2007年03月25日

ゲイが、世界を変える

シドニーの夏の風物詩、マルディグラの祭典が、三月上旬に行われた。
世界的に有名な同性愛者のパレードである。
29回目の今年は、八千人の参加者、そして約30万人が見物したというから、驚く。

そして驚きは、地元のニューサウスウェールズの州警察が、楽団を含む40人の制服警察官を派遣し、女性警官が山車の上から「ハッピー・マルディグラ」と呼びかけたという。
警察の同性愛者支援の専門部署のPRが目的だと言う。
地元、オーストラリア・ニュージーランド銀行は、社員120を参加とある。行進に加わったのだ。
まだまだある。
女性市長のクローバー・モア氏は、オープンカーに乗り、マルディグラを応援するとの横断幕と、支援者を引き連れて行進に加わった。
野党、労働党、緑の党、民主党も山車を出したという。

オーストラリアのゲイ人口は、2,3パーセントというが、実数はまだ多い。
政治家も、企業も、彼らを無視出来ない存在として認識している。

ところで、日本企業も、秘密裏に、日本のゲイ動向を探って、商戦に生かそうとした。
しかし、結果は、日本のゲイは、ケチだとの結論に達して、棚上げされたという。
だが、政治の方は、無視出来ない存在になっている。
札幌市で行われるゲイパレードには、市長もメッセージ参加するという状態である。

ヨーロッパEu諸国では、パートナーシップ制を導入して、同性愛者の法律を完備しつつある。ヨーロッパの思想により、同性愛を悪しきものとした、明治期の日本は、まだまだ差別意識あり、未だに、そこから逃れていない。あちらの方が種を蒔いたはずなのに、堂々と、パートナーとして認めるという状況である。

九割の人は、ゲイに成る可能性がある。
環境による。状況による。
純粋、異性愛は、一割である。
これが人間の性のあり方の発露である。
実は、ゲイへの差別の最もは、潜在性ゲイの者が行うのである。

実は、異性愛という言葉は、同性愛という言葉を意識して、作られたものである。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、ゲイが多いはずなのに、教義として、ゲイを禁止するという矛盾である。あれは、支配するために、教義としているのである。
あちらは、オナニーまで罪と定めるという野蛮を平気でする。
要するに、セックスを支配することによって、人を支配しよううとする非人道的な教義である。
それならば、仏陀の方がすっきりしている。出家者は、全面セックス禁止である。
それ以後、セックス好きの宗教家が、セックス支配で信者を支配しようと、教義を作る。邪淫の罪と。
我々は、邪淫で生まれた。
人間の誕生を、ここまでおとしめた罪は重い。

キリスト教の原罪説などは、暗に、セックスを覚えたことからの罪の意識を言う。
「生めよ、増やせよ、地に満ちよ」と言う旧約の神の言葉を、何と説明するのか・・・

人間の性欲を罪と定めるなど、野蛮の野蛮である。
性の否定は、存在の否定を言う。
性は生である。それこそ、命の讃歌である。

人殺しをしているより、明るく楽しいセックスをしている方が、どれだけ善いことか。
ゲイが、世界を変える日が近い。
ゲイが平和を先導するのであろう。

戦争は、男がする。敵と定める男と愛し合えば、すべては解決する。
ゲイが半数を超えると、確実に世界は平和に成る。



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2007年03月28日

パワフルな勃起

パワフルな勃起が・・・
という歌い文句のDMが送られてきた。
多くのDMを捨てる前に見ることにしている。
勧誘、特にお金儲けのもの、そして健康食品等々、各種機具等々、そして海外からのDMである。どこから、私の情報が出るのか不思議だ。

勃起が5分以内に起こり、勃起力が24時間ノンストップで持続することが保障されています。と、ある。
凄いものである。
試した人のコメントが凄い。
二晩ノンストップのセックスという。
そんなにまでしてセックスがしたいのか・・・
世の中は、いつも情欲している様を言うのである。
確かに、セックスは最高の情緒であり、生きるエネルギーであり、人生の讃歌ともなろう。夫婦のセックス、そして恋人のセックスは、生きる喜びになろう。

しかし、二晩連続ノンストップセックス云々となると、意味合いが違ってくる。
これは、病気である。
昔、セックス無しではいられないという女性の相談を多く受けた。毎日必要である等々。そうでなければ、精神的におかしくなるというもので、そういう体質の人もいるのであろうと感心した。
セックスの喜びは否定しないが、これはないだろうと思う。

そして、大人の玩具のDMを見て、仰天した。
男も可能、女の喜びである。
アナル玩具である。男のためのである。前立腺刺激と、射精官、直腸前壁、会陰部の刺激により、女のエクスタシーを得られるというものである。
こうなると、セックス遊びも堂に入るのである。
いや、オナニストとして一人前であるのか。
そういえば、ダッチワイフがブームであるという。生身の女よりも、いいという。どうりで、セックスレスである。要するに、生身でなくても、楽しめるものが多数あるということだ。
空しくなければ、死ぬまでやっているとよい。

妻のいる男の相談で、マスターベーションにのみ快感を得る。妻との関係が苦痛であるとのこと。
アドバイスのしようがない。妻の協力が必要であるが、妻には言いたくないという。方法が無いのである。
性の多様化は、脳の複雑化である。
人間だけが前頭葉の発達がある。ここが複雑化しているということだ。

最早、男と女のセックス、交わりにより、子供が生まれるという考え方を変えなくてはならない。子供は、試験管で、セックスは機具でということになるのかもしれない。
えっー、あなたまだセックスしているの、という会話が普通になることも。
ということは、家族関係も変化する。
そして、先進国と後進国での格差が激しくなるというものである。
今の家族関係は、南の島の民族などが継続して、昔は、こうでありましたとか、説明を受けるのであろうか。
それぞれ、子持ちの女三人が、家族を作り、子持ちの男三人が家族を作る日は近い。
一番困るのは、先祖供養を金儲けにしていた檀家制の寺である。気の毒に。遂に滅びるときがきた。

古代の通い婚から、戦国時代に定着した夫婦関係からの大家族から、核家族へ、そして新たな大家族へと転進するのである。
夫婦ではない子持ちの男女が家族を作り、実に幸せに暮らすということもある。
ヨーロッパでの、同性愛者に対して成った、パートナーシップ制が、思わぬところで、功を奏する。
それ程、時代が動いているということである。

