2014年02月09日

フィリピン・ボホール島へ

真冬の日本から、フィリピンである。
フィリピンは、多くの島による国である。
その地域によっても、天候が様々に、異なる。
だが、暑い国である。

夏の絽の襦袢、単の着物、そして、羽織は、袷という、へんてこな、井出立ちで、出発した。
マニラに到着したら、羽織を脱ぎ、更に、ホテルに着いたら、着物を脱ぐ。
そして、夏の恰好をする。

そんな旅を続けて、八年目に入る。
その間、15カ国を廻った。
東南アジア、南太平洋の国々である。

追悼慰霊と、衣服支援の旅・・・

戦没者の追悼慰霊をするというのは、長年の希望だった。
そして、出掛けてみて、折角だからと、衣服支援をはじめた。

大東亜戦争の日本兵の遺骨は、まだ、113万人ほど、異国の地にある。
今年、平成26年、2014年は、敗戦から、69年目である。

そんなことを、知る人は、少ない時代・・・

だが、日本が戦争をしない国であることを、これからも願うとするならば、慰霊は、必要である。そして、追悼である。
追悼とは、追って、悼むこと。つまり、戦争を知るということである。

日本は、フィリピン全土を戦場とした。

今回の目的は、ビサヤ諸島という、ルソン島とミンダナオ島の間にある、島々の一つボホール島である。

ボホール島は、レイテ島とセブ島の間にある島。
フィリピンは、国内線の飛行機も多いが、フェリーの行き来も多い。

私は、セブ島から、フェリーで、ボホール島に渡る計画を立てた。

ボホール島は、昨年の地震で、185名以上の死者を出し、更に、あのレイテ島、サマール島に甚大な被害を出した、台風の被害も受けた島である。
報道されない故に、多くの人は知らない。

そして、戦争時代、敗戦まじかな時期、日本軍はボホール島に上陸し、レイテ島を奪還した、アメリカ軍と戦うことになった。
だが、それも、情報が少なく、知る人は少ない。

幾人の兵士が亡くなったのか・・・
よく解らないのである。

更に、ボホール島に、慰霊に行くという、話も聞いたことがない。

それでは、慰霊と支援をと、私は即座に、ボホール島に行くことを考えた。

今では、親日感情を持つ人が、フィリピンでは、八割ほどになっている。
日本人としては、嬉しいことだ。

敗戦後の、日本の戦後賠償支援がフィリピンを、大いに助けたということもある。

一時期、日本人男性が、フィリピンに遊びに行くとは、性処理の遊びが多かった。勿論、今も、それは、ある。だが、日本人は、行儀が良いことでも知られる。

白人特有の、傲慢不遜は、ない。

ただ、悲しいことは、日本人の血を引いた、孤児が多く存在するということだ。
日系人であれば、保護も受けられるが・・・
孤児であると、国籍もない状態である。

更に、貧しい国特有の、児童買春問題。
今回、国際的児童ポルノの集団が、摘発されたことは、実に良いことである。

私は、報道されたことを、現地に行って、確認できるから、第一次情報である。
単なる、物知りの情報家と違う。

ただし、書けないことと、書かないことも、多い。
その国を悪くする情報は、書かない。
更に、情報を与えることによって、馬鹿な者が、行動しないことを願って、書かない。

兎に角、私は、拙い、ブロークン英語、和製英語で、誰彼に、話し掛ける。
そこから、色々な情報を得る。

そこが、恥知らずの私の良いところである。

ただ、今回は、不思議なほど、幸運に恵まれなかった。
それは、ボホール島に関しての、協力者が現れなかったことである。
全く初めての場所・・・

さて、今回は、最初にマニラに、二泊した。
暑さに慣れるためである。
それで、日本で、メトロ・マニラのパサイ市のホテルの予約をしてみた。

安いホテル・・・
丁度良いホテルが、見つかった。
シングルベッド・・・つまり、シングルルームだと、思ったが・・・

そのホテルは、その付近では、結構有名なホテルである。
ところが、チェックインをして、部屋に入ると、何と、四人部屋の、カプセルホテル仕様だった。
驚いた。

すぐに、フロントに行き、確認する。
そして、シングルルームだと、二泊で割り増し、3000ペソ必要と言われた。
今は、円安により、1ペソ、2,5円である。
以前は、1ペソ、2円だった。

100ペソが、以前は、200円、今は、250円ということである。
物価高のイメージ。

3000ペソと聞いて、諦めた。
私も、確認しなかったのが、悪い。

ただ、救いは、朝食が付いていたことである。

日本で、予約する際は、よくよく、内容を確認せよということだと、勉強した。
ちなみに、日本円で、二泊で、4800円程であった。
ペソにすると、2000ペソと少しである。

