2015年01月15日

玉砕1

今年、平成27年、皇紀2675年、2015年の年頭の天皇陛下の、お言葉に、具体的なお言葉があった。

満州事変からの歴史を学び・・・
つまり、そこから、大東亜戦争、第二次世界大戦の歴史を見るということと、理解した。

先の大戦では、日本軍は、多く、玉砕した。
この玉砕という言葉は、全滅、壊滅の、美称である。
玉が、砕ける。
玉とは、兵士のことである。

そのような言葉を必要とするほどに、何か特別な言葉を必要とした、戦争。

玉砕という、美称によって・・・
その全貌を忘れた。

多くの兵士の七割が、餓死であるなどということも、勿論である。

230万人の兵士が斃れた。
そして、兵士を含めた、戦争犠牲者は、320万人である。
民間人、一般国民も、多く斃れた。

アメリカの無差別攻撃によって・・・
国際法違反である。
その最たるものが、原爆投下。

日本は、アジアを侵略したと、毎年、謝罪を繰り返すが・・・
侵略を主とした、欧米列強は、一度も謝罪をしない。

不思議である。

実は、ここに問題がある。
日本は、欧米列強の植民地支配の泥を被り、そして、アジア、太平洋の国を侵略したという、固定した価値観を、負わされた。
勿論、東京裁判によって。

すべての悪は、日本にありという、恐るべき、欧米列強の国、つまり、白人たちに、してやられたのである。

そして、それは、今も続いている。
国際連合とは、戦勝国の集いであり、日本は、いまだに、敗戦国として、扱われている。

アメリカに次いで、二番目に、多く金を出しているのに・・・

こういう不思議なことを、政治家も、一般人も、あまり言わない。
この頃になって、ようやく、それを口にする人たちが、現れたが・・・

そして、アメリカ占領軍が作り上げた、憲法をありがたく、押し戴いている国、日本である。
それが、平和憲法と呼ばれて・・・

簡単に言うと、日本は、戦勝国を攻撃してはならない、という憲法である。
また、国として、他国を攻撃してはならない、という。
戦争放棄である。

素晴らしい憲法である。
しかし、自分の身を守ることが出来ない。
だから、今も、アメリカの属国扱いである。

アメリカの核兵器に守られている。
アメリカ軍に守られてきた。

自衛隊でさえも、朝鮮半島動乱の際に、マッカーサーが、これでは駄目だと、気づき、更に、日本が存在して、共産化を止められると、自衛隊、つまり軍隊を創設することを、日本に求めた。

それが、いまだに、憲法解釈で、云々という、日本の社会である。
実に、未熟な社会といえる。

国連加盟国に許されている、集団的自衛権も、日本では、出来なかったという、アホさ加減は、いかんともし難いのである。

日本は、表現の自由が許されているから、色々な考え方があって、当然である。
しかし、国防、安全保障という時、ある一定の価値観と、国際的に、当たり前の感覚を持たざるを得ないのである。

ところが、敗戦後、戦争を一度もしなかったことでなのか、その安全保障に関しても、迷妄なことを、平然と口にするアホがいる。

戦争をする国に、するのか・・・
海外で、戦争をする国にするな・・・

在米米軍の兵士が、日本国民のために、死ぬだろうか。
また、死んで良いと、考えるだろうか。

アメリカには、玉砕という、美称は無い。

愛国心という前に、玉砕という言葉があると、私は言う。

それが、先の大戦の象徴的な言葉となる。
その第二次世界大戦、太平洋戦争・・・
太平洋戦争とは、アメリカの名付けた呼び名である。
日本では、大東亜戦争という。

ことごとく、日本の言い分が、塞がれた。
アメリカ占領軍、GHQの言い分を、すべて受け入れなければならなかった。
それは、白人の世界が、二度と、色付き人間の国、日本に行動を起こさせないがためである。

徹底的に、日本を叩き潰すという精神である。
その証拠は、ドイツと比べてみるといい。
ドイツは、白人の国である。
ドイツに対しては、その復興に協力しなければと、言うが、日本に対しては、徹底的に、潰せ、である。

そして、今も、それが行われている。
人種差別の何物でもないのである。
あらゆるものが、人種差別から、起こっている。
信じられないだろうが、それが、事実である。

posted by 天山 at 06:09| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月16日

玉砕2

日本は、昭和20年8月15日まで、大日本帝国と名付けられた。
その日は、大東亜戦争、第二次世界大戦が終わり、日本が、無条件降伏を受け入れた日である。

だが、それは、日本軍の無条件降伏である。
しかし、それが、日本国の無条件降伏とされた過程がある。

ここでも、アメリカ、白人の狡賢さが解るというもの。
国が、無条件降伏を受け入れたと、解釈変更を、自然の成り行きで、変えてしまったのである。

大日本帝国は、明治22年から、続いたものである。
であるから、その帝国が、解体されたのである。

その、帝国憲法では、天皇主権の国家だった。
それで、十分に保つことが出来た、日本である。
何故か・・・
天皇主権とは、国民主権と、変わりないのである。

ここが、誤解、いや、知識の浅い、知識人たちの、アホ振りである。

天皇は、国体であり・・・
つまり、国体とは、国民である。
天皇主権は、国民主権に他ならないのである。

であるから、天皇は、広く国民の声に耳を傾け、国民が決定したことを、承認するという、政治の形である。

その天皇の主権があるから、日本は、民主的な政治を行なうことが出来たのである。
天皇の政治は、古代から、民主的だった。

ところが・・・
天皇の政治を、専制的という、アホな学者が大勢存在した。
それも、不幸なことである。

君臨すれど、統治しないのである。

天皇の権威は、いつも、国民の側に立っていた。
だから、日本は、いつの世も、天皇を戴いていたのである。
もし、天皇が、権力者ならば、新しい権力者によって、取って代わられたのである。

