2006年09月21日

時代の不幸

この時代は、観光旅行の如くである。
次から次と予定をこなす。この場に、しみじみと佇むことが出来ない。
風の音も、雨の音も、虫の音も、ただ、あっそうと通り過ぎるだけである。
兎に角、機械文明に使われて、どんどんと前に進む。もう人生が何であるのかという問いさえも捨てて。
そして、人生についての少しばかりの本を読み、感動するという嘘を平気でする。
一年前のことなど、太古の昔のように思う。
こういう状態を古人は、哀れであると言った。
聴くことも、観るという行為も捨てて、一体何が解るというのだろう。
解るということは、納得するということは、行為となることを知らない。
ゲスな興味のみに、大切な思考力を低下させて、実に哀れである。
そしてしまいに、妄想の宗教、霊感、霊能力を信じてしまう。
何一つ、確実なことを知らずに、生きていると思い込んで生きている。
いつの世も、無知と蒙昧にあったが、今はそれに加えて、傲慢不遜が加わり、一層、酷い状態になった。
これは、もはや救いようのない状態なのかもしれない。


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2006年09月22日

藤岡のメッセージ

人間が死んだら、すべてが無になる、無くなると思う人には、理解できないことであろうが、数少ない人に、藤岡は明確なメッセージを発している。
私は、そういう方から、情報を聞く。
当然である。藤岡は無くなってはいないからだ。
実に重大なメッセージもある。しかしそれを公開する訳には、いかない。本人の承諾がなければそれは出来ない。
霊界からの情報は、極めて冷静沈着に扱わなければならないからだ。
この世は魔界に支配されているので、大半の人は、そのエネルギーを得て生きる。知らずに、魔界の支配の元に、動かされている。それを知らないという不幸である。
藤岡から私を引き離そうとした、魔界のエネルギーを持つ者もいた。
しかし本人は、それを知らない。世の常識というものに従って、藤岡にアドバイスをしていたが、藤岡の死因も、それに多くを負う。
確かに、藤岡はもっと早く霊界に戻っても良かったのであるが・・・
今は、そのことに触れないでおく。
いすれにせよ、人が死んですべてが無くなると思っている人は、即座に改めるべきである。そうしなければ、この人生の意義を十分に知らずに無為に生きることになる。
これは宗教的教義ではない。事実であり、真実である。

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2006年09月23日

出演者募集

来年より
ぴあの・ピアノ・Piano
ピアノ祭りを再開します。
また、心の音楽会、歌祭り
音楽は心にやさしいコンサート
出演者を募集します。オーディションの必要なものもあります。
すべて参加費、またはチケットノルマがあります。
お問い合わせ下さい。
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2006年09月24日

命上がり祭前祭

本日は、藤岡、みことあがり祭の前祭です。
一年前の事故前日の夜、私は、藤岡から激しい程の、意欲を聞いていました。
不思議です。そして翌日は、早朝、気づいたら、私の横に寝ていました。
事故当日の朝は、私と一緒でした。
最後まで私と共にあった藤岡でした。
それを知らずに、藤岡の電話等による、私と別に行動するという言葉を聞いて、大きな誤解をし、私を大変な悪者に仕立てた多くの人、私は彼らを許しますが、彼らの守護霊や背後霊が許すか否かは別です。
さて、この世と別れる前には、少しの精神の乱れがあります。それは藤岡もそうでした。いつになく、感情の起伏が激しかったようです。以下、省略します。
今、私は藤岡によって、様々な人の本当の姿を見せられています。
その嘘、偽り、等々です。
藤岡が有名になるだろうとの予測の元に、付き合いをしていた者どもの姿を、とくと見ました。勿論、それで私が、どうする訳ではありませんが。
ここに、それを記して置きます。
本日から、明日にみかけて、私は藤岡の霊位に対して、特別な対応をしたいと思います。親しい人に多くのメッセージを発しています。
藤岡の臨在を感じます。
霊に戻った霊体には、嘘は隠せません。くれぐれも注意してください。

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2006年09月25日

藤岡宣男命上がり一年祭

本日は、pm3:00よりpm10:30の間、一時間ごとに祝詞献上します。

この一年、一度たりとも藤岡のことを思い出さない日は、ありませんでした。それは長い道のりでした。藤岡の歌声を残すべくコンサート活動も続けて、これからの人生を藤岡の歌声を伝える、残すということに邁進すべくの考えでした。
これからも、そうです。

再現芸術であり、瞬間芸術が声楽です。本来は、その時で、すべてなのですが、録音技術のお蔭で、歌声を残すことが出来ました。
伝える必要があるのは、藤岡の歌の「もののあわれ」という普遍性です。
それについては、多々書いていますので、省略します。

