2013年12月29日

沈黙を破る81

フィリピンを、史上最大の台風が襲った。
それが、フィリピン中部とは、ビサヤ諸島である。

私が、出掛ける、島々がある。
セブ島、ネグロス島、レイテ島、パナイ島・・・

被害は、その他の島、サマール島、ボホール島にも、及ぶ。
ボホール島は、地震の被害で、百名以上の死者を出したばかり。

その、ボホール島に、出掛ける予定を立てていた。

ネグロス島の、バコロドには、テラの会支部がある。
連絡がつかず、心配したが・・・
ようやく、連絡がついた。

矢張り、レイテ島が一番の被害を出したという。

私の出会う人たちは、スラムの人たち、ストリートチルドレンである。
つまり、一番、弱い立場の人たち。
そして、被害も多く受ける。

レイテ島、タクロバンの子供達は、全滅だろうと、思った。
皆々、港、ビーチの近くに寝泊りしているからだ。

最初は、支援のプロたちが、行く。
国連、日本、アメリカ、イギリス、オーストラリア・・・
それぞれが、軍である。
そして、医療チーム。

数ヶ月ほどして、落ち着いてから、私が出掛ける。

身の程を知るべきなのだ。
出来ることをする。

被災者達は、食べ物と、着る物が無いという。
私は、着る物を持参出来る。

更に、現地で、食べ物を調達して・・・
ストリートチルドレンに上げられる。

その後、台風は、ベトナム北部を通過した。
数十名の死者を出した。

被害の様子は、現地に行かなければ、解らない。
だから、現地行く。

通常の支援活動とは、自然災害の場合は、異なる。
ボランティアが、足手まといになることもある。

落ち着いてからが、ボランティアの出番なのだ。
それは、長期的なものになるべき。

一度や、二度なら、簡単である。

東日本大震災の場合も、同じ。
継続した、支援活動が必要なのだ。
更に、政府の支援である。

あまりに、大き過ぎる災害であるから、政府が問題である。
政治と行政、そして、民間である。

民間が、分を知ることは、難しい。

私は、決して、全能感を持たない。
出来ないことは、出来ないのである。

そして、ボランティアは、密かにするべきなのだ。
たまたま、通り掛った者、という意識である。
それ以上のことは、傲慢になる。

余力を三割ほど、残して行なう。
全力投球をして、倒れては、何も成らない。

他者の支援も、受けるが、他者に迷惑をかけないのである。

平成26年2014年は、活動八年目に入る。
長く続けるために、無理は禁物である。



posted by 天山 at 07:07| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月13日

沈黙を破る82

何度も書いたが・・・
確認するために、書く。

ボランティアである。
日本語に訳すと、奉仕とか、支援とか・・・

だが、ボランティアの語源を探ると、ラテン語の、ボランタスからなる言葉だ。
その意味は、生きる意味意識、である。

生きる意味意識を行為する、活動という意味になる。

すると、奉仕、支援とは、少し違う。
奉仕は、たてまつり、つかえる、支援とは、ささえて、援助する。

奉仕は、神事の行為だった。

さて、日本人と欧米人のボランティアに対する、大きな違いは、その行為を、神に捧げる。更に、その行為によって、もたらされるものは、聖書の中で、イエスが言う、その小さな者にしたことは、私にしたことである、という言葉に行き着く。

