2014年07月14日

霊学171

私の行為の一部分は外界にあり、他の部分は私自身の中にある。自我と行為のこの関係を単純な自然科学上の比喩で説明することができよう。
シュタイナー

かつて働いていたひとつの能力が行為の結果と結び付いて。別の能力に変わったのである。同様のことが人間の霊についてもいえる。
シュタイナー

人間の霊が、どのような能力を持っているかは、その魂が、どのような行為を成し遂げたかによる。

魂が、成し遂げた行為を通して、この行為の成果として、別の行為を成し遂げることのできる、霊的能力の素質が、魂の中に生ずる。

つまり、転生の話である。

行為を通して、魂は、この行為の結果を、清算しようとする必然性を自らに、刻印づける。

このように、人間の霊は、行為によって、自己の運命を招来してきた。彼が前世で果たしたことに、現世でも結び付けられているのである。
シュタイナー

確かに、そのようである。
それは、正しい。

転生は、以前の時代と、環境が違う。しかし、
以前の生活が今の環境を決定している。以前の生活がいわば新しい環境全体の中から、自分にとって身近なものを取り出して、それを自分の方に引き寄せるのである。
シュタイナー
と、言うことになる。

霊我の場合も同様である。霊我は新しい人生においても、必然的に自分の周囲を前世において身近だったものでとりまかせるのである。
シュタイナー

前世が、全く別の国や、時代にあっても、基本的には、その霊我の状態は、変わらないのである。
そして、それに相応しい、環境を引き寄せると言うのである。

ということは、ある程度、前世によって、生きるべき、道筋を立てているといえるのだ。

だが、同じことの、繰り返しはしないはずである。
何故なら、成長のために、転生しているからだ。

それは、すなわち、超感覚世界を、体験しているということになる。
だが、生まれると、それを忘れる。
何故か・・・

何故、その記憶が消されるのか・・・
いや、それは、無意識、潜在意識に残るという人もいるだろう。

それでは、無意識、潜在意識は、超感覚世界を知るのか。
ここでは、これ以上、詮索しないでおく。

シュタイナーを続ける。

前世の諸行為も運命となって人間と結び付いているのである。
シュタイナー

人間の霊もみずから自分の行為を通して作り出した環境の中でしか生きることができない。朝起きたとき、前日私が作り出したままの状態におかれているようにしてくれるのは、状況そのものの自然な成り行きであり、ふたたび生まれ変わった、私が前世での私の行為の結果に相応した環境に出会えるようにしてくれるのは、生まれ変わった私の霊と周囲の事物との類縁関係である。
シュタイナー

それから、また、延々と説明が続くが・・・

肉体は、遺伝の法則に従う。
そして、霊は、繰り返し生まれ変わる。

転生の法則は、霊が前世の成果を次ぎの生の中に持ち込むことにある、と言う。

魂は現世の中に生きている。しかし現世の中に生きているということは前世の生活から独立しているということではない。
シュタイナー

それは、生まれ変わる霊が、前世から自分の運命をもって生まれてくる。
その、運命が、人生を規定している。

とすれば、運命論になる。

更に、
魂はひとつの人生の中で結び付いていた人たちに、次の人生の中でもめぐり会わずにはいないだろう。
シュタイナー

ここに至ると、実に、仏教的になる。
仏教、インド思想の、輪廻転生の思想である。

今でも、インドには、カースト制がある。
生まれにより、人生が決定されるという、魔的な考え方である。

それでは、現世の運命を知りたければ、前世を知るべきことと、なる。

勿論、シュタイナーは、独自の理論、思想を展開したが・・・

結果的に、
そしてこのとのを通して人間は誕生と死を超越している要因に三重の仕方で依存している。すなわち肉体は遺伝の法則に従っている。魂はみずから作り出した運命に従っている。人は人間によって創り出されたこの運命を古い表現を用いてカルマと呼ぶ。そして霊は転生の、生まれ変わりの法則に従っている。
シュタイナー
という言になる。

古い言い方・・・
カルマ・・・何も古い言い方ではない。
そのまま、カルマである。
カルマを信じるか、否か。
カルマを信じなければ、シュタイナーは理解出来ないことになる。



posted by 天山 at 05:01| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月05日

霊学172

さて、シュタイナー、神智学の第一巻を読んでいる。
次ぎは、三つの世界である。

魂の世界

人体を構築している素材と力とは、物性の世界から取り出されている。人間はこの世界についての知識を、外的感覚の知覚を通して得ている。この感覚だけを信頼して、もっぱらその知覚能力だけしか開発しようとしない人は、他の両世界、魂の世界と霊の世界について何も知ることができない。
シュタイナー

簡単に言えば、魂、霊の世界を知るための、努力が必要であり、人間は、そのように進化するものである、ということである。

人は「霊的」世界に対立する意味で、物質界を「感覚的」世界とも呼んでいるのである。
シュタイナー

そして、シュタイナーは、この誤解を避けるために、「高次感覚」という言い方をする。
この、高次感覚を得ること、それが、神智学の目的である。
また、その方法も伝授するのである。

それで、また、延々と理解するための、議論が続くが・・・
省略して書くことにする。

本質は現象の背後には存在しない。本質とはむしろ、現象を通して表面に現れてくるものなのだ。本質はいくらでも多様化されるから、別の感覚に対しては別の形姿で自己を現すことができる。その場合でも現れているのは常に本質的部分である。ただ感覚に限界があるために、その本質が全体的本質ではないだけなのだ。
シュタイナー

