2014年07月04日

国を愛して何が悪い141

古事記の中には、神という言葉から想像されるような、「神聖な神」は原則として存在しない。生(或いは性)と生産の秘密に直結した或る意味で極めて即物的なもの(時には猥雑なものすら)が「神々」と呼ばれ乃至はその行為とされている。
亀井勝一郎

神々と呼ばれ、乃至は、その行為とされている。
実は、すべて行為のことである。

漢語の神という文字を当てただけである。

唯一絶対の神という、観念を持たないのである。
そして、神という言葉に最も近いものは、自然である。
そして、その自然の働きに、行為に、神という文字を当てた。

人間の観念の神というものを、必要としないということである。

日の神としての天照大神が神聖視されているようにみえるが、実は神々の中でも最も抽象的な存在であって、さきに述べた産霊神が、生殖、農耕、言語表現等のうちに、様々にかたちを変えて具体的に偏在する根元の活力となっているようである。
亀井

具体的に偏在する。
まさに、自然の働きである。

唯一絶対の神という、観念を作り上げた民族は、民族の混乱を静めるために、必要だった。

しかし、日本民族は、それを必要としなかった。

唯一絶対の神観念を持つ民族の、野蛮さを見るがいい。
兎に角、いつも、争いである。
争いが、絶えたことは、無い。

何事であれ、「生む」こと、「あらわれる」ということのふしぎ、またその過程についての驚きや歓喜を、古代人は第一義的なものとして口伝したらしい。「神々」という言葉のひびきのうちには、自然や人間に対する彼らの新鮮な好奇心が宿っていた筈だ。またその点についての表現が美しく豊富であればあるほど、神々を喜ばせることだと信じていたようである。
亀井

実に、平和な民族である。

日本には、欧米の神観念は、皆無である。
それは、考え方が、全く違うということだ。

更に、アラブの神観念も、同じく、唯一絶対である。

それは、それぞれの、風土によると、理解するが・・・
また、民族の性格にもよるものである。

生き物を殺さないという、仏教も、風土によるものが、大きい。

だから、日本の神という、観念は、霊に近いものである。
霊は、数多く存在する。

そこには、神同士の争いは、無い。

更に、
ところで、他方にはこれを破壊するものがある。生殖に対しては死、農耕に対しては天災、また人間の過失もあるが、生(或いは性)の歓喜の表現として言うなら、こういう点における表現力は貧しい。「罪」という言葉も出てくるが、それを裁く、言わば罪を罪として自覚させるような峻厳な神は存在しない。したがってそのことに関する深い「神語」もない。すさのをのみこと唯ひとり、暗い情熱を抱いて彷徨しているのが印象に残るだけだ。
亀井

この、罪という、漢語をどのように、理解し、表現に使用したのか・・・
実は、この罪という言葉の意味合いのものは、どこにも無いのである。

延喜五年、905年に編纂された、延喜式の中に、六月の晦の大祓、という祝詞がある。現在も、六月、十二月の末日に使用されている、祝詞である。

そこには、仏教以前の罪の意識が残る。

天つ罪と、国つ罪である。
その文は、省略するが、天つ罪は、八種類を上げている。
それは、農耕生活を破壊する行為である。
人為であれ、天災であれ、それを罪の名として、呼ぶ。
だが、この場合は、どちらかというと、災いという意味が強い。

国つ罪は、十二種類である。
それらは、人間の共同生活に取り、忌むべき行為である。
病気や、虫などの害も、含まれていて、穢れという意味合いが強い。

更に、罪に関する、歌詠みは、一つも無いことである。

生まれた時点から、原罪があるとする、キリスト教などとは、全く違う感覚である。

人に、罪意識を覚えさせて、支配するという、支配者、為政者のものとは、別物である。

万が一、罪を犯したとしても、罪の自覚が見えないのである。
また、その表現も皆無である。

一体、これは、どういうことか・・・
知性の遅れか。

旧約聖書などと、比べてみても、全く違うのである。
あちらは、神が罰を与える。
その大半は、殺される。

旧約聖書は、典型的な父系型である。
しかし、日本神話の場合は、母系型である。

つまり、母系型は、最も、自然に使い感覚を持つ。

古代文明の平和的な状態は、母系型が、主流だった。
それが、父系型に移行するにつれて、様々な制約が生まれた。

更に、歪な人間性である。
そこには、強制という暴力が付きまとうのである。


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2014年07月05日

国を愛して何が悪い142

罪の観念よりも前に、まず「わざはひ」と「けがれ」という意識が、古代にさかのぼるほど強かったと言えるだろう。祝詞をみても、「犯してはならぬ」という神の絶対的命令とか戒律のような調子は全然ない。神々の存在が即物的であったように、「わざはひ」「けがれ」も即物的であって、事の起こったとき、受動的に「罪」という言葉が発せられたのではなかろうか。当初はこの言葉もなかった筈だ。漢字の「罪」をあてたわけだが、「つみ」についての思索、その感情的表現すらも稀薄である。
亀井

確かに、そのようである。
だが、本来、ツミという言葉は、恵みを表していた。
海神、わだつみ・・・

海の神と書いて、わだつみ、と呼ぶ。
この場合は、ツミはカミであり、恵みである。

漢字の、罪、ザイという言葉を、神の別の面として、捉えた可能性がある。
それが、災いである。

そして、その神を、荒ぶる神と、呼んだ。

山神、やまつみ、も同じである。

時に神々が、荒ぶる神にもなるという・・・

更に、面白いことに、死後の世界である、黄泉の国へ行った時にも、生前の罪に対する、裁きが無いのである。
これは、世界の神話を通しても、異例のことである。

それほどに、日本の風土が、人に優しかったと言える。

ただし、仏教伝来以降は、地獄という観念が植え付けられて、地獄における、裁きという、観念が生まれる。

最初の死後の世界、黄泉の国は、ただ、汚濁、災禍の世界に過ぎない。

それも、風土にあると、いえる。
日本の古代人は、地震、噴火、洪水、台風、旱魃などに、しばしば襲われた程度であり、異民族との虐殺の歴史などは、皆無である。
その自然の様のみ、恐怖を抱いた。
そして、その恐怖を、荒ぶる神として、対処してきた。

