2008年06月01日

タイ旅日記 1 平成20年6月

バンコクには、現地時間、深夜12時少し前に着いた。

日本では、午前二時である。


翌朝の、チェンマイ行きの飛行機を、空港で待つ。

朝、6:45発まで、いつもの空港一階で過ごす。


私は、冷房の効いた、室内から屋外へ、度々出る。タバコを吸うためである。

その時間帯は、ほとんど、警備の人の姿が目立つ。

乗り継ぎを待つ人々は、大半が、一階から、三階のロビーで、寝ている。


この旅の最初は、また、驚くべきことがあった。


一人の若い、警備員が、親しげに、私に話し掛けてくる。

英語が少し、日本語が少し、そして、タイ語である。

私が、外に出るたびに、声を掛けてくるのである。


三度目の時である。

彼は、私に、タバコを一本くださいと言った。私が、一本渡す。そして、ライターを彼に差し出した。

すると、彼は、いいと、手で示す。

その時である。

たかあまはら、と言った。


驚いた。

手を合わせて、高天原と言うのである。


私が驚くと、タバコは、清めてから吸うのだと言う。そして、手をかざす真似をする。

次に出た、言葉が、明主様、めいしゅさま、である。

即座に、救世教だと、解った。

世界救世教である。


熱海に本部があり、その団体からは、多くの新興宗教が出た。

救世教自体、大本教から出ている。


この、教派神道については、神仏は妄想である、に取り上げるので、内容は、省略するが、手かざしで、清めるというのが、特徴である。


彼は、空港の近くに住み、家族が信者であり、彼は、世話役であるという。日本語は、すべて、その教団の言葉だった。


明主様、明主様と、彼の口から出るたびに、私は頷いた。

チェンマイで、小西さんに言うと、チェンマイの郊外に、教団の支部があったが、バンコクにあったとは、知らなかったと言う。

タイには、その他に、創価学会、真如苑などが、教線を張っている。


私も、小西さんも、同じ考えであるが、仏教国、更に、小乗を持っての、国王からも仏教徒のタイに、布教するという、根性である。また、タイの、胸の広さである。それらの、活動を赦している。また、キリスト教、特に、プロテスタントの布教も、激しい。


プロテスタントの、布教の様が赦せないのは、タイの仏教を、悪魔のものであるとする、教えである。

自分たちが、悪魔から出てるということを、知らずに、タイの国教である、仏教を悪魔からのものとして、断定する、その、根性である。

下手な芝居のような、霊能、それを、聖霊と言うが、聖霊が、降臨するなどと、まことしやかに、タイの若者を、騙すのである。


白人の一神教というのは、手がつけられない。

自分たちが、理解出来ないものは、すべて、悪魔からのものだと、考えるという、単細胞である。


その、考え方が、多くの民族を殺し続けたという、事実は、歴史をみれば、一目瞭然である。


さて、救世教である。

旅日記に、相応しくないので、簡単に書くと、手かざしにより、浄霊するという、考え方をする。その、浄霊は、教団のペンダントを必要とする。

今は、どのようになっているのか、知らないが、兎に角、教団から、浄霊の赦しを受ける。それは、自動的に、会員、信者になるということである。


祝詞を、教祖、岡田茂吉が作った。

最初は、たかまがはら、と、言った。

たかあまはら、とは、正統的な読み方である。

が、という濁音が入ると、祝詞が、乱れる。教団の分裂が始まった時に、それに気付いたと、みえて、読みを、たかあまはら、としたはずである。


教団の背後霊団は、稲荷系である。つまり、きつねである。

稲荷は、農耕の神として、伊勢神宮外宮の、豊受大神の眷属である。

だが、単独に、働く場合は、単なる、狐の霊団となる。


狐の霊団は、分派してゆくのが、激しい。

ある、大型教団も、もう少しすると、分派を始める。


その警備の若者は、私に、得意になって、明主様と、連呼した。

私は、その後、タバコを吸うために、二階の外に出ることにした。

一度、エスカレーターで、二階に上がり、外に出るという、繰り返しである。


明主様の、お話を聞かされては、たまったものではない。

まして、その内に、私を清めるなどと、言い始めたら、迷惑である。

子狐に、清められては、具合が悪くなる。


こうして、今回の旅の、はじまりである。


漸く、朝の便の搭乗手続きが、はじまり、私たちは、四階に上がり、国内線乗り場に、出た。

チェンマイまでの、約一時間、私は、眠った。


チェンマイでは、更に、メーホンソーンに向かうために、二時間を過ごした。

そして、10:10発の、メーホンソーン行きに乗る。


約、30分で、メーホンソーンに到着。

待ち時間を入れて、約20時間である。


疲れた。


トゥクトゥクを見つけて、市内のゲストハウスに向かう。

予約は、していない。

しかし、池のような湖の前の、ゲストハウスは、空いていた。

ゲストハウスとしては、高級である。

一泊、600バーツ。約、2000円である。エアコン、ホットシャワー付きである。

二泊することにしていた。


丁度、昼の時間帯である。

部屋に、荷物を置き、町の中に出て、食事をした。

タイ風、イタリア料理の店に入り、パスタと、ピザを頼んだ。


それから、ベッドで、うとうとして、休んだ。

乗り物の、疲れは、格別である。体が、ゆらゆらする。


夕方、フットマッサージをするのが、精一杯であった。


雨季であり、気温が高い。

部屋の前の、ベンチに座っていても、汗が出る。

ただ、山間部であるから、夕方は、少し涼しくなる。


その夕方から、ゲストハウスの前に、バザールが開かれる。

食べ物から、民芸品などが、並ぶ。

御祭りのような雰囲気である。


みかんを山盛り買ったが、15バーツである。約、50円。

焼き鳥、焼肉類は、食中りすると、怖いので、止めた。


明日、一日しか、追悼慰霊の日程を組んでいない。食中りで、一日寝ていられないのだ。


夜の食事は、地元の人が行く、食堂で、ビールを一本飲み、カレーと、お粥にした。

ビールは、コップ一杯で、酔った。

飛行機に乗った後は、すぐに酔う。


そのまま、ゲストハウスに戻り、すぐにベッドに着いた。

同行の野中も、疲れて、出掛けなかった。


夜は、虫の音だけになり、それが心地よい。

バリ島、ウブドゥの夜に似ていた。


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2008年06月02日

タイ旅日記 2 平成20年6月

タイ北部、チェンマイから、北西に、メーホンソーンがある。

今回の旅の、最大のテーマである、追悼慰霊の儀を行うために、私は、来たのだ。


インパール作戦の、最大のポイントが、メーホンソーンにある。

インド・インパールを陥落させて、イギリスからの支配権を奪うものである。

このことを書くには、膨大な量になる。

インパール作戦については、前回のタイ遥かなる慰霊の旅に書いている。


私が、慰霊を行った場所から、順に書いていくことにする。


メーホンソーンから、南に、車で二時間ほどのクンユアムという場所に向かう。

その途中で、ファイポンという村に立つ、慰霊碑に立ち寄ることにしていた。


一時間ほど、山道を走り、その曲りくねった山道に、忽然として、慰霊碑が立つ。

永井元陸軍通訳官が建立した慰霊碑である。


この永井通訳官は、日本の敗戦から、英語塾を経営し、ある日、突然のパニックに陥って、自分が、目にした、連合軍オーストラリアの兵士の拷問に、立ち会った時のことを思い出し、その時から、タイを訪問して、慰霊をしようと、決めた方である。