感覚に限界があるから、その本質が全体的ではないとは、理解できる。
全感覚を開くことは、人間にはできない。
しかし、シュタイナーは、それを求める。

高次感覚を開発するには、人間が、努力しなければならないのである。

人間のために物質的環境世界を知覚し、それに適応できるに足る身体を育成してくれるのが自然であるとすれば、魂界と霊界を知覚するに足る魂と霊を育成することができるのは、人間自身だけである。
シュタイナー

確かに、その通りである。
人間だけである。
それだけの、能力がある。
また、それだけの、創造力がある。

妄想でなければ、いいのだ。

自然自身がまだ発達させなかった高次の器官をこのように育成することは、自然に反した行為ではない。なぜなら高次の観点から見れば、人間が為し遂げるどのような事柄もまた自然に属しているからである。
シュタイナー

つまり、それは、異常なことではない。自然なことである。

魂界や霊界は物質界の隣にあるものでも、その外にあるものでもない。それらは空間的に物質界から区別されているのではない。
シュタイナー

つまり、魂的、霊的に目覚めた人に、以前は物体として現れていた事物が、魂的、霊的特性を、明らかにする。

この目覚めた人・・・
この、目覚めた人になる為に、シュタイナーが説いている。

高次の器官とは、魂や霊でできた組織ということを、知るべきだと、言う。

当然である。

したがって高次の世界で知覚されるものが霧のように稀薄な物質的素材であるかのように予期してはいけない。そのように予期するかぎり、ここで「高次の世界」と呼んでいるものを、明瞭に理解することはできないだろう。
シュタイナー

そして、その段階に達するためには、容易ではない。

魂的、霊的なものが物質の微妙な形態に過ぎぬという偏見をまず除こうとしさえすれば、それ程到達し難いものではない。
シュタイナー

われわれの、周囲の世界を、ただ肉体の感覚が教えるものから知ろうとしても、無理なのである。

われわれの胃、心臓、肺、脳を構成し支配している素材と力が物質界のものであるように、われわれの衝動、欲望、感情、情熱、願望、感覚といった魂の特性は魂的世界のものである。人間の魂は、肉体が物体的世界の一部分であるように、魂的世界の一部分なのである。物体の世界と魂の世界との第一の相違は、後者の世界のすべての事物や本性が前者の世界の場合よりも、はるかに精妙で動的で、自由に形態を変えうるということであろう。
シュタイナー

物質界とは、全く異なった、新しい世界と言う。

物質界における物質的素材や力の場合と同様に、魂の世界の存在者や構成体も、魂的素材から成り、魂的力の支配をうけているということがいえる。
シュタイナー

上記を読めば、当たり前のことである。

魂の世界の存在者や構成員・・・
ここからが、問題になる。

存在者も、構成員も、我々、つまり、私であろう。
何故、存在者と構成員が出てくるのか・・・

これからそれを見てゆくが・・・
突然として、飛躍するのである。

つまり、私の、魂的存在、霊的存在が、存在するということ。
これが、かく乱させる元である。

posted by 天山 at 05:51| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月06日

霊学173

物質界の構成体が空間的拡がりと空間的運動とを固有のものとしてもっているように、魂界の存在者や構成体は敏感な反応と衝動的欲望とを固有のものとしてもっている。それ故魂の世界は欲望=願望の世界、もしくは「欲求」の世界とも呼ぶことができる。
シュタイナー

シュタイナーの説明は、混乱する。
これから、また、説明が続くが・・・

こういう言い方は人間の魂の世界から取ってこられている。
シュタイナー

繰り返しと、勝手な解釈である。

したがって、ここで確認しておかなければならないが、魂の世界の中で、人間の魂以外の諸部分に現れる事象は、ちょうど外なる物質世界の素材や力が人体を構成している素材や力と異なるように、人間の魂の諸力とは異なっているのである。
シュタイナー

翻訳が悪いのか・・・
上記は、魂の世界の中で・・・
人間の魂以外の諸部分に現れる・・・
人間の魂の諸力とは異なっている・・・

(衝動、願望、要求は魂の世界の素材に対する名称である。この素材的部分は「アストラル的」と特徴づけられる。魂の力の方がより考慮されるなら、「欲望存在」について語ることができる。しかし「素材」と「力」とをこのように区別したとしても、物質界におけるような厳密な区別にはなりえないということを忘れてはならない。或る衝動を「力」と呼ぶこともできるし、「素材」と呼ぶこともできる。)

混乱させ、かく乱させるのならば、その霊界は、魔系に近い。

魂の世界には物質界とまったく異なる法則が支配している。
シュタイナー

当たり前である。

ところが魂の構成体の多くは当然他の世界の構成体と結合している。たとえば人間の魂は肉体と結合しており、人間の霊とも結合している。それ故人間の魂の中のいとなみは同時に体や霊の世界の影響をうけている。魂の世界を観察するときには、このことが考慮されなければならない。そして他の世界の働きによるものを魂の法則であるとは思ってはならない。
シュタイナー

繰り返し、くどい説明が続くのである。
そして、拡散してゆき、その拡散から、一体、どこの霊学に飛躍するのであろうか。

魂的事象と物質的事象のひとつの重要な相違は前者における相互作用が本質的に内的であるというところにある。物理空間にたとえば「衝撃」の法則が働いている。・・・
魂の空間においては、互いにぶつかる二つの構成体の相互作用は両者の内的特性に依存している。それらはもし相性がよければ、相互に浸透し合い、いわば合体する。もし相反する特性をもっていれば、相互に反発し合う。
シュタイナー

普通に、当たり前のことなのだが・・・
特別に聞えるのである。

それでは、このまま続けてみる。

魂の世界の事情に通じるための第一の仕事は、物質界で固体、液体、気体の区別を立てるのと似た仕方で、その構成体を分類することであろう。そうするためには、このためにもっとも重要な二つの根本的な力を知らなければならない。すなわち共感と反感とである。魂的構成体の中でこの二つがどのように作用し合っているかが、その構成体の種類を決定する。
シュタイナー