その、荒ぶる神、自然をなだめるための、祈りが第一義にあった。
それが、祝詞、言葉である。

自然をなだめるように、罪そのものも、なだめるという形を作り上げた。

それは、自然の中に、安らかに、解消しようとするものである。

そこで、言霊の美の作用が生まれる。
祓いの祝詞の一部を見ると、
朝風、夕風の吹き払う事の如く・・・
大船を、ヘ解き放ち、トモ解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く・・・
残る罪はあらじと祓え給ひ清めたまう事を・・・
と、ある。

一種の言語魔術の「美」によって、神々をなだめ、「罪」を吹き掃い、雲散霧消させようとつとめていることだ。「祝詞」は目で読むものではなく、唱えるものであるから、そのときの音声もむろん影響してくるだろう。
亀井

現代に至るまで、この言葉の「美意識」によって、日本人は、清めることをしているのである。

そして、それらの「罪」は、すべて海に向う。
すると、海にいます、神々が、それを受け取り、最後に、消滅させてしまうという。

つまり、祓いに使用したものを、川、海に流して、それらの行為が終わるのである。

水に流す・・・
今も、日本人は、その言葉によって、すべてを、消滅、解決してしまう能力を持つ。

一度、水に流すことによって、後に引かないのである。
これは、智恵である。

或る民族のように、千年前の恨みを持ち続けるという、不健康な精神は無い。

自然が、絶えず、変転し、更に、新しくなるように、いつも、新しく、清くあるべきだという、考え方である。

ただし、仏教伝来によって・・・
それが、大変革を強いられることになる。

それが、表に現れてくるのが、平安期からである。

平安期から中世を経て、近世にいたるまで、日本人の精神史をつらぬくひとつの強い線があるとすれば無常観である。
亀井

しかし無常観が無常感となり、さらに無常哀感、美感に転移してゆく過程と、無常美感となってはじめて日本人の心にしみわたって行ったのではないかという点も・・・
同時に、日本では、無常感(或いは美感)が罪悪感を上回ってそれを代行したのではないか。そして無常「観」が「感」となり「美感」となるこの転移の過程に、さきの「さすらひ」という観念が作用してきたのではいか。
亀井

この、さすらい、とは、祝詞の後半の、罪を、さすらい失うという言葉からのものだ。

さすらひ、失う・・・
罪の解消を、さすらひ失う、という感覚である。

これは、日本人特有の考え方であり、捉え方である。

亀井は、この「さすらひ」と「無常美感」が結合してゆくと、見ている。
であるから、仏教による、罪悪感も、日本人独特の受け取り方、受け入れ方をしたようである。

仏教が、日本化される過程にも、それは、大きな影響を与えた。
仏教受容の過程は、また、日本人の精神史の大きな、テーマである。
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2014年07月06日

国を愛して何が悪い143

古代人は、死と死骸というものを潔癖に区別していたらしい。罪が「災ひ」として即物的に考えられていたように、死骸に対しても極めて即物的で、不潔感や嫌悪の情を露骨に示している。
亀井

古事記の、イザナミノミコトが死んだ様は、とても迫力がある程、醜いものである。

死ぬことと、死骸を別にしていた。
死骸は、穢れたものである。
死は、魂が抜け出た状態である。

つまり、死者の魂は、肉体を離れて、山へ帰ると、考えられた。
そして、山から、空に、あるいは、海原に流れて消える。

死後についての、統一した観念は無かったのである。
ただ、死者は、年に一度、戻ってくる。

更に、山にいる死者の魂は、見守っている。

葬送にしても、全くそっけないものである。
集落の者たちが、野辺の送りをして、死骸を埋める。

あるいは、自然の中に放置する。

現在でも、少数民族の葬送を見ると、古代の写しのような葬送が見える。
タイ北部のカレン族の村では、死者が出ると、一晩、その死者の周りを若者たちが、ぐるぐると回り、お前は死んだ、死んだ国に行きなさい、と唱えて、翌日には、森の決められた場所に、埋める、あるいは、そのまま放置する。

葬送の儀式といえば、それだけである。

現在の日本は、多く仏教式による、葬儀が行なわれるが、元々、仏教は、葬式を行なわなかった。
勿論、神道もそうである。

すべて、野辺の送りであった。

鎌倉時代になり、戦乱の後に、多くの武者の死骸を見て、名も無き僧たちが、その死骸に読経して、葬ったのが、はじめである。

だが、それでも、鎌倉時代は、死骸を道に捨てていた。
あるいは、森の中に・・・

江戸時代になり、檀家制の元で、仏教が、葬式を請け負うことになる。

古事記全体を通して、最も印象深いのは、やまと・たけるの場合で、周知のとおり、白鳥と化して飛び去る。
亀井

このときの「天」はまた「海」に通じていたのかもしれない。大海原の水平線では、天と海は一つになってみえるところから、古代人は双方の言葉を同じ意味に使うことがあった。その水平線へ消えてゆく一羽の白鳥という幻想は、死後の行方について抱いた古代人の、最も美しい信仰と言っていいのではなかろうか。
亀井

天も海も、アマと読む。
共に、同じ意味というのが、興味深い。

結局、死を隠れると表現するように、自然の中に、隠れることを言う。

死骸は、もうモノの一つである。

それよりも、肉体から離れた魂の、行方を求めた。
つまり、完全に魂の存在は、確固として、存在していたのである。

しかし、一つ不思議なことがある。
古事記の中に登場する、多くの神々の、また、登場人物の像というものが、一つも無いということである。

その疑問は、数多くの仏像が造られたことが事実であり、それは、造形美術として、今なお、拝む対象、また、美術的価値を持って、存在しているということである。

何故、神像などが、造られなかったのか・・・

古事記の成立した元明朝は、白鳳から天平へ移る仏像の最盛期にあたる。そうならばそれに刺激されて、仏像と併行して神像がおびただしく制作されてもよかった筈だと思うが、いわゆる「神像石」以外には存在しない。
亀井

