2015年04月23日

玉砕22

ドイツが、ソ連に侵攻した。
二年前の、独ソ不可侵条約締結を、ヒトラーは、廃棄したのだ。

軍部は、勢い立った。
南部インドシナ、ベトナムへの進駐を目論む。

その時、天皇は、
私の主義として、相手の弱みに付け込んで要求をなすような、火事場泥棒式のことは、好ましくないが・・・
今日の世界の大変局に処すためには、宋襄の仁、に陥るような結果となっても、面白くなかろう。ただ、実行には、慎重を期すように・・・
との、仰せである。

これは、木戸を通じて戒めたものである。
が、軍部の再三の要求に根負けし、七月に、
国際信義上どうかと思うが、まあよろしい。
後半の、よろしい、の語尾は、特に強く高められた。

それにより、アメリカは、直ちに、在米日本資産を凍結し、綿花と食糧を除く全物資の対日禁輸を発表した。
続いて、イギリス、オランダ、フィリピン、ニュージーランドも、アメリカに習い、石油が一滴も入らぬ形勢になった。

これだけを、眺めると、日本の行為に対する制裁に見えるが・・・
アメリカは、初めから、対日戦争を望んでいたのであるから、何をかいわんやである。

どんどんと、日本を追い詰めるべくの、アメリカの作戦である。
それに、日本側が、気づかない。

だが、刻々と、対米戦争への道が開けてくるのである。

その年の、春からはじまっていた、日米交渉も進まず、近衛首相は、なおも日米トップの会議を提案するなどの、打開に努めたが、実りには、遠い。

日本は、いやが上にも、南方に活路を求める他に道はなくなるのである。

軍は、決意を固めて、準備に着手し、大本営と政府の連絡会議で、帝国国策遂行要領が、立案された。

9月6日の、御前会議にて、決定する運びとなった。
その前に、内奏を受けた天皇は、近衛首相に、
これを見ると、第一に戦争準備を記し、第二に外交交渉を掲げている。戦争が主で、外交が従であるかの感じを受けるが、どうか・・・
との、仰せである。

そして、外交と戦争準備は並行せしめず、外交を先行せしめよ・・・
との、仰せだった。

更に、杉山参謀長を呼んで、南方作戦の見込みについて、質した。
南方方面ならば、三ヶ月くらいで、片付けるつもりであります。
との、奉答である。

お前は、日中事変勃発の当時、陸軍大臣としては、事変は一ヶ月くらいで、片付けるといったが、四年後の今も続いているではないか・・・
との、仰せ。

シナは、奥地が広いものですから・・・
と、弁明すると、
シナの奥地が広いというなら、太平洋は、なお広いではないか。いかなる確信があって、三ヶ月というのか・・・
との、仰せである。

杉山は、ただ、頭を垂れるばかりだった。

絶対に勝てるのか・・・
天皇の仰せに、
絶対とは申しかねますが、勝てる公算のあることだけは、申し上げられます。必ず勝つとは、申し上げかねます。
杉山が、口を濁すと、
ああ、分った。
との、仰せである。

その声は、大きかった。

昭和天皇の戦争回避の御心・・・
しかし、それは、どの方法を辿っても、戦争に行き着く道になっていたのである。

アメリカが、日米戦争を望んでいたからである。
それは、アメリカの世界支配の、作戦である。
日本を植民地にしたいのである。
国益のため、世界支配のため・・・

現在、敗戦から、70年を経ても、日本は、独立国としてあるのではない。
アメリカの植民地である。
独立国という、姿を朧にしているが・・・

日本が、経済大国第二になった時期も・・・
今も、アメリカの植民地に変りはない。

日本が、二度と、白人に逆らうことなく、アメリカに逆らうことなく・・・
徹底的に、敗戦後に、叩きのめされた。

現在の、反日運動も、日本の社会の左翼系、反日運動も、何もかも・・・
アメリカが、準備し、種を蒔いたことである。

日露戦争に勝利して、有色人種たちを、歓喜させた時の、日英同盟も、イギリスの国益に、適ったがためである。

イギリスの植民地政策を、日本が助けていたからである。

信頼などではない。
国際社会は、複雑怪奇・・・
というより、悪魔の跋扈なのである。

その最大の国は、イギリスである。
そして、アメリカの世界支配の魔物。
今も、それは、続いている。

そして、その上には、偽ユダヤ人の組織が牛耳る。
シオニストという、連中である。



posted by 天山 at 06:08| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月27日

玉砕23

それでは、日本とアメリカの外交交渉は、どんなものだったのか。

昭和16年4月から、外交交渉を始めていたが・・・
それは、単に、日本に来た宣教師と、陸軍省、外務省の官僚との、私的な話し合いである。
それを、ただ、政府レベルに乗せただけである。

そして、漸く、駐米大使である、野村吉三郎と、アメリカ国務長官の、コーデル・ハルとの間で、話し合いが始まった。

内容は、簡単である。
アメリカ側は、日本の三国同盟からの離脱、そして、中国からの撤退、アメリカへの、敵視政策の中止である。

日本側は、親日派の中国政権の承認と、蒋介石政府に対する、援助停止である。

話し合いが尽く事はない。

ここでも解る通り、アメリカは、一切の話し合いなど、する必要がないのである。
中国から撤退・・・
日本が、撤退すれば、アメリカが、即座に中国に入るのである。

アメリカの敵視政策の中止とは・・・
呆れる。
散々に、日本に対する、敵視政策をしているのは、アメリカである。

それでも、昭和天皇の意向により、近衛首相、東郷茂徳外相は、外交交渉で、決着をつけようとしていた。

9月6日の御前会議である。
天皇は、御前会議に先立ち、木戸を招いた。

今日は、私も発言したいと思うが、どうか・・・
との、仰せである。

御前会議では、通例、天皇は発言しないのである。
出席者の間で質疑応答が行われるのを、傍聴する形である。

天皇は、陸海相、両総長らの主導で、開戦決定が下されてはと、憂慮したのである。

木戸は、
原枢密院議長が、陛下のご懸念のところを衝いた質問をすることになっています。
と、返答である。

ただ会議のしめくくりとして陛下が、今回の決定は、国運を賭しての戦争ともなるべき重大な結果を招くから、統帥部においても外交工作の成功をもたらすよう、全幅の協力をなすべし、とのご警告をされるのが、よいのでは・・・
と、奉答した。