そして、更に、区別と、区分けをしてゆく。

ここで、共感とは、魂的構成体が、他のものを惹きつけ、他のものと融合しようとし、他のものとの相性を強く働かせる力である。となる。
それでは、反発とは、その逆だ。

そして、それには、三種類の魂的構成体があるという。

第一は、反発が、共感に勝る場合である。
第二は、共に同じ力がある。
第三に、共感が、反発に勝る場合である。

それを、延々と、説明する。

そして、その後に、
魂の素材のより高次の諸段階は、反発が完全に退き、共感だけが本来の作用として現れることによって特徴づけられる。
と、いうことだ。

その場合、この共感の働きは最初魂的構成体そのものの諸部分の内に現れる。この諸部分は相互に惹きつけ合う。
シュタイナー

だから、共感というのだろう・・・とは、考えない。
何せ、説明、そして説明である。

或る魂的構成体内部の共感の力は快と呼ばれるものの中に現れる。そしてこの共感のどのような場合の減少も不快なのである。寒さが減少した熱さに過ぎぬように、不快はただ減少した快に過ぎない。
シュタイナー

私も、次第に、笑みがこぼれてくる。

快と不快とは人間の感情の世界(狭義での)としていとなまれているものをいう。この意味で感じ取るということは魂が自分自身の内部で活動するということである。快、不快の感情の在り方次第で、魂の気分がきまってくる。
シュタイナー

これでは、大笑いである。
シュタイナーは、何かの病に冒されていたようである。

何か、非常に狭義なもの、狭義な世界に、冒されていた。
だが、続けてみる。
その霊界を見るまで・・・

posted by 天山 at 05:36| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月07日

霊学174

共感を自分自身の内部での活動に留めない魂的構成体はもう一段高次の段階にいる。この段階は、すでに第四段階がそうであったように、共感の力が対抗する反感によって妨げられぬ点で、低次の三段階と区別される。
シュタイナー

高次の種類の魂の素材によって、多様な魂的構成体が、ひとつの共同の魂的世界として、まとまるということ。

この高次の魂の素材は魂的空間の中で演じる、この素材は或る魂的構成体が他の存在、他の本質を、これらの存在、本質そのもののために、いわば吸収するようにさせる。別の言い方をすれば、他の存在の光で自分を照らすようにさせる。
シュタイナー

他の存在の光で、自分を照らす・・・
上手い言い方である。
実際、宗教的な言い方である。

魂は、これら高次の諸領域を知ることによって、はじめて真の魂の在り方に目覚める。
シュタイナー

次ぎの文は、宗教に色々な言葉で、言い方で、使用される言葉である。

魂は暗闇での重苦しいいとなみから解放され、外に向って開かれ、輝き、みずから魂的空間の中へ光を投げかける。低次の諸領域の魂的素材だけしか存在しない場合の、反感によって他から自分を閉ざそうとする、不活発で陰気なその内的いとなみは、今や内から起こって、外へ流れ込む力と活動性とに変わる。
シュタイナー

これを、そのまま、或る宗教の信仰の状態に当て嵌めることができる。
更に、そうして、信仰する、つまり、反感を持たず、信じ込ませると、上記のような言葉が、生きてくる。

高次の諸領域では自由に放射し、自由に流出する。
シュタイナー

さて、今度は、また、魂は、三つの低次領域と、三つの高次領域に、区別されるのだ。

その区別である。
1――燃える欲望の領域
2――流動的感応性の領域
3――問題の領域
4――快と不快の領域
5――魂の光の領域
6――魂の活動の領域
7――魂の生命の領域
以上である。

はじめの、三領域は、共感と反感との関係から得られる。
第四領域では、共感が、魂的構成体自身の中だけに働いている。
そして、高次の三領域を通して、共感の力は、益々自由になり、輝き、活気づけつつ、この領域の魂的素材は、魂の空間に吹き渡り、自分だけでは、自己存在の中に埋没しかねない魂的構成体を、覚醒させる。

1から7までの、領域は、互いに浸透し合っている。

そして、高次の領域・・・
により、云々・・・

ここまで、書きつけると、シュタイナーを研究する者が現れて、ひとつの学問のように、扱うようになる。
そして、解釈の仕様によっては、派閥が出来る。

更には、見者になるものもいる。
覚醒して、悟る者もいる。
皆、自己申請である。

更には、霊能者を名乗る者も現れる。
そして、その能力で、霊を扱うという・・・

シュタイナーは、独自の時代区分を創り上げ、その流れの中に、今こそ、霊学、神智学が必要とのことで、講義をした。
シュタイナー哲学、思想・・・
そこから、教育学も、現れた。

だが、それも、たった一つの方法である。

さて、次ぎは、魂の世界における死後の世界、である。
体、魂、霊・・・
それぞれに、死後の世界がある。

魂は人間の霊と体との結合部分である。
シュタイナー

共感と反感の力は相互の関係を通して、欲望、感応、願望、快と不快等々を生ぜしめるが、これらの構成体と構成体との間に働くだけでなく他の世界である物質界や霊界の存在者たちにも働きかける。
シュタイナー

物質界や霊界の存在者たち・・・
これが、躓くのである。

魂が体に宿っている間は、魂は体に起こるすべてに関与しているといえる。肉体の物質的組織が規則的に働いているときは、魂の中に快さと楽しさが生じ、その組織活動が妨げられるときには不快と苦痛が生じる。
シュタイナー