カンチャナブリにて、その、拷問を受けた、オーストラリア人と、再会したというから、驚く。


彼は、何度も、涙を流して、そのオーストラリア人に、謝罪したという。そして、二人は、深い友情を結んだ。

戦争がしたことである。

二人は、個人的恨みなどない。オーストラリア人は、もう、昔のことであり、忘れると言った。


慰霊碑は、2000年の建立であるから、まだ、八年前のことである。


道路の、向こうは、渓流である。

しかし、渓流は道からは、見えないほど深い。


私は、兎に角、チャーターしている車のこともあり、次々と、回らなければならないと、即座に、慰霊の儀を、執り行った。


慰霊碑の後ろに、思わぬ木が、倒れて、そこから、御幣にする、枝を取ることが出来た。日本から持ってきた、白紙を取り付けて、それを、依り代として、慰霊碑の前に、捧げた。


皇祖皇宗天照大神、そして、神々を、神呼びする。

更に、その地で、亡くなったといわれる、およそ200柱の、兵士の霊を、呼ぶ。


神呼びは、言霊の面目である。音霊にかけて、霊位を依り代に、御呼びする。


神霊、霊位は、音に乗るのである。


神呼びをし、大祓えの祝詞を唱える。

慰霊の儀の、私の大祓えの祝詞は、慰めの祝詞である。

更に、次元移動と、囚われからの解放である。行き先を、見失った霊位に、道をつける。

勿論、奇跡的なことは、起こさない。


祝詞を終えて、次に、神送りである。

その際に、普通の言葉で、話しかける。

この地で、亡くなった兵士たちに、私は、靖国に帰りたい方は、靖国に、故郷に帰りたい方は、故郷に、霊界に入りたい方は、霊界に、お送りすると、語り掛ける。

そして、最も大切な、清め祓いである。


神送りの音霊である。


その時、私は気付かなかったが、同行の野中が、私の神送りの時に、渓谷の方から、一斉に、蛙が鳴き始めたという。そして、私の神送りが、終わると、また、一斉に鳴き止んだという。その時、野中は、はじめて、向こうに川があることが、わかったと言う。


自然の生き物に、霊位が、乗り移り、その意思を、示すことがある。

驚くことは無い。


神送りの時に、私は、慰霊碑を離れて、渓谷に対処していた。体が、そちらに、引かれるのである。


清め祓いとは、想念の清めであり、祓いである。

苦しきことも、哀しきことも、切なきことも、すべてを、祓う。

風が、流れを清めるように、水が、流れを清めるように、すべてを、流す。

それを、日本人は、音霊によって、成した。自然の様を真似たのである。


音は、音楽ではない。歌でもない。

歌は、和歌の歌の道を言う。

音は、清めのものである。


黙祷が、最も正しい祈りであるとは、以前に書いた。

少しの黙祷が、霊位を慰める。


私は、素人であるから、鎮魂の儀は、行えない。

鎮魂帰神という、儀は、私が神になり、私を通して、霊位を、その場から離す行為である。私は、それを行うことが出来ない。


私は、一人の人間として、対座する。

死ぬまで、神になど、なることはない。


鎮魂帰神の境地も、妄想である場合が、多々あることを、知っている。

人間は人間であって、善しとする。


名残惜しいが、次の場所に行くために、早々に、その場を立ち去る。


兎に角、道が、くねくねと、体の休む間もない。

ここも、日本軍が、作った道である。


クンユアムの町に入り、その先の、トーペー寺に向かう。

戦中戦後、ビルマのケマピューを通り、撤退してきた龍部隊の兵士が、駐屯した寺である。

この寺では、203名の兵士が亡くなっている。


寺の中に、慧燈財団が建立した、慰霊碑が建つ。


まず、私は、寺の中に入り、礼拝した。


一人の、老僧が出迎えてくれた。

私の和服に、日本人かと、問う。頷くと、笑顔で迎えた。

後で、ここの地域の人々と、日本兵が、深い関わりを持ったことを書く。

実に、平和的友好を築いたのである。


慧燈財団の建てた、慰霊碑は、平成七年であるから、12年前である。

石碑ではなく、木である。それは、次第に朽ちていた。


先ほどの、依り代を、そのまま持ち込み、同じように、慰霊の儀を行った。

まず、乱れが無いことである。

この寺の、僧たちによって、ねんごろに、葬られたのであろう。


何より、兵士のために、寺では、慰霊塔を建てていた。

ここで、毎日、経を上げてくれる。

まして、顔見知りの僧たちである。

霊位は、安心したであろう。


私は、清め祓いをして、感謝の祝詞を上げた。

ここでの、大祓えの祝詞は、感謝であった。

神送りをして、私は、寺の横を流れる川に、依り代の御幣を、流した。


日が照ったので、丁度、そこで、天照を拝した。


太陽を、アマテラスと、御呼びしてきた、日本人である。

太陽は、どこにでも、姿がある。

太陽をアマテラスと、御呼びしたのは、大和朝廷以前の、富士王朝の一人の、神皇による。

それは、天山通信の、日本の歴史に書いてある。


宇宙が神殿であり、太陽がご神体ということになる。

それは、壮大な、神観念である。

そして、実に、正しい。

自然の大元である太陽を、神と、御呼びして、奉るという、実に、理に適った感覚である。


私も、それを、そのままに、太陽を神として、崇める。

どの民族信仰も、それに対しては、抵抗しない。

皆、私たちと、同じだと言う。

拍手を打ち、太陽を拝すると、彼らも、同じように真似るのである。


後の作法は、瑣末なものである。


野中が、一本の、草花を慰霊碑に捧げて、写真を撮った。

その、淡い紅色の花は、輝いた。


蛙鳴く 虫も鳴くなり 追悼の いしぶみ超えて 天を突くなり

                          天山

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2008年06月03日

タイ旅日記 3 平成20年6月

トーペー寺を出て、来た道を戻り、最後の慰霊の場所、クンユアムに向かった。


まず、クンユアムの戦争博物館の前にある、ムェトウ寺である。

そこは、日本軍の病院跡である。

現在は、寺のみである。

そこに、慰霊碑がある。


病院で亡くなった兵士たち、約300名をその前の、クンユアム博物館のある場所に、埋葬したという。


私は、再度、木の枝を取り、依り代を作った。

慰霊碑の前に、それを、捧げて、神呼びを行い、祝詞を上げる。


暑いせいで、汗だくになる。


慰霊碑の前には、小さな、塔婆があり、南無妙法蓮華経と、書かれてある。

どなたか、日蓮宗の方が来たのであろう。


祓い清めをして、そのまま、クンユアム戦争博物館に歩いて行った。


運転手が気を利かせて、博物館へ案内するが、私は、まず慰霊の儀を執り行いたいのだ。しかし、しかたなく、博物館に入ることにした。


最初に、ビデオを見せられた。タイ語なので、意味は、解らないが、画面を見て、想像が出来た。また、その部屋には、タイだけではなく、サイパンの戦争犠牲者、バンザイクリフから、身を投げる人の写真などもあり、サイパン慰霊の旅を、思い出していた。


展示されている物は、日本兵の遺品である。

即座に、この場も、清め祓いが必要だと感じた。

物に、想念が溜まっている。それが、全体を、重苦しくしている。


だが、この博物館は、なんと、タイ人によって、作られたものである。

地元、クンユアム警察署長に就任した、チェーチャイ署長が発起人となり、開設されたのである。


彼は、署長に就任してから、地元の家々に、日本兵の遺品が数多くあることに、驚き、更に、地元民と、日本兵の友好の様に感動して、これらを集めて、戦争記念館を創設しようと、尽力したのである。