私は、いつも、現地の金銭感覚で、考えるようにしている。
日本円の感覚では、現地の感覚が、理解出来なくなるからだ。

兎も角、諦めて、二泊することにした。



posted by 天山 at 04:57| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月10日

フィリピン・ボホール島へ2

メトロ・マニラのパサイ市は、空港に近く、その点ではいいが・・・
一番、危ない街といわれる。

スリ、かっぱらい、などは、当たり前にある。
それが、皆、ストリートチルドレンが、大きくなった青年たちが、多い。

兎に角、一瞬の隙を突いてくる。

更に、人人人の波である。
朝から夜まで・・・

道端に出る、屋台の物売りも多い。
お祭りのような気分になる。

用だけを済ませて、ホテルにいるのが、一番だが・・・
それでも、私は、ホテル近くの路地を歩いてみた。

迷路のような、細い道である。
入り組んで、どちらに向っているのか、解らなくなる。

家々が、つながっていて、長屋式なのだが・・・
それが、歪なのだ。

決して、豊かとは言えない、暮らしぶりである。
ここでも、衣類を持って来ると、喜ばれそうだ。

学校前の子どもたちは、半身裸の子が多い。
道端のストリートチルドレンも、幼い子は、裸だが・・・

さて、海外で使う、携帯電話であるが、なかなか、日本に通じない。
日本からも、通じないということで、新しい携帯電話を買うことにした。

一番安い物。
1000ペソ、2500円ほどである。
簡単な操作だけを教えて貰い、早速、日本に電話してみる。

ようやく、繋がる。
八年も使うと、古い物になる時代。

コンビニに行き、料金を入れる。
最初に古い電話に入れた、200ペソがパーになったので、今度は、新しいものに、100ペソ入れる。

フィリピンでは、どこでも、一度出したお金は、戻らないと、知っている。
ホテル料金も、毎朝、本日の分として、支払うことにしている。
もし、ホテルが嫌になり、別のホテルに変更するとしても、支払ってしまったものは、決して、戻らない。

それは、フィリピン全土に、言える。

どうしても、返金を求めるなら、ピストルでも、持参していないと、駄目。
そういう意味で、日本人は、多くフィリピン人に、お金を取られているだろう。
一度や二度の観光ならいいが・・・

フィリピンに憑かれて、日本から男たちが、遊びに来て、そのまま、フィリピンに居つき、貧しくなって行く過程を取材した本が、出た。

一人の女と恋愛をする。
すると、その女の家族から、親戚、友人知人も、金を取りに来る。
お金を貸すことは、上げることと、同じである。
勿論、日本でも、そのようであるが。

さて、迷路に入った私は、人に聞いて、ホテルに戻った。

明日は、セブ島に向う前日である。
暑さに慣れるため、マニラで、一日過ごすという、それだけのこと。

ところが、朝夕が涼しいのである。
昼間も、それほど、強い暑さはなかった。

今時期は、乾季であり、二月頃から、気温がぐんぐんと上がる。
帰国する日に向けて、次第に、気温が上がって来た。

フィリピンは、乾季、暑気、雨季があるが・・・
それぞれの、島でも、天候は違う。

だが、フィリピンでも、天候の変化が多くなったという。
今までは、台風など通過しなかった、ミンダナオ島も、台風被害が酷い。

世界的規模で、天候が不順なのである。

カプセルの部屋は、一人のマレーシア人が出て行き、三名が入って来た。
つまり、満室である。

その、帰国する、マレーシア人と、色々と話をする事が出来た。
とても、流暢な英語で、半分ほど理解出来なかったが・・・

今回は、出来るだけ、相手にスローリーに話してもらうように、頼んだ。
ゆっくり話してくれれば、少しは、理解が増した。

ただ、フィリピンのおじさんたちの英語は、訛りが酷くて・・・
解らない時は、笑って誤魔化す。

昼12時前にチェックアウトし、タクシーに乗り、空港に向う。
100ペソ程度である。

空港のメータータクシーでは、ホテルまで、300ペソもかかった。
それらは、黄色のタクシーである。
以前は、普通のメータータクシーに乗ることが出来たが・・・

客を乗せて来たタクシーに乗ると、通常料金だが・・・
空港側も、考えたものだ。手数料を取るのだろう。

大量の支援物資を持つ私は、とても辛いものがある。
絶対にカートが必要だ。
カートに乗せて、搭乗手続きに行く。

この支援物資が、今回は、最後の最後まで、重荷になった。

posted by 天山 at 06:22| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月11日

フィリピン・ボホール島へ3

セブ島、セブシティには、何度来たことだろう。
そして、多くのストリートチルドレンと出会った。

今回は、セブからフェリーに乗り、ボホール島の州都である、タクビラランに渡るための、計画であるから、セブシティでの活動は、二の次だった。

ダウンタウンのホテル・・・
前回見つけた、安めのホテルである。

着物姿でホテルに着くと、私のことをガードマンや、フロントのお姉さんたちが、覚えていた。

サイレントルーム・・・
通りに面した部屋は、煩くて、どうしようもないから。

その付近は、ストリートチルドレンの一つの、島である。
島とは、縄張りのような場所。
ホテル前の、コンビニの前で、多くの子どもたちが、寝ていた。

ところが・・・
今回は、その辺りに、子どもたちの姿が見当たらない。
コンビニのガードマンも、私を覚えていた。
私は、彼に尋ねた・・・
チルドレンは、何処に行ったの・・・
解らない・・・

神出鬼没のチルドレンであるから・・・

さて、ボホール行きのフェリーチケットである。
オーシャン・ジェットという会社のフェリーなのだが・・・
電話が通じない。

そこで、フロントに尋ねに行くと、何と、その受付が、フロントの向かい側にあるではないか。
そこで、往復のチケットを買う。

三泊四日の予定なので・・・
行く日、帰る日を言う。
すると、担当のお姉さんが、早口の英語で、説明する。
全く、解らない。

すると、お姉さんが、アンダスタンド・・・
解らないと、日本語で・・・
それでも、オッケーと言った。

後で、部屋にチケットを持って行くわ・・・
オッケー・オッケー
要するに、乗船出来れば、いいのである。

シングルルームの部屋は、小さく、窓がない。
それで、いつも、ドアを開けていた。
禁煙ではないのだが・・・灰皿が無い。

フィリピンも、禁煙推進をしていて、ホテルの多くは、部屋でも、禁煙が多くなった。
タバコを吸うせいもあり、ドアを開ける。
何度か、ベッドメークのおじさんに、大丈夫かと、言われたが・・・
オッケー・・・