ちなみに、オス、メスという形になったのは、地球の歴史から見れば、いつ最近のことである。
夫婦、めおと、という言葉は、つい最近の言葉だということである。
夫婦、家庭という幻想の作り直しが必要になってくるのである。
これを最も恐れるのは、政治と宗教である。つまり、根本を叩かれる訳である。
人間を区分けするものが、男女ではなく、何になるのか、楽しみである。


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2007年04月05日

もののあわれ39

敷城島の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども 藤浪の 思ひまつはり 若草の 
思ひつきにし 君が目に 恋や明さむ 長きこの夜を

磯城島、しきしまとは、大和にかかる枕詞。大和の別名としても使用される。
人さはの、さ、は大勢の意味。
思ひまつわりは、藤の花の長く垂れた花房が浪のようにゆれるので、藤浪であるが、まつはりの、枕詞である。
若草は、思ひつく、にかかる、枕詞。
君が目は、あなたの目にではなく、あなたの姿のこと。

この国には、多くの人がいますが、藤の花がまつわるように思いを絡ませ、若草が臥すように、ぴったりと心を寄せていますあなたに、一日なりとも、お逢いしたいと、この長い夜を、しみじみと恋焦がれて明かすことでしょう。

反歌
磯城島の 大和の国に 人ふたり ありとし思はば 何か嘆かむ
恋い慕う方が、二人といれば、こんなに切ない思いなど、しないでしょう。

女性の歌である。
どうであろうか、この風情を。
長歌も然り、反歌も、見事な歌である。
反歌は、女性の弱さなど微塵もない。当時の女性の気品と、教養が伺われる。
静かに、そして激しく人を恋する心である。
恋の情に、もののあわれを観る、我らの民族心である。

しきしまの やまとのくにに ひとふたり ありとしおもわば なにかなげかむ
しきしま、やまと、と、同じ意味である国の言葉が重なる。実に、国を愛する心である。
今なら、大和の日本と言う言い方になる。
大和なる この日の本の 言の葉の 深きあわれぞ この歌に知る
私の戯れ歌である。

長歌の、思ひまつはり 若草の 思ひつきにしと、思いに、まつはりと、つきにしと、まつわり、つきにしを、思いに当てている様、いかに恋い慕う様か。このように人を思う心に、もののあわれを観るのである。
名残雪などと言う言葉がある。
名残、つまり、残心、ざんしんと読むが、大和言葉で読めば、のこるこころである。
心を残すという所作を、この民族は有していた。
物に、心が着くという考え方をしていた。それが物を大切に扱うという作法、所作になった。物を大切には、物にも心があるという考え方であり、それはまた、人の心と同じであると考える。
信濃なる 千曲の川の さざれ石 君し踏みては 玉とひろわん
石っころでも、あなたが踏んだ石は、玉、宝石のようなものだと考える情である。
名残雪、名残の花、名残の匂い、等々、微かに在るものを、事の他大切にする民族である。

満開の花よりも、散る花に心を動かされるのは、教えられて成るものではない。自然に身についているのである。
これは、他民族に理解してもらうには、大変な労力だ。
例えば、味というものも、日本人には、五つあり、匂いも五つある。他の民族には、三つである。
心の綾も、複雑なのであるから、複雑でない人に理解せよと言っても、詮無いことである。知りえることしか、知ることは出来ないのである。
無いものを知れとは、言えない。

とろろが、現在の日本人の多くが、この情を忘れたのか、退化させている。また、このような情を理解出来ないで、脱日本人化しているのである。
何故か。西洋化である。欧米化である。これを善しとして、在るものの価値を消滅させた。そして、大切な伝統、つまり、伝えるものが無い者に堕落した。
伝える、という行為は生きると、同じである。
伝えているから生きている。
親から伝えられたものを、何の思索、考察も無く捨てた。
それらを、生成発展させて、伝統が伝えられる。伝統に心を乗せるのである。しかし、その方法も捨てた。
私が、日本は崩壊していると言う訳である。

徳を捨てると、人倫が果てる。不倫のみが跋扈する。
徳の道を、道徳という言葉にした。この国では、道を生きると同義に考える。
生きる道である。それを、誰かが、道徳教育は、心や精神の侵害だと言う。勿論、彼らは、心も精神も知らない。
徳を大和言葉では、のりと言う。のりは、法でもあり、秩序でもある。
のりの道とは、法の道であり、それは、集団生活をするための最低の方法である。
法律の道ではないし、仏法の法でもない。
日常生活の法の道である。
挨拶、礼儀作法、所作等々の、普段の生活における、有様である。
それが生き方に関わってくるという、習いである。習いは、学問の学である。学とは、そういうものである。
それを、道徳と言う。道徳も学なのである。最も大切な学を捨てたのである。

更に言う。
藤岡宣男の死に際しての、その知人縁者の作法である。
全く、唖然とするものであった。
それで済ませるのかという大勢の人の様を見て、私はただただ呆然として、佇んだ。
世の中は、ここまでに不倫に至ったのかという思いだった。
妻子ある者が、他人とセックスする不倫ではない。倫理が不在という不倫である。

そして更に、人が死ねば、無くなると思う神経である。
この国には、人が死んで無くなるという考え方は無い。お隠れになるのであり、実際、無くならないのである。
簡単に言う。
怨霊信仰というものがある。
死んで無くなれば、怨霊など無いはずであるが、怨霊信仰は、廃れない。今でも、天満宮は、賑やかである。あれ、怨霊である。平将門の多くの神社も、怨霊である。
いずれ解るから、これ以上は言わないでおく。

私が、藤岡に、祟れと言える者であることを、言っておく。

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2007年04月13日

もののあわれ49

作者不明、庶民の歌を続ける。

馬の音の とどともすれば 松陰に 出でてぞ見つる けだし君かな

とどもすればの、とどは、馬のひづめの擬態語。
馬の蹄の音が、とどと聞こえてきます。そっと、松影の出て、もしや、あなたではないかと、思いまして。

あっ、あの人。そう思い、心が騒ぐのである。
風吹けば、風に思い、雨降れば、雨に思う。何一つ、無碍にするものはない。恋とは、すべてに恋を感じる心なのだ。
恋をすると、人は優しくなる。

