人を招くが、高級扱いをする。
そんなことで、誤魔化されるのである。

そこの人と、同じように寝泊りし、同じものを食べることで、より、支援の様を理解すべきである。

そこで、初めて、支援することの意義と、現状を知ることが、出来るというものである。
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2008年02月09日

タイ・ラオスへ 9

タイ・ラオスへ 9

12日である。野中がラオスから、戻る。
帰国の日が、近づく。

朝は、ゲストハウスの庭で、コーヒーを飲んで過ごした。
思いつく、歌を書き付ける。

一人の男が、私に話し掛けた。
アムステルダムから来た、中年の男である。

私に、何を書いているのかと、問う。
私は、日本の古い歌を、書いているというと、それは、何かと訊く。

英語で説明するのが、難しい。
要するに、日本の古い歌の形があり、それを書いているのだと言うと、シンガーかと、訊く。
歌手ではなく、ポエムだと言うと、少し納得したが、古い歌という、言い方を、アイドントノウと、言うのである。古い形式の歌の形と、説明すれば、よかったと、後で気づく。

彼は、奥さんと、タイを旅していると言う。
奥さんを連れて旅する人は、珍しい。
若いカップルや、子供づれは、いることは、いるが、中年は、現地の女、タイ人の女を連れていることが、多い。

私も、もう少し英語が出来ると、話し合いが、スムーズにゆくと思うが、あまり、覚える気は無い。
それに、不自由しない。

彼は、何か、色々と話したが、私の方は、ただ、相槌を打つ程度である。
何となく解るような、感じである。

タイ語も、あまり、覚えない。
覚えられない。
発音が難しすぎる。
語学というのも、才能である。私には、語学の才能は無い。

才能があれば、一度で、覚えるものである。

好きな料理の名前も、店の人が、私に教えるが、覚えない。
私の好きな、サラダは、パパイヤサラダで、甘酢のソースで作る。
ソムタムというが、覚えられない。
これも、野中に聞いて書いている。

注文するのに、身振り手振りでする。
店の人は、それで、何とか想像してくれる。
鍋を手で表し、火をポッポと、手で表現すると、それに似たものが出るというもの。それも、楽しい。

地球の歩き方の本を持って、料理の図を見せることもあるが、無いと言われることもある。
その土地の料理ではないということだ。
だから、間違いもある。地球の歩き方である。
でも、そんなことは、どうでも、いい。

少しの英語で、何か質問して、楽しむ程度が、私には、いい。

後は、向こうの人に、日本語を覚えて貰う。それが、いい。

一度、部屋に戻り、再び、食事をするために、出た。
近くの、食堂である。
現地の人の食堂だ。

店先で、色々な肉を焼いている。
私は、ソーセージと、例のサラダと、もち米を注文した。
相変わらず、指差してである。

それで、十分、満腹になる。
45バーツ。約、150円程度である。
実に、安い食事である。

もち米は、半分程、余したので、持ち帰る。
おばさんは、必ず、それを、袋に入れてくれる。

部屋に戻り、ベッドに体を、横たえる。

そうして、寝てしまった。

目覚めて、西行を読む。
感じた歌には、線を引く。
西行を読むと、歌が出来る。

歌詠みは 心素直に 誠なり 作為の技も 捨てて立つなり

そうしている内に、日本のことを、思う。

民族の 伝統卑下し どこへ行く 行き先無くし 喜ぶ愚衆

そうそう、ここで書くことが、あった。
丁度、ノーン・カーイでは、市議会議員選挙であった。
選挙運動が、行われていたのである。しかし、その様、日本と、全然違う。
日本では、何々党の誰々ですと、繰り返すが、こちらでは、音楽を流す、車に、写真を貼って回るのである。
その音楽が、演歌なのである。
それが、面白い。

音量規制がないゆえに、大音響で演歌を、流す。
日本の演歌が、タイに流れたと言える。

今は無き 日本の演歌 ここにあり 流れ流れて ここに至れり

タイにては 演歌主流で 芸術と あいなりたりて 威風堂々

兎に角、演歌なのである。
最初に泊まったホテルで、流れていたのが、クラシック音楽であったのが、不思議な程であった。

夕方、野中が、戻るので、私は、ゲストハウスの庭で、コーヒーを飲みつつ、待った。

四時頃、野中が、戻った。

旅の相棒が、戻るのは、嬉しい。
早速、ラオスの話を聞く。

野中が、行った村は、バンビエンという村である。
その村の、山の中腹にある、ゲストハウスに泊まった。
バンビエンは、麻薬とセックスの町で、欧米人で、たいそう賑わっているという。

