2014年03月31日

霊学151

人間は、現在の姿が示しているような、霊的存在としての不完全な段階から出発して、その不完全さの中で完全な方向に導かれつつ、高次の世界の中で働くことができるようになろうとしている。
シュタイナー

これは、すべての霊学的なるものの、考え方である。
しかし、霊的存在としての不完全な段階から出発し、その不完全さの中で、完全な方向に導かれ・・・

何故そうなのか・・・
人間は、この現在の姿で、完全である。
霊的に観て、不完全なもの・・・

霊的に観ても、完全なのである。
ただ、気付かないだけである。

それぞれの、育ち、環境、教育、習慣により・・・
霊的な事柄に気付くことなく、生きてきた。
そして、それは、間違いなのか・・・

唯物主義の環境の中で、生きてきた人は、唯心的な考え方を持たない。

そして、この世の、育ち、環境、教育、習慣は、自らが、選んだ結果である。
そこに、生まれたくて、産まれたのである。

ここに未来への展望が結び付く。未来への展望は超感覚的世界のさらに高い段階へ修行者の眼を向ける。そこには感覚世界の中で成熟した果実が存在する。それによって感覚世界そのものが克服され、その果実は高次の世界に同化される。
シュタイナー

感覚世界とは、現実世界である。
超感覚的世界は、霊界である。あるいは、次元を別にした世界。

説明し過ぎの、くどさで、読者が、混乱する。
部分部分には、共感し、納得する所があるが・・・

この展望とともに、感覚世界における病気と死に対する理解も与えられる。死とは、かつての超感覚的世界がもはや自分自身によってはそれ以上前進できない地点まで達してしまったことの表現以外の何ものでもない。
シュタイナー

死に関しては、何とでも、言える。
シュタイナーの死も、それ以上前進できない地点に達した故に、死んだのか・・・

修行者以外の人の死は、どのようになるのか・・・

死滅し、凝結しつつある世界の残滓から、新しい世界の萌芽が現れる。
シュタイナー

当たり前である。
何故、シュタイナーが、この著作を書かざるを得なかったのか。

それは、シュタイナーは、知るという意識、認識があったからである。
それを知る者だから、書き続けた。

ところが・・・
修行は、著作を読み込み、それを読者が実践するという、意識で、書かれている。
こんな、怖ろしいことは、無い。

それでは、読者によって、様々な解説が成り立つ。
そして、その中でも、権威を持つと・・・
宗教指導者のようになる。

神話や、伝承ではないのである。
哲学も、超えている。
何せ、超感覚的世界である。

更に、シュタイナーの観た、霊界の諸相であり、誰も、それを鑑定する者がいない。

この修行は、注意力である。
そして、感受性を高めることである。

人間は・・・・・二重の存在である。死すべき存在でもあり、不滅の存在でもある。
シュタイナー

私には、この繰り返しのように、著作を読む。
その不滅の部分を目覚めさすために・・・

しかし感覚的、物質的な存在形式が示すこの二重世界の内部においてはじめて、人間は世界に不滅性をもたらすための能力を獲得する。
シュタイナー

事実、人間の使命は死すべきものの中から不滅なもののための果実を取り出すことである。
シュタイナー

人生訓としては、良い言葉だ。

人間は、自然体で、そのように生きている。
あえて言葉にすると、このようになる。

日本にも、このような、繰り返し、更に、深みに嵌った、宗教家がいた。
親鸞である。
言葉の世界も、さることながら・・・
似た霊界の者ではないかと、私は、感じている。

超感覚的世界というより、超哲学的、超思想的世界を、論じている。
そして、そこには、信じるという行為がある。

シュタイナーは、一体何を信じていたのであろうか。

・ ・の守護霊・・・・・
自分がどの位物質の感覚的な作用の中に巻き込まれているかを、人はこの・・の守護霊によって、はっきりと悟らされる。
シュタイナー

人間と肉体の感覚作用との係わり合いは、さしあたり、本能、衝動、欲望、利己的願望、あらゆる種類の私利私欲となって現れ、さらには人種や民族の一員であることにおいて現れる。その意味では民族や人種も純人間的なものへ到る発展段階の一つに過ぎない。
シュタイナー

