2014年05月24日

霊学161

人間は、体と、魂と、霊から、成り立っている。

そこで、体とは、周囲の事物が、それによって人間に自己を示すところのものを、意味する。

魂とは、それによって、人間が事物を自分自身の在り方と結び付け、それによって、気に入る、気に入らない、快と不快、喜びと、苦しみを事物から感じ取るもの。

そして、霊とは、事物を「いわば神的な態度」で観るとき、示されるものを意味する。

と、シュタイナーが定義する。
それをそのまま、受け入れることにして・・・

体を通して、人間は一時的に自分を事物と結び付けることができる。魂を通して、人間は事物が与える印象を自分の中に保持する。そして霊を通して、事物自身がみずから保持しているものが彼に啓示される。
シュタイナー

人間は、この三重の世界との関わりで、成り立つ。

それそれが、異なる世界であることも、付け加える必要がある。

要するに、体は、一時的に物事と関わり、魂は、それに対して抱く感情であり、霊は、物事の側からの啓示とは、その内容を理解するということ。

これを、延々として、繰り返し説明するのが、シュタイナーである。

体としての人間は、感覚に対して外から自己を現すところの事物と同質である。外界の素材がこの人間の体を構成している。
シュタイナー
と、いうように・・・

しかし、同じ観方で、魂の存在を、考察することは出来ないと、言う。
要するに、好んでいるか、嫌っているか、喜び、苦しみは、身体的感覚によっては、知覚出来ない。
それが、出来るのが、魂であり、体的な観方にとって、手の届かない領域だと、言う。

勿論、その通りであろう。
それを、魂の領域、世界と言うのである。

魂の存在は自分の世界として、人間自身の内部で担われている。
シュタイナー

しかし、霊によって、外界は高次の仕方で人間に示される。外界の秘密が明かされるのは人間の内部においてであるが、しかし人間は霊的存在として自分の外へ出ていき、そして事物に事物自身のことを語らせるのである。
シュタイナー

ここまで、丁寧、あるいは、くどいほどに、説明する必要があるようである。

何故なら、その後で、霊界という世界について、語るからだ。

シュタイナーは、兎に角、観念を創り上げる。
そこから、誘導する。

西欧の哲学は、皆々、似たようなものと考えている。
言葉の発生の違いか・・・

身体の諸感覚によって、人間の体を知ることができる。
シュタイナー

要約すると、人間は、鉱物、植物、動物という、三つの存在形式と同質である。
人間は、その三つの世界から成り立つ。

しかし人体は動物の体と異なっている。この相違は、たとえどれ程人間と動物との類似が考えられるにしても、すべての人によって認められなければならない。
シュタイナー

それと、共に、魂の存在も、霊的存在も、である。

だが、上記を読むと、魂も、霊も、存在していると、認めることが出来る。
シュタイナーの観念だと・・・

体と、魂と、霊という言葉で、人間の有り様を説明しているだけである。
何も、否定することは無い。

人体の存在の三つの形式、鉱物的、植物的、動物的形式が備わっているが、さらに第四の、独自の人間的形式がこれにつけ加えられなければならないのである。その鉱物的形式によって、人間は一切の可視的存在と同様であり、その植物的形式によって、生長し、生殖するすべての生物と同類であり、その動物的存在形式によって、環境を知覚し、外的印象をもとにして内的体験をもつ一切のものと同類である。その人間的存在形式によって、人間はすでに体的関係において、それ自身で独自の世界を形成している。
シュタイナー

改めて・・・
改めて、このように、語るのである。

この繰り返しの多さに、シュタイナーを投げ出してしまう人もいるだろう。

私も、霊界の部分まで、進んで行くが・・・
それ以上は、必要が無い。

シュタイナーの情報が、何処の霊界からなのかを、確認してみるべきなのだ。

そのために、続けている。

シュタイナーの概念に添うと、魂も、霊も、当然と思うだろう。
それは、人間の持つ、働きだからである。
その最大のものは、脳である。

脳の働きを、このように、解釈したともいえる。
ただ、超感覚的世界となると、突然、疑問が湧き上がる人が、大勢だろう。

脳を超えての、超感覚的世界なのか・・・
それに、疑問を持つ。

脳内で、すべてが、解決しているのではないか・・・
当然、そのような疑問が起こる。
脳以外に、人間を、動かすものが存在するのか・・・

例えば、脳は、心に支配されている、とか。
心によって、脳が作られたとか・・・




posted by 天山 at 05:51| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月13日

霊学162

人間の魂の本性は固有の内面世界であり、この点でその体的本性から区別される。この固有の世界はもっとも単純な感覚的知覚に注意を向けるだけで、ただちに立ち現れてくる。他の人間も彼自身とまったく同じ仕方でこのような単純な感覚的知覚を体験をするものか否か、誰もはじめはそのことを知ることができない。色盲は事物をさまざまな灰色のニュアンスの中でしか見ない。
シュタイナー

だが、他人の知覚を、私は、知ることは出来ないのである。

シュタイナーは、ここで、感覚的知覚は、魂的内容に属することを、言う。

そして、感覚的知覚に続いて、感情が加わる。
それは、快、不快という感覚を得る。

魂の内的いとなみの、現われだ。

人間は感情の中で、外から彼に働きかけてくる世界に対して、第二の世界を創り加える。さらに第三のもの、すなわち意志がこれに加わる。意志によって、人間はふたたび外界に作用を及ぼす。そしてそのことによって、彼は自分の内的体質を外界に刻印づける。
シュタイナー