そして霊の働きの中にも魂は関与する。或る思想は魂を喜びで充たし、他の思想は嫌悪感を生ぜしめる。正しい判断は魂の気に入り、間違った判断は魂を不愉快にする。
シュタイナー

正しい判断・・・
それは、どんなものか。
そして、間違った判断・・・

この、正しい、間違うということに関しても、多くの議論が湧き出るだろう。
もし、シュタイナーが、すべて正しいとなれば・・・
彼は、神になるだろう。
そして、そのような人たちもいる。
シュタイナー教徒である。

posted by 天山 at 05:31| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月08日

霊学175

霊は人間の中心点である。
シュタイナー

当然である。
霊学を名乗る以上は、それである。

体はこの霊が物質界を観察し、そこで活動するのに必要な仲介者である。そして魂はこの霊との仲介者である。魂は空気の振動が耳に与える物質的作用から音の感覚を引き出し、この音を快として体験する。
シュタイナー

シュタイナーの時代の、脳学は、いかがなものだったのか。
彼は、脳の働きには、一切、触れない。

これは、脳の働きを、自分専用の言葉で、解説しているように見える。

魂はこれをすべて霊に伝え、霊はそれによって物質界の理解に達する。一方、霊の中に現れる思考内容は、魂の中でそれを実現しようという願望に転化され、これによってさらに体を道具として行為となることができる。
シュタイナー

実に、混乱させる話である。

物質界の中では、魂という仲介者を通してのみ、霊に対処するという。

未発達の人間を例にとろう。彼の魂は肉体の機能に執着する傾向をもつ。彼は物質界が感覚に与える印象だけに快感をもつ。そして彼の霊的生活もまたこのことによってまったく物質の領域にまで引き下ろされる。彼の思考内容は物質的な要求を満足させることだけに奉仕する。
シュタイナー

これは、古代インド、そして、仏教、ジャイナ教などでは、当たり前のことである。
例えば、空の思想など・・・
シュタイナーも、飛んでしまう話だ。

霊的自我は、転生を重ねる間、ますます霊的なものに導かれるようにならねばならない。その認識は永遠の真理の霊によって、その行動は永遠の善によって、決定されなければならない。
シュタイナー

そして、この漠然とした言葉で、浮いてしまうのだ。
更に、霊的自我・・・
色々な、自我が出て来ているが・・・
大丈夫なのだろうか。

死とは、物質界の現実として考察するなら、体の機能のひとつの変化である。死んだ体は魂と霊の仲介者であることをやめ、その機能を物質界の諸法則にまったく従属させ、まったく物質化し、そして自己をそのなかに解消させてしまう。感覚的には、ただ体のこの物質的経過だけが、人間の死として観察される。
シュタイナー

簡単なことを、複雑に記述するのが、得意のようである。

そのあと魂と霊とに何が起こるかは、肉体の感覚では捉えられない。
シュタイナー

当然である。体は、死んだのである。その意識も、無くなる。

だから肉体的感覚による観察とこの観察の上に打ち立てられた学問とは、死後の魂と霊にとって何の役にも立たない。魂界と霊界とにおける諸経過の観察に基づくまさに高次の認識がそのためには必要となる。
シュタイナー

もっともなことであるが、その学問があればこそ、シュタイナーの学問の意味もある。
霊界を信じない、学問は、当然、役に立たないだろう。

しかし霊の本源的な姿をこの魂的世界の中に見出すことはできない。魂はただ霊の創造の場である物質界と結び付けるべき存在なのである。霊がより完成された形姿をとって新しく生まれ変わってくるには、そのための力と鼓舞とを霊界から取ってこなければならない。
シュタイナー

だが、霊を拘束する魂が、物質の本性に貫かれ、色付けされていたので、霊自身も、物質界の方向に向わざるを、得なかった、とのこと。

死後、魂はもはや体ではなく、霊だけと結び付いている。
シュタイナー

繰り返し、繰り返しが、実に多い。

魂は魂本来の環境に生きている。したがってこの魂界の諸力だけが魂になお作用できる。魂界でのこの生活は、はじめのうち、霊も加わっている。
シュタイナー

魂、魂本来、魂界・・・

つまり、霊は、魂と結び付いている。
体は、無くなった。

いつ体が死ぬかは体の法則によってきまっているので、魂と霊が体から去っていくのではなく、人体の力が人体組織の中でもはや働けなくなったとき、この体が魂と霊の拘束を解くのだ、といわねばならない。
シュタイナー

ここ、ここに至ると、笑う。

同様のことが魂と霊との関係についてもいえる。
シュタイナー

もう、この辺りで、いいだろう。

これに洗脳されるのは、大いに、危険である。
その、シュタイナーの思考の中に、埋没してしまう。
そして、何かが、解ったような気になる。

勿論、まだ続ける価値がある。

もう一度言うが、これも、シュタイナーの頭、脳によって、書かれた著作である。
彼は、脳について、何も触れない。
それは、脳の働きを知らないからだ。

posted by 天山 at 06:30| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月09日

霊学176

ここから、少し長い引用になるので、読みやすく改行する。

死後の魂の運命を知るには、その解消過程を考察しなければならない。
魂は霊を物質の方に向わせる課題を背負っていた。この課題を果たし終えた瞬間に、魂は霊の方向に向う。
この課題との関係からいえば、体が魂から離れ、したがって魂がもはや結合部分の役割を果たす必要がなくなるとき、魂は本来ならただちにもっぱら霊的に活動できる筈である。