いかに、権力者が現れても、天皇の許可なく、政治を行なうことが出来なかった。
それは、天皇の声が、国民の声であるからだ。

それを、知らない人たち・・・

戦国時代の武将が、何故、京を目指したか。
それは、天皇に、一枚の紙を書いて欲しいがためである。
例えば、征夷大将軍とか、関白とか・・・

天皇が、認めなければ、国民が認めなかったのである。
何故か。
天皇は、いつも国民の側に立って、発言さられる存在だからである。

天皇という、権威を国民が、置いたことが、日本民族の智慧であり、賢さだった。
どんなに、国が乱れても、天皇が存在すれば・・・
何とか成る。

この天皇の存在の意味と意義を、明確に持つことが、日本国民である。

敗戦後、アメリカ占領軍が創作した、憲法の最初に、
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく
と、ある。

今更である。
古代から、天皇は、それである。

それなのに・・・
改めて、そのように書かれると、天皇は人間だと言う馬鹿も大勢いた。

昭和天皇御自身、私は、人間であると、仰せられた。
当然、天皇は、人間である。
現人神・・・
それは、国民のことである。
天皇をお呼びする時は、現人御神と言う。

天皇の政治は、天智、天武天皇時代を除けば、大半が、統治せず、である。

であるから、いつの時代も、天皇は象徴であられた。
他国から見れば、君主である。
君主がいなければ、大統領となる。あるいは、皇帝である。いずれも、権力者である。

権威というものが、即刻出来上がるものではないことだ。
長い時間が必要である。
日本の天皇は、それを有する存在である。

さて、時代を一気に、大正時代に移す。
大正12年9月1日、関東大震災が起こる。
大変な自然災害だった。

大正は、大正12年12月25日の、大正天皇崩御にて、終わる。
即座に、皇太子が、即位する。
昭和元年である。
昭和天皇の誕生である。その時、裕仁殿下は、25歳だった。

翌年、昭和2年、金融恐慌が起こる。1927年。
それは、大震災の影響によるものである。

関東大震災によって大きな被害を受けた企業が、決済が出来なくなった手形が、元凶である。
取り付け騒ぎ・・・
銀行が潰れる・・・そこで、人々が、銀行に押し寄せた。

昭和は、憂うつな事柄が多くはじまった、時代である。
その年、満州・華北地方への第一次出兵があった。
経済の破綻と、軍事の膨張がはじまった頃である。

posted by 天山 at 05:30| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月19日

玉砕3

歴史は、様々な見方がある。
私は、歴史学者でもなければ、研究家でもない。
素人である。

だから、好きなように書く。
具体的に知りたい場合は、その他諸々の歴史本を読めばいい。

戦争への道・・・
私が知りたいのは、それである。
昭和2年の、第一次山東出兵・・・
日本と中国の関係である。

この事件と、翌年3年に起こった、張作霖爆死事件である。

明治38年、日露戦争で、日本はロシアに勝った。
初めて、色付き人間である日本が、白人の世界に、画期的な動揺を与えた戦争である。
それについては、国を愛して何が悪い、という、別エッセイに書いているので、省略する。

だが、その戦争で勝った日本は、ロシアが有していた中国領土の権益を得たのである。
ここに日本陸軍の精鋭部隊である、関東軍が駐留し、この一帯に、日本人が事業を起こし、それらの企業で働く日本人居住地が広がった。

だが、当時、満州には、3000万の中国人が住んでいた。
日本人は、僅かである。

ロシアという国は、伝統として、侵略を是としていた国である。
それは、ソ連になっても、変わらなかった。
領土のドロボーである。

さて、当時の中国は、惨憺たる有様だった。
各地に独自の支配者が存在して、独自の軍組織を有していた。
それを軍閥という。

満州には、張作霖という支配者がいた。
民衆に対して、搾取の政治を行なっていた。

関東軍は、その張作霖と、付かず離れずの関係を保ちつつ、満州の権益を守っていた。

そして、関東軍の参謀たちは、満州全域に日本の支配権を伸ばしたいという、希望があった。
それが、侵略と言われるなら、ロシアの支配も、侵略である。

白人の世界では、侵略は、当たり前のことである。
今も、日本は、侵略に対して、謝罪をしているが・・・
最も、謝罪しなければいけないのは、白人たちである。

昭和2年、1927年、孫文の後継者である、蒋介石が、国民党を立ち上げ、国民党政府を造り、全国統一を目指していた。
各地の軍閥との、話し合いを進めて、その傘下に加えて行く。

その、蒋介石が、満州を伺う情勢になる。
そのため、日本人の保護を名目に、山東出兵を行なったのである。

実際は、蒋介石が、満州を制圧することを、恐れたためである。

当時の日本は、政治、軍事、外交の指導者たちの会議で、満州の権益は、いかなることがあっても、守ると決めていた。

昭和3年3月、国民党と華北の旧軍閥が手を結び、張作霖に攻撃を仕掛けた。

ここで、確認したいことは、中国は、混乱、動乱の渦の中にあったということである。
そして、その民衆は、右往左往していたのである。
何せ、搾取、搾取の連続である。
更に、身の危険も多々あった。

張作霖は、満州と北京を手中にしていたが、次第に、国民党に追われる情勢になった。
そして、国民党を中心として、北伐群が、山東省の省都、済都を包囲するに至ると、日本は、再び、山東出兵を試みた。
第二次山東出兵である。

北伐軍と、関東軍が、衝突した。
北伐軍は、日本軍との戦火を避けるように、満州に進撃した。

日本は、張作霖に、北京から、満州の奉天に戻ることを、説得する。
日本は、北伐軍と対抗する張作霖を、表に立て、満州の権益を守ろうとした。

そして、昭和3年6月4日、張作霖は、特別列車にて、奉天に向うことになる。
が、奉天郊外に差し掛かる時、線路に仕掛けてあった、爆弾で、吹き飛ばされる。

それは、日本軍の、謀略行為だった。
その混乱に乗じて、関東軍を出動させ、武力制圧を諮ったのである。

その行為は、国際社会に、知れ渡ることになる。

大変残念なことであるが、事実である。
本当のことを言えば、それで多くの民衆が救われたのだが・・・
日本軍が、当時の中国人の反発を買っていたというのも、事実である。

