2008年06月11日

タイ旅日記 11 平成20年6月

昼近くになり、私たちは、結婚する妻の家に、向かった。

その家は、おじいさんの家のすぐ側である。


すでに、人が集い、婿のお兄さんが、舞台で、酒を酌み交わしていた。

舞台といっても、地面に、蓆を敷いたものである。


その、四隅に、柱をつけて、その柱に、豚の首を下げている。

丁度、私たちが、言った時に、豚の解体が、行われていた。


私は、普段見ることが、出来ないものだから、じっと、それを、見ていた。


頭を取られた豚は、胴体である。それを、どんどん、細かく、切り刻んで、一つの袋に入れる。

それを、女たちが、また、小さくして、揚げ物や、生肉を刻んで、野菜と混ぜて、料理を作る。

その、混ぜ合わせたものを、食べようとした時、小西さんに、止められた。

生肉の、豚は、危ないのである。


小西さんは、それを食べて、中毒を起こしたと言う。

それで、私と、野中は、食べるのを、止めた。


新婦はいるが、新郎は、まだ、いない。

新郎を待つ。


その間に、私は、例のおじさんに、連れられて、耳の聞こえなくなった、おじさいんの家に、連れて行かれた。

そして、私に、耳を見てくれというのである。


耳が遠くなった、おじいさんである。

もう、しょうがいないと、思いつつ、私は、手当てをした。

耳と、頭の後ろに、手を当てた。

おじいさんは、それを、温かいと言う。

言葉が、解らないが、そう言っているのである。


私は、日本語で、少しつづ、良くなりますよと、言った。

気休めである。

しかし、おじいさんは、真剣に、聞いた。


少しして、また、おじさんが、今度は、また私の手を取り、自分の家に、連れてゆくのである。


少し歩いて、そのおじさんの家に行った。

その、おじさんの家であることは、すぐに解った。

二人の子供に、私に、ご馳走するために、マンゴーと、梨を木に登らせて、取っていた。

それを、私は、窓から、見ていた。


おじさんは、私のために、マンゴーの皮を剥き、小さく斬って、皿にのせて、私の前に置いた。


熟した、マンゴーは、美味しかった。


そして、昨夜、手当てをした、右足を出して、やはり、痛むという。

私は、再度、右足に手を置いた。

リンパが瘤のように、張っている。


これは、リンパ癌の、疑いがあると、思った。

しかし、言わない。


その時、小西さん夫婦が、やって来た。


私は、それを、小西さんに話した。

この痛みは、単なる疲労の痛みではない。リンパが腫れていると。


私は、痛み止めと、抗生物質を持っているので、それを、差し上げようと、思った。

眠られないほど、痛いと言うのである。


昨夜は、確かに、痛みが、治まったが、それは、一時的なことだった。


私は、この村にも、医療が必要だと、思った。


昔なら、癌でも、そのまま、亡くなる。

そして、原因不明である。

それで、良かった。しかし、今、現在の状態では、治る見込みがある。


後で、小西さんの家に、薬を取りに来るようにと、告げて、貰った。


何とも、不思議な、縁である。

おじさんは、私を、全く信じているのである。


小西夫婦と、私は、また、結婚式の場に戻った。

しかし、中々、新郎が来ない。


そんな中で、一人のイギリス人の女性と、会った。彼女も、この村に滞在していた。

彼女は、少数部族を研究し、それを、保護する仕事をしている。

野中の英語を通して、話した。


以下、その内容である。


彼女は、ケルト民族の子孫である。

お祖父さんの、そのお祖父さんの代に、ケルトの文化が、キリスト教、カトリックによって、禁止された。言葉も、禁止されたという。

私は、日本の古代の文化と、ケルト文化は、共通していると、言った。

彼女は、どんなところですかと、尋ねる。


言葉です。

文字が、無かったと、言われていますが、話し言葉があったということは、文字もあったのです。

そして、文字は、神であるから、多く使わなかったと言うと、彼女は、涙を流さぬばかりに、感動していた。


結果、彼女は、私に、あなたに師事して、日本の文化を、学びたいと言った。

お互いに、連絡先を、交換した。


メールにての、やり取りで、付き合うことになった。


これも、出会いである。