窓越しに 月おし照りて あしびきの 嵐吹く夜は 君をしぞ思ふ

月押し照りて、おしとは、強調である。
月が、いっぱいに照る。月の光に、満ちている。
月や星の光だけが、夜の唯一の光であった時代である。
あしびきは、山にかかる枕詞。
夫を思う妻の心情である。
月の光に満ちている部屋で、嵐の風の音を聞いている。そして、君を思うのである。
何の飾りもない。素直な心。恋心。
恋心を成熟させるに必要な時間である。

わが宿戸の 穂蓼古幹 摘み生し 実になるまでに 君をし待たむ
わがやどの ほたでふるから つみおほし みになるまでに きみをしまたむ

穂蓼は、穂の出た蓼。蓼は、葉が辛いので辛味として食用された。
古幹は、古い茎。
摘み生しは、穂の出た蓼の古い茎から実を取り、その実を蒔いて生やすまでである。
それまで、待っていますという。
人妻の歌である。
待つ身の悲壮感がない。
これこそ、民謡の原型である。
庶民の間に歌い継がれた歌である。

道の辺の 草を冬野に 履み枯らし われ立ち待つと 妹に告げこそ
みちのべの くさをふゆのに ふみからし われたちまつと いもにつげこそ

草を冬野に 履み枯らしとは、イライラして待つゆえに、草が冬野のようになってしまったという、男の歌である。
道のほとりの草を踏んで、待って待っていることを、誰か伝えてくれないか。
イライラした感情を、草を冬野に履み枯らしと歌う風情は、実に見事である。
庶民に至るまで、詩情を有していた証拠である。
人から人へと伝わり、歌い継がれたものであろう。

妹というふは 無礼し恐し しかすがに 懸けまく欲しき 言にあるかも
いもというは なめしかしこし しかすがに かけまくほしき ことにあるかも

無礼し恐しとは、失礼であり、はばかるべきである。
しかすがには、しかしながら、そうは言うものの。
懸けまく欲しきとは、心にかける、口にかけるで、言葉に出していいたい。

あなたを吾が妹とお呼びするのは、まことに失礼でしょうか。はばかるべきかもしれません。しかし、あえて言います。吾が妹と呼びたいのです。求婚の歌である。
少しばかり、身分が違うのか。

祝詞に、懸けまくも恐しこみという言葉がある。
かけまくもかしこみ申すという。
恐れ多いこでありますが、申し上げますと言葉にするのである。

いずれにせよ、こうして恋を表現した時代があったということである。
下衆な者は、結局、今とやることは同じだと言うであろうが、違う。
体の関係を結ぶ前の序章が長い。
そして、肉体の喜びより、心の喜びの方が大きい。
これは、どうしたことか。
古代人の方が心性が高いといえる。

確かに、頭脳の方は、少しは、進化したであろうが、心性は、落ちたといえる。頭脳複雑になったといえるが、その複雑さの中に、埋没してしまった。
現代人の方が、頭の回転が速い。しかし、それがどうしたことだろう。
頭の回転が速いから、幸せになるかといえば、違う。
頭の回転が速くて、皆、心を病むようになった。
目に見えない大切な心の動きを見なくなったといえる。

しかし、日本人であれば、いくら頭の回転が速くなっても、万葉の心に、戻ることができる。万葉の歌を読めばよい。万葉の心を偲べばよい。
それで、心を復活させられる。

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2007年10月22日

もののあわれについて138

もののあわれについて、を、書いている。
西洋の論理学、語り尽くそうとする哲学、その他、諸々に、犯されている人、随分と、苛立つのである。何となれば、答えが欲しいからである。
はい、こうこう、こういうものです、と。

西洋にて、音楽を学んできたという者、書き込みで、省略、行間を読ませるものではなく、明確に、云々という。
それが、病むということなのだが、気づいていない。

書ききれない、という、もの、が、この世に、あるという、こと。
また、書くものがあるということは、書かれないものもあるということ。

書ききれないから、それに近づけるために、書くということもある。
省略も、書くことと、同じである。

生まれ持った日本人であれば、それを、知る。
遺伝子に、それを持つ。

言葉にするということは、観念であり、それを、限定することである。

日本の思想は、限定されない、たゆたう感覚がある。
故に、語り続ける。
西洋の弁証法とは、違う。

芸術にて、完成度が高いもの程、未完の美を顕す。

人間が創作する、最も、美しいものは、未完の美である。

表現し得ないものを、秘めている。その、秘めているものを、美と、認識する。

世阿弥が、何故、秘するは花、と言うか。
美は、秘するものだからである。
それは、美だけではない。

物事の本質も、秘すると、認識するのである。日本人は。

それを、表現して、人に訴える、伝える時、今世だけではない、幾世にも渡ってきた、秘するものがある。
転生を経て、伝え続けたものである。

この、人生の一代で、伝えることなど、たかが知れている。

無意識から、現れ出る、得たいの知れないものの、その姿を、芸術というものが、表現しようとして、呻吟する。
日本では、芸能といった。

そして、生まれ持ったものが、最も、それらを、理解する。
お勉強をして、理解するものなど、たかが知れているのである。

何故、日本に仏教が輸入された時、その思想よりも、造形美に突き進んだかを、見れば、解る。

古代、仏像は、飛鳥時代製作とされていたが、今は、初期白鳳時代であると、言われる。
思想よりも、まず、造形美に進んだ故は、何か。

伝えられるもの、限られると、観たからである。

仏像を製作するという、発願の時。それが、問題である。

念仏申さんと思い立つ心の起こる時
歎異抄で言う。
思い立つ心の起こる時、すべて、弥陀の本願に救われていると、感得するのである。
それは、目に見えて、どうだというのではない。
発願する時、すでに、事が動くと観る。

弥陀の本願は、置いておく。

仏像を作ろうとした時、すでに、仏像が、現れているのである。

しかし、それは、まだ、この世に無いものである。

目には、清かに見えねども、という、心境である。
季節が、次の季節に移る時、はい、今日から夏ですとは、ならない。
目には清かに見えねども、風の音にぞ、驚かされるのである。