だが、中国の軍というものは、馬賊や匪賊が主であり、民衆に取っては、決して、有り難いものではなかった。

だが、謀略は、謀略である。

明治27年28年の日清戦争、明治37年の日露戦争・・・
日本軍兵士の、規律は保たれ、必要以上の戦闘行為は、行わなかった。
海外のジャーナリストたちは、日本軍兵士の行動を、サムライの精神と賞賛していたほどである。

それが、満州某重大事件と言うが、その際には、それが、見当たらないのである。

昭和陸軍、共に、関東軍は、驕っていた。

これは、当時の憲法に大きな問題があった。
いずれ、それは書く。

相手が、悪人でも、謀略的行為は、恥じである。
この、陸軍が、後々に、重大な過ちを犯すのが、大東亜戦争である。
天皇を利用し、人命軽視の思想である。
posted by 天山 at 06:53| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月20日

玉砕4

日本の陸軍とは・・・
明治2年、大村益次郎らにより、創設された。

そして、昭和に入ると、それから、5,60年を経ている。
その陸軍の指導者たちは、実に、エリート意識旺盛である。

何故か・・・
明治5年、明治天皇から、軍人勅諭が発せられた。
軍人は、天皇の忠実な、赤子であり、この国の、安寧に尽くすことという趣旨が貫かれている。
これは、軍人にとっては、大変な名誉なことだった。

そして、明治22年に発布された大日本帝国憲法により、天皇の大権、つまり統帥権は、陸軍内の参謀本部に賦与されているという、事実である。
これが、後々で、大変な問題になるのである。
つまり、統帥権は、行政、立法、司法よりも、統帥権が上であるとし、陸軍がどのようなことをしても、内閣、議会、裁判所からの、指弾を受けないということになると、考えたのである。

であるから、陸軍の傲慢さが、ここから出る。

更に、明治の日清戦争、日露戦争の戦いで、常に勝利してきた。これらの戦争による、権益を失ってはいけないという、考え方。
明治からの歴史は、我々が、作ってきたという、考え方。

軍人とは、職業軍人のことである。
明治から、昭和20年8月まで、二十歳になれば、男子は懲兵検査を受けて、兵役を負う。兵役は、国民の義務だった。

誰もが、兵士になったのである。
しかし、職業軍人の場合は、違う。

コースが決まっていて、高等小学校卒業か、旧制中学一年終了時に、陸軍幼年学校の試験を受ける。
試験は、かなり難しいものだ。

陸軍幼年学校で学んだ後、陸軍士官学校に進む。
中には、旧制中学卒業の者も、一部試験を受けて、入学する。

彼らは、二十歳で卒業し、少尉として、陸軍内部に入る。
そこで、中尉になり、大尉になる頃は、25歳から30歳過ぎまでだ。

次ぎは、陸軍大学校の受験資格を得て、毎年、50名ほどの、陸大生が生まれる。
この生徒たちが、エリートである。
つまり、軍隊以外のことは、何も知らない。

軍部という場合は、それらの人たちを言う。
プライド高く、他を圧倒する権威である。

それは、当然、時代時代の形である。
敗戦後、軍隊は解かれて、何もなくなる。
そして、自衛隊が出来た。しかし、自衛隊は、実に肩身の狭い思いをするのである。
それも、時代である。

現在は、文民統制という。
それは、軍隊ではなく、政府に従うこと。つまり、国民の声に従うことになっている。

更に、アメリカ占領軍が創作した、日本国憲法の九条、平和憲法といれているが・・・
それにより、軍隊を嫌う風潮である。

敗戦後は、それで良かった。
軍備に使う金を、使わずに、日本は経済大国になった。
しかし・・・
時代である。

安全保障とは、生存権である。
生存が脅かされた時、どのようにするのか・・・
更に、他国が侵攻して来た際に、どのようにするのか・・・

北朝鮮に拉致された人々が、未だに、戻られない状況で、日本は、手も足も出せないでいる。
それは、戦争放棄という、実に、耳障りの良い言葉に隠されてしまったからだ。
自国民を救えない国は、有り得ないと、考えることが出来ないのである。
そんな国を、信じられるだろうか・・・
だが、日本は、そのままにしてきた。

今も、拉致被害者は、帰国出来ずにいる。

平和主義者は、一体、どうしたら、拉致被害者を取り戻すのかに、応えられない。
重大な国際法違反でも・・・

もし、海外で、拉致された場合は、国が速やかに、その安全を確保する。
それが、出来ないのである。
と、すれば、他国が、日本に侵攻した場合も、手も足も出ないということにもなる。

日本は、平和ボケして、そんな危機意識は皆無である。

中国が、尖閣諸島のみならず、沖縄にも手を伸ばしていることを、知らぬはずがない。
また、そんなことは、冗談だとでも、言う人たちがいる。

中国の歴史を俯瞰すれば、そんなことは、風に飛ぶことである。

更に、中国、ロシア、北朝鮮の核兵器に囲まれている、現状である。
アメリカの核兵器に守られている・・・
そして、平和を叫んでいれば、平和であると、思い込むのは、明らかに、アホである。

更に、アホは、死んでもアホなので・・・
説得は、効かない。
だから、拉致被害者の替わりに、北朝鮮と、被害者の交換をと、言う訳でもない。
つまり、人の事なのである。

