2014年08月28日

国を愛して何が悪い151

万葉集にも、仏教関係の歌が、全く無いに等しい。
では、日本人は、仏教をどのように、受け入れたのか。

勿論、大衆にとっての仏教は、鎌倉時代まで待たなければならないが・・・
それでも、初期の仏教は、どのようなイメージだったのか。
それは、現代に続く、伝統とまで言われる、仏教の大本である。

無常観は、本来それだけで成立する観念ではない・・・
常住真実なるもの(仏)が存在して、はじめて成立する観念である。言わば常住真実なるものから与えられた一種冷徹な認識能力である。そういう思索の面は度外視して、人間流離の悲哀としてうけとり叙情化した。仏教の諸原理の中から、とくに無常観だけを、しかも「無常哀感」と言ったかたちでとらえた点に特徴があると言ってよかろう。辛うじてしらべと化したのだが、挽歌の哀感に比べるとやはり観念的で弱い。
亀井

実際、仏教の影響は、微々たるものだった。
しかし、観念の上ではそうであるが・・・

造寺、造仏、装飾などの、造型面では、特別な情熱をかけているのである。

ここに、特徴がある。

推古朝から奈良朝までの古代仏教をみて誰でも気づくことは、思索や修行よりも、造型面に対して過度と思われるほどの情熱を示している点だ。厳密に言えば、これは仏教享受における第一義の道ではない。
亀井

仏教伝来と共に、渡来した大陸の人々の影響も、大きいのだろうが。

古代、仏教と言えば、寺、仏像、その他の造型物である。

蘇我馬子も、その偉大さを示すために、寺を建立した。
当時としては、それは、大変な建物である。

古代日本における仏教享受は、主として第二義の道において行なわれたところに特徴がある。
亀井

第一義とは、法を聞いて、如来に帰依する。出家修行して、乞食修行をし、真理を探究することである。

だが、第一義より、第二義に重きを置いたのである。
つまり、見る物としての、仏教である。

日本人は、信じる、信仰するという、方法を見出せなかったのではないか。
それ以前の信仰として考えれば、ただ、自然を崇めていた、自然崇敬である。
そして、祖霊に対する所作である。

思想を信じるという、態度を知らない。
教えとか、法というもの、つまり、思想を信じるという、心得を持たなかったのである。

目の前に、見る物、それが、崇敬の対象だった。
だから、仏教も、それを見ることから、始まったといえる。

そのためには、仏教の造型面が必要だったといえる。

インド、中国、朝鮮を経て、充分に発達あるいは変化し、造型面においても爛熟していたそのかたちで伝来した。宗教であるとともに、「新しい文明」として、様々の技術とともに受け入れられたという事情である。国家統一のための政治力も作用していたことは言うまでもない。
亀井

その造型の色彩・・・
それは、日本人が目にしたことの無いものである。
驚かすには、とても効果があったのだろう。

そして、もう一つは、その経典が大乗仏教であったことである。

或る意味でこれは危険なことなのだ。出家者としてのきびしい修行、戒律の厳守をすすめるよりは、僧俗をとわない広汎で無拘束な世界をもたらすからである。換言すれば、成仏のためのあらゆる可能性を示す、その意味では自由無碍の世界と言ってよい。
亀井

ここに、日本仏教の根本がある。
そして、その堕落の元もある。

無拘束・・・
結果的に、鎌倉仏教になり、実に、無拘束になった。

大乗仏教というより、日本仏教と成り果てて、更には、大いに堕落した。
その堕落とは、無節操である。

ついには、妻帯して、俗と変わらぬ僧が出来た。
つまり、衆生と何一つ変わらず、そして、それでいいという、姿勢である。

仏教の僧は、衆生なのである。
であるから、突然、仏教の新興宗教などが、続々と誕生することを、許した。
無節操なのである。

伝来した仏教は、芸術の面々で、大きな貢献をしたが・・・
その思想としては、単なる、妄想の域に留まっている。

日本は、仏教国と言われるが・・・
恥ずかしい限りである。
それは、造形物により、成り立つが、思想としては、何とも怪しい。

勿論、今では、本物の仏教と言っても、インドでさえ、仏教は、廃れて、形無しである。辛うじて、小乗仏教の国々の東南アジアに、その影を見るのみである。

ただし、文芸においては、大きな影響を与えた。
それが、軽薄なものであれ、深みのあるものであれ・・・

それこそ、衆生の方が、真っ当に、仏教に対座したと言えるのではないか。

仏陀は、生き方指導をしたのである。
生きるための、教えだった。
壮大な、妄想、創作の教えではない。
これから、仏教が目覚めるとしたなら、その仏陀の教えに立ち戻ることしかない。
そのためには、日本人の精神史を見つめ直すことである。



posted by 天山 at 05:48| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月29日

国を愛して何が悪い152

ところですぐ問題になるのは、古代人は造型を通して、「眼」の世界からどのようにして「心」の世界に到ったかということである。「寺」なるものの内部で、いかに感じ、いかに信じたか。私は病気と祈祷について語ったが、古代人の感覚や信仰内容を復原することは、殆ど不可能に近い。
亀井勝一郎

まさに、それは、不可能である。
現代言われる信仰と、古代人たちの信仰は、全く別物である。

思索と修行の伝統よりも、まづ造型の伝統をうちたてたわけだが、単に新文明への好奇心としてのみ解することは出来まい。むろんそれもあるが、根本において、「寺」とはそもそも何であったのか。
亀井

