2008年07月01日

アボリジニへの旅 1 平成20年7月

ケアンズから、夜八時に帰国した。
すでに、私の目は、紫外線により、日焼けしていた。肌ではない。目が、日焼けしたのだ。

目の疲れは、体全体の疲れになる。
兎に角、目は、心の窓だけではない。体の窓でもある。

横浜まで、バスに乗った。
夜の闇が、目に心地よい。

この旅の最初の、三日間は、ケアンズで、過ごした。
その時は、後悔した。
新興都市ケアンズは、アホ面である。街が、アホ面なのである。
更に、物価の高さである。

サイパンの旅も、そうだが、観光地とされる土地や、国に行く趣味はない。
ケアンズという、街にも、興味がなかった。
しかし、飛行機の、乗り継ぎのために、滞在することになった。
カンタス航空の、特別チケットが、手に入り、そのため、アーネムランドの、ゴーブという街に向かう飛行機の、乗り継ぎのためである。

バリ島から、ダーウィンへ、そして、ゴーブという方法もあるが、値段が高いのである。

バリ島に、滞在している間に、ダーウィンに行き、そこから、ゴーブに入ることを、次からは、考えている。

ゴーブという街は、アーネムランドの東側海岸に当たる。
アーネムランドとは、アボリジニを象徴する土地である。
北海道と、四国を合わせた大きさである。
オーストラリアの東北に当たる。
ちなみに、オーストラリアは、日本の、21倍の広さである。日本の、真南に当たる位置にある。現在の人口は、2000万程度で、人口の大半は、東海岸に集中する。

さて、ケアンズである。
私は、好きも嫌いもなく、そのままを、書くことにする。

兎に角、物価が高く、嫌になるほどである。
朝の六時過ぎに、ケアンズに到着して、安いゲストハウス、あちらでは、モーテルというが、それを、探すのに、一苦労であった。
エアポートバスには、私たちの二人だけである。
街中に、降ろされて、宿探しである。

ホテルは、日本と変わらない料金であるから、最初から、諦めていた。
案内書を見て、モーテルを回る。
街中の、モーテルは、満杯である。

朝のコーヒーと、サンドイッチを食べて、二千円以上に、最初、驚いた。
野中が、近くのモーテルに、出向いたが、十時にならないと、解らないと言われた。
それから、タクシーに乗り、街の近郊のモーテルに向かった。
矢張り、満杯である。
再度、タクシーに乗り、駅付近のモーテルに向かった。
タクシーは、千円以上である。日本なら、ワンメーターであろう、距離である。

結局、野中が、最初に出掛けたモーテルの、長期滞在用の、コンドミニアムのような、一泊、約六千五百円の部屋に決めた。
私たちには、とても、高い部屋である。
タイで、泊まるにしても、二千円前後のホテルか、ゲストハウスなら、千円程度からあり、それに比べると、実に、高いのである。

勿論、それを、予想して、日本円を、持っていったが、信じられないほど、お金がかかった。

私は、毎日、スーパーに買い物に出掛けた。二食は、部屋で、食べるつもりだった。

和食の店で、安い定食を食べても、二千円である。
たぬき蕎麦が、千二百円。

沢山お金を持っての、観光旅行ではない。
追悼慰霊の旅である。そして、子供服支援である。

美味しくて、安い、日本米の、おにぎり屋さんを、見つけて、ホント、良かった。
一個、120円程度である。
丁度、オーストラリアドルが、高くなっている時期であり、想像以上の、出費であった。

ケアンズの街で、感じたことは、仕事をしている人の多くは、日本人、韓国人、中国人である。
勿論、オーストラリアの人もいるだろうが、私の見たところは、大半が、アジア系である。

また、観光客も、日本人、韓国人が多かった。
タクシー運転手は、働く人も、観光客も、日本人が少なくなったと言う。ということは、以前は、もっと、日本人がいたということである。

あの、新興の街に来て、一体何をするのであろかとの、疑問が、湧いた。
旅行案内を見ると、ダイビングや、世界遺産を見るというものがあり、確かに、観光地としての、目玉はある。

実は、私は、ケアンズの、アボリジニの文化を紹介する、ジャプカイ・アボリジナル・カルチュラパークには、出掛けようと、思っていたが、止めた。
理由は、オーストラリアの、アボリジニ政策を、知ったからである。

ケアンズの三日間は、アボリジニの理解に、当てた。
これから、追々と書くが、凄まじい、独善の侵略と、同化政策である。

その、パークで、見られるものは、オーストラリアが、勝手に解釈した、アボリジニの文化だと、気付き、そんなものを、見ても、単なる、お昇り観光客と、同じであると、気付いた。
それより、早く、アーネムランドに行くことだと、思った。

ケアンズの季節は、冬である。
ところが、朝晩は、少し冷えるが、日本の初夏を思わせる、気候である。
何とも、気持ちがよい。

ただし、日差しは、体に毒であるから、注意だった。
紫外線が、日本の七倍である。
サングラスと、日焼け止めが、必要だ。
私は、浴衣を着て過ごしていたので、サングラスをかけた。といっても、いつものメガネに、乗せるものである。
しかし、それを、時に忘れる。

目が、日焼けするという、感覚になるのである。

スーパーに行き、インターネットカフェに行き、部屋で、アボリジニについての、本を読む。特に、今回は、日本人女性の、学者の本が、有意義だった。

私は、旅の間、本を読む趣味はない。
本など、読んでいられないのが、旅であるが、サイパンの時も、追悼慰霊以外の時は、本を読んだ。それほど、何も興味が、持てなかったのである。

そして、マッサージである。
旅の、唯一の楽しみは、マッサージである。
しかし、料金が高い。
最初に、出掛けたマッサージは、何と日本人経営の店である。
フットマッサージ、30分、30ドル、約三千円である。

それから、安いマッサージを探した。
ナイトマーケットの中にある、韓国人の若者が多く働く、マッサージ店を、見つけた。
10分単位である。千円。
しかし、組み合わせると、安くなる。
フットと、全身45分で、25ドル。

片言の英語で、話すと、経営者は、中国人だと、言う。
ワーキングビザで、働きに来ているという。
そこに、二度行った。
後は、高くて駄目。

和食の店も、一度行ったきりである。回転寿司もあるが、入らなかった。
シーフードを食べたいと思ったが、レストランの料金が、また、高い。
店の前で、客引きをしていた、日本人女性に、この値段高いねーと、言うと、ハーフにして、注文することも、出来ると、言われた。
後で来ると、言ったが、結局行かずに、ナイトマーケットの、屋台の料理を買い、部屋で、食べた。
それは、皿の大きさで、値段が決まるというもの。好きな皿の大きさを選び、それに、料理を、好きなだけ乗せるというもの。詰め放題のような感覚である。
私は、11ドル程度の皿を選んだ。中間の大きさである。

しかし、それなのに、私は、食べ過ぎていた。
スーパーで、買う物、多く買うと、一つについて、安いので、多く買う。
すると、捨てるのがもったいないので、食べる。
そうして、食べ過ぎになったのである。
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2008年07月02日

アボリジニへの旅 2 平成20年7月

イギリス人は、アボリジニを、動物より、少しマシな、生き物と、認識した。
裸族である。
その、裸であること、野蛮であると、認識するが、はたして、野蛮なのか。

私の、泊まる、モーテルの前は、ビーチである。
しかし、浅瀬で、有明海のように、暫くは、干潟である。

その街側に、プールがある。
案内書には、一度は、行くべきだと、書かれている。
そこで、見た風景は、白人の、裸体である。
白人の裸体を、あのように見たのは、初めてである。

裸は、野蛮なら、彼らの方が、余程、野蛮である。

紫外線も、なんのその、体を日に当てて、焼くのである。
美人も、ブスも、色男も、不男もである。

私は、一カップ、400円程度の、アイスクリームを食べつつ、それらを、見て回った。
そして、笑った。

バイキングの子孫を、王室として、認知している、彼らである。
この、オーストラリアも、王室の所有と、相成った、過程がある。
勝手に、イギリス王の物であるという、宣言である。

原住民の、アボリジニを、野蛮であるとは、笑わせる。

どんだけー、の、歴史である。
イスラム帝国、インド、中国の歴史から見ると、彼らは、未開の人種である。
追々書くことにする。

勿論、私は、白人を嫌ってはいない。
不男になる前の、白人男性は、少年というか、素晴らしい、美形である。
不男になっては、お仕舞いであるが。女性も、同じである。

他人の土地に、土足で上がり込んで、好き放題の歴史は、反吐が出る。
日本が、侵略した、侵略したと、お詫びするが、イギリスは、一度か、お詫びを、しただろうか。
皇室が、イギリス王室と、仲良くするのは、どうでもいいが、真似だけは、しない方がよい。
ゴキブリのように、他国、大陸に、進出したのである。
大義名分も、あったものではない。

そして、キリスト教である。
あれは、一掃しなければ、世界に、平和は無い。
独善の、最もたるものである。

カトリック、プロテスタント、然り。
文明人は、キリスト教徒たれと、今でも、アボリジニを、支配するのである。

書いたついでに、言えば、彼らは、悪魔の手下である。
聖書の神は、悪魔、悪霊と、すでに、証明されている。

アーネムランドに、行き、ミッション系が、アボリジニの、ボランティア、お助けをしていると、聞いて、反吐が出た。

彼らが、アボリジニにしたことが、どんなことか、このエッセイにて、書く。

ワンカップ、400円のアイスクリームは、とても旨い。
貧乏人の私は、これがタイなら、50円なのになーーーと、思う。
どういう訳か、少し前から、アイスクリームが好きになった。というより、昔の感覚を思い出したのだ。
酒を飲むようになると、自然、甘いものを、食べなくなる。
この頃、甘いものが、美味しい。つまり、糖尿であろうと、思う。