藤岡の口癖でした。僕は、勉強したい。向上心は人一倍強かったのです。私は彼が、ドイツ語、フランス語、イタリア語を学んでいたのを、目の当たりにしました。
実に、よく学んでいました。そして人体のことです。歌うための体を作るということを、様々な形で行なっていました。
良いといわれる治療法、等々、多くの場所に通い、専門家以上の知識を得ていました。

人が死ぬのは悲しいけれど
いつか人は死んでゆく

それが早いか、遅いかの違いです。
藤岡は、よくよく生きたのです。命の讃歌を生きたのです。

本日、私は日本の伝統に従い、神呼びをし、藤岡と共に過ごし、共に食して、楽しく語らい、神祭りを行ないます。
「清く明るき、直き心」日本人の神祭りの醍醐味があります。

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2006年09月26日

いつも新しい

一年祭を終えて、再び歩き始める。
藤岡は有名ではなかった。知名度は低い。それが幸いした。
これから藤岡の歌を新しく紹介できる。手垢のついていない声楽家として紹介するへことが出来る。

私は、毎日が新しい時との出会いをしている。
いつも新鮮でいられる。それは藤岡の歌も、そうである。

この人生の無常迅速を超えて、いよいよ人生の醍醐味である、ラストスパートである。
新しいテーマである歌が、私の前にある。
藤岡の影を慕いて行く。

生きるとは、思い出である。
日々思い出を作り出して生きる。
あらちの世界へ行く日まで、思い出創りをして生きる。

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2006年09月27日

それぞれの追悼

藤岡と縁のあった皆様が、それぞれに一年祭の追悼を成していたと想像します。
ありがたいことです。

私の霊学へから、皆様に申し上げます。
心霊は、その人の心の、思い、想い、念いを受け取ります。
小手先の読経や、祈りは通じません。
霊界の人霊は、思い出せば即座に、あちらも思い出してくれます。
すべて想いの世界なのです。
多くのお花、供物等々は、必要ありません。
もし、それに捕らわれているとしたなら、その人の霊は、幽体か、三次元に近い霊的場所にいて、現世と同じように過ごしています。

すべからく、霊界入りした霊人は、人の心の想いを頂きます。
すべてを見抜いていますから、小手先での想いを即座に見抜きます。

深い哀悼の意だけでいいのです。

藤岡の霊位は自由を得ています。
即座に反応します。
皆様の心のレベルにより、その表現を変えます。
ただし、霊界は、上下という世界が非常に厳しく、藤岡がこちらのために祈ってくれること多々あります。
下からは、上に逢うことはできません。
上の者からの歩み寄りを願うためにも、涼しき、澄んだ心のあり様が必要です。

日本人は尊敬する霊人を、神と尊称をつけてお呼びしました。
霊位には礼儀作法をもって臨むということです。

私も、藤岡の霊位に対しては、藤岡宣男の命と、呼び掛けます。

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2007年03月12日

総務省が発表した、昨年の労働力調査結果

総務省が発表した、昨年の労働力調査結果である。
全体に占める、パート、アルバイト、派遣社員ら非正規社員、職員の割合が、33パーセントであり、過去最高を更新した。
正規が、3411万人、非正規が、1677万人である。
数は、どうでもいい。その収入である。非正規の人の過半数が、199万円以下である。
ワーキングプアという言葉が出て、何だろうと思っていた。働く貧乏である。
パート、アルバイトとは、主婦や学生もいるだろうが、契約社員などは、283万人である。働いても、食べてゆくことが出来ないとなると、大問題である。

大企業では、年収が一千万円を超えるが、中小企業では、精々、300万から400万である。それらは、大企業を支えているというから、頭を捻る。
強いものが勝つのであろう。
冷静な物言いは、専門家に任せる。
私は感情論で言う。
富の分配化がされない社会は、怨念を生む。

青森市、富山市が、政府主導で活性化を図るという。青森市は、すでに始まっている。
夕張市の破綻は、多くの市町村に当てはまる。次々と、破綻することであろう。
これは一体、どういうことか。
世の中が変化したのであることを知らない故の事である。
その変化についてゆけないのだ。
政治の問題であろうが、そうとまでいえないこともある。
意識の問題である。
地方分権と言うが、地方分権で一番困るのも、地方であろう。

地方活性と言っても、もうすぐ死ぬ、爺婆ばかりの土地に、活性も何も無い。
東京から離れれば離れる程、経済状態が悪くなる。
北海道、沖縄の問題は解決の道筋が見えない。
どこから始まったのかと考える。バブルと言われる経済の時期の前からである。
これを話せば長くなるので、一言だけ言う。生命保険会社の金の使い方から始まった。それを解明する本が、続々と出てくるはずである。
その生命保険会社の不払いが一万件あるというから、呆れる。そして、その頃、散々にいい思いをした者どもは、今、豊かな老後を送っている。恥知らずである。
準じて、銀行である。彼らの行為は、非国民と呼んでもよい。