シンバルと、太鼓が鳴った。いよいよ、新郎の登場かと、思ったが、これから、新郎を皆で、迎えに行くという。


私たちは、皆の後に続いて、新郎を迎えに行くことにした。

しかし、時間は、迫っていた。

もうすぐ、三時になるのである。

あと、一時間しかない。


誕生と、結婚と、葬儀が、大切な行事であると、小西さんが言った。

一生に、二度とないのである。


結婚式は、三日続くと言う。

豚、四頭を使うのである。そして、牛、一頭である。

男たちは、皆、飲み続ける。


私たちは、皆の後ろについて、新郎を迎えに出た。

道の真ん中で、新郎を迎える。

シンバルと、太鼓が、派手に大きな音を立てた。

新郎が、車で来た。そして、降りて、皆の前に姿を、現した。


実に、大袈裟である。

だが、大袈裟であって、いい。彼は、これで、一生、妻の家に入るのである。

シンバルと、太鼓が、大きな音を立てた。


私たちは、道端に、敷かれた舞台を、見ていた。

そこで、祈りが、行われた。

長老たちが、ぶつぶつと、伝来の祈りを、唱える。


そして、酒の回し飲みである。

私たちは、それを、見ているだけである。その中には、入れない。


ただ、私の前にも、盃が、差し出された。

彼らの好意である。

それを、一気に飲む。


御目出度い席に、参加して、私は、ただただ、感激である。



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2008年06月12日

タイ旅日記 12 平成20年6月

新郎を迎えた皆は、道端で、祈りを上げて酒を飲み、そして、いよいよ、新婦の家に、新郎を連れて行く。


私たちも、その歩みに従った。

シンバルと、太鼓の音が、鳴る。

ゆっくりと、皆が新婦の家の道のりを、歩く。


新郎が、新婦の家に到着すると、舞台に、座る。

いよいよ、結婚の儀式が、始まる。


長老たちに、酒が回されて、その盃を持ったまま、祈りが、始まる。

皆、手を合わせて、それが終わるのを、待つ。


祈りが終わると、それぞれの盃の酒を、新郎新婦が、飲み交わす。

日本の三々九度のようである。

これから、新郎は、酒を、飲み続けるのである。

それが、延々と繰り返される。


今度は、注がれた酒を、飲み干すのである。次々と、人が入れ替わり立ち代りと、舞台に上がり、新郎は、盃を、交わす。


この舞台を見て、私は、古神道の、結界を思い出していた。

四本の柱は、注連縄で、囲ってあるのだ。

実に、不思議な光景である。


私たち、列島の民族も、大昔は、このように儀式を、執り行っていたのであろうと、推測した。

緊張感と、緩やかな、規制である。

祈りの時でも、お喋りしている人もいる。

誰も、何も規制しないのである。

要するに、変に真面目くさっていないのである。


新郎新婦は、酒を飲み交わすと、互いに手を洗う儀式をするという。

私は、テントの張られたテーブル席で、それを、待ったが、新郎の酒の酌み交わしが、中々終わらず、時計を見つつ、気を揉んだ。

それを、見てから、チェンマイに戻りたいと思った。


出発予定時間の、四時が近くなる。

野中が、私の側に来たので、最後の写真を、撮る。

丁度、女の子たちのグループがいて、彼女たちとの、記念撮影である。

そして、二人の男の子である。

ところが、一人の男の子が、写真撮影を、嫌がる。


野中が、言う。

あの子は、頭が良くて、何でも良く出来るという。しかし、口が利けない子だという。

私は、その子を見るために、立ち上がった。そして、彼に、近づく。すると、その子は、逃げる。

日本語で、私は、あなたの味方になりたいと、言う。


私と、野中は、その子を、追い掛けた。

その子と一緒にいた男の子も、説得している。

一緒に、写真を撮ろうと、言っている。


結局、彼が、何故写真を撮られるのが、嫌なのかが、解った。

非常に強い美意識である。

今日の、自分の姿は、みすぼらしい。そして、髪も、きちんとしていない。


女の子たちが、寄って来て、彼の髪型を直し、服を調えている。

私も野中も、彼の中にある、あるモノを見た。

洗練された、美意識である。


頭脳明晰、読み書きなどに優れて、何でも、すぐに覚える。

耳も聞こえる。

何故、話さないのか。

それが、理解出来た。