美食をしていると、糖尿になるのではない。体質である。しかし、私の家系に、糖尿病の人はいない。
ただし、そういう気があるということは、ある。

さて、スーパーでは、ハムなど、量り売りのものを、買った。
どういう注文の仕方がいいのか、解らず、ワンハンドレットグラムと、言ってみた。
最初の、店員は、ボーイである。少し、イケメン。
通じた。
翌日は、おばさんである。通じた。
そして、三日目は、別な、ボーイである。
通じた、通じたついでに、彼は、私に話しかけてきた。
日本人か。そうだ。観光か。そうだ。楽しいか。楽しい。
みたいな、会話である。

質問することは、出来るが、相手の英語が、聞き取れないという、愚かしいことになる。

子供でも、質問すると、ペラペラと、喋る。しかし、その意味が、解らない。
場所を、尋ねる。すると、丁寧に教えてくれる。しかし、解らない。うんうんと、頷く。そして、その、手の先を見て、その通りに、歩いてみる。
その、連続だった。

しかし、英語は、学ぶ必要は無い。私にとっては。

英語教育は、中学生くらいから、すればよい。
本当に必要になると、覚える。
それで、食わなければいけなくなると、幾つになっても、覚える。その必要がないから、覚えない。
日本語の出来ない者が、英語をしっかりと、身につけることなど出来ない。

しょうもない会話程度の英語など、覚えても、どうしようもない。
ただ今、日本語を、覚えると、世界の書物が、読むことが出来る。翻訳が、素晴らしいのである。
世界で、一番である。翻訳されるものが。

英語など、身につけるより、余程良い。

英語を学べばバカになる、という本を書いた、薬師院仁志という方の、言葉を引用をする。

英語圏以外の国では、一部を除いては英語は通じない。

自由というのは、すべての者に選択の機会が平等に保障されてはじめて成り立つものである。たとえば、自動車を買うか買わないか、買うとしたらどの自動車を買うかは、消費者の自由だというのが建前になっている。たが、現実には、そんな自由など存在しない。各人の経済力が選択の自由を無効にしているのである。

日本人が、英語が下手なのは、
最大の原因は、我々日本人が英語を必要としていないことにある。
という。

外国語が出来なくても生活が成り立つのは強者の印である。国全体がそうならその国は強国である。

外国語に依存せずとも生きてゆけるという日本の状況は喜ぶべきことなのだ。さらに言えば、英語に支配された国々がアメリカ化への防御壁を失っている一方、母語が安定している国は、自分たちの社会を自分たちで考える可能性を持っているとさえ言える。われわれは、莫大なカネと時間と努力とを要する英語公用語化を考えるよりも、日本語で成り立つ社会を維持し発展させることを考えた方が得策なのである。

勿論、英語通訳という仕事もあり、英語で、生活出来る人もいる。
それは、特技である。

兎に角、日本人は、まず、日本語なのである。
しっかりした、日本語が出来ない者の、英語は、聞いていられない。
実に、下らないのである。

ただし、私のように、日本語英語で、図書館ある、どこに。などということになる。
しかし、通じる。

あんた知ってる、スーパー、どこに。平然として、尋ねる私に、彼らは、優しい。
酒、どこにある、店。
すると、丁寧に、答えてくれる。
不自由しない。

一番は、発音が、通じないことである。
イントネーションが、違うのである。
サンキユウ、ではない、キューなのである。聞こえない音がある。

でも、どうでもいい。
旅行者であるから、彼らが、理解しようとする。
まして、相手が商売をしているならば、必死に、こちらの言い分を聞いてくれるのである。
ということで、私の英語は、楽勝である。

ただし、深い話になると、同行の野中を呼ぶ。
通訳されるというのも、快感である。
その間に、考えることが出来る。

オーストラリアの人は、実に、話し好きである。
どうでもいいことを、延々と、話している。

延々と、行列が出来ていても、世間話を続けるバカもいるのである。

一つ質問して、延々と話をはじめた人もいる。勿論、こちらは、意味が解らない。
オッケーと、言われて、オッケーと、答えて、別れる。
それを、見ていた野中が、意味解ると、訊く。解らないと、平然としている、私である。

タバコを買うのに、軽いものという意味で、ライトと、言った。すると、ボーイは、ライターを出した。
違う。
もう、それで、いいと、目の前のタバコを指差す。
そんなことは、いつものことである。

もう、それで、いいという、タバコは、一番安いものである。
タバコが、高いのにも、驚いた。
700円以上である。
空港で買った、マルボロは、千円以上である。
それでも、吸うのと、野中に訊かれて、はじめて、高いと、気付いた。

いつもそうであるが、私は、頭の体操で、日本円に換算することにしている。今回は、楽だった。一ドル、約百円である。

一番、大変なのは、バリ島である。
インドネシアルピアは、ゼロの数が多い。
一万ルピア、十万ルピア、時々、こんがらかる。

千ルピアをチップで、上げて、変な顔された後で、気付く。
あーー、十円以下だ、と。

一万円が、90万ルピア程度である。
えーと、えーと、と、何度も、円に換算することになる。
いっそのこと、一万円が、100万ルピアになると、話が早い。
10万ルピアが、千円である。
それなら、10万ルピアは、900円である。一万ルピアは、90円。千ルピアは、9円。
このように、楽しむことが出来る。

ところが、水が、3500ルピアと、言われると、また、考える。
えーと、3000が、27円で、500ルピアが、千の半分だから、9円の半分は、4,5円で、31,5円だという風に。疲れる。

ああ、ここは、オーストラリアである。

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2008年07月03日

アボリジニへの旅 3 平成20年7月

ようやく、ケアンズから去る日である。
チェックアウトが、朝十時である。
アーネムランド・ゴーブ行き飛行機は、夕方の六時である。

それまでの時間を、過ごすために、私たちは、バス乗り場の前にある、オーキッドプラザというビルの、二階に出た。
そこには、屋台の食べ物屋があり、私の好きな、おにぎり屋もあった。

食べきれなかった食料を持って、夕方、四時まで、過ごす予定である。

その辺りが、街の中心である。
繁華街である。
向かい側には、夜になると、開店するバーが、並んでいる。
私は、その一軒に、昨日出掛けた。

一番外れの、ゲイバーである。
ふらふらと、入ったバーであり、極々普通の店であった。ただ、内装が、凝っていて、豪華であった。
入ると、まず、一段階の部屋、そして、中の部屋、更に、奥の部屋があった。

私は、タイパンツと、Tシャツである。
店に入っても、何も言われない。
しばらく、店の中を見学して、ようやく、カウンターに行き、ウイスキーを注文した。勿論、メニューを見て、10ドルのウイスキーを示して、ウォーターと、加えた。
水割りという意味で、言うが、素敵なボーイさんは、シングルのウイスキーに、氷を入れて、私の前で、酒を計る小さなカップで、私を見ながら、水を少しづつ入れる。
オッケーオッケーと、言いつつ、私は、全部入れてもらった。それでも、水は、足りないが、もう、面倒で、それを、貰った。

適当に好きな場所に、座って飲む。
最初は、色々な椅子に、腰掛けてみた。
タバコが吸いたくなり、別のボーイに、ノースモーキングと、声を掛けると、ペラペラと、喋る。つまり、ここは、禁煙というのである。
私は、店から出て、外の席に座った。

そこで、タバコに火を点けた。
少しすると、警備のボーイが、何やら言う。
禁煙ブースだった。
そこで、グラスを持って、タバコを吸いつつ、水割りを飲もうとすると、また、警備のボーイが、何やら言う。
飲みながら、吸うなということだと思い、グラスを、テーブルに置いた。
そして、オッケーと、訊いた。
オッケーである。何か、決まりがあるのだろう。

ケアンズも、アルコールに関しては、結構厳しいものがある。
野中が、深夜出掛けて、ヨーロッパから来た、若者たちと、ビールなどを飲んでいると、警察が来て、ここは、飲む所ではないと、散らされたという。
一人の、ドイツ人の若者が、警察に、僕たちは、お金がない。店で、飲むような、金持ちではないから、ここで飲んでいると、勇気を持って言ったと、野中が、話していた。

警察は、騒ぐなよと、言って、その場は、収まったという。
アル中が多いのである。
実は、それには、訳がある。
アル中になるのは、大半がアボリジニたちである。
これについても、後で書く。

ゴーブでは、もっと、厳しかった。
午後二時から、酒の販売を開始し、八時で、終わる。そして、酒を買うためには、許可書を得なければならない。
私は、面倒なので、酒を飲むのを、止めた。
三日間の禁酒だった。

最初、そのバーは、ゲイバーには、見えなかった。
男女のカップルも多かったからである。
しかし、再度店に入り、中の部屋に入り、二人の男の、カップルの様子を見て、理解した。
腕を絡ませて、キスをするのである。

しかし、誰も気にしない。
男女のカップルも、平然としている。
そこで、私は、店の入り口に立つ、警備のボーイに、訊きに出た。

ここは、ゲイバーと、訊いた。
イエス。
あんたは、ゲイ。
ノー。
この辺は、ゲイバーなの。
いや、ここだけ。

そして、私はまた、店内に入った。
今度は、たっぷりとした、ソファーに座り、観察である。

そして、驚いた。
ある、ブースには、垂れ幕がかかり、その中が見えない。しかし、次々と、女が、入って行くのである。
非常に興味があった。
その中を、覗きたいという欲求である。

暫く、その、幕を見ていた。
チャンスが来た。
ボーイが、物を運んで入るとき、その、幕を大きく開けた。
仰天した。
中には、女が、一杯なのである。

ホント、女だらけ。ゲイバーである。つまり、レズの皆様である。
それが、男同士などより、断然多い。
その中は、女で溢れているのである。
アラアラ、言葉無く絶句した。