魂は、意志行為を通して、外へ流出するのである。

魂は、人間固有の世界として、外界に対置されている。

体的本性は、魂的存在の低層になる、ということだ。

このようにして、徹底的に、シュタイナーは、語り継いでいる。
これは、哲学である。
哲学の方法を用いて、霊学、神智学を語るのだ。

さて、これから、人間は、思考するという。
まさに、哲学である。

知覚内容を思考することで、彼は事物についての認識を獲得する。
シュタイナー

当然である。

ただし、正しい思考に導かれているときのみ・・・
人間としてふさわしい、仕方で、課題が達成出来ることを知ると、言う。

魂はそれ故、二面の必然性に向かい合っている。すなわち体の諸法則によって自然必然性に規定されているとともに、正しい思考に導く諸法則の必然性にも進んで自分を従わせている。
シュタイナー

ここでの、正しいとは、何か・・・

みずから自由な思考の法則にも従っている、らしい。

そりにより、人間は、体が属している秩序より、高次の秩序に、つまり、霊的秩序に属するものとなる。

体が魂から区別されるように、魂もまた霊から区別される。
シュタイナー

体内で作用する、炭素、水素、窒素、酸素の分子だけで語る限り、人は魂に注意を向けていないと、言う。
そこから、甘味、快感を持つ近く内容が現れるとき、はじめて、開始される。

同様に、自分をまったく外界と身体生活とに委ねているときの魂の諸体験だけを見ている限り、人は霊に注意を向けていない。体が魂の基礎であるとすれば、魂はむしろ霊の基礎なのである。
シュタイナー

さて、次ぎは、思考の意識を明瞭にするということである。

脳は、思考の身体的器官である。

正常に発達した脳の所有者だけに色が見えるように、ふさわしい発達をとげた脳の所有者だけに、思考する力が与えられている。
シュタイナー

これもまた、当然である。

人間の脳の構造は。脳の機能との関係において考察されるとき、はじめて理解されるようになる。その機能とは思考する霊の身体的基礎となることである。
シュタイナー

極めて、正確にシュタイナーを紹介するため、引用が多いが・・・

或る人々は思考を過小評価し、「内的な感情生活」、「感受性」をより高くおこうとする。「冷たい思考」ではなく感情の熱さ、感受性の生ま生ましい力を通してこそ、人は高次の認識にまで高められるのだ、とさえいわれている。このように語る人々は、透徹した思考が感情を鈍感にするのを忘れている。
シュタイナー

しかし、そうではない。

高次の世界と係わる純粋で水晶のように透明な思考内容が呼び起こす気分に比較できるような感情や感激など、存在しない。最高の感情というものは「おのずと」現れてくる感情なのではなく、精力的な思考作業において獲得される感情なのである。
シュタイナー

精力的な思考作業により、獲得される、感情・・・
それは、「おのずと」現れてくるものではない。

日本人には、馴染みの薄い、感覚である。
心理学でいうところの、感情とも違う。

この、精力的な感情を辿るために、シュタイナーは、精力的に説明しているのだろうか。

人間の思考は、鉱物界にも存在する、素材と力から、人体中で、思考が十分出来るように、構成され、結合されている。
それを、シュタイナーは、肉体と、呼ぶ。

新しい、物事の解き方を考え出したといえる。
posted by 天山 at 08:25| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

霊学163

生殖、生長を通して、生あるものは生なき鉱物から区別される。生あるものは、生あるものから胚種を通して生じる。子孫は生あるものの系列の中で、先祖と結び付いている。鉱物を生じさせる諸力は、その鉱物を構成する素材そのものに働きかけている。
シュタイナー

当然である。
が、あえて、そのように説明する。

生あるものの形態は遺伝によって伝えられる。
シュタイナー

シュタイナーが、あえて、それらを説明するのは、ある時点から、霊学の言い方になるからである。確認しているのである。

或る生物がいかに生長するかは、どのような父母から生じたのか、換言すればどの種に属するのかに依存している。それを構成している素材は絶えず入れ替わが、種は生命のある間は存続し続け、子孫に遺伝される。
シュタイナー

これも、その通りである。
だが、そこから、
この種を形成する力は生命力と名付けられる。
そして、その生命力から得た、身体、及びそれにまつわる、体を、エーテル体、生命体と名付けられる。
と、なる。

しかし、ここで言う、エーテル体は、それ以前の自然科学で言われる、エーテル体とは、違うのである。

その、註には、
非有機的自然の諸法則は有機体内でも結晶体内でも等しく同じ法則である。しかし有機体内には非有機的ではない何かが存在するのである。そして、それが形成する生命であり、この生命の根底にはエーテル体もしくは形成力体が存している。
と、ある。

シュタイナーの、エーテル体は、
すべての植物、動物の中に、物質的形態以外に、生命に充ちた霊姿をも感知する。
と、ある。

それが、エーテル体であり、生命体である。

エーテル体は物質的な素材や力が産み出したものではなく、物質的な素材や力を生あるものに変えるところの独立した現実的本性なのである。
シュタイナー
と、いうことになる。

霊学的に語れば、単なる物体は、たとえば結晶体のように、その形態を無生物の中に内在している物理的形成力を通して得ている。生きた身体はその形態をこの力を通しては得ていない。なぜなら生命が離れ、そしてただ物理的力だけに委ねられた瞬間に、生きた身体はその形態を分解しはじめるから。
シュタイナー

死ぬということである。
死によって、生命が、離れると、分解し始めるのである。

この生命体を見、それを他の存在の中に知覚するためには、目覚めた「霊眼」が必要である。
シュタイナー

この、「霊眼」が、全く、新しい概念として、登場してくる。

論理的根拠から、生命体を容認することは出来るが、色を肉眼で見るように、それを見るには、霊眼をもってしなければならない。

人間のエーテル体のあり方は、思考する霊に対応している点で、動、植物のそれから区別されている。
シュタイナー

人間は、肉体を通して、鉱物界に属しているように、エーテル体を通して、生命界に属している。

だから、死後、肉体は、鉱物界へ、エーテル体は、生命界に解消される。

「体」とは存在に何らかの種類の「形姿」、「形態」を与えるものをいう。「体」を物体ととりちがえてはならない。本書でいう体は、魂や霊として形成されるものにも用いられている。
シュタイナー