下手に開けるより、部屋の中が見えるほど、開ける。
それは、掃除をしているような状態に見えるのだ。

そんな怖ろしいことは、誰もしないが・・・
海外では、絶対、してはいけないことである。

私は、最悪、殺されるだけだと、思うので・・・平気だ。

昨年は、五月に、ミンダナオ島のカガヤン・デ・オロに出掛けて、その帰りに、セブシティに立ち寄った。
その時は、チルドレンに食べ物を配って歩いた。

今回は・・・
見ないようにしていたが・・・それより、見えないのである。
何処に行ったのか・・・

だが、矢張り彼らは、神出鬼没である。
ボホール島から戻ると、出て来た、出て来た。

翌日、ボホールへ行く夕方、花売りの男の子にばったりと、出会った。
私は、思わず、彼の背の高さにしゃがみ、頬を両手で、包んだ。
彼は、英語が出来ない。
だから、ジェスチャーである。

チキンの店に連れて行き、笹のご飯を二つ、そして、から揚げのチキンを買った。
その時、一人の男の人、少し女の恰好をしていたから、レディーボーイか・・・日本語で、話しかけて来たので、男の子と話して貰った。

両親は、いるの・・・
山にいると、言っている。
どうして、花売りをしているの・・・
そのーー、何とかのために、らしい。

ああ、その子は、親と離れて、花売りをして、家族のために、働いているのだと、理解した。

英語がわからないと、思ったが、私は、明日、ボホール島に行き、また、セブに戻るから、また、この道を歩いてね、と言った。
もう一度、会いたいと思った。
そして、最後に、頬を両手で包んだ。

彼は、少し大きくなっていた。
だからか、以前より、大きな花篭を頭に乗せていた。

その子に出会い、何とも私は、嬉しい気持ちに浸った。

セブ島では、観光地のマクタン島の子どもたちとの出会いも多い。
そして、ダウンタウンの子どもたち・・・

ストリートチルドレンの島は、いつも移動しているようだった。

posted by 天山 at 06:41| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月12日

フィリピン・ボホール島へ4

ボホール島へ行く朝・・・
30キロほどの荷物である。

セブ島の埠頭は、数多くある。
フィリピンは、海の国。だから、フェリーも多数。

私の乗るフェリーは、オーシャン・ジェットという会社で、第一埠頭である。
埠頭を英語で何と言うか、解らない。

それで、ホテルのガードマンに、タクシーを頼み、オーシャン・ジェット、フェリーターミナルと言って見た。
すると、オッケーと言い、タクシーを捉まえてくれた。

運転手に、現地語で言っている。
乗り込むと、運転手が私に、オーシャン・ジェット、云々と言ったので、イエスと答えた。

ダウンタウンを海に向う。
ホテルからは、近い場所である。

以前、ネグロス島のトマゲッテイから、セブへ、一夜のフェリーに乗ったことがある。その時は、ホテルのフロントのお姉さんが、私達を案内し、更に船に乗るまで、助けてくれたが、今回は、私一人である。

タクシーが、フェリー乗り場の前に入るのに、20ペソかかった。
そして、待合室に入るのに、また、20ペソ。

搭乗券を見せて、立っているガードマンに見せて、次の行動を決める。
チェックインは、30分前だと言い、待合室の中に入ることを言われる。

まだ十分の時間があるので、二階に上がり、昼の食事のために買った、パンを食べる。
空港でもそうだが、待合室には、特別な場所があり、そこでは、食べ物、飲み物を売る。しかし、通常の金額より、三倍以上はする。

そこで、私はいつも、街で買って持参する。

トイレに行く。
そこで、日本語で、こんにちは、と言われた。
フィリピン人の男である。

次の言葉・・・
どこ、来る・・・
えっ
日本から来たことは、知っているから・・・
ボホールと言ってみた。
オッケー・・・何とかこんとか・・・

そこで、私の英語も、このような感じなのかと、不安になった。

それでも、話は続くから、不思議だ。
例えば、若い子に、あんた、未来と聞いているのだ。
語尾を上げるから、疑問だと感じてくれる。

つまり、将来、何をしたいの・・・である。

時間になったので、下に降りて行くと、荷物を見て、ガードマンが、あちらに行けと教えてくれた。
荷物を預けるのである。
二つバッグで、100ペソ。250円。

その番号を書いた紙を、ホチキスで搭乗予約書につける。
次に、手続きである。
そこでも、席の番号をホチキスで止める。
その紙さえ持っていれば、すべてオッケーなのだ。