マザー・テレサが一番解りやすい。
神様のために、良いことを・・・

つまり、それは、神のために行なうのである。
人道支援とは、神のためである。

それは、それで、意義のある事だ。

日本人は、奉仕は、神事であるが、人に対する行為は、親切であり、仏教の利他の行為、慈悲の行為となる。

それは、人と人の関係になるのである。
袖振りあうも他生の縁、という。

さて、私が言いたいことがある。

ボランティアに必要なものは、支援を必要とする人がいるということである。

貧しい人が必要。
助けを必要とする人がいる。
障害を持った人がいる。

つまり、そういうことだ。
もし、そういう人が皆無ならば、ボランティアは、必要ではなくなる。

そうすると、もっと、本質的なことを考えることになる。

助けを必要としない人に対しても、何がしかの行為という、善意がある。
日本では、親切という。

いつも、何か人の為にと、考えて行動する人は、即座にそれが、出来る。
挨拶もそうである。
挨拶は、しなくてもいい、が、すると、尚良いのである。

コミュニケーションである。
それが、人と人を結び付ける。

ということで、ボランティア行為とは、特別になんでもない、当たり前の行為ということになる。

私にとっては、そうである。

健康な人でも、時には、病になり、人の手を借りる場合がある。
絶対に、人の迷惑にならないと、踏ん張って、生きる人は、孤立する。
人間の孤立は、死を意味する。

集団生活を人類発生の時から、しているのである。
今は、社会という。

そして、社会から、国家、更に、国民国家へと、進化した。

人は、一人では、生きられないことになっている。
どんなに頑張っても、それは、避けられないことだ。
日本では、道端で、死ぬと、行政が、その始末をする。

鎌倉時代のように、そのまま、放り投げておかないのだ。

更に、国が国民の生活を保障する。
それを、福祉といっている。

ボランティアも、福祉の一部に入っている。
行政と、民間のボランティアが、共同作業をするようになった。

ただし、ボランティアは、無償の行為といわれている。

行政の、行為は、国が面倒をみる。
民間は、寄付などの民間の人に支えられる。

日本でも、災害時に、ボランティアが多くなってきたことは、いいことだ。

そして、それが、自然な行為になることである。
当たり前の感覚である。

神が介入しなくても、それに問題は無い。
神が介入してもよい。

問題は、行為に尽きる。
だから、何を語るのではなく、何を行なうか、なのである。

ボランティアをする人がよく口にする言葉がある。
逆に勇気、元気を貰った・・・

そんなことは、当たり前なのである。
何せ、相手あることである。
相手が存在しなければ、ボランティア行為も存在しない。

人は、人の為に、何かをする時、力が湧いてくるというのが、人類発生の時から、学習していったことである。

そして、それが、皆、我が身に返ってくることを、知っていた。
それが、褒美である。

精神的褒美を多く言うが、色々な褒美がある。

例えば、情報である。
例えば、気付きである。

すべて、我が身に返ることになる。

倫理進化学では、人間のすべての行為を、利己的であると、説く。
全く、その通りである。

結果は、すべて、我が身に尽きるのである。

話は、まだまだ、あるが・・・

posted by 天山 at 06:11| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月02日

沈黙を破る83

中国共産党の一党独裁政権が、崩壊する。
海外に向かい、強気の中国も、国内問題では、お手上げになる。

つまり、革命である。

その前段階が、ウイグル族から出る、イスラムのテロだった。
そして、それが動き始めた。
すると、それぞれの少数民族、特に、チベット族も、動き出す。

更に、一日、数百件を超える、農民の暴動である。
それらが、大きくなる。

人民解放軍を持って、対処するだろうが・・・
間に合わない。

その歴史は、それの繰り返しである。

反日教育も、本当のことを知る、中国人が増えた。
日本に対する、内政干渉は、甚だしい。

経済大国と言われるが、その大半の利益は、共産党幹部により、多く海外に流れている。
更に、幹部たちは、いつでも、海外に逃げられるに、準備している。
そんな国が、いつまでも、続く訳が無い。

