2015年06月01日

玉砕32

陸海両統帥部の間で、双方が歩み寄る形で、当面の戦略構想が、決まった。
それは、東部ニューギニア、ソロモン、ビスマルク諸島を第一線とする、珊瑚海の制空、制海権を確保し、オーストラリアとアメリカ本土と遮断をしつつ、戦略態勢を固めるというものである。

その、アメリカとオーストラリアのルートの遮断を、FS作戦、フィジー・サモア諸島攻略作戦と、名付けた。

ハワイから、オーストラリアに至る、海上ルートの要衝にあたる、サモア、フィジー両諸島と、ニューカレドニア島を攻略するもので、この場合だと、使用兵力も少なくてすむ。更に、重視するインド方面の作戦発起まで、解決するだろうとの、思惑である。

陸軍も賛成し、7月中旬に、ポートモレスビーを海上攻略する作戦は、紆余曲折があり、陸路オーエンスタンレー山系を越えて、攻略することが、決定された。

さて、大本営陸軍部の戦争終結の腹案は、独立運動の機運を助ける形で、インドに対する政治的な謀略工作を行ない、一方、海軍の力をたのむ、海上の通商破壊などにより、インドとイギリス本国との連絡を、封鎖しようとするものであった。

であるから、海軍を期待し、伊独軍の西アジアへの進出を待ち望んだ。
しかし、伊独軍は、インド洋方面に、進出するのは、当分無理であろうという、情報が入った。

そこで、伊独軍と手を結ぶ望みを捨てて、ニューギニアのポートモレスビー攻略に南海支隊を当てることを、決した。

東部ニューギニアにしろ、オーストラリアの東北部にせよ、共通して、その任務地までの航空距離の長さに悩まされていた。

そこで、ラバウルから、南の島のいずれかに、飛行基地を造り、制空権を伸ばす必要に迫られた。
それが、ガダルカナルへの道である。
昭和17年、5月上旬の頃だった。

5月25日、飛行場建設の条件を満たす場所を、上空から探したところ、ガダルカナル島の西北部にある、ルンガ川東方の海岸線から、2000メートルほど南に、理想的な土地を発見する。

当初は、連合艦隊、大本営は、即答をしなかった。
だが、玉砕のガダルカナルへの道のりが始まるのである。

この5月上旬は、ポートモレスビー攻略を海路から行なう作戦が、実施されようとして、珊瑚海海戦が、繰り広げられた。
計算外だったのは、史上初の航空母艦同士のぶつかりあいの結果、海路攻略作戦は中止となる。

そして、以前に書いた、ミッドウェー海戦での、大敗北である。
FS作戦の延期、続いて中止が、連合艦隊、大本営で決定された。

MO作戦も、FS作戦も、成功すれば、南東方面の空の勢力が固められると期待していたが、挫折した。

この頃から、海路攻略作戦が開始される前から、オーストラリア、ニューギニア基地から、飛来してくる、敵機に悩まされ、これと渡り合うことになった。

それにより、台南航空隊などは、新しい機材を陸に揚げない間に、ラバウルの停泊地内で、積んだ貨物船もろとも、沈められてしまった。

航空機の消耗戦は、すでに始まっていたのである。
それゆえ、航空機の絶対数の不足に、苦しむことになる。

ミッドウェー作戦で失敗した六月下旬、第十一航空艦隊司令部を通じて、連合艦隊から、参謀長名で、ガダルカナル島に、飛行場設営の許可を送ってきた。
これを受けて、現地部隊では、6月29日、改めて、二回目の空からの現地偵察を行なった。

さて、六月に入ると、米軍は、オーストラリア方面への増支強化に本腰を入れたという、情報を得る。

ニューヘブライズ諸島、および、ニューカレドニアに、更に、新しい基地を加え、空の勢力を伸ばしつつあるという、気配も感じられた。
要するに、敵は、大本営の意図を、読み取っていたのである。

日本軍は、陸から行なう、ポートモレスビー攻略と、ガダルカナルを含む飛行場新設の計画という、二つの作戦を、並行して実施することになる。

日本軍の場合、ブルドーザー、ロードローラ、トラクター、トレンチャー、起重機車などの、設営機械の整備が多少なりとも重視されるのは、昭和18年に入ってからである。
つまり、ガダルカナルに上陸した、設営隊に持たされていた道具は、ツルハシ、スコップ、モッコがすべてである。

六月中旬に上陸してから、一ヵ月半の期間の設営である。
8月7日には、米軍が、進攻して来たのである。

その日、現地時間で、朝五時を少し回ったところ、同じ時刻に、フロリダ島の南に浮かぶ、ツラギ、ガヴツ島も、激しい敵襲を受けた。

米軍は、精強を謳われた第一海兵師団、約1万8千名が乗り込んだ、22隻の輸送船を、空母三、戦艦一、巡洋艦14、駆逐艦31で支援し、それらに、基地航空機293機を加える、堂々の陣容と、戦力で攻撃を仕掛けてきたのである。

そして、8月8日の日没までに、約1万900名の人員が、ガダルカナル島に、上陸した。

これに対し、日本軍は、上陸以来、敵の散発的な空襲に備えて、手軽な防空壕を用意しただけで、地上からの攻撃に迎撃する、陣地を築いていなかったのである。

また、守備隊といっても、火砲装備は、高角砲六門、山砲二門にすぎず、目の前の海に大挙して出現した敵に対して、抗し得ないことは、一目で察することが出来た。

そして、設営隊の大部分は、軍人ではなく、武器を持たない工員である。
空襲と艦砲射撃に、抵抗できるわけがなかった。

これでは、余りにも、無謀である。
その後、ガダルカナルは、餓島と呼ばれるようになる。
つまり、餓死する兵士たちである。

現在も、未だに、兵士の遺骨が散乱している。
玉砕の島である。







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2015年06月02日

玉砕33

昭和17年8月7日、早朝、ガダルカナルと同時に米軍上陸部隊の襲撃を受けた、ツラギ方面所在部隊は、ほぼ二時間に渡り、緊急電報を発信した。

それを受けた、現地海軍部隊第八艦隊の、反応は早かった。
当時、ラバウルにあった、第八艦隊は、東部ニューギニア・ポートモレスビー攻略作戦を巡り、変化してきた南太平洋方面の、新しい局面に策応して、同年七月に新設されたばかりの部隊だった。

