2008年01月01日

トラック島慰霊の旅 平成20年1月23日

今、再び、何故、追悼慰霊なのか。


トラック諸島、現在のチューク島への追悼慰霊が、来週に迫った。


私の、親族が、なくなっている訳ではない。しかし、私は行く。

私の父の兄たちは、多く戦死している。しかし、もう、彼らが、どこで、亡くなっているのかを、知らない。

私は、具体的な、所属部隊も知らない。


せめて、生前の祖母に、聞いておけば、よかったと思う。しかし、もうそれは、いい。これから、出来る限りの場所に行き、追悼慰霊をする。


こういう活動をしていると、様々な情報や、話を聞くことになる。


バリ島。

バリ島には、現在、テラハウスを、建設中である。

最初に、バリ島に出かけたのは、今から、13年前である。

そして、昨年、久々に、バリ島に出かけて、その変化に驚いたものだった。


テラハウスは、借地である。

私の、お弟子さんの婚家先の、土地である。

当然、その家族の皆様との、付き合いも、はじまった。


いつも、そこに、お爺さんがいる。

言葉は、かわさないが、会釈する。向こうも、会釈をする。

昨年の四月、初めて、その家庭で、夕食をいただいた。

その時、お爺さんは、黙って、私たちの座に加わり、座っていた。

何も、言わない。


実は、つい最近、この話を聞いた。


バリ島にも、戦争時代の、記録が、残されている。

第二次世界大戦である。

日本の占領地に、バリ島もあった。それは、知っていたが、具体的なことは、知らなかった。インドネシアという、大枠で、考えていた。つまり、バリ島の人とは、それほどの、関係はないと。


ところが、違った。


その、お爺さんの、年齢以上の人は、男は、皆、日本軍の奴隷にされたというのだ。


バリ島・ウブドゥの男たちは、自分たちの作った米を、日本軍に渡すために、海側まで、徒歩で、米を運び、さらに、船に乗り、使用されたという。


タイ・ビルマ戦線、インパール作戦も、そうだが、現地の人たち、男たちを、荷物運びの、クーリーとして、兵隊の数より、多くの中国人、タイ人を、使用したという。


勿論、兵士たちと、共に、亡くなっている人もいる。


愕然とした。


実は、日本人と結婚する、バリ島の男が多いが、その内実は、親族に必ず反対する人がいるという。昔の日本軍の有様を知る人たちだ。


ただ、救われているのは、バリ島の人、バリニーズたちの、心情は、過ぎたことは、忘れるという。

私の、お弟子さんが、夫に、お爺さんは、日本人を、憎んでいるだろうとね、と、尋ねると、いや、忘れたと言う、と、答えたという。

もう、過ぎたことだから、と。


日本の感覚で、言えば、水に流すということだ。


そして、私は、言われた。

これから、活動するバリ島でこそ、戦争犠牲者の、追悼慰霊を、行って欲しいと。


お弟子さんの、ご主人の、知り合いの、お爺さん、また、年老いたお父さんに、奴隷として、働いた人が多くいたという。

今は、皆、亡くなっている。


日本兵に、肩を斬られて、体が、歪んだまま、生きていた人もいるという。


バリ島の、観光地にも、戦争の記念館がある。

そこに行く日本人に、ガイドは、決して、その話をしないと聞く。


黙して語らないのだ。


これも、私が、戦争犠牲者の、追悼慰霊をしてるということを、言うからの、情報である。


そうであったなら、バリ島でも、時期を見て、戦争犠牲者の追悼慰霊を、行いたいと思う。いまだかって、バリ島の犠牲者の慰霊などした、日本人はいない。


さて、私の、トラック諸島への、慰霊の情報で、遠い記憶を思い出した方も、多い。忘れた振りをしていたのだ。

思い出さないようにしていたのだ。


実は、という、前置きで、話が始まる。


もう、戦争が終わり、戦争体験者も、多く亡くなってる。

その、孫たちの時代である。

話を聞いていた孫たちに、尋ねるしかない。


バリ島で、日本軍の犠牲になった方々の追悼慰霊をすると、決めた。


日本政府は、政府開発援助として、毎年、インドネシアに、一千億近い、支援をしている。それは、あまり、知られていない。

また、博物館や、建物の玄関の、横に、日本政府によって、戦争保障の云々という、看板が掛けられている。ほとんどの日本人観光客は、それを、見落とす。


国と国の、間では、そのように話し合いが行われるが、市民は、知らない。

それを、知らせるべきであると、共に、日本人が、慰霊の行為を、すること。それに、尽きる。


死ねば、終わりで、死んだ者が、損だというなら、それは、話にならない。

死んだ者の、気持ちを代弁する必要がある。


神仏は、妄想だが、人が死ねば、霊になる。

その、霊位に対する所作が必要である。


すると、矢張り、こうしては、いられないのである。


謝罪外交と、保障外交に、日本は、明け暮れた。

それでも、まだ、足りないのである。

つまり、最も、大切なこと。

慰霊を、行わないからである。


国の要人が、花輪を持って、追悼の行為をすることも、必要であるが、実際的に、祈りを持って、日本人の祈りを持って、行う必要がある。


先祖祭りを大切にする、日本人である。ならば、あちらの国の人も、そうである。

篤き思いを持って、それを行う時、本当に、謝罪という、言葉の重さが、成就できる。


トラック諸島にも、現地の人たちがいた。

その人たちも、犠牲者であり、亡くなった方もいる。


日本兵だけではない。

日本人だけではない。


戦争で、犠牲になった、すべの方々の追悼慰霊なのである。


人の思いから、念というものが、発せられる。

それは、念として、単独で、行為するものである。それが、多くの積もると、想念となる。

もし、恨みや、憎悪の、想念ならば。

再び、人の心に、戦争の種を蒔く。


平和を願う行為の一つに、追悼慰霊の行為がある。

口先では、最早、駄目なのである。


生きている方は、忘れてくれるという。

しかし、死者は、口無しである。

その、死者の思念を、感じ取る行為が、追悼慰霊なのである。


日本の伝統には、鎮魂の作法という、特別な、死者に対する作法がある。

勿論、それを、私が行うのではない。

私が行えるのは、追悼慰霊である。


鎮魂とは、御霊、鎮めである。

これは、高い次元の霊的存在の介入なしに、行為できるものではない。


私がする、追悼慰霊は、亡くなった方々に、哀悼の念を持って望み、それぞれの、霊的次元に、お戻り願うことを行為する。


霊の存在を否定する人には、理解できない。

もし、霊の存在を否定するならば、死者は、そのまま、放って置けばいということになる。

死んだら、終わりであるならば、死者のための行為など、必要ない。

何故、古代から、死者に対する所作があったのかは、霊が存在するからである。


勿論、私は、霊の存在を否定する人に、霊の存在があるということを、説得するものではない。


心の命ずるままに、行為するのみである。


私は、知っているからである。

霊が、存在することを。

posted by 天山 at 16:36| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トラック諸島慰霊の前に言う

戦争犠牲者、追悼慰霊の旅をする私は、太平洋戦争の様を、調べている。


この戦争は、日本が、追い詰められた故の、自衛の戦争であるという、良心的な、分析をする者もいる。それを、私も、支持する。しかし、その、犠牲者のことを思うと、矢張り、やり切れない思いを抱く。


誰かを、悪者にして、その、怒りを、静めるということも、ある。

犯人探しである。

それは、出来る限り、しないと、思いつつ、矢張り、この戦争に関して調べてゆくと、一人の人物に行き当たる。

東条英機である。


最後には、徹底した精神主義にての、東条の行為に、私は、ドイツの、ヒットラーを見るのである。

どのように、良く解釈しても、彼は、誤っていた。


彼は、ある時、子々孫々に、政治家などになることのないようにと、呟いたそうであるが、それは、彼が、政治と、軍事に関わるということを、是とせず、非としたということである。