驚いたのは、船に乗る時である。
降りる人と、乗る人が混ざり合う。

つまり、到着した船にすぐに乗り込むのである。
その繰り返しをしているのである。

フェリーは高速船である。
全員が乗り込むと、すぐに出発。

そこでまた、私の癖・・・
自分の座席に座らず、人のいない場所に移る。

そして、二時間を過ごした。
海の風景は、実に美しいが、見ていると、酔うので、大半は、寝ていた。

時々、お菓子を出して、食べる程度。
私の後ろの席に、乗員たちが座った。
それから、彼らの話を聞く。勿論、ビサヤ語だから、解らないが・・・

船舶の専門学校を卒業して、乗組員になる。若者たちである。

タクビラランでも、水兵の制服を着た、学生たちを多く見た。

セブから、ボホールへの路線は、三つある。
だから、乗る前に、乗員に、タクビラランと尋ねる。
乗り間違えると大変なことになる。

海は凪ぎて、とても快適な乗り心地だった。
だが、体が、その振動を覚えていて、ホテルのベッドに、しばし横になった。

タクビラランに着くと、また同じ繰り返しで、降りる人、乗る人と、混雑する。
私は、重い荷物を持って、ターミナルから出る。
すると、タクシーの勧誘である。

これが、ストレスだ。
メータータクシーと怒鳴る。
観光客からは、ふんだくれるだけ、ふんだくるのである。
だから、メータータクシーを掴む。

だが・・・
一人の男が、メータータクシーと言って、確かにメータータクシー乗り場に連れてくれたが・・・
何と、ホテルの名を言うのである。
ホテルの勧誘をする人だ。

私は、ノー、ノー、と、行くべきホテルの名を言う。
すると、タクシー運転手が、そこは、一キロもないから、トライシクルだと言う。
そして、トライシクルを呼んだ。

トライシクルとは、バイクタクシーである。
二つの大きなバッグを持って、乗り込む。
料金を聞くと、100ペソと言う。
ああ、吹っかけていると思うが・・・

市内では、8ペソ、少し遠くなると、10ペソである。
ただし、重い荷物を積む場合は、30ペソが普通の料金であることを、後で知る。

更に、運転手は、私に観光の勧誘をする。
そして、何と、リーズナブルで・・・云々・・・
信じられるかと、私は返事をしなかった。

そのホテルは、前日予約していた。
だが、新装していて、思ったより、高いのである。
そこで、三泊するからと、一泊、900ペソを、800ペソに値切ってみた。
フロントの男は、すぐにオッケーである。

言った者、勝ち。


posted by 天山 at 06:18| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月13日

フィリピン・ボホール島へ5

ホテルの部屋は、古いが広く、新装してあるので、綺麗だ。
こういう、古くて安いホテルが、私は好きだ。

天井も高く、タバコを吸う私には、ぴったり。
それでも、ドアを開ける。
空気の入れ替えが好きなのだ。

さて、三泊四日の予定で、どのように行動するか。
今回は、いつものように、協力者はいない。また、そういう人も、現れなかった。

すべて、自分で決めて、自分で交渉しなければならない。
慰霊と、支援・・・

慰霊は、海沿いで行ないたい。
そして、支援は、地震の被害のあった場所。

そうしているうちに、時間が過ぎる。
夜の食事を考えなければならない。

何処に食べに行くか・・・
勿論、現地の人たちが食べる、食堂であるが・・・
一応、街の中を見る必要がある。
そして、水を用意しなければならない。

ホテルから出て、大きな通りを右に曲がってみた。
少し歩くと、大きなスーパーがある。
水が売っていた。

だが、後で、その先に、もっと大きなスーパー、デパートと、屋台村が付いている建物を見つけた。

そこに、毎日通うことになる。
セブシティのように、中々、庶民の食堂が見つからない。

大体、おかずが並べられていて、それを指差して、注文する。

矢張り、アメリカン式の、餌を売る店が目に付く。
そんなところには、入りたくない。

最初の夜だから・・・
折角なので、と、少し探す。
パン屋が多いが・・・

一度ホテルに戻り、休憩する。
そして、思い切って、水を買ったスーパーの先を歩いてみようと、思った。

見つけたのが、何でもありの、大型ショッピングセンターだ。
そこで、ガードマンに、レストランと聞いてみた。
ガードマンは、四階と教えてくれた。

中に入ると、イベントが行なわれていて、騒がしい。
そこが、一階になり、その下にスーパーがある。

四階なので、エスカレーターに乗り、上がる。
屋台村のような場所には、テーブルと、椅子があり、人たちが食事をしていたので、すぐに解った。

それでは、どのようにするのか・・・
それぞれの店を見て廻る。

おかずが並べられていて、それを選び、自分でテーブルまで運んで食べるという、スタイルだ。

一つの店で、魚と野菜の炒め物、ライスを注文する。
それが、また、安いのである。

100ペソ以下である。
日本円にして、250円以下。

私は、60ペソ分を注文したことになる。
つまり、150円である。

こうして、現地の人たちの食べる食堂で、毎日、食べる。
観光ではないから、それで十分。
勿論、外国人は、私一人。

更に、着物を着ないので、日本人と、解らない。
逆に、現地の人たちより、とても貧しい恰好である。
支援物資の、支援出来ないものを、着ているのである。

お金のかからない旅をし続けて、八年目である。
だが、単なる貧乏旅行ではない。
使うべきお金は、使う。

それは、現地で調達する、食べ物などである。
支援物資である。

主に買うのは、栄養価の高い、ビスケット、パン類である。
また、飲み物。
ストリートチルドレンには、ヤクルトなども買う。

フィリピンでは、ヤクルトがよく売れているようで、山積みして売っている。
五本で、40ペソ。100円。

さて、食べ終わると、そのままにして、出ていい。
後片付けは、専門の係りの人がやる。

そのまま、地下のスーパーに向った。
何があるのか、見るため・・・これが、楽しみである。

色々な物の値段が解る。
フィリピンでは、水の値段から、タバコの値段まで、それぞれ違う。
定価が統一されていないのだ。

だから、安いスーパーを探すのである。
節約旅行の楽しみでもある。


posted by 天山 at 07:00| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月14日

フィリピン・ボホール島へ6

翌日の朝、五時頃に目覚めた。
日本時間では、六時である。

旅に出ると、大体、夜10時頃には、ベッドに就く。
日本にいるときより、よく寝ている。

街は、まだ静かである。
部屋の中で、ぼんやりと、タバコをふかし、計画実行を今日にするか、明日にするかと、考える。

地震の被害を受けたのは、タクビラランの隣町、バクラヨンという町である。
そこには、バクラヨン教会という、フィリピン最古の教会がある。
フィリピン最古の教会は、マニラに一つと、セブシティの、セントニーナョ教会の三つだ。