全く、新しい建物である。
そこには、隣の神を祀るのである。

隣の神、という意識である。

そして、その神は、病気回復、その祈祷による行為を行なう。

現在に近づけると、極めて、病院に近い感覚。

当時の、医療は皆無である。
そこに、病気のための、「寺」というものが、出来た。

最初は天皇個人の発願であったり、氏神の氏寺として建立されたが、やがて国家統一を内的に支える精神的支柱として、奈良朝における国分寺建立によってそれはクライマックスに達する。精神の定着のための必死の努力、これが造型への情熱の根本にあるものではなかったか。
亀井

それは、第一義の道ではなかった。
しかし、建築ということが、思想を決定する事もある。

亀井は、色彩の革命、と言う。
確かに、今までにない、色彩の形相である。
それは、古代人を驚かせた。

日本古来の建築は、黒木と白木の組み合わせである。
そこに一切の、色彩は無い。
清浄で明快である。

それに対して、寺の場合は、巨大な礎石が置かれた。
その上に、朱塗りの円柱が立ち、内外には朱や緑青、黄色、紫等の強烈な色彩である。

檜皮葺の屋根が、瓦、鳩尾というものが、乗せられた。

古代人の受けたショックは、強烈だった。

それだけではない。
その内部である。

金色の本尊が輝き、色彩も新しい四天王像が立つ。
また、華麗な天幕、幡が垂れ下がる。

それは、眼も眩むばかりの、極彩色だった。

更に、儀式である。
燈明が輝き、香が立ち上り、僧侶が読経する。
全く新しい、呪術の出現である。

敗戦後、キリスト教、特に、カトリックのステンドグラスに憧れて・・・
などというものではない。
その何百倍の強烈さである。

人間は、眼に入るものには、弱いのである。
雰囲気・・・それに、やられる。

同時に異様な体臭を伴っていた筈だ。大陸からの来朝者、帰化人、混血児、唐留学生など、言わば大陸の体臭の漂う場所であり、大陸独特な「飛地文化地帯」の成立をも意味したと思う。すべては異様で強烈であったにちがいない。
亀井

精神の不安や、病気と死への恐怖から、古代人はどんな気持ちでここにひれ伏したか。殆ど動物的とも言えるほどの激しい生への執着、逞しい肉体、原始的な情欲、そういう面を考えると、よほど強烈な威圧感と呪縛力を必要としたように思われる。
亀井

生死との激しい格闘の場ではなかったろうか。
亀井

それほど、時代が、あるモノを意識させた。
その、あるモノ、とは、未分化だったものの意識化である。

原始の人々は、死に対して、それほどの恐怖を感じていなかったはずである。
死は、別世界への、移行であるという、意識。

だが、仏教が渡来してからの時代性は、死への恐怖・・・
その前に、病の恐怖である。

その解決の方法が、仏教の造型の中に、見出されたと、素直に考える。

元来「仏」は眼にみえない存在であり、教えのためには経典があれば足りる。つまり第一義の純粋なかたちはそうだが、像として描かれ彫刻されたとき、全く別の作用があらわれる。「像」そのものが、「仏」として礼拝の対象になる。
亀井

「像」そのものが、「仏」
ここに、当時の仏教がある。

理屈抜きである。

それ以前の、日本の社には、鏡のみが存在した。
更に、祭りが終わると、神々は去ったのである。

これに対して、仏像は、常時、そこに存在する。

これが一大変化であった。
亀井

それである。
いつも、仏像は、そこに存在していた。
つまり、いつも、仏が、そこに存在していたのである。

これは、画期的なことだった。

posted by 天山 at 06:15| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月01日

国を愛して何が悪い153

今日我々が仏像の名で総称しているものを、正確に分類すれば、仏像(如来と釈迦)、菩薩、明王像、諸天像、鬼神像などである。すべて経典にしるされた固有の性格、その作用、その意味を造型化したもの、つまり「思想像」である。仏教伝来とは、この大群像の伝来であり、言わば新しい「神話」の世界の展開であった。古代人の想像力はここに一大変化を迫られた筈である。
亀井

確かに・・・
思想像とは・・・

推古天皇32年の調査によれば、当時の寺院は、46ヶ所、僧尼1385人である。
法隆寺は、国家経営の天皇勅願寺であり、各氏族は、それぞれの氏神を祭っていた、その形式を、踏襲するかのように、氏寺を建立した。これは、智識寺と名付けられた。

大化の改新以後は、天智天皇勅願の崇福寺、天武天皇勅願の、高市大寺、持統天皇には薬師寺がある。

勿論、現在は存在しない、多くの寺もあった。

そこで、特に注目すべきは、天武天皇14年の、詔である。
「諸国の家毎に仏舎を作り、すなわち仏像と経とを置きて礼拝供養せよ」

これは、個人の家ではなく、諸国の国府、国司の政務を司る官家を指すといわれる。
寺院ではないが、仏礼拝が国家統制の傾向を帯びてきた現われである。
奈良朝における、国分寺建立の先駆けと言える。

つまり、国教化である。

奈良朝に至ると、総国分寺としての、東大寺をはじめ、北は陸奥出羽から、南は薩摩まで、全国に渡り、68ヶ所の国分寺、そして、国分尼寺が建立された。

それは、天平東大寺を模した、大規模な伽藍である。

推古天皇から、奈良朝まで、どれだけの、諸像が造られたか・・・
驚くべき数にのぼるだろう。

国分寺は勿論のこと、寺院の多くは、三重塔、五重塔を持っていた。
それらは、朱塗りの塔であり、人々の住む場所に、そららは、聳え立っただろう。

全く、今までには無い、風景である。

文献の上からみて、思索において甚だ貧しかった古代人も、造寺造仏においては精密に思索し、高度の知性を発揮したことは、仏体のあらゆる微妙性の追及にみられる。むろん大陸の模倣から始まり、帰化人技術者の指揮なしには不可能であったが、年月を経るにつれて、帰化人の同化、混血の累積、日本人の習熟によって、次第に独自の造型力を示すに至った。
亀井