その御前会議では、鈴木貞一企画院総裁が、
一、 帝国は自存自衛を全うするため、対米戦争を辞せぬ決意のものに、おおむね十月下旬を目処として戦争準備を完整す
二、 右に並行して米、英に対し外交手段をつくして、帝国の要求貫徹に努む
である。

これに対し、原議長が質問を続けたが、返答は、及川海相が当った。

作戦を司る、統帥部の説明が無いのである。
天皇は、堪忍袋の緒が切れた。
両総長を見据えて、大音声にて、
原議長の質問は、もっともと思う。しかるに、両総長からは、一言も答弁がないのは、どういうわけか。甚だ遺憾である。
との、仰せである。

予想もされなかった、天皇のご発言、その語気に、皆息を飲み込んでいると、天皇は、右手を内ポケットに入れた。
用意した紙片を取り出して、高々と朗誦した。

四方の海 みなはらからと思ふ世に
など波風の立ちさわぐらむ

二度の朗誦である。
これは私がいつも愛唱している明治天皇の御製である。私は、大帝の平和愛好の心を、わが心としている。
との、仰せである。

一同は、衝撃を受けて、しばらく声も出ない。

そして、永野、杉山両総長がこもごもに立ち、
外交交渉を主にし、戦争は止むを得ない場合にのみ、その手段とする旨を、奉答した。

しかし、開戦を避けられることはない。
何故なら、アメリカが開戦のために、じりじりと、日本を追い詰め、更に、時間稼ぎをするのである。

日本側も、アメリカの報復措置を受けてから、陸軍省、海軍省、参謀本部、軍司令部の、対米強硬派は、交渉を止めて、戦争に訴えることだと、圧力をかけるのである。

10月になり、強硬派は、交渉打ち切り、即時開戦の声が強くなった。
そして、近衛は内閣を投げ出してしまうのである。

ここで、もう一つ、アメリカの手の内を見ると・・・
アメリカ側は、東京からワシントンの日本大使館に打電される、外交電報をすべて解読していたのである。

この種の電報は、暗号を用いるが、その複雑な暗号を、アメリカは、解読していたということ。

解読された電報は、マジックといわれ、ルーズーベルト大統領、ハル国務長官など、僅かな指導者だけが、読んでいた。

色々な分析があり、色々な言い分があるが・・・
日本は、情報戦に負けた・・・
アメリカを見くびっていた・・・

今、振り返れば、皆々、誤りである。
何せ、アメリカは、日本と戦争をする心積もりだったのだ。
どんなに、外交努力をしても、そのアメリカの開戦の決心を変えることはできない。
アメリカは、日本を植民地にしようとしていたのであるから。
それは、ペリー来航以来の、アメリカの夢である。

posted by 天山 at 07:00| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月28日

玉砕24

アメリカのルーズベルト大統領の選挙公約の一つは、戦争はしないというものだった。
しかし・・・
戦争を作り出さなければならない。

ここで、アメリカのいつもの手である。
相手に攻撃させて、戦端を開くのである。

だから、日本にアメリカを攻撃させることなのだ。
それにより、アメリカ国民を奮い立たせる。
そして、日本、ドイツ、イタリアに宣戦布告するのである。

更に、アメリカの軍備を充実させる時間も必要である。
日本が、精一杯、交渉を重ねても、せん無いことなのである。
すでに、ストーリーが決まっていた。

あの戦争を避ける云々という話は、無い。
アメリカが、仕掛けて、そのために、外交交渉を遅れに遅らせていたのである。

であるから、日本側が、交渉打ち切り、宣戦布告というワシントンに打った文言も、すべてアメリカ側が、知っていたのである。

リメンバー・パール・ハーバー・・・などとは、笑い種である。

さて、近衛が内閣を投げ出した後、首相選出をどうするのかで、木戸内大臣は、思案した。
中には、天皇の意に添うため、皇族から内閣総理をという、意見も多かったが・・・

10月17日の重臣会議の席上、木戸が、
目下、なによりも必要なのは陸海軍内部の統制をはかり、9月6日の御前会議の再検討をすることにある。
との見地より、東條陸相を後継首班に主張した。

これは、事実上、木戸一人の判断で、東條を擁立したものである。

昭和16年10月18日、東条英機首相の誕生となった。

その際、天皇陛下は、
虎穴に入らずんば虎子を得ずということだ
との、仰せである。

つまり、外交交渉を主にするため、軍部からの者を、首相にして、軍部の統制を図るということになる。

だが、アメリカとの交渉が、上手く行くはずがない。
日本も、譲歩しない。
何せ、中国からの全面撤退である。
そして、アメリカの敵視政策を止めること。

どちらが、敵視政策をしているのか・・・
アメリカの方であろう。

11月20日、日本は最終案を提示したが、これを最後通告とみなして、アメリカを硬化させたという、論調があるが、硬化も何も、アメリカは開戦を望んでいるのである。受け入れる訳がない。

天皇陛下は、11月26日、
いよいよ最後の決意をなさねばならなくなった。なお一度、重臣たちの意見を微してみたいので、東條に話そうと思うが、どうであろう。
と、木戸にはかる。

そして、29日、天皇は、各重臣である、八元総理に諮問し、彼らは、一時間所見を述べたが、開戦に賛成の者は、一人もなく、比較的賛成が二人、反対が五人、一人が中立である。

27日のアメリカの回答により、交渉決裂であり、開戦の方針は、もはや変えられない。

翌日、高松宮より、
海軍は今でも避けたい気持ちです。
との、言葉に、天皇は、海相と軍司令部総長を呼んだが、
二人に尋ねるに、いずれも相当の確信をもっている旨奉答せるゆえ、予定通り首相に伝えよ
との、仰せで、つまり、開戦ということである。

木戸は、その旨を東條首相に電話で知らせた。
11月30日午後6時30分である。

山本五十六連合艦隊司令長官は、最後の御前会議の翌日、12月2日、南雲忠一機動部隊長官に電報を発した。
ニイタカヤマノボレ1208
である。

それは、真珠湾攻撃のサインである。

ワシントンの日本大使館が、宣戦布告の文書を手渡すのに手間取ったというが・・・
アメリカ側は、そんなことは、すでに知っていたのである。
兎に角、奇襲攻撃を待っていた。

