2013年12月14日

慰霊と支援の旅は続く

秋の風が、冬の寒さに変わってゆく、十一月後半、私たち一行は、タイ・メーソートに向けて、旅立った。

その朝は、寒かった。
これから、気温30度のタイへ行くとは、思われないほど。

今回は、メーソートにての支援、難民孤児施設、メータオクリニックのみならず、ミャンマー側のミャワディにも入る予定である。

今年、八月上旬に、その地帯は、豪雨で、大変な被害を出した。
自然災害が、世界的に多く、報道はされなかったが、ミャンマー側では、川の氾濫で、800名以上の死者を出していた。

日本では、100名以上と、聞いていたが・・・
タイ側でも、浸水した家々と、死者四名である。

孤児施設も、浸水したところもある。

三ヶ月前に航空券を予約していた。
つまり、三ヶ月先も、生きているつもりの、予定である。
私は、いつも、そのように、考えている。

戦没者の追悼慰霊から、子供たちへの、衣服支援、そして、それが大人にまで広がり・・・
更に、今回は、七年目を終わるに当たり、自立支援の模索も出来た。

与えるだけでは、続かない。
相手に、自立を促がす活動である。
方法の知らない人たちに、一つの指針と方法を伝える。

本当は、そこまで、考えていなかった。
しかし・・・

結果的に、そのようになるのである。

さて、私たちが、タイに向う少し前から、バンコクでは、大規模なデモが発生していた。
反タクシン派の、現政権を倒す、デモである。
バンコクでは、何と、200万人が参加したという。

更に、国王の誕生日が近づいていた。
実に、複雑な状況のタイへ向ったのである。

バンコクは、案の定、暑かった。
昼間は、31度である。

この暑さに、慣れるために、バンコクで二日ほど過ごす。
七年間、東南アジア、南太平洋の国々を廻っている。
もう、その暑さに慣れる術を知った。
つまり、何もせず、暑さに慣れること。

急に行動すると、倒れる。

バンコクの下町の、マンション・ホテルに滞在する。
皆々、顔馴染みになった人たち・・・

サワディーカップ・・・こんにちは・・・
言葉も慣れたものだ。
挨拶程度であるが・・・

後は、下手な英語、そして、日本語・・・
時に、自分で、何を言っているのか、解らなくなる。

サワディーカップ・サイバイディ・・・ハワィ・ユー・・・アイ・フイン・・・
それで、ネ・・・アイ・ゴー・ツー・メソットね・・・

ジリジリと日差しの強い、バンコクの下町を歩く。
両替したり、屋台で、果物を買ったり・・・

勿論、食事は、すべて、地元の人たちの食堂である。

今回、新たに、お粥の店を見つけて・・・
毎朝そこに、食べに行く。

安くて、美味しくて・・・
最高である。

だが・・・
この円安・・・
愕然とした。

以前、一万円が、4000バーツ前後だった。
しかし、今は、円安で、3000バーツ前後。
つまり、物価高である。

10バーツが、25円から30円だったのが、約33円である。
100バーツのものが、330円である。

一割高は、辛いものがある。
円安も、いい加減にして欲しい・・・
特に、私の活動では、大変な重荷だ。

支援物資の現地調達では、1000バーツだったのが、3300円になる。
と、意外な心労であった。

それでも、安いと、言い聞かせて・・・

観光旅行なら、いざ知らず。目的が、全く違う。
勿論、観光など、しない。したくない。

メーソートの、孤児たちに逢うのが、何よりの楽しみ。
新しい子供たちも、増えているはずである。
毎年逢う子もいる。それが、楽しい。

昼間の暑さに慣れて、メーソートに向う。
国内線である。

実は、タイに来る時の、荷物は、オーバーして・・・
何せ、一人10キロオーバーである。

支援物資を、機内持ち込みのバックに、詰め直すという・・・

しかし、機内持ち込みも、オーバーなのだが・・・
そこは、こちらの肝の持ちようで・・・

平然として、機内に持ち込んだ。
しまいに、紙袋まで、貰って、詰めた。

乗り込んでしまえば、こっちのもの・・・

ラッキーだったのは、飛行機が、空いていたことである。
荷物は、詰めるし、席も勝手に移動して、三人分の席を独占して、機内食の後で、横になって眠った。

実に、図々しくなったものである。

だが、国内線は、あらかじめ、荷物の重量を買って置いたので、何事もなく、積めた。
小さな飛行機である。

プロペラもついていて、落ちても、墜落するのではなく、プロペラで何とか、死ぬのは、免れるだろうという、もの。

更に、墜落の様子を十分に、堪能出来ると言う楽しさもある。

30名ほどで、満席である。
それでも、雲の上を飛んだ。

この活動をはじめてから、飛行機に乗るのが、楽しくなったという・・・
実に、呆れた性格である。

更に、揺れが大きいほど、乗っているという、感覚がするのが、楽しい。
一度、プノンペンから、死ぬほど揺れて、墜落するかと思ったことがある。
白人の大男が、悲鳴を上げるほど。