だが、生命体は、人間にとって、まだ、外的なものである。
外界と呼ぶものを、何処まで辿っても、感覚に出会うことはない。

更に、そこからの説明が続く。

生命体の観察が出来るなら、物理的な脳の働きが、同時に生命の働きであることを、知覚する。
しかし、光線を感じた人の青色の知覚を、このような仕方で、見出すことは出来ない。

それはその人の魂の内部で、はじめて生じるものである。
だから、光線を受け取った存在が、肉体、エーテル体だけしかなければ、この知覚は、存在しえない。
つまり、魂が、必要なのである。

更に、それを、知覚する働きの、源泉を、感覚魂、と呼ぶ。

感覚魂の知覚に対しても、エーテル体で説明したと同じようになる。

肉体の諸器官は感覚魂を見ることができない。生命を生命として知覚できる器官もまだそれを見ることができない。しかしこの器官によってエーテル体が知覚できるように、それよりもさらに高次の器官によって、感覚の内的世界も特殊な超感覚的知覚内容になることができる。そのとき人間は物質界、生命界の諸印象を感知するのみならず、感覚体験をも見る。
シュタイナー

ここで、見る、というのは、超感覚的世界の、言い方である。

それは、我と他では違う。
他の人間の感覚世界は、ただ見者だけが、開かれた「霊眼」をもって、見ることができるのである。

見者でない人間は感覚世界を外には現れない自分の魂の「内なる」体験としてしか知らない。開かれた「霊眼」をもって見れば、その他の場合には他の人間の「内部で」だけ生きているものが、外なる霊的光景の前面に輝き出る。
シュタイナー

更に、
見者は、他の人間の感覚世界の内容と同じものを体験するのではない。他の人間は感覚内容を自分の内的視点から体験する。見者は感覚世界のひとつの表明、ひとつの表現を知覚するのである。
シュタイナー

何とも、回りくどい、言い方であるが・・・
その霊界に、辿り着くまでは、批判を控える。

posted by 天山 at 06:07| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月15日

霊学164

感覚魂はその作用に関してはエーテル体に依存している。なぜなら感覚魂は、自分が現出させる感覚内容を、エーテル体から取り出してくるからである。そしてエーテル体は肉体内の生命なのだから、感覚魂は肉体にも間接的に依存しているのである。健康な肉眼だけがふさわしい色彩感覚を可能にする。このように体的本性は感覚魂に作用している。だから感覚魂はその働きを体によって規定され、限定されているといえる。それは体的本性によって引かれた境界線の範囲内で生きている。
シュタイナー

シュタイナーの考え方・・・
それは、シュタイナーの概念、あるいは、観念を理解するということだ。
一般通念としての、言葉は無い。

だから、シュタイナーが、自身の著書から学べと言うが・・・
それが、誤りだったら。また、解釈の仕方に、誤りがある場合は・・・
シュタイナー教育なども、提唱されているが、一体、シュタイナー以外の誰が、それを正しく教え、伝えられるのか。

しかし感覚魂の境界は肉体の境界と重なり合ってはいない。感覚魂は肉体を越えて聳え立っている。
シュタイナー

それは、肉体よりも、勢力範囲が大きいということ。
だが、感覚魂に、境界を設ける力は、肉体から発している。

それにより、肉体とエーテル体、また、感覚魂、この両方の間に、人間本性の、特別の部分が設定されなければならなくなっている。

それが、魂体もしくは、感覚体である。
エーテル体の一部分は、他の部分より、精妙にできている。

通常の感覚とは、心理学で言う感覚として、考えると、確かに、肉体を越えて行くが・・・
だが、それも、肉体あればそこの問題である。

そしてこの精妙なエーテル体部分が感覚魂と統一体を形成しており、一方そのより粗雑な部分は肉体と一種の統一体を形成しているのである。
シュタイナー
しかし、感覚魂は、魂体を突き抜けて、聳え立つ。

ここで感覚と名付けられているものは魂の本質の一部分に過ぎない(感覚魂という表現は簡明さの故に選ばれている)。感覚には快、不快、衝動、本能、情欲が結び付いている。これらすべては感覚と同じ特性、特質をもっており、体的本性に依存している。
シュタイナー

更に、
感覚魂は体に対すると同様、思考つまり霊に対しても、相互作用をもっている。まず思考が感覚魂に仕える。人間は自分の感覚内容について思考をめぐらし、それによって外界を解明する。
シュタイナー

これほど、回りくどい言い方をしているのは、その世界が、霊学だからである。
シュタイナーの霊学というものに、導こうとするのである。

感覚魂は、動物も同じく有する。が、動物は、直接従うだけで、それを超えた思考内容と、結び付けない。
思考能力をもった、より高次の魂は、悟性魂と名付けられる、と言う。

その別の側面は、心情魂もしくは、心情とも呼びうるだろうとのこと。

自分で一つの、体系付けた思想を表現するのであるから・・・
当然、新しい概念、あるいは、観念の言葉が必要だが・・・

悟性魂は感覚魂に浸透している。それ故、魂を「見る」器官をもつ者は悟性魂の中に単なる感覚魂とは異なる特性を見る。
シュタイナー

上書きして、更に、上書きして書き付けている。

人間は思考を通して個人生活の圏外へ出ていく。彼は自分の魂を超越した何かを手に入れる。
シュタイナー

以前、高橋巌氏の、解説を延々と紹介したので、ある程度は、理解出来るものである。
だが、直接、シュタイナーを読む者が、果たして、シュタイナーを理解出来るのかは、疑問だ。