第八艦隊司令長官、三川中将は、ラバウルに投錨していた艦艇に対して、手信号をもって、出撃準備を下命した。

戦局の急変に直面した三川長官は、連合艦隊の指示を待つことなく、いち早く重大な、決断をした。

それは、重巡群をつらねて、ガダルカナルに殺到し、揚陸作業中の敵輸送船団を砲撃、これを、粉砕するという、作戦である。

これが、第一次ソロモン海戦と称される戦闘が、生起する瞬間である。

ただ、これまでに、合同訓練を行なったことがなく、各艦隊が横に広がり、航行するためには、各艦のスクリューの回転数を、測定し、一致させることが必要になる。

その状況から、複雑な艦隊の形は避けて、一本棒につなげて、しかも、一航過を行なう。そして、夜の明けるまでに、敵空母の攻撃圏外に、避退するということ。

以下、詳しい作戦の様子は、省略する。

日本軍側が心配した、米機動部隊は、7日、8日の両日にわたる、日本軍基地航空部隊の空襲は、ガダルカナルに碇泊していた連合軍艦隊に、それほどの損害を与えなかった。

しかし、連続的に実施された空爆により、物資資材の揚陸作業が、しばしば中断し、予定よりも、遅れた。
このため、船団が留まる日数を、予定より、二日間は、延ばさなければならない、事態を迎えていたのである。

また、日本軍の行動は、心理的に、与えた影響もある。
空からの襲撃を知った、米機動部隊は、ためらうことなく、すぐさま、日本軍攻撃の航続距離圏外に、身を置き、更に、上級司令部の回答を待たず、避退していったのである。

連合軍の、機動部隊指揮官フランク・フレッチャー中将は、南太平洋部隊指揮官ロバート・ゴームリー中将に対して、
・・この方面の日本軍雷撃機の性能と技術は、きわめて優秀であるにつき、空母部隊の即時引揚げを具申する。
という、意味の電報を打っている。

そして、結局、フレッチャー中将は、引き上げの意見具申をした地点から、ゴームリー中将の返事と、指示を待つことなく、南下を開始した。

さて、三川長官は、その夜、23時26分、各艦隊独自に艦長が、戦闘指揮を執れという命令を出し、続いて、30分に、全軍突撃を下命した。

この海戦は、出会いがしらの乱闘であった。
ただ、夜間のことで、海戦の詳しい状況は、未だに明確ではないと、言われている。

その戦いは、わずか、六分間のうちに、大勢が決していたという。
戦果であるが・・・
日本側が、一発の命中弾も受けていないという、事実である。

第一次ソロモン海戦と言われる、戦いは、日本軍に僥倖の連続だったと研究家は言う。

飛行機の掩護のない、丸裸の巡洋艦隊群が、単縦陣で、敵地に乗り込むといった、未曾有のもので、ハワイ奇襲を別にすれば、太平洋戦争を通じて、類のないものといわれる。

ガ島上陸以来、一ヶ月を過ごした米軍は、その間に、ほとんど隙間のないトーチカ陣地を形成していた。
このような、堅牢な陣地を攻略するには、火砲で十分に叩いて攻めるのが、常道である。

しかし、日本軍には、幾つかの抜き差しならぬ制約のため、どうする事も出来なかった。

それは、輸送手段を主として、駆逐艦に頼ったため、重量制限が生じて、重火器類が、真っ先に敬遠された。
武器を伴わない人員だけの、名ばかりの重火器部隊が上陸した。
また、いくらかの重火器を海岸に揚げたとしても、攻撃準備地点まで、運ぶことが出来なかった。

分解して、ジャングル内の道なき道を人間が、担いでいくのだが、時間の制限があり、思い通りにゆかない。大半が、途中で放棄されたという。

更に、火気だけに留まらず、総攻撃をかけるとき、人間も現在地から、てんでに突撃するわけではない。あらかじめ、定められた攻撃準備の位置に集結して、展開しなければならない。
この、攻撃準備地点に到達するため、各部隊は、準備が不足している上に、時間にせかせられて、大変な苦労を払うのである。

川口支隊の各大隊は、おおむね上陸した地点から、しばらく海岸を辿り、それから山側に入った。しかし、ジャングル地帯というのが、いいまでに体験しなかったものだった。
フィリピン、マレー半島のそれと比べて、形相が一段と険しかった。

昼なお暗く、夜になると、自分の鼻先に手を近づけても、よく見えないという暗闇である。

ただ、兵士たちは、奇妙な現象を目にしたという。
大木が腐食して、燐のように冷たく光っているというものだ。兵士たちは、その燐光を、前に行く戦友の背中につけて、それを、目印に夜のジャングルを進んだと言う。

何がなんだか事情が分らないままに、前線にやられた将兵が、満足な地図一枚持たされず、その上、狂いがちな磁石を持たされて、肝心な攻撃準備地点に行き着くまで、暫し、方向を見失ったのである。

一般の兵士だけではなく、大隊長クラスでも、自分たちが、どう進んでいるのか、皆目検討がつかないという状況である。

それゆえ、ほとんどの大隊長は、すぐ目の前に控えた夜襲を無理と感じて、初めから、死を覚悟していたという。
それは、上陸した、多くの部隊に言えた。

ガダルカナルの悲劇、玉砕は、戦争の悲惨さを伝えるに、十分な戦場である。





posted by 天山 at 06:19| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月03日

玉砕34

昭和17年、1942年、九月半ば、川口少将率いる、川口支隊の総攻撃が失敗に終わると、大本営陸軍部も、ようやくガダルカナル島の戦局が、容易ではないと気づく。

そして、第二師団を投入し、昭和17年、10月半ばに、第二回の総攻撃を実施することを、決めた。

その師団の兵力の輸送方法は、それまでの、駆逐艦による手段ではなく、安全度は高くても、積載量の面で、問題があった。
何度も往復しなければならず、総攻撃の予定日に、間に合わないのである。