それならば、あれ程の、犠牲を出すことなくの、方法を取れたはずである。


実に、軽薄で、実に、愚かで、実に、無駄な、人生である。


絞首刑は、最もであった。


その、孫に当たるという者が、東条の行為を、正当化する云々を言うが、有り得ない。

完全完璧に、間違っていた。


御前会議という、天皇を前にしての、東条の傲慢は、極まりない。

実に、不敬である。


彼は、天皇さえも、自分の意思に従わない場合は、殺したのである。


それが、実に、よく、理解できた。

ドイツのヒットラーを、見る思いである。


自害せずに、絞首刑になるとは、また、実に、恥ずかしいことである。

自分が、言ったことを、忘れているのである。


捕虜になり、辱めを受けるより、自害せよとは、東条の言葉である。


そして、天皇に責任が及ばないように、と、自分が、すべての責任ある者のように、振舞ったということ、実に、偽善である。

最後まで、演じたのであろが、愚かである。


日本の法律で、A級戦犯などという、罪は無いが、彼は、最上級の、戦犯である。


天皇、日本国、日本人を、舐めている。


誰も言わないので、私が言う。

彼は、地獄が、住処である。


単なる、野心にのみ、行為したのである。

勿論、政治家というものは、皆々、野心に行為する。


本当に、何かを変えたいと、思えば、私のように、政治家にならず、実際的、行為を行うのである。

少しばかり、名が知れると、政治家を目指す。つまり、顕示欲である。野心である。


政治家になるなら、有名になればよい。

ただ、それだけである。


さて、トラック諸島のことである。


1943418日ソロモン諸島の、前線基地を視察の、山本五十六連合艦隊司令長官が、米軍戦闘機16機による、待ち伏せ攻撃にて、機上で、戦死した。


米軍の日本軍の、暗号解読の成果である。

情報戦による、日本の敗北を意味する。


実は、この年、二月に、ガダルカナルを撤退している。

その敗北を、ニューギニアで、埋め合わせしようと、したのである。

ニューギニアに、兵力の増強を始めて、それは、うまく進んだ。

しかし、最も、兵力を増強する必要のあった、ラエ、サラモアへの第51師団の輸送は、その三月、連合軍機の攻撃によって、阻止され、輸送船八隻、護衛の駆逐艦四隻を失うという、大損失を蒙った。

ダンピールの悲劇と言われる。


この時、米軍、豪軍の戦闘機は、漂流する日本兵を、数日かけて、機銃掃射を繰り返して、出撃した魚雷艇が、海上を捜索して、日本兵を、射殺した。


漂流中の、無抵抗の日本兵を、射殺するというのは、戦争犯罪である。


ニューギニア戦線では、米軍の攻撃に、次第に、日本軍は、後退する。

何より、悲劇であることは、食料などの、補給がされず、多数の将兵が餓死したのである。


ニューギニア第18軍の戦没者は、約10万人である。そのうちの、約9万人が餓死である。


銃撃されて、死ぬのではない。餓死で、死ぬのである。


霊など、存在しないという者に言う。

その場に、行けと。

その場に行って、霊の存在の無いことを、確認せよと。

餓死した者の、霊の苦しみは、未だに、終わらないのである。


その場に、行けば、喉が渇き、兎に角、無性に、物が食べたくなるのである。

一時的に、霊が憑依する。


トラック諸島慰霊に、一ヶ月を切った夜、私は、多くの香りで、目覚めることになった。

そして、激しい、怒りと、悲しみである。

切なくなった。

それは、線香の匂いと、様々な花の匂いだった。


しかし、私は、霊能者ではない。

その姿を見ることはなかった。


何故、私のところに、コンタクトするのかは、私が、単に慰霊に行くからである。その、思い、すでに、飛んでいる。ただ、私の思いに、感応しているのである。

霊は、思いをのみ、受け取るのである。

その存在を知る者に、思いを送るのである。


勿論、私は、私の妄想であると、心得ている。


私の心が、トラック諸島に、広がっているのである。その心に、感応するのである。それは、私のみのもの。それを、信じて貰う何物も無い。故に、妄想である。


さて、海軍は、ソロモン諸島の、確保に、固執していた。

この地域が、突破され、ラバウルが、占領されると、連合艦隊の、最大の拠点である、トラック諸島が、米軍大型爆撃機の、行動範囲に入るからである。


そして、山本五十六の戦死である。


1943年の5月には、アリューシャン列島の、アッツ島が、全滅する。

敗戦に向かって、一直線に進んだ。

12月は、タラワ島、マキン島の全滅。

翌年、クェゼリン島、ルオット島の全滅である。


19439月の、御前会議は、茶番であった。

9月は、イタリアが、連合国に降伏したのである。


以後、無謀な戦いが、続く。


御前会議で、決定した、絶対国防圏の強化が、進まない。

それは、海軍が、トラック諸島の、確保を依然として重視し、圏外に位置する前方要塞の放棄に、踏み切れなかったからである。


米軍が、前方要塞に進軍し、全滅する。


その頃になると、海上輸送の、低下が、甚だしい。

船舶の喪失が、急増して、兵員輸送用の、輸送船すら、不足するのである。


1944年初頭、大本営は、中部太平洋の、防備強化を決定した。

3月から5月にかけて、サイパン、トラック諸島、グアム、硫黄島、ペリリュー島への、緊急優先輸送を開始した。


1月から、6月にかけて、中部太平洋に、輸送された兵士は、42千名。

このうち、潜水艦などによって、沈没した人数は、12千名。うち、戦死者は、3600名である。


1944年、米軍は、2月に、マーシャル諸島の、クェゼリン・ルオット島に、さらに、ブラウン環礁に上陸し、全滅させる。


217日から、18日にかけて、米軍の機動部隊が、トラック島を攻撃して、日本軍は、航空機270機、艦船40数隻を失うという、大損害であった。

これにより、トラック諸島は、完全に米軍に掌握された。


このような状態でも、大本営は、インパール作戦を開始したから、愚かである。

それが、タイ・ビルマ戦線である。


トラック諸島には、艦船だけではない。民間船、つまり、輸送船200隻あまりも、沈んでいる。

乗組員は、生き残ることは、出来ない。海底に、残されたままである。

地上戦の場合は、生き残ることもあるが、海上である。


イルカの背に乗って、助かるということは、ほとんどない。

全員、死亡である。


戦後、僅かばかりの、遺骨が、収集された。

後の遺骨は、今も、海底にある。


そして、世界のダイバースポットとなり、ダイバーが、日本軍の兵士たちの、遺骨を見るために、海に潜る。

それが、私の父や兄弟たったらと、思うと、ただ事では、いられない。


今、何故、追悼慰霊なのか。

心、斜めに構えている者には、決して、解らない。


靖国神社に参るが、遺骨眠る場所に、追悼慰霊には、行かない。

靖国に、戻られる霊は、少ない。

行き場を失っている。

故郷にも、帰られない。

行き場を失っている。

各々の信仰する、宗教の天国や、極楽にも、行くことが出来ない。

行き場を失っている。


そこに、漂うばかりである。

気を失ったままに、漂う霊もある。


追悼慰霊とは、彼らを、目覚めさせる行為である。

霊的存在であることを、目覚めさせる行為である。


多くの人類が、殺されてきた。

宗教の、発生は、それに大きく負う。

追悼慰霊の行為にあった。


目に見えない存在をもって、宗教的行為が、成された。

しかし、現在、宗教を見渡して、それをするもの、皆無である。

いやいや、供養をしています。追悼をしています。と言うだろう。それが、すべて、生きている側からの、満足感であるということに、気づかない。

死者を扱う宗教の、欺瞞は、計り知れない。


ローマ法王が、スペイン統治の南米の一億人を殺した、追悼慰霊をするなど、見たことも無い。

精々、信者の戦死者を、追悼する程度である。


それでは、日本仏教団体は、どうか。

農協さんのように、安楽な旅は、するが、金にならない、追悼慰霊、あるいは、供養などしない。

それでいて、したり顔で、お釈迦様の、教え云々と言う。呆れる。


皆々、宗教の大嘘に、気づくべきであろうと、思うが、騙されたいという方が強く、皆々、騙されて、念仏したり、題目を上げて、地獄行きの行為を、続けている様、つくづくと、哀れである。


しまいに、お遍路さんである。

弘法大師と同行二人で、四国を歩くという、おめでたさである。

自分を見つめる旅とは、笑わせる。

四国を、歩いて、自分など、見つめられる訳が無い。

それなら、隣近所の、ゴミ拾いでもした方が、実りある。


実に、愚かなことである。


さて、私は、心の命ずるままに、追悼慰霊を行為する。


トラック諸島全域を、追悼慰霊し、清め祓いを行う。


そして、霊位に、言う。

靖国に行きたい人は、靖国に。故郷に戻りたい人は、故郷に。母の元に戻りたい人は、母の元に。

天国や、極楽に行って下さいとは、口が裂けても、言わない。

霊界に、そんな場所は無い。


さらに、次元の別にする、世界へ、お戻りくださいと言う。


清め祓いとは、日本の皇祖皇宗に、お願いして、その、御霊を、御霊に、ある、悪しきものを、清め、祓い、本来の姿に戻ることをいう。

ただ今、皇祖皇宗を、総称して、天照御大神と、お呼びする。

これは、伝統行為である。


追伸

当初は、予算の関係で、海上慰霊を考えていなかった。

現地日本人の方が、慰霊の手配などを手がけていることは、知っている。しかし、私一人では、金額的に無理である。

そこで、同行の野中が、現地の漁師さんに、お願いするといいのでは、という話になり、現地で、交渉し、海上慰霊も、行うことにした。

浜辺で、トラック諸島全域に渡る追悼慰霊と、思ったが、矢張り、海上まで出て、行為することにした。

海上慰霊をし、浜辺での追悼慰霊を行うということになる。


ある夜、お香の匂いと、次に花々の匂いがして、目覚めた。

いいようもない、気持ちがした。

すでに、霊位にある方々が、コンタクトをしてきていると、感じた。

その場に行くこと自体に、慰霊の行為がある。

すなわち、家から出掛ける時から、慰霊の行為が、始まるということである。

思念は、時空を超える。しかし、その場に出掛けるという行為が、この次元に留まる霊位には、絶大なる影響を与えるのである。

こちらが、それに掛ける、様々な苦労を伴っての行為であることが、彼らの慰めになるのである。

この世は、行為の世界である。

だから、私は、行くのである。

posted by 天山 at 16:37| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トラック島慰霊の旅 1 平成20年1月23日