何故、あえて、解ることを、解りにくくして、書くのか・・・
私には、よく解らない。

哲学とは、深くより深く掘り下げて、物事を見つめる態度である。
それは、シュタイナーの著作でも、同じことだ。

そして、物事の、原理を探る行為である。
行為ではない。
原理である。

だから、くどいのである。

思考の法則が宇宙の秩序と一致していることは、彼にとって疑う余地のない事実なのだ。彼はこの一致が存在するからこそ、自分をこの宇宙の定住者であると考える。この一致が存在するという事実によって、人間は自己の本性が何であるかを学ぶのである。
シュタイナー

改めて、考えると、その通りである。
しかし、日々の生活の中では、それは、当たり前過ぎて、意識する事は無い。
シュタイナーの著作によって、それは、当たり前だと、納得する。

そういう、シュタイナーの行為を、哲学するという。
哲学である。
それが、霊学となると・・・

感覚魂、悟性魂、心情魂・・・
新しい意味づけになるのか。

感覚、悟性、心情なのである。
改めて、魂と名付けることに、何の意味があるのか・・・
と、いうこで、まだ先は、続く。

人間は自分の魂の内部に真理を求める。
シュタイナー

そのように、改めて言うのである。
だから、私も改めて言う。
シュタイナーを読み続ける行為によって、シュタイナーに洗脳されて行くのである。

posted by 天山 at 05:52| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月16日

霊学165

気に入ること、気に入らぬこと、欲求と嫌悪は個人の魂に属する。これらを超えたところに義務が立っている。人間にとって義務は、そのために生命を犠牲にする程までに、高い意味をもちうる。そして人間は、自分の性向や好悪の感情を教化して、強制や服従なしに、自分から進んで認識が教える義務に従うようになればなる程、高次の段階に立っているのである。人倫=善は真理同様、永遠の価値を自分自身のうちに担っており、それを感覚魂から受け取るのではない。
シュタイナー

人間は、独立した、真と善を、自分の内部に生かすことで、自分を単なる、感覚魂から、超越させる。

永遠の光がこの感覚魂の中にさし込む。消え去ることのない光がそこに生じる。
シュタイナー

その、光の中に生きる限り、永遠の存在を有している。

魂の中で永遠の存在として輝くものは、ここでは意識魂と名付けられる。
シュタイナー

今度は、意識魂、である。

だが、人倫が何かということについては、語らない。
更に、真、善というもの・・・

魂の中の、不死なるもの・・・とは、言うが・・・

哲学者もまた、普遍の真理なるものを、考え続けるが・・・
いや、普遍の原理・・・

ここで意識魂と呼ぶのは、人間意識の核心、つまり魂の中の魂のことである。意識魂は、ここでは魂の特別の部分として、悟性魂から区別される。悟性魂はなお感覚、衝動、激情等の中に巻き込まれている。人は誰でも、はじめは自分の感覚や衝動の中から取り出してきたものを、真実だと思おうとする。しかし感覚等々に含まれた共感、反感の添え味をすべて取り去った真理だけが永続的真理なのである。真理は、たとえすべての個人的感情が反抗するときにも、真理である。この真理が生きている魂の部分を意識魂と呼ぶのである。

魂にも、三つの、区別が出た。
感覚魂、悟性魂、意識魂である。

そして下から体的本性が魂を限界づける働きをするように、上から霊性が魂を拡大する働きをする。
シュタイナー

物理学でも、数学でも、哲学でも、それらが説明出来るのだろうか・・・
上から、霊性を、云々とは、シュタイナーの場合は、特別な感触を持っている。

霊性という言葉を使うのは、主に宗教的発想である。
また、哲学でも、それは、別な意味を持つが・・・

シュタイナーの場合は、特殊なのである。

なぜなら魂が真と善とに充たされる程、ますます永遠なものがその中で大きく、勢いを増していくからである。
シュタイナー

そして、ここから、また、特別な言い方になる。

魂を「見る」能力をもつ者にとって、永遠の部分を拡大していく人間から生じる輝きは、肉眼にとって燃える焔が現実であると同様に、現実に存在する。
シュタイナー

この、「見る」という能力もまた、シュタイナーの世界のものである。

文字面だけでは、理解し難い・・・

「見者」にとって、体的人間は人間全体の一部に過ぎない。
シュタイナー
確かに、その通りだろう。
しかし、「見者」にとって、である。

体は、人間のすべての部分が相互に浸透し合っている中で、もっとも粗雑な部分である。肉体を生命形態にしているのが、エーテル体である。このエーテル体を超えて、あらゆる側面に魂体(アストラル的形姿)が拡がっている。さらにこの魂体を超えて、感覚魂が拡がり、その上に悟性魂が拡がっている。悟性魂の拡がりは真と善を受容すればする程、大きくなる。なぜなら真と善が悟性魂の拡大の原因なのだから。もっぱら気に入るか、気に入らないかという好みの観点に従って生きる人間の悟性魂の境界は感覚魂のそれと合致している。肉体の周りに雲のように現れるこれらの構成体は人間のオーラと呼ばれている。
シュタイナー