私たちとの、出会いで、彼は、生き方があることを、知るべきだと、思った。彼の生きる世界は、別の場所で、多々ある。

世界は、動いている。

カレンの村から、世界に、羽ばたいてもいいのだ。


彼と、友達が、写真に、収まった。

野中が言う。

この子、凄い美人だよ。

その通り、美人である。


匂うが如くに、少年の美しさがある。そして、彼は、それを、自覚している。

その、自覚こそ、彼を生かすものになるはずである。


自分の、みすぼらしさを、嫌悪するという、心の高まりは、彼を、いつか天才にすると、私は、思った。


さて、新郎新婦が、手を洗うという儀式が、始まらず、五時に近くなり、私は、小西さんに、そろそろと、言った。

戻る時間である。

名残惜しいが、これで、最後ではない。これが、始まりである。


私たちは、儀式の席から、離れて、家に戻った。

そして、急いで、帰り支度をした。

私は、赤い絽の着物を脱ぎ、タイパンツと、Tシャツにした。

カレンの村にいる間、私は、すべて、浴衣と、着物で過ごした。

私の、礼儀作法である。


その日の朝、少しの時間を、田圃で過ごした時、皆に混じって、田植えをした時も、浴衣を、まくって、稲の穂を植えた。

この村の人と、仲良くすることから、これからの、活動が見えてくると、思った。


次に来た時、あら、しばらくだねーと、言われたい。


最後に、私は、カレンの湧き水で、体を清めた。

清め祓いをした。

決して、日本では、水などを、かぶることはない。

いつも、銭湯に行き、そこで、清め祓いをする。お湯である。水でなければ駄目だなどとは、一言も、誰も言っていない。

お湯も、水である。

寒中に凍てつく水で、清めるという、偏狭な行為はしない。


車に乗り込み、奥さんと、お別れする。

奥さんと、娘さんだけが、見送る。


あっという間の、出来事だった。

車が、山々の中を走り、アスファルトの道に出ると、すぐに、チェンマイに着いた。


チェンマイですら、別空間に思えた。

今までの、あの風景、空間は、何だったのか。


チェンマイでの二時間あまりのうちに、元の感覚を取り戻す。

いつもの、時間感覚である。

インターネットカフェに入り、画面を見て、いつもの感覚に戻る。というか、戻す。


小西さんは、私たちを、また、迎えに来て、空港まで、送るという。最後まで、私たちの、面倒を見てくれるのだ。


次の準備のことが、早めに終わり、私たちは、オープン食堂に、向かった。

チェンマイカレーの店である。

辛いが、美味しい。そして、もち米で、カレーを食べるのが好きだ。

二人で食べても、300円程度である。


食べ終えて、待ち合わせの場所に行くと、小西さんも、少し早めに来ていた。

いよいよ、帰路である。

バンコクに一泊して、都会の喧騒に入り、そして、日本に戻る。


ここでは、おとうさんと、色々話し合ったことなどを、省略している。

実は、おとうさんと、日本の農業について、話し合ったのである。

日本の農業を説明すると、おとうさんは、例え話で、私たちに、話してくれた。

世の中と、隔絶されていようと、物事の本質が解る人には、現代の先端の文明化が、理解出来るのである。


自分たちの村で、食べる分だけ、米を作るという、考え方をする。そして、自然を大切にする農法である。

少し、彼らの、信仰や、農法について、書いて終わることにする。


空港で、チェックインをして、小西さんと、レストランで、話した。

名残惜しく思えども、また、再会するのである。

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2008年06月13日

タイ旅日記 13 平成20年6月

カレン族の村、トゥンルアン村について、少し書く。


農業を中心とした、自給自足の生活が基本である。

さらに、この村は、カレン族の、伝統が生きており、他のカレン族の村から、それを学びに来るといわれる。


自給自足の生活というものを、現代の日本人は、想像も出来ないと、思える。

唯一、文明の利器は、電気のみである。


米を主食にして、野菜、香草を採り、川では、小魚、カニなどを捕る。そして、農作物は、トウモロコシ、キャッサバ、トウガラシ、レタス、キャベツ、ナス、大豆、更に、果物では、柿、梨、梅を栽培している。