重火器などの輸送も、駆逐艦では無理である。
危険を承知で、一挙多量に運べる、船団輸送という手段を選ぶしかない。

陸軍は、このラバウルからガダルカナル間の、海上護衛につき、連合艦隊に要請し、山本長官も、それを了承した。

輸送船団のガ島突入は、敵航空機の制圧を必要とした。
山本長官は、独自の判断で、かねてから懸念していた、艦隊によるガ島飛行場砲撃を実施しようとしていた。

それは、艦隊によって、ガ島飛行場を、直接砲撃するという海軍の作戦は、師団単位の兵力をもってする、陸軍の総攻撃によって、飛行場の奪還がなるか、ならぬかという時にあり、止むに止まれぬ案出された作戦である。

さて、ガ島飛行場砲撃の任務をおびた、第六戦隊の重巡青葉、古鷹、衣笠が、護衛艦吹雪、初雪を連れて、ショートランドを出発したのは、10月11日の正午である。

第六戦隊司令部は、敵機の跳梁がやむ、日没時を狙い、ガ島の200浬付近に到着し、サヴォ島の南方から、水道に進入し、所定の射撃地にいたり、一航過をもって、砲撃を実施し、再び、サヴォ島南方を経て、日の出頃には、ガ島から150浬圏外に離脱するという、計画を立てた。

第六戦隊が、射撃地点に達したとき、陸軍の協力で、ガ島上に灯火が点滅することになっていた。
艦上から、向って右に見える灯火が味方の最前線であり、艦までの距離を結ぶと、目標である飛行場の距離に等しくなる。
その灯火の位置より、左に直線を引いて、飛行場の所在を知り、そこに、三隻の主砲から、射出された瞬間信管装置の特殊弾が、暗夜を衝いて、集中されることになっていた。

問題は、彼らに、敵情の情報が何もないことだった。
夜に入ると、スコールである。

ただ、ガ島は、天候は晴れ、視界良好、である。
目の前の悪天候にかまわず、高速のまま突入しようとした。

ところが、青葉の見張り役が、敵を発見。
総員を配置につけ、戦闘状態に入ろうと、右回頭しようとした時、闇の向こうから、閃光と共に、砲弾が飛んできた。

その間、青葉は、所在を明らかにして、「ワレ、青葉」の発光信号を送り続けていた。
敵の初弾は、不発だったが、艦橋の正面に突入したため、五藤司令官以下司令部職員の大部分が、死傷した。

五藤少将は、両脚を太ももの付け根からもぎ取られ、瀕死の重傷を負った。

先頭を切って進んでいた青葉は、先制攻撃を受けて、当初は、なすところを知らなかった様子である。

初弾命中の約7分後、青葉は、煙幕を張って、早くも現場からの離脱を図っている。

だが、敵襲撃時、青葉の後方約1500メートルを続行していた、二番艦古鷹は、突然頭上に照明弾を発見して、驚いた。
艦長荒木大佐は、このままでは不利と判断。
取舵と下命、ついで戦闘魚雷戦、右砲戦を命じた。

ところが、敵弾が次々に命中して、魚雷発射管に被弾し、これが誘爆大火につながる。

火焔を背負いつつ、敵艦の方角へと突進する古鷹の姿を、青葉艦上に生存していた多数の者が見ている。
それが、最後の姿だった。

少し、詳しく様子を書いたが・・・
結局、ガダルカナル島の、砲撃計画は、失敗したのである。

青葉が不意に、集中砲火を受け、古鷹の沈没をもって、サヴォ島沖海戦は、終了したのである。

ここで、元来夜戦が不得手であった米海軍が、何故、生まれ変わったようになったのか。
それは、レーダーのお蔭である。
日本軍は、レーダーの存在に気づいていないのである。

次に、挺身攻撃隊の出撃である。

山本長官は、第六戦隊の悲報が届くが、それらの計画を変更しなかった。

第三戦隊、そして護衛艦艇は、挺身攻撃隊と呼ばれて、その任務は、矢張り、ガ島の飛行場にある、敵飛行機、及び燃料の焼却と、滑走路の使用封鎖であった。

ガダルカナルで、唯一、日本軍が優勢で、半年間に渡る戦闘の中で、連合軍を危機に追い詰めた作戦だった。

その内容については、省略する。

ただ、第三戦隊の、戦艦金剛、榛名によるガ島飛行場の制圧は、予想以上の成功をおさめた。この艦砲射撃は、第一次ソロモン海戦の勝利と並び、敗色一辺倒のガダルカナル戦における、華であったと言われる。

研究家は、日本軍が、もしガ島戦に勝つとすれば、この時期において、他はなかったはずであると、言う。

事実、太平洋の戦い全体を通じても、ほとんど、唯一といってよい日本軍の、陸海の協力は、この10月半ばをピークにして、力尽きたのである。

その後の、ガ島作戦、戦闘は、悲劇と化すのである。
餓死の島、餓島と化す。




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2015年06月11日

玉砕35

ガダルカナル島の米軍の状況は、日本軍が、持てるだけの力を出してしまったことを、知らない。
それが、大反攻の前触れと感じた。

日本陸軍が、一個師団をもって、地上から総攻撃を期していた以上は、確かに、米軍の推理に間違いがなかった。

南太平洋海域司令官ロバート・ゴームリー中将は、西南太平洋方面司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将に対して、協力を求め、ラバウル及び北部ソロモンの日本軍航空基地を空襲して、その空軍力を弱めて欲しいと、要請した。

その日の深夜、第八艦隊長官三川中将が、直率する重巡島海以下の、外南洋部隊所属の艦艇が、陸軍の高速船団を間接支援しつつ、ガ島に接近し、ルンガ沖に突入して、800発に近い砲弾を、飛行場に撃ち込んでいる。

また、陸軍も、新しく編制されたばかりの通称「住吉兵団」が、海軍の艦砲射撃に呼応して、13日夜以降、擾乱射撃の目的をもって、間歇的に放った十五榴弾が、いずれかの米軍陣地に落下した。

ゴームリー中将は、音を上げて、
現在のような敵の強力な圧力が今後も続くとするなら、ガダルカナルを持ちこたえることができるかどうかわからない
という意味の報告を、太平洋部隊総指揮官チェスター・ミニッツ大将にするのである。