体におけるいとなみを通して体の影響をうけ、体に惹きつけられることさえなければ、魂はもっぱらそのように活動することができる筈である。
もし魂が体に宿ることで、その影響に染まることがなかったなら、体を脱したあと、ただちに霊的魂的な世界の法則だけに従い、感覚体験を今までのように求めたりはしなかったであろう。
もし人間が死に際して、完全に地上世界への関心がなくなる程にまで、地上存在と結び付いた欲望、願望等のすべてを満足させていたなら、そうできたかもしれない。しかし現実にはそうできない場合には、この方向でまだ充たされていないものが魂に付着している。
シュタイナー

再び生まれ変わってきたとき、償いをつけることができるような、この世の因縁と、死後の魂を生前の特定の生活に執着させるような、この世の因縁とを、注意深く区別しておかなければ、ならない。

前者は、運命の法則、カルマを通して解決される。
後者は、死後の魂が、自分で、その因縁を取り除くことしか、出来ない。

死後の世界・・・
死後の魂は、霊的、魂的な世界の法則に従うことで、霊を自由に活動させるため、物質存在への執着を、一切絶つのに必要な、一時期を持つ。

仏教では、49日、神道では、50日と言われているが・・・

キリスト教の世界であるから、何度も、説明しなければならないようだ。

死後も、多くの欲望、願望等が魂の中に残る人は、長く続く・・・
当然である。

シュタイナーは、あくまでも、魂と、霊とを、区分けて考えている。

魂の中には、快楽と共に、快楽への欲望も生きている。
ということは、単に、魂というより、意識であろう。
無意識の領域である。

シュタイナーが言うのは、霊学の心のことである。

これについては、仏教の或る一派の方が、実に深く考察している。

魂の欲望は、体が存在してのものである。
だが、その記憶を持っているということだ。

快楽の欠乏に際して魂が経験する焼け付くような苦しみは、魂が快楽を可能にする身体器官を失ったところからきている。
シュタイナー

どこまでも、説明尽くし・・・
勿論、誤りではない。

身体を使わなければ充たせないような欲求を求めても無駄だと魂が悟るまで、持続する。
シュタイナー

当たり前だ。

そして、また、説明が続くが・・・

魂の世界は、死後の人間の最初の滞在の地である場合、「欲望の場所」と呼ばれるが、魂のこの状況を知り、それを教義に取り入れいるさまざまな宗教体系は、この「欲望の場所」を「煉獄」「浄火」と名付けている。
シュタイナー

煉獄は、キリスト教が後々に、名付けた言い方である。
煉獄で苦しむ霊魂のためにと、祈るのである。

天国に入る前の段階で、何かの世界が、必要になったのだ。
後付の意味である。

そこに、シュタイナーが、あるべきような説明を付けた。

そして、また、説明が始まる。

魂界のもっとも低い領域は燃える欲望の領域である。
シュタイナー

この領域を通過する間に、物質生活に関わる、粗野で利己的な欲望が、消滅させられる。
霊界参入と同じである。
それを複雑怪奇にした。

同じことの繰り返し・・・
更に、魂界から、領域から、実に混乱する。

シュタイナーが混乱しているのだろう。

なぜならこの欲望をまだ捨てることができずにいる魂は・・・
この領域の作用をまともに受けざるをえないからである。・・・

その他のいたるところには反感が働いており、その反感が魂を圧倒している。・・・

リフレイン・・・
更に、また、リフレインである。

共感と反感が均衝を保っているのが、魂界の第二領域の状態である。
シュタイナー

これも、以前の箇所で書いたもの。

第三は、共感と願望の支配する状況が観察される。
シュタイナー

魂界の第四領域である快と不快の領域は、魂に特別の試練を課す。
シュタイナー
そして、第五は、魂の光の段階。

自殺者は特別の仕方でこの領域の諸体験に耐えていかなければならない。・・・
突然穴が空けられてしまったという感情が生み出す苦悩の他に、自殺の原因となった充たされぬ欲望と願望とが苦悩を生み出す。
シュタイナー

第六は、活動する魂の力の領域である。

第五、第六を次ぎに続ける。
posted by 天山 at 06:47| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月04日

霊学177

魂界の第五段階は魂の光の段階である。
シュタイナー

それ以前に、第一、第二、第三、第四の段階があった。
仏教の諸派にも、悟りの段階が相当数あり、似ていると感じた。

この段階では、他のものに対する共感がすでに重要な意味をもつ。この世の生活の中で低い欲求だけを満足させようとはせず、与えられた環境に対して喜びと愛情を感じることのできた魂は、この段階に親しみをもつことができる。
シュタイナー

魂界の話だけではない。
現実の生活の中でも、あり得ることである。

たとえばこの段階で浄化を受けるだろう。しかし自然体験には、もっと高次の、霊的性格のものがある。それは自然の事物やそのいとなみの中に顕現する霊を体験しようとする場合である。このような自然感情は、その人の霊性を開発し、魂の中に永続的部分を築き上げる。

しかし感覚的享受を動機にもつ自然体験はこの自然感情とは異なる。魂は物質的なものだけに向けられた欲求と同じように、このような自然体験をも浄化しなければならない。
シュタイナー

日本の伝統的な自然に対する考え方・・・
それは、これを超えている。

宗教活動を通して物質生活の向上を期待していた人々の魂も、この領域で浄化を受けることになる。その人々の憧憬の対象が地上の楽園だったのか、それとも天上の楽園だったのかはどちらでもよい。いずれの場合も、このような人々の魂は「魂の国」の中でこの楽園に出会うであろうが、それは結局、このような楽園の空しさを悟るためなのだからである。
シュタイナー