ニイタカヤマノボレの電報に、「赤城」「加賀」などの、空母六隻、駆逐艦十七隻を列ねた艦隊は、進路をそのままに、ハワイを目指した。

別に、三十隻の潜水艦は、すでにハワイ近海に到って、うち五隻は、特殊潜航艇を一隻ずつ、デッキに搭載していた。

12月7日、日本では、8日、午前6時、オアフ島の北230カイリに到達した。

月明かりを利して、第一陣183機、続いて7時45分に第二次の167機が、発進し、合計350機765人が、日曜の早朝に、真珠湾に突入した。

アメリカの望み通りの、奇襲である。

ハワイの現地軍の怠慢もあり、奇襲は完璧なまでに、成功したのである。
つまり、ルーズベルトは、自国民、兵士を見殺しにしても、日本の奇襲を成功させたということだ。

そのことを知る者は、大統領を入れて、四名だけである。

アメリカ太平洋艦隊は、空母を除いたほとんどが停泊中で、たちまちにして、戦艦八隻中五隻を撃沈、三隻を撃破した。

ただ、日本側は、空母が存在しないことに、疑念を抱いたという。
兎に角、日本の大東亜戦争、第二次世界大戦の幕開けである。




posted by 天山 at 06:57| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月12日

玉砕25

当時のアメリカの国内世論を見る。
ルーズベルト大統領は、国民に対しても、徹底した、世論操作をしている。

アメリカ国民は、孤立主義ムードが強かった。
ヨーロッパに関する関心も低い。
そして、第一次世界大戦で、戦争には、辟易していた。

アメリカ議会も、その国民の心情を反映して、欧州、極東への介入を危ぶみ、ルーズベルトを、アメリカ大統領から世界の大統領を目指すとして、祖国を、紛争に巻き込まないという、保証を求めていた。

ルーズベルト自身、いかなる戦争にも参加しない、という、公約を掲げて、当選したのである。

だが、世論は、巧みに操作された。
欧州の情勢に代わり、極東の危機が新聞をにぎわせる。

米民間の調査機関ギャロップ調査は、三分の二が、日本製品のボイコットに賛同し、四分の三が、対日武器禁輸を支持していると、報じた。
これは、前年の、二倍である。

そして、ルーズベルト大統領は、米国民の日本に対する憤激を抑えているのだという、印象を与えたのである。

だが、ここまで来たら、日本に対して、何らかの警告をしなければならないという、論調を導き出した。
その具体化が、昭和14年、1939年の日米通商航海条約の破棄通告である。

半年の間に、日米の関係が大幅に好転しない限り、条約が失効になるというものだ。
その後、両国関係の修復ならず、効力を停止した。

ルーズベルトは、その裏で、フィリピン・マニラと、ハワイ・真珠湾の軍備を強化し、ハワイ付近の洋上において、海軍の演習を実施することを、内談しているのである。
つまり、戦争準備である。

同時に、あらゆる禁輸令についての検討が、密かに、始められた。
それも、戦争準備である。

そして、日本の外交努力に対して、ハル国務長官は、
極東における横暴な権益拡張をわれわれに認めさせようとしている、との返答であり、アメリカの真の姿を日本に映したような言葉である。
権益を欲しているのは、アメリカであろう。

1940年の暮れ、大統領三選の目的を果たして、国内の人気取りを挽回したルーズベルトは、年末の慣例となる、ラジオ放送において、突然、ドイツに対する信念を明らかにした。

著名な民主主義の兵器・演説である。
ある国家がナチスと講和を結びえるのは、ただ全面的降伏という代価を開いて払った場合のみで、それ以外にはありえない。もしイギリスが敗れるようなことがあったなら、われわれはナチスの銃口の前で暮らすことになるだろう
として、ヒトラーが、英米にとって、供に天を戴かざる共通の敵であることを、公然と指摘した。
アメリカは、この時に当って、民主主義の兵器・となろう・・・
と、全国民に呼びかけた。

ヒトラーに追従する枢軸国と、いったん戦端をひらけば、中途半端な講和はありえず、相手国を無条件降伏の状態に崩壊させるまで、終わりがないという、覚悟を述べている。

この演説は、連合軍の第二次世界大戦を通じての、パックボーンになったのである。

この演説の具体的な現れの一つとして、武器貸与法が、翌年1941年1月10日、上・下院に提出された。

つまり、開戦ということで、決定していたのである。

枢軸国とは、日本を指す。

ヒトラーの野望は、欧州の統合であり、それに対して、イギリスのチャーチルが最も恐れていた。
チャーチルこそ、アメリカに参戦して欲しいのである。

世界最大の植民地政策の国、イギリスと、世界最大の戦争好き国家、アメリカである。
元を辿れば、キリスト教白人主義である。

相手が開戦を決めているのであるから、日本が、いくら外交努力をしても、せん無いことである。

だから、日本が決して飲めない、要求を平然としてくるのである。

国民大衆の愚かさは、アメリカだけではない。
多くの国、日本もそうである。
洗脳されたり、誤魔化される。
現在の、マスコミの報道もその一つである。

さて、アメリカは、日本に中国の利権を手放せという。
つまり、自分たちも、その分け前に預かりたいということである。

いつものことだが、アメリカは、自分の利権を他国に渡すようなことがあったか。
兎に角、奪う一方である。

その方法も、いつも穢い方法である。
アメリカの建国から考えても、真っ当に、進んで来た国ではない。

日本は、敗戦から、70年を経たが、未だに、アメリカの植民地としての、扱いである。
独立国とは、名ばかりの、名目だけの・・・

占領政策は、何も変っていない。

この頃は、アメリカの力も落ちてきたのか、日本に防衛の強化を言う。
このチャンスに、日本は、自衛、防衛の力を、格段に強化すべきである。
必要ならば、核兵器開発も視野に入れてもいいのである。

核兵器廃絶などという、人たちは、世界の複雑怪奇さを知らず、単純素朴に、考えているのである。
気づいたら、属国になっていたという、笑えない話である。

ぼんやりとした、宗教団体にそんなことは、任せておけば、いい。
彼らは、祈っても、核兵器が無くならない事を、知らないのである。


posted by 天山 at 05:46| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月13日

玉砕26

真珠湾の奇襲攻撃・・・
この攻撃によって、アメリカの国内世論は、一致して、日本に対する敵意が、例を見ないほどに、高まった。

まさに、ルーズベルト大統領と、ハル国務長官の思惑は、見事に成功した。

対日宣戦布告、そしてドイツとの戦争にも、アメリカ国内は、何の依存もなかった。

さて、開戦当初は、真珠湾だけではなく、陸軍主体の、香港のイギリス軍攻略、マレー半島の上陸作戦なども、成功した。

開戦から、わずか三週間の間に、中国からアジアの国々までの、二万キロに及ぶ戦線で、日本軍は、勝利を収めた。

更に、香港だけではなく、フィリピン、マレー、ボルネオ、グアムなどにも、占領地域を増やしている。

昭和17年の前半は、日本軍が、破竹の進撃を続けたのである。

フィリピンの首都マニラも制圧し、司令部を置いていた、アメリカ南西太平洋地域軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、アイ・シャル・リターンという言葉を残して、マニラを去った。