日本の安全保障に関しても、人の事。
実に、おめでたい、人々がいる。

時代性と、時代精神がある。
その時代に、合わせる、乗る、そうして、初めて、未来がある。

50年前の仕事が、今も、仕事で有り得るか・・・
第一次産業なら、兎も角。



posted by 天山 at 06:37| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

玉砕5

昭和4年、1929年、ニューヨークで株式大暴落。
アメリカの大恐慌である。

アメリカ経済は、一気に混乱する。
そして、恐慌は、世界に大きな影響を与える。

日本は、金解禁を、その二ヵ月後に実施する。
これについては、深く追求することをしない。

日本の生糸、綿糸は、アメリカが重要な市場だったが、アメリカ国内の需要が大幅に減った。日本のメーカーは相次いで、倒産してゆく。

更に、この時期、米作農家は、豊作が続くが、小売価格が安くなり、豊作貧乏になる。
農薬、農機具を購入して、近代化をはかっていたが、その赤字を背負いつつ、極度に生活は悪化した。

昭和10年までは、日本は、とても貧乏な国だったといえる。
その悲惨さを書く暇がない。

アメリカの不況と、日本の金解禁が重なったために、日本経済は、どん底になった。

昭和5年の輸出額は、前年と比べて、四割も減り、日本市場も、購買力が減り、輸入が四割も減る。

その結果、金が一方的に、流出した。
三億円の金が流れて、日本の円は、世界で最も弱い通貨となる。
自国の通貨が弱いということは、国の力も弱いということ。

だが、現在は、円安を歓迎するという、不思議。
何事も、急激に来るものは、おかしいのである。
円高は、日本の通貨が強いということだ。

アメリカの1930年代は、国民の経済生活は、困窮の極みになる。
更に、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、イタリアも、同じく。

勿論、それぞれの国の事情が違う。
イギリス、フランス、オランダ、スペインは、何せ、植民地を持ち、植民地の原材料で製品を作り、それを世界の市場で売り、その利益を本国で吸い取るという、身勝手である。

だから、植民地の人たちは、悲惨な生活を強いられた。
アジア、アフリカ・・・

勿論、植民地の人たちは、もう限界を感じて、独立を求めるようになる。
が、事は、簡単ではない。
植民地を手放す訳が無い。

西欧列強の強みは、植民地支配である。
それが、無ければ、すでに崩壊、壊滅していただろう。

私は、何度も、言う。最悪最低の国は、イギリスである。
植民地支配により、莫大な利益を得て、国を興してきた。
植民地がなければ、イギリスという国は、存在しないのである。

イギリスの、ゆりかごから墓場まで、という、福祉政策も、植民地支配の上に立っていた。
呆れる。

さて、注目する国は、ドイツである。
植民地を持たない国、ドイツは、共産党、社会民主党が、一定の勢力を持っていたが、やがて、ヒトラーの指導するナチスが、権力を握るようになる。

ヒトラーの考えは、第一次世界大戦で失った権益を、取り戻すことである。
更に、民族的宗教的な視点で、ユダヤ人への攻撃、排斥を強めること。
ヨーロッパの先進国の権益を武力で、収奪すること、そして、第三帝国という、巨大なドイツ帝国を樹立し、世界支配に乗り出すこと。

現在のイスラム過激派のテロに似る。

ヒトラーは、そのために、反対党を弾圧し、ヒトラーの下に、国民が忠誠を誓う徹底した、国家体制を作り上げた。

これも、第二次世界大戦の伏線である。

ヒトラーの政策、その政治体制を、ナチズム、ファシズムと呼ぶ。

さて、昭和5年6年の日本の社会の混乱を見て、陸軍の指導者たちは、政党政治に任せている限り、解決できないと、単純に考えた。
参謀本部の中核将校である、橋本欣五郎らが中心になり組織した、「桜会」のメンバーが、クーデター計画を練った。

それは、要するに、政党の要人を殺害し、陸軍中心の軍事政権を作り、国内改革を行なう。あわせて、満州の権益を更に固めるため、満州全域で武力行使を行い、中国の国民党、共産党を排除するというものである。

こういのを、一人勝手な妄想と言う。
昭和6年3月に、その計画が実行されるはずだったが、陸軍大臣の宇垣一成を首相にしようとしていたが、宇垣が計画に乗らず、中止になった。

当時、農業恐慌、工業恐慌で社会的混乱が起こるのは、政党政治、財閥のせいだとして、天皇に忠実な陸軍が主体になり、政治を行なえば、安定すると、考えられたのである。

時代は、いつも、激動である。
そして、その中で、未来を予測する事は、至難の業。
だから、自分の考えたことが、一番だと思う人々の群れがある。

だが、歴史は、現在を教え、未来を教える。
過去には、様々な智慧が隠されてある。

その際に、最も重要なものは、正しい情報である。
情報が正しければ、先を見ることが出来る。
そして、現在、正しい情報は、何処から出るのか。

決して、新聞、テレビなどの情報からは、事実を得られないし、また、それらは、情報操作をする。
真っ当な情報を得たいならば、自分で、インターネットなどにより、知ることである。

新聞、テレビ、学者、識者、その他諸々は、金のために、手前勝手な情報のみ、報ずるのである。
更に、どうでもいい、情報である。実に、呆れる。
posted by 天山 at 05:12| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月22日

玉砕6

昭和6年9月18日、満州事変が勃発した。

これは、陸軍、関東軍の仕業である。
つまり、自作自演の謀略。

奉天近郊の柳条溝で、満鉄の線路が爆破され、それを奉天軍の仕業であると、直ちに、各地で関東軍が、奉天軍を撃砕するのである。

張作霖の殺害の後、その息子である、学良は、日本に敵対し、反日、抗日の声が満州全土に広がっていた。
と、いわれが・・・
民衆は、どっちもどっち、である。

張作霖を支持していた民衆は、いないのである。
搾取されるばかりの軍隊、いや、匪賊の集団である。
当時の中国の軍とは、皆々、それらの集団だった。
真っ当な軍というものが、存在しない。