ガ島の戦局の報告を受けた、ミニッツ大将は、
現在、われわれはガダルカナル島戦において明らかに苦境に立っている。周辺海域の支配は完全とはいえなくなり、地上部隊に対する補給は大きな犠牲をともなうことを覚悟する必要がある。
との懸念である。

だが、ソロモン方面の前途を打開する手段として、ゴームリー中将を更迭するという、手段に踏み切った。

再度、日本軍である。
10月に一挙挽回を目指した、大本営である。

丸山中将率いる、第二師団、そして、佐野中将率いる、第三十八師団を、第十七軍司令官、百武仲将の指揮下に入れることにした、大本営陸軍部は、
ガ島は、第二師団主力と他部隊の足並みがそろったところで、10月に一挙に挽回を期す。
という、命令を発した。

ただこの時点では、第三十八師団は、ガ島投入は、考えていない。東部ニューギニア戦線に充当するつもりだった。

師団単位の兵力を輸送するとなると、これまで以上に、海軍の協力が必要になる。
それゆえ、輸送船団を組み、10月11日頃に、一挙に輸送を敢行するという、手段である。

この方法以外に、10月半ばの総攻撃は、不可能という、結論に達していた。

10月3日、丸山師団は、ガ島タサファロングに上陸した。
そして、マララという川の上流に進み、そこを戦闘指令所開設地とした。
そこへ、夜襲に失敗した、川口支隊長からの、報告が届いた。

その内容は、
現在までガ島に上陸したわが方の全兵力は、約9000名、そのうち戦病死その他約2000、健在の者約5000名であるが、その戦力の回復には相当の日時を要し、攻撃力としては期待できない。
というものである。

すでに、マラリアなどの病気と、絶食状態が続いていたのである。
大半の者が、戦うだけの体力を、なくしていたのだ。

それは、他の連隊、大隊も、そうだった。

悲劇は、すでに始まっていたのである。

丸山中将は、強気だった。が・・・
ボネギ川から、後方に退いた川口支隊と交替して、マタニカウ川の右岸を占領し、飛行場制圧射撃部隊、及び主力砲兵の展開の掩護を命じられた、那須部隊が動く。

この那須部隊の、マタニカウ川岸進出により、敵との予想外の衝突が起きる。
それは、まだ、師団のすべてが上陸追及していないうちである。
本格的な戦闘を迎えることは、
攻撃開始の時機は別命す
という、軍命であった。丸山師団長としても、本意ではなかった。

結果は、第四連隊は、大打撃を受け、第一大隊などは、壊滅的痛手を受けたのである。

この、マタニカウ川の戦闘は、ごく短い期間で、勝敗が決した。
米軍の、凄まじい火力を、身に沁みて感じた。
戦った将兵は、ほとんど絶望的な、精神的打撃を受けたのである。

結局、軍は、丸山師団長が、一個連隊をもって、マタニカウ川の東岸部隊を、増強交替させようとして、敵の猛烈な砲爆撃と、地上攻勢を受けて果たせず、後退のやむなきに至ったことを、認めざるを得ない状況になった。

軍司令部が受けた衝撃は、大きかった。
それ以上に大きなかったのは、ガ島にある兵力の深刻な、疲弊である。
食糧が欠乏し、一線部隊は、飢餓状態である。

だが、一旦、動き始めた作戦計画の、歯止めを止めることは出来なかった。

この、ガダルカナルの戦いは、仔細に研究されている。
だが、ここでは、多く省略する。

第二師団による、総攻撃の失敗が、確定的となった10月26日未明から、夜にかけて、海上では、日米の機動部隊が、再度衝突していた。

サンタクルーズ諸島北方海域に進出してきていた、エンタープライズとホーネットの、二つの空母を中心とする、米機動部隊に、地上戦闘を支援する任務を帯びて南下した、空母翔鶴、瑞鶴の機動部隊が、衝突した結果である。

さて、万策尽きた丸山師団は、軍戦闘指令所に、その旨を報告した。
これを受けた、百武軍司令官は、攻撃中止命令を出した。

同時に、大本営に対して、第三十八団を上陸させ、再度の総攻撃を試みる旨、報告したのである。
止める気配はなかった。


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2015年06月12日

玉砕36

一木支隊、川口支隊、そして、第二師団と、師団単位の兵力を投入しつつ、ガダルカナル島飛行場奪回は、ならなかった。

大本営、第十七軍は、第三十八師団をもって、第三回目の総攻撃に、最後の望みを託すしかなかった。

しかし、結果は、輸送船団に大被害が出て、総攻撃は、行われなかったのである。

輸送船団の主たる目的は、第三十八師団の全兵力と、それに見合う、武器弾薬を、輸送するということである。
しかし、実際に、ガ島へ渡ることが出来た兵力は、500名にも、満たなかったのだ。

そして、つまり、それ以降、ガ島に対する兵員と、武器弾薬などの輸送が、一切行われなかったのであるから、これで、本格的なガ島における地上作戦は、終わりを告げたのである。

これは、十七軍司令部、大本営陸軍部に、先に行われた、第二師団の総攻撃の失敗以上の、衝撃を与えた。
それは、第八方面軍の新設、そして、撤収作戦へと発展してゆく、きっかけとなったのである。

ここで、被害の状況をまとめると、陸軍の戦死者2万1000名である。
その内実は、直接の戦闘による戦死者は、5000名から6000名である。
残りは、栄養失調、マラリア、下痢及び脚気によるもので、その原因は、補給の不十分に基づく、自然消耗によるものである。