バクラヨン教会は、崩れたと聞いている。

この地震の震源地は、島の中部の、サグバヤン町付近で、マグニチュード7,1の直下型である。フィリピン国内の死者は、198人で、その大半の、185人がボホールの人たちである。

もし、サグバヤンの町に行くとしたら、タクビラランではなく、別の町にフェリーで渡る必要がある。
陸路より、早いが・・・そこからも、バスに乗らなければならない。

私の優先は、慰霊なので、タクビラランにした。

七時になったので、食堂を探すため、歩いた。
今度は、大通りの向こう側に出てみた。

至る所に食堂があると、考えていたが・・・
中々見つからない。
そして、少し奥まった場所に見つけた。

目に入ったのは、小さな商店である。その前に、食堂があった。
だが、その商店も、食堂だと、後で気付く。

一人のお爺さんが迎えてくれた。
すぐに、日本人だねと、声を掛けてくれた。
私の肩掛けバッグに、日の丸をつけている。それを見たのだろう。

ただ、おかずが、まだ二つばかり。
そして、今、ご飯を炊いているという。
お爺さんの娘さんになのるか・・・

生まれたばかりの、赤ちゃんが籠に入っていた。

私は、自動販売機のコーヒーを飲んで待つことにする。
5ペソのコーヒーは、甘く、ミルクも入っている。

フィリピンのご飯は、パサパサしているが、炊き立てのご飯が食べられると、楽しみになった。

ご飯が炊き上がり、私は、煮物の魚を選んだ。
塩味で煮るのが主流だが、魚醤のものもある。
刻みショウガが入る。

目玉焼きがあったが、私は、卵のオムレツを頼んでみた。
すると、オッケーと言うが、何と、お爺さんが、卵を買いに出た。

私は、食べ始めていた。
お爺さんが、二つの卵を買って来た。

ビサヤ諸島は、それぞれの島の味付けがあるが・・・
ボホールは、塩味が強い。つまり、しょっぱいのである。

その卵のオムライスが、また、しょっぱい。
炊き立てご飯は、さすがに、パサパサしていない。
日本のご飯に似る。

60ペソを払い、店を出て、目の前の商店を見ると、人々が食事をしている。
明日は、ここだと、目をつけた。

その周辺は、市場もあり、パン屋が多いことも解った。
更に、ジャンクフードの店も多い。

ホテルに戻ると、二人の女の子がフロントにいたので、話し掛ける。
私は、地震の被害のあった場所に行き、支援をしたいと言うが・・・

アースクエイク・・・日本語英語の地震であるが・・・
通じない。
アイドント・ノー・・・
私は、ジェスチャーをしてみた。
すると、一人の女の子が、理解した。
そして、ウァーッ・クェーのような発音である。

子音が聞こえないのである。
だが、何度それで、笑いあったか・・・

バクラヨンチャーチにも行きたい・・・
すると、そこが一番酷かったと言う。

それから、トライシクルの運転手に交渉してもらうことになった。
荷物を積んで、おおよそ、二時間で、幾らになるのか。

普通なら、朝10時頃に出発して、昼間に慰霊をするが、今回は、夕方にした。昼になると、気温が上昇するからだ。

3時出発にした。

その女の子には、帰りのトライシクルの交渉もして貰うことになる。
何せ、外国人だと、吹っかけられる。

ちなみに、タクビラランの女の子たちは、皆、美しい、セクシーなのだが・・・
フロントの女の子は、不細工だった。不思議だ。

その大通りは、学校が多く、制服姿の女の子を見たが、皆々、美人である。驚いた。
ボホール島は、穴場である。
美人の島なのだ。そして、親切。
道を尋ねると、実に親切に教えてくれる。
更に、トライシクルを止めて、これに乗って行ってください、8ペソですと、教えてくれるのだ。