日本人の心情を、日本の自然と、風土を無視しては、考えられないのである。

曖昧なものを、善しとする、のは、物事が曖昧だからである。
それを、たゆたう、として、貴んだ。

しかし、世界の常識ではない。
世界の趨勢は、西洋思想からである。
当然、明確に、はっきりとさせる。そして、一神教の、神との契約により、成る民族とは、全く違う。
彼らと、会話するには、彼らに、準じる必要がある。
それは、たゆたう、という、心情を彼らは、理解出来ないからだ。
こちらは、彼らの、心情を理解する。こちらが、歩み寄ることになる。

ここで、語感というものの、違いを知るべきである。

日本人は、世界で、唯一、母音を主にする。
しかし、他民族は、日本以外の、ポリネシアを省く民族は、母音を、右能の処理で、聞き流すのである。

母音を主にする日本人は、サンキューという。
あちらは、サン、と、キューが、一まとまりである。
さアンきイゅゥになるのが、日本人である。

母音を主にする、日本人には、一音に意味がある。
あちらは、単語に意味がある。

アルファベットには、その成り立ちはあるが、一音に意味は無い。

曖昧にしても、伝わるのは、母音主導で、一音に意味があるからである。

例えば、簡単にして言う。
愛しているとは、言わない。
一緒に年を取りたい。そう言えば、伝わる。
一回りも、二周りも、遠まわして言う。実は、それが、遠まわしとは、思わない。
それ程、表現が違う。

簾動かし、秋の風吹く。
と歌えば、それが、どんなことなのかを、知る。

そんな、繊細、微妙なことを、あちらの人々は、理解できない。
理解出来ないことが、悪いことではない。
それが、違いというもの。

仏像製作も、他の民族が製作するものではなかった。

「諸々の仏像とは、美的鑑賞の対象ではなく、彼らは、造形美を追及したわけでもない。教文の意味の造形を通しての感知であり、意味への礼拝であった。たとえば、薬師如来像は、病気快癒の祈念の対象以外の何ものでもなく、薬師如来経を「形」を通して読む行為だった。」
亀井勝一郎、日本人の精神史研究
さらに
「造仏技術とは、造形技術であるとともに信仰の対象であった。言わば特殊な材料による信仰の感覚的消化の過程を意味した。」
とも、言う。

製作の前に、すでに、その像に対する祈りがあった。

それを、観る者も、その祈りを、読むのである。

私が、小説、小野妹子を書いた時、矢張り、いけばな、という意識を隋から、持ち帰り、花を立てるのである。
その立てる行為が、そのまま、祈りになった。

行為が、語るのである。
故に、多くを語ることはない。

物事の本質を語るということは、語り続けるということであり、その行為に耐えるということである。
芸術家が、死ぬまで、創作するのは、語り得ないからである。

舞台芸術のプロは、一つの舞台が終われば、即、次の舞台を考える。
次は、もっと、良く。

日本人の心情を理解する者は、世界のすべての、芸術家である。

もののあわれについて、語り切れない、書き切れないから、書き続け、語り続けると言えば、世界の芸術家は、それこそ、芸術行為であると言うだろう。

古今の歌を続ける。

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2007年11月12日

キリスト37

マルコ第13章は、世の終わりについて言う。

宗教は、人を脅すものであるから、当然、終末思想、世の終わり等々の、お話を作る。
1999年に向かって、多くの新興宗教が、世の終わりを喧伝した。
そして、人の不安を煽り、信徒を増やすという。

イエスキリストの、世の終わりというものも、その一つに当たる。
しかし、実に、世の終わりは、毎日繰り返されている。
人の死である。

本日か、明日か、明後日か、百年後か、千年後か、世の終わりは、いつもある。
人は死ぬことによって、世を終わる。

今、人類は、核兵器によって、即座に、世の終わりを演じることも出来る。

イエスは、世の終わりの話の後に、御伽噺のようなことを言う。

「さて、その日には、この苦難ののち、日がくらみ、月は光を失い、星は空からおち、天の力はゆれうごき、そして人々は、人の子が、大勢力と栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。そのとき、かれは天使たちをおくり、地の果てから天の果てまで、地の四方から選ばれた人々を集める。」

旧約聖書の神の奇跡を信じている者たちに、ここまで譬えて言わなければ、迫力に欠けるるのだろう。
しかし、旧約の神も、雲には、乗らなかった。

思い出して欲しい。日本の古事記を。
雲に乗って、天孫降臨したのは、我がタカアマハラ霊界からの、ニニギの命である。

聖書解釈では、世の終わりについて、旧約のイザヤ書における、バビロンとエドムの滅亡の光景を指し、エゼキエル書でのファラオの滅亡を言うとある。
一部の学者は、エルサレムの滅亡という者もいる。
キリスト教新興宗教は、この、イエスの世の終わりの言葉を、この世の終わり、つまり、世界の終わりと、解釈するのである。

選ばれた人とは、キリスト教徒のことを言うと、手前勝手なことも言う。

キリスト教徒のような、偽善者たちが、選ばれるということは、一切無い。
自分たちが、選ばれるという思い込みは、本当に、救いようがない。

人は死によって、この世の終わりを体験する。

「いちじくの木からこのたとえをくみとるがよい。その枝がやわらかくなって葉を出せば、夏が近いことがわかる。それとおなじことで、そういうことが起こったら、事はもうせまってきた。門口に近づいたと知らなければならない。まことに私は言う、それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。天地はすぎさるが、しかし私のことばはすぎさらない。」

「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないのである。かれが不意に帰ってきたとき、あなたたちはが眠っているのを見つけられることがないように。わたしはあなたたちに言っていることをすべての人に言う。目をさましていなさい。」

伝言ゲームで書かれた福音書であるから、イエスの言葉、説教は、実に、注意深く読まなければならない。書いた者の、願望や、思い込みが激しい場合は、支離滅裂になる。

それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。と言い、天地はすぎさるが、私の言葉はすぎさらない。
今の代は、すぎさらない。天地はすぎさる。
何、言ってんのー
今の代が過ぎ去らないで、天地が過ぎ去って、そして、私の言葉は過ぎ去らない。

こういう、とんでもない言葉遊びを、教会は、あのように、このようにと、屁理屈をつける。
自分たちの、都合の良いように、解釈する。
そして、自分たちは、救われると、思い込む。イエスが嫌った、律法学士と同じであることに、気づかない。