また、公金を横領しても平気でいる政治家、官僚、そして公務員である。まだ50年ほどは、安泰であるといから、驚く。
外務省、そして外交官などは、国民が知らないだけで、相当な暮らしをしている。国の顔であるとしても、内情を知ると、国民は跳ね上がるだろう。
その多くは、東大卒である。要するに、公金横領する者を育てる大学である。

明治期の官僚は、実に素晴らしい働きをして国を建てた。しかし、その土台の上にある、今の者どもは、その上に乗って好き放題三昧であると思えばよい。
そうして、こういう文章を読んで、ニタニタ笑うような人格である。
頭脳明晰なアホ馬鹿であるが、それに気づかない。そして、その子供、次の子供と、続かせる。
革命をするならば、まず、彼らの一族郎党を皆殺しにしてから始まる。

貧乏人や頭の悪い者は、人ではないという考えを持って望んでいるのである。
差別意識は、甚だしい。支配者層ということになる。
人間性という、崇高な精神状態を持っている者は、続かない世界である。皆、人に非ずである。
民主主義も共産主義も、支配者層に入ると、同じ穴の狢になること、必至である。
問題の大本が、これで理解出来れば幸いである。
国民の生活が不安であれば、いずれ、彼らも不安になるということを知らない。
国民あっての、ものだねである。

統一地方選挙がある。
本当に真剣に考えなければならない。
たった一票であるが、この一票が、唯一国政から、地方政治に関与するのである。無駄にすることは出来ない。


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2007年03月14日

インド人の富豪

インド人の富豪が急増しているという。
資産10億ドル、約1171億円の富豪を、米経済誌フォーブスが発表した。
インドは、前年の24人から、36人に増えたという。
ちなみに日本は前年より、3人少ない24人である。
インドの首位は、資産320億ドル、約3兆7490億円である。

日本よりも富豪がいる。複雑な心境になった。
それは、インドにボランティアをする日本人がいるからだ。
貧しい人のため、子供たちのために、支援をする。また、医療のボランティアもである。
もしインドに、仏教の施しの精神があればと思う。

インドの富豪が、一億円を出せば、36億円になる。
それでも、膨大な福祉が行える。
インドには偉大な聖者が現れる。
非暴力のガンジー、福祉のマザーテレサ。
ガンジーは、政治の神様であろう。そして、マザーテレサは、貧しい人、捨て置かれた人の神様である。
しかし、マザーテレサも、インド人の心を作ることが出来なかった。

仏教が広く行き渡っていた時代は、布施の行為は、広く大々的に行われていた。
多くの王は、競って布施の行為を行った。
仏陀滅後、千年を経て、次第に仏教が衰退すると、次第にバラモンの教えからヒンドゥーに引き継がれて、仏陀も、ヒンドゥーの神の一人として奉られる羽目に陥る。
魔界の息が吹き返してくる。

三蔵法師玄奘がインド、天竺に向かった700年代も、すでに衰退の様子が伺われている。そして、仏陀滅後、二千年、1500年代になると、イスラムが台頭してくる。
仏教国は、イスラムに根絶やしにされる。シルクロードの国々がそうである。

インド魔界の神々は、四方八方に散るようになり、日本にも多くの神々が渡来した。
帝釈天、毘沙門天、等々、仏教の神として認識されたが、全く関係ないのである。
インドの天上界は、魔界の霊界であり、霊界という世界も異にする。
それをそのまま、仏教の天上界として信じる者もいるから、驚く。
仏教には、天国思想は無い。
浄土という思想は、後に出来たものである。
霊界には、浄土、涅槃という霊界は無い。
世界一の資産家、ビル・ゲイツは、約6兆5620億円を有する。彼は、それを福祉活動に充てるべく行動を開始した。
資産を使い果たせないし、いくらお金があっても、空しいであろう。
彼の心の中には、キリストの言葉が、響いているはずである。
金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいと。
やはり死後の世界が、彼をして行動させるのである。

日本の金持ちは、どうか。
全く、金の使い方が解らない。
生まれもって資産のある者に、ロクな者がいない。
金持ちがアホだから救われないときている。また、今では、金さえあれば偉いと思われる時代であるから、また救われない。
貧乏人の僻みと思うなかれ。生まれつきの金持ちは、結局、人生の秘密を知らぬままに、この世を去る。
因果というものは、恐ろしい。
金があるということで、大きな負を与えられていることを知らない。

実は、私の霊学の奥義である。
この世は地獄である。あの世に、地獄などない。たとえ、あったとしても、この世の地獄には適わない。
針の山、血の池など、物の数ではない、この世の地獄に比べればである。
一番の地獄は、地獄にいるという意識が無いことである。
家宅の火、燃えている。無常は迅速である。
絶対孤独の存在が、虚無の孤独であるから、ああ無情である。