戦死者の約70パーセントが、食糧、医療品の補給が断たれた状況化で生じた、広義の餓死者だった。

これも、玉砕である。

この、ガダルカナルの悲劇は、その後、各地域の戦場で、繰り広げられることになるのである。

ガダルカナル島の攻防戦は、アジア・太平洋戦争の、最大の転換点となった。
これ以後は、連合軍が、質量ともに、急速に戦力を拡充してゆくことになる。

更に、悲劇なことは、それを大本営は、知らなかったのである。
つまり、情勢分析の、誤りである。

当時のアメリカは、どのように考えていたのか。
大本営は、それを何一つ、知ることがなかった。
戦争観の違いである。

米軍は、ガダルカナル島に、侵入したのは、序の口である。

大本営は、敵の主力艦隊が、太平洋のどこかに、大挙して押し寄せ、連合艦隊と決戦をするという、イメージである。
そして、それにより、戦争終結を図るというもの。

ところが、アメリカの、戦争終結の考え方は、日本本土を直撃することであった。
それ以外の、手段は、有り得ないというもの。

空襲により、工業地帯を破壊し、海上を封鎖して、干し挙げる。
いずれにしても、日本本土で決着をつけるのである。

そのため、陸海空軍が、つねに一緒になり、島嶼を陥落させ、制空・制海権を同時に伸張しつつ、そこを不沈空母として、日本本土を目指し、島から島へと飛び石伝いに、北上するというもの。

アメリカ側の戦略構想に気づいたら・・・
違った対応を考えたであろうと、思える。

兎に角、アメリカは、戦争に長けている国である。

しかし、今は、昔である。
追悼の悼みを持って、次に進む。

ガ島撤退後、大本営陸軍部の対ニューギニア策の第一に選ばれたのが、サラモアの南南西約60キロにある、小部落ワウであった。

ここは、東部ニューギニア南岸および、サラモア、ココダ、マンバレー方面に通ずるルートの分岐点であり、小規模でも、飛行場がある、山間部の要地である。

これを、第八十一作戦という。

戦略態勢確立のためにも、奪取したいと陸軍は、第五十一歩兵団長少将の率いる、第百二連隊の二個大隊を急派した。

奇襲戦法をとったが、堅陣地に肉弾突撃を行なう結果、一回の攻撃で、致命的な打撃を受けたのである。

だが、陸軍部は、ポートモレスビー攻略を目指し、そこを押さえなければ、ニューギニア戦線の安定はないとの、考えであった。

昭和17年12月下旬に、各師団を移動させた。
朝鮮半島、中国戦線などからである。

海軍としても、この陸軍兵力の大量輸送に協力しないわけには、いかない。

さて、以下、省略して、おおよその事を書く。

翌年、昭和18年2月20日から、26日の間に、第四十一師団、主力約1万3000名を、四回に分けて、ウエワク輸送が行われた。

そして、敵勢力圏にもっとも近く、危険度も高い、ラエ輸送は、2月28日に実施される。
船団は、ラバウルから出発する。

3月3日の日没前に、ラエに到着し、揚陸作業を行なうとの計画である。

しかし、船団は、1日午後から、敵潜水艦、敵機の攻撃を受け始めた。
2日ご前八時過ぎに、B17爆撃機二機の攻撃を受け、旭盛丸が二発の直撃弾を受けて火災を起こし、約一時間後に、沈没した。

3日午前零時に、上陸する。

輸送部隊は、その後も二回のB17の爆撃を受けたが、大きな被害はなかった。
船団は、2日夜、ウンボイ島をなかにはさんで、ニューブリテン島と、ニューギニアを隔てる、ダンピール海峡を、北上から、通過した。

そこが、悲劇の、ダンピール海峡になるのである。




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2015年06月15日

玉砕37

ダンピールの悲劇を書く前に、ガダルカナル島での、玉砕を生き延びた、兵士たちの、証言をランダムに書いて見る。

ガダルカナルを生き抜いた兵士たち・・・
そこからの、抜粋である。

昭和17年11月15日の夜のことである。
ガダルカナル戦たけなわの頃であった。

ある陸軍上等兵の妻が、夢を見た。
原野が広がる。目の前に防波堤が現れてきた。
ふっと見ると、その防波堤の上を、五歳になったばかりの長男を背負った夫が、歩いている。白衣に戦闘服姿である。
ややうつむき加減に、とぼとぼと歩いている。それでいて、こちらには目もくれない。
「どこに行くの」
「どこに行くのですか」
声をかけようとするのだが、どうしたことか、その声が出ないのだ。
「何度も何度も、大声を出そうとするのですが、ダメでした」
夫の姿がふっと消えた時、目覚めている。
翌朝、養父母が「わたしたちも見た。同じ夢だ」という。
そこへ、夫の親友だった知人が飛んできた。そして、絶句している。
四人が、四人共に、同じ夜に同じ夢を見ていた。

夫の船舶砲兵第二連隊・陸軍上等兵の戦死を知らせる公報が届いたのは、それから、間もなくのことである。
戦死の日は、妻が夢を見た、その日だった。

このような話しは、数多くある。
そして、それを否定する何物もない。
知らせ、である。

肉親の情が、知らせるのである。
人間とは、悲しいものである。

さて、第三十八師団工兵第三十八連隊第一中隊、高須義一陸軍軍曹は、激戦続くガ島903高地のジャングルで苦しんでいた。
下痢が酷く、全身の衰弱が激しい。戦友たちも、下痢とマラリアのため、動ける者は数少ない。このため、高須は、水汲み役を引き受けていたが、200メートルほど先にある川辺まで往復して、半日もかかるという有様だった。

そんなある夜、夢を見た。
「水の夢でした。自分たちが寝ている場所から、少し上に登ったところに水があるよ、と、誰かが熱心に囁いているのです」
夢に見た場所は、とうに昔調べている。
だが、ひょっとしたらと、翌朝になり、半信半疑のままに出かけた。

矢張り、ダメだと、諦めて戻ろうとした。と、足元の落葉から水が染みているのに、気づいた。良く見ると、上のガケのようなところから、ぽつりぽつりと、水が落ちてきている。
「夢に出て来た水は、このことか」
時間はかかったが、両手にたまった水は、意外に透き通っている。口に含んだが、別に害があるように思えない。
水量は少ないが、それで、一日飯ごうに二杯分は取れた。
それから、川に行く必要はなくなり、次第に、体力もついてきた。