巨大ダムも、蟻の一突きから、崩壊する。

中国も、そのようである。

腐敗と汚職は、止むことがない。
嘘の上塗りが、当然の国。

粛清するなら、共産党幹部すべてが、そうなるだろう。
革命が、起こると、彼らは、皆殺しにされる。
それが、中国の歴史である。

中国経済が、世界一に上がるなどとは、寝ぼけた者の、言い草である。

東アジアは、西欧の百年前だという人がいる。
その通りだろう。
が、その成り立ちが違う。

ただし、中国共産党は、最後に戦争を選ぶ。
人民の目を、国内ではなく、国外に向けるためである。

だが、中国に加勢する国は、数えるほどである。
孤立して、戦争をすれば、負ける。

日米露を敵に廻すことになる。
更に、他のアジアの国々である。

金で覇権主義を推し進めてきた中国に対して、嫌悪を感じている国は、アフリカにも、多い。

世界の至る所で、中国排斥があることを知らぬようである。

世界の大国は、借金まみれである。
その借金を帳消しするためにも、戦争に参加する国は多い。

勿論、戦争といっても、第二次世界大戦とは、全く別物である。
勝ち組は、人的損失を出さずに、勝つ。

無人機攻撃が、主となる。

中国という、倫理の無い国が崩壊する。
それは、世界にとって、実に良いことである。

そして、漢民族は、ようやく、反省に立つことが出来る。
その勝手な言い分、歴史の捏造も、泡と帰す。

そして、中国は、小国になり、落ち着くのである。

覇権主義が、通った時代は、最低最悪のイギリスが活躍した時代であり、その次の戦争好きなアメリカの時代で、終わりである。

独裁政権は、時代の流れに無い。
つまり、独裁政権は、確実に、崩壊する時代である。
時代には、勝てない。

そういう意味では、北朝鮮も、ロシアもまた独裁になると、順次崩壊する。


posted by 天山 at 05:56| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月20日

沈黙を破る84

戦没者追悼慰霊と、衣類支援を始めて、八年目を迎えた。

改めて、その活動を振り返る必要は無い。
ただ・・・
日本人の意識の差は、拡大するばかりである。

戦争を知らない世代が、圧倒的に多く、その人たちに、語る言葉を見出すのが、難しい。

更に、個人の支援活動である。
これも、説明するのは、難しい。

多くの、支援団体がある。
日赤、ユニセフ、募金会・・・

そして、大きな支援団体もある。

だが、私は、多く、個人的活動をしている、人たちを知る。
そして、それらの活動が、充実している。
というのは、大規模ではなく、個人活動にある、慎ましさと、真剣さである。