宗教的霊性と、シュタイナーの霊性を比べることは、しない。

第六の領域は、活動する魂の力の領域である。

利己的性格をもたなくても、行為の動機が感覚の満足にあるような事業欲は、この領域の中で浄化を受ける。
シュタイナー

理想主義者、犠牲的精神に富んだ人も、それは、感覚的な快感の高まりなのであると、言う。

芸術的な人や面白いというだけの理由で学問的研究に没頭している人の多くは、この部類に属する。芸術や学問の存在理由がそのような面白さにあると信じることが、彼らを物質界につなぎとめているのである。
シュタイナー

だから、この領域で浄化を受ける・・・

そして、本来の魂の生活の領域である、第七領域は、感覚的物質的世界への執着から最終的に人間を解放する。

最後に残された魂の部分は感覚的世界のためにすべてを捧げて働くべきだという考え方であって、これが霊を依然として覆い包んでいるのである。
シュタイナー

非常に優れた人物の中にも、物質界の事象以外のことはあまり考慮しようとしない人がいる。そのような信念を唯物論信仰と呼ぶことができるだろう。
シュタイナー

シュタイナーの言う、唯物論である。
更に、唯物論信仰・・・

優れた人ほど、唯物論に陥りやすいだろう。
そして、その人たちの霊界も、存在する。
唯物論者でも、霊界入りするのである。

この領域で魂は、真の現実の中には唯物論信仰の対象となるようなものは何も存在しないということを悟る。
シュタイナー

違う。
勿論、肉体を失った後に、つまり死後の世界にて、更に、唯物的な問題に取り組む人たちもいる。

ということは、シュタイナーによれば、低い段階にいるということになる。

その領域では、
魂は今や魂界に残りなく吸収し尽くされ、霊はあらゆる束縛から自由になる。霊は今、彼本来の諸領域へ向って飛翔する。それらの領域においてのみ、霊は自己本来の環境の中にいる、ということができるのである。
シュタイナー

魂は生前のこの世の課題に応えてきた。そして死後、この課題のうち霊にとって束縛であったものが解消された。魂は地上生活のこの残滓を残りなく捨て去ることにより、魂自身、その本来の領域の中に還元されるのである。
シュタイナー

魂は、この世の生活の中であらかじめ作られてきた条件次第で、以上の諸領域のどれかに長く留まったり、短く留まったりする。
シュタイナー

魂界も、霊界も、この世の言葉で表現するのは、実に難しい。
それをシュタイナーは、書き続ける。
それは、評価できることである。

しかし、そこに佇んだ時に、人間の存在は、知るのである。

死後の世界を知ることは、正しいことだが・・・
現実の世界を生きることは、もっと、難しいのである。

それは、人生は、あまりに苦悩に満ちている。
そして、不幸に満ちているのである。

神智学が、救いにならないのである。
霊学も、然り。

勿論、宗教を信じるように扱えば、一つの救いとなることも、可能だが・・・

何一つ、人生の問題は、解決しない。

例えて言えば、いい気なものである。

このように、難しく考える必要は無い。
人生を生き抜くことが、できれば、必ず、助け手が、差し伸べられるだろう。

それは、神でも、仏でも、霊学でもない。
私である。
私の存在に私が出会うことにより、救われるのである。

魂、霊・・・
そんな言葉を必要としない、世界がある。

だが、引き続き、シュタイナーの霊界を見る。

posted by 天山 at 06:00| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月05日

霊学178

いよいよ、霊界である。

この世界は物質界と全然似たところがないから、物質的感覚だけに信頼をおく人には、すべてが空想としか思われないであろう。
シュタイナー

更に、語ろうとすると、比喩になる。
当然である。
質も、次元も違うのである。

更に、物質的感覚だけを頼りにする人とは・・・
霊界に入らないだろう。

特に強調しておかなければならないのは、霊界が、人間の思考内容を織り成す素材とまったく同じ素材によって、織り成されているということである。
シュタイナー

この、素材という言葉も、比喩、暗示的である。

人間の思考内容の中に生きている素材は、この素材の真の本性の影であるに過ぎず、図式であるに過ぎない。影に投影された事物の影がその事物そのものに対するように、人の頭に浮かぶ思考内容は、この思考内容に対応する「霊界」の存在に対している。
シュタイナー

わざわざ、回りくどい、言い方をしている。

この霊界を、実相と名付けて、霊界を説明する人もいる。
この世は、写し世であるとか、仮の世とか・・・

まず物質界と魂界に存在するすべての事物や生物の霊的原像がこの世界に現れてくる。
シュタイナー

問題は「霊界」の中に、すべての事物の原像が存在する、そして事物や生物の物質的存在形態はこの原像の模造に過ぎない、ということなのである。
シュタイナー

確かに、下記のような人は、いる。

外部感覚だけに信頼をおく人はこの原像の世界を否定するであろう。そして原像とは、悟性が感覚的に知覚できる事物を比較しつつ作り上げた抽象概念なのだ、というであろう。なぜならこのような人は高次の世界を知覚していない訳だし、思想の世界を抽象的な図式においてしか知っていないからである。そのような人は彼自身が犬や猫を知覚するのと同じ身近さで見霊者が霊の存在を知覚するのだということも、原像の世界が感覚的物質的世界よりもはるかに強度の現実性をもっているということを、知らないのである。
シュタイナー

知らない人に、知ることを教えても、無理だ。
知らないとは、存在しないと、信じているからだ。

更に、シュタイナー独特な言葉遣いと、回りくどさに、辟易してしまう。

そして、重大なことは、シュタイナーも、己の霊界しか、知らないのである。
様々な、霊界の著作物があるが・・・
それぞれが、皆、同じ霊界とは、限らない。また、それぞれが、霊界の、一断面である。