posted by 天山 at 05:55| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月15日

フィリピン・ボホール島へ7

さて、今日、活動をするか・・・明日か・・・
と、ベッドに横になって、考えていた。

明日までしか、時間がない。
そして、うとうとするが、意識は明確である。
その時、私の上、上空に、気配がする。

幾人かの、兵士が来ている・・・
妄想か・・・
それで、決心がついた。
今日のうちに、やるべきことをする。

昼過ぎ、三時にホテルを出る。
そのために、フロントの女の子に言いに行く。

トライシクロの運転手との、交渉をして貰う。

荷物をすべて用意して、トライシクロを拾うため、ホテル前に出た。
色々な運転手がいる。
私は、比較的若い男を捜した。
荷物を持ってくれるだろうと、予想して・・・

一台の、トライシクルを止めた。
すると、フロントの女の子が、交渉する。
二時間で、幾らか・・・

最初は、二時間という時間に、戸惑っていた、運転手に、私は、メイビーと言った。二時間は、目安で、それより、早く終わることもあると。

それで、200ペソで決まった。
荷物を乗せて、バクラヨン町、バクラヨン教会に向う。

街を抜けると、美しい海沿いである。
ボホール島と橋でつながる、バングラオ島が見える。
あちらは、豪華なビーチホテルがある。
ダイビングに来た、客が多く滞在する。

道が、いよいよ揺れる状態になった。
地震のために、迂回する道に出た。

民家の中を通る。
だが、地震の影響を感じない。

あちらの貧しい家は、崩れても、すぐに建てることが出来る程度のもの。
それにしても、全く被害を感じさせない。

ようやく、バクラヨン教会に着いた。
崩れた教会の塔の修理が始まっていた。

その前に行き、手を合わせる。
地震で亡くなった人たちを、思う。

しばし、そこに佇むが、物売りがしつこいのである。
煩い。
怒鳴りそうになる。

目の前に、海が広がる。
私は、そこから離れて、日本兵の慰霊を行なうことにした。

トライシクルの運転手に言う。
丁度、慰霊するのに、良い場所がある。
橋が架かり、その前が海である。

手前で、トライシクルを止めてもらう。
そして、近くの木の枝を一つ折り、御幣を作る。

ここ、ボホール島の、タクビラランに、日本軍は、1942年3月17日に、上陸し占領した。住民たちは、有効な抵抗の手立てが無かったという。
1944年以降はじまった、アメリカ軍の奪還作戦により、レイテ島から上陸が始まり、ボホール島も、戦場となった。
指揮系統を失った日本軍は、山地に敗走し、散発的に戦ったという。
アメリカ軍のボホール解放は、1945年8月11日となっている。

奪還、つまり、アメリカのものだったのだ。
スペインの後は、アメリカの植民地となっていた。

どれ程の兵士が、亡くなったのか、知らない。
だが、戦闘があれば、必ず、死者が出る。
日本にて、ボホール島の慰霊とは、聞いたことが無いのである。

日の丸と、御幣で、祝詞を唱える。

兎に角、霊位をお送りする。
いつもの通りである。
20分ほどかかった。
終わって、運転手に写真を撮ってもらう。
が、その時、運転手の機転のなさに気付く。

更に、私は、支援をしたい。地震の被害のあった場所を知っているかと問うと、知らないと言う。
この時、運転手は、気のよい、おじさんの方が、良かったと思う。

全く、役立たずになった、運転手である。
支援物資を差し上げる人たちは、何処か・・・

道を戻りつつ、私が、時々、止めて、家の人に声を掛ける。
が、皆さん、いらないと言う。
それから、何度か、止まって、声を掛けたが、皆さん、いらないと言う。

後で知るが、この付近の人たちは、とても恥ずかしがりやで、個人的に、物を受け取ることはないとのこと。

そして、言葉である。
プレゼント・・・と言うが・・・どうも通じない。

私が売りに来たと思った、お婆さんもいた。
こういう時、運転手が助けてくれるのだが・・・

と、いっても、着ているものは、穴が開いたり、上下共に、ボロボロの人もいた。
差し上げたくても、いらないと言われては、差し上げられない。
こんなことは、初めてである。

ついに、私は、諦めた。
ホテルへ戻ると、運転手に告げた。
役立たずの運転手に。

帰りの道は、私が山側の道を示したので、大変だった。
道というより、泥の中を走る。
そこをバスが、トラックが向ってくる。

ホテルに着いた時、一時間半が過ぎていた。
それで、200ペソ。

ただ、兎に角、一番の目的、慰霊の儀が執り行えたことが、良かった。

支援物資に関しては、まだ明日がある。


posted by 天山 at 04:08| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月16日

フィリピン・ボホール島へ8

部屋に戻ると、矢張り、トライシクルの振動で、疲れた。
体が、揺れる。

そして、支援物資の二つのバッグを見て・・・
さて、どうするか。

このようなことは、初めての体験である。
受け取らない、ということ。

とんでもない、勘違いをしたのか・・・
矢張り、震源地に近い場所に、行くことが正解だったのか・・・

このバッグが、本当に大変なものだった。
また、これを持って、セブ島に戻るとしたら・・・
あの、大火災で焼け出されたスラムの人たちに、差し上げることだ。

だが、ここでは、慰霊が出来たこと。それが、救いだ。

疲れを取るために、頭を洗うことにした。
これは、多くの旅で気付いたことだ。
シャワーを浴びても良い。

日本のように、銭湯がない。
スパ・マッサージの店はあるが・・・
銭湯とは別物。

頭を洗い、暫し、呆然とする。

だが、と、夜の食事のことを、考える。
あの何でもありの、大型店に行き、食事をして、スーパーで買い物をすることにした。

明日の一日、何があるか、解らない。
明日は、日曜日である。
皆、教会に集うだろう。
そして、その中に、物乞い、ストリートチルドレンもいるかもしれないと、思う。

夜、六時になる頃は、暗くなる。
相変わらず、タイパンツと、Tシャツで出掛ける。
支援物資にならないものを、着ている。
今回は、あまりに酷いシャツが一枚で、とうとう、捨ててきた。

シャツは薄くなり、背中に、ポツポツと穴が開いていた。

大型店の四回に上がり、同じコーナーの屋台に行き、おかずと、ライスを注文する。
おかずの一品は、必ず、魚を選んだ。
焼いた物、煮た物である。
揚げ物もあるが・・・胃もたれする。

77ペソ。
およそ、200円。
つまり、一日の食費は、多くても、600円程度である。
そのうちに、私は、水も、1ペソ売りの販売機を見つけた。
それで、250ミリリットル買える。