どうりで、色々着飾った女たちが、続々と入って行くのであった。

何かの、パーティーでもない。
レズの多いケアンズという、イメージが、強く強くなった。

私は、水割りを飲み終えて、ほろ酔いで、モーテルに帰った。
ゆっくりと、歩いた。
もう、ウイスキーなどは、合わないと知った。
日本酒が、一番いい。

広場には、警察の車が、止まっている。
監視しているのだ。

多くの店の明かりも、消えて、街灯の明かりの中を、とぼとぼと、歩いた。

ケアンズ、最後の夜であり、もう、二度と来ない街である。

珍しく、野中が、すでに寝ていた。
私は、シャワーを浴びて、歌を書き付けた。

いよいよ、明日は、アーネムランドのゴーブである。
ほとんどの人は、知らない街である。
アボリジニ、イダキ、ディジュルドゥに、興味を持つ人のみが、聖地として、崇める街である。

これから、エッセイとして、オーストラリアの歴史、そして、アボリジニの問題を、書くことにする。
たが、焦らない。
ゆっくりと、順々に書いてゆく。
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2008年07月04日

アボリジニへの旅 4 平成20年7月

日本の、21倍の大きさの、オーストラリアは、広い。

ケアンズから、飛び立ち、アーネムランドのゴーブという街に向かう。
その、果てしない、大地である。

資料では、四万年前から、アボリジニ民族が、住んでいたと言われるが、新しい学説を出す、学者もいて、人類の発祥とも、言えるという。
アフリカではなく、オーストラリアが、人類の発生の場だとしたら、これは、大逆転の、学説となる。

ゴーブという街は、実に小さな街である。
私の、田舎程度である。
しかし、空港があるという、驚き。

エアポートバスに乗り込む。
実は、飛行機の座席は、満席だった。それは、乗り継いで、ダーウィンに行く人がいるからである。

私たちは、予約していた、モーテルを告げて、乗り込んだ。
二つしか、モーテルはない。安い方のモーテルである。といっても、一泊、15000円以上である。兎に角、高い。
最初に、私たちが、降ろされた。

オーストラリアは、三つの時間帯がある。
ケアンズは、日本より、一時間早い。アーネムランドは、日本より、30分早いのである。
ケアンズと、ゴーブでは、30分の差である。
だから、到着したのは、ゴーブ時間で、八時近くになっていた。

飛行時間は、一時間半である。
東京、札幌間程度である。
しかし、私は、こんがらかって、よく解らないのである。

野中に、なんで、行きが、一時間で、帰りの時間が、二時間以上もかかるのかと、文句を言った。
時間差だといわれたが、私は、不機嫌だった。
疲れのせいもある。

モーテルは、素晴らしい部屋である。
こんな田舎町に、こんな素晴らしいホテルがあるという、驚き。

台所から、洗面所から、何から何まである。
電子レンジもある。冷蔵庫は、大型。
一番安い、ダブルの部屋にしたが、その他に、もう一つ、ベッドがあった。
それを、何と言う部屋かは、解らない。

モーテルの部屋の前は、蘇鉄などで、覆われて、森の中にいるようである。
部屋は禁煙で、外のベンチに、灰皿がある。

オーストラリアも、屋内は、すべて禁煙である。
勿論、空港もである。喫煙室もない。
それで、私は、一回一回、外に出て、タバコを吸う。そして、また、検査のブースを通り、中に入るのである。
毎度の、ことに、検査官も、笑う。私も、笑う。

これが、面倒だと、タバコ吸いの、負けである。
私は、意地でも、タバコを吸うために、外に出た。

タバコは、大半が税金である。国のために、吸う。愛国心である。
天邪鬼の私は、決して、タバコを止めないのである。
皆が吸えば、止める。

さて、夜の食べ物を買うために、モーテルの裏にあるという、スーパーに、走った。
八時に閉店すると、言われたからである。もう、5分ほどしかない。

缶ビールを買うために、走った。
ところが、あれである。アルコールは、売っていない。
店内を探し回って、店員に尋ねた。
無いと、言うのである。

しょうがなく、ジンジャーエールの炭酸水を買う。
そして、パンや、ソーセージなどなど。
ケアンズから、持ってきたものもあり、適度にした。

酒は、無くても、旅の間は、平気である。
疲れると、酒を受け付けなくなる。
ただし、水だけは、よく飲む。
オーストラリアの、水道水は、飲んでも大丈夫である。が、矢張り、ミネラル水を買う。
ゴーブの水は、美味しかった。

ベッドに就いたのは、十時であるから、実に早い。
日本時間では、九時半である。
朝、五時に起きる私は、そうすると、夜中に目覚めてしまうのである。

明日は、アボリジニの、聖地に行く。
ここの、アボリジニを、ヨォルングと呼ぶ。一つのグループである。
同じ伝承と伝統を、持つグループである。
その中でも、また、グループに分かれる。

その、ヨォルングの聖地、ガイガルンに行き、祈りを捧げる。
そして、イルカラ・アートセンターに行く予定である。
その、イルカラには、ヨォルングの人々が、住む集落になっている。

子供服支援は、それより先の、ダリンブイ・アウトステーションに行くはずであった。
しかし、結局、イルカラで、支援物資を、差し上げたのである。
その訳は、後で書く。

アボリジニに関しては、これから、じっくりと、書くので、ケアンズにて、作る歌を、載せる。

朝明けの 静寂を裂く 着陸の 飛ぶ七時間 無事を感謝す

神降りる 清しケアンズ 朝の陽に 一筋雲の 書の如くして

山と海 拓けし街の 歩みには 人の侵略 赦す如くに

歴史無き 街の悲しさ ケアンズの 原住民の 居場所なくして

今はただ 見世物のごと アボリジニ 寄せ集めたる 肉体美のみ

地の歴史 破壊し尽し 今はまた 価値ありとする 侵略の勝手

ただ今は、冬と人は言う 涼し風 冬は冬とも 涼し冬あり

我が英語 伝わることの 驚きは 皆訛りある 発音なりて

ハローとの 一言発す その後の 延々と続く 豪人の会話

白い人 白とは純と 成り得ずや その傲慢と その独善に

豪州は アボリジニの ものなれば イギリス王の 支配にあらず

海賊の イギリス王の やることは 略奪殺し ゆえもなきかな

これらの歌には、後々の、説明で、理解されると、思う。
兎に角、歴史は、凄まじいばかりの、同化政策である。
その、弊害が、今、オーストラリアを覆い、それが、重大な問題となっているのである。
自ら蒔いた種で、自ら、苦難の只中にある。

和歌とは、多くの説明を省略して、簡潔にして、表現できるのが、いい。
今は、短歌という。それは、和歌とは、短歌を含む、多くの歌の表現形態が、あったからである。
しかし、私は、和歌という。

そういえば、ケアンズで、アボリジニの家族に出会って、会話をした。
朝のことである。
私は、インターネットカフェに出掛けたが、まだ、開店していなくて、街の中心に向かって歩いた。すると、中心の広場に、アボリジニの男がいたので、私は、挨拶した。
彼は、すぐに、自分はアボリジニだと言う。そして、今、母と妹と、妹の子と、一緒だと言うのである。
その母と、妹、その子がすぐに、来た。
旅をしているようである。

私が、タバコを吸うと、母親が、見つめるので、一本差し出すと、嬉しそうに、受け取り、自分のライターで、火を点けた。
少し、英語で、会話する。
どこからか、アボリジニの男二人が、やって来た。
私は、三歳になるという子に、何か差し上げたいと思ったが、何もない。
いつも、迷うのだが、その時は、20ドル札を取り出して、プレゼントだと言って、その子に渡した。
母親が、喜んだ。何度も、ありがとうという。
そして、男の子の、ズボンのポケットに、ドル札を入れた。
お金を、渡すのは、実に慎重になる。

相手に失礼になるのではないかと、考える。日本人の感覚である。
だから、私は、それを差し上げる時、ソリー、今は、これしかないと言って、差し出した。

しかし、お金を差し出したのは、その他に、一回だけある。
遊んでいた、アボリジニの男の子に、一緒に写真をと言うと、快くオッケーしてくれたので、感謝の気持ちで、5ドルを差し出した。すると、彼は、10ドル欲しいと、言うのである。
これは、良くないと、思った。
何も、出さなければ、そいう言葉も、出なかったはずである。
私は、もう無いと、言って、断った。

お金を差し出すのは、非常に難しい。
野中が、アボリジニの男に、観光客が、一ドル差し出し、写真を撮らせてと、言うと、男は、金はいらないと言った。そして、撮っても、いいと言うと。それは、恵んでやるという気持ちが、差し出す者にあるからだと、野中は、分析した。
まあ、一ドルは、失礼かもしれない。
物を差し上げる時も、相手のプライドを、傷つけないように、差し上げることを、私は、肝に銘じている。

相手と、対等な立場であることを、明確して、支援するということは、実に難しいことである。
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2008年07月05日

アボリジニへの旅 5 平成20年7月

矢張り、暗いうちから、目が覚めた。
四時である。
少しして、また、眠るべく目を瞑る。
五時に目覚めて、起きる。八時間以上寝たのである。

部屋の外に出て、モーテルの敷地を歩く。
暗い。電灯の光だけである。
暫くすると、東の空、明らんできた。

腰巻一つである。風が涼しい。こんな冬なら、大歓迎である。

部屋に戻る頃は、朝日が出た。
野中を起こして、出掛けることにする。
街の中心に行きたいと、思う。そこで、朝のコーヒーを飲む。それが、一番、街を知る手立てになる。

街の中心は、歩いてゆくことにする。
30分ほど、ぶらぶらと、歩いた。
街の中心。驚いた。
その一角が、繁華街だと言うのである。

スーパーから、美容室から、兎に角、そこには、街のすべてがあった。
一軒の店では、数人の女たちが、忙しく、働いている。
その中に入った。

皆、話し好きで、色々と、言葉を掛けてくる。
皆、フィリピンの人だった。
日本語が、少し出来る女もいた。
コーヒーと、サンドイッチを頼む。
野中は、一つで、いいと言う。一つを、二つにしてもらう。
本当に、それで十分だった。

