2008年01月09日

トラック島慰霊の旅 9 平成20年1月23日

見渡すと、バラック小屋が多い。

手作りの小屋である。


野中の後を、歩いた。

昨日来たと言う、村に向かっている。


まず、昨日ご馳走してくれた、村の主の家に行く。

丁度、主人が寝ていた。

声を掛けると、家族皆が、出てきた。

野中が、お礼を言い、プレゼントを持ってきたと言うと、食べ物かと、問う。

私たちは、タバコを五箱買っていた。

現地のタバコである。

それでも、喜んで、受け取ってくれた。

息子と思える男の子から、小さな子まで出て来たので、写真を撮る。


再び、道路に出て、先を歩いた。

ガイド役をしてくれた子の家に向かった。

ところが、野中の記憶が、曖昧で、立ち止まった。


その時、声を掛けられた。

コーヒー、コーヒーと言う男がいる。

野中は、声を上げた。昨日逢った男だった。


私たちは、コーヒーを頼んだ。

一杯、25セントである。集った人にも、ご馳走することになり、四つ、注文した。

男は、そこに、腰掛けてくれと言う。

手作りの、棒で出来た、椅子である。

横には、子供が、裸で寝ていた。


どんどんと、人が集まってくる。子供たちも来た。


私は、パンを食べようと、袋から取り出すと、野中が、まず、こちらが食べてから、皆に渡すといいと言う。

そのようにした。すると、渡した者が、他の者に、分け与えるのである。

子供にも、渡す。すると、その子は、他の子に、半分、分け与える。

それが、自然なのである。

こんな、風景は、見たことがない。


私は、すべてのパンを、皆に与えた。それが、次々と、人から人へと、渡るのである。

こういう、礼儀は、自然に出来上がったものなのだろう。


その内に、ガイド役の子が来た。ジュニオという、名だった。

13歳で、小学校の七年生である。日本だと、中学一年生である。

だが、日本の子供より、小さい。日本の10歳程度の子供のようだ。


野中が、ジュニオに、Tシャツを渡す。

ウァーと、声を上げて喜んだ。

さらに、私のものも、渡す。

ジュニオは、二枚のTシャツを、両肩に掛けた。


その間にも、子供たちが、大勢、集ってきた。


コーヒーを飲み、主人と、話をした。

その中で、私は、子供服などは、どうしているのかと、訊いた。

無いという。

確かに、小さな子は、裸だった。

お金が無いので、皆、出稼ぎに行っている家族や親戚から、送ってくるのである。


着の身着のままである。


私は、次に来る時、子供服を持ってくると言うと、近くにいた、大人が、皆、お礼の言葉を言う。それが、本当に、心ある言葉なのである。

意味がよく解らないが、何を言うのかは、理解した。


主人が、村を案内すると言う。

そこで、私たちは、お願いした。

しかし、それがまた、大変なことになるのだ。


山の中を行く。道無き道を行くといった、感じである。

子供たちも、着いて来た。

彼らには、当たり前だが、私には、山道である。

すぐに、汗だくになった。何度も、着物の、袖で、汗を拭いた。そして、また、汗が出る。


遂に、山の上まで来た。

そこにも、家があるという、驚き。

そして、山の上の風である。その、心地の良さは、格別だった。

その家の、おばあさんが、木の元に、ゴザを敷いて、寝ていた。


私たちが行くと、起き上がり、笑顔で挨拶する。

すぐに、日本人だと、解ったのは、私の着物である。


歓迎に、小さなミカン、日本で言うと、カボスに似たものを、出してくれた。

それは、酢のように、すっぱい。

皆で、それを、食べた。

その家の子も、出て来た。


暫くすると、その家の子が、主人に何か言う。

向こうに、日本軍の大砲があるというのだ。それを、私たちに見せたいと言う。


野中が、着物で、行けるかと、訊くと、大丈夫だと言う。しかし、付いて行くと、そこは、ジャングルである。

引き返すことも出来ず、私は、皆に付いて行った。


だが、主人も、子供たちも、兎に角、親切である。

足場の悪いところを、整えて、私を歩かせる。手を取る子もいる。


漸く、日本軍の要塞を発見し、大砲を見た。


その付近には、大きな穴が多くあった。攻撃された跡だと言う。


肩で、息をしつつ、写真を撮った。

そして、そこからの眺めである。絶景だった。


子供たちには、山が、庭のようなものである。

その有様にも、感動した。


大砲に上がる子供たちである。

誘われたが、私は、上がらなかった。

下から、見上げるだけである。

戦争当時の様を、想像した。

ここで、毎日、敵を発見しては、攻撃していたのであろう。

山の上に、要塞を築き、大砲を設置しての、苦労を思った。


そして、戦争とは、何と無益なことかと、溜息をついた。


また、誰も日本人が、こんな所まで来て、見ることは、ないだろうと思えた。

貴重な資料である。


暫くして、戻ることにした。

子供たちの身に軽さは、脅威であった。

しかし、私を先に先にと、歩かせる。

必ず先導する子がいる。


最初の山の上に戻った。


私は、子供たちの人数を訊いた。

七名である。

一人、二ドルを渡すことにした。

一人の子に、それを渡すと、その子は、満面の笑みを浮かべた。

感謝の気持ちである。

そして、主人には、案内のお礼として、20ドルを渡した。


少し休み、下山することにする。