その時、私は、死ぬ瞬間を、体験出来ると、ワクワクした。
しかし、無事、バンコクに到着。
ああ、面白かった、という、印象であった。


posted by 天山 at 06:07| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月15日

慰霊と支援の旅は続く2

メーソートには、午後二時頃に到着した。
すでに、白倉さんが、娘さんと待っていた。

その娘さんは、日本名、友子さんという。
私たちは、ともちゃん、と呼んでいた。

更に、バンコクから、そのお姉さんも、バスで駆け付けて、私たちの活動を手伝うというから、ありがたい。
白倉さん一家が、最大の協力者である。

そして、最後の日本兵として有名な中野さんの、息子さん、お孫さん・・・
今回は、その中野さんに、息子さんの奥様の、姉妹の男子を養子にしたという方が、運転の手伝いをしてくれた。

更に、ミャンマーのミャワディでは、白倉さんの奥様の、お姉さまが、手伝うことになっていた。
こうして、多くの人たちに、支えられて、私たちの活動も充実したものになった。

荷物を運ぶ、ソンテウという、乗り合いバスを一台チャーターして、私たちを待っていた。
そのソンテウ一杯の、支援物資である。

そのまま、ホテルに直行する。
ともちゃんは、日本語専攻で、日本語で話せるのが、救いだった。

いずれ、日本の語学留学を一年して、更に、日本の大学に進学する予定である。

お姉さんは、タイの東大といわれる、最高学府の大学で、文学を学んでいる。
英語、フランス語が堪能な、才女である。

まず、ホテルに荷物を下ろし、チェックインする。
そして、いつもの通り、麺類を食べるために、白倉さんお勧めの店に行く。

そこで、打ち合わせしつつ、タイの汁麺を食べる。

明日は、朝八時に、出発する予定であると、白倉さんが言う。
廻る箇所は、四箇所の孤児施設と、メータオクリニックである。

そして、休憩と食事をして、ミャンマー側のミャワディに入国する。

私には、予想がつかない。
ミャワディは、初めて入るのである。

一つの貧しい集落に行くと言う。
白倉さんの奥さんの、お姉さんが、案内する。
実は、当初、白倉さんの奥様が、お寺に人々を集めて、支援をする予定だったが、体調が悪く、病院に出掛けることになって、お姉さんが、協力してくださることになった。