だが、謀略は、謀略である。
関東軍は、学良を追放して、新国家を樹立し、ソ連の脅威に備えようとしたのだ。

悪いことに、軍中央の制止を振り切って、独断でことを進めたのである。

だが、日本では、その関東軍の成果を、多くの国民が支持した。
しかし、関東軍は、単なる、現地派遣部隊である。
暴走したのだ。

それに対して、昭和天皇は、実に憂慮して、陸軍大臣、参謀総長に、不拡大を要望し続けたのである。
だが、軍は、何かと理由をつけて、行動を先行させた。

これが、後々に、無謀な計画を実行する陸軍の体質になる。
ただし、国民の多くが支持したということが、問題だ。

それ程、国民の経済状態は、暗く、激しく、惨めなものだった。
一つだけ例を上げれば、東北の農民は、その娘を売るという、実に悲惨な状況である。

日本や欧米九カ国が、中国の領土保全を誓約した、九か国条約、更に、国際紛争は武力によらず、平和手段で解決するという、不戦条約にも、違反した。

その頃の、天皇陛下は、独白して、怒っていた。
陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒な結果になったのだ。
満州を張学良に還してしまえば、問題は簡単ではないか。

関東軍の逸脱・・・
天皇の命を受けるというはずが・・・
天皇の御心に、背くのである。
そして、以後も、背き続ける。
更に悪いことに、天皇陛下の御名を使い、徹底的に洗脳教育をする。

昭和7年1月、戦火は、上海にまで、飛び火した。
日蓮宗の僧侶五人を、中国軍が連れ去り、海軍陸戦隊と銃火を交えたことから、好機到来と、陸軍が派兵を断行した。

天皇は、南京政府との交渉経過を聞き、その強固な態度に、
それでは、日支親善ということは、当分できない。
と、仰せられた。

更に、速やかに、停戦に持ち込むように、ご要望された。

それは、国際連盟の総会が、三月はじめに開催される予定で、満州問題を巡り、対日批判が見込まれたせいもある。

派遣軍の幕僚たちは、勝ちにはやり、首都南京の攻略を求めたが、白川司令官が、天皇の意を重んじ、それを抑えて、3月3日に、停戦布告を発した。

それから、中国側と協定を結び、撤兵にかかったが、その直後、白川大将は、上海の天長節祝賀式で、朝鮮人テロリストの手榴弾を浴びて、それが元で一ヵ月後に亡くなった。

その際に詠まれた、昭和天皇御製がある。
をとめらが 雛祭る日に たたかひを
とどめしいさを おもひでにけり

つまり、戦いに勝ちしいさお、ではなく、戦いをとどめしいさお、なのである。
戦いを止めたことを、評価されている。

天皇は、本当に御心に叶う大将の死を悼んだ。
陸軍は、面従腹背の将校が多かったといえる。

だが、国民は、天皇の平和希求をよそに、軍部に同調し、満州が支配下になったことを、喜んだ。

戦争をするということは、様々な要因があるが・・・
何より、国民の支持が一番である。
それは、国柄を別にしても、同じく。

更に、軍部の傲慢振りを書けば、あくまでも、天皇を表にして、天皇の名の下に、すべてを進めていた。忠義なる赤子である。
大陸経略が、天皇の意志、御心であると、説いたのである。

こうして、新国家満州国の建設が始まる。
目まぐるしい程の、進行状態である。

奉天軍残党の討伐。
その執政に清朝の皇帝廃止、溥儀の擁立。

その頃の、日本の政治は、腐敗。そして、打ち続く、農民の困窮。そして、テロ。

一部青年将校と右翼急進派を、国政一新を目標とするテロ行為に、駆り立てた。

それもまた、天皇の嫌うところだった。
彼らも、また、天皇の名を表にして、行為するという・・・

何度も書いているが、天皇は、君臨しても、統治せずの姿勢を貫かれるのである。
だから・・
政治家、国民が、皆々、天皇の御心を思い、その御心に添うことなのである。
天皇に相応しい、政治家、国民たるべきである。


posted by 天山 at 06:04| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月09日

玉砕7

昭和6年の終わりから、昭和7年の一月にかけて、関東軍は、満州全域を制圧した。

ところで、満州国の建設が、植民地だというならば、それ以前に、西欧列強の植民地であったことだ。
それゆえに、中国は全国統一など出来ない状態である。

しかし、現在言われるのは、単に、日本が植民地支配をしたという、一点である。

当時の、陸軍は、満州、蒙古を日本の領土として、五族協和、つまり、漢民族、蒙古、朝鮮、日本、満州人の、国家を作ろうとしていた。

少なくとも、王道楽土の国家にするという、意欲があった。
それでは、当時の中国の、様々な、軍、それは、すべて匪賊の集団であるが・・・
どんな国を目指したのか。そして、それは、中国人が、求めていたことか。

全く、規律の無い、匪賊の集団である。
そして、略奪、強盗は、当たり前の集団である。

単に、日本が植民地にしたという、理屈では、解せないものがある。

ただし、当時の日本政府、若槻礼次郎内閣は、この事変を、局地的な段階にとどめ、満州一帯に広げることに、反対した。
しかし、陸軍の指導者たちは、関東軍を増派して、徹底的に奉天政府を叩けというものだった。

そして、国民は、その軍部を支持し、賞賛したのである。

陸軍大臣の南治郎も、陸軍の考え方であり、昭和6年12月、若槻内閣は、閣内不一致で、辞職する。

新しい内閣は、立憲政友党の総裁犬飼毅が、首相に就いた。
蔵相は、高橋是清が就き、即座に、金輸出再禁止を行なう。更に、国内の不況を乗り切るために、幾つかの政策を実施する。

そのお陰か、国民の生活も徐々に落ち着いたものになるのだ。

だが、時代は、いつも騒乱、激動である。
昭和7年にテロが起こる。

それは、陸軍主体の政権と、満州蒙古政策の、追認を目指したものだった。

その二月に、金解禁政策を採用した、井上準之助元蔵相が、襲われた。
三月には、三井財閥の番頭、団琢磨が、財閥が金解禁と、再輸出の政策転換で、ドルを売り買いして、莫大な利益を得たとして、テロリストに暗殺される。