それでは、私は言う。
人は確実に死ぬ。その時、世が終わる。
それが、いつになるのかは、誰も知らない。だから、目覚めていよ。
限りある人生である。
死ぬことが救いなのである。そして、それが世の終わりである。
自然死も、事故死も、戦争死も、天災死も、何もかも、死ねば、世の終わりである。
その時が、いつきてもいいように、目覚めていよ。
そういうことである。

旧約の言葉を意識するゆえに、イエスの言葉が複雑怪奇になるのである。

旧約の神ではない、大和の神は、すでに、イエス在世当時より、一万年前に、雲に乗って、天孫降臨している。
旧約の神は、イエス在世当時から、4千年前である。

何を、たわけたことを言う。

ひとえに、神学という、妄想の酷さである。
その解釈大半が、あの、あのである。中世という、教会支配の暗黒の時期になっているのである。
異端審判の、最低最悪の様は、無知としか、言いようが無い。

頭の悪い者が、いくら考え続けても、良いアイディアは、浮かばない。堂々巡りをするのが、精々である。

ムハンマドの起こしたイスラムが、教会支配の地に、乗り込んで、飲み込んでゆくのに、慌てて、十字軍を興す程度の頭の出来である。
何故、イスラムが、支持を得るのかを、考えることが出来なかった、頭の程度が、あの当時のカトリック教会指導者の、知的レベルである。

複雑怪奇な神学より、イスラムの方が、実に、明確で、解りやすい教えだった。
司祭は、いらない。偶像を拝むな。一人一人が、アッラーと結ばれよ。あなたと神の関係である。

今、現在もイスラムは、増大している。
その勢いを、止めることが出来ない教会の、頭の悪さは、尋常ではない。

カトリックの指導者の、キンキンキラキラの姿と、イスラム指導者の、質素さを見れば、誰もが、イスラムを信奉する。
つまり、偽善者であること、明々白日であるからだ。それに気づかないという、頭の悪さである。
教会と、モスクを比べて見よ。
金に任せてキンキンキラキラの教会と、何も無いモスク。祈りのみが有効なモスクである。

ただし、私は、イスラムにはならない。
私は、自然が神殿で、ご神体が太陽の、古神道という、日本の伝統にある。
これには、イスラムも、適わない。
本当に、何も無いのである。
教祖も、経典も、教義も無い。こうせよ、ああせよ、も、無い。
楽しい時は、歌って踊って、哀しい時は、泣いて、怒る時は、心を鎮めて、喜びの時は、皆に、振舞って、ただ、それだけ。
それなのに、死んだら、最も高い次元のタカアマハラ霊界に行くという、妄想、モウソウである。

イスラムも、唖然某然。

金ピカの杖で、世界を祝福するというローマ法王である。
最も世俗的である。
その権威と権力のために、今まで、どれだけの人を殺戮したのか。
さあーーー言え。
神に選ばれたとは、これいかに。
悪魔であろう、その神は。

まだまだあるが、以下省略。

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2007年11月13日

もののあわれについて163

紫式部日記に、書かれる和泉式部の記述を、読む。

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかわしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかなき言葉のにおひも見え侍るめり。歌はいとおかしきこと。ものおぼえ、かたのことはり、まことの歌よみざまにこそ侍らざられ、口にまかせたることどもに、かならずおかしき一ふしの目にとまる詠み添え侍り。

ここでは、唯一、けしからぬかた、とあるのみ。
それは、和泉式部の恋であろう。
多情の様を言う。
しかし、歌に関しては、歌はいとおかしきこと、という。さにら、まことの歌よみざまに、ありとも、言う。

後に、彼女の歌を読むが、実に、良い歌を詠う。
平安王朝の最後を飾るような、歌の数々である。

寛弘6年、1009年に、中宮彰子に仕える。その時、藤原保弘と、結ばれたが、彼女に言い寄る、色好みの男が多かった。

橘道貞との結婚で、一子をもうけているのが、996年頃であるから、彰子に仕える前からも、男性遍歴が、多いとみる。

紫式部は、それを、けしからぬ、という。
逸脱した、恋愛の様である。

だが、実のところ、彼女こそ、まさに、平安の女である。
平安期とは、王朝貴族の退廃の、文化である。
簡単に言えば、セックス三昧であり、そこに、仏教の無常観という、変な思想が、彼らの行動を、また、盛んにしたのである。

密教から、浄土教への、信仰の変転もある。
浄土信仰が、平安期を支配した。

救いがたい者、救われがたい者を、救う、阿弥陀という仏に、帰依する。そして、罪の意識を持つべくの、行為行動である。
それが、色好みである。
色好みの、変転もあるということだ。

この、事態が、庶民にまで広がるのは、江戸の元禄まで、必要だった。
文化の事は、支配者層による。

しかし、不思議なことに、男の色好みの方は、当然のうよに、受け取られていたが、女の色好みは、人の噂になり、批判を受けるという、事態である。ここが、おもしろい。
源氏物語も、男の色好みの、話であり、多くの歌詠みも、男の色好みをよむ。

紫式部は、和泉式部を認めているが、また、それなりの批判もしている。
一目も、二目も、その歌を認めているが、結果。

それだのに、人の詠みたらむ歌、難じことわりえたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみとはおぼえ侍らず。

と、書く。

和泉式部が、人の歌を評しているのを、みると、歌について、それほど解っているとは、思われない。口に出すように、すらすらと、歌を読むということにかけては、上等だが、私が、引け目を感じるほどのものではない、と。

和泉式部の野放図な、歌の詠みを、批判するのである。
とはいっても、和泉式部は、生来の、詩人である。
口から出る言葉が、歌になるとは、大したものだ。

紫式部と、仲の悪いといわれた、清少納言とも、和泉式部は、親しく、歌のやり取りをしているという、面白さがある。

まあ、恋愛を、肥やしに、和泉式部は、人生を謳歌したといってよい。
同時の社交界を、騒がせて、楽しいであろう。
その一方で、無常観という言葉では、計れない歌を、多く詠むのである。