麺を食べて、私たちは、ホテルに戻り、少し休んで、着替え、早速、食糧支援の物資を買うために、市場に出掛けることにした。

何せ、明日、一日で、すべてをこなすのである。

時間も、どれくらいかかるのか、解らない。

兎に角、ビスケットや、飲み物、インスタントラーメン・・・
差し上げる施設や、場所を考えて、買い付けする。

昼間は、日差しが強く、暑いのである。
ただ、朝夕が、涼しく救われた。

夜は、エアコンを切って寝るほど、丁度良い温度だ。

大量に買い付けするので、ホテルまで、運んでくれる。
その、運ぶ青年たちが、皆、ミャンマーの青年たちだった。

矢張り、着ているものが、破れていたりして、私は、一人の青年に、ズボンとTシャツを明日、プレゼントすると、言った。

すでに郵送してある支援物資には、男物もあったからだ。

彼らは、すぐに、私を信頼して、英語の出来る青年と、色々と話すことが出来た。
ヤンゴンから来たと、きいて驚いた。
仕事が無いのだ。

家族と一緒に、タイ側に出て来た青年もいた。
民主化といえど、まだまだ、先は遠いのである。

ホテルのロビーの隅に、支援物資を置いて、準備万端である。

ようやく、私たちは、部屋でくつろぐことが出来た。
まず、シャワーを浴びる。
ところが・・・前回は、温シャワーだったが、水シャワーになっていたから、驚く。

部屋の料金が、来るたびに、安くなっていたのは、そのせいである。
新しいホテルが建ち、どんどんと、そちらにお客を取られているらしい。

何せ、一泊、400バーツである。
1300円程度。

矢張り、暑い国でも、シャワーは、温シャワーがいい。

ただ、顔馴染みのベッドメークさん、フロントの女の子は、変わらない。
懐かしく、挨拶を交わす。
英語の出来る子とは、色々と近況を話す。

私たちの目的を知るので、実に好意的だ。

今回は、ミャワディに行くよ・・・
ありがとう・・・
ビッグレイン大変だったね・・・
ええ、沢山の人が死んだは・・・

私の、訪問は、六度目である。
最初の年は、二度訪れているから、五年目。

兎も角、早めに夕食を取り、休むことにした。
その食堂も、馴染みの店である。

ホテル並びの、安いタイ利用李の店である。
ただ、イスラム教徒のオーナーなので、豚肉は、無い。

チキン、ビーフ、シーフード類である。

この街は、思った以上に、イスラム教徒が多いのである。


posted by 天山 at 06:48| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

慰霊と支援の旅は続く3

朝、八時になり、部屋から支援物資を下ろし、ロビーに置いていた食料品などを、ホテルの玄関前に出して、車が来るのを待つ。

その時間帯は、まだ、涼しい感じがする。
これが、次第に、暑さを増してくる。

私が先に送っていた、支援物資のダンボール、七個も積んでくる予定である。
合わせて、150キロ程度の支援物資である。

車が到着した。
総勢四名が乗っている。
白倉さん、その娘さん二人、そして、今回の運転をしてくださる中野さんである。

私たちの荷物を積むと、娘さん二人が、荷物と共に、車の後部に乗る。
日差しの強い中、荷物と共に乗るのである。
タイ式の、乗り方である。

申し訳ないと、言いつつ、私たちは、車内の乗った。

後は、白倉さんの指示通りに、動く。
まず、メータオクリニックへ向う。
無料診療所である。

最初は、ミャンマー難民のための診療所だったが・・・
その内に、貧しいタイの人たちも、来るようになったという。

最初だけ、30バーツのカルテ代金がかかり、その後は、無料である。
日本をはじめ、フランスなどからの、医者、看護師が、ボランティアで来ている。

診療だけが、無料ではない。
食事代なども、無料である。

だから、家族全員が来ている場合も、多々ある。
家族が、患者の世話をするという・・・

私は、まず、タオル類を出す。そして、衣類である。
大人から子供まで、男女共に。

それを病室に持って行き、皆さんに必要なものを、取って貰う。

私は、サワディーカップと、挨拶しながら、タオルを患者さんに、一人一人手渡す。
それが、最も大切な行為である。

写真撮影禁止であるが、私の場合は、特別何も言われない。
医者も、私からタオルを受け取る。
毎年来ているので、顔馴染みである。

着物と、日の丸・・・
それが、印。

衣類を広げた場所には、人だかりである。
そこは、辻代表に任せた。
出来るだけ多くの人に、行き渡るように、配慮する。

写真は、白倉さんの娘さん二人が、担当してくれた。

今回は、ビデオ撮影もする。

さて、今年、日本政府が、草の根支援として、このクリニックに、980万円の資金提供をした。ここで、ボランティアをしていた、日本の女医さんが、申請したのである。
めでたく、それが決まり、新しい建物のために、資金が当てられる。

行くたびに、クリニックが大きくなっている。

私は、奥に出来た、病棟にも、入った。
まだ、すべてが、ベッドではない。
床に寝ている人もいる。

バスタオル、フェイスタオルは、必需品である。
更に、バスタオルは、子供の毛布にもなる。
赤ちゃんを、それで包む人もいる。

今回は、病棟のみで、終わる。
その他に、併設された小さな学校もある。
食堂もある。
だが、すべてを廻ると、支援物資が尽きる。

手際良く支援して、さっと、立ち去るのである。
だが、最後に一枚、とても良い、子供用のガウンがあった。

私は、とっさに、奥の病棟にいた、男の子を思い出し、それを持って、向った。
男の子の顔を見ると、笑顔である。
夜の寒い時期になるので、彼に、それを着せた。
私の肩の荷が、ホッとした気分である。

何も言わず、笑顔で、別れる。

五年前に来た時は、随分と寂しい感じがしたが、今は、活気があり、人が集う。
物売りの店も、多くなった。
クリニックが、一つの村になっているのだ。

車に乗り込み、次は、中野さん宅に行く。
必ず、中野さんの霊前に、お参りすることにしている。

勝手知ったる、他人の家である。
玄関を入り、どんどんと、仏間に行く。

一番末の、お孫さんがいた。
そして、おばさんが、私たちを迎えてくれた。

私は、即座に霊前で、祈る。
正座して、南無阿弥陀仏を唱え、そして、祝詞を上げる。
中野さんは、念仏宗なので、最初は、念仏を唱えるのである。

ただ、霊前では、真心が伝わる。
若い時の写真と、老年になった、写真が掲げられてある。
実に、良い顔をしている。
意志の強い・・・

帰国せず、タイで働き、土地を得て、一家を成した。
その意志の強さである。


posted by 天山 at 03:07| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月17日

慰霊と支援の旅は続く4

中野さんの、慰霊を終えて、次に向うのは、森の施設である。
私が、通称名として、名付けた。

ミャンマー難民孤児施設である。
今回で、六回目。
その間、子供たちが替わる。

15歳になると、施設を出る。そして、メーソートの街で、働く。
あるいは、うまく行けば、バンコクに出られる子もいるだろうが・・・
国籍が無いので、非常に難しい。

タイでは、国民が皆、国民カードを所持していなければならない。
そこを、どうするかである。

タイ国籍を目指すなら、勉強して、兎に角、大学に進学し、優秀な成績を収めることだ。そして、タイの国籍を取る。
勿論、大学へは、ボランティア団体からの、支援金、奨学金が必要である。

だが・・・
彼らは、頑張る。

幾人も、そういう頑張る子を見た。
医者の資格などを取ると、すんなり国籍を貰えるのである。

私達が、到着した時、すでにメーソートの支援団体が、昼食の支援に来ていた。
もう、昼時なのだ。

ボランティアの人たちは、私達にも、ご馳走してくれた。
それが終わると、子供たちが、歌を披露する。

代表の先生は、留守だったが・・・
世話役の女性が、私達を迎えてくれた。
更に、すでに顔見知りの子供たち・・・

昼食を終えた、テーブルの上に、支援物資の衣類を載せて、子供たちを集める。
まず、小さな子からである。

大きな子は、それを十分に知っているから、絶対、我さきにはならない。

私は、まず、ぬいぐみを取り出して、小さな子に渡した。
それから、衣類の手渡しである。

白倉さんはじめ、全員が、手伝う。
その子に合ったサイズを探す。

矢張り、着たきりスズメの子もいる。
遠慮がちな子・・・
男の子と、女の子を、別々に並ばせて、一人一人に、手渡す。

この触れ合いが、最も大切である。

ただ、残念なことに、あまり時間が無いために、子供たちを、一人一人と、触れることが出来ない。
本当は、一人一人を抱きしめる時間が必要だ。

子供は、触れて欲しいのである。
人のぬくもり・・・
それも、与えるべきものである。

私達が、支援を始めると、食事を差し上げていたグループの人たちが、静かに、去っていった。

大きな子供たちの衣類が、少ないので、彼らを車の傍に呼び、車の上から、衣類を取り出して、渡す。
サイズの合うものを探す。
その間も、年長の子は、最後まで待つ。

これ、お前に合うよ・・・
これは、お前だ・・・
そんな会話が、聞えるようだった。

ようやく、全員に渡った。
と、思いきや、色白の男の子が、一人、ぽつんと、見ている。
アレッ・・・
まだ、貰っていないの・・・
日本語である。だが、通じる。彼は、頷いた。