霊界を知る者は、それぞれの、民族、それぞれの国に霊界が存在することを知るはずだ。

それまでも、超越して考えるということは、特別な霊界からの、見聞であると、思われる。




posted by 天山 at 07:11| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月22日

霊学152

人種や民族は、その成員たちが理想的な人間としての在り方をより完全に表現していればいる程、彼らが無情なる物質的存在から脱して、不滅の超感覚的存在へ到達しようと努力すればする程、より高い霊的地位を獲得する。それ故人間が輪廻転生を通して、時代と共にますます高い霊的水準に向う民族や人種の中で進化を遂げていくことは、ひとつの解脱の過程である。
シュタイナー

それでは、日本には、天皇という、超民族的な存在がある。
とても、恵まれた、民族であるということだ。
何せ、愛の象徴である。

シュタイナーの目指す、その存在こそ、天皇のような存在であろう。
しかし、研究者からは、そんな言葉は、見出せない。

これは、一つの提案的、発言であると、私は、聞く。

何か、大乗仏教の経典を読む心地がする。

ひとつの解脱の過程である・・・
その通り、一つである。たった、一つの解脱の過程なのである。

同じように、ますます純粋な道徳的宗教的立場に到達しようとする過程は完全さへの努力の一過程であるといえる。なぜならどんな道徳的な段階にも理想主義的な未来への萌芽とともに、過去への執着が含まれているからである。
シュタイナー

過去への執着・・・
何故・・・
何故、そんなことが、言えるのか。

つまり、道徳的宗教的な段階では、過去への執着が含まれる故に、一過程であるが、足りないというのであろう。

つまり、シュタイナーは、自分の霊学そこか、完全を目指すものなのだと、いいたいのであろう。

そこから、また、新しい守護霊の登場となる。

「・・の小守護霊」のところに大守護霊が加わってくる。ここでふたたび、この第二の「・・の守護霊」との出会いの情景を物語的形式で表現してみよう。
シュタイナー

自己を解脱させるには何をすべきなのかを悟った修行者の道の行く手に、崇高な光の姿が現れる。その壮麗な姿は到底筆舌には尽くし難い。
シュタイナー

その物語的形式は、省略する。

更に、再度、
筆舌に尽くし難い壮麗な輝きが第二の・・守護霊から発している。
と、書く。

第一の守護霊は、無意識の我。
そして、第二の守護霊は、無意識の底、魂の姿として、私は、理解する。

もし、本当に、そのようなものが、別存在として、現れるというならば、シュタイナーは、誤っている。
それそこ、次元の別にする世界から、そこような存在が、現れる事、事態、尋常ではない。

それならば、魔界関与である。

超感覚的な輝きを示すこの霊姿の要求に応じようと決心すれば、人類の解脱と救済のために寄与することができるであろう。
シュタイナー

超感覚的、つまり、霊界からの、使者・・・
人類の解脱と、救済は、そのような、化け物は、必要ないのである。

そろそろ、この著書も終わりに近づく。
延々として、説明を繰り返したシュタイナーであるが・・・

人間が高次の霊的諸領域で受け取るであろう事柄は外から彼の方へ来るのではなく、もっぱら彼から発して外へ向うところの、周囲に対する愛である。
シュタイナー

周囲に対する愛は、霊的に云々とするものではない。
修行者ではなく、普通の生活をする、普通の人間が、行なう行為である。
そして、そこから、特別な修行を必要とせず、愛の行為により、人類の成長と発展に、寄与するのである。

簡単に言えば、我を捨てて、利他のために、行為することで、人類は、解脱し、救済されるのである。

それにしては、人類の歩みは、遅い。

その、あとがきに、
特に霊学上真実なる魂の体験領域が迷信、白日夢、霊媒師のような霊的努力の退行現象と取り違えられることが多い。それは危険な錯覚を生み出すであろう。
と、書かれている。