好みだけに従っている人間は、悟性魂が、拡がらず、感覚魂と、合致していると言う。
それでは、大半の人間が、そうである。

ここで言う、真と善とは、何か・・・
よく解らないのである。
勿論、キリスト教徒なら、それは、神であるが・・・

好みによって、真と善を考える人は、感覚魂と悟性魂が、合致しているということになる。
これは、批判ではない。追求である。

それから、オーラについての話が続くのだが・・・

エーテル体を超えて、アストラル的形姿が、拡がる・・・
その前に、肉体がある。その肉体を肉体にしているのが、エーテル体である。

アストラル体を、私は、幽体と呼んでいるが・・・
更に、オーラを発するものは、魂となると、考えている。

ただし、シュタイナーの概念に従うべきだ。
今は、それを理解しようとしている。

ただ、問題は、「見者」である。
霊能力者ということか・・・

あるいは、シュタイナーの著作を読んで、深めて行けば、見者になるのか・・・
誰が、見者として、認めるのか・・・

ここに、とても、怖ろしい罠があるように、思う。
誰もが、本当にそのように、成れるのか・・・
勿論、真と善を有する者。


posted by 天山 at 06:47| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月18日

霊学166

人間は自我意識を通して、自分を他の一切から区別された独立の存在であり、「私」であると考える。人間は体と魂の存在として体験するすべてを、「私」の中で総括する。体と魂とは私の担い手であり、体と魂の中で「私」は働く。肉体の中心が脳にあるように、魂の中心は「私」にある。
シュタイナー

肉体の中心は、脳であり、魂の中心は、私である。
理解出来るが、説明せよと言われれば、実に難しい。

「私」という概念も、霊学では、通常の「私」ではなくなる。

実際「私」に関しては、人間はまったく独りなのである。
シュタイナー

そしてこの「私」こそが、人間そのものなのである。このことがこの「私」を人間の真の本性と見做すことの正しさを示している。それ故人間は、自分の体と魂とを、その中で支え自分が生きるところの「外皮」であると考えることができる。
シュタイナー

私にとって、体と、魂は、外皮である。
魂の中心が、私、であるのに・・・

人間は、進歩向上するにつれて、この二つをますます自分の「私」の使用人として使うことを学ぶ。「私」という目立たぬ言葉は一切の他の言葉から区別される。この言葉の意味をよ考えるなら、深い意味での人間本性の認識への通路が開かれる。
シュタイナー

ただ内からのみ、魂は「私」という言葉を聴く。だから人間が自分に対して「私」というとき、そこからあの「外皮」が取り出されてきたところの諸世界のいずれとも係わりをもたぬ何かが人間の中で語りはじめる。この「私」こそが時とともにますます体と魂との支配者になっていかなければならない。
シュタイナー

私を意識する、私という意味として・・・
私が、支配者となる。
当たり前だ。

その、私に目覚めることが、私を認識するのである。

人間の成長を見れば、一目瞭然である。
成長と共に、自然に、そのようになってゆく。

そのことが、オーラに反映されると言う。

私が体と魂の支配者であればある程、オーラは分節化され、多様化され、多彩になる。
シュタイナー

そして、見者は、それを見ることが出来る。

しかし、私そのものは、見者にも、見えない。

さて、この自我は人間の中で永遠の光として輝く光の放射を、自分の中に採り入れる。人間は体と魂の諸体験を「私」において総括し、真と善との思考内容を「私」の中へ流入させる。一方から感覚の諸現象が、他方からは霊が、「私」に自己を打ち明ける。体と魂は「私」に奉仕し、「私」に自分を委ねるが、「私」は自分の目的を霊が実現してくれるように霊に自分を委ねる。「私」は体と魂の中に生き、霊は「私」の中に生きる。そして自我の中のこの霊こそが、永遠なのである。
シュタイナー

つまり、体と魂があり、私があり、その私は、霊の中に生きるということ。

自我は肉体の中に生きている限り鉱物の法則に、エーテル体を通して生殖と成長の法則に、感覚魂、悟性魂によって魂界の法則に従っている。そして霊的存在を自分の中に受け容れることによって霊の法則に従う。鉱物の法則、生命の法則が形成するものは、生成し死滅する。しかし霊は生成と滅亡には係わらない。
シュタイナー

ということで、霊は、永遠不滅のものなのである。
つまり、霊は、生き続ける。存在し続ける。

これは、信じるか、否か・・・
あるいは、思考から、徹底的、論理的に、それを知るかである。

そういう世界に、全く係わらない人もいるだろう。
生きるに、必要と感じない人も。

これらは、以前に書いた、人智学、神智学などについて、再度、目を通して欲しい。
更に、シュタイナーの時代感覚である。

永遠不滅の存在・・・
それは、人間の叡智である。

すべてが、脳の働きから来るものであると、考える人たちが多い。
脳が死滅すれば、すべては、死滅する。

永遠不滅の存在は、無い。
ここで、人間は、二通りに別れるだろう。

だが、シュタイナーを理解するには、永遠不滅の存在があるという、前提に立って、進まなければ、理解出来ない。

その、永遠不滅の存在は、輪廻転生している。

その根拠を、シュタイナーは、徹底的な思考を通して、更に、論理的に考えたのだろう。
私は、否定はしない。
だが、後々に、批判する。

シュタイナーの哲学は、批判ではなく、融合を唱えるが・・・
批判とは、合理主義、つまり、哲学の態度である。

シュタイナーは、哲学を超えると考えた。
ただし、それは、万人に理解されるのか否かは、別問題である。

だから、霊学となるのだ。
そのための、「行」までシュタイナーは、準備している。
そして、そこで、超感覚的世界に目覚めること。

超感覚的世界とは、霊学、そして、霊界の有り様である。
posted by 天山 at 14:39| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月10日

霊学167

自我は魂の中に生きている。「私」の最高の表現が意識魂によるとしても、この「私」は意識魂から輝き出て、魂全体を充たし、そして魂を通して、その作用を体にまで及ぼす。自我の中には霊が生きている。霊は自我の中を照らし、自我を外皮として、その中で生きる。自我が体と魂を外皮としてその中で生きるように。霊は内から外へ向けて、鉱物界は外から内へ向けて、自我を形成する。一個の「私」を形成し、その「私」の中で生きる霊は、人間の「私」もしくは「自我」として現れるから、「霊我」と呼ばれる。
シュタイナー