飛鳥、白鳳、天平・・・
時代を経るに従い、諸像の形態は、写実性を帯びる。
だが、亀井は、それを、「仏像の進歩」として、受け取ることは、有り得ないと言う。

それぞれの仏像は、その時代において絶対的存在であった筈だ。
亀井

発願の動機の、絶対性・・・
それに支えられた、仏像制作である。

私は、あるいは、仏像があっても、あまりにも貴いものとして、見ることも、拒んだのではないかと、思える。
ただ、その前に、額ずくことが、精一杯だった。

あまりに、ありがたくて・・・

解釈と説明とは、現代的な思考である。
そして、それをすべてとすれば、見えなくなる。
古代人の姿である。

亀井も、仏像の発願ということに、重きを置く。
病気快癒・・・
国家安泰・・・
あるいは、先祖供養・・・しかし、それは、後々のことである。

仏教の死後の世界は、後々で、現れる。

それは、つまり、
諸々の仏像とは、美的鑑賞の対象ではなく、彼らは、造形美を追及したわけでもない。経文の意味の造型を通しての感知であり、意味への礼拝であった。
亀井
と、なる。

意味への礼拝とは・・・
これは、現代人には、測り知れない思いである。

それでは、それを作る側、仏師の側を考えると、彼らは、人々の発願と、意味への、礼拝に相応しい像の作成に、心血を注いだ。

それに応えるべくの、試練である。
つまり、彼らは、経典を理解した・・・
その内容と意味を、理解しなければ、着手出来ないのである。

仏師は、そのまま、僧になる。
そして、その多くが、無名である。

造仏技術とは、造型技術であるとともに信仰の行為であった。言わば特殊な材料による信仰の感覚的消化の過程を意味した。
亀井

更に、彼らは、寺の内部のプロデューサーでもある。

それは、儀式の行なわれる場合の、仏像の有り様などを、考慮し、仏像を、どのように効果的に安置するのかを、考えたはずだ。

後に、空海が見せた、マジックのような効果を、すでに彼らは、意識していた。

だが、それは、純粋無垢である。
それが、彼らの信仰だった。

焔に浮かぶ仏像の実在性を、徹底的に感得しただろう。

人間界とは、別な世界・・・
それは、仏という世界・・・
それを寺の内部に、創作したのである。

posted by 天山 at 06:12| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月28日

国を愛して何が悪い154

隣の神と言われた、仏教の、仏、菩薩、その他諸々・・・
どれほどのエネルギーを掛けて、仏師たちが、創作したかである。

日本の仏像は、日本のみの、形がある。
東南アジアの仏教の仏像とは、全く違う。

ミャンマーのタチレクという町に入り、一度だけ、山の上にある、寺院を訪ねた。
そこでは、子供が説明してくれて、三体の仏像を、それぞれ、タイ仏陀、ビルマ仏陀、インド仏陀と言うのである。
それぞれ、違う形をしていた。

そして、それらとは、日本の仏像は全く違う。

仏像とは仏性の表現であり、菩薩像とは菩薩性の表現であって、たとえ人体を模しても、人間性を超越しなければならない。人体に接近しつつ人体を超越するそのときの間髪の芸が造仏技術の核心である。このときの芸とは抽象化能力のことである。
亀井

大仏のような像は、何処の国にも無いものである。

この造型に携わった、仏師たちのプロデュース能力が、凄い。

寺院の中に、一種の劇を演出したのである。
それぞれの、仏像の配置と、それらが「来迎」する様を模した。

それを見た人々は、何を思ったのだろうか。
想像も出来ないのである。

日本人の抽象化能力は、まさにこの面において最大限に発揮された。
亀井

日本には、哲学、思想なる物が無いとの定説であるが、私は、この造型能力こそ、哲学であり、思想であると、思う。

それは、それ以前の神道、古神道、古道に至るのである。

つまり、言挙げせずに、所作で、伝えた。
それと、同じことが、仏像制作でも、生きているのである。

思索性の存在である、仏像である。

それでは、日本の仏像の特徴は・・・
亀井が上げるものを書き出すと、
仏の慈悲をあらわす半眼である。

それは、瞑想の方向を辿り、悲哀の調子を帯び、やさしく優美になる。
亀井

そして、豊頬である。
微笑しているようにも見えるが、明らかに微笑しているとは言えない。

それぞれの年代にもよるが・・・

こうした微妙性の追求は、観音菩薩像においてとくに顕著で、私はその姿態を「柔軟性」と名づけてきた。
亀井

観音菩薩には、天女型が加味されてゆく。

すべての肉身(色身)に応じて、その人の身に化身して、救済するという約束からきた、言わば化身の自在性がもたらした微妙性である。
亀井

更に、仏像がまとう、薄い衣も、特徴的である。

ここで、救済、つまり、救いという観念が、どのような精神を生んだのかということである。

何故、救われなければならないのか・・・
それは、人間の存在の罪性である。

後に、煩悩具足の凡夫、という言葉が出てくる。
人間は、煩悩にまみれて、穢れている存在である。
この、罪意識・・・

キリスト教の原罪に似る。

罪悪感の意識は、仏教がもたらしたものである。
更に、無常観である。

当時の人々は、それを、どのように解釈したのか。
これも、一種の洗脳に当たるのである。

漢語で記された、経典から、得たものである。
更に、渡来した僧により、教えられたもの。

それは、新しい観念である。

ただし、穢れの意識は、それ以前にも存在していた。
汚れたモノに触れることは、穢れが移る。
だから、死体などは、穢れたものであるから、捨てた。

しかし、その霊は、生きていると、信じた。

霊とは、タマである。
後に、魂という文字を当てるが。

仏教が葬式をするのは、後々のことである。
最初は、思想だった。
ものの考え方である。

漢語による、経典から、得たものは・・・
それが、伝統に至るまでに、高まる。

だが、廃れないものがあった。
やまと言葉である。
漢語を利用したが、その中に、やまと言葉の読みを入れていた。
現在の、訓読みである。
これは、実に賢い方法だった。