このエッセイを、ラオスの政府が読んで、麻薬撲滅に着手したら、面白いが、まず、読まないだろう。

勿論、日本人もいる。
以下、省略する。

部屋に戻っても、野中の話が、続いた。
これから、ラオスに支援活動をするか、否かと、私は考えたが、前に書いたように、することになるだろう。

日本の企業で、ラオスに、学校建設をしている、企業がある。
これからは、企業イメージを高めるためにも、企業の支援活動が、注目されるだろうと、思える。
だが、人と人の関係である。
建物だけを建てて、善しとするものではない。
如何に、人と人を結びつけるか、である。

野中が、今日は、一日何も食べていないと言うので、早いが、夕食を食べるために、出た。
一度、野中と、行った、店に向かった。

中国人が食べていた、鍋物が、食べたくて、指差し、注文した。
中国人は、正月のお祝いに、食事に来ていると、店の女の子が、教えてくれた。
二つのテーブルを使っての、大家族である。お土産小路で、店をしているという。

そして、私は、その家族が、食べていた、ソーメンのような、緬を注文した。彼らは、それを、そのまま食べているのである。
出てきたものは、ソーメンそのままである。

食べてみると、ソーメンである。
野中が、鍋の汁を入れて食べる。旨いというので、私も、真似をした。
日本のソーメンと、変わらない。

鍋は、野菜が多く、味が薄い。
それに、好みで、辛いソースをつけて食べるのである。

ほうれん草のような、野菜が多く、キノコ、マッシュルームのようなもの、である。
エビが多く入っていた。出汁にしているのだろう。しかし、どうも、海のものである。海は遠いから、輸送してきているのだろう。

店の人は、英語が全く通じない。野中が、タイ語で、話し掛ける。
女の子は、店主の娘だった。手伝っているという。高校生であり、お金があれば、大学に行き、コンピューターの勉強をしたいと言う。
大学は、地元の大学であり、この町から、出たくないと言う。この町が、好きなのだ。

タイ語で、話をすると、愛想が、良くなった。

その内に、欧米人のカップルが、入ってきた。
英語であるが、全く通じない。
彼らは、諦めたように、注文して、出て来たものを見て、ノーと、言っていた。想像していたものと、違うのであろう。
しかし、仏頂面をして、食べ始めた。

私たちは、それを見て、おかしくて、笑いたくなったが、我慢した。
男の方が、私たちを見て、肩をすくめ両手を上げる、仕草をする。

しかし、次に行った時、何と、英語のメニューを用意していたのである。
実に、素早い、反応だった。
ただ、野中が見て、変な英語だと言う。
ヌードルといっても、数多くある。どのヌードルなのかが、解らないという。
スープといっても、数多くある。どのスープなのか、これでは、解らないらしい。

そういえば、別の店で、フライヌードルという英語を見た。フライヌードルとは、どんなものか、興味がある。炒めた緬ということで、焼きそばのことか。よく解らない。
posted by 天山 at 12:24| H20.02 タイ・ラオスへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月10日

タイ・ラオスへ 10

タイ・ラオスへ 10

野中が、戻った翌日は、帰る日の、前日である。
13日の朝、3:40に、夢を見て、目覚めた。

象徴夢であった。

再び、眠り、朝日が出てから、起きた。

庭に出て、コーヒーを飲もうとした。
すると、一片の白い花びらが、落ちてきた。

名も知らぬ 白き花あり あわれなり メコンの風に 大和の心

野中は、眠っている。
若い人は、よく眠る。それは、体力があるからだ。眠るのも、体力である。
年を取ると、眠られなくなる。眠る体力が無いのだ。

寒さが、少し薄らいでいる。

白い花びらが、気になり、歌を詠む。

風に散る 一葉よりも 軽きもの 人の命の さらに軽きよ

散ればこそ 芽を出すものを 人の亡き 後は戻らぬ ことぞ悲しき

実は、私は、しばらく、20年ほど、歌を詠むことがなかった。
母に、歌を詠むことを勧めて、その母の歌が上手になってゆくのを、楽しんでいた。
小説を書くことを、楽しんでいたが、この頃になって、歌を詠むことが、多くなった。
これは、年齢なのか。
小説を書くことは、実に、体力がいる。職業作家には、なれないと、諦めていた。勿論、作家になるほどの、小説は、書いていない。
ただ、物語を作るのが、好きなだけである。下手の横好き、というやつである。

野中も、起きてきた。
一緒に、コーヒーを飲む。
明日の移動を、相談する。
空港のある、ヴドーン・ターニまで、行かなければならない。そして、バンコクへ行く。

トゥクトゥクの、おじさんに聞いてみることにした。
朝、ゲストハウスに顔を出す、おじさんがいる。

暫く、二人で、英字新聞を読む。私の場合は、眺める、である。
野中が、声を上げた。
新聞の一面に出ている記事を、私に示した。
何、セックス。
いや、トイレのことだよ。
野中が言う。
ついに、レディボーイのトイレが出来たって。
あるタイの空港に、レディボーイ用のトイレが、出来たということだった。