それは、神々は、拝む対象でも、崇拝する対象でもなく、共に存在するものであったと、考える。

それが、祭りである。
その祭りの際に、神呼びを行い、共に歌い、踊り、食すのである。
そして、終わると、元にお戻り頂く。

人間に遠い、存在ではなかった。

だが、一つだけ、神像に代わるものがあった。
それは、天照大神の鏡である。
それは、剣と玉と共に、古代で最も尊重されたものである。

天孫降臨の際に、天照が、これを私と思い、この宝鏡を見ることは、まさに私を見るが如くである、と述べる。

はじめて鏡をみたときの古代人の心の中には、自己発見の驚きとともに、それを持っている人の魂が宿るという信仰があったのであろう。「鏡」は「像」と同一視されていたこと・・
鏡における魂の存在を強く信じていたところから、神像制作をかえりみなかったともいえるだろうか。
亀井

それらは、大陸から伝来したものである。
それが、古事記、日本書紀に、高天原から云々とは、まさに、神話である。

それらは、後に、天皇の存在を証明する、三種の神器となるものである。
その神話を元に、今も尚、天皇の存在証明となっているというのが、驚嘆することである。

神武建国から、今年は、2674年である。
posted by 天山 at 05:23| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月30日

国を愛して何が悪い144

古代人の意識を探るのは、難しい。
しかし、子供の意識を探ることは、方法がある。

まだ、意識以前の状態・・・
朦朧として、あらゆる存在と、自分が結び付いているという、感覚。

すべてが、自分と一緒であるという、感覚である。
古代人の意識も、そのような朦朧とした時期があった。

ところが、成長するにつれて、次第に、自己の意識が明確になってくる。
すると、周囲のモノに対する感覚も変化する。
自分と違うモノである。

それらと、どのように対座するのか・・・

書紀の成立したのは、元正天皇(奈良朝)の養老四年(西暦720)である。古事記が集録されてからわずか八年の後だから、両書はほぼ同時代の産物といってよい。またその動機を辿ると、どちらも天武天皇の発意に由る。それにも拘らず、なぜこれほどの異質の書物となってあらわれたのか。古代精神を語るときの大きな問題だと思う。単に異なった二つの歴史観というものではあるまい。また日本固有の古語と漢語という表現上だけの問題でもない。
亀井勝一郎

古事記を見れば、神話であり、神々の物語である。
だが、日本書紀は、人間史中心である。

亀井は、神人分離を自覚した、古代人の苦悩が、この二つの書を通して、また表現により、神と人との、別れの途上であったと、解釈する。

神と人との別れの途上で味わった様々の矛盾と不安、ここに問題の核心があると思う。
亀井

古事記の上巻は、神々の物語。
そして、中巻は、神とその間の遠くない状態。しかし、神人分離の兆しが現れてくる。
下巻は、最後の方に行くと、人間史となってくる。だが、実に簡単な、天皇の系図、即位、御陵である。
最後の推古天皇は、二行で終わる。

更に、面白いことは、仏教伝来については、無視しているのである。

日本書記の場合は、資料という観念が明確になってくる。
神々の物語も、様々な別伝をそのままに記載し、比較出来るようになっている。

漢文のために、古事記とは、一線を画す。

そして、祟神天皇から以後は、人間史の生々しさが出てくる。

中でも、祟神天皇の世の、大事件は、「同床共殿」からの離脱ということである。
つまり、天照を示す、鏡と天皇は共にあるという、決まりを、破るのだ。

鏡を皇居から、離したのである。
つまり、今までの伝統の廃止である。

それが、大和の笠縫、つまり、現在の伊勢にお鎮まり願ったのである。

亀井は、仔細は、解らないと言うが・・・

当時の社会不安・・・
伝性病の発生、飢饉など・・・

その記述は、鏡という、天照大神との、同床共殿に堪えられなかったとある。
これは、異なことである。

今までの伝統であると、述べているのに・・・
不思議だ。

そこで、この鏡は、実際、同床共殿とあるが、何かの訳がある。
それは、私の考えで言えば、実際は、そうではなかったのたのである。

その鏡は、富士山の阿曽大神宮に祀られてあった。
富士山の麓とは、富士王朝の、高天原府が存在した場所である。
これは、正史にはない話である。

天皇即位の際は、富士王朝が神器を携えて、即位の儀を執り行ったのである。

ところが、祟神天皇は、それを奪い、皇居に御祀りした。
ところが、書記にある「神の勢いに畏りて」・・・
堪えられないと、鏡、神の天照を、離したのである。

もし、伝統だというならば、その書き込みは、おかしいのである。

亀井は、
八世紀の奈良朝に成立した書記であるから、少なくとも天武朝以降の社会不安、或いは時代の危機感を反映し、神人分離の自覚過程を過去にさかのぼってしらべたとき、書紀編纂者たちは、祟神朝にその最初の兆しを発見したのかもしれない。
と、書く。

正史からも、別伝からも、いずれにしろ、朦朧たる意識から、目覚めが発生したということだ。

人間の時代である。

つまり、天皇の人間宣言である。
敗戦後、昭和天皇が、人間宣言をしたというが・・・

もう、とうに天皇は、人間であったことが、解るのである。

天皇の神格の、崩壊を感じた時期が、古代人にあったということだ。

神々そのものであるか、或いは神と人のあわいは未だ遠くないか、そういう状態から、逆に神々を畏れ、仰ぎ、信ずる人間としての天皇が誕生したということだ。「神祇を礼い祭ひ、己を克め、身を勤めて、日に一日を慎む」(垂仁紀)と先帝を追慕していることからも推察される。そういう人間として、はじめて統治に成功したために、「はつくにしらしし、すめらみこと」と称されたのではなかろうか。
亀井 (読みやすいように書き直している)