人間が本書に記された道を歩む場合、その体験内容はすべて純粋に霊的、魂的に経験分野で得られる。
シュタイナー

日常生活をいとなむときの魂は、ほとんどの場合、常に思考を、知覚、感情、意志のような他の魂的活動と結び付けている。思考以外の諸活動は肉体を通して生み出される。
シュタイナー

それは、
体験そのものを身体生活から自由に独立させることができなければならない。
との言葉からだ。

しかし思考がこれらに働きかけるとき、その働きかけの度合いに応じて、人間の中に、人間を通して、肉体との係わりをもたぬ何かが生じる。この経過が肯定できない限り、人は魂の他の諸活動に制約された思考活動が生み出す幻影や錯覚から免れることができないのである。とはいえ、どんな人にも内面生活における思考部分を、それ以外のすべての部分から切り離して経験しうるまでに魂の自己集中を行なうことは、可能である。
シュタイナー

最も、端的に言えば、ヨガ、座禅による、訓練に近い。

だが、その必要は無い。

人格の分裂、人格障害・・・その他の、危険が伴う。

更に、著作を読み込んで、自分で行なうことが、推奨されている。
これこそ、危険である。

posted by 天山 at 05:31| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月23日

霊学153

魂の活動領域の中から、もっぱら純粋思考のいとなみだけを取り出す。その際、純粋思考というのは、自分自身の中にのみ基礎をもち、肉体的に制約された内面生活(知覚その他)をすべて排除することのできる思考のことである。
シュタイナー

このような思考は、自己自身で、自己の存在だけを通して、みずからが霊的=超感覚的な本質存在であることを明示する。
シュタイナー

矢張り、ここで、超感覚的とは、霊的な感覚のことであることが、解る。
霊的な感覚が、超感覚的である。

霊的な感覚が、何故、超感覚的なのか・・・
超感覚的なものではなく、感覚的なものにも、霊的なものが介入するのである。

私は、それを感受性の高さ、深さであると、言う。

そして一切の知覚活動、記憶その他の魂的活動を排除しつつ、魂がこの純粋思考だけと結び付くとき、魂は自分がこの思考と共に超感覚的領域の中にあることを悟る。それは肉体外での魂の自己体験である。
シュタイナー

肉体から離れた事柄を認識するためには、まず純粋に魂だけで認識行為が為されねばならない。
シュタイナー

それは、人間が、無意識に行なっていることである。
更に、睡眠中、夢などても、体験する。

要するに、肉体ではなく、魂的・・・ということ・・・
魂的という、表現もおかしいが。

このような、修行は、日本の修験道なども、行なうが・・・
お勧めできない。
その偏狭な性格と、偏狭な考え方で、人生を送るのである。

これはとは逆にそのような人が、科学的認識上の基本条件さえも知らなかった場合には、単純な意識活動に属する知覚や欲求よりもさらに低次の魂のいとなみも、非感覚的存在の客観的な顕現であるかのような錯覚に容易にとらわれてしまう。しかしこのような場合、魂の生み出す内容は幻覚でしかなく、その顕現は霊媒現象以上のものではありえない。
シュタイナー