店の前の、コーナーに座り、コーヒーを飲む。
朝は、黒い肌の人が、多く目に付いた。
アボリジニ、ヨォルングの人たちである。

彼らには、ヨーと、声を掛ける。
ハローと同じ意味である。皆に、声を掛ける。

私は、浴衣であるから、日本人だと、すぐに、解るはずである。

本日の、予定は、これから、町外れのガインガルの聖地に行くことである。
野中が、一度来ているので、案内は、いらない。
出て来た、サンドイッチを食べて、そこから、聖地に向かった。

まだ、朝のうちである。
人が少ない。
日差しが強くなる。私は、メガネの上に、サングラス用の、色眼鏡をつけた。

随分と、歩いた。
一人の、アボリジニのおじさんに、確認して、聖地へ向かう。
入り口に来た。

驚いた。
看板がある。
そこには、ワニの絵が描かれてあり、ワニに注意せよ、である。
そして、更に、ワニに、食われないようにとのこと。
ギャ、である。

ワニが出る。
野中は、今は、乾季であるから、大丈夫という。
野中が、来た時期は、雨季であり、川の水かさが増して、怖かったという。
その川を、渡った。
申し訳程度の、水の流れである。

一本の道を、歩き続ける。
私は、ワニが出た時のために、一本の枯れ木を、持った。
もし、ワニが襲ってきたら、それを、口に入れようと思った。
ドキドキし、ワクワクした。

しかし、ワニは、出なかった。
一つ、ワニ捕りの、籠を見た。
中に、鶏三羽が、吊るされてある。
ここでは、ワニを食べるのである。
クロコダイルという、ワニである。

砂道に、ぬかるんで、進んだ。汗が出た。
右手の沼を見て、進む。
睡蓮の花が、丁度時期であり、多く咲いている。
可憐な、小さな薄紫の花である。
その、睡蓮の花が、後で、重要な意味を持つことを、知る。

バードウォッチングの小屋に、白人がいた。
私たちは、無視して、歩き続けた。

到着した、目の前は、沼地である。
大きな、大きな池である。

野中が、声を上げた。
鶴がいた。
番いの鶴である。
鶴を、初めて見たという。

私は、早速、御幣を作る。
付近の木を見て、枝を一つ、頂く。
それを、潅木の一つに、捧げて、祈りの準備をする。

不思議である。

言葉を必要としないのである。

私は、御幣を、太陽に掲げて、神呼びをした。
いつもなら、祝詞を挙げる。
しかし、その必要は無いとの、啓示である。

さて、どうするのか。

天照のみ、御呼びして、待った。
すると、口から、アーと出る。そのままにして、アーと、続ける。

野中を見た。私の写真を撮りつつ、私と共に祈る姿勢である。
異語にしたらと、言う。

説明する。
異語とは、古代語などが、自然に出ることである。
しかし、それには、魔が憑くこと多い。

私は、アーと、続けた。
清音のみでなければならない。
すると、舌が動く。
アーの音の中に、微妙に、音が変化するのである。
そのまま、続けた。

私は、目の前を見ている。
先ほどの、二羽の鶴が、動かない。そして、名の知れぬ鳥が、目の前の木に止まり、それも、動かないのである。
不動の姿勢の鳥を、見て、私は、音霊の、所作を続けた。

鳥たちは、私の清め祓いが、終わるまで、動かなかった。

その沼地を、すべて、清め祓いした。
その時、後から、カップルのアメリカ人が、近づいて来た。
私の様子を見て、戸惑っているので、声を掛けた。

今、日本の方法で、祈りを捧げていると、言った。
彼らは、頷いた。

クリスチャンかと、訊くと、パブテスト派だという。プロテスタントの、一派である。

私は、二人に、あなたたちの幸せを、祈りますと、幣帛を、掲げて、清めた。
神妙にしている。
終わると、サンキューと、言い、私たちに、良いビーチがあると、教えてくれた。
その、ビーチに行くつもりはなかったが、最後の日に、行くことになる。

二人が、いなくなり、私は、再度、清め祓いをして、神送りを始めた。
私は、追悼慰霊のために、来たのである。
この聖地では、アボリジニ、ヨォルングの先祖たちが、鎮まり治まった場所としている。
慰霊の意味も込めて、行ったが、追悼慰霊は、別の所で、行う予定である。

御幣を、そのまま、池に納めて、終わった。

暫く、潅木に腰掛けて、辺りを見ていた。
鳥たちは、やっと、動き出した。
目の前の鳥は、一度だけ、静止したまま、反応した。
私が、音霊の所作をしている時に、一度だけ鳴いたのである。

しかし、そんなことに、意味を云々することはない。

通常と違うことが起こっても、それに反応しない。
祈りは、ただ、あるがままに行う。
何か、普通と違う状況に反応すると、必ず、それは、魔に通ずる。
人は、奇跡と言うが、それは、魔の方便である。

奇跡は、毎日、私に起こっている。私が、生きているということである。
そして、太陽が昇る、沈むということである。
それ以外の、奇跡は、必要ではない。

奇跡を起こすものは、すべて、魔物である。

名残惜しく、私たちは、その場を、後にした。
ワニも、出なかった。
ここで、ワニに食われて終われば、それでも、良かった。
ワニに、食われる程度の、人生である。

帰りの道で、近道を発見した。
二つに分かれる道の、別の道を選ぶと、何と、来た時の、半分の時間で、入り口に着いた。

再び、私たちは、繁華街に向かった。
まだ、昼ではない。

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2008年07月06日

アボリジニへの旅 6 平成20年7月

聖地から、戻り、街中に出て、元の場所に帰った。
もう一度、コーヒーを注文し、しばらく、そこで休んだ。
その時は、地元の人々が、出ていて、コーナーには、一杯の人である。

白人が多いが、アボリジニも多い。
子供たちが、走り回っている。

昼は、モーテルで、食べようと、私は一人で、スーパーに入った。
まず、パンから選ぶ。
兎に角、分量が多い。

食パンを選んだ。食べきれるだろうかと、思いつつ。そして、野菜である。レタスを選んだ。ハムや、サラミは、豊富であるから、選ぶのが大変である。
パンに挟む、チーズは、日本に持って帰ることになる。
ジュースである。一リットルの、混合ジュースを一本買う。
もう一度、野菜売り場に戻り、果物を見る。
リンゴが、日本のものより、小さい。種類が多い。
ミカンを五個にした。
また、中に戻り、カップめんを二つ買った。

レジでは、計算しながら、袋に詰めてくれる。
さて、支払いである。
小銭は、全部だして、見せると、その中から、店員が、選んでくれる。
オーストラリアドルの、小銭は種類が多く、帰るまで、どれが幾らか解らなかった。
50ドルを出して、お釣りを貰う。

そして、野中の元に戻った。
買い物袋を持って、モーテルに戻るのは、大変なので、タクシーを使う。
ライトバンのタクシーが多い。
新しいタクシーは、日本と同じである。私たちは、それを、選んだ。
イラン人の、タクシー運転手だった。

何故か、会話が弾むのである。
午後に出掛けた、イルカラ・アートセンターにも、そのタクシー運転手に頼むことにした。
予定では、明日だったが、野中が、今日にしようということで、そうなった。

部屋に戻り、食事をする。
野中は、二つのカップめんを食べた。
私は、パンと、チーズと、ハムを食べる。
水を飲みながらである。

およそ、三千円程度で、明日の朝と、昼の分である。

一度、ベッドに、体を横にして、休んだ。
聖地での、祈りの所作を、思い出した。
野中と、色々話し合う。
アボリジニのことである。

二時頃である。
野中が、今日のうちに、イルカラに行こうと言う。
そこは、四時に閉館するので、十分に間に合うのである。

タクシーでは、10分程度で、着く。
野中は、館長に連絡した。
オッケーとの、返事を頂き、タクシーを呼ぶ。

イラン人の、運転手は、色々なことを、話した。
イランといっても、多くの民族があるという。
彼は、イランの西の地方の出身であった。
その歴史は、古く、四千年以上前からの、陶器の出土品がよく出るという。
ただし、その地方は、貧しい。

私たちが、子供服の支援をしていると、言うと、自分の故郷にも、出掛けて欲しいと言われた。

更に、彼は、日本に出稼ぎに出る、イラン人は、悪いことをして、強制送還されているという。確かに、イラン人は、多くの事件や、犯罪を犯す。
彼は、日本に出る、イラン人は、クズだと言う。本当の、イラン人は、真面目で、勤勉だという。

私たちの、活動にも、興味を示し、色々と、訊いてきた。
誰の命令なのかと訊くので、エンペラーだという。
エンペラーとは、誰か。
天皇という。
天皇とは、何か、誰か。政治的に、影響力があるのか。
政治的権力は、無いが、国民に尊敬されている。
それでは、タイの国王のような存在かという。
そうだと、答える。

あなたたちの費用は、天皇が出すのかと訊く。
いや、私が出す。
そして、天皇に、この活動を差し上げると、言う。

タイ国王と同じということで、相当に理解したようである。
実際は、タイ国王の方が、国民の支持は、大きい。九割のタイ人は、国王を支持する。日本の天皇について、私は知らない。
しかし、私の追悼慰霊の儀は、天皇に、捧げても、行われるのである。

野中の英語を、聞いていて、私は、それに付け加えて言ったのである。

知らない人のために、書く。
天皇は、日本国の象徴である。
昭和天皇は、人間宣言という、変なことを、強制されたが、現人神と言われた。本来、現人神とは、国民のことであり、天皇は、その総代であり、現人御神と、言われる。

天皇の政治は、国民を、公宝、おうみたから、と、呼んで、民を大切にしてきた。

私は、天皇制を、議論する者ではない。
右翼でも、左翼でもない。
私は、上、カミである。
日本の伝統にある、カミと呼ばれる民である。

カミは、また、頭とも、守とも、書く。私は、追悼慰霊の儀を執り行う、守、カミである。

それから、私たちは、フィジー出身、トンガ出身のタクシー運転手と、会うことになる。
そして、大きなテーマに発展した。
トンガにも、衣服の支援をして欲しいと、いうものである。書くと、長くなるので、省略する。