天皇が人間天皇として登場するだけではなく、当時の古代人全般が、神々を「求めねばならぬもの」として自覚する過程を指す。
亀井

そして、神々は、「神ながらの道」に転化し、その「神ながら」も、多様な扱い方をされるようになった。

亀井は、精神の流離の始まったことをも意味する。
と、言う。

ただし、私は、この当時に出来上がった、神=自然、そして、共生と共感は、今も脈々と続いて、日本人の心の内に宿ると、みている。

ちなみに、垂仁天皇の皇女が、伊勢神宮の創設者である。
祟神天皇の皇女の後を継いだのは、倭姫である。
その、職を斎宮と呼ぶ。

現在は、池田厚子様の後を、黒田清子様が、継いでいらっしゃる。

posted by 天山 at 05:07| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月31日

国を愛して何が悪い145

古代は日本史における最初の長年月にわたる民族変貌期である。大陸文化との、或るときは緩慢な、或るときは激しい接触によって、日本民族が大変化を迫られた時期だ。
亀井

紀元前からの交通もあったが・・・
平安期を除く、六世紀半ばから、八世紀にわたり、変貌の激しさが解る。

欽明天皇から推古天皇、539年から630年。
孝徳天皇から推古天皇、645年から697年。
聖武天皇から光仁天皇、724年から780年。

この期間における、内外の主要事項、直面した課題・・・
亀井は、五つに要約している。
完結に紹介する。

第一は、大陸との外交関係。直接的には、朝鮮半島である。
四世紀頃には、すでに、日本軍の大規模な出征があった。それ以来、高句麗、新羅、百済との往来が激しくなった。
大和朝廷では、それにより、苦労が耐えなかった。
日本書記には、それらの事実が記載されている。

第二は、国内における、大氏族の私権拡大である。
天皇中心の統一国家であるが、天皇家を巡り、大氏族が内紛、陰謀、そして殺人、クーデター等の連続である。
また、帝位を巡る相克もある。

第三は、帰化人の影響である。
儒教、仏教思想をはじめ、様々な書物、新技術により、政治、経済、文化のあらゆる面に、活躍が見られる。
帰化人を無視して、古代文化の形成は、有り得ない。
そして、日本人との猛烈な混血作用である。
これも、民族変貌の重要な、要素だ。

第四に、仏教、儒教の伝来である。
民族を根幹において動揺させるのは、思想である。
更に、帰化人だけではなく、遣隋使、遣唐使、外来の僧により、仏教の浸透である。
奈良朝における、国分寺建立によって、仏教国家が成立した。
これは、重大な事柄である。

第五は、漢文字の伝来による、言語表現の革命である。
亀井は、これが、最大の事件だったと、言う。
外来の文字によって、口伝を表現しようとした、また、漢文字によって、新しい表現方法を見出したことである。

私は、漢文字も勿論、儒教と仏教、特に、仏教の影響を考える。

物部氏と蘇我氏の戦いは、氏族の闘いであり、仏教受容の闘いであった。
結果は、仏教国になる。

特に、聖徳太子の影響が大きい。

今までの、神ながらの道と、仏教という、審の神、となりのかみ、との、折り合いである。
そして、仏教は、その思想というより、まず、仏像から入ったことである。

古代人は、新しい神が、その姿を現して存在するということに、驚き、その像を持って、新しい、信仰の形を知ることになる。

それまでは、とても簡単な祭り事であったものが・・・
仏像によって、それを管理し、そして、拝むという行為を、驚きを持ってみたはずである。

更に、寺院の建立である。
神の社というものの、原型がある。

それが、国の寺を建てるという・・・
それ程、仏教の信仰だが、その時は、思想までには、至らない。

拝み、頼むものという、意識。
画期的なことだったはずだ。

漢文字による、観念というものの、発見も、驚きだっただろう。
地に水が染み入るように、古代人の精神の中に染み入ったものと、考える。

これら諸問題のもつ様々の矛盾や不安にかこまれ、それを危機として自覚したところから、国史編纂や仏教信仰が成立したとみてよかろう。
亀井

信仰というより、よく解らないがための、崇拝である。
日本人が、信仰というものを、深く実感するのは、鎌倉時代になる。
鎌倉仏教という、新興宗教の成立により、信仰というものの、姿が現れるのである。

蒙昧の中に、現れた仏像を、そのままに受け入れた。
そのような、作法は未だ無かった時代である。

百済王から贈られた、一つの仏像がきっかけだった。

更に、亀井は、一切触れていないが、道教の影響である。
これが、実に曲者である。
その姿を現さずに、ひっそりと、道教の考え方が入り込んできたのである。

それは、多く帰化人たちからである。
生活習慣のような形で、それが、古代日本に広まった。

その道教は、道教の専門家たちからではない。
道教の道士が、日本に伝道に来たということではなく、民衆道教といわれる道教が、入って来たのである。

今も、その伝統が、日本の伝統の中に隠れて存在している。
そして、後に、それらが、仏教を始め、日本の文化のあらゆるところに入り込んで行く。

表向きは、仏教、儒教、密教、陰陽道、山岳、修験者等々だが、それらに入り込んでいるのだ。
勿論、神社の中にもである。

現在、神社が出している、御札というものも、道教からのものである。
更に、お守りなども・・・

歴史の表に出ない、恐るべき、民衆道教の伝承である。
ちなみに、大陸の道教には、宗教としての、道教が存在する。
成立道教と呼ぶ。
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2014年08月01日

国を愛して何が悪い146

仏教伝来が、古代日本に与えた影響を考えることは、とても、重要なことだ。
ものの考え方、つまり、思想というものは、根本的な精神活動を促がすものになる。

仏教伝来は、欽明天皇から、推古天皇で、日本書記は、その当時のことを仔細に、説明している。

だが、
いま読んでみると、仏教というこの全く新しい思想に直面したとき、古代上流氏族の示した反応は、宗教的にはおそろしく張合いのにいものだった。
と、亀井は、書く。