霊界では一切が絶え間ない活動状態を保ち、止むことのない創造行為を続けている。物質界に存在するような休息とか停滞とかということは、ここには存在しない。なぜなら創造する本性が原像なのだからである。原像は物質界と魂界に生じる一切のものの創造者である。
シュタイナー

ここで、解ることは、シュタイナーの霊界は、物質の世界の霊界であるということが、察せられる。

原像の形態は急速に変化する。どの原像にも無数の特殊形態をとる可能性が存する。いわば特殊形態を自分自身の中から湧き出させる。原像は一つの形態を産み出すかと思えば、すぐにまた次ぎの新しい形態を出現させる。そして或る原像と別の原像とは互いに、多かれ少なかれ親密な関係にある。
シュタイナー

この、シュタイナーの物質的霊界に関しては、インド仏教思想家たちが、徹底的に、その存在の空なることを、議論している。

空とは、単なる、無ではない。
因果律のことである。

だが、先を進む。

「霊界」の中には、「霊視」されるものの他に「霊聴」の対処として考察すべき原像が存在する。
シュタイナー

ここから先は、オカルトと言える世界である。

「見霊者」が魂界から霊界へ上ると、やがてその知覚された原像は響きはじめるようになる。この「響き」は純粋に霊的な事実である。それは物質界の音とはまったく別様に理解されなければならない。・・・そしてこの音響、この霊的響きの中で、霊界の精霊たちが自己を語る。
シュタイナー

これは、もう、十分に物質の霊界であると言うことが出来る。

この音響の和声とリズムと旋律の交響する中で、彼らの存在の原則や相互関係、親和関係が明瞭に示される。物質界の中で、悟性が法則や理念として認めるものが、「霊耳」には霊的音楽として表現される。
シュタイナー

ピタゴラス派が、霊界のこの知覚内容を、天体音楽と名付けたと、言う。

ここではまさに「霊的知覚」が問題なのであり、「感覚的な耳」にとっては沈黙でしかないような知覚が問題なのだから。・・・
シュタイナー

物質の世界の霊界ならば、比喩でも、暗示でもない。
その通りであろう。

霊界と言っても、様々有り、更に、それぞれの霊界のそれぞれがある。

人間も、物質のひとつであるから、誤りではないが・・・
人間の、霊性と、その霊界とは、異質である。

posted by 天山 at 06:17| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月06日

霊学179

したがって、「形象」として「光輝くもの」として述べているものは、同時にすべて「響きを発するもの」でもある。色と光を知覚するとき、霊的な音が、そして色の組み合わせによる効果には和声や旋律等が同時に聞えているのである。また、音響が支配しているところでも、「霊眼」の知覚活動は止んでいない。
シュタイナー

常に響きには、輝きが、対応しているのである。
物質の霊界では、そうであろうが・・・

「霊界」においても、位置づけが正しく行なえるように、特定の段階もしくは領域を分類しておかなければならない。個々の領域は「魂界」の場合と同じように、ここでも層をなしてはっきり上下に区別されるのではなく、相互に浸透し合い、混淆し合っている、最初の領域には物質界の中の無生物の原像が存在している。
シュタイナー

ここから重要である。
鉱物の原像、さらに植物の原像もここに見出せるが、その場合は、植物が純物質的である限り、つまり生命が考慮されぬ限りでの植物の原像なのである。だからここでは動物や人間の物質的形態にも出会う。
シュタイナー

つまり生命が考慮されぬ限りでの植物の原像なのである・・・
これは、誤りである。

この領域が「霊界」の土台をなしている。
シュタイナー

これで、シュタイナーの見ている霊界が、矢張り、物質の霊界であることが、解る。

この領域と物質界との関係は比喩的にしか述べることができない。
シュタイナー

この関係については、次のように考えることによって、ひとつの観念を得ることができる。或る限定された空間に、あらゆる種類の物体がつめこまれているとしよう。今、心の中でこれらの物体を消し去り、それらの占めていた空間に、それらの形が残した虚空間を考える。一方、それまで何も存在していなかった空間(虚空間)の部分は、消し去られた物体たちと多様な関係をもつありとあらゆる形態によって埋め尽くされている、と考えるのである。
シュタイナー

これは、マジックである。
そこには、トリックがある。

このような、無用な観念は必要ない。
この、シュタイナーの霊的観念に、取り込まれると、抜け出せなくなる。

原像世界の最下位の領域はほぼこのような形相を呈している。そこでは、物質界の中に形態をもっている事物や生物が「虚空間」として存在している。そしてこの虚空間を取り巻く空間の中では、原像の(そして「霊的音楽の」の)活発な活動が行なわれている。物質界にあっては、この虚空間の部分を物質の素材がいわば充満している。肉眼と霊眼とを同時に働かせて空間を観察するなら、物体の存在と同時に、物体と物体との間に、創造する原像が活発に働いている様をも観るだろう。
シュタイナー

それが、シュタイナーの見た、霊界の最下位である。
と、いうことは、矢張り、物質の霊界なのであり、更には、それを見られるのは、彼一人だろう。
それは、彼の、霊界なのである。

これから、第二の領域、第三の領域と続くが・・・

別の意味の霊界として、理解しつつ、見ることにする。

第二の領域には、生命の原像が存在している。しかし生命はこの領域の中のひとつの完全な統一体をなしている。それは液体成分として、霊界のいたるところに流れ込み、いわば血液のように脈打ちながら、あらゆるところまで及んでいる。
シュタイナー

思考内容を素材にした流動する生命、人は「霊界」のこの第二段階をそう名付けることができよう。この流動する生命という活動領域の中に、物質的現実の中で生命ある存在として現れるすべてのものの根源的創造力が存している。この領域の中では、一切の生命がひとつの統一体であり、人間の生命もその他一切の生命仲間の生命と同質である、ということが示されている。
シュタイナー