血盟団と称された、テロ集団・・・
決行者は、井上日召の下に集った、茨城県の農村青年たちで、一人一殺、という考えに共鳴していたのである。
当時のエリート、東京帝大生なども、加わっていた。
更に、世の中が、テロ容認の風潮である。

歴史を俯瞰すれば、必ず、世の中という漠然とした、空気があることに、気づく。
何事も、一人勝手にすることが、出来ないのである。

国民、庶民という存在を無視しては、理解出来ないのである。
戦争に対する思いも、結局は、国民感情に行き着く。

国民の心をつかむもの、それが、国の主体となる。
その良い例が、天皇陛下の存在である。
時々に、その事態に関しての、昭和天皇の考え方を、付け添えて行く。

五月、井上と親しい海軍の仕官が、陸軍士官学校の生徒を誘い、更に、茨城県水戸市にあった、農本主義団体に加わる、農村青年たちが、テロ活動を起こした。
5・1事件である。

首相官邸を襲い、犬飼首相を暗殺。

テロリストたちは、政党政治に対する、苛立ちがあり、議会政治に、とどめを刺そうとした。

陸軍内部にあり、強力に国家改造を進める将校、民間の右翼活動家の、北一輝、大川周明などは、天皇が常に、陸軍の軍事活動に不安を漏らしているとの噂を信じて、その側近が、曲がった情報を天皇に伝えていると、考えた。

では、彼らは、どういう政治を求めたか・・・
それは、天皇の政治、天皇親政を求めたのである。

この感情を理解しなければ、解らないことが多い。

天皇が、表に出て、直接指示して欲しいと願ったのである。
何故か・・・
天皇は、国民の気持ち、声を聞かれる、御方だと、信じたのである。
勿論、天皇は、いつも国民の側にあり、お言葉を述べられる存在である。

だが、昭和天皇は、この事件の後に、非常の決意を持って、内外の収拾をはかり、鈴木侍従長を、西園寺公の邸に遣わして、後継首相の人選につき、異例の内意を伝えさせた。

当時、西園寺が、元老として、後継首班を奏請する慣例があった。

昭和天皇の意向である。
首相は人格の立派なるを要す。
政治の幣を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するは、一に首相の人格如何に依る。
ファッショに近きものは絶対に不可なり。
憲法は擁護せざるべからず。然らざれば明治天皇に相済まぬ。
外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努むるべし。

更に、陸軍に対するお言葉も、あった。

いかに、昭和天皇が、バランスの取れた、人柄が解るというもの。
そして、優れた、政治的感覚を持たれていたのである。

だが、軍は、益々暴慢を募らせた。
更には、天皇に対しても、陸軍の一部の者が、
今の陛下は凡庸で困る
と、言うのである。
つまり、陸軍の考えを受け付けないということだ。

侵略に反対する天皇を、凡庸だと、言うのである。
これが、後々に、人命軽視の思想となる。
それが、玉砕である。

posted by 天山 at 06:17| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月10日

玉砕8

昭和天皇は、敗戦後の回想で、
自分が、民主的に振舞おうとつとめたため、かえって、軍をつけあがらせることになった。
と、回想している。

しかし、私が言いたいことは、軍部に対しての、国民の支持は、圧倒的だったということだ。
大衆というものを、疎かにできないのである。

天皇の平和希求の願いが、軍部によって、破られたが、国民は、軍部を支持したということを、覚えて欲しい。

そ後も、クーデター騒ぎが、幾つか発生した。
神兵隊事件、三月事件、十月事件・・・・
国内は、騒然としたのである。

だが、世論は、将兵たちを英雄視したということ。

であるから、満州国に対しても、国民は大歓迎したのである。

昭和7年3月、満州国が発足した。
執政には、溥儀を就任させた。元首である。
溥儀とは、清国の最後の皇帝である。

それを世界に、発表した。
中国国民政府は、当然反発する。
そして、国際連盟に、提訴する。

そこで、国際連盟は、リットン調査団を派遣する。
英、米、仏、独、伊の五名からなる。
すでに、侵略していた国も入っているから、笑う。

更に、加えて言うと、米などは、満州の権益を狙っていたのである。
それが、後々で、解ってくる。

その調査報告では、
満州国は、日本の侵略で生まれたが、中国の日本排斥の動きも、そのひとつの原因になっているというものだ。

当然といえば、当然である。

そして、国際連盟は、対日勧告案を42対1、棄権シャム、現在のタイであるが、可決した。
日本は、国際連盟の決定に従えということになる。

日本だけが、反対した。当然だ。
それにより、日本は、国際連盟から、脱退したのである。
昭和8年3月のことである。

脱退を天皇は、承認しなければならない。
それを、詔書を発するという。
その際に、天皇は、次の二点を挿入した。
脱退のやむなきに至ったのは、誠に遺憾であること。
脱退後も国際間の親交と、協調を保つこと。

だが、軍部は、更に、中国本土まで派兵しようとする暴論が出たのである。
天皇は、参謀総長、首相、陸相らに対して、再三、中止を要請したが、出先機関の軍は、従わずである。

天皇に対する崇敬と、軍部に対する支持。
一体、何故、相反することが、起こるのか。
それは、天皇の御心は、公にされないからである。

君臨しても、統治せず、という、大前提に立って、天皇は、渋々と、承認しなければならないのである。

もし、昭和天皇が、親政を行い、平和を求めたなら・・・
きっと、暗殺されたはずだ。
それは、大東亜戦争開戦にも言える。

さて、当時の状況について・・・
世界の政治体制は、第一次世界大戦の戦勝国により、決まっていた。
国際連盟も、平和を訴えていたが、世界の権益は、米英を中心にした国に、分割されている。
それを維持するために、ベルサイユ条約、ワシントン条約、ロンドン海軍軍縮条約などの、国際法上の、補完が行われていた。