少なくとも聖徳太子の出現までは、仏教伝来の過程とは、古代史上、同属間の流血の歴史であった。
亀井

そのことは、後で説明するが・・・
仏教というものが仏像によって、入って来たことが大きく関係していると、私は思う。

勿論、仏典も多く入ったが、目に見える形では、仏像である。
それが、拝む対象であることが、重要だ。

それ以前は、そのような拝むような対象にする、像は何一つ無い。

そして、古代の造形美術は、仏像制作の形で、昇華したのである。
その造形美術は、今尚、多くの人の心に、感動を与える。

だから、当時、仏教とは、新しく拝むもの、その対象として、成り立ったはずだ。

だが、そこで問題が起きる。
つまり、それを受け入れる氏族と、それに反対する氏族である。

仏教伝来の過程とは、書紀に即してみるかぎりでは、要するに蘇我一族独裁の確立過程であり、入鹿までをふくめると、蘇我一族三代にわたる一篇の殺人物語が構想されそうである。書紀の編纂者は、皮肉のつもりではなかったろうが、これが崇仏派の勝利の記録であった。
亀井

蘇我氏と、物部氏の氏族争いに発展する。
そして、蘇我氏が勝利した。

その間に、色々な事件があるが・・・省略する。

崇仏と殺人とは、矛盾なく、平然と行なわれたらしい。或いは矛盾の苦悩や告白があったとしても、伝わらなかったのであるか。一方でおびただしい血を流しながら、同時に最大の崇仏派といわれる蘇我馬子ほど奇怪な存在はない。
亀井

少し話は逸れるが、新しい宗教の受容に際しては、いつものことながら、殺人が行なわれる。それは、世界史全体に言える。

古い宗教を根絶やしにする。つまり、皆殺しにするのである。
それ程、宗教の持つ、狂気は、激しい。

そこで、元々の日本の、神ながらの道、との関係は、どのようなものになったのか。

ここで、当時、仏のことを、審神、となりのかみ、と呼んだことを加えておく。
隣の神という意識である。

それ以外に、何も知らないのである。
それ故に、日本の神々の祟りを怖れたのである。

「神ながら」と「仏教」との対立は、信仰内容についての対決などというものではなく、主としてこの「祟り」をめぐっての恐怖からの争いであったように思われる。それが政権争奪と露骨にむすびついて展開した。
亀井

つまり、蘇我馬子も、書紀では、その入信の様を、舎利の奇蹟と伝えている。

奇蹟とか現世利益とか、いづれにしても功利的な性格をつよく帯びた信仰であったらしい。
と、亀井も、書く。

仏教の教義や、教えなどというものではない。

そして、蘇我一族が、勝利してから、人々は、自然の異変に対しては、神々に祈り、病気については、仏に念ずるという、形に進んで行くのである。

仏教礼拝は、とくに病苦にむすびついていたようである。たとえば法隆寺建立の発願の動機は、用明天皇の病気であり、薬師寺建立の発願の動機も、天武帝皇后の病気である。
亀井

仏教の役割が、病に対するものになって行った過程がある。
それは、新式の加持祈祷から、薬博士、採薬師などを伴ったことによる。

新しい文化への、医学的信頼が芽生えた。
仏教が、その代わりになったと、言えるのである。

それは、当時としては、最大の魅力だった。
仏教というものが、浸透して行ったのは、まず病苦からの解放である。

奈良朝に至っても、同じことで、特に、薬というものが、信仰と結び付いたといえる。
そして、それと合わせての、加持祈祷である。

その意味で功利的だが、しかしいかなる信仰も、動機のなかにはこの種の功利性をふくむものだ。直接的な恐怖が存するからである。
亀井

それでは、神ながらの道、とは、曖昧であるが、区別があったといえる。

多くの自然災害では、神ながらの道、を。
病の時は、仏を念ずる。

以後、神仏混合が生まれる素地が出来上がる。

殺人があったとはいえ、大量殺人ではない。
氏族の争いである。
一般民衆が、犠牲になったということではないのが、幸運だった。

これが、西欧、中東などの場では、民族虐殺ということに、発展する。
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2014年08月02日

国を愛して何が悪い147

八百万の神々と、その裔と、様々の自然現象の神格化と、一種の汎神的性格をもつ「神ながら」は、もとより宗教的体系ではない。多神教とか汎神論という名称も実は不適当であり、そもそも「神道」ですらない。宣長の指摘したように、その点についてはおよそ「道々しき意も語も見えず」であり、その存在とは「おのづからのまにまに」という以外にないようなものだ。神像も所有しなかった。玉と鏡と剣によって象徴され、神と人との交わりの上で具体的に捕捉しうるものとしては、言霊美以外にない。神語、祝詞、寿詞、うた等の表現を通して、言霊美によって、神々の作用を感受し、或いは反応する。
亀井

更に、
外来思想の刺激に対して、論理的に反応を呈するようないかなる構造も所有しないのである。無体系のまま、結果としては、無限の抱擁性を示しながらの「神ながら」である。
亀井

まさに、今、現在もそのようである。
神仏混合は、仏教側によって、成ったものであり、神ながらの道からは、別に歩み寄りは無い。その必要が無かったのである。

つまり、抱擁性というもの。
仏教、儒教、さらには、道教というものの影響も、その抱擁性の中に取り込んでしまった。
恐るべき、抱擁性である。

対して、仏教は、人間の生死についての思索、来世の明確な観念を持つ。
そして、思想としては、体系的である。
しかし、一つだけ、神ながらの道と共通するのは、強烈な反撃、非寛容は無い。