トラック諸島 慰霊の旅


慰霊の前日から、書くことにする。


朝から、横浜には、雪が降った。それは、十時頃まで、続いた。

しかし、寒さは、いつもより、感じない。それよりも、切なさと、悲しみが、心を覆う。


これは、思い出のせいだろうとか、思った。

札幌から、こちらに、内地に出て、十二年目を、向かえる。

ホームシックであろうか。

だが、雪深い、北海道には、戻りたくないのである。

雪の無い、冬の生活に慣れて、心地よく過ごしている。


何故、悲しいのか、切ないのか。


明日、トラック諸島に向かうのである。

グアムで、乗り返して、翌朝、チューク島に着く。

時間が無いので、すぐに、現地の漁師さんを見つけて、海上慰霊の話をつけなければならない。丸一日のみが、与えられた時間である。

一日のうちに、すべての、追悼慰霊の行為を終えるべく、即座に行動しなければならない。


サイパンの時もそうだが、観光地化された、場所に行くという、趣味も、楽しみも、無い。また、見出さない。

そんな暇は、無い。


確かに、バリ島や、タイのチェンマイに行くと、日常の瑣末な、出来事から離れて、自由な時間が出来る。それは、大変、心地よいものだが、観光地に行き、遊びたいという感覚は無い。


私には、何も魅力がないのである。

旅の目的が無いものは、全く、興味が無い。


トラック諸島も、慰霊の一点のみ。


バリ島で、トラック諸島に出かけたという、一人の女性に、話を聞くことが出来たが、それは、現地の様子であり、ダイビングの観光客が多く、食べ物は、不味いということだけだった。そして、すべて、ドルであるということ。