現地の人との触れ合いが、基本。
更に、丸投げは、しない。

募金や、支援物資が、何処に、どのように流れてゆくのかが、解る。

報道される支援が、真っ当になされているのかは、現地に行かなければ、解らない。
そういう事態を、多々見た。

国連が、緊急支援をした。
ところが・・・
現地の人たちには、何一つ、届いていない。

一体、どういうことか・・・
国連の発表を鵜呑みにして、報道は、伝える。

そういう、嘘を、現地にて、確認する。

更に、それらに無関心な人たち。
関係無い。

ところが、大震災時に、関係ないことが無いことを、知った。
多くの国からの、支援。
募金にせよ、支援物資にせ・・・

だが、それでも、東北の一部の人たちのみが、気付いた。

喉もと過ぎれば暑さを忘れる。
そうして、また、元の木阿弥である。

無関心が、覆う。

ところが・・・
日本の食を支えているのは、何処か・・・
きっと、知らない。

日本に対する、輸入が途絶えたら・・・
その時のことまでも、無関心である。

食べられる物を、捨てる国は、アメリカ、そして、日本である。
毎年、莫大な食べ物が、捨てられる。

さて、私の活動と、それらが何の関係があるのか・・・
大いに有り得る。

大切な食べ物を、分け与えるという、行為を、誰にするのかという、問題だ。

それは、いずれ、近い将来、やって来るだろう。
だから、私の活動があるのではない。

ただ、一つの例として、言う。

どうせ、貧しい国・・・
だが、日本も、貧しい国だった。
そして、その貧しさから、這い上がった。
そのために、努力した人たち・・・

民族的な恩讐を超えて・・・
関わる世界なのである。

隣の国は、何処だ・・・
地球の反対側でも、隣の国になる時代である。

慰霊と支援は、国、民族、宗教に関わり無く、ある。

この世に、正義が行なわれるとしたら・・・
それは、有る人が、無い人に、差し上げることである。

それ以外の、正義とは、妄想である。

と、いうことで・・・
これからも、続けてゆく所存である。


posted by 天山 at 06:18| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月08日

沈黙を破る85

私の、唯一の楽しみ・・・と言えば・・・
銭湯である。

だが、週に一度程度。
後は、部屋のシャワーを浴びる。
浴槽にお湯を張ることはない。
銭湯の広さを覚えたからである。

その銭湯で、様々な人と会う。
多くは、老人である。
その老人たちの話を聞く。

名前も知らない人たち・・・

彼らの、昔話は、実に面白い。
特に、戦中戦後を生きた人たち。

空襲に遭ってさ・・・
皆、死んじゃったよ・・・
そんで、死体の処理だよ・・・
もう、滅茶苦茶でさ・・・

何でも食べたよ・・・
ネズミは、旨かった・・・
カラスは、不味いよ・・・

聞くともなしに、聞いていると、とんでもない話が飛び出す。

ヤクザの老人も多い。
ところが・・・
全く、そのヤクザの怖さがない。

そして、我が身の老いを考える。

時に、顔を見せなくなる人もいる。
死んだのだ。
だが、誰も、そのことを口にしない。

当たり前のことだからだ。
逆に、それが、笑いを誘う。

俺がよ・・・ここに来なくなったら・・・死んだと思え・・・である。
そして、本当に、そうなる。

名も知らぬ人たち。
ところが、時々、道で出会うと・・・
あーーー元気かい・・・
はい・・・
この頃、見えないね・・・

海外に行っていることを知る人と、知らぬ人がいる。

今度は、フィリピンです。と、言うと、活動を知らない人は・・・
いいね・・・極楽だね・・・
女は安いしさ・・・麻薬は手に入るし・・・
えっ・・・

俺もさ・・・昔、行ったよ・・・
マニラのケソン市でさ・・・女買って・・・さ・・・
えっ・・・

すると、
この人は、違うって・・・
と、中に入って、話を中断させる人もいる。

チェンマイは、いい女が多いから・・・
えっ・・・
今も、流行ってんだな・・・
えっ・・・

昭和初期に出来た、銭湯である。
建物が、実に古めかしくていい。
浴槽が一つ。
子供の頃の風呂屋と、同じである。

60を過ぎても、現役で働く人がいる。
いつも、その仕事の事を尋ねる。
面白い。
内緒の話を教えてくれる。

若者は、ほとんどいない。
老人の場所である。

我が身の明日を見る。
それが、精神衛生に良い。

いずれ・・・
老いる。
確実に・・・
そして、死ぬ。

お前さん・・・何してるんだい・・・
と、時々、聞かれる。
売れない作家です・・・
へ・・・作家さんかい・・・

と、ウソを言う。

何を言っても、聞き流される場所、銭湯である。


posted by 天山 at 05:46| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月19日

沈黙を破る86

食事は、毎日ほぼ、二食。
すべて、手作り。
外食は、基本的にしない。

何故か。
安上がりであり、安心出来るから。

ここで、外食の危険については、書かないでおく。

つまり、私は、自炊派なのである。
そのために、食材も自分で買う。
その買い物が、また、楽しい。

安い物を買う。
そして、安心なものである。
中国産は、決して、買わない。
韓国産も。以前は、買ったが・・・今は、買わない。
衛生観念が違うと、知ったからである。

毎日、自炊するのは、大変に思われるが・・・
簡単である。
自炊は、とても良い、気分転換になる。

多くは、魚料理である。
焼く、煮る・・・
北海道の実家から送られてくるものである。

時に、近くの市場に行き、刺身になる魚も買う。

そして、野菜は、矢張り、卸売りの野菜屋に行く。

更に、スーパーでは、正規料金のものを買うことは、少ない。
すべて、割引物である。
三割、半額・・・

賞味期限が近いものである。