一神教のような、排他的、非寛容は、無いのである。

ここに、
「神ながら」と仏教との、こうした性格から、ここには西洋的な意味での「転身」は生じない。つまり「神ながら」を徹底的に否定し、それを捨てて仏教へ帰依するとか、逆に仏教を峻拒して、「神ながら」を固執するといった、肯定否定の強烈な態度はみられない。異質的な信仰は、同一人の内部でも共存していたのである。
亀井
ということになる。

古代日本の、もし、それを信仰というならば、実に、宗教というものの、姿が、全く、異なるのである。

宗教とは、レリジョンという英語であり、更に、宗教とは、ユダヤ、キリスト、イスラム教に言えるのである。

日本には、宗教と言えるものが無いと、断定した方が、すっきりする。

西欧の宗教学が、輸入されてから、宗教という観念が発達し、更には、日本の神道までも、宗教と判断されるようになった。

神道は、宗教ではないとも、言える。
古代からの、伝統である。

だから、宗教としての神道とも、言えないと、亀井は言う。

天皇からはじめ、氏族たちも、神祇祭祀と仏教礼拝を、同時に行なっている。

更に、出家した後も、神々、神社に対して、軽んずることがなかった。

これは、奇跡的にことである。

シルクロードの仏教国は、現在は、皆、イスラムになっている。
それには、大量虐殺が、行なわれた。

一神教が、関わると、そのような事態に陥るのが、当然なのである。
日本には、そのようなことが、無かった。

私は、ここに、日本人の無限抱擁性を見る。

その、無限抱擁性が、民族の特徴だとすると、日本は、日本文明圏といえるし、また、世界の何処にも無い、国と言える。
そして、そこから、あらゆる外来の思想から、技術から、何から何まで、自国のものにしてしまう、特技、才能があると、言える。

明治期、西洋から、多くのことを学んだが、結局、皆々、日本流にして、咀嚼し、そして、日本製を作り上げてしまったのである。

見事な民族である。

無限抱擁性とは、母性的である。
つまり、日本の精神を作り上げたものは、その、母性的精神であるとも、言える。

縄文期、日本は、遺伝子学から、人種の坩堝だったことが、証明されている。
そこにも、何らかの、影響があるのかもしれない。

更に、縄文期は、争いというものが、無かったことも解っている。
争うことなく、共生、共存出来た、風土であったとも言えるのだ。

さて、亀井氏の、言う、神人分離の考え方からも、その自覚が、芽生えてきた時期の、仏教伝来であった。

「神ながら」の状態そのものが、次第に変化し、或いは崩壊し、神から別れを開始した人間と、人間であることの悲劇の自覚の発生と、この過程(私は精神の流離とも呼んできた)に対して、応えなければならない何ものかが必要であったということだ。
亀井

人間としての、自覚・・・
それは、様々な自然現象、更に、病などによる、無力など。
曖昧な精神的意識から、明確になりつつある、精神的自覚である。

ただし、それでも、仏教は、まだ、多くの人の心に、語り掛けるほどの思想を提示しなかった。また、それを欲しなかった。

ただ、一人、聖徳太子が存在するのみ。
仏教の内面化を試みた人であった。

彼は、仏典の解釈まで、書き残している。
そこには、仏教伝来と、蘇我一族を巡る、古代史上最大の、同族殺戮の続いた過程が、大きく影響していたと思われる。
彼も、蘇我家の血を引く者の一人だった。
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2014年08月03日

国を愛して何が悪い148

仏教伝来の過程とは、蘇我一族をめぐっての、古代史上、最大の同族殺戮のつづいた過程であった。

馬子、蝦夷、入鹿と、蘇我三代の間に、起こった悲劇である。
馬子の独裁確立までには、一帝、二皇子、二氏族の巨頭、帰化人顧問らが、殺害されている。
勿論、他にも、多くの人の死がある。

そして、三代に殺された主なる人々は、血族であったという、事実である。

しかし、蘇我氏は、同時に地方では、しきりに寺を建て、仏教崇拝を行なっている。

ところで・・・
もし、蘇我氏が天皇家を廃して、王朝を創ったならば・・・
今の、日本の姿は、無かった。
権力闘争の歴史が、延々として、続いたことだろう。

天皇家の存続が、日本という国の、骨子、基礎となり、権威というもので、国を統一出来たと言える。

一時期の、戦国時代は、実に不幸な時期である。
だが、それでも、天皇の権威は、失われることがなかった。
また、武家たちも、それを考えることがなかった。

天皇を敵にすることは、国民を敵にすることと、同じとして、考えられたのである。
それは、天皇が、国民の側に立っているからである。

その天皇には、誰一人、敵は存在しなかった。

皇居の佇まいを見れば、一目瞭然である。
いつでも、天皇を襲うことが出来る程度の、建物だった。

蘇我氏は、古代の最初の、朝敵と言える、家系だったと、私は言う。

馬子の父は、朝鮮からやってきた、帰化人である。
馬子で、二代目となる。

そして、また、蘇我氏は、朝鮮からの帰化人を、顧問として置いていたことである。
彼らが、様々な陰謀を巡らしたとも、考えられる。

さて、その朝鮮から仏教も渡来してきた。
そして、その来たものは、大乗仏教である。
ここに、日本仏教の最大の、汚点がある。

それは、大陸、中国から、朝鮮を通って来た。
その間に、どれほど、大乗仏教が、変節したか・・・
大乗仏教自体が、変節したものである。

ただし、救いは、その慈悲性、抱擁性にあった。
日本古来からの、かんながらの道に対決することはなかった。

対決させたのは、蘇我氏と、物部氏の豪族の覇権争いの形相である。
仏教の問題より、そちらが重大だ。

さて、一人、仏教を内面化させた、聖徳太子であるが・・・
それについては、省略する。

確かに、聖徳太子の仏教理解の精神は、後々まで、日本の精神に影響を与えたと考える。しかし、その内容については、これからの精神史を見つめて行くことで理解出来る。

それより、重大なことがある。
日本の精神である、歌道の発祥とも言える、万葉集である。
その、万葉集には、仏教のことが、一切取り上げられていないというより、歌が無いのである。