そのような顕示によって示される世界は超感覚的ではなく、前感覚的な世界であり、感覚界よりも低次の世界である。
シュタイナー

確かに、幻覚、霊媒現象は、肉体への依存度が強い。

しかし、シュタイナーの提言する、修行も、危ういのである。
これも、自己申請になる。

更に、それぞれの人間によっても、違う。
百人百様の有様が、現れる。
人の輪廻転生が違うように、である。

それを、一緒くたにすることは、出来ない。

ここで、どうしても、シュタイナーの情報源、つまり、シュタイナーの霊界が、何処の世界なのかと、問う。

魂は知覚や意志の行為における場合よりも、もっと自己を肉体から解放する。魂は、純粋思考の場合と同じ独立性を、一層広範囲な活動分野に亘って達成する。
シュタイナー

私の霊学では、魂は、すでに、解放されているのである。
このような、最もらしい説明抜きで、魂は、解放されている。

そしても生きているうちは、それを知らずとも良いのである。

つまり、シュタイナーの魂的なもの・・・
それは、私の魂の定義とは、違う。

シュタイナーの言う魂的なものは、私の場合は、心である。

魂は、その心から、解放されているのである。

そして、心は、幽体である。
シュタイナーの言う、エーテル体である。

思考によってもたらされる意識の光を魂が見失うような場合、たちどころにして、超感覚的認識は邪道に陥る。認識は肉体の影響下におかれ、認識の成果は超感覚的世界の啓示ではなく、感覚以下の存在領域における肉体の啓示となる。
シュタイナー

霊的認識が、邪道に陥るというのである。
認識の世界が、霊的認識の啓示ではなく、感覚以下の存在領域における、肉体の啓示となる。

魂が超感覚的領域を体験し始めると、もはや言語は感覚界での経験内容を語るときのようには適切な表現を見出すことができない。したがって超感覚的経験の記述を読む人は、繰り返して、表現された事柄と表現そのものとの間の距離が物質界での経験を記述するときよりも大きいことに注意する必要がある。
シュタイナー

実に、危険な試みである。
霊的体験を語るには、肉体行為を語ることよりも、難しい。いや、不可能かもしれない。

それを、あえて語るとしたら、喩えのような語りになる。
それを、シュタイナーは、繰り返し、語る。

霊学上のすべての規則や教義はもともと象徴的な記号言語で記されている。
シュタイナー

と、言うが、実に多くを語っている。
更に、
特定の象徴文字のシステムについて・・・
と、言うのである。

これでは、まさに、オカルト以外の何ものでもない。

そして、信じるか否かにかかってしまう。

シュタイナー解決も、それは人により、多岐に渡ることになる。
宗教の経典を、解釈するのに、似る。


posted by 天山 at 05:41| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月24日

霊学154

しかし超感覚的体験にとってもっとも本質的なのは、むしろそのような象徴文字の内容を修行し体得することであり、そのときにはじめて開けてくる超感覚的な体験を獲得していく過程の中で、魂自身が超感覚的内容を直観し、その直観を通して経験的にこの文字の意味するところを悟る行為である。
シュタイナー

霊的体験ということである。
それが、もしや、妄想であると、言い切れないのか。

あるいは、それも、人それぞれのものと、言えるのか。
皆、一様に、同じ文字を直観出来るのか。

更に、私と違うことは、魂自身が、超感覚的・・・ということである。
違う。魂は、超感覚的というより、霊的存在である。

人間は、すでに、魂という、霊的存在を有するものである。

このようにして超感覚的内容が魂に何事かを語るとき、魂はそれを象徴的な記号に翻訳し、すべての人がまったき意識をもって見通せるものにしようとする。本書もまたこのような行為の所産である。本書の中に表現されている事柄はすべての人の魂によっても、まったき意識をもって体験されうる。
シュタイナー

魂が、語るのであり、超感覚的内容が、語るのではない。
私の言い方にすると、魂が、心に語るのである。

この書物は著者と読者との間に交わされる個人的な対話のようなものとして受け取られることを望んでいる。「神秘道の修行は個人的な伝授を必要とする」と書かれてはいるが、このことは書物そのものがこのような個人的伝授なのだという意味に解釈されねばならない。
シュタイナー

その訳は、
今日では、時代そのものが霊学上の認識内容をかつてよりもはるかに広く普及させるべき意識段階に達している。以前とはまったく異なり、秘伝の内容はすべての人にとって、手のとどくものでなければならない。
とのこと。

そのような、意識段階に達している、というのは、シュタイナーの考え方である。

確かに、人間の意識は、進化しているであろう。
だが、時期を云々する、根拠がない。
勿論、シュタイナーは、自身が、その時期を決めて語る。

シュタイナー独自の、歴史観である。
それが、妄想でなければ、幸いである。

しかし書物の中に見出せぬような重要な行法が他に存在する、と思うのは間違いである。正しく、特に完全に読むことさえできれば、書物の中にそのための要件がすべて含まれている。
シュタイナー