日本は、その世界分割には、加わっていない。
更に、アジアは彼らが、思うままである。

海軍軍縮条約では、日本の力が削がれていた。

世界最低最悪の国である、イギリス、そして、準じて、アメリカである。
侵略を欲しいままにしているのである。

植民地がなければ、イギリスの経済は、破綻したのである。
更に、豊かになる為に、植民地を欲する。

日本が唯一、アジアの中で、独立国として存在していた。
ちなみに、タイも、独立国であるが・・・
列強諸国に対する挑戦は、日本のみである。

列強は、世界恐慌以来、自国を中心に、ブロック経済体制を作り、他国との通商には、莫大な関税をかけて、締め出しを図っている。

日本は、満州、朝鮮などの資源を開発して、ブロック経済体制を作り、それに対抗しようとしていた。

ところが、列強は、中国支援という形で、その権益を守ろうとしていた。
そして、日本に対しては、条約違反を持ち出し、非難するという、形である。

それが、以後の日本の開戦へと続く思いになる。

米英は、日本も植民地にしたかったのである。
アジア全域をその手に治めたかった。

現在でも、世界史といえば、欧米の歴史である。
様々な歴史を無視して、西洋史を中心にしている。

冷静に見ても、おかしいのである。
白人主義、更に、白人キリスト教が、最も、おかしいのである。
人種差別も、そこからのものである。

軍部の横暴を言うが、米英の横暴を言わないのは、不公平である。

posted by 天山 at 07:09| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月12日

玉砕9

当時、陸軍、右翼系の考え方の他にも、新米英派の人たちの、考え方もあった。

知識人、官僚、企業家、更に、宮中関係者などの中に、陸軍の膨張政策に反対するものである。
満州事変も批判された。更に、満州から、手を引くべきだと言う、考え方もあった。

しかし、それらは、徹底的に批判され、軍部の言い分が、世の中に通った。

日本の国策は、陸軍の指導部により、動き始めたといってよい。
そこから、昭和10年代に至る、大東亜共栄圏という、考え方が出来上がる。

これは、良し悪しを言うのではない。
当時の、状況である。

満州国への出稼ぎ、開拓移民なども、増えている。
つまり、軍部の力が強く、国民にも、それが支持されたのである。

経済が立ち直ってくると、更に、軍部のあり方に、肯定的な意見が多くなる。
それは、満州事変のせいで、経済が活性化したのだという、思いである。

何事も、国民の支持を受けなければ、事は動かないという、良い例である。
現在の政治も、選挙によるもの。
政治を担当する政党が、国民の支持を受ける。それが、民意とされる。
民主主義である。

陸軍指導部の人たちは、日本が、高度な国防国家になるべきだと、考えた。
それも、当然である。
世界は、欧米に屈しているのである。
特に、アジアは、大半が、その植民地である。

実に、不公平な世界情勢であるということだ。

実際、大航海時代にまで、遡り、その有様を見つめなければならない。
有宿人種は、白人のために、存在するのではない。

これについては、別エッセイ、国を愛して何が悪い、に書き付けているので、省略する。

さて、その力を持つ陸軍の中にも、派閥が存在した。
一つは、統制派であり、もう一つは、皇道派である。
統制派は、陸軍が政権を握り、陸軍の考え方を実行するという派閥。
そして、皇道派は、その名の通り、世界に比類なき天皇を戴いた国、日本であるから、天皇の直接統治、親政政治を求めていた。

ここで、当時は、内閣の陸軍大臣が、陸軍の中から、選ばれるということを、知るべきだ。
陸軍の意志を政治に反映させるという存在である。

そして、陸軍内部の人事権を持っていたのが、統制派である。
昭和10年に、皇道派の、真崎甚三郎、教育総監が、罷免された。

それが、統制派の、軍務長、永田鉄山の差しがねと怒った、青年将校の一人、相沢三郎が、日本刀を抜き、軍務局長室に入り、永田を斬り捨てた。

これが、統制派と皇道派の、対立のピークに達した事件である。

陸軍内部では、互いの派閥が憎悪で、高まる。

それから、あの有名な2,26事件へと、続く。

その顛末を書く。
2月16日は、吹き荒れた前夜の大雪が、降り積もり、未明になって、止んだ。
その雪明りの中で、積雪を蹴って、日本史上、空前のクーデターが、決行された。

青年将校の多くは、第一師団所属であり、軍上層部は、彼らの暴発を防ぐため、昭和11年4月、第一師団を満州へ移転させるという、師団ぐるみの島流しを発令した。
土壇場に追い詰められた将校たちは、移転前に決起しようと企てる。

野中四郎大尉、栗原安秀中尉らの首謀者は、数日前から、26日を決行日に決めていた。
午前三時、同士将校たちの配属する、数個中隊に、それぞれ非常呼集がかけられ、兵士たちは、完全軍装を整える間も慌しく、営庭に整列した。

彼らの大半は、入営して一ヶ月あまりの、農村出の新兵で、冷害と疲弊、搾取の痛苦を身をもって知っていた。
中隊長の説く、昭和維新断行論に、心から共鳴していたのである。

これより、夜間演習を行なう。
靖国神社に参拝する。
などと、部隊ごとに、営舎を出発した。

そして、途中で、真の目的を申し渡されると、逡巡する者なく、士気天を突く勢いである。

動員数は、1400数名に達した。
目指すは、岡田啓介首相、斉藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長、高橋是清大蔵大臣、湯が原温泉で、休息している、牧野伸顕前内大臣、警視庁と、更に第二次として渡辺錠太郎教育総監、そして朝日新聞である。

午後五時を合図に、各所に一斉突入して、機関銃、拳銃を乱射し、軍刀を揮い、斉藤、高橋、渡辺は、即死した。
岡田首相も即死と発表されたが、風呂場に隠れ、更に、女中部屋に隠れて、救出された。
鈴木侍従長は、重傷である。
牧野は、旅館の裏山に逃げた。