カンチャナブリにある、戦争博物館に、私は立ち寄ることがなかった。それは、見なくても、日本軍の残虐さを、語るべくのものだと知っているからだ。


戦争に、残虐さは、つきものである。

しかし、それを、表現する時、それぞれの民族の方法で、解釈する。

特に、カンチャナブリは、中国系の人によると、思われる。ということは、中国人の野蛮さと、残虐さによって、解釈される。

本当のところは、解らないのだ。

勿論、残虐行為は、多くあったが、中国人がする、残虐さで、解釈されれば、それを理解するのに、誤るのである。


この、クンユアムの博物館は、タイ人の好意的な、日本軍の解釈である。更に、地元民との、友好的な、付き合いを主にした解釈である。


チェーチャイ氏は、それまでの日本軍の有様とは、別の日本軍の有様を、ここで、見せてくれた。


日本人として、深く深く感謝する。


私は、一通り見て回り、すぐに、慰霊の儀をはじめた。

まず、チェンマイの小西さんに言われた、埋葬された、場所である、博物館の裏手に出た。

そこは、空き地になって、草が生えている。


何も無い、空き地で、私は、神呼びと、祝詞を唱えた。

祖国のために、戦い、そして、祖国に帰ることも出来ず、この地で、斃れた兵士たちの、霊位に、深く感謝と、慰霊の思い充ちての、祝詞である。


そして、そのまま、博物館の前の、慰霊碑に向かった。

そこでも、同じように、神呼びをして、祝詞を上げた。

この日、私は、大祓えの祝詞を、四度唱えたことになる。


最後に、太陽が出たので、依り代を、陽にかざし、皇祖皇宗を御呼びして、全体を祓い清めて、念じた。


靖国に、帰りたい方は、靖国に。故郷に帰りたい方は、故郷に。霊界に赴きたい方は、霊界に、行き給え。


気付くと、汗だくになっていた。

兎に角、暑い。


更に、館内に戻り、あまり大袈裟にならぬように、館内を、祓い清めた。


特に、軍刀の展示場所は、異様な気が充満しているのである。

人を斬って殺したであろう刀。


この展示物を見る人に、その想念が、及ばないようにと、清めた。


殺される前の人間が発する気は、恨み、悲しみ、憎みである。それを、まともに受ければ、どうなるかを、私はよくよく、知っている。


余談だが、戦争当時、日本軍が統治していた場所で、現地の人の、恨みを受けた人の子孫が、祟られている状況を見た。

三代前の、祟りである。

それは、如何ともし難いものであり、通常の祈りや、清め祓いでは、どうにも出来ないのである。


最低最悪の人生を送るべくの、呪いである。

呪いというものを、知らない人は、無いものである。また、そんなものは、信じないとい人は、呪われていないから、言える。

呪われている人は、言葉も無いのである。


最悪なのは、家系が絶えることである。

呪いは、そこまでやる。


男の子が、何人いても、必ず子孫が絶えるのである。


想像を絶する。


それを、解く、宗教家は、一人もいない。

勿論、霊能者もである。


民族の怨念を受けても、続く組織は、それはそれは、悪魔の組織、団体である。

これ以上は、省略する。


追悼慰霊の儀を終えた、私は、清清しい思いをしたか。

清清しい思いではなく、今、現在の日本を憂いだ。

ただ、憂いに、沈む。


戦争など、昔のことである。

そんなことで、死んだ者など、どうでもいい。兎に角、金を得て、楽しい人生を、送られればいいのである。


更に、私のように、追悼慰霊を行う者を、あろうことか、右翼系、右派と、言う者までいるのである。


私は、右でも、左でもないと、何度言っても解らない。

私は、上である。

カミである。

つまり、伝統行為を持って、追悼慰霊の儀を行っている。


何故か。

人は、目に見えないものによって、生かされて生きるのである。

目に見えるものだけを、見ていては、事の本質が見えない。

見えないものを、見て見よと、言う。


最新の心理学では、自由意志があるという、考え方に、疑問を呈している。

つまり、自由に意思を実行しているように、思えるが、実は、それは、あるモノによって、決めている。または、決められていると、考えるというのである。


その、モノとは、何か。


サブリミナル効果というものがある。

目には、見ない速度で、一定のメッセージを流すのである。

すると、何か飲みたくなるとか、何かの行動をとりたくなるのである。


その、サブリミナル効果に、近い感覚で、私たちは、目には清かに見えないモノに、支配されているのである。


それを、仏教では、因縁というが、そんなものではない。

または、業とも言うが、そんなものではない。


決定されているものである。

努力によって、変えられる人生とは、大嘘である。


何にも変えられない、宿命として、厳然としてあるものである。


それは、罪でもない。


遺伝子解明によって、それに、少し近づいている。


人は、生きるべきようにしか、生きられない。考えるべきようにしか、考えられないのである。


だから、私は、今、現在の日本を憂いでいる。


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2008年06月04日

タイ旅日記 4 平成20年6月

戦うために、道を作る。

日本軍が、タイに道を作ったのは、二本である。

最初の計画は、八本の道だったが、最終的に、二本に絞られた。


その一本は、バンコク・チェンマイ・メーホンソーン・トンウーに、続く道である。

そして、もう一本は、バンポン・カンチャナブリ・ダンチェリー・サンオン・タンビュー・ザヤップである。

この、二本目の道が、泰緬鉄道とされる。


タイと、ビルマは、それまでに、44回の戦争をしている。その時に使用された道が、泰緬鉄道の道でもある。


幅一メートルで、全長414.9キロである。

始発点は、ラーチャブリー県バンヌンパルックで、カンチャナブリ県の、東北部を通り、ケオノイ・ダンチェリーサンオンを通り、ビルマに入る。


ビルマの、タンビューザヤップにつながり、それによって、ビルマは、日本の支配下におかれた。その後、インドのインパールへと、入るのである。


時は、昭和17年である。

その後は、中国の南側の道を通り、インドへ入る。


当時、チェンマイから、メーホンソーンの道は無く、日本軍によって、道が作られたのである。


そして、敗戦の色濃くなった頃、インド、ビルマに出た日本兵が、タイに戻って来た。

そうして、辿り着いた場所が、クンユアンのバンホイトヌンである。

何千人という数の日本兵が、そこで、亡くなった。


バンホイトヌンとは、博物館のある場所である。


インパール作戦については、前回のタイ、遥かなる慰霊の旅に書いている。


さて、この道の建設に、携わった者たちは、タイ人が多い。

日本軍は、メーホンソーンの、タイ人だけでは足りないと、チェンマイ・ランプーン・ランパーン・チェンライ・プレーの各県から、人を集めた。

更に、驚いたのは、建設道具が、ナタとクワだけだというのだ。


最初は、人が一人通れるほどの道だったところを、山を削り4メートルの幅に広げて、作っていったのである。


ここでも、忘れてならないのは、日本人だけの、死者ではないということだ。

建設現場で、多くのタイ人も、亡くなった。

食料の不足と、現場の危険。そして、山の病である。

一番、多くのタイ人が亡くなったのは、メーホンソーンに入る手前、40キロ地点の、アンプーパンマパーのドイタンマケンという場所である。


一日に、40人から、50人が、死んだと言われる。


建設中は、川原にキャンプを張って、過ごしていた。

火葬をする暇もなく、多くの人は、川沿いに土葬された。

メーナムコンからメーナムパイまでの、川沿いに、多くのタイ人が、埋葬されている。


日本人の、追悼慰霊も、更に、タイ人の追悼慰霊も、必要なのである。


救いは、日本人と、タイ人との、友好関係だ。

皆、タイ人の家に、泊まったりと、友好を深めたという。

物資の物々交換も、よくしていた。


日本人が、タイ人と、共に、建設現場で、働いていたということで、私は安堵した。タイ人を、ただ、監視していたとすれば、余りに、むごいことである。


更に、日本軍は、別ルートの道も、作っている。

クンユアムから、チェンマイに抜ける道である。それは、三箇所ある。それらは、すべて、敗走の際に使われたという。


クンユアムでの、日本兵の生活は、二つの種別がある。

一つは、道路建設の日本兵である。

彼らは、日本が、戦争に勝っていた頃の兵士で、生活は、豊だった。

当時の、クンユアムの村人は、貧しいが、タイ国が、日本兵を支援せよとの、命を下したことから、村人たちは、日本兵に、食料を売った。

勿論、日本兵は、それらを、お金で買った。しかし、それは、日本軍が、紙幣を、いくらでも、作ることが出来たからである。


さて、もう一つの、日本兵は、ビルマから、逃れて来た者たちである。

これは、悲惨だった。


日本軍には、食料が、ほとんどなかったという。

また、タイへ行く道は、各地で、寸断されていた。

ビルマにいる、日本兵は、最悪の状態だったという。


余談であるが、哀しい話がある。

今でも、ビルマ国境の町、タチレクから、タイ側の、メーサイの町に掛かる橋に、日本兵の幽霊が出るという。

幽霊は、橋を渡り、タイ側に入ろうとするが、入られず、また、戻って行くというのだ。


私が、前回、タチレクの川沿いで、追悼慰霊儀をと、思ったことは、間違いなかった。


前回は、時間無く、トゥクトゥクのおじさんとの、言葉のやり取りが、出来ず、慰霊をすることが、出来なかった。

残念である。


次の機会には、必ず、川沿いにて、追悼慰霊をしたいと、思う。