また、バナナ、マンゴーなどは、自生しているのである。


農作業は、基本的に、機械を使用しない、人手である。そのため、村人は、一致協力体制である。

労働力は、労働力で、お返しするという、相互扶助の精神に溢れる。

田植え、稲刈りは、村人総出で行う。

私も、一緒に田植えをしてみたが、30分ほどでも、腰が、大変だった。


しかし、現金が必要にものも多い。

基本的には、お金に依存する生活ではないが、タイという国に住んでいる以上は、必要なものもある。

電気代、衣服、バイク、車、そして、教育費、最低限の農薬などである。


村では、レタスなどを、売って現金を得る。

ただし、蓄えるための、お金ではないということ。

これからの問題は、いかに、このままの生活を維持してゆくかである。

近代化の波が、寄せてこないということは、無いのだ。


私が、見た限りでは、何も必要が無いように見えた。

きっと、電気がなくても、大丈夫である。

自然にあるもので、十分に生活が出来る。つまり、最も、強い生活力を持っていると、いえる。

理屈ではない、「あるがまま」の生活を続けてゆくことは、幸せであるという以外に、無い。


さて、仏教が、約300年前に入ってきて、仏教信仰もあるが、最も基本的なものは、伝統行為である。

それを、精霊信仰と、呼ぶが、私は、あえて、伝統行為と言う。

精霊というものを、広げると、山川の神、水火の神、その他、多くの自然精霊ということになる。

これは、学術用語である。


古代から、人は、自然の恵みと、その厳しさの中で生きてきた。

当然、自然に感謝し、自然を畏怖する。そこに、また、祈りの姿勢が、現れる。当然である。

自然との、共生、共感である。

それは、伝統行為である。


すべの存在に、霊が宿る。


家代々の祈りを、伝承して、祭りの時に、それを、唱える。家々で、別の祈りの言葉が、伝えられるという。

統一された、祈りの言葉はないのである。

何と素晴らしいことか。

つまり、それを、宗教形態の団体とするような真似ではなく、自然発露としての行為に、高めるのである。


司祭は、いない。

皆、男は、司祭になる。

年老いると、長老として、務めるのである。


要するに、職業司祭はいない。


邪馬台国といわれた、一部地域の部落が、日本にもあったが、単に発見された地域のことである。

多く、そのような、部落はあった。

邪馬台国といえば、何やら、大袈裟な物言いになるが、大陸の国に、発見されたことを、単に喜んでいるだけである。


そんな、部落が、大勢あったと、考えるべきである。


カレン族の村が、沢山あるようにである。


部落が、部落同士で、影響を与え合い、更に、結婚などを通して、交流を深めたはずである。

今でも、カレン族には、夜這いの風習がある。

それは、セックスをするのではない。

親の元で、気に入った男と、娘が、話をするというものである。

そして、父親が、その男を、気に入らない場合は、何と、男が帰った後で、木の実を潰すための、鉢を棒で叩くのである。

コンコンコン、コンコンコンと、響く。

それを、聞いて男は、アア駄目だと、諦めるのである。

しかし、そんなに耳がよいのだろうか。

遠くに帰る、男の耳だけに、響くのか。

だが、父親が、それをすると、男は、二度と家に来ないという。


それとも、それを聞いた誰かが、その男に教えるということも有り得る。


さて、儀式を見た私は、その緊張感と、弛緩の、微妙な感覚に、驚いた。

単に、緊張するばかりではなく、リラックスして、儀式を行う。

祈りの間に、私語をする者もいると、言った。

あまり、儀礼に拘らないのである。しかし、儀式は、する。


酒の回し飲みというのが、最大のポイントである。

同じ盃を、酌み交わすとは、戦いの前の、武士と同じである。

命の盃とも、いえる。


それで、村の男たちは、一体になる。

そして、女たちである。

儀式の際には、遠巻きで、眺めている。