イルカラ・アートセンターに、到着した。
センターの前は、ヨォルングの住まいである。

実は、この、ヨォルングの人々は、強制的に、ここに移住させられた。
それは、鉱山建設のためである。

ゴーブは、鉱山の町なのである。

生活の場を、奪われた、ヨォルングの人々は、この土地を与えられて、仕事なく、国の保護によって、暮らしている。
実に、不自然な、生活である。
つまり、夢も希望も無い。
飼われているようである。

これは、後で、問題提起として書く。

この場所では、祈りは行わない。衣服支援のみである。
実は、明日、行くべきはずの、ダリンブイ・アウトステーションにて、追悼慰霊の祈りと、支援を、行うはずだったが、野中が、タクシー会社に交渉すると、一時間半ほどの道で、往復で、五万円以上の、金額を請求されたのだ。
私は、即座に、断れと言った。
それだけの、お金を使うなら、それを、そのまま、寄付した方がよいと、思った。

とんでもない、金額である。
精々、二万円程度を、想定していたのである。

それで、ここで、支援をすることにした。

最初に、出迎えた方が、館長で、白人の方だった。
そして、私たちは、地元の、代表者に、紹介された。
その方を、通して、皆に、支援物資を差し上げるということである。

これには、訳がある。
アボリジニの人は、物をくれる人は、悪い人という、イメージを持っている。
それは、宣教師たちの、行為だった。
原住民に、物を上げて、支配した。それも、親子を、隔離するという、とんでもない、行為を行った。

アボリジニを、人間と、見なさなかったのである。
文明人に、近くなるように、キリスト教徒に仕立てて、様々な、規則、規律を持って、子供たちを、教育した。

その弊害を受けたのは、現在の、四五十代の人である。
アボリジニの、伝承も、伝統も、受け継げず、さりとて、白人の文明を、受け入れられたかというと、中途半端である。

食事も、バランスの良い、現地の食べ物から、パンと、紅茶という食事にされて、今、それにより、糖尿病の人が、実に多い。紅茶に、大量の砂糖を入れて、飲んだからである。

彼らは、非常に病んでいる。
自分の、自己同一性を、持てないのである。
私は、誰か、何者なのか、という、戸惑いは、精神を深く傷つけた。

センターの前に、私は、衣服を広げた。
代表の方が、子供何人かに、声を掛けた。
丁度、この日は、学校が、休みで、皆、広場で、遊んでいたのである。

だが、いつもの、お渡しと違うのである。

おじさんは、私に、皆の好きにさせて下さいと言った。
私は、いつも、一人一人に、合った衣服を、手渡しで、差し上げる。

子供たちは、少しつづ慣れて、自分の合うものを選んだ。
遠慮しつつ、見守る子供には、私が、積極的に、その子に合うものを、選んだ。

中に、一人の女の子が、これも合わない、これも合わないと、おじさんに、衣服を投げ捨てている。
驚いた。
しかし、おじさんは、何も言わない。
実に、無礼な態度である。
だが、その意味も、解ってくる。

三分の一が、余った。まだ、貰いに来ていない子供も、多い。

私は、無理せず、暫く、その場に、置いていた。
そして、近くで、タバコをふかし始めた。

もう、終わりかなーと、思いつつ、見ていた。
ところが、一人来て、二人来て、また、差し上げるムードになる。

そして、また、止まる。
その繰り返しで、最後は、すべてが、無くなった。
印象的だったのは、大人たちである。
漸く、心を開いたのか、大柄な男が来た。
丁度、大人物もあり、私は、引き出して、見せた。

もう、その頃は、野中も館内に入り、おじさんも、いない。
私は、何気なく来る子供に合うものを、選んで、差し上げた。

ほとんど、無くなった。
小さな子は、自分に合う、可愛い服を手にして、静かに、微笑んでいた。

最後である。
若い、女性が来た。
決して、愛想がよいわけではない。
ブスッとして、私に、鞄の一つを指差した。
衣服を入れた、鞄が欲しいのだ。
私は、その鞄を、渡した。しかし、何も言わずに、それを、持って去った。

子供用と、大人用。しかし、中学生や、その上の世代が着るものは、無かった。

館内に、17,18,19の男の子などがいた。
私は、この子達に差し上げる物が無いと、気付いた。

言葉を交わす。
だるい笑いがある。
彼らの、親は、隔離されて育った。その子である。
どんな、精神状態かが、伺えた。

将来に、希望を抱く年代である。しかし、その気配が無い。
何かを諦めた顔である。
その、姿勢の様を見れば、解る。
こちらが、尋ねると、ポツリと、答えて終わる。会話が続かない。

歌にする。

17の 少年の憂い 何ゆえか それ以上を 訊けぬ我が胸

子供から 儀式経たあと 民族の あるべき姿 知りて悲しむ

200年の 統治のゆえの 悲劇をば 受けたることの 少年の涙

アボリジニと 我に告げたる 黒き人 オーストランアン 我にあらずと

伝承と伝統にこそ、生きるという、アボリジニの、それを、根こそぎ奪った罪は、重く深い。

何か、空しさを感じつつ、私は、しばし、そこに、佇んだ。
佇む以外にないのである。

悄然として、遠い空を眺めた。
人は、何ゆえ生まれて、何ゆえに、生きるのか。
少年の頃に、考えたことを、ここで、考える。

多くのことを、学んだはずである。
しかし、何一つ、役に立たない。
私は、私で、創造するしかないのである。

生きることは、演じることである。
そうして、今の今までやってきた。
今回は、男を演じて、生きる。今回は、独身で生きる。今回は、やりたいことを、やって生きる。今回は、そのままを、生きる。

今回は、子供を産まない。というより、産めない。

道端の 空見上げたる その先の 何事かある 何事も無い
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2008年07月07日

アボリジニへの旅 7 平成20年7月

イルカラに出掛けて、疲れた。
帰りも、同じイラン人の運転手だが、もう、言葉は交わさなかった。

単なる、疲れではない。
私は、部屋に入り、もう、どこにも出て行きたくないのである。
野中が、お湯を沸かして、紅茶を煎れた。

書くのを、忘れたが、アートセンターでの、最後は、楽しかった。
野中が、一本の、イダキを買うため、色々と、探っていたのだが、その、イダキを吹く音がするので、館内に入り、更に、職員専用の、広場に出た。

おばさん二人が、イダキの、絵模様を描いている。
そして、子供たちが、野中と、一緒に、イダキを吹いているのである。

館内には、イダキを売る専用の部屋があるが、子供たちのために、子供に合わせた、イダキを陳列している場所もある。
子供たちは、好きに、吹いていいのだ。

7歳から、10歳前後の子供たちが、イダキを吹く。
上手だ。
野中の音とは、また、違う。
更に驚いたのは、子供たちが、イダキの伝統曲を、暗譜していることである。

私は、感激して、聴いていた。すると、子供たちは、いよいよ、盛んに吹くのである。
女の子もいたが、それは、男の子のものであるから、聴くのみである。しかし、女の子たちは、男の子たちを、見守りつつ聴くのである。

男の世界と、女の世界が、明確に分かれている。
それが、また、イギリス人を誤解させたのであるが。

野中が、女の子に、訊いた。
吹かないの。知っているけれど、私たちは、吹かないの。
知っているが、私たちは、吹かないという。それは、男のものである。

儀式も、男と、女の儀式は、違う。

また、もう一つ、明確に、区分けされているものがある。
陰陽という、考え方が、東洋思想にはあるが、アボリジニには、イリチャと、ドゥワァという、区分けがある。
それは、子供の頃から、教えられる。
非常に難しいことなので、後で書く。

私は、一生懸命に、イダキを吹く子供たちに、何かをプレゼントしたかった。
そこで、思い出したのが、野中が、皆、ペロペロキャンディが好きだということだった。

私は、センターの前にある、スーパーに、走った。
そして、キャンディーを、買った。
一袋に、四個セットの、キャンディーが入っているものを、三個買った。全部で、12個である。
それを、ばらして、子供たちに、配った。
わーーーと言って、子供たちが、集った。

子供服の時とは、大違いである。
もう一つ、もう一つと言う子もいる。

その時、丁度、タクシーが来たので、早々に退散した。

私は、部屋の前のコーナーに、座り、タバコをふかした。
野中も、出て来た。
野中には、ペットボトルの水を買って来て貰うことにした。

私は、浴衣を脱ぎ、シャワーを浴びて、タイパンツに、着替えた。
そして、ベッドに横になった。

時々、ギャギャーと鳴く、オウム、ホワイトカカトゥという鳥の鳴き声が聞こえる。
この鳥は、白くて美しいが、鳴き声が、喧しい。
頭についている、冠が、特徴的だ。

そういえば、この、ホワイトカカトゥが、聖地に行く私たちに、一羽、案内するように、着いて来ていた。あたかも、案内する如くである。

その夜も、早々にベッドに就き、寝た。

最後の日である。
ダリンブイに行くことを、止めたので、追悼慰霊の儀を、どうするかと、考えた。

朝、モーテルに備え付けの、インスタントコーヒーを、飲んで、考えた。
兎に角、一度、街に出て、少し買い物をしようと思った。

この日に、起こることは、想像もしていない。
何が起こるかは、その時に解る。

ぶらぶらと、歩いて、道沿いにある、カトリック教会に、入った。
扉が開いている。
つまり、安全な街なのである。

プロテスタントの、チャペルにはない、聖母の像がある。
聖水もある。
祭壇の前で、写真を撮る。
父と子と精霊の御名によりてアーメンと、唱える。

私の少年時代は、カトリック教会の思い出ばかりである。
思い出は、人生である。

今、跪くことはしないが、思い出は、大切である。
未だに、最初に手にした聖書と、祈祷書を、持っているのである。
ボロボロである。

今回は、実は、ロザリオを持って来ていた。
何かのためにである。
ロザリオの祈りは、聖母を通して祈るものである。
アベマリアへの、祈りである。聖母を通して、イエスに行くものである。
プロテスタントとの、論争が、最も、大きい問題である。
聖母像は、偶像である。