日本語は、やまと言葉から、理解するものである。
それが、一時期、漢字の意味を知ることで、日本語が解るという人たちもいたが。
全く、別物である。

posted by 天山 at 06:21| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月29日

国を愛して何が悪い155

さて、仏教伝来の様子を眺めてきたが・・・
まだ、足りないのである。

ところで、大化改新とともに、次のような問題が発生した。氏族制度の弊害を打破し、人民を治め、国家を強固に統一してゆくときの精神的基軸を、どこに求むべきかという問題である。
亀井

その大化改新の詔の発せられる前に、孝徳天皇の注目すべき治世方針の詔がある。

時の、左大臣と右大臣の二人に対するものである。

その中で、
まづ神祇を祭ひ鎮めて、然して後に政事を議るべし。
である。

これは、右大臣蘇我石川麿の、奏上である。

もし、これを徹して行くならば、精神的基軸として、「神ながら」を第一義とすべき、ということになる。

しかし、それ以後も、仏教を排斥するようなことは、全く行なわれてないのである。

逆に、寺院と、僧尼に対する、国家的保護が始まっている。

壬申の乱の大本は、氏族制度の打破を眼目とした、改革であった。
そこに、天智天皇と天武天皇の、やり方の違いと、行き違いがあった。
これに関しては、省略する。

さて、亀井は、その中では、一種の宗教改革を迫られたとみてよい、との記述である。
だが、そのようなことは、起きなかったのである。

「神ながら」と仏教は併行したまますすんでゆくが、天武朝になってから、精神的基軸を、いずれかの仏典に求めようとする要求があらわれてくる。これは注目すべき現象と言ってよい。各氏寺の統制と、各国府に仏像安置を命じたことから、その必要を迫られたとみるべきであろう。選ばれたのは金光明経であった。
亀井

つまり、「神ながら」は、書き物がなく、指針としても、表すことが出来ないのである。仏典は、すでにその姿を持って、表れている。

天武朝五年から、聖武天皇の神亀五年まで、半世紀、金光明経が、年月を経るに従い、重要視されていったのである。

それは、
中央集権化を、内的に支える経典として、適切とみなされたからである。
亀井

それでは、その金光明経とは、どんな経典なのか。

主として説くところは、法身常住(釈迦の永遠性)と、天法正論(国政に当る正しい信仰)と、四天王護国の思想(この経典に基づく護国の教え)、そして、天部(弁財天や吉祥天等)崇拝である。