それでは、霊我と、意識魂の区別は・・・
意識魂は、あらゆる共感、反感から独立した、自分自身によって存在する真理に係わる。
霊我は、自分の中にこの同じ真理を担っている。
その真理は、「私」によって取り上げられ、「私」の中に包み込まれている。

「私」によって、真理は個体化され、独立した人間の本性になる。
シュタイナー

そして、永遠の真理が、独立し、「私」と結び付いたひとつの本性になることにより、「私」自身が霊我となって永遠性を獲得する、ということになる。

霊我となり、永遠性を獲得する・・・
何とも、説明がつかない。

物体界の顕現が感覚と呼ばれるのと同じ意味で、霊界の顕現は直観と呼ばれる。どんな単純な思考内容もすでに直観を含んでいる。
シュタイナー

ここで、直観である。
霊界を持ち出さずとも、哲学は、反省と直観なのである。

だが、
肉眼がなければ色彩感覚も存在しないように、霊我の高次の思考内容が存在しないと、直観は生じ得ない。・・・直観は霊的存在を産み出すのではなく、ただそれについての情報を提供するだけなのである。
シュタイナー
と、言うことになる。

次ぎは、霊人という言葉が、出てくる。

霊的内容は人間の永遠の養分である。人間は物質界から生まれ、真と善の永遠の法則によって霊から生まれる。人間は、独立した存在として物質界から切り離されているように、彼の外にある霊界から切り離されている。この独立した霊的人間存在は「霊人」と呼ばれる。
シュタイナー

そこで、シュタイナーが区分けしたものを見る。
A―――肉体
B―――エーテル体もしくは生命体
C―――魂体
D―――感覚魂
E―――悟性魂
F―――意識魂
G―――霊我
H―――生命霊
I―――霊人

現界の人間は、七つの部分より成る。
1―――肉体
2―――エーテル体もしくは生命体
3―――感覚する魂体
4―――悟性魂
5―――霊に充たされた意識魂
6―――生命霊
7―――霊人
以上である。

つまり、魂体と、感覚魂、意識魂と、霊我は、現界では、一緒だということ。

アストラル体とは、魂体と感覚魂を一緒にした名称である。

アストラル体の中には、人間の衝動、欲望、情欲が感情内容として、働く。
更に、感覚的知覚も、働く。

また、まだ詳しい説明をしているが・・・

そして、更に、人間を区別している。

1―――肉体
2―――生命体
3―――アストラル体
4―――魂の核としての自我(私)
5―――変化したアストラル体としての霊我
6―――変化した生命体としての生命霊
7―――変化した肉体としての霊人

批判はしないと、言ったが・・・
シュタイナー以前の、あらゆる、思想、哲学、宗教・・・その他が、係わっている。

神智学を名乗るのであるから、当然と言えば、当然だが・・・
シュタイナー学である。

霊界による、物の見方・・・
一体、誰がそれを判定するのか、解らない。
そのまま、受け入れるか、拒否するか。

グノーシス主義なども、色々と霊について、語る。
その真理と、善、そして神の存在である。

シュタイナーは、高次の次元を語るが、神とは、出て来ない。
その点では、神という存在も、霊であるから、当然であるが。

神々と言う方が正しい。
つまり、霊の世界であるからだ。

それを霊界と言うならば、霊界は、無限とも言える世界である。
それぞれの、霊界の世界を俯瞰して、それぞれに、霊界の所存がある。
シュタイナーも、その一人である。

次ぎは、霊の再生と運命、を読むことにする。
posted by 天山 at 05:17| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月11日

霊学168

霊の再生と運命、から見ることにする。

体と霊の中間には魂が生きている。体を通して魂にまで達する諸印象は一時的なものである。それらは、体がその器官を外界の事物に向けて開いている間しか、存在しない。
シュタイナー

それを説明するのに、シュタイナーは、バラの花の例えを説く。

目の前にある、バラの花は、目がそれに向って開かれたとき、はじめて、バラの花の色を感知する。
知覚が生ずるには、外界の事物と肉体の器官とが、現存していなければならない。

しかし私の霊が薔薇について認識した真理は、現存するものだけに通用する真理ではない。この真理はまた、私次第でどうにでもなるというものでもない。・・・その真理が真理であることに変わりはない。
シュタイナー

大切なのは、魂のためにこの顕現に際しては、魂の無常なる体的基礎を問題にする必要がないこと、この無常なるものに依存せずに魂の中で働いているものが問題なのだということである。
シュタイナー

魂が、体と、霊の中間に位置づけられていること。
そして、魂は、現在と持続の仲介もする。

魂は今あるものをその無常性から切り離し、魂の霊的部分の持続の中に取り込む。・・・
魂が一時の刺激の中に埋没することなく、自分の方から積極的に事物に働きかけ、その行為の中で事物と自分の本質とをひとつに結び合わせるからである。記憶を通して昨日を保持し続け、行為を通して明日を準備するのが、魂の働きなのである。

体と、霊と、魂の差について、語る。

当たり前であることを、繰り返し説明する様子である。

記憶はいかにして生ずるのか。明らかに感覚や知覚とはまったく別様に生じる。
シュタイナー

それは、端的に、
思い出すということは、それ自身もはや存在しない何かを体験するということである。
と、なる。

それは昨日の私の体験に際しても働いており、今日の体験に際しても働いているところの、私の中に存在する同一の本性である。これまでの論述では、魂と名づけられていた。
シュタイナー

魂は、記憶となる経過を、記号を刻むように、体に刻みつける。

魂は、記憶の保持者であるとのこと。

魂が霊の視界を過去にまで押し広げているのである。魂が過去から持ち込んでくるものが多くなればなるほど、ますます霊の視界は豊かになる。そのように、魂は体から受けとったものを、霊に提供するのである。
シュタイナー