おおよその、状況である。
2,26事件の顛末である。

だが・・・
これが、天皇陛下の逆鱗に触れる。

天皇絶対論を唱え、天皇の軍隊を勝手に動かし、腹心の重臣たちを殺戮するとは、不埒極まる。
その天皇の激昂は、最後まで、周囲を震撼させたのである。

ここで、解ることだが、天皇陛下を絶対視するとか、天皇の権威を最大限に生かすとか・・・
そういうことを、昭和天皇は、実に嫌ったということである。

更に、通常の君主は、我が身の権力の絶対化を推進するが・・・
天皇陛下におかれては、逆に、その力を削ぐような考え方であったということだ。

このような、君主は、世界に二人といないのである。


posted by 天山 at 06:30| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月13日

玉砕10

天皇陛下に報告するため、参内した、陸相川島義之が、恐る恐る、陛下に
将校らの行為は、不祥事ではあるが、陛下と国家への至情から発したものであり、その心情を理解して頂きたい旨・・・
と、奏上すると、
天皇は色をなし
朕が股肱の老臣を殺戮す。此の如き凶暴の将校ら、その精神においても何の赦すべきものにありや・・・
速やかに、暴徒を鎮圧せよ
と、厳命した。

本庄武官長が、暴徒という言葉は、天皇への軍部の重大な反発を招くと、
暴徒というお言葉は、お控え下さいますように
と、言うと、
朕の命令なしに、軍隊を勝手に動かしたことは、朕の軍人ではなく、暴徒である。
と、仰せられた。

いかに、陛下が、激昂していたかが、解る。

事件発生の急報に対して、陸相の参内が遅れたことも、天皇の不満を駆り立てた。

更に、陸相をはじめとする、軍首脳部は、ただ狼狽するばかりで、反乱将校たちに迎合し、
決起の趣旨については、天聴に達せられた。
諸子の真意は、国体顕現の至情にもとづくものと認む。
襲撃を賞賛するような、陸軍大臣の告示を出したのである。

このような経緯を経て、反乱将校たちは、26日の夕方頃までには、成功を確信する状況にあった。

しかし、27日の未明、天皇の激怒に驚き、おののいた軍首脳部は、ようやく厳戒令を施行して、反乱軍の拠点、赤坂の山王ホテル一帯から、住民の避難を命じた。
だが、対決にまでは踏み切れずに、首脳将校らは、折衝を重ねた。

何とか、説得によって、無血解決をというのだが、苛立った天皇は、頻繁に本庄武官長を呼び、
もう出動したか
戦端を開いたか
と、矢のように、催促する。

その度に、言い逃れのような言葉である。
天皇も、ついに、
師団長らは、職務を解せざりしものと認む。朕自ら近衛師団を率いて、これが鎮定に当らん。直ちに、乗馬の用意をせよ。
との、仰せである。

昭和天皇の生涯で、唯一、感情を吐露した事件である。
未曾有のクーデターである。

さて、クーデターを企てた将校たちが、天皇の激昂により、形勢が非になることを、肌で感じ始めた頃、吉報が、もたらされた。

弘前第八師団で、大隊長を務める、秩父宮が、応援に乗り出したというのである。
秩父宮は、天皇親政を望んでいた。

しかし、それは、昭和天皇と激論になっていた。
5・15事件の頃、天皇に対して、しきりに御親政を説かれたが、昭和天皇は、憲法の停止もまた止むを得ずと激され、相当の激論となった。

天皇は、侍従長に、祖宗の威徳を傷つけることは、自分の到底同意し得ざるところで、親政というのも、憲法に基づいて、大政を総攬せり。また、憲法の停止などは、明治大帝の創制されたものを破壊するもので、断じて、不可なり、との仰せだった。

その秩父宮が、即日上京すると聞いて、反乱軍は、百万の援軍を得た思いがし、逆に、宮内省は、色を失った。

更に、当時、秩父宮を陛下に擁して陛下に代わりうるとの、考え方もあったのである。

つまり、軍部が昭和天皇に対して、隠れて批評していたのである。

だが、兎に角、秩父宮に対して、反乱軍の加担者の収奪されることを阻止することが出来た。更に、昭和天皇に、帰順させるべき方法が取られた。

秩父宮も、陛下を補佐するということで、収まったのである。

それは、犠牲者たちが、武士道から外れた残忍な方法で、殺されたことも、秩父宮を不快にさせた。

頼みの秩父宮からも、見捨てられ、反乱軍将校は、刻々と追い詰められた。
更に、天皇からの、再三の催促に窮して、色々と言葉を濁すが、結果、天皇は、
一刻も早く鎮圧せよ
との、お言葉に、腰の定まらなかった軍首脳部も、最後の腹をくくらざるをえなかった。

すでに、近衛、第一師団と、近県の兵合わせて、二万五千人が、反乱軍を包囲していた。
そして、抵抗すれば、天皇陛下の御為という挙兵の名分は消えて、永久に逆賊の汚名を着ることになる。

将校たちは、互いに抱き合い、号泣した。
そして、栗原中尉の提案で、勅使を乞い、見事に自決して、最期を飾ろうということになった。

山下少尉は、涙ながらに、川島陸相と宮城に赴き、
勅使を賜り、死出の光栄を与えられし、これ以外、解決の手段なし
と、本庄武官長に告げた。

その本庄日記には、
陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手になすべく。この如き者に勅使なぞ、もっての外なりと仰せられ、また、師団長が積極的に出づる能わずとするは、自らの責任を解せざるものなりと、いまだかつて拝せざる御気色にて厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命・・・

武官長は、再び、勅使の派遣について、
彼らは誤った動機に出たとしましても、国家のためを思う一念で致したことと存じますので・・・
と、再考を進言したが、
それはただ、私利私欲のためにせんとするものに非ず、といい得るのみ
と、天皇は、取り合わない。

そして、直ちに、各占拠地に、伝令され、下士官、兵士も、決死の覚悟を決めて、火蓋が切られようとした。
posted by 天山 at 06:58| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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