中でも、護国思想が、特に重んぜられた。

仏典には、必ず、その経典を奉じると、どんな利益があるのかが、記される。
矢張り、その経典でも、四種の利益がある。

その第一を見ると、
国王の軍衆強盛にして、諸々の怨敵無く、疾病を離れ、寿命延長にして、吉祥安楽にして、正法興顕せん。
である。

まさに、国のための経典に相応しい。

護国思想だけではなく、疾病の方法を四季に渡り述べた、古代医学のような部分もある。

氏族統一と、天皇の確立のために、最も適切な経典として、認められたのである。

奈良朝に至り、東大寺を、金光明四天王護国之寺、と名付けたことでも、明らかである。

この経典は、国家安泰のためのあたかも万能薬のような印象を与える。
亀井

ただし、際立った思想性は無い。
利益を強調する、誇張するような、経典である。

護国のためならば、むしろ十七条憲法の講読こそ適切であったと思われるが、そういう形跡は全然ない。
亀井

この時代は、万葉集の歌が作られた時期と重なるが、仏教護国思想などは、全く歌われていないのである。

つまり、天皇と、その側近のみが、採用した。
また、当時の学僧の影響もあり、政治への迎合も考えられる。

ただし、この場合も、造型だけは、盛んに行われたのである。
この経典により、諸天像が、大きく促がされたと想像する。

四天王像である。
そして、やがては、四天王が、それぞれ信仰されるという形に至る。

矢張り、不思議なことは、仏教と、万葉集の関係である。
何故、仏教に係わる歌が無いのか・・・

それは、民衆と、為政者の乖離なのだろうか。
民衆は、まだ仏教に付いて行くことが出来なかったのである。
一部の者のみに許された世界と、考えられる。

ただ言える事は、仏教をその後、排斥することは、無かった。
明治維新の神仏分離を待たなければならない。

伝統として、息づくまでは、時間が必要だ。
更に、民衆にまで、広がるためにも。

平安期まで時間がかかるが、それでも、貴族程度の身分においての、仏教である。
民衆仏教となるのは、鎌倉時代である。

ただ、亀井も見落としているのは、道教の影響である。
すでに、民衆道教は、日本に伝来していた。
民衆道教とは、成立道教という、プロではなく、素人のそれである。

ちなみに、道教に関しては、私の別エッセイ、神仏は妄想である、に詳しく紹介している。

posted by 天山 at 06:07| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月30日

国を愛して何が悪い156

七世紀は、古代における最も偉大な世紀であり、古代日本人の精神の原型というものは、この時期に成立したと言っていいのではなかろうか。
亀井

藤原京時代を含めた、飛鳥朝の時代である。
奈良時代を最盛期と言う人がいるが・・・
それは、外見のみのこと。

飛鳥朝こそ、古代精神を決定し、基礎付けた、一大変貌期といえるのではいかと、亀井は言う。

奈良朝に至り、律令国家が整備され、中央集権の力が、強化された。
唐風の浸透は、氏族社会の全般に及び、文化の程度も、高まった。

その八世紀・・・
七世紀との、断絶がある。

亀井が上げる断層の一つは、歌の調べである。

万葉の、舒明天皇三代歌集、人麿、その歌集に見られる、大らかで、強い調べが、次第に消えて行くのである。

後半の万葉が、古今に近づくように。

七世紀の歌のもつ逞しい足音は、繊細なひびきに変わってゆくようである。
亀井

そして、仏像である。

天平仏は様式も複雑となり、技術的にも展開をみせるが、白鳳仏のような、単純明快で、しかものびやかな線は失われてしまう。豊頬も微笑も消滅する。
亀井

七世紀から八世紀へかけては、ちょうど人間交替期に当る。七世紀の皇族氏族は、すでに述べたように激しい血族相克をくりかえし、人間としての悲劇を露呈するが、強烈な野性と茫漠として鷹揚な気品と、野獣から別れてきたような強烈な欲望との、ふしぎな滑稽がそこにみられる。
亀井

しかし、
八世紀に入ると、逞しさも野獣も次第にかげをひそめて、文化によって洗練されたいわゆる大宮人なるものに変貌してゆく。
亀井

和歌の世界、歌の世界を見れば、一目瞭然である。

優雅で繊細な調べが現れ、情景、遊興歌の、新しい型が発生するのである。

飛鳥びと、初期万葉人とは、また違った、天平びとの、独自の魅力が生じた。
更に、それまでにはない、空虚感が現れた。

それは、一つの文化の成熟を経た、証しだと、私は思う。

続日本紀は、八世紀が舞台である。
七世紀は、日本書記である。

日本書記の特徴は、亀井が言う、
漢意による誇張、歪曲があり、時には途方もない荒唐無稽に伝説も含んでいる。

しかし、続記は、出来る限り資料を集めて、書紀には無い、宣命、せんみょう、なども、伝える。

日本書記には、それを記すに、悪戦苦闘した痕がある。
更に、何かとてつもない、意気込みである。
初めて、漢文で記すという、新鮮な好奇心など・・・

大陸の血を真っ向から浴びたような強烈な民族変貌期の人間像を描くには、漢語の強いアクセントは必至ではなかったか。書紀の執筆者はそれを自覚していたように思われる。
亀井

亀井が、続記についての、特徴を上げている。

その一は、思想の混乱である。
儒教、仏教をはじめ、多種多様な文献が伝来し、知識の範囲が広くなり、一種の異端が現れた。
つまり、それは、道教のことであろう。

亀井は、道教には一切触れていないが・・・

妖術、妖言が、しきりに行なわれたことが記してある。
それは、つまり、民衆道教の伝来である。

呪術が行なわれ、それが多様化して、民衆を惑わすということで、聖武天皇の天平元年四月に、詔が出されている。
一種の思想取締りである。

実は、大化改新前後にも、そのような思想の混乱というか、民を惑わすものが、多く存在していた。
道教である。

それは、儒教や仏教とは、別に、大陸からの人によって、伝播したものである。
つまり、正式な形ではなく、庶民的な形で、伝播したのである。

成立道教のように、専門家によって、伝えらたれのではなく、民衆道教と言い、素人によって、まことしやかに、伝えられた。

例えば、常世神である。
まさに、道教の神である。

後にこれが、平安期、陰陽師などにより、使用されることになる。

当時は、役君小角、えんのをづね、役の行者と言われた人物で、妖術を行なったということで、流刑に処せられている。

表に、儒教、仏教があれば、裏には、道教の存在があった。

大化改新の後にも、地方の豪族を、秦野河勝が、捕らえに行っている。
一種の教祖のようになり、人心を乱したという、罪である。
posted by 天山 at 07:05| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月01日

国を愛して何が悪い157

その二は、民衆の動揺である。平城京の造営をはじめ、聖武朝には各地に宮殿の造営が行なわれた。また東大寺はじめ全国に国分寺の建立されるに当って、農民の徴集が行なわれた。いわゆる「役民」である。彼らのあいだに生じた動揺、逃亡、流離、餓死は、奈良朝の見逃しえない暗黒面である。
亀井

それを続日本記は、記す。

そして、
京に近き左側の山原に、多くの人をあつめ、妖言して、衆を惑す。多きときはすなわち万人、少なきときはすなわち数千なり・・・
とある。

異端妖術取締りである。

その三は、犯罪の増加である。

皇族大氏族間の血族相克による流血はないが、その頃は、僧侶が介入して、策謀的になり、陰姓を帯びるようになる。

殺人、強盗、贋金作りなどの、犯罪は、各層に渡り、激増していた。

いつの時代も、それらは、付き物であるが・・・
顕著に多くなったという、感想である。

智恵がついた・・・
そのようにも、思う。

続記がとくにこの点に留意して記録したわけではない。大赦がくりかえされたその記録によってわかるわけである。
亀井

天災、地異、病気が起こるたびに、神祇仏法の祈り、重罪以外の、大赦が行なわれた。
特に、聖武朝では、毎年それが、行なわれている。

ある一定期間の安定の後には、人心が乱れる。
更に、社会が苦難に満ちる時である。

その際の、精神的な状況は、どのようなものだったのか。
仏教も、民衆に浸透していたとは、思われない。
それは、まだ、朝廷と、氏族のものだった。

亀井は、
次に七世紀から継承した八世紀の精神の主題とは何か。天平びとはそれを自覚し、それに応えようとしたかどうか。これが一番重要な問題である。
と、言う。

だが、七世紀の、神ながら、と、仏教への思索による帰依、その双方において、応えようとしたが、八世紀は、それを引き継ぐのか・・・

神ながら、と、仏教は、激しい対立を見せず、万葉集にも、仏教の影響は皆無といってもよい。

しかし、
八世紀天平びとの一種の衰弱の原因は、この主題に応えようとする意志あるいは祈念の弱さにあると言っていいのではないか。さらに原因を辿るならば、「神ながら」と仏教信仰との対決・持続の殆ど皆無な点に求められよう。
亀井