同じ頃、名古屋に住んでいた高須の両親は、ガ島で水に苦しむ息子の夢を見ていた。このため、毎朝、近くの観音様にお水をあげて、熱心に御参りをしていたという。

現地で苦しむ兵士たち・・・
それを案ずる、人たちの話しを書いた。

人間には、知られていない能力があると、私は言う。
その篤い思いが、通ずることがある。
その証明である。

私は、戦没者の追悼慰霊をする。
慰霊師である。

このような、話もある。
昭和17年8月20日深夜のことである。
北海道、旭川にある、第七師団兵営の、営門に完全武装の将兵の一隊が入って来た。
下半身ずぶ濡れ、血と泥にまみれた服装ながら、それでも整然と隊列を組み、がっ、がっ、と、軍靴の足音が高い。

事前に何の連絡も受けていない衛兵司令は、兎も角、控えの衛兵六名に、出迎えの執銃整列を命ずる一方、当直将校に報告している。

約30名の一隊は、営内の歩兵第二十八連隊の兵舎に向かい、無言のまま、せめぎ合うようにして中に入り、消えている。

兵舎は、ガダルカナル飛行奪回作戦の第一陣として、派遣されている第二十八連隊の者たちだった。

帰ってきたのは、まさに、その連隊の将兵たちだった。

その他にも、多々不思議な話がある。

そして、その異変が見られた、その時刻、遠いガ島では、第二十八連隊の一木大差指揮する兵士が、米軍の飛行基地に突入し、916名のうち、840名が戦死していたのである。

全滅、玉砕である。

私は、旅日記に、多く戦記からの、引用をしてきたが・・・
このようなものを、紹介したことはない。

霊とは、思いであり、念である。
思い、念を否定する人は、いないだろう。
霊の存在の有無について、言うのではない。

敗戦から70年を経ても、兵士たちの、思い、念は、確実に存在している。
つまり、兵士の霊が、存在しているということだ。

その思い、念を、慰める。それが、慰霊である。
不思議なことではない。
当然のことである。

そして、真っ当に、慰霊をして、大戦の悲劇、玉砕を知るべきである。
玉砕とは、全滅、壊滅の、美称である。
玉とは、霊のことである。
つまり、玉が、砕けたのである。

国のために、玉砕をした兵士の死を悼む。
追悼である。



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2015年06月16日

玉砕38

第三次ソロモン海戦について・・・
アメリカ側の資料を見る。

米第一海兵師団戦闘記録
激戦の夜が明けると、昨日のわが猛撃で難をまぬがれた生き残りの四隻の輸送船が、タサファロング沖に達し、そのうちの三席は陸岸に乗り上げて物資を揚陸中であるのが見られた。
直ちに爆撃を加え、間もなく四隻とも火炎につつまれた。のみならず、翌陸点付近にも火災が起こった。彼らがありとあらゆる困難を冒して、やっと目的地に揚陸したわずかばかりの物資すら、飢えた将兵の手の届く寸前において、かくして破壊され、焼き尽くされた。
この三日間にわたる一連の海戦は、ガ島戦―ひいては太平洋戦争全般のー帰還を決定するものであった。

つまり、ガ島の日本軍将兵たちに、本格的な飢えが迫ったということだ。

概略を書く。
食べられるものは、何でも食べた、と言う。
オオトカゲ、毒蛇、野草・・・

兵士たちの証言に驚いた。

そんなある時、米兵三名を射殺したという報告が入った。
中隊長の軍刀を借り受け、天幕を持って、敵死体位置に駆け寄っている。
生きている脚は切りやすいが、死んで倒れている脚は切りにくかった。
「ニワトリと同じ」で、黄色い脂肪が巻いて、剣先をにぶらせるのだ。
「苦労の末」に、一人分の両脚を切り落とした。
天幕を広げて、その脚を包んで持ち帰った。
ほかの隊にも「お裾分け」して食べた。
水炊きで、ゆがくだけ。調味料はなかった。

草の芽、木の芽、木の葉、手の届く限り、口の入るものはまったくなくなっている。小隊の兵員も半分になっている。
みな、餓死である。

死んだら骨を頼むぞと、軍歌演習で歌ったが、おれが死んだら食べてくれとは、なんと情けない話しだ。

陸軍兵は、米兵の肉を食べている。
そして、自分の死体も、蛆虫に食われるよりマシだ、と、全員で固く誓い合っていた。

人間誰しも、長く食糧皆無が続くと、餓死するか、野獣に成り下がるのだ。

生き残りで、クジを作った。
三名の死体を、苦労しつつ、二時間がかりで壕に運び入れた。
後の始末は、別のクジに当った戦友が、手際よく処理した。
米兵の軍服と骨は、米兵がよくやってくる、土人道に持って行き、
攻撃してくれば、こうなるぞと、ばら撒いた。

生き残りの証言である。

現実である。

近づいて来る死と影がある。
その人影は、両手に杖をついて、もの憂いげに歩いてくる。その姿を見て驚いた。
頭髪もヒゲも伸び放題。栄養失調のため、全身がむくみを帯びて青ざめている。着の身着のままのシャツは泥で真っ黒、左右の破れ端を引き合わせて結んでいる。
ズボンの汚れはさらにひどく、破れるままにまかせて、ワカメを吊るしたようだ。泥まみれの靴は、縫い目が破れて、足指がのぞいている。

背中には背負い袋、これに飯盒と抜き身だけの赤くサビた帯剣をゆわえつけている。

まるで、仏画に見る幽鬼そのものである。内地の乞食でも、もう少しましな格好をしている。これが、苦戦を続けたガ島・皇軍の姿であった。

三人の兵は、こもごも語り始めた。
自分たちは、食糧運搬のため第一線から来ました。
・ ・その体で、食糧運搬・・

はい、これでも自分たちは、第一線では、比較的元気な方であります。
第一線では、栄養失調とマラリアにかかり、あるいは、赤痢、腸チフスにかかり、タレ流しで歩けない者が大勢おります。
それでも、散兵壕の中で、がんばっていて、敵が来れば、這い出して、防いでおります。

毎日、幾人か死んでいきますが、埋葬することができません。
この体力では、わずかな食糧しか持てません。自分たちの往復の食糧を引くと、ほんのわずかしか前線に置いてこられませんが、毎日、こうして運んでおります。

運ぶ途中で、動けなくなって死ぬ者、機銃掃射や爆撃、あるいは砲撃を受けて死ぬ者がたくさんいます。前線までの道端に数限りなく死んでいますが、埋葬できる人がいませんから、みな、そのままになっています。