どこまで大丈夫か、勘でわかる。
東南アジアに出掛けて、屋台で食事をするのであるから、日本の物は、それに比べて、少しばかり、期限が過ぎても平気。

兎に角、そうして、自分で作ることで、毎日の命を作る。

更に、手早い。
さっさと作る。

一番好きなものは、おにぎり、である。
自分の作る、おにぎり、が一番好きだ。

複雑な料理も作るが、すべて簡略化する。
そして、おおよそ、三人分を作る。
何故か・・・
多く作ると、美味しい。

私は、作り立てより、翌日に食べたりするのが好きなので、丁度良い。
コーヒーなども、酸化し始めたものが、好きだ。

腐る直前が、また、好きである。
ただし、人には、勧めない。
その直前を見極めるのが、大変であるから・・・

そうして、命を繋いでいる。

食べ物は、命と直結している。
食べ物は、命、そのものでもある。

食べなければ死ぬからだ。
自然死は、食べられなくなるから、自然死である。

それを意識的にすると、断食になるが・・・
断食も、少しずつすると、いい。

断食により、効果を狙ってするのは、邪道である。
死ぬために、断食をするのである。

体から、悪い物を取り除くため、精神のため・・・
そんなことで、断食する必要は無い。

また、病気を治すため・・・

信じられない。

食べられるうちが、花である。
人生は・・・

posted by 天山 at 20:49| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月02日

沈黙を破る87

戦没者の慰霊と、支援活動をしているが・・・

慰霊は、あらかじめ、調べて解っている。
しかし、支援は、何を持参するのかは、勘が頼り。

子ども物、大人物、女、男・・・
その持参する、分量が勘なのである。

いつも現地で、日本には、あれほどあるのに・・・と、思う。
足りないのである。

衣類は、長く使えるもの。
だから、その衣類を買う分で、生活出来るのである。
お金を上げるという、考え方は、邪道である。

災害支援の、支援金なども、単に差し上げても、その使い道が解らない。
誰の、ポケットに入るのか・・・

日本でさえ、義援金に対しては、不信である。
募金箱のお金が、本当に、相手に届くのか・・・
不確かである。

だから、いつも、私は警告している。

その募金箱の管理は、誰がするのかと・・・

大震災の際には、至る所に、募金箱が置かれた。
だが・・・
その募金箱は、日本人は、善人であるから、誰も、我が物にしないという、前提がある。だが、どうだろうか・・・

多くの、不明が残った。

また、更に、寄付を受け付ける団体・・・
その団体は、経費を使う。
人件費などなど・・・
それも、寄付金から、出るのである。

特定の団体名を挙げる訳にはいかないが・・・

さて、衣類支援であるが、現地に行き、失敗することもある。
乳幼児物が、もっと、必要だった・・・
子ども物が、必要だった。

更に、高齢者のための、衣類が必要だった。

そうして、次の機会を考える。

また、孤児施設などでも、男の子物は、多いが、女の子物が、少ないとか・・・

孤児施設も、流動的なのである。
昨年いたはずの児が、今年は、いない。
別の施設に移った。

また、新しい子どもが、来ている。
勿論、顔馴染みになる子もいる。

嬉しいのは、私が持参した衣類を着ている児がいる時である。
あるいは、母親が、これは、昨年に頂いたものと、教えてくれる時。

そして、子どもは成長する。
昨年のものが、小さくなっている。

施設では、順繰りに着せていることだろうと、思うが・・・

その他は、文具、食糧、小物類である。
何も自分の物を、持たない子たち・・・

それでも、生きられるのだと、教えられる。
着の身着のままでも、生きられる。

だが、もう一枚あれば・・・
洗濯の時、裸でいることがない。

この話は、バリ島でも盛り上がった。
バリ島・・・
未だに、カースト制が残る島。
だが、皆々、気付かない。

出会うバリ島の人たちは、カーストの低い人たちなのである。
高い身分の人たちとは、逢えない。
旅人が逢えるような、人たちではない。

低いカーストの人たちは、いつまでも、貧しい。
だから、その貧しさの中で、哲学する。

一枚のシャツがあれば、幸せだ・・・
その通り・・・
だが、もう一枚あれば・・・
もっと、幸せだ。

物が、単なる物ではなくなる、考え方をする。

だから、バリ島の人たちは、貧しくても、ゴミになるであろう、ヒンドゥーの御祭りのために、毎朝、沢山の供物を作る。

バリ島から、出なければ、彼らは、いつも、幸せでいられる。
しかし・・・
広い世界を見たら・・・
狂う。

日本に来て、お金で狂ったバリ島のカーストの低い人たちを、多く見た。

さて、勘の問題である。
これからも、勘を頼りに、支援活動を続ける。

posted by 天山 at 06:10| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月21日

沈黙を破る88

子どもを犠牲にする。
児童を食い物にする。

シリアの内戦では、子どもの一万人以上が、拷問、暴力、虐待を受けた。
それが、政府軍、反政府軍共に、である。

呆れる。
そこで、亡くなった、三歳の男の子の遺言・・・

みんな、かみさまに、いいつけてやるから・・・

世界の紛争を、批判し、非難し、大人の勝手な権力闘争に、警告を発する。

さて、バチカンの、児童性的虐待。
国連の、子どもの人権委員会が、初めて、警告した。

一万人以上の子供が、犠牲になっているとのこと。

その、犯人は、聖職者と呼ばれる人たちである。
信じられないのである。

教会は、安全であり、私は、キリスト教国に出掛けて、いつも、子どもたちに、言う。
危険なことがあれば、教会に逃げなさい・・・
ところが、その教会が一番、危険だったとは・・・