日本兵が、ビルマから敗走して来た時は、寺、村人の家、学校、村の病院などに、住んだという。

どこも、一杯の状態だった。

更に、村の家の、一軒に、5人から20人くらいが、住んだという。

その場所の無い者は、道の傍らに、野宿する者もいたという。


その際に、日本兵は、村人の生活の手伝いをして助けた。

出来ることは、何でもやったという。

クンユアムの人々は、日本兵を嫌いだと思わなかったのが、救いである。


上記の、情報は、チューチャイ警察署長の書いた、第二次世界大戦でのクンユアムの人々の日本の兵隊さんの思い出、という、冊子から、頂いた。


以下、私の歌である。


戦いは 終わりてありや されど今 今も戦う 霊の悲しさ


異国にて 斃れたる人の 慟哭は 我をして ただ 佇むことの


遺留品 声無き声の 涙あり 故郷偲ぶ 者の悲しさ


品々の 思い伝わる もののふの 意気と無念の 大和魂


ああ悲し 君死にたもう ことなかれ 祈る家族も 今は亡き人


父母も 待ち疲れては 今は亡く 共に遊べや 神の世界で


この祈り 遥かな時を 超えてゆき 天地に寄する 命尊き


崩 (かむあがり) されたと祈る 声を聞け われ故郷への 音霊ありて


昭和天皇神呼びて歌う


皆様へ 天皇(すめらみこと)の お隠れを 伝えて祈る 尽くす哀悼


木村天山会心の歌


寂しさの 極みに耐えて 斃れたる 兵士の最期 かあさんと聞く

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2008年06月05日

タイ旅日記 5 平成20年6月

メーホンソーンに、二泊して、チェンマイ入りした。

昼にチエンマイに着く。


慧燈財団の、小西さんが、出迎えてくれた。

今回の、追悼慰霊の、アドバイスも、小西さんからのものである。

また、車の手配も、お願いした。


以前にも書いたが、カレン族の女性と結婚し、チェンマイ在住である。

その、カレン族の村にも、後で入ることになる。


小西さんに、ラーメンが食べたいと言う。

日本のラーメンが、食べたくなった。

チェンマイには、多くの日本料理店がある。ピンからキリまである。

ラーメンを専門にする店に、連れて行ってもらった。


味噌ラーメンである。

味噌と、醤油が欲しくなる。日本人である。


馴染みの味を食べると、安心する。

私は、特に、この頃、食べることを、楽しみに、また、大切にしている。

それは、限られた時間しかないからであり、食べることは、命をつなぐことでもあるからだ。

日本では、ほとんど、自炊である。

最も、それが、いい。


その後、小西さんが、お気に入りの、店に連れて行ってくれた。


街中にあるが、森の中にあるような、店だった。

私は、アイスクリームを注文した。

疲れると、甘いものが食べたくなる。


タイは、雨季である。

その店にいる間に、スコールに、見舞われた。

見る見る、水かさが増す。

道が、水で溢れる。


パラソルの下にいた、私たちも、店の中に入った。


スコールは、やや暫く続いた。

その間に、追悼慰霊の様を、話していた。

小西さんは、遺骨収集も行っており、色々な話が聞ける。

まだ、すべての遺骨収集が、終わっている訳ではない。


更に、宗教の話から、古神道の、話にまで及んだ。

小西さんも、独学で、様々な宗教を学んでいた。


そして、矢張り、古神道に行き着いた人である。


スコールが止み、漸く、ホテルに向かった。

馴染みの、ターペー門の前の、モントリーホテルである。

三泊の予定である。


丁度、食事付きで、750バーツの、キャンペーンをやっていた。

約、2500円である。一部屋の値段であるから、二人で、一泊、2500円ということになる。


タイも、バリ島も、ホテルの料金は、一部屋で、計算する。


小西さんは、私たちが、チェックインするまで、付き合ってくれた。


部屋に入り、浴衣を脱いで、シャワーを浴びて、タイパンツをはき、Tシャツを着た。

そして、ベッドに体を、横たえた。


少し、放心状態である。

メーホンソーンの追悼慰霊が、色濃く心を、支配した。


夕方、私たちは、漸く、タイマッサージを受けるために、部屋を出た。

ホテル並びの、マッサージ店に行く。

顔馴染みの、マッサージ嬢だけでなく、新しい顔が多くあった。ただし、皆、おばさんである。


一時間、100バーツという、安さの、コースを選んだ。

約、330円である。

ところが、私たちについたのは、新入りの、おばさんである。

私の方は、まだ、何とか良かったが、野中についたおばさんは、お喋りばっかりで、手がおろそか。

身の上話を、延々としていた。

野中が、気の毒になった。


マッサージを終えて、一度、ホテルに戻った。

野中曰く、マッサージをして、更に疲れたと。


夜、何を食べるかである。


私は、近くにある、和食の店にした。野中も、それでいいと、言う。

蕎麦が、食べたくなったのだ。

昼は、ラーメン、夜は、蕎麦である。

麺類を望むのは、また、疲れている証拠である。


寿司セットを一つと、ざる蕎麦を、それぞれ、注文した。


面白いことに、お客は、皆、タイ人である。

タイ人も、和食を食べるようになっているのである。


ただ、どうも、麺類は、タイ人の好みで、伸びている。

歯ごたえが無い。


寿司にも、蕎麦にも、わさびが、多くついている。わさびの、辛さは、タイには無いものである。


私たちは、食べ終わり、すぐに、ホテルに戻った。


その日は、野中も、外出せずに寝た。


私は、歌を詠む。


チェンマイは 雨季にありては 時に雨 すこぶる強く 叩きつけたる


スコールの 後の清しさ たとえなく 息を吸い込む 時の嬉しさ


雨ありて 風起こしたる スコールの 人の心の 乱れに似たる


来るたびに お堀の水の 清まりて このチェンマイを 愛し始める


よしやよし 定め無き世の 常なるは 定めを捨てて 常に生きるか


疲れては 旅のひと時 ただ眠る 眠り眠りて ただ眠るなり


更に、

感じて歌を詠む


情けなき 人の世に 生まれ来て 情けなきかな 人の世を去る

これ 悲しむべきか 喜ぶべきか いまだ わからぬことなりて


無定形の歌である。


矢張り、慰霊の様を、思い出し、歌う。


蛙鳴く 虫も鳴くなり 追悼の いしぶみ超えて 慰霊天を突く


この、慰霊天を突くを、尽くにするかどうかと、暫く迷った。

結局、わからず、最初の、突くにした。


尽くすと、いう気持ちもあるが、嘆きは、天を突くと、感じた。


歌の道こそ、ゆかしけれ、である。

床しい。

それが、奥床しい、という心象風景になり、更に、幽玄へと、至る。


しかし、幽玄と、漢字にすると、観念が、先に立つ。

もののあわれ、の、一つの風景であると、する。


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2008年06月06日

タイ旅日記 6 平成20年6月

夜中に、目が覚める。

3:30である。日本時間、5:30。つまり、いつもの時間に目覚めるのだ。


少しして、また、寝る。


本日は、朝10時にホテルを出て、バンガート中高学校での、コンサートに向かう。


六時に、起きた。

少し、ぼんやりとして、予定を確認する。

本日の歌の確認もする。


お話など入れて、おおよそ一時間。歌は、その半分の時間くらいになる。

童謡を主にすることにした。

伴奏は、ピアノでの、カラオケを作ってある。


いつもなら、一日、ゆっくりとするところだが、今回は、時間がない。

明日は、街中のホールでの、コンサートである。


旅の最中の体調管理は、重大である。

特に、風邪に注意である。

暑い国に行くと、必ず風邪を引く。暑いと思い、裸になるからである。

私は、必ず病院から、風邪薬を貰って旅に出る。


七時に、ホテルのレストランの前の、道路に面したテラスで、朝食をとった。

すでに、道は、車で混雑している。

朝の、活気はいい。


最初に、チェンマイに来た時も、このホテルだった。来る度に、値段が違う。このホテルを、皮切りに、ゲストハウスに移動した。

今回は、三泊なので、移動せず、ここに泊まることにした。

朝食付き、750バーツは、安い。


閑散期は、どこのホテルも、値段が落ちる。


一時間ほど、テラスで、過ごして部屋に戻った。

野中が、目覚めた。


私は、本日のコンサートの、楽譜を取り出し、歌詞を確認する。

合間に入れる、お話も、少し考える。それを、小西さんに、通訳してもらうので、通常の時間より、お話が倍になる。それほど、多くの曲数は、いらない。また、今回は、野中も、イダキを、披露する。


朝、10時に、小西さんが、迎えに来てくれた。

バーンガート学校は、最初の追悼慰霊の場所でもある。


本日は、日本語を学ぶ、50人ほどの生徒の前で、歌う。

慧燈財団が、ここに、日本語教師を派遣しているのだ。

小西さんも、元教師として、教壇に立っていた。


会場は、学校の一階にある、多目的ホールである。

その前に、校長先生に、ご挨拶に、伺った。


前回の時は、校長先生は、留守で、お会い出来なかった。

初めて、お会いする。

先生は、生徒は、まだそれほど、日本語に堪能ではないという。そして、感謝の言葉である。


私たちは、すぐに、会場に入り、準備を始めた。

まず、持ってきたCDが鳴るのか、心配だった。

それは、大丈夫ということで、次に、マイクである。私は、生声で、歌うつもりだったが、全く残響が無い部屋である。均等に声が聞こえるようにと、マイクを使用することにした。