少し大きめのシャツを取り出した。
すぐに、大きくなるからと、私は、彼にシャツを着せた。
笑顔で頷く、男の子。

一番、年長の子が、私に、フェニッシュと訊く。
フェニッシュ・・・
すると、その子が、皆に伝える。

彼らは、隙間板の部屋で、寝る。
寒い夜も、毛布、下に敷くものも無い。
衣類が多ければ、それを重ね着して寝るのである。

自分の持ち物は、衣類のみ、である。

今回は、ミャンマー側に渡るので、早々に戻らなければならない。
後ろ髪を引かれる思いで、子供たちに、さようなら、を言う。

また、一年後である。
その時、もうそこにいない子もいる。
この場所から、プロテスタントのチャペルの横に作られた、ホームに引き取られる子もいる。
その規準は、解らない。

この森の施設は、知る人ぞ知る場所である。
何せ、何回来ても、道が定かではない。

現地の人でなければ、解らない。
そういう意味では、私は、大変貴重な支援活動をしているのである。

いつか、大きくなった子が、メーソートの街で、働く姿を見ることもあるだろう。
そして、一緒に、街の食堂でご飯を食べる。
そんな想像をする。


posted by 天山 at 03:09| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月18日

慰霊と支援の旅は続く5

森の施設を後にして、向うは、自由戦死の碑である。

以前の日記に、その内容を書いているので、省略する。
兎に角、お寺の前に建てられた、慰霊碑に慰霊を行なう。

皆、二十代の青年である。

その目の前に、タイとミャンマーの国境を分ける、川が流れる。
その川が、今年の八月に、氾濫した。
豪雨被害である。

世界の至る所、自然災害が多く、報道されることは、無かったが・・・
ミャンマー側では、800名以上の死者数である。
タイ側では、四名の死者が出た。

タイ政府は、即座に支援に乗り出したが・・・
ミャンマーは、手遅れ。
そこで、ミャンマーの人々が、タイ側へ逃げて来た。
難民である。

それでも、ミャンマー側に人がいる。

今回は、その一つの貧しい集落を紹介されて、出掛けたのである。

さて、慰霊を終えた私達は、次の施設に向った。
その施設は、一度、訪れたことがある。
だが、その時は、大勢の子供たちが、チャペルに出掛けて、幼児たちだけが、昼寝をしていた。
その子供たちに、衣類をそっと、寝ている傍に置き、ビスケットを山盛りにして、去った記憶がある。