料理を作り、男たちの、儀式を、助ける。


これは、差別であろうか。

当に、区別である。

女系であると言った。女たちは、男たちを、尊重し、また、男たちは、女たちを、尊重する。


伝承の、仕来りを教えるために、山に七日間、男の子たちを連れて、籠もるという。

それも、強制ではない。希望する者にのみ、伝える。希望すれば、年齢は、関係ない。


小西さんの、義理のおとうさんが、その役目であると、聞いた。

その、おとうさんの、剣舞を見せて貰った。

結婚式の中で行うが、私たちが、見られなかったらと、おとうさんは、結婚式の前に、家の中で、見せてくれた。

無音の中で、舞う、剣の舞である。

儀式の中では、音を出す場合もあるという。


長年に渡り、伝承されてきた、剣舞である。

大振りの、舞は、しなやかで、威風堂々として、威厳に満ちたものである。


先に、お弟子さんに、見せてもらったが、矢張り、年輪である。

歳を取ることが、重んじられる。


さて、食事をする際に、テーブルなどないゆえ、床に置く。

それを、囲んで食べる。

女は、その中に入らない。


食べ残したものは、すべて、豚、鶏、犬などが、食べる。

私が、バナナの皮を、捨てると、豚に上げてくださいと、言われた。


何一つ、無駄なものはない。


豚肉を、脂で揚げていた、おばさんが、私に一つと、差し出した。熱くて、受け取れない。すると、一人のおばんが、バナナの皮を、持ってきてくれた。

そうか、皿もいらないのか。


もち米も、バナナの葉に包んで、ふかすのである。

それを、開けて食べる時の、嬉しさはない。


そろそろ、書き止める。

色々と、あった。帰国してからも、色々と、思い出した。

あの、暗闇の夜の夜。

言葉にすれば、嘘になると思いつつ、矢張り、あの闇は、貴重である。

抱かれる闇。

恐ろしくない闇。

光を神と、呼ぶが、闇というものも、神であったと、私は、深く反省している。


闇をも、神と思わせる、夜の闇の闇である。


あの、伝承を破戒しようとする者が現れれば、私は、命を賭けて戦う。


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2008年06月14日

タイ旅日記 14 平成20年6月

バンコク、スクンウィットは、人種の坩堝と言われる。

私たちは、深夜を過ぎて、その街に到着した。


やはり、タクシーは、公的機関の乗り場でも、ボルのである。

結局、高速料金と、手数料という、名目で、500バーツほど、払った。

だが、声を掛けてくる、タクシーの勧誘では、これが、倍の1000バーツ以上になる。


帰りのタクシーは、メーターで、180バーツほどだった。

それでも、タクシー運転手に、声を掛けて、ハウマッチとか、タオライカップと、尋ねるのである。

野中が、もう、交渉に疲れて、私がした。


ゲストハウスは、一泊600バーツである。明日の、夜12時までだと、二日分になると言われて、とりあえず、一日分を払った。


チェンマイで、買った、パンと、水を飲んで寝た。

もう、どこにも、出掛ける気力は無い。


どうして、ここに来たか。

それは、格安航空券と、時間待ちのためである。

そして、この喧騒を、もう一度だった。


イスラム圏の人々、インドや、アフリカの人々、よく解らない人々を見るためである。


至る国の料理もある。

私が好きなのは、インドカレーの店である。

一人で頼んで、とんでもない量を出されて、驚いたが。


朝、私たちは、路地のタイ人向けの、出店に行き、お粥を食べた。

私は、エビ、野中は、魚である。

丁度よい量であり、朝の食事にぴったりである。


向かいの、出店の、オレンジジュースを買って、お粥の出来上がりを、待った。

オレンジジュースは、搾り立てである。

甘くて、美味しい。


さて、私たちの、お粥が出た。

箸もつけてくれたが、スプーンで食べる。