ここで、象徴的なシンガポールを陥落させたことを書く。
マレー半島とは、現在のマレーシア、シンガポール、タイとミャンマーの一部である。
中でも、シンガポールは、太平洋とインド洋の接触点であり、東と西を結ぶポイントでもある。
そして、イギリス植民地主義の、象徴とも言うべき地域である。

マレー進攻作戦は、マレー半島の各所要地に立てこもる英軍を撃破しつつ、極東支配の牙城といわれる、シンガポール島の攻略を目的とする。
それは、壮大なスケールである。

大量の輸送船を連ねて、海上を押し渡り、上陸し、約1000キロに渡る、マレー半島の長距離を行く。
そして、近代要塞に覆われたシンガポールの陥落である。

英領であった、マレーシアのコタバトに上陸し、激しい敵の抵抗を受けたが、突破した。そして、その後の、シンゴラとパタニは、無血上陸だった。
そこから、南下してゆく。

兎に角、日本軍は、シンガポールを目指したのである。

クアラルンプール以南は、それまでとは違い、地形が開けて、道路網の発達も、日本軍に都合がよかった。

マレー半島の先端を占めるジョホール州では、敵の徹底抗戦である。
上陸して、三ヶ月、1000キロの敵中突破を果たして、シンガポールを目前にした。

シンガポールを目前にしていた頃、ジャワ海では、ジャワ沖海戦が起こっていた。
セレベス島に上陸していた日本海軍の陸上攻撃機が、スラバヤ方面の空襲に向いつつあった、南方部隊は、敵発見の報に、ただちに、敵艦隊へ殺到した。

連合国艦隊は、ボルネオ東海岸の油田地帯、バリックパパンを出航して、マカッサル海峡を航行中であるはずの、日本軍輸送船団を攻撃する目的だった。

被害を出した同艦隊は、目的を捨てて、避退したが、日本側は勝利とも言えず、中途半端なものだった。

さて、シンガポールであるが、2月10日、砲火をまじえた総攻撃が終わった時点で、日本軍は、敵が翌日あたり、降伏するのではと、見当をつけていた。

そして、2月15日、マレー軍総司令官が、幕僚三名、通訳一人を伴い、第25軍司令官山下泰文中将と会見した。
バーシヴァル中将は、無条件降伏を承諾し、降伏に関する回答書に、サインしたのである。

次に見るのは、グアム、ウェーク島である。
二つの島は、日本軍にとって、東京、硫黄島、南海島、ウオッゼ、ミレなどのラインを結び、南東へ延びる作戦線の重要な、拠点である。

開戦と同時に、日本軍は、中南部太平洋方面への、進攻作戦を進めた。

この作戦は、海軍が主となり、陸軍は、南海支援隊をもって、グアム、ラバウルの攻略に協力する形である。

グアムは、アメリカ領である。
昭和16年11月下旬、南海支援隊は、ひそかに輸送船九隻に乗船して、四国、坂出港を出航した。
途中、小笠原諸島の母島に寄港。12月4日、母島を出航して、マリアナ諸島東方航路を経て、グアムに向う。

10日、零時から一時の間に白地に進入し、午前2時過ぎに、上陸を開始した。
そして、その日のうちに、島内要所をことごとく占領し、16時過ぎに、アガニア市にある、グアム政庁を占領して、総督マクミラン大佐以下368名と市民115名が捕虜となり、政庁付近の公会堂に収容された。

ウェーク島は、22日、上陸するが、敵の抵抗も激しかった。
しかし、全島の指揮官カニンガム米海軍中佐を捕虜としたとの報を受けて、梶岡少将は、23日22時15分、ウェーク島の占領を、打電している。

昭和17年、一月は、グアムから、トラック島、現在のチューク諸島に、そして、ニューブリテン島の、南東太平洋方面における連合軍の有力な基地である、ラバウルを占領する。

この時の、トラック諸島は、日本の統治下にあり、太平洋の要衝の一つだった。

こうして見て行くと、日本軍は、次々と、攻略に成功している。
この間に書かれている、連合軍とあるが、それらは、大半がアメリカ領であり、アメリカ軍の支配下にあった。

太平洋も、アメリカが大半を支配していたことである。
つまり、植民地化である。
そして、イギリスである。

中国も、アヘン戦争以後は、西欧列強が、様々に支配、統治して、植民地化していたのである。
勿論、アジア一帯が、植民地だった。

日本の言う、大東亜圏というのは、このことである。
第二次世界大戦は、太平洋戦争ではない。
大東亜戦争なのである。

この日本が言う、大東亜戦争を、敗戦後、マッカーサーが禁止したのである。
それ程、日本に対して、敏感だったということだ。

世界的に、日本は、悪であるというイメージを作るためにも・・・


posted by 天山 at 05:45| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月14日

玉砕27

フィリピンである。
開戦当日の、12月8日のうちに、勝敗が決した。

比島米英軍に対する、航空撃滅戦は、日本軍が一日をもって、西太平洋の制空、制海権を、おおむね手中におさめた。
これは、マレー上陸軍と時を同じくした。

香港攻略軍も、同様である。

フィリピンは、大小様々な、おびただしい数の島からなる。
大本営、南方軍が指向していた、フィリピン攻略作戦の主たる目的は、最大のルソン島にある、首都マニラの陥落と、第二のミンダナオ島のダバオの占領である。

マニラは、アメリカの極東支配の根拠地であり、フィリピン全土の政治、経済、軍事の中枢である。
ダバオもまた、南フィリピンの、政治、経済、軍事の中心である。

この二つの要塞をおとせば、各地は、残敵掃討程度の戦闘で終わると見ていた。

昭和16年12月8日の朝、南部台湾一帯に、濃霧が垂れ込めた。
これにより、未明に予定されていた攻撃隊の発進時刻が、大幅に遅れた。
しかし、これが、後で幸いしたことが分る。

その長い時間待ちの間に、第十一航空艦隊司令部は、当日の作戦の手直しをした。

当初は、ニコススフィールドなど、マニラ周辺の基地を叩く予定だったが、その手前の、クラークフィールドと、イバ両基地に集中するようにした。

ここで、ゼロ戦の優秀さが、証明されたという。
米陸軍の最新鋭兵器として知られた、P40との空戦が、持続力ばかりではなく、空戦性能においても、格段に優れていることが、証明された。