推古朝から奈良朝にいたる期間は、幾多の大寺をはじめ、無数の氏寺、知識寺、国分寺等の建立された時代である。仏教芸術の黄金期と称されている。一般の民間人からは遊離した存在ではあったが、それにしても、何らかの表現が万葉集に残っていてもいい筈だ。また仏教に帰依した皇族氏族もいたわけだから、歌のかたちでの信仰告白があってもよさそうに思う。
亀井勝一郎

だが、全く、それが無いのである。

万葉びとは、一切、仏教に関する歌は、詠まないのである。

これが、謎である。
そして、これを解けば、何かが解るのだろう。

亀井の解くところを見る。
歌の伝統の深さ、それは殆ど生理的と言ってもいいほど心に密着していたためであろうか。神人分離という時代苦をにないながらも、言霊の美による鎮魂という、太古からの原則はきびしく守られ、それは帰依とはっきり区別されていたためであったのか。そもそも発想の根本が異質のものである。たとえば仏教徒であった聖武天皇も、歌となれば態度は全く別である。同時に、万葉びとの生へのつよい讃美、執着、現世肯定の態度とも関係があったろう。

そのようである。
そこで、歌の伝統の深さである。
万葉集以前に、すでに歌の伝統があったのである。

万葉集に結実する以前から・・・
その精神が存在した。
だから、深い伝統なのである。

それは、ここで言う、太古以前、縄文期から続いていた、精神の系譜である。
歌は息遣いである。
それが、長い年月をかけて、作られて行く。
深い伝統と言われる程の年月である。

少しばかり前に渡来した、仏教には、係わり得ないことだった。
更に、仏教の教えがまだまだ、未熟であった。
その理解に達するには、漢文の仏典を我が物にしなければならない。
咀嚼するために、長い年月が必要である。

勿論、仏典により、日本人は、体系的な思想というものを、見ることが出来た。
日本の精神は、鎌倉時代に出来たという、禅家がいるが・・・
違う。
それは、単に、漢字かな混じり文が完成したということである。

精神は、それ以前に、歌という姿で、成り立っていたのである。
そして、その歌は、仏教が根付くと共に、更に、深まって行った。

日本の伝統、歌の道は、廃れることがなかった。
現在も、尚、更に。
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2014年08月26日

国を愛して何が悪い149

この点で興味深い問題がひとつある。仏礼拝の動機として、私はさきに病気の恐怖をあげたが、万葉集を読んで気づくことは、病気とか病苦を直接歌ったものは、憶良の「病に沈みて自ら哀ぶ文一首」と家持の長歌をのぞけば、殆どみあたらないことである。あれほど疫痢や天然痘や癪におそわれながら、歌の対象とはしなかった。
亀井

亀井は、「けがれ」として、避けたのかと、言うが・・・

つまり、病苦の方は、仏教の方へ持っていったようだ。
更に、暗黙の諒解があり、仏教に関することは、歌わないというもの。

採集の際に、落とされた可能性もある。
だが・・・

次に信仰の不消化ということも当然考えられる。仏教固有の生死への思索とか、来世への明確な観念とかに慣れなかった点もあろう。とくに歌のしらべにおいて当惑したのではなかったか。教典の内容や、仏像や儀式を、やまとことば独自のしらべにまで消化して表現することは容易ではなく、稀にそういうこころみをしたときは、唱へ、歌うには堪えられない稚拙なものが出来上がったにちがいない。
亀井

これで、ある。
信仰の不消化である。

教典、仏像、儀式・・・
それらは、ド肝を抜くものだったはずだ。

全く、異質なものである。
それ以前の、信仰を考えるとよい。

建物からして、想像だにしない形であり、その儀式は、渡来系の人たちによって、教えられ、今までにない、儀式の様である。

教典だとて、理解の仕様がない。
全くの不案内である。

大和言葉と、漢文の経典の違いは、遥かに大きいものだったはずだ。

勿論、漢文の書物は、どんどんと渡来していた。
現在の、英語を学ぶというようにものではない。
暗中模索である。

そして、仏教は、病気に対処する方法でもあった。
それが、最も、大きかったはずだ。
そして、その後、国家安泰のために。

その戸惑いは、想像も出来ないものだ。

更に、仏教を拒むことをしなかったということである。
それを、何とか、取り入れたという、精神である。

ここに、日本の精神の原型がある。
拒まず、受け入れて、我が物にして行く。
時間をかけて、継続して、理解を深める。

それは、その後の日本の姿でもある。

さて、更に、帰依する強い感情、来世への憧れ、現世への絶望感などは、全く歌われていない。
これも、信仰の不消化のせいだろう。

平安期になり、ようやく、仏教の信仰、救済に関する、名歌が生まれてくるのである。

万葉集については、私の別エッセイ、もののあわれについて、にて、多くを語っているので、一つ一つの歌は掲げない。

それでは、仏教を消化しようとしたとき、どの面から始まったのか・・・

常住真実なるもの(仏)が存在して、はじめて成立する観念であり、言わば常住真実なるものから与えられた一種冷徹な認識能力である。
亀井

それは、何か。
無常観である。

だが、
そういう思索の面は度外視して、人間流離の悲哀としてうけとり叙情化した。仏教の諸原理の中から、とくに無常観だけを、しかも「無常哀感」と言ったかたちでとらえた点に特徴があると言ってよかろう。こうして、辛うじてしらべと化したのだが、挽歌の哀感に比べるとやはり観念的で弱い。
亀井

これも、不消化である。

当時の日本人の精神生活の中では、仏教思想の影響は微々たるものであり、この程度のものであったことが、少なくとも万葉集を通しては言えると思う。同時に、思索の上でも、すべて述べてきたように、聖徳太子をのぞけば、殆ど見るべきものはなかった。
亀井