主人が、折角なので、私の家族に会ってくれと言う。

私は、オッケーと、答えた。


主人の家は、山の中腹にある。

奥さんが、赤ん坊を抱き、二人の娘がいた。

一間の小屋で生活している。

どんな風に寝ているのか、想像がつかないのである。


実に、貴重な体験をして、私たちは、皆と、別れた。


ジュニオだけは、ホテルまで、着いて来ると言うので、三人でホテルへの道を歩いた。



posted by 天山 at 16:42| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月11日

トラック島慰霊の旅 11 平成20年1月23日

ジュニオを連れて、ホテルに戻り、着替えて、ツゥジィーさんの店に向かった。


ツゥジィーさんが、出迎えた。

ジュニオに対しても、別段不思議な顔は、しない。

通常、島の人は、入らない店である。


二人は、顔馴染みである。島の人は、ほとんど、知り合いである。

注文した、ハンバーグがくるまで、ツゥジィーさんと、ジュニオが、現地語で、話している。

内容は、解らない。


ツゥジィーさんが、英語で、言った。

先日、亡くなった、17歳の男の子がいた。

声が出なくなり、食べ物が、喉を通らない。島の病院、グアムの病院、ハワイの病院に行ったが、原因不明で、戻って来て、亡くなった。


彼女は、ブラックマジックにかかったのだと言う。それを、二人で、話していたのだ。


ブラックマジックは、誰でも、かけられる。そして、誰でも、それを、解くことが出来るという。

草木の新芽を使い、それを、煎じて作るらしい。


その17歳の男の子の、親が、熱心なクリスチャンであった。

それで、島の方法を、申し出た人が、多くいたが、断り、死んでしまったのだという。

ブラックマジックも、その解き方も、悪魔のものだというのだ。

だが、母親は、彼を葬る時に、アイムソーリィと、何度も泣いたという。


ツゥジィーさんは、ブラックマジックは、必ず解けるという。


ツゥジィーさんが、一度部屋を出ると、ジュリオが、ブラックマジックの掛けるのを、見たいことがあると言う。そして、私たちに、それを、再現してくれた。

人が寝ている時に、それを、行うという。そして、舌をレロレロレロと、口から出し入れし、呪文のように、アワアワアワアワと、と唱えるという。


その、ジュリオの表情が、おかしくて、私は笑いそうになったが、我慢した。

それをする、ジュリオ自身が、白目を剥くのだ。


野中は、風土病だという。

だから、島の草木の新芽を使って、直すのだという、意見である。


私は、それもありであり、もう一つは、島にある、元の信仰形態を知りたかった。

しかし、ツゥジィーさんも、ジュリオも、それを、知らないという。


バリ島のように、元からある、神様である。その名前だけでも、残っているはずだが、矢張り、キリスト教の支配に入り、それが、霧散してしまったのだろう。


1500年代の、スペイン統治の前には、何らかの、土着の信仰形態が、あったはずである。


二人は、ブラックマジックを解けば、彼は、死ななかったという、意見であった。


ツゥジィーさんの、母親なら、土着の信仰を知っているかもしれないと、私は、帰国して、思った。次に、行った時に、それを、聞きたいと思う。


ジュリオは、ハンバーガーを、自然に食べた。

いつも、食べているように、食べた。普段は、決して、食べられないものであるが、不自然さは、なかった。


野中が、ジュリオに、手紙を出したいが、ジュリオの所は、住所がないと、ツゥジィーさんに言うと、それなら、私の所に、送ってくれれば、届けてあげるという。

そこで、ツゥジィーさんの、住所を知ることになる。


島の大半の人には、住所が無いのである。

不思議だ。

それでも、郵便物は、届くという。

知り合いの手から、親戚の手からと、渡り、本人に届くようである。

カルチャーショックである。


いかに、島の人たちが、親しい関係を、築いているかということである。


さて、私は、ブラックマジックについては、バリ島のものも、興味があり、ただ今、調査中である。

例えば、日本人でも、それにかかる人もいるが、かからない人の方が多い。つまり、バリ島の人にのみ、通用する、ある種の、霊的作用であろうと思う。

ホワイトマジックという、それを、解く方法もある。


それが、例えば、祝詞の清め祓いで、解けるかということも、興味がある。

しかし、これについては、省略する。


四人で、歓談していると、時間が、あっという間に、過ぎた。

島が、夕暮れ近くになるので、私たちは、立ち上がった。


今度こそ、本当に、ツゥジィーさんとも、お別れである。

前回、ツゥジィーさんに、また、島に来るかと、問われて、私は、返事が出来ず、曖昧にしていたが、この時、私は、ツゥジィーさんに、来年、また、来ることを、約束した。


慰霊に訪れる日本人が、今は、激減しているのである。

もう、高齢になり、来る人が少ない。

ほとんど、ダイバーのみである。


スィユゥアーゲン、という、ツゥジィーさんの顔が、晴れやかだった。

通りすがりの旅人ではなくなったのである。

知り合いになったのである。


店を出ると、丁度、タクシーが来たので、それに乗り込む。

ホテルで、私と野中が降り、そのまま、ジュリオを村に返した。