現地の人の様子は、それでは、解らない。

島には、ホテルが、二つのみ。

別の島には、ホテルのような、宿泊施設があるのだろうが、そんなに、移動している時間はない。


出発前日の、悲しみと、切なさの理由は、ただ、慰霊する人々の声なき声を、感じているのではと、思うようになった。


月末の、支払い等のこともあるが、部屋から出ることさえ、億劫になる。

兎に角、胸が沈むのである。

心が、沈むのである。


戦争で、死ぬということは、何か。


そして、生きるということは、何か。


様々な、思想、哲学等、また、戦争肯定の思想もあり、その理屈も、知るものだが、矢張り、納得出来ないのである。

何故、戦争で、死ぬことになるのか。


誰のために。

彼らは、国のためにと、命を捧げたが、その国とは、誰か。

愛する、家族や恋人、友人、その他、縁する多くの人が住む国、日本のために、死ぬと、心に決めて、死ぬために、出掛けたのである。


それが、私だったらと、考えて、思考停止になる。


国の命令で、戦地に行け、そして、死ねと、言われて、さて、どうするのだろうか。

あまりにも、不本意で、不合理で、滅茶苦茶な、命令である。


徴兵制を言うだけで、侃々諤々の議論が起こる、国、日本である。

それでは、戦争で命を捧げた人を、損した人だと、思うのだろうか。

もう、関係ないのだと、思うのだろうか。


あの、時代に生まれたことが、不幸だったと、その一言で、片付けられる問題だろうか。


口を開けば、戦争反対と、言うが、それでは、その反対するために、何をしているというのだろうか。

世界の状況を、鑑みて言うとは、思えないのである。


湾岸戦争も、イラク戦争も、実際に起こっている。


日本の周辺には、核兵器を持つ国が、取り巻いている。

いずれ、核兵器が、日本に、再投下されると、私が言うのは、根拠がある。

この、今の日本人の、無意識である。


もう、そんなことはないだろうという、おめでたい、信仰である。

世界で、唯一、被爆した日本に、再度あるわけがないだろうと。

違う。

だから、あるのである。

原爆投下されたという、事実がある。

一番、原爆投下しやすい国になっているのである。


経済大国第二位の日本という国は、最も、テロリストたちの、狙いやすい国である。そして、再投下は、世界中を、震撼とさせる。

そして、最大のことは、キリスト教徒、イスラム教徒が、実に、少ない国である。

殺しても、世界を震撼とさせるのが、罪悪感は、少ない。


キリスト教国の中には、多くのイスラム教徒もいる。

同胞を殺す可能性が大きいのである。


それならば、最も適当な国は、日本である。


また、北朝鮮を見ても、アメリカと、取引するための、最後の手段として、日本攻撃がある。核兵器を使用して、その意思を示すことが出来る。

侵略の国、ロシアも、反日の国、中国も、日本を取り巻いている。


その民族性は、野蛮である。

自国民を、平気で殺すことが出来る民族である。それでは、他民族など、物の数ではない。


状況が、揃えば、いつでも、日本攻撃が、できるのである。


その時、国のためと、私は、命を投げ出すことが出来るのか。


そんなことを、考える間もなく、原爆によって、死ぬだろうが、もし、戦う必要があれば、殺される前に、相手を殺すと、銃を持つだろうか。


そんなことを、考えて、私は、トラック諸島の慰霊に向かうために、荷物の準備をする。


散華した、多くの霊位の声を聴くべくの、慰霊である。

死人に口なしという。

死者は、話さないという。

死ねば、終わりで消滅するめと、真顔で、言う者もいる。

それならば、なお、彼らの死は、何だったのか。


私は、散華した霊の声を聴く。

何故生きるのか。

死とは何か。

国を愛するとは、何か。


彼らの、思いを聴くのである。


人間の頭で、捏ね繰り回した、理屈を聞くのではない。

宗教や、哲学や思想の、言葉を聞くのではない。

実際、死を体験した、霊になられた、彼らの話を聞くのである。


私は、トラック諸島の慰霊のための、祝詞を書くことを、しない。

大祓祝詞を唱えるだけである。

私は、祝詞ではなく、話しかけるだろう。


清め祓いをするというのは、その場に留まり、無念の思いに、満ち満ちている霊位を、清め、そして、祓う。

清めは、その、満ち満ちる無念の思いを、浄化させ、祓いは、皇祖皇宗の元に、お戻しするという行為である。


しかし、靖国に行きたい霊位は、靖国に、故郷に戻りたい霊位は、故郷に、母の元に戻りたい霊位は、母の元に、である。

それ、以外の行為は、私には、出来ない。


宗教が言う、供養だの、天国にだの、極楽にだのという、妄想、妄語は、言わない。

供養の意味が違う。

天国や、極楽など、霊界には、無い。

あるという者は、嘘をついているか、勘違いしているのである。


霊界は、霊の世界であり、神も仏も無い。

在る訳が無い。


あると言う者は、人霊が、浮遊する人霊が、思い込んで言うのを、信じるからである。


人生は、後始末が、大切である。

しかし、戦争で、散華した人は、後始末が、出来ずにいる。


篤き思いにて、彼らに、哀悼の意と、追悼の意、慰霊の所作を行うことで、後始末として、貰いたいと思うのである。


彼らは、お隠れになったのであり、消滅したのではない。


イスラムの兵士は、アッラーのために、死ねば、天国にて、二十人の乙女が、待っていて、彼女たちが、世話をするという。

それは、現世の欲望を、来世にて、満足させえるという、実に、勝手なお話である。


それを、信じられるという、実に稚拙な、知能の程度である。


日本の伝統は、自然の中に隠れるとみる。

自然のうちに、あらゆるものが、隠れて在るということを、見抜いていた民族である。


それでは、行くのみである。

posted by 天山 at 16:38| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月02日

トラック島慰霊の旅 2 平成20年1月23日

定刻通り、成田を午後八時40分に出発した。

グアムに向かう。グアムで、乗り継ぎするのだが、その待ち時間は、約八時間である。


グアムに到着したのは、深夜一時過ぎである。

それから、朝のチューク行き、8:20まで待つ。


グアムでは、一度入国審査を受ける。そして、更に、手荷物検査を受けるという、面倒さである。

乗り継ぎの場合は、そのまま、搭乗口に行けると思っていたが、それで、とんでもないことになる。


再度の、手荷物検査で、私の体が、どうしても、ビーと鳴ってしまうのだ。

何度、通っても、音が鳴る。

検査員の検査を受けることになり、通りの横にある、ブースに入る。


そこでも、棒が、反応する。

なんじゃ、これは。

検査員の鬼のような顔付きと、何度も、鳴る棒に、私は、キレた。


羽織を脱ぎ、日本は冬であるから、袷の厚い着物を脱ぎ、さらに、私は、逆上して、襦袢も脱いで、言った。

アイアム ジャパニーズ ジャパニーズスタイル インターナショナルスタイル


実は、私は、少し、寝ぼけていた。

深夜であるから、飛行機では、眠っていた。眠ったまま、入国審査を受けて、再度の、手荷物検査である。

スムーズに行かないことが、腹立たしいのである。


危険物など、持っている訳が無い。

それは、今まで、和服を着ていて、疑われることもなく、特別扱いのように、丁重に扱われていたせいもある。


同行の野中が、向こうから見ていた。

私が、パンツ一つの姿になった時、俄かに、検査員たちが、どよめいたという。そして、検査官ではなく、事務所の方から、警官も来たという。

大変なことになったようである。

つまり、検査のことではなく、別の刑法違反になるのだそうである。

裸になったことに、対してである。


一人の男が、何かを言う。

私は、野中の方を見た。

「特別室に、って、言っているよ」


私は、それを聞いて、襦袢、着物、羽織と、着た。

そして、どうなるのかを、待った。

すると、一人の女性が、私のチケットを、差し出して、どこかへ行けと言っているようである。私は、航空会社に行けと言われていると、思った。

イッ ヒァー

と、下を指差した。

女は、頷く。


でも、よく解らない。

すると、黒人の検査員が、私を連れた。

私のチケットを持って、また、別の職員に渡して、何かを言う。

特別室に、行くのではなかった。


何をするのか、解らないのである。

黒人は、職員に、何か言うが、職員は、私のチケットを見て、「ああ、まだ、時間あるねー」と、日本語で言う。


少しの間があった。

どうするのか。


すると、再び、黒人の検査員が戻ってきた。

そして、渡したチケットを、また、取り、私に「こっちにきて」と、日本語でいう。


後に続くと、「こっちにきて」とまた、言う。

そして、再び、手荷物検査の場所に行き、私を通した。

そして、また「こっちにきて」と言う。


ビニールで仕切られた、ブースに入った。

「上着を脱いで」と英語で言う。

更に、着物も、脱げという。

襦袢だけになると、棒を取り出して、私の体を検査し始めた。

今度は、どこに、あてても、音はならない。

前や後ろと、検査して、異常無しである。


オッケー

あの、騒ぎは、なんだったのか。

黒人の検査員は、神妙に、私に話しかけた。私は、頷いて聞いたが、何を言うのか、解らない。野中が、来て、黒人と、話した。


要するに、黒人は、私が、裸になったから、いけなかったという。検査員の言う通りに、従っていればよかったのだ、と。


野中が、また、おかしな、英語を言ったらしい。

彼は、心臓が悪いので、少しのことで、カーッとすると。しかし、黒人は、野中の、ハートというのを、心が、悪いと、勘違いしたようである。


そのせいか、黒人は、私に、子供に話すように、何やら、やさしく説教をしているようだった。勿論、意味は、解らない。


このことは、グアム空港の、話題になったようで、帰りに、矢張り、乗り継ぎの待ち時間を、レストランで、お茶を飲んでいると、警察官が行き来して、何と、私たちに、話しかけるではないか。

あの日の、人だねと、野中に言うのである。


あーあ、である。

一度で、覚えられたのである。


さて、兎に角、不愉快な気持ちで、私は、搭乗口のロビーに行き、薄い毛布を広げて、休むことにした。

まだ、誰もいない、搭乗口前のロビーで、寝るなどとは、初めての経験である。


実は、余計なことだが、私は、観光地に旅行するという、あの手の旅行が嫌いである。

何もかも、揃って、準備万端、それに、乗せられて、楽しんでいる雰囲気を、楽しむという旅行である。

パックツアーにあるものである。

グアム行きは、そういう、若者で、溢れていた。

それらの、会話を聞いていると、ホント、具合が悪くなる。

グアムは、すべて作られている島である。観光客の金を目当ての、あからさまな架空の観光地である。

勿論、否定はしない。


ただ、私の趣味に合わないだけである。


どうしても、グアム経由しかないので、仕方なく、乗るのである。

飛行機は、寝るのが、一番であるから、寝る。


搭乗口のロビーで、寝て、何度か起きた。トイレに立った。

野中は、椅子で、寝ている。


朝、六時を過ぎたあたりから、人がポツリポツリと、入ってきた。

それでも、体を横にしていた。

七時になると、俄然、人が溢れてきた。

私は、起き上がり、椅子に座ることにした。


飛行機は、定刻通りに、出発した。

晴天である。

海の上を飛ぶ。

チュークに近づいて、下を覗いて、驚いた。

環礁の島々の海の、美しさである。


自然の脅威に触れると、本当に感動という言葉のみになる。

美しさは、脅威である。


それぞれの島の、浅瀬が、エメラルドグリーンに、輝いている。


こんな、場所で、軍艦や、大砲、飛行機による、戦いが、行われたというのが、信じられなかった。


着陸する飛行機は、海面すれすれに、飛んだ。

くらくらと、機体が揺れる。海に突っ込むのではと、思われた。

しかし、無事、着陸した。

posted by 天山 at 16:38| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月03日

トラック島慰霊の旅 3 平成20年1月23日

飛行機が、着陸すると、一人の男が、おじさんである、が、声を掛けてきた。

野中が話をした。

慰霊のために来たというと、どこですると聞く。

海上でと言うと、それなら、協力するということになり、彼は、名刺を取り出し、電話番号を書いた。

それでは後で、連絡するということで、私たちは、入国審査に向かった。


その、いかつい、おじさんは、大きなダンボールを担いでいた。グアムで、物を仕入れて来たのであろうと、察した。


平屋の鰊番屋のような、建物だった。

入国審査は、すぐに済んだ。

日本人は、私たちの他に、三人のダイバーがいた。

その三人とは、送迎の車で、一緒だった。

話はしなかった。


ホテルまでの道路である。

舗装されているところが、少ない。後は、ボコボコである。

大きな、水溜りもある。車は、大きな穴と、水溜りを避けて走る。

州都のある、島である。にもかかわらずの、道路である。

島の経済状態が、解るというもの。


最初に、私たちのホテルに、到着した。

チューク諸島の、ここは、モエン島、日本名、春島である。

モエン島には、二つのホテルがある。

もう一つ、ホテルの名があるが、現在のホテルは、二つだけなので、閉鎖しているのかもしれない。


料金は、私たちのホテルの方が安い。といっても、最低でも、一泊105ドル、一万円以上であるから、島の人から見ると、破格の金額である。


朝の11時頃である。


大きな、ベッドが二つある、また、大きな部屋だった。

テラスからは、海が見える。

しかし、安いのは、理由があった。

エアコンの室外機の音である。それで、ホテルのすべてのエアコンを、まかなっている。

ただ、その音には、慣れた。

それに、波の音が混じり、何とも不思議な音のハーモニーになった。


タイパンツと、Tシャツに着替えて、昼の食事のために、出かけることにした。

一番、心配していた、海上慰霊の準備が、思わぬところで、叶ったので、安心した。


空港から来た道を、歩いた。ホテルから、空港へ向かう道が、街である。

品揃えの少ない、小さな店、倉庫のような、スーパー、カトリック教会があり、私たちは、教会に、入った。


飾り気の無い聖堂である。

島には、カトリック、プロテスタントの教会のみ。島民は、100パーセント、キリスト教徒である。

キリスト教の歴史は長い。

スペインが、ミクロネシアに、来航したのが、1500年代である。

それから、統治の歴史がはじまる。

1886年に、スペインは、マリアナ諸島、カロリン諸島を含み、領有権を、宣言する。


当然、カトリックの信仰を持ってきた。


1899年に、スペインは、ドイツに、ミクロネシアの島々を売却する。

島には、スペイン人の血と、ドイツ人の血が入る。


統治、売却も、完全勝手な解釈である。


1914年に、第一次世界大戦が始まり、日本が、現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル、北マリアナを含む、ミクロネシア、南洋群島を占領する。