そして、貧しい国の、児童買春である。
買う大人がいる。
勿論、日本人もいる。

カンボジア、プノンペンにて、バイクタクシーの運転手に尋ねた。
何処に、児童買春の場所があるのか・・・
運転手が、細かく、教えてくれた。

そして、誰が買いに行くのか・・・
日本人が多い・・・
愕然とした。

私は、多くの情報を知るが、場所などについては、決して、書かない。
情報になるからである。

更に、フィリピンのセブ島、セブシティ・・・
児童ポルノの世界的集団が、摘発された。

実は、それらは、児童売春にも、係わっている。

セブシティを見れば、それは、一目瞭然である。
何せ、ストリートチルドレンの数が多い。
男の子も、女の子も・・・

そして、親の貧しい子供たちも、それに続く。
どんな手段でも、子供が手に入るのである。

国連の、子供の人権委員会が、如何に、警告しても、良くならない。
それは、それぞれの地域の人たちの、意識にもよるものだと、思う。

子供たちを守るという、それぞれの地域の問題。
それは、日本でも、言えることだ。

さて、子供たちを犠牲にするのは、まだある。
兵士にするというものである。

子供兵士・・・
どうして、そんなことが、考えられるのか。
だが、ミャンマー国軍では、子供兵士をすべて解放したというから、矢張り、ミャンマーもと思った。

独裁政権、あるいは、テロ組織などなど・・・

アフリカでも、多い。
人類の無明も、ここまでに至るのである。

子供は、未来だ。
その子供を弄ぶことは、未来を、弄ぶことだ。
と、私は、考える。
そして、私なりに、戦う。

世界中、未成年者は、保護され、教育されなければならない。
それが、正義である。

普遍的な正義と言う。

様々な現場で、事件は起きている。
その現場にて、出来ることをする。

昔、タイのパタヤビーチでは、堂々と、児童ポルノが売られていた。
今は、裏側で売られる。
だが、見つかれば、捕まる。

更に、児童買春を求めると、そのまま、警察に連行されるようになった。
法律が出来たのだ。

まず、法律により、そして、その実行により・・・
法律が出来ても、取締りの無い国もある。
何処とは、書かないが・・・

そして、そういう場所は、実に危険地帯でもある。
そこに、出掛けて行くと言うと、必ず、止められる。
買春するならいいが・・・
偵察するのは、危険だと、現地の人が言う。