リハーサルを、生徒が覗く。

その度に、手を振り、挨拶する。


男女共学の学校で、男の子も、女の子もいる。皆、礼儀正しい。

面と向かうと、両手を合わせて、挨拶する。


開演は、12:00である。

15分前から、生徒が、入りはじめた。

私は、舞台前のソファーに座り、生徒を待った。


教務課の先生も、いらっしゃり、生徒と、同じく席に着く。

小西さんの、お話で、はじまった。

私と、野中の紹介である。


野中のイダキ演奏で、開始である。


私の、最初の曲は、砂山。

海は荒海、向こうは佐渡よ、すずめ鳴け鳴け、もう日が暮れる


すずめをテーマにした曲です、ということでの紹介をした。


雨降りお月さん

トンボのめがね

それぞれ、曲の前に、解説が入る。

そして、タイ演歌に影響を与えた、昔の歌、蘇州夜曲を歌った。


この歌は、東京音頭から、王将を書いた、西条八十の作詞で、歌謡曲を代表する。

ちなみに、西条は、ドイツ文学を、早稲田で講義し、詩人でもある。学者でありながら、俗曲といわれる歌の作詞を、手がけた。その数、おおよそ、千曲といわれる。


メロディーに、馴染みがあるのか、生徒は、静まり返って聴いた。


童謡を歌う時に、生徒が、私に笑いかけるので、安堵した。


最後に私は、扇子を取り出し、朗詠しつつ、舞うことにした。

それは、皆様の、幸福を祈るものですと、前置きをつけた。


日本の国旗があったので、舞の最後に、それを取り出して、扇子と、国旗で、最後のポーズである。


野中が、それを写真に撮った。

実に、右翼ぽい写真になるであろうと、思えた。


個人的には、日の丸が好きである。

単純明快が、いい。


白地は、天地、赤は、太陽である。

文句はない。


おおよそ、一時間のコンサートを、終えた。

生徒が、私たちに、感謝の挨拶をする。


それからである。

先生が、イダキに興味を示し、手に取り、吹く。生徒は、大笑いである。

更に、生徒も、手に取り、吹き始めた。

一人の生徒が、巧い。


私は、キスの上手な人は、巧く吹けますという。

小西さんが通訳すると、歓声が、上がった。


無事に、終了して、私は、すぐに慰霊碑に向かった。

野中と、小西さんも、駆けつけた。


木の枝を取り、依り代にして、御幣を作り、捧げた。

ここでは、二度目の、慰霊の儀である。

慧燈財団が、建てた、タイ・ビルマ戦線戦争犠牲者の碑である。


大祓えの祝詞を唱えて、四方を清めた。

小西さんと、野中を清め、そして、私も、野中に清めて貰った。

小西さんが、その様を、ビデオ撮影していた。


小西さんにも、それを、行って欲しいと思い、ビデオ撮影して貰った。


その後、チェンマイ市内に戻り、タイ料理の店に行き、昼食をとった。

終わると、三時を過ぎていた。


ホテルに戻り、矢張り、疲れた体を、ベッドに横たえた。

暑さもあるが、緊張感もある。

ホッとしたが、明日もあるのだ。


まだ、覚えていない歌詞を、夜のうちに、覚えようと思う。

マッサージに行く、元気も無いということもある。

その日は、マッサージに行くのを、止めた。

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タイ旅日記 8 平成20年6月

15日、日曜日、いよいよ、最後の予定、カレン村入りする。

一泊して、子供服支援をする。


午後二時、ホテルから出発する。

すべての、荷物を持ってだ。

カレン村から、そのまま、チェンマイ空港に向かい、バンコクを経由して、帰国するのである。


慧燈財団の小西さんの、案内で、カレン族村に向かう。

小西さんは、その村の、女性と、結婚し、一児をもうけた。

カレン族は、婿が、嫁の家に入るという、日本とは、逆の、パターンである。


奥さんは、慧燈財団の支援により、日本に留学している。日本語も、よく出来る方である。奥さんは、先に、村に入っていた。


チェンマイから、南西に、車で、約二時間の山間部に、その村がある。


カレン族は、赤カレン、白カレン、そして、首長族といわれる、カレン族に、分けられる。

赤カレンは、現在も、ミャンマーの反政府として、戦う。

白カレンは、戦いを、好まず、人里はなれた、山間部に住む。

私が、向かう、カレンの村は、特に、伝統を重んじて、言えば、保守的なカレン族の村である。

他の、カレン族の人々が、伝統を学びに来る村でもある。


タイ国内の、少数部族は、約86万人。

カレン、モン、ラフ、アカ、ヤオ、ティン、リス、ルア、カム、ムラブリ族と、非常に多い。

しかし、それらの、少数部族も、タイ政府の介入により、政策、貨幣経済、近代農業などの、導入により、伝統的生活サイクル、民族独自の伝統文化が、侵食されている。


それを、進歩というのか、何と言うのか、私は知らない。


伝統的生活が、次第に難しくなってゆく様を、どのように見るのか。

見方によって、判断が、分かれる。


さて、カレン人というのは、タイ人が呼ぶ名である。

カレンの人は、自分たちを、パガニョーと呼ぶ。


私の行く村は、バーン・トゥンルアンである。

バーンとは、タイ語で、村を指し、トゥンルアン村ということになる。


人口は、約、345人である。

65世帯、93家族が、住む。


村の標高は、500メートルから900メートル。六の山と、十の川に囲まれている。

追々書くが、村人は、自然に、自然保護の生活をしている。

欲が無いという、見方が出来る。

必要以上に、自然を利用しないのだ。


山間部なので、涼しい風が吹く。

皆さん、朝夕は、寒いという。

私には、心地よく感じられる、気温だった。


車が、空いていて、一時間半ほどで、村に入った。


最初に目に入ったのは、象さんである。

カレンの男は、像使いである。

今回、結婚式に、遭遇しなければ、私は、小西さんの、お兄さん、つまり奥さんのお兄さんに頼み、象に乗る予定だった。


それから、田園が続く。

丁度、田植えの時期である。


村に入った。

高床式住居である。

どこかで、見た風景だと、思った。

伊勢神宮である。

大神のお住まいも、高床式である。


小西さんの、実家に、到着して、奥さんに迎えられた。そして、そのお母さんがいた。


オモチャパー

今日は、という挨拶である。

最後の、パーは、プーの音にも、似る。

オモチャパゥーのような、感じである。


何だか、楽しい挨拶だ。

オモチャであるから、すぐに覚えた。


カレン語は、非常に少ない言葉で、話す。一音が、多い。

どこかで、聞いた話である。

一音に意味がある。

例えば、ご飯を食べるを、オ・メーという。

お茶を飲むを、カムチャという。

おいしいを、グィ、楽しいを、ムという。


家に入るには、階段を登る。

玄関に、何と、注連縄が、張ってあるではないか。

日本の、注連縄と、同じである。

日本の場合は、神の領域という、結界を現す。


どうも、底辺のところで、日本の伝統につながっているようであると、感ずる。


荷物を部屋に置いて、下に降りると、「お茶をのみましょう」と言われた。

すると、奥さんが、湯を七輪で、沸かすのである。

ずくには、出ない。


暫く、湯の沸くのを待つ。