日本人とは解らないかと思いきや、解るのである。

隣の店のおじさんが、豚足の揚げたものを、見せて、どうだと言う。

朝から、豚足は、無理だし、私は、食べられない。

笑顔で、断る。


一杯、40バーツ、約130円程度である。

そのまま、水を買い、ホテルに戻った。


野中は、自分の取材のために、出掛ける。

私は、夜の12時まで、何をするかを、考える。


まず、199バーツの、フットマッサージをすることにする。

その辺りで、一番安い店である。

しかし、他の店も、覗いて、料金と、内容を確かめる。

前回、イサーンから来た、女の子にしてもらって、上手だったので、矢張り、安い店に行くことにした。


その子は、いなかった。辞めたのか、店を変わったのか、尋ねる言葉が、出ない。

新しい、女の子が、ついた。

何処の出身と、尋ねると、ノーンカーイという。イサーンではないか。矢張り、出稼ぎである。家族は、皆、ノーンカーイにいるという。


フットマッサージである。

巧い。

一時間コースであり、私は、昼ごはんを食べた後、その子に、タイマッサージをしてもらおうと思った。


少し、ぶっきらぼーであるが、巧いので、いい。

英語は、少し、日本語は、全然解らない。それが、いい。私の英語が、通じるのである。


帰りに、また、昼過ぎに、来ると言っうと、オッケーと答えた。

次は、タイマッサージでと言う。


一度、ゲストハウスに戻り、足を洗って、すぐに、インド料理の店に出掛けた。


店の前のケースに入っている、カレーを指差して、チキンカレーと、野菜カレーを選んだ。そして、ご飯である。


ありがとう、を繰り返す、ボーイが、相手をしてくれた。ただし、ありがとうが、喧しい。それに、イントネーションが、変なのだ。


テーブルの上にある、水のボトルから、勝手に水をコップに、注いで飲んだ。

中々、持ってこない。

漸く、カレーが運ばれて、驚いた。

二人分もあるものが、二皿である。そして、大盛りのご飯。

見るだけで、胸が、一杯になる。


まず、チキンカレーから、手を付けた。

旨い。

そして、野菜カレーである。

辛くて、旨い。

ご飯と、交互に食べる。

しかし、量が減らない。


ついに、食べるのを諦めて、持って行くことにした。

テイクアウトだったか・・・と、思いつつ、一人のボーイに声を掛けて、小さな声で、テイクアウトと言った。

ボーイが頷いて、カレーの皿を持った。

ご飯もと、私が言う。


ボーイは、それを、小さなビニール袋に詰め始めた。

その時である。

最初のボーイが、そのボーイと、何か言い合った。

私のカレーのことかと思いつつ、見ていると、別なことらしい。


二人の争う声が、響いた。

一人の、タイ人の、ボーイが、中に割ってはいる。

今にも、殴り合いになりそうなのである。

皆、汗を流して、仕事をしている。

忙しいのだ。


私のカレーを持っていったボーイが、私を見て、精一杯の、笑顔である。

その顛末を見ていたので、私は、笑顔が作れない。


清算する時も、そのボーイを呼んだ。

そして、その時、彼に、チップを渡そうと思った。


170バーツである。

おつりの出ないようにと、財布を確認しつつ、チップの額を考える。

えーと、彼が、私の紙幣を、決めてくれた。

そして、受け取り、去ろうとしたので、私は、20バーツ三枚を出して、チップと、言った。彼は、スッとそれを、受け取った。

スマートである。

これで、少しは、気が収まればいいと思った。


全部で、230バーツ、約800円程度である。


それから、一時間ほど、ベッドで、休んだ。

夜の飛行機だと思うと、眠ることが出来ない。飛行機で、眠らなければと思うのだ。

少し、うとうとした。


時計を見ると、三時である。

再度、マッサージ店に行く。

歩いて、3分程度の路地である。


先ほどの女の子がいた。

笑顔がないのは、イサーンの人の特徴である。