さらに、1920年には、国際連盟から、日本の委任統治が、認められる。

1945年の太平洋戦争終結まで、日本の統治下にあった。

おおよそ、30年間である。


チューク諸島の人々の、九割は、混血である。

最も多いのは、日本人である。

今は、その子、孫、ひ孫がいる。


私たちは、孫、ひ孫の人に、多く逢い、話を聞くことが出来た。


教会を出て、また、歩いた。


港の前の市場の前を通る。

だが、市場といっても、三枚ほどの板の上に、品物を乗せているだけである。

驚いたのは、海のものでは、カニだけである。

魚がないのである。

椰子の実、バナナ、ハバナの葉で包んだもの、花飾りという、程度である。


一人の、ばあさんが、私に、カニカニと言って、売ろうとする。

しっかりと、葉に包んでいるカニは、立派だった。


漁師の小屋が、立ち並ぶ。

港を眺めて、進んだ。

レストランなど、あるような雰囲気ではない。


港の外れの、倉庫のような、スーパーの前に来た。

その前に、レストランの文字がある。

オープンという看板が、掛けてあるので、そこに入ることにする。


韓国料理の雰囲気であるが、メニューを見ると、アメリカンが多い。

一番無難な、ハンバーガーを頼む。

私は、日本では、決して食べない。


その時、対応してくれたおばさんが、ツゥジィーさんという方である。

その方が、多くの情報を提供してくれた。

その母親が、日系一世であった。

六人兄弟の一番下の、娘だったという。


ツゥジィーさんは、時々、私たちの部屋に来て、アイスティーを、注いでくれた。

そのうちに、色々と、話が、始まった。


ツゥジィーさんが、子供の頃、そして、母親の時代、さらに日本統治時代と、戦争、戦後の話になった。

私たちは、身を乗り出して聞くことになる。

posted by 天山 at 16:39| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月04日

トラック島慰霊の旅 4 平成20年1月23日

私たちは、個室で食事をした。

ツゥジィーさんは、話に熱が入ると、私たちと一緒に椅子に座り、話を続けた。


ツゥジィーさんの、おじいさんである、日本人が、戦争中に、日本に戻った。そして、敗戦である。

母親の、兄弟である、長男が、父を訪ねて、日本に渡る。そして、見たものは、東京の焼け野原である。

父の居場所も、解らない。連絡も取れない。

皆で、日本で暮らそうとしたらしいのである。


しかし、ツゥジィーさん曰く、天皇陛下が、駄目だと、言ったと。

つまり、日本には、住めないということ、なのだろう。

ツゥジィーさんの口から、何度も、天皇陛下という言葉が出た。

彼女に取って、天皇陛下は、非常に親しみのある、それでいて、権威ある方なのであろうと、感じた。


その後は、父と離れ離れの生活である。

つまり、彼女のおじいさんである。

彼女の、母親の、上の兄弟たちは、皆、日本語を読めて、書くことが出来るという。


印象的だったのは、彼女の母親が話す、日本統治の頃の、チューク諸島の、素晴らしさである。現在のグアムより、凄かったという。


デュプロン島、日本名、夏島が、その当時、日本統治の主たる島であり、街が出来て、暮らしも、豊かであった。

今は、見る影も無いという。

その、夏島は、戦争時に、日本軍の様々な施設が、作られた。それは、現在も、跡地として、残っている。


戦争末期の悲劇は多い。

食べ物がなくなり、島民は、甚だしい食糧難に、直面した。

その時、多くの悲劇が起こった。


当時、中国、朝鮮からの、移民も多かった。

それらは、日本統治下にあり、日本人としての、入植である。

食糧難になると、中国人、朝鮮人が、現地の人を、借り出して、農地を開拓させて、働かせたという。

そこで、空腹の者が、働けなくなると、生きたまま、手足を縛り、生き埋めにして、殺したというものである。

それが、日本軍が、行ったと言われることもあるという。


また、現地人を、食べるというものである。

その犠牲になった家族が、戦後、日本に保障を求めた。

それは、中国人が、日本軍が、現地人を食べたという、噂を流したからであるという。

日本の、ある団体は、その家族に、大枚な、保証金を払ったという。どこの団体なのかは、察しがつくが、ここでは、省略する。


スペインからドイツ、そして、日本と、統治が変わったことにより、混血が、多く生まれた。しかし、中でも、日本人の血を持つ人は、日本人であるということで、誇りを持っているという。