その間に、家の周囲を、回って見た。


まず、豚、黒豚四頭が、目に入る。

鶏と、ヒヨコが、走っている。

犬もいる。

山の湧き水を、家まで引いて使う。だから、水は、冷たい。しかし、実に、まろやかである。

家を建てるのも、田畑をするのも、皆村人が、一丸となってやる。

自給自足である。


米倉を見て、また、驚く。

伊勢神宮の、米倉と、同じなのである。

そして、それぞれの、道具である。

縄文、弥生の、博物館に来て、見ているようなものばかりである。


すべて、手作りである。


唸るしかなかった。

一見は百聞にしかず、という通りである。


日本人が言う、自然保護や、エコライフというものが、如何に、愚かなことか、解る。

自然というものを、知らずに、自然保護や、エコライフを言う。

この村に来て、それが、本当に、どういう意味なのかを、知ることになった。


トイレに行った。

便器があるだけ。横に、水桶があり、それで、汚物を流す。

紙も無い。

つまり、タイ式と同じく、左手で、ウンチを拭く。

今、タイでは、ホテルなど、手動の水掛けが、ついている。それで、尻に水を掛けて、流す。

ここでは、手を使う。


家には、紙というものが、無かった。

最低限の紙である。しかし、一度も、紙を見なかった。

食事の時、私たちだけに、奥さんが、紙を用意した。

他の人は、食べ終わると、水で、手を洗う。


この村の、唯一の文明は、電気である。

電気だけは、通っていた。

しかし、私は、その夜、この村に来て、最も、感動した場面がある。

後で書く。


暫くして、小西さんが、学校に誘ってくれた。

日曜日であるが、子供たちが、集まり、私たちに、カレンの、伝統芸を披露してくれるということだ。

その際に、子供服を子供たちに、差し上げる。


小学生の子供たちが、集い、民族衣装を着て、私たちに、芸を見せてくれた。

まず、男の子の、カレンの竪琴の演奏である。

続いて、女の子たちの、歌と踊り。

実に、素朴で、簡単なものである。


その後、会場のテラスに出て、一人一人に合う衣服を、手渡す。

皆、目が輝いている。

一人一人に、手渡すと、その、笑みが満面に広がる。


この村の女性たちは、すべて、自分たちの衣服は、自分たちで、織る。

女性の、衣服はいらないのである。

男と、子供たちが、必要なのだ。


女性たちの、衣装を見ると、既婚、未婚が、一目で、解る。

未婚の女性は、白い衣装を着ている。

更に、純潔というものを、非常に大切にする。

少数部族から、売春をする者が多いが、カレン族の女性は、決して、そんなことは、しない。

また、離婚も無い。

一生、一人の男に、操を、捧げる。


それは、村の生活を見れば、解る。


日の出から、働き、日の沈む頃、家に戻る。

その繰り返しである。


子供たちと、写真を撮る。

ぬいぐるみを、上げた女の子が、愛しそうに、ぬいぐるみを、抱いているのが、印象的だった。

衣服は、お金で、買わなければならない。しかし、カレンの人は、収入を得る道が、少ない。現在は、レタスなどを作り、それを売って、お金にする。それも、最低限である。

富を持つという、感覚が無い。

田圃も、三耗作が出来るが、ここだけは、一毛作である。


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2008年06月07日

タイ旅日記 7 平成20年6月

この旅の、後半である。

チェンマイ市内のホールにての、チャリティコンサートである。


旧市街地、お堀の中にあるホールであり、ホテルから、徒歩5分という、近さである。

4:30入りするまで、私はホテル周辺にいた。


午前中に、タイマッサージを終えて、楽譜を見て、歌詞を覚えた。

実は、一番覚えにくいのが、自分の作詞のものである。

さくらの歌、という歌詞が、また、覚えずらい。

三番まであるのだが、最後の、はらりはらり、とか、ゆらりゆらり、とかの、言葉が、こんがらかるのである。


月の光に照らされて、桜の花びら散るよ、はらりはらり ゆらゆらと

それが、三番まであるから、困る。

一番と二番と三番と、どうなってるんだという、歌詞である。


結局、私は、その歌を、扇子を広げて、歌詞を見て歌った。


40曲ほどある、自分の歌詞の歌は、本当に大変である。


カウンターテナー藤岡宣男は、よく歌ってくれたと思う。そして、今、現在は、辻知子や、森本まり、が、歌う。


勿論、名曲ばかりである。

自画自賛しないでは、いられないのである。


さて、そのホールでは、二度目であるから、慣れたものである。

最初から、伴奏を流して貰い、それを、一度通しただけである。

リハーサルでは、あまり、力まないことである。


ところが、私の場合は、リハーサルで、力尽きて、本番が、とっても良くなることがある。力が抜けて、音程が安定するのだ。


私の歌は、音程が、不安定なところが、いい。

ビブラートが好きで、振るわせる。

だが、それを、少し控えている。

歌は、好みである。

声楽家ではないから、好きなように歌える。


声楽家の歌は、あれは、歌というより、楽譜である。楽譜を読んでいる。

歌は、心である。

しかし、心というのは、実に、難しい。

だから、適当に歌うのである。


その場、その場の、瞬間芸術である。


声楽家の歌で、本当によいと思えたのは、藤岡宣男のみである。


ベルカント唱法というのは、骨格であるから、日本人には、合わない。合わせると、変になる。だから、日本の声楽家は、皆、頭が変になった。

何せ、常識というものを、知らないという、馬鹿者が多い。


胴長短足で、欧米人の真似をするという、滑稽さである。

ホント、憐れである。


日本語の歌を、彼らに歌わせると、よくよく、程度が、解る。

日本語になっていないのだ。


私の方が、日本語である。

日本語の語感を、忘れた、声楽家であるから、おしまい、である。

死んだ方が、マシである。


さて、ホールにて、準備万端となった。


お客様が、すでに、来ている。

日本人、タイ人、何と、欧米人もいる。

およそ、50人である。

タイ人の中には、日本語を、学んでいるという、チェンマイ大学の学生もいた。


最初は、タイ王様の、歌である。

皆、起立する。


そして、私は、日本の国歌の、変わりに、荒城の月を、舞ながら、歌った。

アカペラである。


滝廉太郎は、五線譜に、作曲したが、この曲調は、まさに、大和楽である。


はアるウこウろウのオ

こウろウのオは、こウろゥオろオとなる。


まあ、それは、いい。


二度目であるから、二度目の人もいる。

少し、緊張する。


日本歌曲といわれる歌を、続けて歌う。

歌曲とは、ドイツで言えば、リートである。フランス歌曲、イタリア歌曲である。

何のことは無い、歌である。

歌曲と言うほどのものではない。

翻訳が、拙かった。


ここで、日本の歌について、論じたいところだが、次に続ける。


二部の最初は、野中のイダキである。

アボリジニの、民族音楽である。これが、また、ウケた。

ブーウブーゥ、と、鳴る音である。

私は、控え室で、聞いていた。

とても、良いのである。


民族音楽は、聴こえない音を出すからいい。