客は、誰もいない。私だけである。

奥のブースに案内された。

普通は、着替えを渡されるが、私は、そのままが、マッサージの姿である。

そのまま、そこに寝ろという感じである。


マットに、寝ていると、女の子が来た。

足から始める。

タイマッサージの特徴は、足である。徹底的に足を揉む。

足が楽になると、体も楽になる。

力も強い。満足である。

これなら、オイルマッサージでも良かったと、思う。


次に来た時、オイルマッサージをすると言うと、彼女は、そけっなくオッケーと答えた。

普通なら、いつ来るのとか、何とかかんとか言うが、無愛想である。

しかし、それが、また、いい。


一時間を終えて、料金を払う。

またね、と言うが、ウンと頷くのみ。

本当に、また、来てやろうと、思った。

外に出ると、酷い音である。


スコールだ。


見る見る街の中が、水で溢れる。

傘も無く、さて、どうするか。

目の前の、インターネットカフェに入ることにした。そこで、雨宿りである。


約、30分ほど、自分のホームページを見ていたが、雨が止まない。

しょうがなく、料金を払い、外に出た。

走るしかない。

私は、軒先を走って、ゲストハウスに戻った。

それでも、びしょびしょに、濡れた。


すぐに、服を脱ぎ、シャワーを浴びて、窓から外を見た。

水かさが増して、街中は、水で溢れている。

水を漕ぐように、人が歩く。


私は、そのまま、ベッドで眠った。

野中が帰る、夜の九時まで、寝ていた。


いよいよ、帰り支度である。


野中は、スコールで、足止めされて、遅くなったという。

二人とも、疲れのせいか、口数少なく、帰る準備をした。

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2008年06月15日

タイ旅日記 15 平成20年6月

今回の旅の、顛末も、これで終わる。


夜中の一時過ぎに、空港に着いた。

まだ、チェックインまで三時間ある。一階の、ロビーに降りた。


24時間体制の空港である。

煌々と明かりが、眩しい、空港内である。


野中は、疲れで、ベンチで寝ていた。

私は、一階に出来た、空港で働く人たちの、食堂に入った。

色々な店がある。屋台である。


まず、入り口で、チケットを買う。しかし、幾ら買えばいいのか、解らないので、店を見に回る。

麺類を選んで、その料金を見る。

45バーツの、ラーメンに似たものにした。

入り口に戻り、45バーツのチケットを買う。それを持って、店に行き、チケットを出して、丼を指差した。


女の店員は、すぐに、目の前で作ってくれる。

それを、持って席を探した。

深夜であるが、結構な人がいる。


味は、薄い。要するに、自分好みの味にして食べるように、調味料が、置かれてある。

しかし、私は、そのまま、食べた。

日本のラーメンの半分の量である。


食べ終わり、そのまま、外に出て、タバコをふかした。

今度は、あの、若者はいない。


野中の所に戻り、私も、椅子に横になった。

少しうとうとするが、眠られるものではない。

何度も、トイレに立った。そして、何度も、タバコを吸うために、外に出た。


警備員、職員の人と、何度も顔を遭わせているちに、挨拶するようになった。

これで、言葉が出来れば、もっと、コミニケーションが取れるのにと、思いつつ、タイ語は、難しいと、諦める。


一度は、挑戦したが、兎に角、頭が悪いので、覚えられない。暮らすと、覚えると、言い聞かせて、いずれ、暮らしてやると、思う。


3:30、掲示板を見ると、チェックインが、開始された。

私は、野中を起こして、荷物をカートに入れて、いざ、と、エレベーターに向かった。

四階が、出発ロビーである。


すでに、他のお客さんが、並んでいた。

アメリカの飛行機会社は、検査が、厳しい。

いつもと、同じことを、尋ねられる。


荷物を預けて、出国手続きをする。