出掛けて行って、証拠写真を撮り、政府に告発すると言うが、絶対に、無理だといわれる。

だから、いずれ、いずれ・・・
と、考えている。
が、やらなければ、駄目。

最悪、殺されるだけであるし・・・

posted by 天山 at 05:41| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月04日

沈黙を破る89

もののあわれについて、というエッセイを書き始めて、700回ほどになる。

今は、源氏物語を書いている。
その前は、本居宣長の、もののあはれ論から、万葉集、和泉式部日記、紫式部日記、そして、源氏物語である。

物語は、おおよそ、半分が終わる。
だが、このエッセイとしては、まだ、序の口なのである。

この倍以上を書いて、ようやく、何かが見えてくる。
それほど、長いエッセイになる。

きっと、未完になることだろう。
そんなことは、どうでもいい。
書き付けることが、問題なのだ。

そして、驚くべきは、それが、読まれているのである。
誰が・・・
いつも、そのアクセス数を見て、驚くのである。

書いた本人でさえ、読むのは、大変である。

最初から、読んでいる人がいれば、是非、批判をして欲しいと思うが・・・
勿論、最初の頃は、批判があった。
要するに、論文形式ではないからだろう。

論文の書き方は、していないから、無用の批判だった。
これは、エッセイである。
随筆なのだ。

私は、論文は、書けない。
それほど、論理が立てられないからだ。
心の思うがままに、書き付けるのである。

それで、何も悪いことは、無い。
人それぞれ、その筆に合った、書き方でいい。

古典であり、古文であり、とても、取っ付きが悪い。
また、難しいと、投げてしまう人もいる。
それは、学校教育で、古文を真面目に、取り組んだ人に多い。

読み物は、面白いか、面白くないかが、問題だ。

論文を読むのは、お勉強のためである。
だが、文芸作品を読むのに、お勉強は、ない。
好きだから、面白いから、読むのである。

源氏物語などは、主語がなく、ある意味では、滅茶苦茶な文である。
だから、更に、面白いと感じた。
先に進むごとに、面白い。

一体、誰の心境なのか・・・
解らない。
精々、解説を見て理解する。
しかし、私の勝手な解釈も入る。

その、勝手な解釈が、また、面白いのである。

全文、敬語であるのが、また、面白い。
敬語に、更に、敬語がついたりする。

お持ちあそばして、お受け取りあそばし、それを奉りて・・・
皆々、敬語なのでる。
そんな、散文は、他に無い。

大和言葉の、美しさ・・・
敬語の原型・・・

更に、女の感覚である。
紫式部以外の人の手もあるが・・・
複数で、書き継いでいったことは、確実である。

それが、書写していると、解る。
随分と、面倒なことをしているが、それも、面白い。

また、現代語訳にしているつもりもない。
ただ、解り易くしているだけである。

情報過多といわれる時代に、そんな、暢気な物語を読むということは、実に、贅沢なことであると、思う。

この後も、あはれ、という心象風景を尋ねて、書き続けるつもりだ。

別に、大義は、無い。
面白いから、書いているだけである。

それ以上の、詮索は無用である。

posted by 天山 at 06:18| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月19日

沈黙を破る90

このブログに、神仏は妄想である、というエッセイを書いているが、宗教を否定するものではない。
それは、お勉強である。

だが、宗教団体となると、また、違ってくる。

宗教団体とは、その指導者と、信徒、会員である。

慈悲行を教える、仏教系団体が、真っ当に、それを行なうかといえば、違う。
それを行なうのは、多分に、その宗派の宣伝、喧伝行為である。

個人的に、慈悲の行為を行なう、信徒や会員は、いるであろうが・・・

さて、キリスト教である。
福音書の中で、イエスが、善いことをする時は、人に知られず、右手が行なうことを、左手が知らぬように、云々とある。

つまり、善行は、宣伝するなということだろう。
それは、偽善者がやることだと、言うのである。

だが、プロテスタント系は、善行は、全く、布教のためである。
助けて、その信仰を受け入れよと、言うのである。

そして、カトリックは、また、同じように、そのようである。
更に、善行は、知られないようにと、人には、言うが・・・

マザーテレサに関しては、別なのである。
世界的に知られた、マザーテレサの行為である。

それそこ、偽善者と呼ばれるような行為である。
ところが、人には、それを言うが、我がマザーテレサの場合は、違うのである。

大きな矛盾であるが・・・

そして、マザーテレサは、云々・・・
このような言葉を言ったと、いけしゃーしゃーと、口にする。

宗教団体とは、何ともでも、言える。
その常識は、世の中の常識を超えている。

それでも、平気のへいさである。

宗教団体とは、よく出来たもので、自分たちの世界で、通用することが、何よりなのである。

私のように、個人的に、ボランティア活動をしている者に、平然と、善行は、人に知られぬように・・・などど、言う。

呆れる。

更に、呆れるのは、カトリックの信徒は、自分も、マザーテレサの側にいると、思い込んでいることである。
何も、しなくても、そのようである。

少しばかりの、寄付をして、マザーテレサと共にと、思い込む様は、さまに、信仰の様に似る。

信仰は、迷いと、思い込みの世界であるから・・・
当たり前だが。

個人的に、何を信じようと、全く、それは自由である。
だが、世の常識を破り、言葉を発するのは、その団体の中だけにして欲しいと思うが。

正しい信仰を持つという、確信と、うぬぼれには、本当に、適わないのである。

ちなみに、宗教団体の善行は、すべて、その宗教の宣伝行為である。
それ以外の、何ものでもない。

その証拠に、立派なパンフレットを作り、これこれ、このような善行をしていますと、喧伝している。

それも、また、呆れるが・・・
posted by 天山 at 06:03| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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