聴こえない音。それは、体で聴く音である。

耳には、聴こえない音を、出す。それが、いい。

以下省略。


四曲、童謡を歌った。


童謡は、いい。

簡単な作詞、単純なメロディーである。

だから、どうにでも、歌える。


ほとんど、今は、歌われない歌である。

何故か。

マスコミである。

金になるものしか、歌わせない。


どこの言葉か、知れない歌詞の歌を、流す。

テレビを見ない私も、何度か試して、今時の歌を聴いたが、解らないのである。

どこの言葉なのか、である。


私は、その時、老いというものを、感じた。

解らないということは、老い、なのであろう、と。


しかし、不完全勃起は、しない。だから、悩む。


すべてが、終わり、私は、着替えて、受付に出たが、お客様の、ほとんどは、帰った。


実は、朝、熱を計ったら、微熱であり、コンサートが、終わったら、すぐにホテルに、戻ろうと思っていた。


お客様が、帰られたので、安心して、すぐに、ホテルに帰ることにした。


何せ、明日は、カレン族の村に、行くのである。

ダウンしていられないのだ。


小西さんに、挨拶して、野中と、早々に、ホテルに戻った。

着物は、汗だくになっていた。


もう、外に出て、食事をする意欲も無い。

野中に、パンを買って来て貰い、それを食べて、すぐに寝た。


そのまま、翌日である。


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2008年06月09日

タイ旅日記 9 平成20年6月

子供たちと、別れて、気分良く、家に戻った。


道端には、黒豚の子豚が、遊ぶ。犬が、寝ている。鶏が、走る。

時々、オートバイが走る。

しかし、皆、共生している。


不思議な光景だった。


夕食まで、家の周辺を見て周り、写真に収めた。


夕方、お父さん、お祖父さんが、帰ってきた。

しかし、お祖父さんは、自分の家、つまり、奥さんの家に帰る。

ここの、長男は、結婚して、妻の家に入った。

女系なのである。


夕食の前に、小西さんが、今夜は、特別な、お祭りがあるという。

昨年の米の収穫を祝い、それで出来た、酒を、男衆で、飲み交わす儀式という。また、それは、今年の、米の豊作を祈るものでもある。


だからと、小西さんが、どんな酒なのかと、私たちに、勧めてくれた。

家々で作る、米の酒、つまり、日本酒と同じである。

口に含むと、焼酎に似た感覚である。


この、麹は、いつの時代からのものか、解らないほど、代々伝えられているものという。

ぬか漬けと同じく、ぬか床が、代々伝わるという感覚である。


口当たり良く、スイスイと、飲んだ。

度数も、それぞれの家によって、違う。


今夜は、皆の家から、酒を持って、それぞれ代表者の家を回り、飲みあげてゆく儀式である。


これは、普段見ることのできないものである。

私は、野中に、フイルムの本数を確認した。

出来る限り、その光景を、写真にしたいと、思った。


夕食の、おかずは、なまずだった。

なまず、というものを、初めて食べる。

焼きなまずで、脂がのって、実に、旨い。

そして、二種類の、香辛料を混ぜたものである。

日本で言えば、漬物に似たものだと、小西さんが言う。


甘い辛さで、ごはんに合う。

ごはんを、腹一杯、食べた。


それから、徐々に、酒の酔いが、回ってきた。


私は、日本にいると、毎日、酒を飲むが、旅に出ると、疲れて、飲めなくなる。

その日は、三日振りに、酒を飲んだ。


夜の闇がおりる。

この闇が、非常に感動のものである。

それは、深夜に、解る。


食事の時、女たちは、座に加わらない。

男だけで、食事をする。

これは、バリ島のウブドゥでも、そうだった。

女たちは、後で、食べるようである。


儀式のある、お祖父さんの家に向かう。

歩いて、10分程度の場所に、お祖父さんの家がある。

高床式の、大きな家である。


二階に上がると、お婆さんがいた。二人暮しである。

お婆さんの顔は、威厳に満ちている。

頭に、伝統のカブリ物、今では、バスタオルのような布を、巻いている。女たちは、皆そうする。意識し始めた子供も、するようになる。


私たちが、最初である。


今は、皆で、それぞれの家を回っているという。

次第に、男が、増えてゆく。

待っている間、茶でもということで、出されるのは、噛み茶である。

最初、私は、何なのか、解らなかった。

それは、茶葉と、塩で噛む、お茶なのである。


真似て、噛んでみた。

そのうちに、目が冴えてくる。

茶葉を、そのまま、噛むのであるから、カフェインが、そのまま出る。


どんどん、男が、集ってきた。

しかし、まだ、待つ。


小西さんが、野中に、イダキの演奏を、皆に聞かせて欲しいと言う。

小西さんは、以前、オーストラリアにいた頃から、イダキが好きだったという。

日本語教師の資格を、取るために、オーストラリアに滞在していたのである。


イダキは、好評だった。

皆、見よう見まねで、吹いた。


今度は、私の番で、歌を披露して欲しいと、言われた。

私は、立ち上がり、童謡の、海を、歌った。


まだ、長老たちが、到着しないので、更に、私は、扇子を出し、黒田節を歌い、舞う。

その時、入ってきた、男が、何と私と一緒に、踊るではないか。

最後まで、私と一緒に、踊った。


非常に楽しい、おじさんである。

勿論、私も、おじさんであるが、おじさん、と言うのが、ぴったりである。


少し、イッている。

皆の、ピエロ役なのであろう。実に、楽しい。言葉は、解らないが、楽しいのである。


漸く、長老たちが、やって来た。

座が、少し緊張する。


皆の座と、向かい合わせに、何人かの、長老が、座った。

酒を、用意する者。

お猪口が、八つほど、並べられた。

皆の人数に比べたら、少ない。


三人の、長老に、酒が注がれた。


その、お猪口を持って、少し、前かがみになり、何やら、呪文のようなものを、唱え始めた。

その間、皆は、手を合わせる。

しかし、私語も、聞こえる。

カレンの儀式は、緊張感と、共に、リラックスしたムードもある。不思議な、儀式だった。


長老たちが、祈り終えると、それを、少し口に含み、皆で、回し飲みする。

全員が、飲み終わると、次に、酒を注いで、一人一人と、一気に飲み干す。


私たちには、その、一気に飲み干すものが、与えられた。

それからである。

何度も、それが、繰り返される。

酒がなくなるまで、続くのだ。


これは、酒に強くないと、大変である。

しかし、皆、淡々とこなす。

普段は、酒を飲まない男たちであるが、儀式の時は、このうよにして、飲む。

ただし、体調の良くない者は、隣の人に助けてもらう。

少しだけ、残して飲んでもらい、残ったものを、飲み干す。


私は、儀式に、緊張していたから、酔いは、あまり感じなかったが、家に戻り、安心すると、酒の酔いが、回ってきた。


約、一時間ほどの、儀式が続き、ようやく、終わった。


皆、適当に、帰り始める。

若者もいる。


実は、待っている、間、私は、二人の男の、簡単な治療をした。

本当は、書かないつもりだったが、書くことにする。


一人は、あの、面白いおじさんである。