棚上げしてしまったのである。
それが、衰弱なのか、否か。

国造りの混乱を経て、ようやく落ち着きを取り戻した状態・・・
それが、八世紀の特徴なのではないか。

衰弱というより、休憩である。

その亀井の主題は、消滅していないのである。

鎮魂と帰依、歌(後には物語)と仏教信仰、その交流と内面化は、様々なかたちを変えつつ、平安朝から中世へとつづいてゆく。
亀井

この辺りのことは、最も、注視する精神史の一つである。

すでに、仏教の対立は、蘇我氏と物部氏の、豪族の争いとして、終わったものである。
その、仏教派の蘇我氏が勝ち、仏教が、国の精神に大きな影響を与えた。
これ以上に、それによる、争いを好まなかった。

そして、天武天皇は、明確に、仏教の国教化を計ったのである。

神ながら、と、仏の教え・・・
その仏の教えが、十分に理解されていない状態を続けていた。

その仏教も、大陸を通して伝えられたものであり、インドの仏教とは、全く姿を違えていた。
特に、中国仏教によるものである。

そして、仏教の新興宗教といえる、大乗仏教経典が伝えられている。
後にそれが、大きな、問題を引き起こすのである。

仏教という宗教から見ると、行を見出せない中国仏教と、日本仏教である。

だから、空海が、行らしきことを、行なったといえる。

天平びとは、八世紀初頭から、中期以後にかけて、万葉集を中心に見ると、大伴旅人、山上憶良という、彼らを巡る、筑紫サロングループ。
そして、長屋王を中心とする、漢詩人たち。
山部赤人、笠金村の、宮廷歌人たち。

更に、天平後期の、大伴家持を巡る、大伴家の人々と、多くの女流歌人たち。
もう一つは、家持の採集した、防人の歌となる。

亀井は、その中から特徴的な歌人を取り上げて、説明するが・・・
それについては、省略する。

精神史に関しては、特に、歌を見ることが第一だと思うが・・・
一人一人を上げて、説明、解釈するのではなく、全体を俯瞰したいと、思う。
posted by 天山 at 06:24| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月02日

国を愛して何が悪い158

「我」の自覚は、生の悦びとともに、その翳りのように、生の空しさの自覚を伴うものだ。
亀井

天平びと、大宮びとの、衰退は、これである。
それは、衰退ではなく、自覚なのである。

初期、中期の万葉の歌にも、我という言葉が入るが、それの我という意識と、別な「我」という意識である。

それは、
仏教伝来や漢詩文の影響によって促がされ、様々なかたちでの表現を迫られるわけだが、すでに人麿歌集に、「まきむくの、山辺とよみて行く水の、水泡のごとし世の人我は」のような一首がある。人麿の自作かどうか。また年代も不明だが、この傾向は、「世の中は空しきもの」「うつせみの代は常なし」と言ったしらべとなって、旅人、憶良、家持なまでつづいているし、同時に、漢詩文の方からは、「遊」と「仙」と「隠」の影響をうけたことも指摘しておいた。
と、亀井は、言う。

自我というものの、自覚である。

今までの、私とは、違う、私の存在の在り方を、自覚した。
それは、学んだものである。
観念的なものを、学んだ。

これは、不安を生む。

亀井は、神人分離の精神を言うが・・・
それは、自然との分離と考えても良い。

それは、日本人だけのことではない。
人類の問題である。

自我意識の問題は、インドのみならず、西欧の哲学、思想で、延々と語られた問題である。

日本にも、その自我、この場合は、日本流の自我の問題である。

仏教の無常観は、これを土台にして、考えられたはずだ。

歌も漢詩も、次第に、その詩境に、一種の空虚感、虚無感が、現れてくる。

そこから様々な現世遊離のすがたがあらわれてくるし、或いは「事」と「言」とが密着せずに、自意識だけが回転してゆくような傾向もみられる。天平のいわゆる盛時を迎えるにつれて、特別の不安と動揺が次第に深まって行ったように思われる。
亀井

自意識・・・
自我の新たな目覚め・・・
それは、実は、新鮮な目覚めである。

それに、戸惑ったのが、天平びとである。

亀井の引用を少し長いが、掲載する。

ところで私は万葉集を読みながら、時々こんなことを考える。作者名のあきらかな人々の中には、当時の政治の最高責任者はむろん、高位高官の人が少なくない。初期万葉びとは言うまでもない。・・・
今日、「万葉びと」の名で政治家の姿を連想するのはむずかしいが、彼らの多くは政治家であった。私のいう空虚感は人生観や詩境の問題だけではなく、時代の政治とも関連しているのではないかということである。