勿論、彼女も、日本人の血が流れているゆえの、言葉であろう。

ドイツの血を持つ者は、ドイツに、誇りを感じているだろう。


さて、私は、遺骨の見世物について、尋ねた。


当然あるという。

ダイビングで、いくらでも、見ることが出来るという。

彼女は、見世物という言葉に、抵抗しなかった。


そして、この話は、多くの、現地人が、言うことであった。

遺骨は、見ることが出来る。

ただし、私が、産経新聞で、読んだ記事にあるようなものなのかは、まだ、確定してはいない。

更に、調べる必要があると、思った。


島の人は、遺骨を見ることを、簡単なことであるという。

そして、見世物という言葉にも、抵抗しなかった。


問題は、そこである。

当然と、島の人が言うのである。


その、当然という意味を、調べる必要がある。


私たちは、明日、慰霊を終えて、また、来ると、約束して、ツゥジィーさんと、別れた。


驚くべきことは、多かった。

それは、戦争、遺骨などの、ことだけではない。

この島の人々の暮らしに関してもだ。


ホテルに戻りつつ歩くと、皆々、私たちに、声を掛ける。

日本人かという声もあった。

日本人に対する、好意的な、声掛けは、凄いものだった。


後で知ることになるが、島民は、日本人に、実に友好的、好意的なのだそうだ。

当然である。

彼らの多くがに、日本人の血が流れている。

多くの言葉が無くても、何となく通じるということからも、それが、解る。

後半、特に、それを感じる出来事が、あった。


ホテルに戻り、少しの休憩をする。


私は、明日の追悼慰霊の、準備をした。

といっても、御幣を作る紙を取り出し、日本酒を用意して、今回は、祝詞だけの、慰霊の儀を行うと、決めていた。

経本のたぐいは、一切持って来なかった。


夕方になったので、野中が、海上慰霊をしてくれるといった、おじさんに、連絡するために、電話を掛けた。

部屋から掛けたのだが、出ない。

そこで、フロントに行き、そこの、公衆電話を使ったが、出ないという。


夜に、もう一度、連絡したが、出なかった。


私が、ホテルで、休み、準備をしている間に、野中は、ホテルの先、島の先端に向かって歩いたらしい。

そこで、出会った人々に、食事をご馳走になり、一人の男の子が、ガイド役で、着いて来てくれたという。

ガイド料が、二ドルであった。

彼は、それで、家計を支えていたということを、後で解る。


野中の話を聞きつつ、ホテルのレストランで、夕食を取った。

八時過ぎである。

ビールを注文した。

何と、アサヒビールが置いてある。

私たちは、バドワイザーを二つ頼んだ。

缶ビールである。350である。


その夕食は、二人で、30ドル以上、つまり、三千円以上であった。とても、料金が高いのである。

現地の人には、手が出せない料金である。

だが、私は、その時まで、それが、高いものだとは、知らない。当たり前に感じていた。


缶ビールは、日本でも、150円前後であるが、その倍以上の料金であった。


野中が、朝のうちに、慰霊をした方がいいという。

太陽が、まだ、登り切らないうちにしなければ、とんでもないことになると言う。

日焼けに慣れていない。

朝九時頃に、出掛けようということになった。

しかし、あの、おじさんと、連絡がつかないのである。


私たちは、もし、まだ、連絡がつかないようなら、直接、漁師たちの所に行き、交渉しょうということになった。

市場の横に、漁師たちが、たむろしていたからだ。


こんなに、早く寝ることはないと思いつつ、十時を過ぎて、私は、ベッドに着いた。


エアコンを切り、窓を開けた。

夜風が、ともて、心地よい。


少しの電灯で、外は闇だ。

ベッドから、丁度、満月に近づく月を見た。


兎に角、風が心地よいのだ。

posted by 天山 at 16:39| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月05日

トラック島慰霊の旅 5 平成20年1月23日

追悼慰霊の朝である。


八時頃に、ホテルのレストランに入り、朝食にする。

そこで、再度、おじさんに連絡して、駄目なら、漁師たちの所に行き、直接交渉しようということになった。


レストランの外に、海に面したコーナーがあり、そこで、分厚いパンと、サラダを食べる。

コーヒーを二度、お替りした。


その横に、ダイビング専門のショップがある。

私は、その店に近づき、周辺の海の図を見た。

艦船の沈んでいる場所に、赤い点がある。

夏島、竹島の付近に、それが多い。

さらに、日本の艦船だけではなく、ゼロ戦や、アメリカの飛行機、艦船も、沈んでいるのである。


その図の、写真を撮ることを、忘れたことが、残念である。


すると、一人の男が、来た。

ダイビングの店に入る。

一度、店の鍵を開けて、そして、出てきた。

私は、急いで、彼の元に向かい、話し掛けた。


少しの英語であるから、野中を呼んだ。

すると、色々と、説明してくれた。


海中を撮った、DVDもあるという。それを、見ると良いと、言われた。

そして、私は、遺骨を見ることを聞いた。


彼の話である。

遺骨を、見ることは、出来る。多くの遺骨のある場所もある。しかし、遺骨を見るための、ダイビングは、実に大変なことであると。

ダイビングの、経験が多くなければ、非常に危険であるという。

そこは、深い場所であり、また、艦船の中に入るので、迷路に入ることになり、一人では、無理だ。

遺骨を、見世物にしている場所もあるのかと、問うと、あるにはあるが、それも、知る人は少ないという。

チップを取って、見せるのかと、訊くと、ダイビングの案内は、料金がかかるという。当然である。それが、仕事であるから。


つまり、見世物にして、陳列しているという、意味にも、取れないこともないが、そこまで、ダンピングするには、相当の経験者でなければ、出来ないということだ。


単に、陳列して、見世物にしているという、表現は、当たらないのである。


一つの、有力な情報を得た。


DVDを、見るかと、いわれたが、時間がない。

私たちは、お礼を言い、部屋に戻った。

すでに、九時半近くになっていた。

おじさんとは、連絡がつかない。


私たちは、ホテルを出た。

港に向かう。


日差しが、どんどんと、強くなる。


港の前の、市場に行き、私は、花を探した。

しかし、花のみは無く、皆、花飾りである。

一ドルの、花飾りを二つ買った。


そして、すぐ横の漁師たちが、たむろする場所に行った。

皆、声を上げて、歓迎してくれる。

日本人かと、訊く。

頷くと、握手を求められる。


野中が英語で、海上に出たいと言う。

皆、オッケーと答えた。


一人の男が、バッジを出した。警察のバッジである。何か、免許のようなものなのだろうと、思った。

俺が行くという。

野中が、料金の交渉をした。

50ドルである。


野中が、30ドルでは、どうかと訊いた。

油が高いので50ドルでなければと、言う。

私は、それで、決めた。


船に乗ると、男が、油を買いたいので、先に、お金が欲しいと言う。

私は、すぐに、50ドルを渡した。


実は、漁師たちが、魚を捕らないのは、そういうことなのである。

魚を捕っても、油代にもならないのである。また、逆に赤字になるのである。

それより、ダイバーたちを乗せて、海に出ると、金になる。


実は、ホテルで、夕食に、シーフードと言ったが、魚が無いという。

不思議に思った。

目の前が海なのである。

魚がないことはない。

しかし、理由が解った。


男は、油と、缶ビールを10缶ほど買い、船に、戻った。


船外機が、大きな音を立てて、動き出した。

凪た海の上を、船がスムーズに滑る。


男が言った。俺は、船の沈んでいる場所を知っている、と。

そして、缶ビールをあおる。タバコを取り出して、私たちに、飲んでくれ、という。

勇ましい男である。


船は、春島から、夏島と、竹島の間に向かった。

ダイビングショップで見た、図の通りである。


ただ、私は、慰霊する場所は、私の、霊感、あるいは、勘で、決めたいと思っていた。


春島から、離れると、波が少しつづ、高くうねる。

それが、次第に、大きくなる。

船先が、どすんどすんと、落ちる。

前にいた私は、両側の、淵を掴んで、振り落とされないようにしていた。


20分程度、船が進んだ。

私は、あの辺りで、と、感じた。

目の前に、夏島が見える。

そこには、日本軍の多くの施設がある。皆、慰霊の人は、夏島に上陸して、慰霊碑に、向かうはずだ。


私が、ここでと、思い、後ろの男を見ると、男が、頷いた。

そして、指差し、浮き輪を指した。

白く丸い浮き輪である。


その下に、潜水艦が沈んでいるという。


その辺り一体が、戦場であった。


エンジンが止まり、男は、浮き輪に、船のロープを巻きつけた。


私は、すぐに、御幣と、日本酒、花を船先の、小さなスペースに置き、御幣を、持ち上げて、太陽にかざした。


そして、大声で、神呼びをした。

神呼びとは、皇祖皇宗である、天照大神、さらに、天津神、国津神、八百万の神、そして、この地の、産土の神、さらに、ここで散華した、多くの戦士たちの、命、みこと、である。

大祓い祝詞を唱える。

太陽に、その土地の、樹木の一枝を、掲げて祈るのは、伊勢神宮の所作である。

ただし、現在の伊勢神宮が、云々というものではない。

私の方法である。


太陽の、霊光を、願い、その力、霊力により、その場を、清めるのである。そして、さらに、祓うのである。


自然信仰の、そのままである。


祝詞を終えて、私は、静かに、申した。

ここに散華した、多くの命、みことに申すーーーーーー


波が荒く、体が、大きく揺れる。

両足に、力を入れて立つ。


どうぞ、靖国に、帰りたい方は、靖国に。故郷に、帰りたい方は、故郷に。母の元に、帰りたい方は、母の元に。次元を異にする霊界に、行く方は、霊界にとの、祈りの言葉を、宣る。


そして、太陽の霊を頂いた、この地の枝で、清めたまえ、祓いたまえと、繰り返した。


暫くの、私の所作である。花飾りを海に投じ、日本酒を撒きつつ、清め祓いを行った。


最後に、神送りの、言霊である、音霊を、唱えた。


そして、すべてを、皇祖皇宗に、お返しするため、御幣を海に投じた。つまり、すべては、皇祖皇宗のお力であるという意味だ。


すべてを、終えて、男を見た。

呆然として、私を見ていたようである。

私が頷くと、男も、頷き、浮き輪から、ロープを離した。


オッケーと、言うと、男は、エンジンを掛けた。ゴーバック。


船は、元の道を戻る。

私は、船先にいて、また、しっかりと、両側の淵に手を掛けた。


船が速度を上げた。

すると、私の口から、念仏が出る。

その、念仏は、三種類の、唱え方だった。

繰り返し、繰り返し、念仏が口から出る。


どうしたのか。

冷静になりつつも、口からの念仏を、私は聞いた。

なむあみだぶつ なむあみだーぶ なむあみだんぶー

なむあみーだーぶ

それは、島に着くまで、続いた。

posted by 天山 at 16:40| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月06日

トラック島慰霊の旅 6 平成20年1月23日

岸に着く頃、私の念仏も、終わっていた。


男は、大仕事をしたような、顔付きをしていた。

ただ、私が握手を求めると、私と目を合わせないのである。

あまりに、驚きの行動だったのかもしれない。野中とは、言葉を交わしていた。


何ともいえぬ、疲労感を覚えた。

少し、放心したのかもしれない。


漁師たちが、皆、声を掛けてくれる。

何となく、頷き合うから、面白い。


昨日の約束通りに、ツゥジィーさんの店に向かう。

時間は、正午前だ。約、一時間の間である。


ツゥジィーさんの店に向かう途中、男の子が、声を掛けてきた。

日本人ですかと、英語で言う。

そうだというと、嬉しそうに笑った。

年は、16歳で、高校生である。

私と野中と、交互に話をした。私は、片言の英語で、会話した。結構、うまく話が進む。

将来の希望を訊くと、政治家と言うから、驚いた。

その訳は、後で、解ることになる。

彼は、暫く、私たちと、歩きつつ、話をした。一緒に、何か食べようかと誘うと、バスが来るからと、別れた。


ツゥジィーさんの店に行くと、店員が、出ていた。

私たちを見ると、笑顔で、迎える。

ツゥジィーさんは、まだ、来ていなかった。


昨日と、同じ部屋に通された。

お客は、私たちしか、いない。


私は、ポークカレーを、野中は、チキンカレーを注文した。

そして、アイスティーである。

これは、何倍飲んでもいいということで、ツゥジィーさんが、勧めてくれた。


半分ほど食べていると、ツゥジィーさんが、やって来た。

今度は、すぐに、椅子に腰掛けた。

マアマに、私たちのことを、話したと言う。

すると、色々な話を、ツゥジィーさんにしたという。


日本の軍人は、素晴らしかったという。

ある、艦船は、沈没することが解って、皆で、船と共に、見事に死んだという。

その船を、ダイバーが見に行くと、船長室では、皆、椅子に座ったままに、死んでいた。

そんな話を、多く聞いた。


日本が戦争に負けた時、自分たちが、負けたように思ったらしい。


1945年に、太平洋戦争が終結すると、アメリカの占領が始まる。

二年後の、1947年には、国連の太平洋信託統治領として、本格的にアメリカの統治政策が、始まった。


島の至るところが、攻撃されて、穴ぼこだらけであった。

何もかもを、失ったのである。

後で、書くが、文明から、逆行するような、生活の様になる。


日本の統治時代に出来た街は、破壊されて、皆、散り散りになった。

夏島の人々は、現在のモエン島、春島にやって来た。

今の夏島は、原始生活のようであるという。勿論、モエン島の大多数の人の生活も、そうである。


1965年、ミクロネシア議会発足。太平洋信託統治地域に関する日米協定終結。ミクロネシア協定である。

1969年、信託統治終了後の政治的地位に関し、アメリカとの、交渉が始まり、その後、北マリアナ、マーシャル、パラオ、現在のミクロネシア連邦が、それぞれ別個に、アメリカと交渉することになる。