気性の激しいイエスが言う。金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいと。つまり、金持ちは、天国に入ることが出来ないという。その意味は、何か。
正しく説明出来る者は、いない。
実は、イエスの言葉に大きな矛盾がある。
貧しき者は幸いなりと言う。それに、心の貧しい者としたのは、作意がある。
教会も、金持ちによって支えられるからである。貧しいの前に、心という言葉を置いた。
貧しい者が幸いであるはずがない。
貧すれば鈍する。貧しさも、極まれば、心が荒む。
イエスは、分配する心を言うのである。それを実行するのは、貧しい人が圧倒的だという逆転である。
貧しい者のの寄付は、すべてであるが、金持ちの寄付は、すべてではない。すべてを与えることが出来るのは、貧しい故である。持てる者の、因縁は深い。
イエスが、この世に価値を置かなかったのが、見て取れる。
お金は、誰のものかと問うと、カエサルのものはカエサルに、神のものは、神にと言う。
つまり、お金は、この世だけのものであり、それ以外の秘密は、神のもの、つまり、自分のものであると言う。
金持ちは、自分のものを持てないのである。
イエスが言う、神のものを持てないのが、金持ちである。

日本人は、裸で生まれて、裸で死ぬと言った。
お金を持ったまま死ぬことは出来ないとも。
金は天下の回り物とも。
つまり、金は誰のものでもない。それは方便に過ぎないと。それを忘れて、日本人は、浮遊した。
多く所有した人が死ぬと、大半が浮遊する。次元移動が出来ない。自縛する霊の多くは、そういう者である。
怨霊ならば、まだいいが、自縛というと、それは地獄である。つまり、この世に自縛する。
死ぬに死ねない程、辛い苦しいことがあろうか。
それ、ほとんど無間地獄という。

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2007年03月15日

もののあわれ27

万葉集を語っているが、忘れていたことがある。
何故、万葉集と名づけたかということである。
まんようの集いである。まんようの言の葉の集まりである。
この万葉とは、万代を言う。万代とは、永遠を意味する。
これ万葉集の中から、見る。

和銅四年歳次辛亥、川邊宮人、姫島の松原に譲子(おとめ)の屍を見て悲しび嘆きて作る歌二首 のうちの一首を上げる。
妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松が末(うれ)に 苔むすまでに
お前の名前は、千代に流れている、だから、永遠と名づけよう。
この、苔むすまでにの表記の、までを、万代と表記している。まで、が、万代なのである。
万代は、万葉に至る。つまり、万代の言の葉を、万葉と言う。故に、万葉集とは、永遠に残される歌集という意味である。
万代、まで、とは、いついつまでも、である。までは、永遠に続く、まで、である。

千代、万代とは、万葉と同じく永遠性を言う。

もう一首の歌を読む。
難波潟 潮干なありそ ね沈みにし 妹が光儀(すがた)を 見まく苦しも
すがたを、光儀と表記する。以前、挽歌の時に言ったが、人の死を万葉の人は、現代の人とは違う、見方をしていた。
魂の抜けた肉体である。気の抜けたものが死体なのである。魂は、別の世界に飛躍したのである。
難波の潟に流れている娘の死体を見るのは、苦しいものだ。
しかし、当時死体は、どこでも見られた。一般人の死体は、その辺に置かれてあったのだ。
インドのガンジス川では、今でも、死体が流れている。それと同じである。

万葉集を語るのに、実は、古事記の世界にも、関わることで、その意味が深まる。
ここに至って、私は、とてつもない世界、もののあわれを語ることになる。
それそこ、終わりの無い、もののあわれ論になるかもしれない。
藤岡宣男の歌にある、もののあわれに行き着くまでに、私の命が亡くなることもありえると感じるようになった。
いずれは、万葉歌人の柿本人麻呂について、そして、その歌の本質を見て、そこから続く、歌の道は、西行までに至り、俳諧の松尾芭蕉にまで至ることになる。さらに、山頭火の歌の世界までも網羅して、もののあわれを語ることになるという予感がする。
それならば、日本の精神史ということにもなる。
とんでもない世界に入り込んだものである。
何も仏教思想の、膨大な数の世界に驚くことはない。

億万、劫という無限の数の世界を言うことなく、無限を千代、万代で表して十分である。人の寿命が100年たらずを思えば、千代、万代と言えば、永遠を表すのである。
この万葉集とは、題名から、永遠を思い、願いを込めて編纂された歌の数々である。これを日本民族が有しているということに、誇りを持つ者である。
世界の古典で、名もない者も参加している書き物は、唯一、万葉集である。
それも、三十一音という、最小の音の組み合わせである。
信じられないことである。それが、今目の前にあるという奇跡である。

posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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