そして、搭乗口に向かう。


時間があるので、アイスクリームを食べることにした。

矢張り、館内は、森閑としている。

いつもの、店に立ち寄る。

いつもの、アイスクリームを注文する。


そこで、少し時間を潰す。

それじゃあ、行くかと、立ち上がり、向かいに出来た、新しい店を見て、アラ、アイスクリームの値段、こっちが、安いよと、大声で、言う。

これ、おばんさん化である。


今度は、こっちにしようと、野中に言いつつ、歩く。


再び、手荷物検査である。

搭乗口に入る前に、再度、検査がある。

そして、更に、搭乗口の部屋に入る前に、もう一度、検査である。

だんだんと、苛立ってくる。


何度、みせりゃあいいんだと、怒鳴りたくなるのを、我慢する。


液体物云々である。

アメリカの会社は、実に、丁寧に調べる。

中には、鞄の中を、すべて曝け出して見せている人もいる。


実は、来る時、係官に、鞄の中に液体物は、ありますかと、尋ねられて、あるかもしれないし、無いかもしれないと、言った。

出して下さいと、言うので、どこにあるか、解らないと言うと、見せてくださいと、言う。

鞄を開けて、少し、洗顔用具の液体を出す。

これだけですか。

袋に入れてください。

無い。

すると、係官は、袋を持って来た。


悪いと、思いつつ、時間を引き延ばした。

しかし、さずかに、引き下がらない。

結局、液体物は、それだけである。


野中が、それを見ていて、もう、機内に持ち込まないで、預ける荷物に入れてよー、と言う。


そうすることにした。


私の好きな、ガルーダーインドネシアは、アメリカから、危ない会社に指定されていた。

だが、私は、検査が少なくて、大好きなのだ。

落ちたら、死ぬだけでしょう。

テロに遭って、落ちる。いいねー、そんな風に、死にたいよー


また、その評判があるのか、客が少ない。

それで、私は、座席を占領して、ぐっすり、眠られるのだ。


機内に入り、扉が閉まるのを、待つ。

出発準備が整いました。という、アナウンスを聞くと、すぐに、周囲を見渡し、開いている座席を探す。

四席空いていると、すぐに、そちらに移る。

そうすると、体を横にして、眠られる。


今回も、空いていた。

すぐに移り、席を確保して、安心である。


矢張り、食事の時以外は、眠っていた。

飛行機の、揺れが、眠りを誘う。


10年ほど、飛行機に乗られない時期があった。

パニック障害である。

これには、色々と説明がいるが、省略する。


入国を済ませて、荷物を引き取ると、すぐに、バスのチケットを買う。

15分ごとの、バスであるから、便利である。

それで、横浜に到着して、旅が終わる。


二週間後は、オーストラリアである。

そして、それが、終わると、10月後半まで、日本にいる。


10月後半は、再び、タイに、10日間の、旅をする。

次は、ゴールデントライアングルの、追悼慰霊をする。そして、ビルマのタチレクに入り、再び、追悼慰霊をして、子供服支援をする。


ただ、小西さんから、子供たちに、お金を上げることは、止めた方がいいと、言われた。それは、背後に、大人がいるということである。

ストリートチルドレンを使い、金を集める者もいるのである。


物乞いする、彼らに、商売を教えようと思ったが、浅はかだった。


物資が、一番である。それも、彼らが着る物である。

さらに、沢山上げても、大人に取られることもあるという。


支援というのは、大変なことである。


その背景にあるものを、把握して、考えてやらなければ、ならない。


またまた、勉強になった、旅である。

posted by 天山 at 16:16| タイ旅日記  平成20年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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