だから、人間の霊は、どんなときにも、二つのものを自己のうちに担っている。第一に、真、善の永遠の法則を、第二に過去の諸体験の記憶を。人間の霊は、この両要素の影響の下に行為を遂行する。
シュタイナー

他人の霊を理解するなら、二つのこと、第一に、どの程度まで永遠なものがそこに顕現しているか、第二に、どれ程の過去の体験内容をそれが担っているか。
と、いうことになる。

煙に巻くような、言い方である。

魂は体験を記憶に保存し、霊は能力を高め、生活内容を豊かにするものをそこから吸収する。人間の霊はこのように摂取された諸体験を通して成長するのである。
シュタイナー

魂も、霊も、別の言葉に置き換えることが、出来る。
これでは、特殊な考え方であり、受け入れられる人、受け入れられない人と、出てくるだろう。

魂と霊の定義づけと考えて、続ける。

次に、肉体に関しての、記述であるが・・・
省略する。

ただ、肉体的意味での種や類は、遺伝との関連においてのみ正しく理解される。共に、霊的本性もまた同様に、霊的遺伝を通してのみ、理解される、と言うが・・・

肉体的なものは、先祖から受け継ぐが、霊的なものは、私以外の誰からも、その形姿を受け継いでいない、と言う。

つまり、輪廻転生の過程で、得た、霊的素質である。

そして現在の地上生活以前には、ただ純粋に霊的な、霊界での諸体験だけがあった、という考えに留まることができなくなる。
シュタイナー

つまり、霊的人間は同じ霊的人間の再生でなければならぬ。なぜならどんな人も霊的人間としては、自分だけの類なのだから。
シュタイナー

ここからが、問題である。
霊的人間の再生は、外的物質的事象の分野には属さぬ、まったく霊的な分野での出来事であり、この分野では、われわれの通常の諸能力の中では思考力以外のいかなる力も通用しないのだ、ということである。思考力を信頼しようとしなければ、高次の霊的事象を解明することはできない。
シュタイナー

これで、人それぞれが、勝手な解釈に陥るのである。

人生を深く捉えるという意味では、お勧め出来るが・・・
これを元に、妄想の世界に入り込むとなると、危険である。

思考力・・・
それは、一体、どんな力なのか。
それに関する説明はない。

ただし、これは、利用出来るものである。
だから、新興宗教に、よく扱われるものである。

posted by 天山 at 06:12| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月12日

霊学169

生と死の間に限定された人間は、体的、霊的、魂的の三世界に属している。
シュタイナー

霊魂を認める人は、当然のことだ。

魂は、体と霊との中間部分をなし、体の第三部分である、魂体に感覚能力を付与し、霊の第一部分である、霊我を意識魂の中で、有効に働かせる。

霊我は、意識魂が、養分を供給すればする程、より豊かに、より強くなる。

魂と霊の間のこのような相互作用は、当然のことながら、魂と霊とが混ざり合い、浸透し合う状態、つまりすでに述べた「霊我と意識魂」の合一状態においてのみ、可能だからである。
シュタイナー

さて、それから、魂体と感覚魂の、相互作用のお話である。

自分が知りえたと思うことを、文章にするのは、難しいが、特に、シュタイナーの場合は、難しい。

一つ一つの、シュタイナーの概念を覚える必要があるからだ。

肉体、エーテル体、魂体は一定の関連において、ひとつの全体をなしている。だから魂体も、肉体に形姿を与える遺伝の法則に従っている。そして魂体は体的本性のもっとも動的な、いわば流動的な形態なのだから、遺伝においてももっと動的、流動的な現れ方を示している。
シュタイナー

魂体は、個人的特徴の中でも、親から子に遺伝していく部分の担い手なのである。
シュタイナー

だが、魂は、完全に独自の生活を営んでいる。
好き嫌い、感情、欲望をもった完結した、存在である。

とはいえ魂も全体として有効に働くのだから、感覚魂においてもこの全体性が明白に刻印づけられている。この感覚魂が魂体に浸透し、いわば充満するので、魂体は魂のこの全体性に従って形成され、その上さらに遺伝の担い手として、性向、欲望等を先祖から子孫へと伝えることができるのである。
シュタイナー

魂と、魂体・・・
実に、妙なことだが・・・

感覚と感覚魂・・・

次に、魂と霊の相互作用である。

魂は、真、善の中に生きる能力とを、霊そのものから受け取る。霊我は、「私」に霊界から真と善の永遠の法則をもたらす。この法則は意識魂を通して、魂の独自の体験内容と結び付く。
シュタイナー

ここでも、躓く。
霊我は、「私」に霊界から・・・
だから、その霊界が、問題なのである。
その、霊界に行き着くために、私は、こうして、シュタイナーを紹介している。

つまり、霊界の存在を前提にして、お話しているのである。
それが、虚無ならば・・・
話は成り立たない。

また、それが、霊学、神秘学なるものなのだが・・・

このようにして永遠の霊に移ろいゆく生活の成果が刻印づけられる。
シュタイナー

本人だけが、納得し、理解する世界・・・

モーツアルトは、少年の頃、一度だけ聴いた長大な曲を、記憶だけで、譜面にすることが出来た。
それを例にして、シュタイナーが述べる。

この能力は霊我に刻印づけられているのである。そしてもしそれが生存中に刻印づけられたものでないとしたら、前世においてでしかない。
シュタイナー

ひとりの人間の霊はそれ自身でひとつの類である。
シュタイナー

上記は、聞き流すことの出来ない言葉だ。
人間の霊は、それ自身で、ひとつの類である。

つまり、一人一人の人間は、類ではなく、一つの類なのだということは、霊という存在は、絶対孤独の存在であるということ。
そして、シュタイナーが唱える、神智学、霊学も、それぞれで、違うということだ。