更に、別の報告である。

進むにつれて、凄惨な戦場の形相が繰り広げられていた。
ぼろぼろに痩せ細った幽鬼の如き友軍兵士。
路傍に放置され、眼窩のみが空を向いている死臭ぷんぶんたる亡骸。
ほとんど白骨化した死体。
負傷して歩けず、弱々しい声で、水を求めている戦友。
川辺にとくに遺体が多かったのは、水を求めてのことだろう。

これ以上は、省略する。

戦争の無い時代に生まれた私。
戦争を知らないのである。

しかし・・・
このような証言を読む時、この世の無情を感じる。
それどころか、生きる意味さえ、見出すことが、出来なくなる思いになる。

人間とは・・・
生き残りの兵士たちが、口を閉ざす理由が分る。
戦死ではなく、餓死だというならば・・・

これは、ガダルカナル戦の有様、形相である。
これが、フィリピン、ビルマ、その他の地域でも、展開されるのだ。

自決というものもある。
更に、精神の狂い。
心から、哀悼の思いと、祈りを捧げる。







posted by 天山 at 06:04| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月17日

玉砕39

昭和18年、1943年、3月上旬におきた、ダンピールの悲劇は、南太平洋方面の戦況の深刻さを、改めて浮き彫りにした。
更に、陸海軍の確執が、表面化したのである。

ダンピールとは、ラバウルのある、ニューブリテン島と、東部ニューギニアの間にある、海峡である。

3月3日、快晴の朝である。
夜明け頃から、敵哨戒機が執拗に、接触していたが、クレチン岬の南東14浬の地点を通過する、午前8時、P38戦闘機30機、B17ほか、のべ約100機と、別に、P38ほか計30機の二群が、船団に群がり、襲ってきた。

この日、ゼロ戦が、上空直衛に任じていたが、敵機は、低空から爆弾投下をもって攻撃してきた。ゼロ戦は、すぐに、対応できなかった。

この敵の爆弾投下法は、のちに日本軍が、反跳爆撃、と呼ぶ作戦だった。

各輸送船は、初弾を受けた後、火を放つ。
全船が、炎上を始めた。

輸送船は、一隻がすぐに沈んだ。それが、各輸送船に渡り、沈没することになる。

すぐさま、駆逐艦は、遭難人員の救助に当る。
また、ニューギニアの、ラエに先行していた、中野第五十一師団も、救助に向う。

この救助作業は、3月9日まで、続けられた。
漂流者は、キリウィナ、グッドイナフ島方面に、一部は、ニューブリテン島スルミ付近、また、ブナ、マンバレー付近に漂着した者が多かった。
中でも、グッドイナフ島に流れ着いた者の多くは、連合軍の俘虜となった。

4日夕までに判明した、人員の損害は、全乗船人員6912名、ラエに上陸した815名、行方不明3500名と報告された。

更に、第五十一師団の人員喪失は、約2000名であり、物的損害は、搭載品目のすべてである。

これは、八十一号作戦とも呼ばれ、ニューギニアのラエ、サラモアの戦力増強の企画にあった。
だが、結果は、1000名足らずの、丸腰の人員を、ラエに送りつけたに過ぎないことになった。

これも、玉砕である。

この、ダンピール海峡における壊滅は、ラバウルの陸海軍ばかりではなく、中央にも、大きな衝撃を与えた。
その上で、以前からあった、陸海軍の確執を表面化させたのである。

陸軍の中央は、太平洋戦線は、あくまでも、海軍の担当であり、ニューギニアに南海支隊をはじめとする兵力を送ったのは、ガ島に対する派兵も同じだが、海軍から頼まれたと、考えていた。

陸軍は、ソ連と睨み合わせた、中国大陸における作戦が、自分たちの分担戦域であり、かつ、西アジアから、インドを打通して、ドイツと提携するという、作戦であった。
今にすれば、空想である。

海軍の方は、中国戦線、西アジア打通などは、一考もすることがなかった。

海軍は、トラック諸島を拠点として、ニューギニア、ビスマルク、ソロモン、ギルバート、マーシャル諸島を経て、ウェーク、南鳥島に至る、大環状ラインを前進基地として、確保し、このラインで敵の攻撃を食い止めることを、太平洋戦線における、根本方針としていた。

今、問題になっているのは、ソロモン方面は、この大環状の一部として、重要なのである。

ニューギニア、ビスマルク方面は、陸軍にやってもらうという、腹づもりである。

対米決戦構想は、日本海軍が、開戦前から抱いていたものである。
このラインで、米海軍に対抗する以外にないのである。
戦況が不利になったということで、それを簡単に覆すことは、出来ない。

昭和18年、4月上旬に実施された、山本五十六連合艦隊司令長官の、「い」号作戦も、それに則ったものである。
つまり、大本営海軍部の意向にそった、航空機壊滅戦である。

だが、それらは、航空戦の発想のない時期に、立案された戦略構想である。
そして、この頃になると、海軍統帥部も、艦隊決戦は、有り得ないと考えるようになる。

更に、ダンピール海峡における、全滅により、陸軍統帥部は、航空機こそ、今次戦争の主役だという、認識が出て来た。

つまり、制空権という、テーマである。
いかに、制空権を奪取するのか、である。

ダンピール海峡の全滅の衝撃は、損害を受けた、陸軍が当事者である。
第八方面軍の、幕僚の中には、ニューギニア戦線からの撤退を口に出して言う者もいた。勿論、その声は、中央に届くことは無い。

また、陸軍統帥部としても、海軍の同調が無い限り、単独で、一線の兵力を動かすことは、出来ないのである。

また、協力を得たとしても、輸送に使用する船舶が不足していた。また、動けば、ダンピールの二の舞になることも、多分にある。

太平洋の一線に散らばる、ゆうに20万を超える方面軍の兵力を、多方面に移動させるという話しは、夢になったのである。

昭和18年3月22日、第三段作戦を明示した、新たな「南東方面作戦陸海軍中央協定」が策定された。

その要旨は、中央、現地ともに一体となり、ニューギニア方面に主作戦を指導する、というものである。

これで、ニューギニア戦線の、玉砕が決まった。
これも、悲劇のニューギニア戦の、幕開けである。

何と、無謀なことを・・・
それを思うのは、今、現在だからである。
当時は、進む以外になかった。


posted by 天山 at 05:34| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月25日

玉砕40

「い」号作戦とは、空母部隊の搭載機を南東方面の各基地に揚げ、従来の基地航空部隊をあわせて、山本五十六司令長官が、みずからラバウルに進出して、指揮をとり、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国兵力を爆破するという、航空決戦の総称である。