はかなさ、を詠む。
そこには、確かに、もののあわれ、というものを、透かしているのである。
道長が、和泉式部を、戯れ歌で、うかれ女、うかれめ、と詠んだ歌がある。

うかれ女とは、巫女の霊媒、神懸る状態でもある。
浮いた、女。
現実から、浮く、のである。
それは、賢い女でもあり、麗しい女でもある。

実は、か弱そうに見えるが、その生命力は、強い。
平安貴族の、男たちの、色好みに、比べると、遥かに、彼女の色好みは、超越している。
その、根拠は、歌である。

万葉の、生命力を、平安期に、復活させているとでもいう。
その時代に合わせて、命を、謳歌するのである。

この、和泉式部の、色好みは、現在まで続いている。
ただし、現在の方は、堕落している。
同じ、恋愛、セックスでも、その実が違う。

セックスとは、全人的なものである。しかし、現代のセックスは、性器セックスである。

和泉式部の日記から、その、濡れ場を読むことにする。

これを手本に、セックスに、励むとよい。

あやしき御車にておはしまいて、「かくなむ」と言はせたまへれば、女いとびなきここちすれど、「なし」と聞こえさすべきにもあらず。昼も御返り聞こえさせつれば、ありながら帰したてまつらむもなさけなかるべし、ものばかり聞こえむと思ひて、西のつま戸に円座さし出でて入れたてまつるに、世の人の言へばにやあらむ、なべて御さまにはあらずなまめかし。

粗末なお車でしたが、お出でになられて、「これこれでうかがいました」と、尉に言わせました。女は、いささか困った気持ちでしたが、「不在です」とは、言えません。
昼も、お返事を差し上げたことですから、お返しいただくのも、何かと、心無い仕打ちになります。
お話だけでも、と、思い、西の妻戸に、円座を差し出して、そこへお入れしました。
かねて、世の人の評判通り、その容姿は、並々ならぬ、優美さでした。
これも心づかひせられて、ものなど聞こゆるほどに月さし出でぬ。「いと、明かし。古めかしう奥まりたる身なれば、かかるところにいらなはぬを、いとはしたなきここちするに、そのおはすところに据えたまへ。よも、さきざき見たまふらむ人のやうにはあらじ」とのたまへば、「あやし。今宵のみこそ聞こえさすると思ひはべれ。さきざきはいつかは」など、はかなきことに聞こえなすほどに、夜もやうやうふけぬ。「かくて明かすべきにや」とて、

はかもなき 夢をだに見で 明かしては なにをかのちの 夜がたりせむ

とのたまえば、

夜とともに ぬるとは袖を 思ふ身も のどかに夢を 見る宵ぞなき

まいて」と聞こゆ。

美しい方だと、思い、お話を申し上げておりますと、月が昇ってきました。
宮は、「ああ、なんと、明るい月でしょう。私は、古く、奥まった家に籠もりがちです。このような、目立つ場所には、不慣れです。大変、きまりが悪いので、あなたの、お出になる、おそばに、座らせてください。決して、あなたが、今まで出会った男のような、振る舞いは、しません。」
と、仰せになる。
「まあ、なんと、妙なことを、仰せになります。今夜、一晩だけの、お話相手を、申し上げるのだと、思っております。今までとは、いつ、そのようなことが、私に、あったのでしょうか」
と、取り留めない、はかなごとを、申し上げておりますうちに、夜も、ようやく、ふけてしまいました。
宮様は、このままむなしく夜を明かしてすぎるのかと、思いになられて、
「はかもなき ゆめをだにみで あかしては なにをかのちの よがたりにせむ」

はかない、仮寝の夢さえ、みることができずに、この一夜を明かしてしまうならば、どうして、一夜の、思い出話と、しようか。
と、仰います。
そこで、女は、
「よとともに ぬるとはそでを おもふみも のどかにゆめを みるよいぞなき」

夜が来て、床についても、悲しみで、袖が濡れてしまいます。
この哀しい、わが身も、一夜どころか、いつもいつも、のどかに、夢を結ぶ宵とて、ございません。

ついに、宮が、共寝を促す。
それに対して、女は、亡き人の追憶に心濡れて、とうてい、一緒に寝ることは、できないと言う。

「まいて」は、まして、という意味。

夜とともに ぬるとは袖を 思ふ身も
この世は、こんな人に溢れているだろう。
ゲーテの言葉が浮かぶ。
幾夜も、涙と、共に枕を濡らす人、涙と、共にパンを食べたことのない人は、人生の秘密を知らない、と。

のどかに夢を 見る宵ぞなき
のどかな、楽しい夢を見る、夜は無い。
こういう人も、大勢いるだろう。

色事の中に、儚さを観る。
儚さの中に、もののあわれ、というものを、観る。

人間の本質が、恋というものに、ある、ということ、重々、承知する。

交尾は、動物の行為である。
動物である、人間も、交尾をする。しかし、前頭葉の発達により、精神を持った。言葉の世界である。
交尾は、性交になり、性交は、情交になる。
情とは、心である。

これを、迷いというのか。
これこそ、もののあわれ、であろうと、観たのが、日本人である。


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2007年11月25日

もののあわれについて172

二三日ばかりありて、月のいみじう明るき夜、端にいて見るほどに、「いかにぞ。月はたまふや」とて


わがごとく 思ひはいづや 山の端の 月にかけつつ なげく心を

怜りもをかしきうちに、宮にて月の明かりしに、人や見けむと思ひ出てせらるるほどなりければ、御返し


一夜見し 月ぞと思へば ながむれど 心もゆかず 目は空にして

と聞こえて、なほひとりながめいたるほどに、はかなくて明けぬ。またの夜おはしましたりけるも、こなたには聞かず、人々方々に住む所なりければ、そなたに来たりける人の車を、「車はべり。人の来たりけるにこそ」とおぼしめす。むつかしけれど、さすがに絶えてはてむとはおぼさざりければ、御文つかはす。宮「昨夜は参り来たりとは、聞きたまひけむや。それもえ知りたまはざりしにやと思ふにこそ、いといみじけれ」とて、


松山に 波高しとは 見てしかど 今日のながめは ただならからむ

とあり、雨降るほどなり。「あやしかりけることかな。人のそらごと聞こえたりけるにや」と思ひて、


君をこそ 末の松とは 聞きわたれ ひとしなみには たれか越ゆべき

と聞こえつ、宮は、一夜のことをなま心憂くおぼされて、久しくのたまはせで、かくぞ、


つらしとも また恋しとも さまざまに 思ふことこそ ひまなかりけれ

御返は聞こゆべきことなきにはあらねど、わざとおぼしめさむもはづかしうて、


あふことは とまれかうまれ 嘆かじを うらみ絶えせぬ 仲となりせば

とぞ聞こえさする。

二、三日ばかり経ち、月の明るい夜でした。
女が、縁先にいて、月を眺めていますと、宮様から、「どうして、お過ごしですか。月を御覧になっていられますか」と御文がありました。