今回、その施設の、名前を確認した。
フューチャー・ライト・ホーム・スクール、である。

要するに、孤児たちを寝泊りさせ、学習させる施設である。

到着して、年長の男の子が対応してくれたが・・・
写真を禁止と言われた。
そこで、説明すると、代表を呼ぶので待って欲しいと、言われた。

その間の、時間が、20分ほど。
そこで、私は、子供たちと話した。
話した・・・言葉が通じない・・・

だから、近づく子供を抱き寄せた。
私が抱いた子は、丸坊主のハナという名である。
初めは、男の子と思ったが、聞くと、女の子であるという。
驚いた。

そして、納得した。
さらわれて、児童買春の犠牲になる女の子もいるのだ。
そこで、丸坊主にする。

ハナちゃんは、何と、ずっと私の膝の上にいた。
そして、ニコニコと、微笑んでいる。
辻さんには、三歳の男の子が、やって来て、その膝に乗る。

二人とも、とても、嬉しそうである。
親に甘えたい時期・・・
触れ合うことが、最も必要な時期。

私は、ハナちゃんの頬に何度も、キスをして、アイラブユーと、繰り返した。
ハナちゃんは、慣れてくると、私の手を取り、色々と遊ぶ。

子供の体温は、高いので、私の体が熱くなる。
代表が来るまで、ハナちゃんは、私に抱かれていた。

そして、辻さんの、トミーも、そうだった。
名前が英語である。
つまり、名前が無かったのである。

この20分で、子供たちが、私達を受け容れた。
代表が戻ると、写真は、オッケーとなり、即座に、子供たちに、衣類を一人一人、手渡す。

この施設も、プロテスタント系の支援により、成り立っていた。

次回は、学習支援が必要だと、思った。
寝泊りする隣の建物が、学習の場所である。

子供たち皆に、衣類が行き渡り、支援は終わり。
そして、すぐに、さようなら・・・である。

代表は、丁寧に私にお礼を述べた。
来年も、来ますから・・・

写真を撮り、この施設への寄付を募るという、詐欺に合わないようにとの配慮なのである。
私は、日本の支援者に証明するために、写真が必要ですと言うと、納得した。

最後は、子供たちが、入り乱れて・・・
ハナちゃんが、何処にいるのか、解らない。
だが、皆で写真を撮る時、ハナちゃんは、私の横に来た。

兎に角、日本語、英語、タイ語で、さようなら・・・

急ぎ、次の施設に向うことにする。

何とも、後ろ髪が引かれる。
もっと、子供たちと、触れ合いたい・・・
それが、最も理想的な支援だ。

そして、一度では、終わらない。
毎年訪れて、顔馴染みになり、その成長を見る楽しみ。

白倉さんが、子供たちに、沢山勉強しなさいと、言う。
勉強すれば・・・将来が明るい。

子供は、保護と、学習が必要である。
必ずその中から、ミャンマーを立ち上げる子が現れると、私は思う。
不幸な環境は、乗り越えられるのである。

posted by 天山 at 00:02| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月19日

慰霊と支援の旅は続く6

いよいよ最後の施設である。
その施設は、辻さんの、思い入れが深い。
チャームート施設と言う。

前回、辻さんは、さくらさくら、を歌った。
その声に感動した、男の子が、辻さんに英語話し掛け、とても辻さんを尊敬した。
だが、その子は、今回は、施設に居ない。

彼は、学業が優秀で、バンコクの大学に入学した。
西欧のボランティア団体からの、奨学金を受けたのである。

最初、その施設は、ミャンマーの子供たちに、学習する場所としてあった。
子供たちは、自分の生活を自分で賄う。
ゴミ山で生活し、ゴミを拾い、換金して、何とか生活していた。

しかし、いつからか、施設で暮らす子供も出て来た。
今回は、全員が施設で暮らし、学習を受けていた。

施設の中でも、比較的豊かな所である。といっても・・・
衣類が一枚しかない・・・と言う施設の子より、少し増しだという程度だ。

土曜日で、お休みの日である。
子供たち全員が、揃っていた。

私達が到着すると、全員が出て来た。
更に、男性教師と、代表の高齢の女性である。

支援に訪れるのは、私達のみだということが、今回、解った。

まず、ジュースを配り、それを一緒に飲みつつ、互いに歌を披露する。
それが、いつものこと。

今回も辻さんは、さくらさくら、を歌った。
新しい子もいるからだ。

それから、衣類と文具の支援である。

それぞれ、一人一人に手渡す。
私は、学習する子たちに、文具を手渡した。

小学生程度は、鉛筆を使い、中学生くらいから、ボールペンを使う。
そして、今回は日本から持参したノート類である。

このノートは、見事なものだ。
タイのノートは、紙の質が悪く、ページも少ない。
日本のものは、ピシッとしていて、ページも多い。

全員に渡せたので、ホッとした。
更に、年長の子が、小さな子に、鉛筆を配っているのを見て、感動する。

決して、独り占めする子はいない。

無理をして、持参して本当に、良かった。

私が、更に感動したのが、私が持参した、日の丸を必ず、誰かが、掲げていることである。写真を見れば解るが、子どもが順に、日の丸を掲げている。

写真撮影も、必ず忘れず、日の丸を掲げるのである。

私は、高齢の代表に、これから、バンマ、ミャンマーに入り支援に行くと言うと、何度も、お礼を言われた。
本当に・・・本当に・・・ありがとうございます・・・
我が事のように言う。
私は、これからは、毎年、バンマに入りますと言った。

ビルマをバンマと発音する。

ビルマは、ビルマ族の国という意識があったが・・・
少数民族の人たちが、それに対抗して、内戦が起こった。

軍事政権下では、特にそれが酷かった。
人として、扱わないのである。

現在は、次第に和解を目指して、政権と話し合いが行なわれている。

名残惜しいが、私達は子供たちに、さようなら、をして、いよいよ国境へ向うことにした。
本当は、昼食を取り、休憩してからという予定だったが、森の施設で、ご馳走になったので、休憩無しで、国境に向う。

半日程度の入国であれば、ビザはいらない。
タイから出国して、ミャンマーに入国する。
その際に、ミャンマーのイミグレーションに、パスポートを預ける。
入国料は、500バーツである。
だが、タイ人は、無料で入国出来る。

白倉さんの、娘さんは、タイの国籍と、日本の国籍を持つ。
であるから、日本国籍の、三名分だけを支払う。

その前に、手続きを、タイ側で行った。
そんなことが出来るということも、知ることができた。

更に、車の手配である。
手続きをすると、車の勧誘があった。
自分ですると面倒だが、それを頼むと、すべての手続きをしてくれ、車もそのまま出入国出来るのだ。

1000バーツかかるといわれたが、便利なので、それにした。
全員が、その車に移動して、国境を越える。
つまり、私達は、タイ側のイミグレーションのみに出て、ミャンマー側には、運転手が全員の手続きをするというものだ。

これも、知らなければ、時間がかかり、大変なことだった。

スムーズにミャンマーの町、ミャワディに入った。
見事というしかない。

ミャワディの町は、一本道である。
しかし・・・
私達が向ったのは、町の郊外の集落である。

posted by 天山 at 07:33| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月20日

慰霊と支援の旅は続く7

ミャワディの町に入り、少し待つ。
私達を案内してくれる、白倉さんの奥さまの、お姉さんである。

その方を乗せて、町から郊外に向う。
それからの道は、デコボコである。
揺られ揺られて・・・

更に、道は、酷くなるばかり。
こちらは、どのくらいの時間かかるのか、解らない。
勿論、一日もいられないので・・・

と、ようやく、一つの集落に着いた。

子どもたちの姿、そして、若い男たちが、道端にいた。
あらかじめ、私達が来ることを伝えていたのかと、思った。

日の丸を手にして、車から降りる。

そして、小さな建物を示された。
そこで、衣類を渡すのだと、私達は、荷物を下ろす。

そのうちに、どんどんと人の数が増す。

私は、ビスケットの缶の蓋を開けて、子どもたちに渡すことにした。
それからである。
どこから湧いて来るのか・・・
子どもたちが、どんどんと、押し寄せる。

出来るだけ、大量に子どもたちの手のひらに、ビスケットを載せる。

大人たちは、建物の中に入って貰い、辻さんや、白倉さん、案内の婦人が、皆々に、衣類を渡す。
更に、一人の男性も、私達を手伝う。
兎に角、多くの人に行き渡るようにと、辻さんが声を掛けている。