ルソン島の、敵航空基地には、大型爆撃機の、B17が配備されていたが、ゼロ戦の機銃により、その大半が、地上で炎上し、破壊されたのである。

日本軍は、米比軍が、後退などせず、マニラに留まり、迎え撃つだろうと予想していたが・・・
マニラを空にして、バターン半島に、避退したのである。

日本軍の部隊は、バターン半島より、北方の多くの基地を攻略した。

敗戦後、喧伝された。バターン死の行進、というのは、コレヒドール島の降伏に先立ち、4月9日、バターン半島が陥落した際に、俘虜の護送の途中で起きた悲劇である。

バターン半島の目の前にある、コレヒドール攻撃のため、俘虜を現在地に留めておくわけにいかず、バターン半島南端の、マリベレスからクラークフィールド北方にあったオドンネル基地まで、護送しようとしたのである。

その数、米兵1万2千、フィリピン兵6万4千、難民2万6千という記録である。
その大半がマラリアにかかり、乏しい食料は、底をついた。
予定していたトラックの台数が、不足して、やむなく、マリベレスからサンフェルナンドまでの、88キロの行程を歩かせることになった。
だが、炎天下のもと、疲弊した俘虜たちは、バタバタと倒れた。

多くの死者が出たのである。
だが、この行軍じたいが、敗戦後、米軍側が弾劾したような、事前の組織的計画のものに実行されたものではなかったのである。

戦争には、このような不幸が当然にしてある。
戦勝国が敗戦国を裁くのだから・・・
何とでも、言う。

結果、バターン島は、敵の抵抗を受けることなく、5月6日、島内を掃討した。
ウェンライト中将は、全在比米軍の無条件降伏を申しでて、マニラ放送局を通じて、投降命令を発し、各地に幕僚を派遣して、自分の意見を伝達させた。

次に、香港を見る。
香港は、イギリス領である。つまり、植民地である。

香港島と、九龍半島からなる。
城門貯水池以南の九龍半島と、香港島とが、ビクトリア港をはさんで向かい合い、一連の要塞をなしていた。

香港島は、全島がおおむね山地であり、海正面における、堅固な要塞であり、陸正面に対して、最後の複郭陣地をなしていた。

当時守備するイギリス軍兵力は、マーク・ヤング総督以下、陸軍一万名と少数の海空軍部隊である。
12月13日、日本軍の降伏勧告を拒絶した。
そこで、砲爆撃を開始する。
そして、香港島に上陸。

翌日、九龍半島すべての掃討を完了した。

最後に島西部の復郭陣地で抵抗していたイギリス軍の中から、白旗が掲げられ、12月25日、香港島を攻略するのである。

兎に角、日本軍の最初の進軍は、成功裏に終わっている。

この強さは、何か・・・
軍の統制のとれた兵士たちの、軍規であったと、考える。
勿論、その戦いに勝った後の、意識の相違と学びが、日本軍の弱点となるが・・・

ここで、この日米両軍の戦略構想の相違を見ると、戦争全体の決着をどうつけるかという、戦争終末促進案の違いとも関連する。

アメリカは、実に固い意識で、参画したのであり、限定戦争ではなく、無限戦争の意識である。
相手国の息の根を完全に止めるまで、止めないという意識。
ゆえに、中途半端な形での、講和などは、有り得なかった。

日本の意識は、ある程度占領地を広げて、重要な局地戦に大勝し、講和に進めるという意識である。

つまり、大東亜戦争、第二次世界大戦とは、日本とアメリカの戦いが主たるものである。
連合国軍・・・
実際は、アメリカ軍との戦闘なのである。

昭和天皇の本心、御心は、いかがなものだったのか・・・
それは、民主主義のアメリカやイギリスと戦争はしたくないのである。
逆に、ドイツ、イタリアという、成り上がり者の、独裁者の国を嫌った。

民主主義という形は、日本の歴代天皇が持っていた、精神である。
敗戦後に、アメリカから、民主主義を学んだのではない。
それは、日本に元から存在した精神である。

勿論、それも、日本流にして存在していたのである。



posted by 天山 at 07:26| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

玉砕28

マレー沖海戦は、昭和16年12月9日、午後3時10分、マレー半島東方洋上を哨戒中だった、伊号65潜水艦が、仏印の最先端である、マレー岬の南南東約420キロ付近で、英戦艦二隻が、北方に向けて航行中であるのを、発見したときから始まる。

当時、世界最強の不沈戦艦といわれた、プリンス・オブ・ウェールズと、高速戦艦レパスルである。

なんと、日本軍は、この二隻を撃沈したのである。

警戒航行中の戦艦を、航空機だけの攻撃で沈めたのは、世界の戦争史上において、初めての出来事である。

それまでは、航空機で、戦艦を沈めることは、出来ないと、されていたのである。

イギリスのチャーチルは、開戦の報告に、狂喜したが、その翌日は、地に堕ちた体験をしたわけである。

日本軍が、真珠湾攻撃で、奇襲攻撃をして、アメリカが参戦したことを、立ち上がって喜んだチャーチルである。
勿論、喜んだのは、多々いる。

ドイツ、ヒトラー、イタリア、ムッソリーニ、そして、世界中の有色人種たちである。
決して、敵わないと考えていた有色人種は、喝采したのである。
日露戦争の際も、そうだった。
そして、今度は更に、歓喜したのである。

白人に立ち向かう国、日本は、世界の注目を集めた。
何百年もの、白人支配の下で圧制されていた、植民地の人々の感激は、いかばかりだったのか、測り知れないものがある。

この、日本の行為が、その後、植民地の人々に、独立の気運を作ったといえる。

戦争に到る、様々な要因と、そして、戦争後に訪れる、意識の変革。
それは、多面的に、眺めることが、必要である。

さて、日本は、戦争の長期化を見通しがないままに、進めたといえる。
だが、一つだけ、明確なことは、なるべく、ジャワ、スマトラ、ボルネオの石油を手に入れて、自給自足の体制を整えるということだった。
資源の無い日本・・・
大戦争を決意するとすれば、それ以外に、取るべき道はない。