わがごとく おもひはでづや やまのはの つきにかけつつ なげくこころを

私と、同じように、山の端に沈む月を見て、かつての夜のことを思い出しているのでしょうか。私は、あなたに、逢えないことを、嘆いています。

いつもの御文より、心曳かれるものでした。
かって、宮の邸で、月が明る過ぎるほど照っていた、あの夜、人が、どこかで、見ていなかったかと、思い出されていましたところでしたので、お返ししました。


いちやみし つきぞとおもへば ながむれど こころもゆかず めはくうにして

あの夜に、見た月と同じ月だと思いますと、宮様が思い出されて、眺め尽くします。でも、私の心は、空ろですから、目も空です。宮様が、お出でになりませんから。

と申し上げて、なおも一人で、眺めていますうちに、夜が、はかなく、明けてしまいました。
次の夜に、宮様が、お出でになりましたが、女の方は、知りませんでした。
女の家には、人々が、それぞれの部屋に住んでいましたから、そちらの方へ来た車を、宮が「車があるけれど、誰か男が来ている」と思し召したのです。
不本意でしだか、女との縁を切ることは、出来ませんから、女に御文をつかわされました。
宮は「昨夜は、参りましたが、お訪ねしたことを、聞きましたか。それさえも、知らないと、思いますと、いたく悲しいものです」と、お書きになられ、


まつやまに なみたかしとは みてしかど きょうのながめは ただならぬかな

あなたの波高い、盛んな浮気は、知っていましたが、今日の長雨と、同じように、昨夜見てしまったことは、ただならぬことなのです。

と、添えられてありました。
それは、雨が降っている時でした。
不思議なことです。宮様に、誰か、ありもしないことを、申し上げたのでしょうか。と、思い、


きみをこそ すえのまつとは ききわたれ ひとしなみには たれかこゆべき

宮様こそ、浮気な方だと、聞いております。宮様と、同じように、誰が心変わりなど、できましょうか。

と、申し上げました。
宮様は、先夜のことを、何となく心憂く思われて、久しい間、お便りもありません。
そのあとで、このような、歌を読まれました。


つらしとも またこいしとも さまざまに おもふことこそ ひまなかりけり

あなたのことを、恨みがましく思い、また、恋しく思い、心の休まることがありません。

お返事を、申し上げたいということは、ないではありませんが、宮様が、あまりに、言い訳なさるのも、気が引けて、


あふことは とまれかうまれ なげかじと うらみたえせぬ なかとなりせば

お逢いすることが、どのようになりましょうとも、嘆きはしません。
二人の間が、恨みの絶えない仲になりましたら、悲しいことです。
と、仰せになりました。


恋に、障害は、付き物で、障害の無い恋は、空虚である。
障害が、多々あれば、それだけ、恋の強さが、試され、さらに、恋は、刺激され、燃え上がる。
恋の持続のためには、障害は、必要不可欠である。

そして、恋に伴う、想像は、果てしない。
相手を、疑いはじめると、すべてを、疑う。そして、それが、また、恋心を、燃やす。

人の立てる噂も、恋人の、糧になる。
一喜一憂という、感情の綾。恋の快感である。

この、日記の特徴は、和歌である。
実に、多くの歌の、やり取りがある。それは、当時の風習のようにあったが、この日記は、甚だしく、歌が多い。

一つの、歌集のための、恋のようである。
単なる、恋愛日記ではないということだ。
つまり、恋心に、言葉の世界、歌の世界が、介入して、更に、恋というものの、姿を見せるのである。