私は、衣類の支援が、どのように行なわれているのか、解らない。
二つ目の缶の蓋を開けて、渡し続けた。
その半分ほどで、ようやく、子どもたちの手渡しが終わり、次は、インスタントラーメンを、女性たちに配ることにした。

私の言葉を、白倉さんの娘さんが伝える。
すると、次から次と、女性たちが、やって来た。

三箱のインスタントラーメンも、あっという間に無くなる。

どのくらいの時間を要したのか・・・

ようやく、衣類の手渡しも終わり、私が持参した、バック、二つを欲しい人に差し上げることにした。
スポーツバッグと、大きな、旅行用バッグである。

その時、一つアイディアが浮かんだ。
欲しい人は、私の頬にキスをするように、ジェスチャーで伝えた。
すると、集落の人たちが、声を出して笑った。
これは、いいと、私は、大げさなジェスチャーをして見せた。

一人の若者が、私の頬にキスをした。
どっと、皆が笑う。

更に、インスタントラーメンが、まだ残っていたので、再度、キスを求めると、子どもたちが寄って来て、私の頬にキスをする。
そうして、最後・・・

大きな旅行用のバッグが欲しいと、家の中から、男性が出て来た。
彼は、私にキスをしないので、私が催促すると、村人が、大声で笑い、男性も、戻って来て、私の頬にキスをした。
村人たちは、うわーーーと、声を上げる。

何とも、そこで笑い声が響き、私達と村人の距離が接近したようである。

最後に私は、英語で、バンマ、カレンは、日本のベストフレンドと、言うと、村の女性が、大声で、それを通訳した。
そこは、カレン州であり、カレン族の人たちも多いと思ったのである。

そして、再会の約束をする。
皆々、夢み心地の表情である。
一体、何が起こったのか・・・

突然の訪問である。
こんなことがあるのか・・・
子どもたちも、全員が笑顔である。

別れる際は、私も、どんな状態なのか、解らなかった。
車に乗り込み・・・
体が熱い。
興奮して、言葉が出ないのである。

後ろを振り向き、手を振る。

また、車は、ガタゴトと走り出した。
道を覚えようと思うが・・・無理・・・
興奮している間に、町のメインストリートに出た。

そして、国境を越える。
タイ側のイミグレーションで、車から降りて、入国手続きを済ませた。
そして、ようやく、一息ついた気分である。

元の道を戻り、車の乗り換えをする。
そのまま、食事に行くことにした。
白倉さんに場所は、任せた。

皆で食事をするのである。
以前の中華料理店である。

ホテルに戻ったのが、六時頃で、何と、十時間が過ぎていた。

何事も、終われば、あっという間である。
部屋に戻り、本日の記憶を辿るが・・・
ようやく、疲れという感覚を抱いた。
どっと、疲れを感じた。

よくぞ、やったものである。


posted by 天山 at 07:14| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月21日

慰霊と支援の旅は続く8

疲れを取る暇もなく、私達は、翌日、チェンマイに向った。
今年最後の、慰霊となる、野戦病院跡の、慰霊である。

ちなみに、メーソートのホテルには、以前ベッドメークをしていた女の子が、昇進して、フロントの受付を行っていた。
顔馴染みである。
ミャンマー、カレン族である。

今回は、彼女が結婚をして、男の子がいることが、解った。
だが、一足の靴を上げるだけしかなかった。
とても、喜んだが・・・

今年から、メーソートからチェンマイ行きの、飛行機が飛ぶので、それを利用した。
荷物が無くなり、実に楽になった。

最後まで、白倉さん、その娘さんが、私達を見送ってくれた。

ところで、旅日記を書いているが、私達が滞在していた時、バンコクは、騒乱だった。
反政権、つまり、反タクシン派が、デモを繰り広げていた。

最大は、200万人のデモと言われた。
空港のテレビでは、バンコクのデモの様子が、延々と映し出されていた。

そして、遂に、学生二人が死亡し、45名ほどが、重軽傷という事態になる。

更に、反タクシン派は、抗議活動を活発化させて、ブルトーザーを使い、警察本庁の一階部分を破壊した。
バリケードも、壊すという。

何故、ここまでエスカレートしたのか・・・
それは、メーソートにその大元の原因がある。
つまり、今も、メーソートは、麻薬の世界的売買の拠点なのである。

タクシンは、首相時代、パフォーマンスとして、千名以上の麻薬取締りとして、殺害したが・・・
実は、今も、その利権を握り、華僑を通して、世界に麻薬を売るのである。
その莫大な金・・・