500ミリリットルのペットボトルを買い、それが無くなると、自動販売機で買うことにした。とても、節約の旅。それが、楽しい。

水道の水では、うがいも、口をすすぐことも出来ないのである。

さて、スーパーに行き、色々と品物を見て歩く。
特価品・・・安売り・・・そんなものに、目が行く。

驚くのは、コーラの販売だ。
小さな物は、無い。大型のペットボトルであり、更に、その、六本セットである。兎に角、コーラーが欠かせないようだ。
食事の最中も、コーラーを飲むという。

私も、旅の間は、酒を飲まないので、時々、コーラーを飲むが・・・
大型のものは、必要ない。
ようやく、缶コーラーを見つけて、一つ買う程度。

その帰り道、ストーリとチルドレンを見つけた。
昼間は、目にしなかった子どもたち。

小さな男の子を抱いた、男の子。つまり、兄弟なのだろう。物乞いである。
私は、お金は渡さないのだが・・・
今回は、一人に5ペソ渡した。
10ペソ、25円。

更に、スーパーで買った、チョコレートを少し渡した。
と、夜店の屋台が沢山出ている。
その中から、かまぼこの揚げ物があり、二人の子を呼んで、買って上げる。

細かなことだが、二つで18ペソなので、20ペソを差し出すと、サンキューと言って、2ペソのお釣りをくれない。観光客だと、そういうことになる。

それを見ていた、一人のストリートチルドレンが、駆けつけて来た。
矢張り、この街にも、ストリートチルドレンがいると、納得した。

それならば、明日、公園がある、セント・ヨハネ教会に出てみることにした。
教会は、沢山ある。
中でも、カトリックが多い。プロテスタント、そして、カトリックから出た、フィリピン初の新キリスト教の教会がある。

教会の周りには、物乞い、ストリートチルドレンが集うことが多い。
そこで、衣服を渡すことが出来るかもしれない。

日本では、一日、二食だが、旅に出ると、三食食べる。
帰国すると、一キロ体重が増えていた。

ボホール島は、田圃が多く、米どころである。
フィリピンの中では、一番、美味しいと言われる。

また、海だけではなく、山の景色も有名で、チョコレートヒルという場所がある。
観光嫌いな私には、あまり興味が無いが・・・

さて、明日に期待して、二日目のタクビラランの夜を迎える。
といっても、寝るだけ。
夜の街に出る興味も無いのである。


posted by 天山 at 06:29| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

フィリピン・ボホール島へ9

三日目の朝、日曜日である。
朝、10時、私は、支援バッグ一つを持って、教会に向った。
8ペソで乗れる、ジプニーに乗る。

行き先は、解らないが、教会の方面に向うので、乗った。
矢張り、教会の前で数名が降りるので、私も、即座に降りた。

丁度、ミサが行なわれていた。
そして、信者は、何と、溢れ出ていた。
聖堂に入り切らず、外に溢れているのである。

350年のスペイン統治時代に、おおよそ、カトリックがフィリピンを席巻したのである。
そして、アメリカの統治が、50年。
戦後から70年。もはや、キリスト教、中でも、カトリックが伝統と言える、時代を迎えた。

暫し、信者が歌う、聖歌を聴いていた。
溢れ出た信者は、それぞれ、手を合わせたり、両手を開いたりして、感無量の様子。

その様子について、色々と、書きたいことがあるが・・・
今回は、止めておく。

さて、私は、衣類の必要な人を探す。
その家族は、教会の前で、蝋燭を売っていた。
子どもの姿を見て、すぐに近くに行き、バッグを広げて見せた。

子どもの着ている物を見れば、一目瞭然である。
母親が、喜んだ。
子どもと、大人物を差し上げる。

だが、教会の横には人が多くて、入られないので、教会前の公園に入ることにする。
しかし、ストリートチルドレンは、見当たらない。

行きつ戻りつ・・・
必要な人を探すが、見当たらない。
それで、ホテルへの道を歩くことにした。

パン屋の前で、信号待ちをしていると、一人の女の子が、来た。
ストリートチルドレンである。着ている物が、汚れている。
物乞いをする。

オッケー、パンは後で、服を上げるから・・・
英語が解らなければと、ジェスチャーでも示す。

それから、女の子に、衣類を渡していると、一人、また一人と、出て来るではないか。

五人の子供たち・・・
すると、近くで待機していた、バイクタクシーのおじさん、二人が私を手伝う。
カメラを渡すと、写真も撮ってくれた。

二、三枚ずつ、衣類を渡す。
最後に、赤ん坊を抱いた、女が来た。

幼児物も多く、持参していたので、彼女と、赤ん坊にも、上げられた。
それから、パンを買い、一人に二つずつ、配る。

サンキューという声が、周囲から、上がる。
バイクタクシーの、おじさんたちである。

私は、まだ先にも、いるかもしれないと、渡し終えて、また歩くことにした。
バイタクのおじさんが、ホテルまで乗せて行くというが・・・
アイム・オーキングと、断った。

だが、それ以降は、現れなかった。
きっと、どこか、別の場所にも、大勢いることだろうと、思った。

ビサヤ諸島の島々には、必ず、ストリートチルドレンがいる。
それぞれ、そのスタイルが違うが・・・

兎に角、少しでも、渡すことが出来た。
明日は、セブ島に戻るのである。

折角、遥々と、ボホール島にやって来た。
少しばかりの、安堵感。

ボホールで、初めて、汗だくになった。
部屋に戻り、シャワーを浴びる。

何度か書いたが、彼らは、私である。
更に、彼らの存在が、私の行為を生む。
支援するというのは、支援される人がいて、成り立つ。

彼らがいなければ、支援活動も無い。
フィリピンでは、ドネーションとか、チャリティとか言う。
あるいは、教会用語で、ミッション。

翌日、ホテルを12時で出て、フェリー乗り場に向かい、来た時と同じ手続きで、セブ島に戻る。

三日間は、過ぎれば、あっという間。

セブシティの乗り場に着くと、案の定、タクシーの売り込み。
ダウンタウンのホテルまで、300ペソ、150ペソと、言われる。
最後に、メータータクシーに乗る。
55ペソで到着。