フィリピン、マレーの攻略は、当時の蘭印、つまり、オランダ領東インドと呼ばれていた、インドネシアへの、ルートを拓くという意味を持っていた。

日本軍は、昭和17年、1942年2月に、ジャワ島に進攻することになった。

バリ島、スラバヤ、バタビアの各海戦は、いずれも、ジャワ全島攻略を巡る、必然的に起きた、海上戦闘であった。

当時の、ジャワ島周辺には、米英蘭三国の、東洋艦隊がいすわり、抵抗の気配濃厚である。

バリ島沖海戦は、バリ島攻略に向った、日本軍輸送船団を、連合国軍艦隊が阻止することで、2月19日の夜から、20日未明にかけて、展開された。

実は、バリ島の攻略は、大本営の規定方針にないものだった。
しかし、蘭印攻略作戦実施の途中で、東部ジャワ攻略のための、航空基地として、クローズアップされたものである。
特に、現地海軍の、強い主張を、陸軍・南方軍総司令部が受け入れて、実現の運びとなった。

現在、観光地として、日本人の多くが出掛けるが、まさか、バリ島沖海戦など知るよしもないだろう。
更に、その隣のロクボク島に、司令部も置かれたのである。
それは、現地の人に聞いて、私も知った。

バリ島沖海戦は、第四次海戦まで、行われたのである。

そのバリ島では、日本軍に米を奪われたため、バリ島始まって以来の食糧不足に陥った。

その際に、米を運ぶことを断った人たちが、日本兵に暴行された。
私は、その生き残りの老人にも、出会った。
申し訳ないと、私が言うと、もう、昔のことなので、忘れたと、言ってくれたことが、救いだった。

その海戦でも、兵士の戦死がある。
確かに、戦いには、勝ったが・・・

さて、次ぎは、スラバヤ沖海戦と、バタビア沖海戦である。
バタビアとは、現在のジャカルタである。

共に、ジャワ全島攻略作戦の過程で生起した、海上戦闘である。

七月下旬を期して、ジャワ島東部のクラガシに上陸予定の、陸軍兵力、第十六軍の第四十八師団を乗せた輸送船を、直接護衛する、第四水雷戦隊と、これを支援する第五戦隊および、第二水雷戦隊が、スラバヤ沖で、連合軍の水上部隊と衝突したのが、スラバヤ沖海戦である。

ここでも、敵は損害を出して、現場から逃れて、日本軍の勝利である。

バタビア沖海戦は、ジャワ島西部に上陸予定の陸軍部隊を乗せた、輸送船団五六隻を護衛した、第五水雷戦隊と、これを支援する、第七戦隊が、ジャワ海に入り、何度か敵艦隊と遭遇していたが、決戦にまで至らなかった。

その後、東部ジャワ攻略部隊が、一手に引き受けた戦闘の形で、3月1日未明、船団は、西部ジャワ・バタビア付近の、バンダム湾と、メクラ湾方面の二手に分かれて、無事入泊する事が出来た。

戦闘が起きたのは、これ以降である。

日本軍の攻撃は、実に激しいものだった。
敵は、戦意を喪失して、その主砲は、全く沈黙である。
沈没寸前の敵艦二隻に対して、容赦の無い攻撃を加えた。

ここでも、日本軍の勝利である。

ただこの時、混戦乱戦が続くうちに、味方の輸送船団に、魚雷を放ったという話がある。
輸送船の佐倉丸が、沈没し、三隻も相当な損害を受けたのである。





posted by 天山 at 06:29| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

玉砕29

ビルマ戦線を見る。

ビルマ戦線を、二期に分けると、第一期は、南部ビルマの飛行基地の占領と、ラングーン、現在のヤンゴンの、攻略である。

そして、第二期は、更に北へと進攻の輪を広げて、イギリス増援部隊と、中国重慶軍を撃破して、ビルマ全域を占領することである。

だが、大本営にあっては、ビルマ作戦に関して、明確な方針があったわけではない。
開戦前、南方作戦の総合的な、計画を検討した際には、作戦の右翼はタイに留めて、ビルマは、攻略の範囲に入っていなかった。

その後、次第に積極姿勢に転じていった。
それは、当面は、蒋介石率いる軍に対する、支援ルートと、イギリス軍と中国軍合同の拠点と見られていた、ラングーン占領であった。

昭和13年、広東、武漢があいついで日本軍に落ちると、蒋介石は、四川省の重慶に、その政府を移した。
重慶に後退した蒋介石政権は、その後、列強の軍事援助を得て、徹底抗戦を呼号した。

中国、蒋介石軍に対する、列強の援助により、日中戦は、終わりの無いものになった。
何故、援助をしたのか・・・
列強の中国における、植民地政策と、その利権を担保するためである。

11月6日、大本営は、南方攻略作戦の具体化のため、従来の第二十五軍の編制を解き、新たに、南方軍として、第十四、第十五、第十六、第二十五軍、南海支隊の編制を、令した。

その他の、細かなことは省くが、インドシナ山系を実際に、踏破した部隊の苦労は、並大抵ではなかった。

タイ、バンコクから、ビルマへのルートをそれぞれに進軍する日本軍である。

タイとビルマ国境地帯の、山脈一帯は、トラが出没するといわれる、密林に隈なく覆われていた。

当時のビルマにおける、英国軍の兵力は、歩兵、砲兵を基幹とする、兵員約四万人で、モールメイン地区、東部シャン州、ラングーン付近、マンダレー地区に、重点的に配備されていた。

数多くの悲劇があるが、中でも、シッタン河における戦闘は、大変な被害を出した。
敵味方共に、目の前の河に飛び込んで、そのまま濁流に呑まれ去った者も多数いたのである。

だが、日本軍は、勝ち続ける。

ラングーンの無血占領は、昭和17年、フィリピンからタイに転進した、第五飛行集団が、ラグーン方面の爆撃を開始した。

3月6日、第三十三師団が、シッタン河の渡河後、三日間にわたる強行軍により、ラングーンに前進中、ラングーン方向に突進すべき、との軍命令を受けた。
それぞれの隊が、ラングーンを目指す。

その途中でも、敵に遭遇するが・・・
結果、敵はラングーン市街から、退却するのである。

ビルマ戦線では、インパール作戦が有名だが・・・
それ以前に、進攻の有様がある。
そして、ビルマ戦線、インパール作戦からの撤退における、地獄の有様が起こるのである。

さて、次に、MO作戦、モレスビー作戦を見る。

連合艦隊の主力が、陸軍と共同して、フィリピン、マレー半島、蘭印、つまりインドネシア方面の攻略作戦を進めていた時期、南洋部隊は、陸軍南海支援の協力を得て、別途太平洋正面の作戦を、推進していた。