更に、その裏には、中国が控えている。
簡単に言えば、中国は、タイランドを属国化したいとの、意向なのである。

そのことが、知識人たちに気付かれて・・・
急速に危機感が募り、バンコク騒乱となった。

ここでは、書けないこともあるが・・・
大筋の話である。

そして、タイは王国である。その王様の誕生日が近づいていた。
その日、国王のメッセージがある。
タイ国民は、それに注目していた。

タクシンは、王制廃止を口に出していたから、なお更、国王の言葉が、待たれていたと思う。

本来なら、国王は、対立する両者を呼んで、解決の糸口を探るというが・・・
国王も、口出し出来ない状況なのであると、聞いた。
それは、中国の存在である。

これも、それ以上は、書けない。

タイ各地では、国王誕生を祝う準備が進んでいた。
チェンマイも同じく。
私も、チェンマイの前夜祭に参加して、国王に対するメッセージを書かせて貰った。

前夜祭から、誕生日当日は、デモは無く、タイは、王様誕生日のお祝いで、平静だった。

私は、バンコクで、王様の、メッセージをテレビを通して聞いた。
タイ語なので、意味は解らないが・・・
帰国して、その内容を知る。

タイが平和だったのは、国民が一致団結して、である。だから、これからも、一致団結して、平和を・・・という、内容である。

意味深い言葉だ。

だが、翌日から、デモは再開されて、更に激しくなる。
ついに、タクシンの妹である、現首相が、下院を解散して、総選挙を行なうとの、メッセージを発した。が、そんな問題ではないと、更に、デモが続く。

要するに、タンシンとクローンである、現首相の退陣を要求している。つまり、タクシン派の崩壊を願うのである。

それほど、タンシン派が台頭しているのは、票田が大きい、東北部、北部の支持が高いからである。
それ以外の地は、皆、反タクシンである。

東北部、北部の票は、金で買っているというのが、現実である。

南部の人から聞いたが、一番税金を納める南部のためには、何一つ、タンシクはしていないと言う。
更に、一度も、タクシンは南部を訪れていないのである。
南部に行けば、確実に、射殺されると、聞いた。

海外逃亡をしているタクシンは、今も、大金が入る仕組みである。
要するに、国を食い物にしているのである。

中華系らしい・・・やり方・・・

反タクシン派は、特に国王支持派である。
勿論、タイ国民は、国王を崇敬する。
だが、それと、政治とは、別物となる。

国王は、86歳を迎える。
高齢であることが、タイ国民の心配である。

現国王が亡くなることが、混乱を増すことになることを、国民は知っている。
国王が、飾り物になり、そして、王制廃止となれば・・・
それを、恐れ、危機感を持つ人たち・・・
国が、乗っ取られるという、恐れである。

ラオス、カンボジアを懐に入れ、更に、タイにも迫る、中国の手・・・
中国の覇権主義が、ここでも、見られるのである。


posted by 天山 at 03:38| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月22日

慰霊と支援の旅は続く9

チェンマイに到着して、空港から即、ホテルに向う。
夜、小西さん一家に会うまで、休憩である。

チェンマイは、メーソートより、北にある。
朝夕が涼しい。
実に、過ごしやすい時期である。

日本で言えば、冬に当たる時期。
だが、二月頃から、ぐんぐんと気温が上がる。

一泊、600バーツ程度の古いホテルである。
それでも、円安で、2000円程度になる。
2、300円程度、値上がりである。

昨日の疲れは、相当なものだった。
ホテルの部屋で気付く。
温シャワーを浴びて、一息付き、そのまま部屋で休む。

夜、六時半に小西さん一家が、ホテルまで来てくれる。
今年二月以来である。

早速、新しいデパートが出来たということで、そこで食事をすることにした。
タイは、今、経済上昇期である。成長期でもある。

驚くことに、そのデパートのレストラン街では、日本の店が多くて、何とも変な気分がした。
有名店が続々と進出している。
ラーメン屋も、二軒である。

更に、日本食の店では、タイ人が並んでいるのだ。

私達も、日本食の空いている店に入った。
味付けは、タイ人好みに、全体的に少し甘い。

小西さんご夫妻と、話が進む。
いつものことで、最後は、私の饒舌である。

ただ、タクシンの話題の時に、小西さんが、少し制してくれた。
色々な人が居るので・・・
チェンマイは、タクシン派も多いのである。

二時間ほどを過ごし、一階の売り場に戻り、小西さんの娘さんの、なっちゃん、五歳に、お菓子を買って上げた。
ついでに、私用も、買う。

この慰霊の旅の、最初のチェンマイ当時から、小西さんにお世話になっている。
七年の付き合い。
奥さまの、カレン村にも、三度出掛けた。

その翌日、あるいは、翌々日に、野戦病院跡の慰霊の予定である。
今回は、小西さんに迷惑をかけず、自分たちで行くことにした。

だが、翌日は、一日、休んでいた。
加齢のせいか・・・疲れが取れないという・・・

人は誰でも、年を取る。という、当たり前のことに、気付く。

ただ、日本では、一日二食だったのが、タイに来て、三食になった。
帰国すると、体重が二キロ増えていた。
これは、酒を飲まないせいもある。
兎に角、アルコール類は、一切欲しないのだ。