人は、何故、祈るのか。
そして、祈りとは、何か。
古神道では、明確である。
いのり
い宣り、である。言葉は、すなわち、言霊であり、それは、音霊が、動くものである。
イ音は、受け入れる意味である。
のオ、とは、オの、送る音である。そして、更に、りイと、受け入れる。

言葉自体が、動くのである。
故に、言葉は、カミであるとする。
カミとは、霊である。つまり、言葉は、霊なのである。
霊は、目に見えないものである。音も、目に見えないが、耳に聞こえるものである。
耳に聞こえないものも、ある。
最後は、だから、黙祷という姿勢になる。
慰霊の儀を、執り行って、解ることは、黙祷の意義である。
最高の祈りは、黙祷である。

教会を出て、別の道から、繁華街に向かった。
すると、二人のヨォルングが、道端に座っている。

私は、ヨーと、声を掛けた。
おじいさんである。
二人は、手を上げた。

そして、一人の老いた、おじいさんが、私に話し掛けた。
それが、何と、長老と言われ、世界的な、イダキの名手である、ジャルーの、兄弟だったのだ。

実に、親しげに、話し掛けるのである。
私は、タバコを二人に差し上げた。
すると、私に何やら言うのである。
別のおじいさんが、言った言葉に、野中が、驚いた。

先生、と、私を呼ぶ野中。
ジャルーの、弟さんだよ。
そのおじいさんは、私に、歌を歌う者だと言った。

野中は、おじいさんに、一度逢っていますと言った。
コタです。
野中は、一度、ジャルーに逢いに、ここに来ている。
コタ。
はい、コタです。

それから、驚くことばかりが、続いたのである。

兎に角、ジャルーの弟さんは、私と、以前からの付き合いのような親しさである。
そして、ジャルーは、今日から、ここにいると言うのである。
そこに、家族も、やって来た。
彼の、娘たちである。
私は、皆に、タバコを差し上げた。

暫くの会話である。

ようやく、私たちは、買い物をするために、スーパーに向かった。
野中は、ジャルーが、いると、興奮していた。
逢えるかもしれないという、思いであたろうと、私は、思った。

買い物を、終えて、私たちは、また、来た道を戻ると、先ほどの、家族が、皆揃っていた。
私は、再び、おじいさんの、横に座った。

野中が、何か話す。
お金が無くて、車を待っていると言う。
要するに、タダで乗せてくれる車を、待っているのである。

彼らは、スキービーチに帰るのだ。

私は、それなら、一緒にそこに行くと、言った。
タクシーを呼んでくださいと、家族の人に言った。

娘の一人が、飛び出すように、タクシーを、呼ぶために、走った。
一台の、ワゴン車が来た。
七人、それに乗った。

20ドルである。
私たちの好意を、運転手は、理解したのだ。

その、ビーチは、実に美しいビーチで、昨日のアメリカ人のカップルが、教えてくれた場所である。

15分ほどして、おじいさん、二人が降りた。
私たちも降りて、最後の握手をし、写真を撮った。

そして、娘さんの家に向かった。
その、ビーチの道は、両側に、海があり、見るに値する風景である。

一軒の家の前に、車が止まり、皆が、降りた。
私たちも、降りて、矢張り、写真を撮った。
次に来た時は、来てくださいと、言われた。

車に乗り込むと、運転手が、サービスで、少し辺りを回ってくれた。

そして、その運転手が、何と、ジャルーの、娘さんと、結婚して、私たちが、行くはずだった、ダリンブイに住んでいると言うのである。

出身は、トンガである。
更に、ダリンブイの、若手三人兄弟の、イダキ奏者の、マネージャーも務めているというのである。
野中が、驚いた。
ヨーロッパ公演などしている、グループである。

話は、尽きなかった。
帰り道は、大いに盛り上がった。
次に、来た時は、空港に迎えに来てくれ、ダリンブイに、テントを張り、泊まるようにと言う。
グループの者の、車を使うので、ガソリン代だけでいいという。

彼は、ゴーブに一軒だけある、タクシー会社の社員だった。
タクシー運転手は、ほとんどが、海外から来た者である。

トンガでは、成績の良い者は、皆、他国に出稼ぎに行くという。
彼も、その一人で、ここで、結婚したのだ。それが、ジャルーの娘だった。
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2008年07月08日

アボリジニへの旅 8 平成20年7月

トンガ出身の運転手さんは、トラさんと言った。
すぐに、覚えた。トラさんである。寅さん、であると、私は、勝手に覚えた。

トラさんとは、連絡先を、交換して、次に来る時には、あらかじめ連絡して、ダリンブイに滞在すべく、手配してもらうことになった。

私たちは、街の図書館まで、送ってもらい、別れた。
図書館には、インターネットの設備があるからだ。
無料サービスである。
ところが、日本語での書き込みが、出来ない。
折角だが、ただ、見るだけである。

私たちは、図書館から、歩いてモーテルに向かった。
買い物をしていたので、それを、持ってである。
とぼとぼと、歩いた。

そして、広い芝生の前に来た時、二人の女性を見た。
ヨーと、声を掛ける。
ヨォルングの人である。

それが、また、話し掛けてくる。
何と、ジャルーの娘さんと、孫娘である。

私たちに、ジャルーは、午後から、家にいるよ、というのである。
何も、彼女たちは、知らないはずである。
これは、何としても、ジャルーの家に行けということである。

すでに、昼を過ぎているのである。
もう、ジャルーは、家にいるであろうと、推測した。

私たちは、モーテルに戻り、簡単に食事をして、出掛けることにした。

そこは、イースト・ウディ・ビーチという海岸であるから、私は、そこで、追悼慰霊の儀を行うと決めた。
野中が、何か、お土産を持って行きたいと言うので、それなら、お供え物として、持って行き、それを、最後にプレゼントするといい、ということになった。

早速、裏のスーパーに向かった。
牛肉や、飲み物、紅茶などを、買った。すべて、野中が、選んだ。
それを持って、モーテルに戻り、タクシーを呼ぶ。
来たタクシー運転手は、あのイラン人である。

今度は、どこ、である。
ジャルーの家だと言うと、すぐに、発進した。
有名人であるから、知っているのだ。

15分程で、到着した。
砂浜である。
何件かの家が、建つ。更に、テントも、二つある。
そこには、ジャルーの家族が住んでいた。

私たちは、最初の家に入った。
あっちと、その先を指差す。
何も説明していないが、ジャルーに逢いに来たと、思っている。

後の家が、ジャルーの家だった。
そこに、入った。
ジャルーの娘の一人が、絵を描いている最中だった。
挨拶して、自己紹介した。

その絵は、聖地をイメージしたもので、真ん中に、蛇、そして、周囲に睡蓮の花である。
蛇と、睡蓮の花の組み合わせは、ヨォルングの伝承である。
実に、意味深いものである。

あの、聖地の下には、先祖霊が、蛇の姿で眠っているというものだった。
そして、睡蓮の花の咲く時期は、とくに大切な時期なのである。
先祖の夢が、目の前のすべてのものだという、考え方をする、彼らの、最大のドグマを、象徴した絵である。

彼女の口から、意外な言葉を、聞いた。
本当は、ジャルーは、いるはずだったが、突然、ジャルーの妹が亡くなり、儀式のために、出掛けたというのである。

ここまでの経緯を、考えると、当然、ジャルーに逢うものとばかり、思っていた。それが、違った。

しかし、落胆した表情は、見せなかった。
私は、本来の目的を、野中に、通訳させた。

日本から、先の大戦で、被害を受け、犠牲になった、アボリジニの人々の霊を、慰めるために、ここに来たと説明した。

彼女は、何の違和感もなく、それを、受け入れた。
彼女の、夫や、子供たちも、集ってきた。

説明して、すぐに、私たちは、海岸に出た。
砂浜が続く。その先が、海である。

少しばかり高い場所を選び、供え物を置いて、慰霊の準備をした。
いつもは、供え物は、置かない。

神道の祭壇には、多くの供え物が、並ぶ。すべて、決まっている。
神様に、捧げる、地の恵みである。そして、お神酒である。
しかし、私は、一切、置かない。
あちらが欲するものは、ただ、真心だけであるからだ。

ちなみに、土地の霊位などには、供え物を上げる。産土の神々である。

今回は、お土産として、持ってきた物を、供えた。
それは、また、差し上げる、相手にも受け取りやすいと、思った。

一本の枝を折り、御幣として、捧げた。
そして、神呼びをする。
即座に、祝詞が口を付いて出た。
ここでは、祝詞が、唱えられた。

更に、清め祓いの時に、兎に角、飛び跳ねたい気持ちになった。
それを、抑えて、四方を清めた、そして、追悼慰霊の心を持って、神遊びの、音霊をしばらく発した。
素晴らしく、心が、解放される。

そう、私は、このために来たのである。このためだけに、来たのである。

すべてを終わり、後片付けをして、供え物を、再び袋に入れて、ジャルーの家に戻った。
私たちの行為を、見ていた子供が、すぐに、真似て、拍手を打つ。
小さな子は、全裸である。

供え物を、娘さんの前に置き、報告した。
彼女は、じっと、私を見つめた。
理解している。

儀式を、最も大切にしている、アボリジニである。
説明はいらない。

彼女は、何度も、私たちに礼を述べた。
供え物も、喜んだ。

しかし、皆、一応に、ジャルーが家にいると、私たちに教えたのである。
何故か。
そして、そのジャルーは、妹さんが亡くなり、儀式のために、出掛けた。

皆と、写真を撮った。
子供たちが、楽しそうに、私たちの周りに集う。
写真を撮ると、私の膝に、乗った子もいた。

そして、もう一軒の、娘さんの家に行った。
野中が、娘さんに、話しかけている。
子供たちも、出て来て、私たちに、挨拶する。

ジャルーの孫娘たちは、皆、可愛い。年頃の子は、美人である。
おかあさんが、私に、スピリットは、どうなったのかと、訊く。
野中が、通訳してくれた。

私は、天にあると、答えると、深く頷き、納得した。

実は、この行為も、皆、何の抵抗もなく、受け入れているのである。
その時、車が到着した。
ジャルーの奥さんが、帰って来た。
野中は、奥さんに初めて逢うので、感激していた。
白人男性も、降りて来た。
そして、私たちに、日本語で、挨拶した。
妻と娘が、日本語教師をしているという、日本通の白人だった。