更に、一人一人の霊界も、違うのである。

ある部分の霊界を提示して、その霊界からの、情報のみで、霊的存在の人間を説くことは、誤りではないが、誤ることが多いといえる。

そして人間の体的類存在がその特徴を類の中に遺伝するように、霊は霊の類の中に、つまり自分自身の中に、その特徴を伝えるのである。
シュタイナー

更に、
或る人生の中で、人間の霊は自分自身の繰り返しとして、前世の諸体験の成果を担って現れる。この人生は以前の人生の繰り返しなのであり、霊我が前世において学び取ったものを必然的に伴っている。霊我は、成果となりうるものを自分の中に摂取するとき、生命霊に自分を浸透させる。生命体が種から種へその形態を繰り返すように、生命霊は魂を個人的存在から個人的存在へと反復させるのである。
シュタイナー

この通りだろう。
これは、普遍的なことである。

霊界と、前世を認める者には、当然のお話だ。

posted by 天山 at 05:28| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月13日

霊学170

人間が今朝新たに創り出されたのではないように、人間の霊もその地上での生活を始めるとき新たに創られたのではない。
シュタイナー

これは、西欧、キリスト教にはない、考え方である。
東洋的だ。

ここで、地上の生活という。
霊の本来の場所は、霊界である。
霊、そして、霊界・・・
その、霊界の感覚を得ることを、超感覚的と言う。

似たような話が、繰り返させるシュタイナー著作である。

この世の人生を歩み始めたとき、何が生じたのかを明らかにしておかなければならない。遺伝法則に従って新しい形態を獲得した肉体が現れる。肉体のこの形態は以前の生を繰り返す霊を新たに担う担い手となる。
シュタイナー

何度も、同じことを、繰り返している。

この体と霊との間に、それ自身でまとまった固有の生活をいとなむ魂が立っている。すなわち愛好、嫌悪、願望、欲望が魂のいとなみを成り立たせている。魂は思考力を自分のために奉仕させる。魂は感覚魂として外界の印象を受けとり、そしてそこから得た成果を永続的に吸収するために、その印象を霊のところへもたらす。
シュタイナー

更に、
魂はいわば仲介者の役割を受け持ち、そしてこの役割を果たすことで自己の使命を成就する。
シュタイナー

以前も、書いたことだが・・・
繰り返しつつ、繰り返すのである。

しかし人間の霊が足を踏み入れる物質の世界はこの霊にとって未知の舞台ではない。
シュタイナー

輪廻によって、知りえる世界である。

それから、運命の話である。

人間の魂は第二のいとなみを続ける。そしてこのことこそ、どのようにして運命の働きが人生に係わってくるのか、という観点から人生を見るきっかけを与えてくれるのである。何ごとかが人間に係わってくる。人間ははじめこのような「係わり」が「偶然」人生に生じたのだと考えがちである。しかし人間は今の自分がこのような「偶然」の産物なのだということに気づくこともできる。
シュタイナー

意識の問題から言えば、心理学でも、それは、可能である。
仏教でも、因果の法則、因縁と言う言葉がある。ただし、それが、「空」という観念を生む。
そこには、実体が無い。「空」である。

偶然と考えても、必然と考えてもいいのである。
偶然が、内的必然となるとき、そこに、人生力が湧き起こる。
シュタイナーとは、全く別の考え方である。

「自分の身に起こる」事柄の中に、彼は彼自身の自我を認識する。もしこの認識が真に可能になるなら、あと一歩で人生の深い洞察に達する。
シュタイナー

認識が真に可能になるなら・・・
それは、一体、どういうことなのか。

そして運命体験を通して外から流れ込んでくるものの中にーーー過去の体験をふたたび明るみに出してくれる思い出が内から自我に働きかけるのと同様の仕方でーーー外から自我に働きかけてくるものを見る。
シュタイナー

人はこのようにして、魂の以前からの行為が、どのようにして自我への道をとるかを、運命体験の中に認めることができるようになる。それはちょうど、そのための外的きっかけがあれば、記憶の中で以前の体験が表象への道をとる(意識化される)のと同様である。
シュタイナー

つまり、シュタイナーの言いたいことは、
思考の光に照らされた身近な人生観を通して、この世の運命体験が前世の行為に繋がっているという、常識的には背理としか思えぬような仮説にまで導かれることになる。しかしこの仮説は超感覚的認識によってしか十全の内容を得ることはできず、この認識によらないなら影の姿をとるしかない。とはいえ通常の意識だけでこのような仮説に至ることは、真に超感覚的な観察を通して、その真実を観ることができるようになる為の準備となるのである。
シュタイナー

回りくどい言い方である。
実に、理解しにくいのである。

とはいえ・・・通常の意識だけで、このような仮説に至ることは・・・
それを言いたいのか・・・
その前の言を言いたいのか・・・

要するに、超感覚的認識が必要だということである。

それについては、超感覚的云々の際に、書き付けた。

これは、論文であるから・・・
私は、エッセイを書いている。
論理的に書かれていると思うが・・・

この作為に陥ると、誤る。
シュタイナーは、著作によって、暗示をかけている。
それも、実に言葉の複雑な暗示である。

霊界には、このような場所が存在するという、よい見本である。

たまねぎを、どんどんと、剥いてゆくと、何も残らない。
だが、たまねぎが、消えたという事実は、残る。
そして、それが、理解できたと、勘違いさせるもののようである。

勿論、シュタイナーは、その逆を行なっているつもりである。
どんどんと、実を重ねている・・・つもり・・・

posted by 天山 at 05:48| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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