つまり、男、女、そして、レディボーイの、三つのトイレができたということである。

レディボーイの国、タイである。
野中は、翌日、帰る前に、その記事を切り抜いて、貰っていた。

トゥクトゥクのおじさんが、やって来た。
帰りのバスの時間を訊く。
予約して、乗るのだという。もう、チケットは、売っているというので、私たちは、すぐに、チケットを買いに出た。

風を切って、トゥクトゥクが走る。
この町に、再び来ることがあるのかと、自分に問うた。何とも、解らない。
二度と来ないかもしれない。

この地をも 旅の一つと 名残惜し 生きること旅 と思う身にも

帰国する こと惜しむ身も いざ心 立ててゆく明日 今日ぞ忘れぬ

チケットは、すぐに買うことが出来た。
何事も、早め早めが、いい。
下手をすると、乗れないこともある、と。
ゲストハウスに戻り、そのまま、食事に出た。

店先で、焼いている、地元の人の食堂である。
もち米、豚肉、鶏肉、春雨サラダを注文した。丁度、春雨サラダを作っていたので、それを、注文した。
サラダは、思った以上に甘かった。
メコン河を眺めての、食事である。

留め置きて 国境流る メコン河 心にかけて 忘ることなし

異国にて 風にあわれの あるものと 生まれし国を 誇りたるかな

二人で食べて、満腹した。75バーツ、約240円。
地元の食堂は、安い。
明日の朝も、ここで食べることにした。それが、最後のノーン・カーイの食事になる。

部屋に戻り、いよいよ、帰り支度である。
何とも、過ぎてみれば、早いことである。
毎日のことを、手帳につけているが、単に、メモである。つまり、人生は、数行で、書き表せるというもの。

生まれて、恋をして、老いて、死んだ。
仏陀は、ここに、病を入れた。恋は、入れない。
日本人の心は、恋を抜きにしては、語れないのである。
恋とは、大和心の、種である。

子供服が無くなったので、荷物が、減った。
買い物も、多くしていない。というより、私は、六個の小物入れのみ。野中も、キーホルダー付きの、小物入れを、五個である。

旅に余計な荷物は、実に余計である。大きな、バッグをズルズルと引きずり持つ人が多い。何をそんなに、持つのかと、不思議だ。
特に、暖かい国に出掛けるならば、ほとんど、荷物は、いらない。
毎日の、着替えを持つのだろうか。一度、人のバッグを、覗いてみたい。

野中が、ディジュルドゥを吹くために、部屋を出た。
私は、ベッドに横になり、ゲストハウスの本棚に置かれていた、更級日記を読んだ。奇特な人がいるものである。古典の更級日記を携えて、ここまで来たのである。
これを、置いていった人を、風情があるなーと、思いつつ、読んだ。

物語に憧れる、女の話である。
古典の日記ものは、大和言葉であるから、大和言葉を知りたければ、古典の日記を読めばいい。
ひらがなは、女文字といわれたが、日本の文学は、女房文学から、始まった。
世界最古の小説は、源氏物語である。
日記文学から、私小説文学へと、変転する。
小説は、爛熟期を過ぎて、衰退期へ。しかし、文字の廃れることはない。
日本の場合は、和歌と俳句の廃れることはない。
芭蕉が言う、不易流行である。

ふっと、タイの文学を思った。実は、何一つ、それを、知らない。
現代小説ならば、翻訳物で、二三読んだ程度である。
あとは、演歌の歌詞を、少し聞いた。
この、イサーンの、演歌の歌詞は、他に無い、激しいものがある。

例えば、流れる涙は、地に落ちる、私の血である、とか。

このタイ東北部、イサーンは、大地が乾き、風が強いのである。
私も、何度か、涙を流した。悲しくてでない。乾いた大地の風で、ある。
それは、また、この東北部の歴史の歩みにもあると、思う。

植民地時代の、歴史の風に、揺れたのである。
支配が変わるという意識は、島国の日本人では、理解し難いものがある。
大陸である。
国境という、微妙さの中にある地域は、いつも、揺れ動いていた。
そして、民族という意識である。
到底、私の及ぶところの、ものではない。

シャムという、国名から、タイに変更した時に、それは、タイ族の国であるという意識である。
立憲革命により、立憲君主制になり、人民党のピブーンが首相に就いてからの、1939年六月の、国家信条にて、民族名と、国名を一致させるということで、タイとなったのだ。
posted by 天山 at 12:25| H20.02 タイ・ラオスへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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