私たちが、奥さんに、事の顛末を説明すると、その男性は、シントーと、言った。
イエス、オールド神道である、と、私は答えた。

奥さんは、大変喜んでくれた。
丁度、イダキの材料となる、ユーカリの木を切り倒してきたと言う。
先ほどの家にも、造りたての、イダキが、何本も置かれていた。
奥さんは、野中に、あなたが欲しいなら、分けて上げると言う。それが、野中の、悩みになるのであるが、後で書く。

男と、女の儀式は、区別されていると、書いた。
夫の、妹が亡くなっても、彼女は、ここにいる。その儀式は、別グループのものである。

また、車が来た。
今度は、ジャルーの後継者である、息子さんだ。
野中も、初めて逢う。
皆が、集い、大変な賑わいになった。

彼は、ジャルーから、すべてを、伝承されている。
つまり、次の長老である。

私は、素晴らしい出会いをした。

ここで、余計なことを書く。
奥さんと一緒に、同行していたのは、キリスト教の、ミッション系ボランティアである。アボリジニたちを、助ける組織を作っている。
そこまでは、よい。
私が、奥さんの、膝を心配して、手を当てて、祈りますと言うと、横から、ここの人々は、キリスト教徒ですと言う。
カトリックかと、訊くと、違うという。
プロテスタントの一派である。
実は、カトリックと、プロテスタントの、ボランティア縄張りの、暗黙の、確執がある。

それぞれが、アボリジニを、信者に、取り込むために、様々な、ボランティア活動を行うのである。

彼は、私を牽制したのである。
他の宗教に、対する態度は、一神教は、特に激しい。

彼らは、それが、偽善であるとは、気付いていない。
非常に、有意義なことをしていると、信じている。
アボリジニの伝承と、伝統を破戒したのも、彼らである。そして、アボリジニの精神を、破壊する行為を続けて、今は、それらを、助けていると、信じているのである。

その、矛盾にすら、気付いていないのである。
重病である。

彼らは、自分たちが、理解出来ないものは、悪であり、悪魔からのものであると、考える。
勿論、悪魔的なのは、彼らである。

自分たちの価値観以外のものを、受容出来ないのである。

彼は、私たちに、非常に好意的だったが、それと、これとは、別物である。

私は、野中から、ジャルーは、カトリックのアボリジニの、まとめ役をしていると、聞いていた。
キリスト教と、上手に付き合っていかなければ、アボリジニの生活が、成り立たないのである。そこまで、追い詰めたのも、キリスト教徒である。

アボリジニたちは、表向きは、キリスト教徒となり、伝承と伝統は、守りつつある。苦肉の策である。
それは、見ていて、痛々しい。

タクシーを呼んでもらい、モーテルに戻ることにした。
その間に、息子さんや、奥さんと、写真を撮った。
息子さんは、少しアホのように、見せる演技をしている。多くの摩擦を、避けたいのであろう。それも、心が痛んだ。
ジャルーの後継者であるということでの、ストレスは、大きいはずだ。
ジャルー亡き後、彼は、すべての重責を負うのである。

様々な、思惑を持った者、大勢いる。
アホを演じていなければ、ならないほど、辛いことはない。
私たちにも、今、サッカーの練習をして来たという。

私の肩を抱き、写真に収まった。

タクシーに乗り、私は、野中に言った。
慰霊の時、どうしても、飛び跳ねたくなった、と。
それは、彼らは儀式の時に、飛び跳ねるからだよ、と言う。
あっ、そう。
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2008年07月09日

アボリジニへの旅 9 平成20年7月

16世紀半ばである。
ヨーロッパの様々な、航海者、冒険家たちが、国や王の命を受けて、オーストラリアにやってきた。

当時は、テラ・オーストラリアスと呼ばれて、知られざる大陸、巨大な富みに埋もれる大陸という、幻想を抱いていたようである。
1515年から1607年にかけては、ポルトガルと、スペインが、黄金の島と、幻の国を求めて、ジャワの南と、東を航海している。

ポルトガルは、1521年から、翌年にかけて、大陸の東海岸に来たが、何も見つけることがなく、引き上げる。
また、1567年に、スペイン人のアルバロ・デ・メンダーニャ、1605年には、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスが、黄金伝説の夢と、更に、カトリックの伝道活動に加え、スペイン領にするために、ペルーから、航海に出たが、どちらも、オーストラリアには、辿り着いていない。

1606年以降、オランダ船が、北部と、西部の海岸を航海し、この地を、ニュー・ホランドと、名づけた。
彼らが、見つけたのは、砂と、ハエ、そして、裸の野蛮人と、奇妙な動物だった。

その後も、何度か、大陸を見つけ出したが、利益になりそうなものを、見出せず、そのまま、置き去りにされる。

価値の無い大陸と、見られた大陸に、目をつけたのが、イギリス人だった。
イギリスが、欲しかったものは、移住者を送ることが出来る、新しい支配地だった。

面白い記述がある。
海賊だった、ウイリアム・ダンピアーという男が、書いた、日記である。
それは、後々、オーストラリアと、原住民に対する、偏見の元となるものだった。

この土地の住民は、世界で一番みじめな人々である。
背が高く、肢体が真っ直ぐ伸び、手足は痩せて、小さく長い。大きな頭、丸い額、隆起した眼を持つ。
顔は長く、不愉快な表情で、決して上品ではない。髪は、ニグロのように黒くカールしている。
肌の色は、ニューギニアの住民同様、石炭のように黒い。
衣服は、身につけていない。腰の辺りにガードルのような木の皮をつけたり、長めの草、三、四本の大枝を、ガードルの中に突っ込んで、裸体を隠している。

特に、彼は、二度に渡って、先住民に関して、生まれつきの醜さとか、今まで出会った多種多様な野蛮人の中で、最も不愉快な外見と最悪の顔の造作をもった人々であると、書く。

これが、アボリジニに対する最初の、そして、以後続く、偏見のはしりとなる。

この当時の、ヨーロッパの考え方が、如実に理解出来る、記述である。
つまり、文明、というもの。
文明人とは、産業世界に生きる人なのである。
そして、最悪なのは、キリスト教徒であること、なのである。

裸でいることは、ヨーロッパの人にとっては、貧しさの何物でもなかった。

彼らには、多く、アボリジニの真実が見えない、見ない思想を持っていたと、言える。
アボリジニたちの、食生活の豊かさなど、思いつきもしないのである。

今でも、そうであるが、欧米、特に、キリスト教徒たちは、自分たちが、理解できないものは、悪であると、考える。更に、推し進めて、悪魔からのものであると、考えるのである。
勿論、悪魔は、彼らの神なのであるが。

時代性というものがある。
野蛮という定義も、変化する。
いつしか、野蛮というものも、文明の悪に侵されていない状態であると、考えられるようになると、高貴な野蛮人という、へんてこな、言葉が生み出される。

1769年から1770年にかけて、ジェームズ・クック大佐の、遠征隊が、海岸部に接触し、正確な地図を作ることになる。

1770年の四月、タヒチから、南に向かったクックは、西に進み、ニュージーランドに着いた。そして、オーストラリアの東海岸に、向かう。
結果、東海岸部を、英国王室のものであるとする、領有宣言をする。

クックの記述を見る。
ニュー・ホランドの先住民は、地上で一番みじめな人々である。
しかし、現実には、我々ヨーロッパ人より、はるかに幸福である。必要以上の情報を得るわけではなく、ヨーロッパで追求されすぎる便利さというものに、惑わされることもない。
彼らは、静寂の中に暮らしている。
地上と海との調和のなかに生きているのだ。
生きるためにすべのものをもっている。むやみに望んだりはしない。
暖かく素晴らしい気候のなかに住んでいるし、空気というものを満喫しているので、衣服の必要性などほとんどない。彼らはこのことをよく知っている。
たとえ衣服を与えたとしても、ただ無造作に砂浜や森の中に、置いておくであろう。
端的にいえば、我々が与えるものなどに、何の価値も見出さないであろう。
自分たちに必要なものは、すべて与えられてあると感じているからだ。
生活は漁業と、狩猟に頼っている。耕作地というものが、ほとんどない。

18世紀の、ヨーロッパの思想は、自然に生きるということは、ロマンティズムとなった。
それが、高貴な野蛮人という、思想である。

しかし、ヨーロッパ文明の傲慢は、その土地を、無主の土地として、イギリス領有宣言し、ジョージ三世国王に、捧げるという、矛盾したものである。

ドリーミング
独自の世界観の中で生きてきた、アボリジニの伝承を、ドリーミングという。それは、文字で、表されるのではなく、絵や、儀式にて、表される。

その中で、白人が来たことを、暗示させるものが、残されている。
私は、学者ではないから、省略する。

結論を言う。

アボリジニの世界観、自然観は、こうである。
目の前にあるものは、すべて、先祖の夢である。

すべては、調和する。

従って、白人に対する態度も、最初は、受け流す、そして、一度拒否する。そして、最後は、受容しようとする。
すべてのものは、調和して、全体の中で生きている、それが、アボリジニの世界観であり、自然観である。それは、また、人生観でもある。

と、このうよに、書くこと自体にも、無理がある。
それは、言葉にできないほどの、強烈なものであると、思うからだ。

私は、日本人として、それを、理解する時、言挙げせず、という、古神道の、考え方に、非常に近いものだと、思う。

白人が来たことを、受け入れるならば、それも、先祖の夢であるから、先祖が、戻ってきたと、考える場合もあるということだ。

だが、白人が来たことは、アボリジニの悲劇の記憶になってゆくのである。

クックの領有宣言の後、イギリスは、使い道のないまま、大陸を放置していたが、フランスの学術隊が、オーストラリア航海をするという報を受けて、俄かに、活気づくのである。