今回は、シングルルームを止めて、ダブルルームにする。
シングルルームは、独房のような部屋だから。

740ペソの部屋である。
明日の一日、支援物資をすべて差し上げて、マニラに戻る。

マニラで、一泊して、帰国である。

セブシティでの、支援の場所は、決めていた。
火災で焼け出された、スラムの人たちの、テント住まいの場所である。

二年前、私達がセブ島に到着した時、その情報を得て、急遽、支援に出掛けた場所である。
そこでは、衣類が足りない。
食べるために、衣類を買う余裕が無い。

更に、ホテル前に二つの家族が、ホームレス状態で住んでいる。
彼らにも、渡すと、決めた。



posted by 天山 at 06:02| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月18日

フィリピン・ボホール島へ10

セブシティでの、最後の日、私は支援活動をした。

まず、ホテルの向かい側で、ホームレスの二つの家族である。
その子どもたちには、セブシティに来てから、よく、お菓子を上げていたので、顔馴染みである。

支援物資のバッグを持って、彼らの前に置いた。
必要なものを、差し上げます・・・
とても、驚き、そして、喜んだ。

日本の古着とされるものが、とても喜ばれる。
私に支援した人たちに、見せたい光景である。

そして、その後、全部の支援物資を持って、出掛けることにした。
その前に、火災で焼け出された人たちが住む地区の説明を、ガードマンにした。
ガードマンに、タクシー運転手に説明させて貰おうと、思ったのだ。

暫く、ガードマンと、ホテルのフロントの人たちと、やり取りして、ようやく、理解してくれた。
彼らも、その場所が明確ではなかったのだ。

そして、タクシーに乗る。
昼前の時間である。
そうそう、私は、支援物資だけではなく、ビスケットと、ヤクルトを大量にスーパーから、買い込んだ。
それも、一緒に持参する。

タクシー運転手は、解ったということで、出発する。

見覚えのある、町並みに来た。
だが、似た様な場所が、多々ある。
そして、運転手が通り過ぎたような気がした。

テントの波が見えないのが、不安だ。

変だと思ったが、運転手は、速度を落とした。そして、言う。
あの建物が、ドネーションの・・・
えっ、違う。

ノー、ノー、テント・・・
テント・・・
そう、テントスラムと、私が言うと、テントかと、運転手が解ったようで、また、走る。

だが・・・
テントではあるが、その場所ではない。
だが、そこも、避難者の場所か・・・

別の場所と言っても、運転手は、知らないと言う。
それでは、しようがないと、私は、降りることにした。

そして、知る。
テントハウスに入りきれなかった人たちが、こちらに、非難しているのだということだ。

子どもたちが、数名遊んでいた。
すぐに、ビスケットとヤクルトを取り出して、一人一人に渡す。
そして、私は、言った。
パパ、ママを呼んで・・・

みんなを呼んで・・・
すると、一人の男の子が、自分のテントに走って行く。

それからである。
どんどんと、大人たちが出て来た。
だが、女性たちが多い。男たちは、働きに出ているようだ。

丁度、手頃な、ビニールシートがあったので、その上に、支援物資を出した。
日本からのプレゼントです。必要なものを、取ってください。

その間、約10分。
それで、すべてが、無くなった。

皆さん、気さくで、色々と話し掛けてくれる。
一人のおばさんが、早口の英語で、向こう側にも、沢山の人たちが、テントで生活していると、言う。
そこだ。私が目指していた場所である。

ただ、そこのテントは、中国から贈られたものであることは、中国という文字で解る。そして、その場所は、支援が無いのである。

だから、結果的に、良かったということだ。

ビスケットは、子どもたちの後で、大人たちにも、差し上げた。
年老いた人も、テントから出て来て、ビスケットが欲しいと言う。

運転手が連れて来なかったら、この場所は、知らない場所だった。

つまり、まだまだ、支援が必要な人たちが大勢いるということ。
もう一つの場所でも、以前支援した時は、ほんの一角だけだった。

もう一度、来たいと思って、その場を後にした。
そして、今回で、二回目。
まだまだ、必要なのだ。

写真を撮り、色々と話をして、ホテルに戻ることにする。
ところが・・・
自分の居場所が解らない。

通りに出て、ジプニーに乗ることにする。
ところが、私が目指す場所には行かないジプニーばかり。

だが、断られたジプニーが、私の前で止まると、乗客たちが、手招きをする。
そこで、乗り込むと、私が乗りたいジプニーの場所まで、乗せると、運転手が言っていると、一人の女性が伝えてくれた。
その女性は、日本語も少し出来た。

私が支援に来たことを知らせると、皆さん、ありがとう、と言う。
8ペソのお金もいらない。

あなた、一人で・・・と、その女性が日本語で言う。
そうです・・・

ここで降りて、向こう側から、ジプニーに乗ってください・・・

そういうことだった。
実に親切にしてくれたものである。
ジプニーの行き先は、全く解らない。
ジプニーの番号を教えてくれた。それに乗れば、そこに行けるということだ。

タクシーに乗らない。8ペソのジプニーに乗る。
節約旅行である。

そして、人の心に触れる。


posted by 天山 at 06:31| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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