珊瑚海海戦とも言う、モレスビー作戦は、日本軍の作戦を阻止した、連合軍の機動部隊と、常夏の美しい珊瑚海において起こった、空母同士の戦闘である。

モレスビー作戦は、ツラギ、ポートモレスビー、ナウル、オーシャン攻略作戦の、略称である。

第一作戦が終わり、第二段作戦は、ニューギニア東部のポートモレスビー攻略を中心とするものである。

昭和17年、1942年の一月頃から、計画していたものだ。

開戦前は、第一段作戦で手一杯だったが、海軍は、開戦前から、大陸である、オーストラリアの存在を気にしていた。

そこは、連合軍艦隊の基地となるだけではなく、アメリカ本土で生産される、航空機、潜水艦が展開して、日本軍の占領地の防衛、海上交通が、脅かされるという、懸念である。

ハワイから、オーストラリアに至る、海上交通路の要衝にあたる、サモア、フィジー両諸島と、ニューカレドニア島を攻略する安を示し、陸軍もこれを了承した。

その、外郭作戦としての、MO作戦だった。

しかし、この時、山本連合艦隊司令官長は、大本営の対米戦争観に、興味を示さなかったという。
長期戦の、不敗は、無理とでも思ったのか・・・
独自の作戦構想を貫徹しようとしていた。
それが、ミッドウェー作戦である。

4月10日、連合艦隊司令部より、第二段作戦の兵力部署が、発令された。そして、ポートモレスビー攻略をMO作戦と呼称することに決したのは、当日である。

4月23日、南洋部隊指揮官・第四艦隊司令官井上中将は、ポートモレスビー攻略命令を発した。
概要は、ツラギが、5月3日、ポートモレスビーが、10日、ナウル、オーシャンが、15日である。

実は、連合軍側は、暗号解読という手段で、日本軍の作戦を察知していた。
ただ、攻略の日時までは、特定出来なかった。

その過程は、省略する。
結果的に、戦いは、日米互角であった。

だが、世界戦史上、初の空母対空母の戦闘に相応しく、兵力ほか与えられた彼我の条件は、ほぼ同じである。
その後の、戦闘経過も、ほぼ互角に推移したのである。

そして、日本軍は、東部ニューギニア戦を続けて行く。
ニューギニア戦線として、有名である。

いずれ、そのニューギニア戦線も、地獄の形相となり、飢餓地獄と化し、玉砕するのである。



posted by 天山 at 06:08| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月28日

玉砕30

次に見るのは、AL作戦、つまり、アリューシャン作戦である。

これは、アリューシャン西部要地の攻略であり、ミッドウェー作戦案を容認するかわりに、大本営が、交換条件のようにして、連合艦隊に提示したものだ。

この提案をした、軍令部の趣旨は、おおむね、米ソ連係の遮断と、米空母部隊による、日本本土に対する空襲の防止である。

これに、連合艦隊が同意したのは、以前から、その必要性を感じていたからである。
その上、ミッドウェー作戦に対する、戦術的牽制、もしくは、米艦隊の出撃を促がす補助手段となるかもしれないという期待である。

実際に、米艦隊を、アリューシャン方面に、引き寄せることは、起こりえないかもしれないが、少なくとも、米軍の指揮を、混乱させる事が出来るというものだった。

この作戦は、連合艦隊の大半が、北部、中部太平洋を含む、広大な地域に展開する事になったのである。

それにしても、日本軍の行動は、凄まじかったと、思うのである。
太平洋全域を取り込んだ、戦争は、唯一である。
太平洋戦争と、言われる所以である。

その作戦は、まず、アリューシャン東部で、最も強力な根拠地である、ダッチハーバーを、空母基幹部隊で、急襲し、これを牽制する。
その後、空母部隊と、潜水部隊をもって、アリューシャン東方を警戒しつつ、列島西部要地、アダック、キスカの各島の攻略を行なう。

攻略は、昭和17年、6月3日、まず海軍陸戦部隊が、単独で、キスカ島を占領する。
一方で、陸軍兵力を含む部隊をもって、アダック島に上陸し、軍事施設を破壊後、アッツ島に転進して、これを占領する。

3日の真夜中、濃霧を衝いて、軽空母二隻を基幹とする第二機動部隊が、ダッチハーバーを目指して、全速で突進していた。

ダッチハーバーには、アメリカ陸軍約5000名と、海兵隊650名ほどが、駐屯していた。

当夜、米軍は、入念な索敵飛行を実施していたが、極北特有の悪天候が、日本軍に幸いした。

敵に気取られることなく、哨戒線を突破した。

ダッチハーバーに対する、空襲は、4日にかけて、三回実施したところで、思い掛けない命令が、連合艦隊から届く。
第二機動部隊は、急ぎ、ミッドウェー島の攻略作戦中の、南雲機動部隊と、合同せよという、命令である。

角田少将は、驚いたが、飛ばしていた飛行機を収容して、ただちに、南下を始めた。
しかし、その後、山本五十六連合艦隊司令長官より、撤回の通告が届いた。

角田部隊は、再度反転することになる。
また、延期の命令で、内地に引き返していた、キスカ、アダック、アッツ島攻略の部隊も、反転した。

その後、アダック島上陸に不安があるとする、大本営の意向で、5日朝、アダック島南西225浬地点にいた、指揮官大森少将の元に、中止命令が届いた。

大森少将指揮の部隊は、7日、アッツ島に接近し、北海支隊1200名を、無血上陸させた。

日本軍は、アッツ島に、いくらかの守備兵力があるとしていたが、実際は、子供を含めた原住民39名と、牧師夫婦がいたのみである。

キスカ島の攻略部隊も、7日、アメリカ軍の臨時観測所の勤務員10名がいるだけの、島に、何らの抵抗もなく、上陸した。

勿論、ここでも、いずれ玉砕が起こる。

さて、この大東亜戦争の、分岐点ともいえる、ミッドウェー海戦である。

昭和17年5月、北太平洋の中央にある、ミッドウェー島を巡り、日本とアメリカの、機動部隊の戦いがあった。

日本は、ここに哨戒基地を作るということであった。
しかし、山本五十六連合艦隊司令長官は、この戦いで、アメリカの空母を叩き、政治的解決を目指そうとしていた。
山本は、長期戦で、戦うことは、出来ないと信じていた。
つまり、長期戦では、アメリカに負けるというもの。