現在の、ミクロネシアは、四州に分かれている。

チューク、ポンペイ、ヤップ、コスラエ、総称して、カロリン諸島である。

首都は、ポンペイの、バリキール。


1978年、四州で連邦を構成する憲法草案が住民投票で、承認される。

翌年、憲法施行。自治政府が発足し、初代大統領に、日系のトシオ・ナカヤマ氏が、就任する。

この、ナカヤマの、姓が、実に多いことに、驚く。


日本もアメリカの下にあるが、ミクロネシアも、同じく、アメリカの下にある。

国防を見ると、米・ミクロネシア自由連合盟約により、ミクロネシアの安全保障、国防上の権限は、アメリカが持つ。

市民が、アメリカ軍の兵士に採用されている。

2003年のイラク戦争では、ミクロネシア出身の兵士も参加した。

ただし、米軍の軍事基地は無い。


2005年の一人当たりの、GNPは、2,300ドルであるが、今は、もっと少ない。

仕事が無い。全くの無収入が、島民の大半である。

すべて、仕事は、出稼ぎになる。


そこで、どうして、生活出来るのかといえば、島にある物を、食べて、暮らしを立てているのである。

山に住めば、野生の物で、十分に食べられるという。

翌日、私は、それを、この目で、見ることになる。


国内の生産性は、実に低く、生活必需品の多くを、輸入に頼る。

貿易収支は、恒常的に、赤字である。

連邦政府歳入の約七割は、アメリカとの、自由連合盟約による、財政支援である。

そして、日本である。2005年までの、日本からの無償支援額は、144,11億円である。また、技術協力では、61,28億円を、日本が支援している。


国際航空の、建物、道路が、日本の支援で成ったという。

その時、日本の企業が来て、島人を、雇用し、大変喜ばれたという。


兎に角、貧しいのである。

しかし、不幸ではない。環境破壊の無い、自然の中で、自然の物を食べて暮らしているという、贅沢さである。

一見すると、勘違いするが、貧しさが、不幸ではないという、証を見るのである。


さて、ツゥジィーさんとの、会話は、実に楽しいものだった。


一つ、面白いと、思ったことは、日本の神社を、神様というのである。

今は、キリスト教徒だが、神様といえば、神社のことを言う。

それでは、キリスト教の神様を、何と呼ぶか。イエズス様である。

プロテスタントでは、ジェイズスという。


天皇陛下を、どう思うかと、訊きたかったが、今更なので、止めた。


カレーの量が多かったせいもあり、突然の、眠気が襲う。

私は、ホテルに戻り、すぐに、ベッドに寝た。


野中は、出掛けて行った。

これで、また、色々な情報を仕入れてくるのである。

posted by 天山 at 16:40| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月07日

トラック島慰霊の旅 7 平成20年1月23日

ベッドに寝て、暫く、放心していた。

うとうとしたが、眠ることは、なかった。


不思議な感覚である。

今まで、どこに旅しても、感じなかったことである。


追悼慰霊は、目的を達することが出来て、良かったが、私の方に、何か、問題がある。

私の満足感であると、客観的には、言える。


実は、慰霊の際に、嫌な気分、変な気を、全く感じなかったのだ。

逆に、私が、清め祓いされているような感じだ。


そして、部屋に戻った私の、心境である。

世の中、つまり、世界のこと、日常のこと、私の属する社会のこと。それらが、どうでもいいことに、思えた。

そして、それが、実に、明確なのである。


このまま、日本に戻らなくても、いい気持ちなのである。

これは、つまり、一つの、死である。

死の感覚である。


戦争で無くなった方は、すでに、清められている。

納得して、死んだ。その時、納得出来ずとも、今は、納得している。

何故か。

日本兵の幽霊が出るという、噂も無いという。

自然である。

自然が、彼らの霊を、清め祓ったのである。


美しい珊瑚の海と、朝風夕風の清らかさ。潮の流れによる、清め祓いである。


清め祓いの私の方が、清められ、祓われていた。


膨大な数の方が亡くなっていれば、海難事故が起きる。しかし、世界中からダイバーが来て、海に潜っても、何も無い。安全である。

要するに、気が、いいのである。

数知れない、遺骨があっても、である。


日本の寺や、それに属する、納骨堂に入っても、その気が、乱れ、濁るのであるが、それが、全く無いのである。


他の慰霊する、土地とは、違う。


改めて、私は、日本の伝統にある、自然と共生、共感する、古神道の、考え方を、得心した。

死は、隠れることなのである。

消滅することではない。


ここで、少し霊というものについて、説明が必要である。

古神道では、四位一体なのである。つまり、一霊には、四つの、魂がある。

三位一体という、キリスト教の教義は、無い。神学という、言葉遊びの世界で、成り立ったものであり、父と子と聖霊とという、一体は、こじ付けである。


和、荒、奇、幸、の、四つの、魂により、霊というものがある。

数霊、かずたま、というものが、言霊を支える重要なものである。

それが、四である。

偶数であるということは、分離するということである。

奇数は、分離しない。偏るのである。

中国思想も、三という、数を、完成の数であり、安定の数とするが、違う。


さて、四つの、魂の、荒魂、あらみたま、が、最後に、この世に残る。

昔の人は、49日は、あらみたま、なので、と、慎重に過ごした。それは、仏教ではなく、日本の伝統の考え方である。


荒魂が、活動すれば、幽霊にもなる。不思議な力も、現す。

それが、無いのである。


そして、私が感じた、死という感覚である。

追悼慰霊をした、私は、彼らに、死という感覚を、教えられていた。


簡単に言えば、私が、この海に来て、私の属する社会生活すべてを、捨てても、いいと思う。どうでもよくなる。その感覚に、死というものが、似ているということ。

最終の自己完結なのである。


これで、よろしいという、思い。

つまり、完結したのである。


彼らの、御霊が、そのようであるということ。


それには、どれ程、多くの人の、祈りがあったか、知れないのである。

彼らの、親兄弟から、親族、友人、知人と、彼らに対する篤い思いは、距離を超えて、きた。その、祈りに、彼らは、満足した。更に、自分の死をも満足した。


国のために、死んだ、という、明確な意味意識である。

大義というものが、如何に、必要かということだ。


だから、テロ行為も、終わらない。

大義があるからだ。

明確な、死ぬことの、意味意識があるからだ。

勿論、テロ行為のそれは、誤りである。だが、大義という、意味では、同じである。


私は、とんでもない、感覚に、立ち往生した。


本当に、このまま、死んでも、良いと、思った。


一霊四魂、ということを、観念として、理解してもよい。

私は、それを、説明する必要を、感じないからだ。

知らなくていいのである。


死ねば、解る。


ここでは、総称して、霊という。


一般に、言われる霊というものは、幽体の霊のことで、肉体に似た姿であるから、幽霊というのである。

そんなものは、即座に脱ぎ捨てて、霊になったのである。


それは、覚悟の問題である。

未練なく、死を受け入れたのであるから、当然、即座に霊になる。

見事である。


若くして命を捧げた彼らの、救いは、国のために死ぬという、一点にあった。それは、国という言葉で、彼らの思いを、総称したのである。


太平洋戦争で、最も、意識したものは、国である。

日本史上、初めての体験である。

国とは、何か。


我らの部落でも、我らの町でもない。

国というものである。


その、国というイメージの、幻想を、天皇という存在が、支えていた。

軍国主義というが、それは、一部の人のことである。

多くの兵士に、軍国主義などない。


軍部が、教育した、国家神道、そして、天皇陛下の、現人神などは、吹けば飛ぶようなものであった。


父や母に、続く、先祖、そして、長い年月の先祖の歴史に、天皇という存在を、置いたのである。

皆、天皇を、天子様として、奉じていた。

そして、国という意識、幻想を作り上げていた。


この戦争で、その国という意識が、明確になった。

国とは、私のことであったという。


世界では、類を見ない、国家幻想を作り上げていた日本という国を、改めて、意識したのである。


軍というものは、暴力であった。

暴力の何ものでもない、存在である。

それにも、耐えられたのは、国が、私だったからだ。