1786年二月、東海岸と、隣接した島々の植民地宣言をするのである。
現在の、ニュー・サウス・ウェールズ州である。
八月には、流刑植民地をつくることを、発表する。

1787年、五月、初代植民地総督、アーサー・フィリップのもと、囚人約780人を含む、1200人を乗せた11隻の第一次流刑船団が、ポーツマス港を、出航した。

1788年、一月二十日、ボタニー湾に到着し、その後、船団は、二十六日、シドニー・コープに、上陸した。

産業革命による、急激な社会の変化に、伴い、犯罪者の増加である。その処置に困り果てた、イギリス政府は、大陸を、最大なる監獄にしようとした。
当初は、犯罪者を、アメリカに、売りさばいていたというから、驚く。ただし、独立戦争後は、不可能となった。
いや、驚くにあたらない。アフリカの黒人を、奴隷として、売りさばいていたのであるから、何とでも、する。

囚人の種類は、二級市民であり、教育を受けていない者が多く、アボリジニの複雑な文化などを、理解出来るような人々ではなかった。
これが、より一層の、悲劇を生むのである。
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2008年07月10日

アボリジニへの旅 10 平成20年7月

白人種を最上層に置き、有色人種を、色の順に並べ、最も色の黒い人種を、最下層におく。
動物は、貝類を最下層にし、昆虫類、魚類、鳥類、獣類をへて、人間の最低の資質に近いとされる、犬、猿、、そして、野蛮な、ホッテントットなどが、くると考えられた。

この、概念は、ギリシャ、ローマ時代から、中世へと、続く。
すべての、生命体は、階層化されていて、その階層には、順列があり、互いに連鎖して、存在すると考える、偉大なる存在の鎖、といわれる、考え方である。

それが、17世紀以降になり、異なる人種を、階層化し、順列をつけるものと、発展した。

更に、私は、それに、キリスト教を、加えるものである。
キリスト教を信じる者が、最上層であるという、傲慢である。

アボリジニを、人間の中での、最下層であり、動物より、わずかに、上の存在として、認識したという。
人類の歴史の中では、もっとも、劣等で、知性は、猿と人の間であると。
物質的文化面でも、文明の度合いからも、ゼロに等しい存在であると、なるのである。

さらに悪いことに、ダーウィンの進化論、種の起源、人間の進化と性淘汰、という、考え方が、拍車をかけたのである。それを、悪用したということである。

この、概念が、当時の人種の概念に、上乗せされて、19世紀の、植民地政策を、推し進めたのである。

更に悪いことが、起こる。
イギリスの、社会学者である、ハーバート・スペンサーは、社会進化論を持ち出して、人種差別を容認する、意見を発表する。
そこでは、競争社会において、生活に失敗した者は、滅びの道を歩むことになるというものである。

私に言わせれば、何のことは無い、弱肉強食の、動物の世界のことであるが、学者となると、社会進化論ということになる。
アホか。

人類の進歩のためには、弱者は、強者に、道を譲るべきだとする、理論が、奴隷制、帝国主義を、推し進めたのである。

社会進化論は、勿論のこと、白人優越主義を、掲げるのである。

西洋文化は、進歩の自然法則に、従い、西洋文化は、世界を支配するように、定められていると、考えるのである。つまり、他の文化は、劣るものであり、滅びるものであるというのである。

ここで、文化人類学者も、よく書かないが、それは、キリスト教文化であるとも、いえる。

ちなみに、西洋文化が、いかに、遅れていたかは、歴史を見れば、一目瞭然である。

西洋が、言うところの、文明国とは、18世紀以降のことである。
それ以前は、世界で、もっとも貧しく、汚い国々であり、知的能力も、劣っていたのである。

文明という言葉は、都市化という意味の言葉の、訳である。
それならば、西洋は、最も遅れていたのである。
だが、都市化というのは、定義が定まらず、それは、つまり、文明というものも、何を持ってなのか、定まっていないということである。

オリエント文明とは、メソポタミア、エジプト文明を指すが、前3500年ほど前に、世界最初の文明と、西洋史は、記すが、誤りである。
それ以前に、アジア、アフリカ、南北アメリカには、文明が、存在していたのである。

ヨーロッパは、アラビアからの学問と、ギリシャ、ローマからの、考え方をもって、ルネサンスを起こした。そして、略奪によって、東洋と、同等に、相成ったのである。
ちなみに、ギリシャ哲学も、アラビアからの、逆輸入であるから、驚くのである。
すでに、アラビアでは、ギリシャ哲学が、翻訳されていたのである。

インダス文明が持つ高い文化が、ヨーロッパに現れたのは、18,9世紀なのである。

まだまだ、いいたいことはあるが、この辺で省略する。
ちなみに、イギリスに、小麦パンが、一般的に普及したのは、何と、18世紀に入ってからである。
つまり、中世では、農民は、小麦のパンを食べることが、出来なかったのである。

さて、社会進化論を、信じた、ヨーロッパ人は、植民地において、先住民に対して、好き放題である。
搾取は、勿論、残虐行為も、なんのその。
19世紀は、世界が、西洋によって、植民地化されてゆくなかで、西洋人以外は、人間性を、奪われるという事態に発展するのである。

アボリジニだけの、問題ではなくなってきたが、オーストラリアでの、アボリジニと白人の関係は、極めて悲劇的なものになったのである。

人種問題の根源は、社会進化論と、キリスト教の影響を、見逃すことは出来ない。

もしもヨーロッパ人がこの大陸に足を踏み入れなかったら、アボリジニは文明に達する道を閉ざされていたであろう。我々は彼らが消え去るのを嘆く必要はない。我々のできる最善のことは、せめて滅びる前の最後の日々を、なるべくみじめでない状況で見送ることである。

これ、学術書に書かれる言葉である。

アボリジニの滅亡は、単に、彼らが持ち込んだ、伝染病と、虐殺である。
劣等人種は、優劣人種に道を譲る。それが、自然の法則である。
それの行為が、何故、許されたのか。
キリスト教の、後ろ盾である。そして、武力と、偽物の科学である。

キリスト教、カトリック、プロテスタント、共に、手のつけられない、独善を持って、アボリジニに対処した。
政治の影に隠れて、今まで為したことの、謝罪など、全く無い。
さらに、今では、アボリジニ側に立つ者であり、彼らを保護していると、思い込む辺りは、救いようがないのである。

順に、彼らの行為を、検証するが、多くの学者は、この問題に触れないのである。
何故か。
チャーチと、チャペルを、敵に回すことが、出来ないからである。
だから、私が言う。

最も、今、ミッションたちの、助けがなければ、アボリジニたちは、困るのである。
そこまで、追い込まれてしまったのである。
だが、私は、真実を書く。
私など、書いたところで、何程のものでなし。
それで、アボリジニの皆さんを、苦境に陥らせることはない。

現在の、オーストラリアの問題は、国家を造るべくの、国家幻想の元であるところの、それは多く、神話による。
神話のある国は、それだけで、国家幻想と成り得るのである。

オーストラリアから、アボリジニを、無くせば、国家の幻想が、無くなる。つまり、神話を、持てないのである。また、新しく、創り出すことは、出来ない。
何故なら、それには、伝承と、伝統が、必要だからである。

私が、追悼慰霊行為を、するのは、天皇陛下のためであると、言ってもよい。
天皇陛下に、お返しする行為と、言っても、問題ないのである。
何となれば、天皇は、日本の神話を、有し、さらに、国家幻想の、理想的な、在り方であるからだ。

今、2668年の伝統の、家系など、作ることなど出来ない。
あの、あのである。共産国の、ソ連が、崩壊し、ロシアと、移行する際に、最も、必要としたものは、神話であり、幻想だった。
それを、一部の知識人たちは、ロシア正教に、求めた。
日本の、国家神道のようなものに、出来ないかと、考えたのである。

ロシアに伝統があるとしたら、ロシア正教くらいだという、驚きである。

オーストラリア政府は、今年の新年に、アボリジニに正式謝罪をしている。
その、同化政策である。更に、親子分離政策にである。
親子分離政策については、後で書く。

オーストラリアは、ゲイパレードで、世界一である。
ゲイだけの村もあるほどだ。
さて、このゲイは、マイノリティーとされて、長い間、辛苦の差別を受けていた。しかし、ここ、ここに至って、政治家を始めとし、あらゆる分野の人々が、ゲイパレードに参加するという、事態である。

アボリジニの差別を、最も理解出来るゲイたちが、更に、気勢を上げると、オーストラリアは、変化せざるを得ない。

アボリジニの神話、つまり、伝承と伝統を、必要不可欠とするのである。
オーストラリアには、アフリカを超える歴史がある可能性もあるという、仮説を立てて、研究も出来る。その際に、アボリジニの、研究が、欠かせないのである。

日本には、古事記、日本書記以前に、国記が、編纂されていたという、事実がある。
聖徳太子が、それに、当たったといわれる。
しかし、それ以前からのものもある。
これが、国家幻想を育てる、神話と、成り得るのである。

私は、日本の古代史を、みるにつけて、一度、ペルシャに渡り、再度、富士山麓に、王朝を拓いた、富士王朝をみている。
その、歴史を加えると、現在の天皇までに、9100年ほどの、歴史がある。

神話を、言い伝えとも言う。
言い伝えを持つ、民族は、生きるに強い。
そして、それぞれの民族にある、神話を、それぞれが、認め、尊重すれば、和を持つことが出来る。

それのない、共産、社会主義の国々は、未だに、迷いにある。
しかし、民が、倒れないのは、それとは別に、伝統としての、行為、それが、宗教行為であっても、あるからである。

王朝が、変わっても、タイには、仏教と、ピー信仰の伝統がある。
タイという国を、作るのは、その、伝承と伝統である。
それは、至るところの、民族にある。国にある。

オーストラリアの、これからを、考えることによって、再度、自国の伝承と伝統というものを、意識してみる。

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