日本海軍は、空母四隻をはじめ、巡洋艦などの機動部隊をつぎ込んだ。
真珠湾に奇襲をかけた部隊が中心になり、兵士たちの士気も高い。

ただし、勿論、この作戦もアメリカは、暗号傍受して、ミッドウェーで待ち伏せしていたということだ。

日本の機動部隊を発見するや、アメリカの機動部隊は、日本の空母、攻撃機に爆撃を浴びせた。

雲間に隠れていた攻撃機が、急降下して、空母を襲う。

ミッドウェーでは、日本の主要な空母の半分を失うという、大損害を受けたのである。
また、日本海軍の優秀なパイロット、1000人余人も失った。
玉砕である。

この、ミッドウェーの敗戦は、国民には知らされなかった。
それほどに、衝撃的だったのだ。

この時も、日本軍は、アメリカに暗号を解読されていることを、知らないのである。
アメリカの暗号解読能力を軽く見ていた。
アメリカの空母が、すでにレーダーで正確に、敵を捕捉するだけの、技術を開発していたのである。
もし、それを知っていたら・・・
戦いは、逆転していたはずである。

ミッドウェー海戦後の、ニューギニア戦線、第一次ソロモン海戦などは、アメリカ軍の猛攻撃を受けつつも、また日本側が、損害を出しつつも、勝利を得ている。

つまり、戦いに強かったのである。
だが・・・
何かが足りない。
それは、それぞれの作戦遂行の後の、反省と、策略を練ることに、怠慢だったといえる。

ただし、国民は、日本軍は、勝ち続けていると、信じていた。


posted by 天山 at 06:25| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月29日

玉砕31

昭和17年、1942年、三月上旬までに、日本は、蘭印、つまりインドネシア、および、ビルマ・ラングーンを占領して、目的を達し、戦局の新たな段階を迎えた。
第二段作戦への、移行である。

緒戦の南方作戦における、大本営陸海軍部の主な狙いは、蘭印の資源獲得であった。
開戦と同時に、英領マレー半島、米領フィリピンを占領して、一大拠点を築き、これを足場に、迅速に蘭印を攻略する。

そして、その資源を確保して、スマトラ島からジャワ島にかけての湾曲した線を結ぶ、大スンダ列島に沿って、防衛線を形成する構想である。

その目的が、予想以上に早く達成された。
ただちに、第二段作戦の実施に着手しなければならない。

だが、実際、大本営は、第一段作戦が完了した後の、確固とした、見通しを持っていなかったのである。

これは、日本が計画的に、対米戦争に望んだわけではないという、証拠になるものだ。

ゆえに、第二段作戦について、陸海統帥部間では、昭和17年2月上旬から、3月上旬にかけて、折衝が行われた。
しばしば、激しい論争がかわされた。

大本営陸海部が、この戦争遂行の、根本方針として、抱いていたのは、伊独と呼応した作戦構想で、イギリスの早期屈服を計る事、ビルマを突破し、インドに進攻して、西アジアを通じて、東進してくるであろう、ドイツ軍と手を結ぶ。
そして、中国大陸の戦火を、出来るだけ早く終結させることであった。

陸軍としては、太平洋正面は、持久態勢を固めるという方針で、戦力を延伸展開することを、望まないのである。

陸軍が腐心していたことは、中国戦線である。
蒋介石は、米英の後押しで、なかなか音を上げることがない。
このままでゆくと、究極的には、中国大陸が、米英の日本本土に対する、拠点となる危険性もあるとして、対支関係の解決を、対米英蘭戦とは、別個に考慮すること、その解決として、和戦いずれを選ぶにせよ、対米戦終結以前に、終了することが、望ましいとしていた。

だが、解決法が、見出せないのである。
つまり、蒋介石に対する、米英の支援である。
いずれにせよ、日本は、対米英戦争を戦うことになる。

アメリカを孤立させるためにも、インドから更に西に向かい、中近東に進んで、伊独と手を結ぶことで、イギリスを降参させたい。
その、同盟国の事情も考える。

ここに至ると、無謀な戦いのように、考えるが・・・
だが、意味のある戦争だった。

日本軍の、玉砕は、無意味ではなかった。

海軍は、陸軍とは違い、上層部では、伊独の力を信用しない者が多かった。
主敵は、あくまで、アメリカだとして、自然と、太平洋に向いていた。

特に、開戦から、この時期にかけて、オーストラリアに目を向けていたのである。
第一段作戦をジャワで止めると、その正面に、近距離で、オーストラリアと対峙することになる。

この大陸に、アメリカで生産される、航空機や、潜水艦を運び込まれて、反抗の基地とされるならば、かなわないという気持ちである。

ジャワ島だけではなく、既得した、南方地域の、すべての防衛、海上交通に、大きな脅威となる。

そこで、海軍部は、思い切って、オーストラリアの一部攻略を考えたのである。
オーストラリアの攻略は、戦略上必要であるばかりではなく、イギリス連邦から、いち早く、脱落させることにもなり、攻略上からも、有効であると、判断していた。

だが、陸軍は、大陸への進攻は、長年に渡り、中国との戦いで、十分経験済みであり、かつ懲りていた。

海軍部が持ちかけた作戦は、結局、戦火はオーストラリア全土に拡大すると、予測したのである。

そこで、陸軍部は、具体的な数字を上げて、反対した。
オーストラリア攻略に必要とする、陸軍兵力の見積もりは、とんでもないほどの、負担である。

兵力が解決しても、人員と物資を輸送する、船舶の動員がうまくゆかず、頓挫するだろうとの、見立ててである。

その破綻が、綻びとなり、戦争遂行の根幹を崩壊させることにも、なりかねないとの、見方である。

つまり、船舶不足の問題が、すでに顕在化していたのである。
この輸送用に対する、認識不足は、海上護衛と同様に、戦争に突入してみるまで、明確にわかっていなかったということだ。

後に、様々な戦場における、輸送船が、攻撃されてしまう。

トラック諸島、現在のチューク諸島などは、輸送船200隻ほどが、攻撃を受けて、沈没した。
物量では、アメリカに敵わない。

それが、玉砕の大きな、ポイントでもある。
食糧を積んだ船が、皆、攻撃を受けて、沈没するのである。
戦死より、餓死の方が多いという事実。

ニューギニア戦線も、ガダルカナルも、多くは、餓死である。
フィリピン戦線も、餓死が多い。

戦いに、斃れるならば・・・よかったが・・・
餓死とは・・・
実に、あはれ、である。

更には、日本軍の兵士同士が、食べ物で、殺し合うことも現実だった。
だが、それも、玉砕である。
戦場で、斃れた兵士たちは、玉砕したのである。



posted by 天山 at 07:02| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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