運転手には、一ドル50セントを渡した。

通常の三倍の、料金である。


ジュリオとも、これで、最後である。

またねー、という、日本語が通じたようである。


部屋に戻って、私たちは、一息ついた。


随分と、内容の濃い時間だった。


野中が、フロントの女の子と、話に出たので、私は、一人になった。

フロントの女の子も、日系三世である。中村といった。

時給一ドルで、働いている。

信じられない、安さである。


私は、帰り支度を始めた。

夜の11時に、ホテルを出るのである。

深夜便である。

また、グアムで、手荷物検査を受けると、思うと、憂鬱になる。

グアム到着は、朝の三時半頃であり、最も、眠気の強い時間である。


今度は、冷静に、検査官の言う通りに対処しようと思う。

神妙になっている、自分に、笑った。


野中が、戻ってきた。

そして、カメラがないと言う。

ジュニオが、持っているか、ツゥジィーさんの、店に忘れたかである。

ジュニオなら、返しに来ると、思った。


暫くすると、フロントからの電話である。

ジュリオが、やって来た。

野中が、出た。

数名の子供たちを、引き連れている。

私は、野中に、ここに、皆を、呼んだら、いいと言うが、野中は、部屋を、見せない方がいいと言う。

私も、外に出ることにした。


一ドル紙幣を一枚持って、出た。

ジュリアに渡すためである。

今回で、ジュリオは、10ドル程の、収穫を得た。

彼は、父親が車椅子の生活で、必死で、家計を支えようとしている。

それが、痛いほど解る。


子供たちを見送り、私が先に部屋に戻る。

野中が、戻って来て言う。

ジュリオが、二ドル欲しいと言ったらしい。また、カメラも、最初は、解らないと言ったと。それじゃあ、あの店に、取りに行くと言うと、ズボンのポケットから、カメラを取り出して、ここにあったと言った。

本当は、カメラが欲しかったのだと、野中は言う。

そして、子供たちにも、行けば、二ドル貰えると言って、連れて来た様である。


野中に、みんなに、二ドルくれと、いったらしい。

野中は、お金は、木村が持っている。自分には無いと言ったと、言う。

野中が言う。

金があると、見ると、こういうことになる、と。

確かに、ある人から、貰うというのは、彼らには、当たり前のことである。

私は、それで、気分を悪くすることはなかった。

結果的に、カメラが、戻り、良かったのだ。


夜の九時である。

私たちは、ホテルのレストランに入り、最後の食事をした。


ビーフのミンチを、チーズで、くるんでいるような、実に、後味の悪いものだった。

本日の、お勧め、ディナーである。

一人、約10ドル。

飲み物は、水にした。


部屋に戻る。

野中が、急いで、帰り支度をする。


野中が、荷物を持って、部屋を出た。

フロントの女の子と、話すためである。


私は、時間まで、部屋にいた。


私が、一階に下りると、いよいよ、迎えの車が来た。

旅行会社に委託されている、現地の旅行会社の方である。

現地生活、20年という女性だった。その、旦那さんは、30年の現地生活であった。


彼女から、車の中で、島のことを、聞いた。

私が、感じたことを、確認するようだった。


そして、産経新聞の記事のことにも、触れた。

取材を受けたのだと言う。

それは、産経新聞の記者ではなく、JOCAの人だと言う。

独立行政法人である。青年海外協力隊などを、出している団体である。


産経新聞は、その文章を元に、記事を書いた。

つまり、記者は、取材に来ていない。

そして、それは、非常に偏狭なものだった。

そのように、書くことも出来るが、状況を誤って、理解しているというものだった。


どうしても、遺骨を、見世物にしているという、発想なのである。

確かに、遺骨は、見ることが出来るが、そこまで、見るということは、前にも書いたが、ダイビングでも、相当の経験者である。

それで、果たして、見世物にしていると、言えるのかということである。


遺骨の多くある場所を知る、案内人もいる。

そして、それは、案内するという、仕事であるから、お金を得る。見世物にして、チップを取るという感覚ではなく、それが、仕事なのである。


それを、チップを得て、遺骨を見せるという表現にも出来るということだ。


微妙な、表現の違いである。

ただ、基本的に、そのようなことは、無いと、彼女は言う。

私も、ダンピングショップの人から、聞いた話では、微妙に、ニュアンスが違うと、感じた。


だが、産経新聞の記者は、見世物にされているという、前提の元に、記事を書いたといえる。微妙な、ニュアンスの違いであるが、私は、それは、行き過ぎた書き方であると、判断した。


慰霊を終えた私には、更に、遺骨の、問題ではなくなっていた。

遺骨は、抜け殻である。

その、霊、魂は、すでに、次元を異にしている。


彼らも、後は野となれ山となれ、なのである。


出国審査を終えて、搭乗ロビーに出た。

再び、この島に来ると、信じた。また、やるべきことが、一つ増えたのである。

posted by 天山 at 16:43| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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