政治的陰謀や駆引、また一身上の進退、自分の属する氏族への顧慮、派閥の問題、支配者としての民衆の統治など、彼らは政治のなまなましい現実にふれていた筈だ。・・・

万葉集の中に、あからさまな政治批判や風刺の歌が、幾編かはあってもよさそうなものだ。下級の官人から出てもいいし、作者未詳の民衆でもよい。いわゆる「政治詩」と言ったものは一篇もない。採集の過程で削除されたか。

と、いうことである。

自我の意識と、政治的配慮・・・

しかし、民衆の中にも、政治的は、皆無である。

防人の歌にしても、政治批判は無い。

仏教と、政治の歌が皆無であるという、事実。
編纂者の作為があるのか・・・
何とも、不明である。

再度、自我の意識に戻ると、日本には、主語が無い文が多い。
その代表な物語は、源氏物語である。
そして、それは、現在に至るまで、続いている。

たゆたふ・・・たゆたひ・・・
曖昧さ・・・

自我を強烈に意識すると、日本人は、とても、不安になるようである。
これは、風土の問題か・・・

江戸の、松尾芭蕉でさえ、松のことは、松に、竹のことは、竹に習え、と言うのである。
つまり、自然とつながる意識が存在しているという、日本人の精神である。

自然との同通は、縄文期から発生した、心情である。
それは、心情であり、世界の何処にも無い、自我意識である。

つまり、つながる意識である。
万葉の歌に、亡き人を偲ぶと、雲や雨が、亡き人とつながる。
更に、煙が立つと、亡き人の心と、見る。

それが、漢詩や、仏教により、強烈に自我というものを、意識する事を求められたとすると。いや、意識せざるを得ない時代になるのである。

それは、進化でもある。
精神の進化とも言える。

現代から見れば、野蛮な行為も多々あるが、当時は、それを現在のような野蛮な意識を持たなかった。

時代は、進化し、更に、人間の精神も進化するということである。

そして、多分に日本の場合は、外から来たものに、大きく影響されるのである。
それは、周囲が海に囲まれている、島国という、風土の問題である。

posted by 天山 at 06:33| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月05日

国を愛して何が悪い。159

仏教信仰そのものが歌の対象にならなかったように、実際政治も万葉びとは歌わなかったようだ。
亀井

政治の観念が、今日とは異質のものであり、もし歌うとすれば「すめらみこともち」の「まつりごと」への寿詞よごと的形態をとる。つまり言霊美の方へ変化してしまう。それだけに、その背後に秘められたものがあった筈だ。
亀井

それが、天平がもたらした、政治の空虚感ということになるようだ。

八世紀は、政治面から言えば、藤原家と僧侶の陰謀の歴史である。しかも七世紀のそれと比べると陰性だ。律令国家は整備され、華やかな儀式や遊宴の行なわれた反面に、人々は次第に空虚感を味わったのではなかろうか。少なくとも旅人、憶良以後の歌に、七世紀にはみられない憂いが宿っているように思われる。
亀井

これは、大伴家持について紹介する際に、十分見つめてみたいところである。

亀井は、こういう場合に、辛い思いをしたのは、宮廷歌人たちだと言う。

それは、身分が低くても、天皇讃歌などの歌を作らなければならない。
そのとき、政治の暗さ、葛藤を意識し、空虚感を抱いたら、どうするのか・・・

七世紀より、安定した政治であるが、しかし、陰謀渦巻く時代である。
それは、支配者の中に存在する。
天皇の政治ではない。
天皇に、まつわる人たちの政治である。

当然、様々な、陰謀があるだろう。
ここで、僧侶も混じるということが、肝心である。
一体、僧侶たちは、何をしていたのか・・・

政治の中に入り込むという、状態である。
それは、一般の大衆には、見えない世界である。
しかし、その政治の様を見ていた人々もいる。

藤原氏は、大化改新で、活躍した、中臣鎌足の子孫である。
更に、遡れば、天皇家に仕える高い身分でもある。

神話の時代から、存在していた家柄だ。

藤原不比等以来の藤原家の政策をみると、天武の思い出を打ち消すように仕向けたのではないかと疑われる。天武の皇孫長屋王の死によって、とどめを刺したとも言える。そういう政治的背景も考慮する必要があろう。
亀井