その私には、父や母、兄弟や、友人、愛する人、すべてが、含まれていたのである。


そして、彼らは、死んだ。


朝風、夕風を受けて、美しい珊瑚礁の海で、清められ、祓われて、先祖に続く者として、上昇した。


そして、追悼慰霊に来た私に、死という感覚を教えた。


死者は、言葉にしない。

ただ、伝えるだけである。


遺骨は、一つの物となった。

自然の中に、同化して、何事も無い。

それで、善し、なのだ。


今回、私は、日本人の慰霊のみを、行為した。

多くのアメリカ人も亡くなっている。

共に、国のために、戦った。

大義のために、戦った。

同士である。


憎みあう必要の無い者同士が、国のために、戦った。

平和であれば、友人にも、なれよう。

皆々、演じて生きた。


死を前にした時、人間は、真実を知る。


以下省略。

posted by 天山 at 16:41| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月08日

トラック島慰霊の旅 8 平成20年1月23日

野中が、戻って来た。

島の外れまで、歩いて行ったと言う。

これで、多くの出会いがあった。


一人の男の子が、ガイド役になり、もう一つのホテルのビーチで、泳いで、叱られたらしい。プライベートビーチだった。


明日、一緒に行こうと、野中が、私を誘う。

私は、ゆっくりするつもりだったが、野中の話を聞いて、行くことにした。


村人たちが、集って、木の実を煮て、それを、餅のように捏ねたものを、ご馳走になったという。

村の人の家も、見せて貰ったと、感激していた。

そして、ガイド役の男の子が、Tシャツが欲しいらしいので、今着ているものを、明日、上げるという。

私も、一枚、Tシャツを用意していたので、それも、明日、上げることにした。


ただ、男の子は、ガイド料として、二ドルを要求したという。

野中は、彼に、二ドルを払った。

それを、聞いて、私は、急に、そのことに興味を持った。

ガイドをして、二ドルを貰うということである。


明日は、ホテルを、夜の11時に出る。それまで、十分に時間はある。


さて、今夜の食事を、どうしようかと思った。

いつもなら、必ず、どこかのスーパーに行く。ここでも、買い物をして、それを食べたいと思った。

野中に言うと、それでいいと言う。


六時前である。

外は、すでに、暗くなっている。

私たちは、近くのスーパーに、歩いた。


ところが、すでに、閉店である。早い。それでは、買い物をする場所はない。と、横を見ると、粗雑な板に、パンやバナナを乗せて売る店がある。

そこしか、買い物が出来ないと思い、近づいた。


男がいた。

パンは、二種類である。私は、二種類を買った。そして、量が多いが、小さなバナナである。日本から持ってきた、笹かまぼこがあるので、それで、夕食にすることにした。


水と、パンとバナナ、笹かまぼこで、十分になった。それでも、パンもバナナも、大量に余った。

あまり書きたくないことだが、食べ物が、不味い。

贅沢を言うのではない。すべて、アメリカンになっていて、肉料理ばかりなのである。そして、その肉の、質が悪い。そのために、味付けをしているのである。

胸が悪くなるような、料理が多い。

前日の夜も、量は多いが、肉料理で、油が多く、うんざりしたのである。そして、パンである。パンは、悪くは無いが、パンをニンニクの油で、焼いているのである。ガーリックトーストならいいが、やわらかいパンに、たっぶりと、油で焼いている。

胸焼けする。

兎に角、こってり料理なのである。


さて、後は、寝るだけである。

何も、することがない。今回は、本も持ってこなかった。

テレビも見ない。


エアコンの室外機の音と、潮騒を聞いた。


実に、不思議な日だった。

目的の追悼慰霊は、一時間で済んだのだが、それは、時間の問題ではなかった。質の問題だった。その質は、あまりに、重く、厚い。


ホテル前の通りは、真っ暗である。

私は、九時頃に、ベッドに着いた。そのまま、眠った。


帰国の日の朝、というか、帰国の飛行機は、深夜便であるから、翌日になるが、ホテルを出るのは、夜の11時である。


七時まで、寝ていた。信じられない程、長く寝た。


野中と、レストランに出て、コーヒーを飲んだ。

腹が空かない。昨日のパンもあり、何も注文しなかった。


コーヒーと、水を飲み続けた。

水は、水道水ではない。飲み水として、別に分けられてある。

部屋にも、大きな、水のタンクが置いてある。

ミネラルウォーターを買ったが、インドネシアのものだった。

1,5リットルで、一ドルである。


水道水は、色がついている。

シャワー以外は、使用出来ない。


一時間ほど、レストランで過ごした。


部屋に戻り、出掛ける準備をする。

食べ物を、すべて持った。昼に、食べようと思う。


島の先までは、歩くと、30分以上はかかるというので、タクシーに乗ることにした。しかし、そのタクシーは、中々来ない。

歩きつつ、通る車に手を上げる。

タクシーと、そうではない車を、見分けられないのだ。

タクシーは、運転席の前のフロントに、タクシーと、手書きで書いてある。


一台の車が、止まった。

タクシーではないが、乗っていいと言う。

後部座席に、二人の母娘が乗っていた。

私は、その母娘の後ろに乗った。

途中で、母娘が降りた。


野中と運転の男が英語で、まくし立てるように、話をする。

そこで、印象に残ったことがある。

道路である。

何故、道路の舗装がなされないのかということである。

結局、政治家が、支援金を、自分たちの、いいように使うからだという。

そこで、あの高校生の、男の子の、政治家になりたいという言葉が、思い出された。


どこの国でも、支援される国の政治家、いや、支援する国の政治家も、結局は、自分たちの、都合の良いように、支援金を使うのである。

勿論、学校教育は、無料であり、子供たちの医療費も無料である。

だが、多くの支援金は、有耶無耶になること、多々あり。


政治家になれば、お金を得られるということになる。


主要産業としては、農業の、ココナツ、タロイモ、バナナ等。そして、水産業であるが、全くなっていない。

漁師が、魚を捕らないのである。水産業も何も無い。


一時期、ココナツオイルの、工場があったというが、閉鎖されている。


日本との、貿易額を見ても、2005年では、輸出が190万ドル、輸入が899万ドルである。あまりにも、歴然としている。

地場産業を作らないのである。

収入を得るためには、海外に出稼ぎに出るしかないのである。


ただ、言えることは、環境破壊が無いということである。

それだけは、見事である。しかし、これからの、島の人の生活を考えると、何かの手立ては、必要である。


車は、島の先端の、ホテルに入った。

私たちは、車を降りて、写真を撮るために、浜に出た。

向こうに、夏島が見える。右手には、竹島である。

白い砂が、眩しく輝く。


ホテルの従業員が、声を掛けて来た。日系人である。

日本人が、懐かしいらしい。

皆で、写真を撮る。


車に戻り、昨日、野中が行った村に、行くことにした。

デコボコの道を、ゆっくりと、車が走る。

暫く、逆戻りすると、村に着いた。


そこで、男が、教会のミサに出るということで、車を返すことにした。

料金である。通常のタクシーは、50セントであるが、彼は、10ドルと言う。

野中が、交渉する。10ドルは、高いと。

すると、5ドルになった。それでも、高い。しかし、私は、もういいと思い、5ドルを出した。

男の言い分は、ガソリンが高いと言うのだ。

収入の無い人には、出来る限りお金が欲しいと思うのは、当然である。

5ドルは、大金である。

10ドルから、半額になるのも、おかしいが、タクシーではなく、好意で、乗せてくれたと思い、支払った。


収入の無い、島の人の、買い物は、一ドル以内である。セント単位の買い物である。

しかし、それも、ままならないのである。

だが、その貧困を、支援する理由にすることは、無い。

それが、島の経済システムである。

支援は、それを、破壊しないようにしなければならない。

つまり、持てる者と、持たない者との、差を作ってはならないのだ。


何でもかんでも、金を出せば良いということではない、ということだ。

島の人の、自立を促し、島の人の生活を、破壊しない、支援である。

実に、慎重にならざるを得ない。


posted by 天山 at 16:41| トラック島慰霊の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。