私は、この不消化を評価する。
もしこれが、単純に、仏教を全面的に受け入れて、それに従っていたら・・・

例えば、シルクロードの仏教国は、イスラムに襲われて、すべてが、イスラムに改心してしまった。
その程度の、弱さであった。

不消化があって、はじめて、仏教に対して、時間をかけて、理解を始めたといえる。そして、日本流の仏教を創作した。

それは、決して、インドでも、中国でも、朝鮮でもない、仏教である。

仏教を日本流に変容するだけの、力があったといえる。

この場合は、宗教を芸術と同じ位置付けにして、私は考える。
宗教とは、芸術の一部門である。

芸術の無い宗教は、皆無である。
芸術性の高い宗教・・・
それが、本来の宗教の、面目である。

日本では、芸術に皆、道がつく。
技芸の道である。武道も然り。

道とは、芸術の別名である。
だから、神道という場合も、それは、一つの芸術活動なのである。

信仰とは、その道への、貢献のことである。

その道を通して、日本人は、日本に貢献する。
日本という名称は、日の本であり、それは、祖霊を示す言葉である。

祖霊に貢献することが、日本人の精神の面目である。

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2014年08月27日

国を愛して何が悪い150

精神が言葉の世界であるとすれば、それ以前の言葉によらない、意識を、心と定義してみると、万葉集は、心の世界であり、更に、それは、日本人の心の古里であると、言える。

およそ、4500首が伝わっている。
つまり、伝わらなかったものもあるということ。
そして、伝わらなかったものは、伝えられたものによって、生かされる。

万葉集とは、言葉の古墳とも、言える。

さて、その時代区分は、諸説あるが・・・
一応、解りやすくするために、三区分に分けてみる。

初期としては、舒明天皇から天武天皇末期まで、56年間。
それは、柿本人麻磨の活躍する藤原京の直前まで、である。

しかし、精神の系譜から言えば、飛鳥の精神の系譜が、ここまで続いていると思う。

七世紀の精神と言ってもいい。

初期万葉を、私は仮に「舒明一族三代歌集」と呼んでみたいのだ。
亀井勝一郎

私も、賛成である。
舒明天皇一家の歌の数々は、見事だ。

亀井は、第一は、初期飛びと、第二は、初期万葉びと、第三は、天平びと、と三つの集団として、考えている。

それは、歴史的に、舒明天皇から推古天皇の、西暦539年から630年。
孝徳天皇から持統天皇の、645年から697年。
聖武天皇から光仁天皇の、724年から780年、となる。

すでに、大陸からの文化の影響が、決定的だった時代である。

それを書き記すのに、漢字の音を使用した。
それを、訓読みにするという・・・

私は、文献研究をする者ではない。
日本人の精神以前の、心の古里としての、万葉の世界を見る者である。

一つ一つの歌については、別エッセイ、もののあわれについて、にて、書いているので、そちらを参照してください。

天武天皇は、国史編纂を始めた。
古事記、日本書記共にである。

これに合わせて、持統天皇三年に、撰善言司、よきことをえらぶつかさ、の成立があった。
志貴皇子以下六名が、任命されている。
その中の、三名は、日本最古の漢詩集、「懐風藻」かいふうそう、に収録されている作者である。

志貴皇子は、一流の歌を残している。
岩走る 垂水の上の 早蕨の 萌いずる春に なりにけるかも

漢字漢文の選択、口伝の、やまとことば、による、祝詞、寿詞、宣命の起草、漢文字による表現等・・・
古代における、文学革命である。

その中に、帰化人も含まれていると、考えてよい。

ここでとくに目だつことは、「舒明一族三代」の人々の、個性のあざやかさである。万葉集からうかがわれるだけではない。歴史にあらわれた彼らの政治的行為、文化活動を通して、これほど多種多様な個性が、宮廷をめぐってあらわれた例は、史上に稀なのではないか。それぞれが実力をもった存在である。しかも彼らの大部分は、進取気鋭の青年ではなかったか。
亀井

その、歴史の中の、万葉集である。
古来、様々な学者、研究家等が、研究を続けてきた。
だが、万葉集に定説はない。

あらゆる解釈が可能である。
時に、万葉集の権威者という者が、現れるが、それは、その一時期、一時的なものである。

古代人がそれをどのように感じ、また一語からどんなイメージを抱いたか、それを的確に知ることは不可能かもしれない。今は完全に消滅してしまった古代人固有の感覚もあるにちがいない。
亀井

そして、解釈病に陥ると、台無しである。

万葉集当時の、歌とは、いかなるものだったのか・・・
以前も、仏教が渡来しているにも係わらず、仏教関係の歌が一つもないという状況を、どのように考えるのか。

民俗学や、古代史研究家が、云々するが・・・
それは、時の権威にあるから、取り入れられる。

更に、言った者、勝ちである。

折口信夫は、うたの呪力は鎮魂にあった。鎮魂は、たまふりと解くのが古く、たましづめは後である、と言うが。

魂振り・・・
それは、御霊を奮い立たせること。
神霊に懸かられることだ。

言葉は、言霊とあるように、言葉の霊である。
霊とは、現在言われる、神と同じ感覚である。

言葉自体が、霊であった。
そのように、捉えていた。

鎮魂などという言葉は、当時は無かったのである。
勿論、一つの説としては、諒解する。

例えば、万葉では、咲くという、言葉を、笑うと読ませた。
漢語の意味から、やまとことばに訳す際に、そのように感覚を働かせた。

例えば、恋である。
魂乞い、である。
それは、現代の、恋愛ではない。

魂乞いは、あらゆる人や物に、行なわれた。

恋の、原型は、人や物の、魂を、我が身の中に、招く行為だった。
招魂ともいう。

私は、古代日本人は、大自然に対する、畏敬の念を持ち、言葉を霊として、自然に対すると同じように考えたと、思っている。
言葉に対する、畏敬である。
それは、いのちに対する、畏敬と同じである。

posted by 天山 at 05:54| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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