この作戦は、大本営とは、関わりなく、連合艦隊が独自に実施したものである。

日本軍の航空勢力が、減少するばかりであり、連合軍側は、当時ソロモン方面、ニューギニア方面に、一ヶ月約50機から、100機の補充がなされていた。

ダンピール海峡以南の、ニューギニア、ニュージョージア島の南のソロモン諸島は、いずれも、連合軍機が、我が物顔に、飛び回り、南東方面の制空権は、ラバウル、マダンなどの後方要地を除いて、すでに、連合軍側のものとなっていた。

更に、航空兵力だけではなく、海上兵力も、北上の兆しを見せていた。

日本軍にとっては、潜水艦、艦艇による、輸送が、無くてはならない手段になっていたが、その最も手ごわい敵である、魚雷艇が、サラモア付近にまで、出没するようになっていた。

当時、大本営陸海軍部は、ソロモン、ニューギニア方面に対する積極性を失ってはいず、連合艦隊としては、立場上も、座して敵の出方を待っているわけには、いかなかった。

「い」号作戦の計画は、当初第一撃は、4月1日、X攻撃を、ガダルカナル島方面に、加えることとなっていたが、ソロモン方面の天候不良により、7日に延期された。

しかし、米軍は、事前にブイン基地における日本軍機の、異常な増加に気づいていて、見張所がキャッチし、ただちに、邀撃の態勢がとられていたのである。

その計画は、第四回まで、行われたが・・・
4月14日、東部ニューギニア方面の艦船を目標とした、第三艦隊の飛行機隊による、第三次Y2攻撃が企画されたが、早朝の偵察機が、付近に船影なし、と報告したため、あっさりと、中止になった。

山本五十六が戦死したのは、その後である。

結論を言えば、作戦を実施することにより、その航空機のあまりの損耗の激しさに、驚き、中止したということである。

すでに、日本軍は、衰退に向っていた。

その、「い」号作戦の仔細なことが、未だに、良くわからないという。

その頃から、中央に対して、故意に、被害を過小に見積もり、虚偽を報告し始めているということである。

ちなみに、山本五十六は、戦争全体の敗北を、明確に、予想したであろうということである。
攻撃を受けて、墜落したことになっているが・・・
それが、自殺であったという、見方も出来ると言う。

だが、それには、深入りしない。

さて、大本営が、アッツ島に、敵上陸の第一報を受けたのは、昭和18年5月12日であった。

大本営陸軍部は、アッツ島に対する逆上陸を企画し、海軍部も、千島の基地航空部隊をもって、支援し、当時、トラック諸島の戦艦武蔵上にあった、新連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、いったん機動部隊を北上させようとした。
陸軍は、落下傘による、挺身上陸も考えた。

アッツ島には、守備隊として、陸軍約2500名と、海軍約1000名がいた。

攻撃に来た米軍は、日本軍の約10倍の兵力である。
最初は、キスカを第一の時揚陸目標にしていた。
米軍の勢力圏内に近いキスカである。
防備が、手薄で、攻略しやすいという、理由から、三月に入り、急遽アッツ島上陸が決定した。

日本の連合艦隊は、南方方面で、対応しきれなくなっていたゆえに、北方へまわす兵力の余裕はなかった。

千島の基地から、中攻による二回の襲撃と、潜水艦による、アッツ近海の敵艦艇に対する攻撃が、唯一の反撃だった。

根本的な解決には、逆上陸しかないのである。

アッツ島上の山崎部隊からは、刻々と切迫している戦況報告が打電されてきたが、大本営は、手をつかねて、沈黙するしかなかった。
そして、5月18日に、アッツ島の放棄が、内定した。

5月20日、御前会議にて、
西部アリューシャン列島の確保は断念して、両島の守備隊は撤収し、北東の第一線を千島列島、樺太、北海道の線まで後退させる
という、議案が採決された。

そして、5月29日、ついに決別の電報が届いた。
何と、守備隊は、この最後の時点で、150名になっていたのである。

玉砕、という言葉が、初めて使用されたのである。

アッツ島を捨てたが、玉砕という言葉により、名誉を与えたといえる。

だが、アッツ島の放棄で、北方における海上決戦は、取り止めになったものの、キスカ島所在人員の撤収は、ケ壕作戦と呼ばれて、にわかに、クローズアップされた。

キスカ島にあった人員兵力は、昭和18年6月5日の状況で、陸軍約2500名と、海軍約3400名だった。

キスカ周辺は、敵の制空権下にあり、海上は、艦艇、潜水艦で封鎖されている。
日本軍の作戦は、戦闘ではなく、人員の救出である。
したがって、空と海を問わず、発見されたら、万事休すである。

霧という、自然現象に託すしかないという、状態であった。
これ以上は、省略するが・・・
結果的に、作戦は成功する。
7月22日、第二次ケ壕作戦は、第一次と同じ艦隊編制で、出航し、25日を突入予定日と決めていたが、27日までは、キスカ周辺は快晴続きということで、この間、キスカ島南方海上約300浬付近の霧に隠れ、機会を狙っていた。

28日、濃霧が立ち込め、広がるのを知り、水雷戦隊は、突入を決意した。
29日午前7時、木村昌福少将は、キスカ湾に向かい、陸上の通信隊の発する電波を頼りに、驀進を開始した。

昭和18年の敗戦続きの、南太平洋にあって、キスカの救出作戦の成功は、かすかな光であった。

その8月、米軍は、キスカ島に対して、二週間に渡り、猛撃を加えた。
そして、15日、3万5000名もの大軍を上陸させたが、霧の中で出会ったのは、犬三匹という。




posted by 天山 at 05:48| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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