と、いうことで、それを解釈する人たちの、裁量による。
また、読み込むという行為は、何を言うのであろうか。

受け手が、浅はかであれば、解らないということである。
あるいは、邪道に陥ることもある。

本書は人間全体を完全に変化させるための指導書であるかのように見える。しかし正しく読めば、超感覚的世界に係わろうとする人にとって、どのような魂の在り方が必要であるか、ということ以外に何も語ろうとしていないことに気付くであろう。
シュタイナー

つまり、一つの経典となるものである。
時代の変化に合わせた、新しい精神世界への、導きである。

霊的感覚と言えば、済むことを、超感覚的世界・・・

言葉の世界だけに、捉われる可能性が大きいのである。
シュタイナー独特の言い回し。
そして、繰り返し。

ある一定の、霊界からの、情報である。
人は、見えるものしか、見えない。
要するに、見える世界をすべてだと、思う。

その註を見ると、
霊的体験は比喩ではなく、理念によって表現されるべきではないのか。このような疑問に対しては、次のように答えざるを得ない。超感覚的現実を体験する際には、超感覚的世界そのものの中で、自分もひとつの超感覚的存在なのだと知ることが大切である。感覚世界の中で、周囲の事物の作用を観取する自分の肉体そのものを意識しなくてもすむように、「蓮華」「エーテル体」の記述を通して本書が明らかにしてきた人間自身の超感覚的本性を考慮することなしにも、人は霊界の作用を体験できるであろう。しかし人が「アストラル体」や「エーテル体」の中に自分の超感覚的形態を観察することは、ちょうど人間が自分の肉体を知覚することによって感覚世界の中の自分を意識するように、超感覚的世界の中の自分を意識することなのである。
と、ある。

これは、明らかに、霊界参入のことであり、霊的存在である、人間の存在を認識する手立てである。
しかし、それは、シュタイナーの言う一つの方法以外に、多数存在するということである。

私は、特別な方法は、必要としないという、考え方である。

読み込む・・・
つまり、読む側に任されてあるということ。
私の読み方が、浅いといわれるかもしれない。

だが、私は、私の霊学に、急がねばならない。
そして、それは、実に、シンプルなものである。

だが、その前に、シュタイナーの哲学的位置関係について、一応紹介する。

これは、シュタイナーの勧めではない。
霊学を見つめるために、一つの考え方として、紹介している。

更に、精神衛生からの、正常異常についても、記したい。
実際、霊的、あるいは、霊界に関する情報は、人により、伝えられる。その中では、異常精神によるものも、多数ある。
そのために、精神衛生から、精神の異常についても、考えたいと思う。

posted by 天山 at 05:46| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月25日

霊学155

シュタイナーの哲学について・・・
高橋巌氏の、解説を参考にして見る。

ドイツ観念論哲学、ロマン派の芸術、ゲーテの形態学、フランツ・プレンイナーの心理学、それら十九世紀の意識革命の成果は、ルドルフ・シュタイナーにとっては、近代意識の最高の自己表現のように思われました。それらは、もはやそれ以上先へは進めないくらいに、自己認識のぎりぎりのところまでに到達しているように思われました。
それにもかかわらず、十九世紀から二十世紀にかけての精神的状況は、けっしてその近代意識にとって、納得できるようなものではなく、近代意識はみずからの近代意識を否定することでしか、自己を確認することができなくなりました。
高橋

それは、ほんの一部の人たちのことである。
大衆ではない。

哲学、思想は、大衆に支えられたものではない。
物好きな、一部の人たちが、閑々諤々と、吼えるだけである。

近代意識は、みずからの近代意識を否定することでしか・・・
たまらないほど、愚かしいことである。

シュタイナーは、人間の意識は進化すればするほど、みずからに対して否定的にならざるをえない、という時代状況を徹底的に体験した人でした。
高橋

確かに、そのようである。

唯物論、ニヒリズム、終末思想、ダダイズム、権力への意志と西洋の没落・・・

そこで、シュタイナーは、意識の変革を考える。

人間の意識そのものを根底から変革しうる思想が現れるのでなければ、ドイツ観念論もゲーテもブレンターノも、空虚なイデオロギーでしかありえないであろうし、逆にもし新しい意識が生み出されたならば、そのときはじめてそれらの思想の営為は、近代意識のための最上の思想的拠点となってくれる、と信じました。
シュタイナー