時々、コーラを買って飲む程度。
後は、水である。時々、搾りたてジュースを屋台で買う。

結局、チェンマイ最後の日、慰霊を行なうことになった。
ホテルからトゥクトゥクで向う。
バイクに荷台をつけたもので、風を受けて走るのが楽しい。

その野戦病院跡の寺は、ホテルから近い。
というより、車では、時間がかかるが、トゥクトゥクは、小道を入り、近道をするので、早く着く。

運転手に待っていてもらい、慰霊碑の前で、祈り、黙祷を捧げる。
すると、僧侶が出て来て、中を開けてくれると言う。
小さな博物館のようになっている。

日本兵の遺留品や、写真などが展示されてある。
若い僧侶が、鍵を開けて、私達に付き添ってくれた。

そして、再度、慰霊碑に頭を下げていると、後ろから声がする。
私の耳には、ありがとう、と聞えたが・・・

タイ人のおじいさんである。
何と、彼は、日本軍に、従軍したという。

タイ語なので、詳しいことは解らないが・・・そのゼスチャーで、理解した。
一緒に戦ったようである。

確かに、タイ人たちも、荷物持ちとして、日本軍と共にした人たちも多い。
ミャンマー国境の遺体は、日本兵だけではなく、タイ人の遺体も多いのである。

だから、祈りは、すべての戦争犠牲者である。

朝の十時頃でも、日差しは、強い。だが、暑さをあまり感じない。
ホテルに戻り、汗だくなのを知る。

書けばキリが無いが・・・
タイ・ビルマ戦線のことは、以前の旅日記に多く書いている。

兎に角、これで、すべての計画を終えた。
安堵感。

その日は、国王誕生日の前夜祭である。
夕方、私達は、その式典のターペー門広場に出掛けた。

式典は、すでに始まり、そして、長い布が用意されて、そこに、皆、国王に向けてのメッセージを書きつける。
私も、国王バンザイと、書きいれ、日本よりと、名前を書いた。

ホテルの帰り道、オープン食堂に入り、外で食事をしていると、突然の花火である。
丁度、私の席から、全体が見えた。

前夜祭の、最後だと、解る。


posted by 天山 at 06:12| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月23日

慰霊と支援の旅は続く10

チェンマイから、騒乱のバンコクへ。
二日過ごして、帰国するのである。

国王誕生日にバンコクであるから・・・
バンコクは平和だった。

そして、タイ国民は、王様のお言葉を待っていた。
それを、私は、テレビで見ていた。

お言葉を発する王様の、一言一言が、やっとの様子。
間合いが、とても長いのである。

椅子に座り・・・
何とも、痛ましい姿だった。

私は、ナナという界隈の、猥雑な場所のホテルに宿泊した。
その夕方、買い物をするために、外に出ると、体を売る女性たちが、蝋燭を用意している。
私は、どうするの・・・と、問い掛けた。
すると、キング・バースディと答える。

道端に、蝋燭を灯すのである。

これぞ、タイの風物である。
仏教と、王様・・・

王様は、大変である。
国民からの、支持を得て、国民のことを、心に懸ける。
王様のお言葉を、手を合わせて聞く、少女の姿。

一年前も、私は、チェンライにて、その日に遇っている。
その時は、物乞いに、キング・バースディと言い、少し多くのお金を、差し出した記憶がある。

さて、この旅日記も終わる。
つまり、活動七年目の旅の終わりである。

死ぬまで続けると、決心した。
これで生きてゆくしかないと、決めた。
その他の生き方は、私には、無い。

この世に欲しい物が無い。
この世に、未練も無い。

ただ、何か、誰かの必要なことを・・・
死者に対する慰霊の行為を。

全くの、アウトサイダーである。
野垂れ死ぬ覚悟である。

七年を振り返ると・・・
実に重い。

激戦地での慰霊は、特に、重い。
時代の不可抗力に生きた人たち。
そして、私もまた、時代の不可抗力に生きる。

生まれて生きることが、あはれ、である。
生きていることが、あはれ、なのである。

何故か・・・
人は死ぬために、生まれて生きる。
行く先は、明確に決まっている。

未知ではない。
人は死ぬのである。

それを得心し、確信し、更に、我が内に受け容れる。
あはれ

その死ぬ間の、人生を生きると、人はいう。

その、間、を不可抗力の最大である、戦争により、生きた人々を、実に、あはれ、に思う。

国のために・・・
それは、後付の意味である。

そんなことで、死にたくなかった人が、どれほど、いたことか・・・

では、今、本当に納得して、死ぬために、生きているのか。
解らない。

私は、日本よりも、貧しい国々に出掛けている。
その、貧しいという意味・・・
実は、その現場でなければ、解らない。
絶対的に貧しいのである。

貧しいという時、日本にいる場合と、貧しい場にいる場合とでは、意味が違う。
貧しさの意味が、違うのである。

簡単に言う。
食べ物の選択肢が無い。
日本人は、決して、そんな状況に大勢は、陥らない。

更に、道端で眠る子どもたち・・・
日本では、決して見ることのないものである。

一日一食を食べられれば、それで幸せだ・・・
日本では、考えられない。

だから、私は笑う。
健康維持のために・・・
医療費を抑えるために・・・
食事法を云々、運動は、何とか・・・

馬鹿もいい加減に・・・
分配することなく、我が身のみに向う精神的、病。

体の健康より、精神が病んでいるのである。
豊かさは、不幸である。これを説明する長くなるので・・・
だが、お金は、命の次に大切である。
その使い方が問題なのである。

そのツケが、環境破壊、そして、世界的気候変動、自然災害、人間の精神を病ませるのである。
自然から得る、タダのものを、金にして、堂々と生きる人たち。
必ず、天罰が下る。

お金というもの、これも、不可抗力になった。
歴史が、お金に換算される、不幸。

おしまい


posted by 天山 at 06:50| 旅日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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