恋は、無益ではない。
勿論、無益な恋が、悪いことは無い。
恋こそ、人間の最後の無益な行為である。
この、無益な行為に、生きることは、更に、人間らしいと、言える。

和泉式部は、出家を考えるほど、仏教にも、帰依するのだが、結局、恋に生き抜くことになる。
そして、多くの歌を詠んだ。
無益な恋の成果が、歌である。

恋の成就は、結婚ではない。
当時は、そのような意識は、希薄である。

恋は、恋である。
それは、江戸時代まで、続く。
江戸の遊郭文化は、恋の文化である。結婚は、別物だった。そこには、明確な区分けがあった。

恋は、恋で終わる。
それは、儚いものであり、更に、熟して、もののあわれ、というものを、朧に浮かび上がらせるのである。

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2008年01月10日

トラック島慰霊の旅 10 平成20年1月23日

人の死を悼む歌を詠む歌を、挽歌という。

そして、歌は、鬼神をも、泣かせるという。


ランダムに、私の、歌詠みを。


愛国の 水盃に うれいあり 若き命を かけしその意を


追悼の 思いに満ちて 宣る我は 清め祓いに 清められたり


トラックの 海は静かに 凪るとも 散華のみこと 言の葉ゆれる



いかばかり 苦悩に満ちて 行く兵士 これも愛国 これもわが身と


鬼神をも 泣かしめるかな 歌詠みの 歌も残さず 散る命なり



はるばると かけつけ祈る 我に言え その悲しみの その切なさの



今もなお 母が待つくに 我のくに 帰り戻りて 泣くものぞかし


我を待つ 恋うる心の 思い人 胸に抱きて ここに逝くなり



平らけく 安らけくかな 南洋の 海静かにて ただそのままに


忘れては また立ち返り 振り返り 水底深く 残る思いを


しかしまた すでになきなり その思い 風吹くままに 波立つままに



大伴の 歌いし賛歌 海ゆかば 空にもかかる 雲の一筋



我もまた 国の御親の 元にゆく ゆくべき国の そり胸の内


いにしえも 死を前にして 人は立つ 今も我もは 振り返らずに


この時ぞ 敵も味方も なかりけり 運命(さだめ)のゆえの ことと知れり



追悼の思い


恥ずかしく 情け無きかな わが祈り 身を切る思い 至らぬゆえに


ありがとう ただありがとう 皆様の 命のお蔭で 生き残る我


潮も泣く 山も泣くなり 過ぎし日の 戦の跡の うつつの跡の



深き海 我知らずその 深き海 深き思いを 知ることもなし


父母の 思いは篤く 胸に抱く 骨無き子らの 悲しみを抱く


大君の 野辺に 死なまし 国のため 教えを受けて 悔やむことなし



最後に


忘れずに 語り伝えよ この事実 問わずして逝く もののふの雄


紺碧の 空と海との 間には 果てない遥か 悲しみの淵



歌の良し悪しではない。

歌を詠まずに、いられないのだ。


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2008年04月20日

神仏は妄想である 79

「新約聖書」神学の核心に位置するこの教えは、道徳的には、イサクを焼き殺す準備をしたアブラハムの物語とほとんど同じくらい胸くその悪いもので、またよく似ているーーーそれは、ユダヤ学の専門家、ゲザ・ヴェルメンシュが「イエスの変貌」で明らかにしているように、偶然ではない。原罪そのものは、「旧約聖書」のアダムとエバの神話から直接に由来するものである。彼らの罪―――禁断の木の実を食べたことーーーは、単なる叱責ですみそうな、軽微なものに思える。
ドーキンス

この、アダムとエバの、話は、よくよく、考えてみれば、如何に、聖書の神というもの、捻くれたものであるかが、解る。
旧約聖書の神が、どんな人格であったのかは、すでに、述べたが、手のつけられない、自作自演のものであることが、理解できる。

魔神、悪霊と、呼ぶに相応しい、これ以上の、魔神は、いないという存在である。

人間に、生まれ持った、原罪という罪があると、信じるという、精神異常は、計り知れない、妄想を、人間に抱かせた。


しかし、この実の象徴的な性質(善悪についての知識、実際上は、自分たちが裸だという知識であることが明らかになる)のゆえに、リンゴを盗むといういたずらが、すべての罪の源泉とみなされるのに十分だった。彼らとその子孫すべての子孫はエデンの園から永遠に追放され、永遠の命という天からの贈り物を奪われ、田畑と出産においてそれぞれ、何世代にもわたる苦痛に満ちた労働を強いられることになった。
ドーキンス

私も、更に、しかし、と言う。
田畑を耕すという、苦痛に満ちた労働を、強いた神は、それさえも、否定することになるのである。
それは、アダムとエバの子供である、カインとアベルの、話に出るものである。
これは、後で、書く。

旧約聖書、創世記から、神は、その正体を明かすのである。

まず、エバをそそのかした、蛇に神は言う。

「おまえは、このことをしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる。おまえは腹で、這い歩き、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女のあいだに、おきえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おきえは彼のかかとを砕くであろう」

そして、エバには、
「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」
そして、アダムに言う、
「神はあなたのために呪われ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」

ここでは、呪い、恨み、苦しみ、という言葉が、ずらりと、並ぶ。
通常、呪いというのは、悪魔のすることである。
神は、呪うということを、しない。
あらゆる宗教の原点をみれば、呪うのは、悪魔、悪霊である。

旧約聖書に、悪魔というものが、出てこない。
何故か。
神が悪魔だからである。

余談であるが、ユダヤと、日本の関係が深いという、想像をもって、語る人々がいる。
旧約聖書と、日本の古代史の、接点や、統合である。
有り得ない。
事後預言と同じで、如何様にでも、意味をつける。想像、妄想できる。

ユダヤ十二支族の一つが、日本だという、大ばか者もいる。
文様や、言葉を取り出しての、接点である。
一つは、日本が先だ。一つは、ユダヤが先だと、言う。
妄想もほどほどにと、言っておく。

カインの捧げた、農産物より、アベルの捧げた、血の滴る羊の捧げ物を、何の意味も無く、アベルの捧げ物を、善しとしたのである。

はっきり言っておくが、日本には、血の滴るような、獣を神に捧げるという、伝統は無い。

そして、更に、神は、善良なカインに、弟を殺させるという、人類最初の殺人を犯させる。
この、捻くれた神は、そこでも、更に、カインを、追い詰める。

「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の上からわたしに叫んでいます。今あなたは呪われてこの地を離れなければなりません。この土地が口を開けて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」

これは、完全な、イジメである。

地を耕せと言う。しかし、その実りを拒み、血の滴る獣を受け取る。更に、嫉妬を起こさせて、弟殺しをさせ、それで、更に、あなたが土地を耕しても、実を結ばないという。

完全に、人間を、捏ね繰り回している。

更にである。
まだ、ある。

カインは主にいった。「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、今日わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならなければなりません。わたしを見つける人はだれでもわたしを殺すでしょう。主はカインに言われた。「いや、そうではない。だれもイカンを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」そして主はカインを見つける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

善良なカインを、散々弄び、結果、カインは、ならず者として生きるしかなくなるという、おぞましい、話である。

善良なカインは、主から受けた、しるし、によって、今でも、その末裔は、殺戮を繰り返している。
それが、復讐という言葉に、現される。

神が、復讐を言うのである。

自作自演も、ここまでくれば、完全に狂っている。

勿論、私が、教会で、習った、カインとアベルの話の、意味合いは、全く別の解釈により、
神の本当の姿を、考えないようなものになっていた。

物語から、神の正体を逸らし、弟殺しをした、カインは嫉妬により、人類最初の殺人を犯した。すべての罪は、嫉妬からはじまった。
さらに、サタンという、悪魔も、神が人間を愛するのを、御覧になり、嫉妬を起こして、大天使だったが、サタンに落ちたと、教えた。

大天使ルチフェルが、悪魔サタンになった。
嫉妬で。

妬みの神と言ったのは、誰か。
最初に、嫉妬したのは、誰か。

神自身が、悪魔であることを、宣言しているのである。

復讐、報復という、言葉は、旧約聖書から、始まる。
これを、正典としている、ユダヤ、キリスト、イスラム教の、本当の姿が、解るというものである。


このあたりを見ると、あまりに容赦がなさすぎる。これは「旧約聖書」では当たり前のことだった。だが、「新約聖書」神学はそれに、その悪質さにおいて「旧約聖書」さえも凌ぐほどの、新しくサドマゾヒズムで仕上げをした不当な処置を付け加える。宗教が、しばしば首にかけられる聖なるシンボルとして、拷問と処刑の道具である十字架を借用しなければならないというのは、よくよく考えてみれば、驚くべきことである。
ドーキンス

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