生命・・・他の生命と同質である、は、当然である。

この次元の生命は、すべて、生命という存在として、同質というより、同通と言う方が、合っている。
同通する、生命なのである。

私は、以前に、シュタイナーを学ぶことは、生きていることの、注意深さを学ぶことだと、言った。
注意深く、この世を見れば、シュタイナーを理解できる。

霊学を知る人は、当たり前の事である。
しかし、シュタイナーの霊界、そして、その訓練法などを見ると、怪しいのである。

怪しい、というのは、過ちに近いが、それでは、その私の判断は、どこからのものかという、問題がある。

多くの、霊界参入を俯瞰して・・・
それぞれが、それぞれの、霊界を見聞した様を、報告している。
それを、振るい分ける。

その規準は、私の感受性である。
更に、妄想に入り込まぬように、細心の注意を払う。

他の人に、見えない世界は、見たと言う人の、独断場であり、その人の妄想全開の場合、多々あり。
そして、何にせよ、この次元では、証明できないのである。

それでは、方法があるか・・・
それは、信じることになる。

信じた者には、適わない。
何故なら、信じた者は、騙されるからである。

信じる前に、学ぶことを疎かにすると、人生を誤る。
posted by 天山 at 05:54| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月07日

霊学180

「霊界」の第三領域としては、一切の魂あるものの原像が挙げられねばならない。人はここでは、はじめの二つの領域よりも、もっと精妙な領域の中にいる。比喩的にそれを「霊界」の大気圏と名付けることができる。
シュタイナー

この、比喩的が、問題である。
別の人が、それを表現しようとすれば、別の著し方になる。

物質界や魂界で魂がいとなむすべては、この領域にその霊的対応物をもっている。一切の感情、本能、情念は霊的な在り方でこの領域内にもう一度現れる。
シュタイナー

読み進むにつれて、益々と、解らなくなる、世界である。

この霊界の大気圏における気象状況は物質界、魂界での生物の苦しみと喜びに相応している。人間の魂の憧れは微風のように現れる。激情の発作は暴風のようである。
シュタイナー

これは、当然なことである。

この領域の観察内容に通じている人は、どの生物に注意を向けても、その生物の嘆きに深く入っていける。
シュタイナー

すべて、比喩である。
いや、比喩的なのである。

第四の領域の原像は物質界、魂界とは直接関係をもたない。この原像は或る点では、以下の三領域の原像を統率し、相互の連繋を可能にする本性たちである。したがって彼らは下位の三領域の原像に秩序を与え、組分けする仕事に従事している。だからこの領域は下位の三領域よりももっと包括的な役割を引き受けている。
シュタイナー

更に、第五、第六、第七領域がある。

これらの領域の本性たちは下位領域の原像に活動の原動力を提供するのだから。
シュタイナー

本性たちは・・・
これも、比喩的なのである。

この高次の諸領域にまで上がることのできた人は、われわれの根底にある「意図」を知るようになる。
シュタイナー

実に、曖昧で、漠然としている。
つまり、比喩的なのである。

ここにも思考存在として多様極まりない形式をとっている原像が、生きた胚種として存在している。
シュタイナー

この言葉の数々を、説明抜きでは、理解できないのである。
そして、それを説明できるのは、ただ一人、シュタイナーのみである。

物質界における人間精神の創造性の源である諸理念は、霊界の高次領域におけるこの思考種子の影であり、残照である。
シュタイナー

壮大な言葉の羅列は、人をかく乱させる。
非常に危険である。

ここで知っておく必要があるのは、以上の思考種子が合成されたものだということである。思考世界の成分からいわば胚乳だけが取り出される。そしてこの胚乳が本来の生命の核を包んでいる。この生命の核とともに、われわれは「三つの世界」の限界に達したことになる。なぜならこの核は三つの世界よりももっと高次の諸世界に由来するのだから。
シュタイナー

人間以外の世界(宇宙)存在者たちにも同様の生命核が存在する。これらの核はもっと高次の諸世界に由来し、自己の使命をそこで成就するために、この三つの世界に移されているのである。
シュタイナー

これは、もう、オカルトと、呼んでもいい状態である。

このシュタイナーの世界から、能力を得ている人たちは、それを本当に理解しているのかどうかは、解らない。
シュタイナーの比喩的著作から、その意味を汲んで、勝手に理解し、あるいは、行為しているのである。

更に、それが、他人を巻き込むような行為ならば・・・
罪である。

これは、宗教を信じるのと、同じ扱いになる。
極めて、個人的な行為である。
シュタイナーの著作を批判しても、彼らを、批判する事は出来ない。

次ぎは、死後の霊界における霊・・・

人間の霊は、死後から新たに再生するまでの途上で、「魂界」を遍歴した後「霊界」に入り、新しい肉体をうけるための機が熟すまで、そこに留まっている。
シュタイナー

それを事細かく、書き続けるのである。
だが、それも比喩的である。
次元を別にする世界を、描くのは、妄想に陥る。

勿論、妄想でなければ、書くことが、出来ないだろう。
想像ではない。

この「霊界」潜在の意味を理解するには、輪廻転生の意味が正しく解釈できなければならない。
シュタイナー

二度と生まれないために・・・
と、インドでは、修行に励んだ。
そのインドの思想家たちでも、輪廻転生に関しては、明確ではない。
明確なのは、この世の、理論である。

その、シュタイナーの、輪廻転生の意味を、知るべきことが、必要である。

輪廻と、転生に関しても、人それぞれが、違うのである。

posted by 天山 at 05:59| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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