右足の膝が、痛いという。

手当てをして、痛みを取る。


もう一人の、おじさんも、足が痛むというので、痛みを、取る。

しかし、それは、一時的なものである。

根本的、治療ではない。

もっと、その原因を、調べる必要がある。


何故、そんなことをしたかといえば、小西さんが、私を、日本の神様を、奉る人だと、紹介したからである。

それは、つまり、彼らには、司祭という意識になり、祈祷によって、病を、治すのが、普通であるから、私に、それを、求めたのである。

村には、祈祷で、病を、治す人もいる。

勿論、治らない人もいる。


昔と、違い、色々な、細菌が出ているので、祈祷だけでは、済まなくなった。


儀式が、終わった後で、おじいさんも、セキが出て、止まらないと言う。

一応、手当てをしたが、翌日、私は、咳止めの薬を、届けた。


旅の時には、必ず、風邪薬と、抗生物質、その他、常備薬を、持って出る。

皆、医者から、処方してもらうものである。

おじさんには、咳止めを、半分にして、飲むように言った。

薬を、飲まない地域の人である。効き過ぎることもある。


家に戻り、小西さんは、奥さんに、寝酒を、出させて、私たちに、ご馳走した。

しかし、もう、すべてに、酔っているのである。


小西さんの、日本革命の壮大な話を肴に、また、少し飲んだ。

楽しい。実に、楽しい酒だった。


深夜を過ぎて、ようやく、床に就くことにした。

私たちの、寝床は、蚊帳が吊られていた。

そして、枕元に、電池の電灯が、置かれていた。

家のすべての、電気が消された。真っ暗闇である。

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2008年06月10日

タイ旅日記 10 平成20年6月

夜の闇。


私は、二度、目が覚めた。

目が覚めて、目を開ける。しかし、本当に目を開けているのだろうかと、思った。

何も、見えない。


闇である。

自分の手すら、見えない。


どこにいるのかすらも、解らない程、深い闇。


私は、枕元の、奥さんが用意してくれた、電灯を探した。

それを、取り、スイッチを入れる。

光の線が、走る。


当てた部分だけが、照らし出される。

私は、蚊帳から出て、部屋を抜けて、階段を下った。

そろそろと、降りた。

電灯の光のみが、便りである。


このような、闇を、私は、知らない。


山の中の闇。一つの光も無い。皆無。

物の姿も、勿論、見えない。

私は、階段を下りた、すぐ側で、小便をした。

トイレに行くまでもない。

近いはずのトレイが、遠くに思えた。


目の前の、ハバナの木も見えない。

電灯を消してしまうと、何も、見えないのである。


私は、足探りで、また、階段を上がった。

蚊帳に入り、また、体を横たえた。

横に寝ている、野中も、光を消すと、見えない。


そして、時計を見ると、3:30である。

次に、目覚めたのは、5:30である。

まだ、闇だった。


再度、私は、電灯を持って、下に降りた。

矢張り、闇である。

同じように、小便をした。

その時、トイレの方から、水音がする。

まさか、誰かが、水浴びをしている、はずない。


だが、確かに、その音を、聞いた。それは、何度も、聞こえた。

朝方、霊が動くという、昔の話を、思い出した。

だが、もしや、この家の、おかあさんが、水浴びをしているのかもしれないと、思いつつ、また、階段を上がった。


次に、目覚めたときは、朝の六時である。

日が登り、闇は、消えた。


私は、すぐに、下に降りた。

奥さんが、朝ごはんの仕度をしていた。

鶏が、凄まじく鳴く。

これ見よがしに、鳴く。

隣近所の鶏も鳴く。兎に角、煩いくらいに鳴く。


一羽の鶏が、籠に入られていた。

私は奥さんに、これは、どうしてですかと、問い掛けた。

奥さんは、おかあさんに、声を掛けて、聞いている。

しかし、私にすぐに、答えない。

私は、もしかしたら、食べるのと、尋ねた。

奥さんが、浅く頷く。


私は、昨日、ここの鶏や、ヒヨコを見ていると、もう、ここの鶏は、食べられないと言った。それを、奥さんが、気にしていると、思った。


一度、その場を離れて、戻ると、鍋に、蓋がしてある。

そろそろと、鍋を開けた。

鶏の、頭があった。口を開けていた。

これが、朝のごはんの、おかずになるのである。

伝統的な、鶏のスープである。


香辛料の役目をする、山菜が、幾種類も、入っている。


野中と、小西さんは、酒の飲み過ぎか、中々、起きてこない。

私は、その辺を、周り、時々、鍋の蓋を開けて、中を見た。

お湯の色が、変わってゆく。

鶏の出汁が出ているのだ。


食事である。

おとうさんと、小西さんと、私たち二人が、鶏のスープを囲んで座る。

私と、小西さん、野中の前に、別の一つの椀があった。

インスタントの、味噌汁だった。


折角なので、私は、鶏のスープを試した。塩で、味付けしただけである。ハーブが利いて、美味しい。そこで、一つ、肉を取り出して、食べた。悪くない。もう一つ、食べた。

朝、殺した、締めた、鶏である。

人は、命を頂いて、命を繋ぐという、当たり前のことを、実感した。


その後は、ご飯を、半分にして、味噌汁で、食べた。


こんな、貴重な体験は無い。

バリ島、ウブドゥの、朝ごはんも、地元の人は、塩をかけるだけで、食べるという。

おかずが、何種類もある、日本の朝の食卓とは、雲泥の差である。

どちらが、云々ということではない。


私は、日本の、メタボなどという言葉など、どうでもいいと思っている。

食べられるのである。

何でも、食べる。

世界の三分の二が、飢えているという。

体脂肪が、云々とは、何事かと、思っている。

これ以上になると、とんでもなく、過激になるので、省略する。


本日の朝、それは、結婚式のある朝である。そして、私たちが、バンコクへ向かう日である。


夕方四時頃に、この村を、出なければならない。

貴重な一日が、始まった。


朝ごはんを食べて、私は、顔を洗うために、トイレに行った。

水瓶が用意されて、そこから、桶で、水を掬い、顔を洗う。

非常に、不便である。

私は、日本の生活に慣れている。


ただ、水で、顔を洗うだけである。髭も、そらない。

そして、初めて、大便をした後、左手で、尻を拭いた。

右手で、水桶を持ち、尻に水を落としつつ、左手で、尻を洗う。

尻の穴を触る。

自分の、糞を触る。それを、水で流す。


感動。


これこそ、エコであろう。


何も言うことが無い。


自分が、糞をしない者のような、顔をして生きている者、多く、その匂いも、即座に消臭するという、文明社会。いいではないか。しかし、私は、糞小便をする者であることを、明確にしたのである。


子供の頃、私の田舎では、喧嘩した後などに、糞して寝ろ、という言葉を吐いた。

何と、やさしい、罵倒であろうか。


糞して、寝ろ、である。


お前は、糞をする者である。

私は、糞をする者である。


これ、最高の哲学であり、思想であり、実存である。

糞が、出なくなったら、死ぬ。

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