ここでは、それらの歌を取り上げないでおく。

歌を取り上げて、説明を始めると、終わらなくなる。

要するに、歌の調べが、変化してゆくのである。
特に、万葉の長歌である。

それは、初期万葉の歌とは違う、弱さである。
その弱さを、繊細として、評価してもいいが。

文化的には、大量の漢文の書物が、溢れた。
それは、知識欲を充たすものであり、更に、自我の強烈な目覚めを促がすものとなった。

八世紀の人たちは、この自我と、政治の安定に対して、一種の虚無感を抱いた。
政治の安定は、その陰謀を見ずに、ただ、事象だけを見れば、の話である。

ただし、天平時代、聖武天皇の時代には、東大寺をはじめ、全国68ヶ所にわたる、国分寺の建立がある。

亀井は、古代史における、空前絶後の最大のエネルギーをかけたと言われる行為である。

八世紀は巨大建築の時代と呼んでもいいほどだ。それは一体何を意味したのか。いまふりかえってみると異常である。
亀井

確かに、異常なエネルギーを掛けて、建造物が造られている。

あたかも国土そのものが極彩色の蜃気楼のように浮かんでくる。まさに空前絶後の大事業にちがいないが、空前絶後の大浪費であったようにも思われる。
亀井

だが、それは、仏教の第一義ではない。
天武時代は、国家仏教として、だが、聖武天皇になると、仏教国家の形相となるのである。

更に、僧侶というものの、特殊な階級が膨張する。
更に、政治の中にも介入する。

これは、僧侶の堕落である。

つまり、天平の仏教とは、宗教の名に値しないのである。
それは、大陸から伝来した、大乗という仏教の故か否か。

簡単に言えば、日本仏教には、行という、仏教としては、最も大切なものが、欠落していた。
後に、空海によって、行らしきものが、行なわれるが・・・

それは、大陸、中国仏教のせいもある。
その仏教は、単なる、論としての仏教であった。
良く言えば、哲学、思想としての、仏教である。

一体、当時の僧侶は何を持って、僧侶となしたのか、それが、疑問だ。

私は寺院建立を決して否定しないが、もし国家的規模のもとに国分寺を建てるならば、そこに一つの条件が考えられなければならなかった筈だ。第一義の道に発した仏教の実践面を、いかに具体化するかという問題である。一切衆生の教化と救済を目的とするかぎり、その実践面とは、国分寺の場合は、何よりもまず四箇院の充実でなければならないということである。
亀井

それは、貧窮の人々に薬を施す所、施薬院、貧者や身寄りのない人々の病気を治す所、療病院、飢えた人々に食糧を与える所、悲田院、修行し思索する所、すなわち金堂と同じ、敬田院、である。

だが、そういう形跡は、見られないのだ。

posted by 天山 at 06:28| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月06日

国を愛して何が悪い160

時に、歴史は、大きな浪費を示すことがある。
天平仏教建造も、その一つである。

現在、その浪費の果ての、天平の名残を見ることが出来る。
多くの天平仏、そして国宝である、正倉院御物である。

「古代美術の精華」として誇り、天平の盛時をそこにみるのだが、実は天平仏教の一大偏向のたまものと言ってよい。要するにそれは過剰なのだ。いつの時代でも、異質の外来文化の強烈な影響をうけるとき、必ず伴う一種の「肥大化現象」のようなものかもしれない。
亀井

それは、唐化一辺倒のもたらした、大浪費であり、その過剰の故に、天平時代のエネルギーの、特徴が見えるのである。

だが
純粋な宗教的行為と芸術的行為との相克という主題は、この時代にはあらわれていない。
と、亀井は、言う。

私は、その芸術的行為が、信仰として、生きていたと思う。
信仰というもの、様々なタイプがある。
当時は、それが、信仰だったと、考えるのである。

天平13年、741年に、国分寺建立の詔が、発せられている。
その詔に、高さ一丈六尺の釈迦像を、国ごとに造らしめたことが書かれている。
これが、国分寺の本尊である。

また、各七十塔には、聖武天皇の、金字金光明最勝王経一部を置くことになっている。
この経典を、国家統一の精神的基軸たらしめたのである。

国分寺は、すべて国府の近くの景勝地に南面して、建てられた。

豪族、農民の労働奉仕とものに、大事業が行なわれたが・・・
容易にはかどらず、天平19年には、催促の詔が発せられている。

「仏教国家」というかたちでの強力な政治的統制を促進しようとしたことがうかがわれる。
亀井

国家統一・・・
それは、すでに天皇により、治まっているはずだが。
精神的統一か・・・

何故、それ程に、情熱を掛けて、行なわれたのか、不思議である。

その動機である。

それは、時代の不安である。
天平7年から9年にかけて、天然痘の全国的な大流行があったことが、続紀に記されている。それは、古代最大のものだった。

九州からはじまり、大和全域に侵入して、人民の死と、田畑の荒廃が続き、当時の人は、祟りを思うのである。

更に、天平9年には、藤原家の、危機の年だった。
不比等の四子、同時政界の首脳だった者も、天然痘で、死んだ。

聖武天皇の皇后、光明皇后の肉親である。

祟りの思想・・・
これは、長屋王の祟りか・・・
長屋王は、藤原の謀略により、自殺せしめられた。
天平元年のことである。

政略結婚に対する、長屋王の反対。
そして、藤原の勢力を危惧した、長屋王である。

光明皇后は、仏教信仰の篤い御方として、伝説化されているが・・・

一族に襲い掛かった不幸に、戦慄したことであろうと、亀井は、言う。

祟り信仰・・・
これにより、日本の哲学者の一人は、日本の信仰は、祟り神への、怖れの信仰であると、異なことを言うが、違う。

祟りとは、自然崇敬の日本古代人の、当たり前の感覚だった。
祟り神、神である。

自然が荒れると、荒ぶる神と、呼ぶ。

ここで、特徴的なことは、聖武天皇である。
皇太子時代から、仏教を学んでいた。

時代の不安と政治的危機に直面して、甚だしい心労をかさねたことがその詔からうかがわれる。
亀井

その、詔である。
兎に角、すべての責任は、私にあるという、詔が数多いのである。

原文は難しく掲載しないが。

朕の不徳を以って致すところなり・・・
百姓、おおみたから、の何の罪ありてか・・・
思うに朕が・・・
朕が訓導の明らかざるによりて・・・

おほみたからの、あづかるに非ず・・・

繰り返される、朕の責任である。

災害にのぞんでの天皇の自責(不徳と罪)とその告白が、聖武天皇の場合甚だ顕著だということである。
亀井

当時の、天災と病気には、打つ手がなかったのである。

我が身、一身にそれを受けるという、自覚は、政の主、統治者の主としての、自覚である。

国分寺の建立の動機の一つと、考えてもよい。

更に天皇は、藤原広嗣の乱を、天平12年に経験する。
それは、天皇側近の、僧玄ぼう、吉備真備をはぶくことを奏上したが、受け入れられず、九州を本拠として、反乱を起こした。

一時は、奈良中部にも不安を与えたのである。

聖武天皇の奈良脱出も、この頃である。

posted by 天山 at 07:07| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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