シュタイナーの問題意識である。

そこで、シュタイナーは、基本的に三つの分野での、感性を変革を目指した。
それが、霊視、霊聴、霊的合一である。

より高次の知覚活動と呼んだ、三つの分野で、新しい認識を開拓しようとしたのである。

シュタイナーによれば、従来の日常的な意識の範囲内で、日常的な意味での感性と理性をはたらかせて、哲学を構築しようと思っても、未来にとって本当に有効な哲学は生じえないのです。感性も、理性も、これまでとはまったく異なるしかたで、根底から把握し直されなければならないのです。
高橋

つまり、限界を感じたのであろう。
しかし、限界を感じるという、シュタイナーの限界が見える。

そう言われれば、現在も、引き続き、そのようである。
人間の意識の進歩というものが、シュタイナーには、霊的世界にあると、言うのだ。

つまり、日常の感性と、理性での、哲学的思索は、限界であり、霊的世界を取り入れることで、変革させる。
何となく、気分が良さそうだが・・・
それが、実は、問題である。

けっして本来の宇宙と人間の秘密に関わることができない・・・
高橋氏は、書く。

宇宙と人間の秘密・・・
それならば、シュタイナー以前の大昔から、その秘密に関わってきた、多くの哲学、思想が存在する。

近代文化の再生を考えるうえで、決定的に重要なこの観点に対して、従来の哲学は一貫して曖昧な態度をとることしかできず、その結果、人間と宇宙の本質を認識する役割を、もっぱら自然科学にゆだね、みずからは論理学や文法論をできるだけ精密に構成することに腐心するようになりました。人間と宇宙のなかに、解決できない謎が現れても、その謎の核心にせまる手だてがみずからの認識方法のなかにあるとは、もはや自分でも考えられなくなったのです。
高橋

哲学の終焉・・・
だから、人智学、神智学、霊学へと・・・

これも、一つの考え方である。
哲学も思想も、まだまだ、成り立つのである。

そこでシュタイナーは、新たに哲学を復興するために、まず人間の可能性を問う人間論、その人間存在の秘密を通して宇宙の秘密に参入しようとする宇宙論、最後に両者を統合する形而上学を、新しく獲得された感性と理性のうえに打ち立てねばならない、と考えました。
高橋

人間存在の秘密、宇宙の秘密・・・
オカルトである。

この無限大の世界に参入するという、狂い。
更に、それに、自身の霊的世界の知り得ることを、基軸として、書き付けた書籍の数々。

イマギナツィオン、霊視を人間論に、インスピラツィオン、霊聴を宇宙論に、イントゥイツィオン、霊的合一を形而上学に対応させて考えた。

そして、それらを、獲得しなければならないとの、ことである。

ただし、この霊視、霊聴、霊的合一とは、通常言われるものではない。
霊能者が行なう、霊視などではない。

もっと、屁理屈になるのである。

シュタイナーの言葉の世界に分け入って、とことん、シュタイナーの語る言葉に、従い、そのつもりになって、修行しなければならないのである。

一体、誰が、その判定を下せるのか・・・
誰も、判定を下すことが出来ない。

秘伝、口伝といわれたものを、公に公開して、一人一人が、修行することを、説いているのである。

したがって、シュタイナー哲学の方法論は、
一人の内部で、霊視を体験する。霊聴を体験する。霊的合一を体験するというもの。

説明は、続く。

posted by 天山 at 06:55| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月26日

霊学156

シュタイナーの言う、イマギナツィオン、霊視とは、どういう意味なのか・・・

感性的世界においても、時間は、感覚がそのつど空間に依存するように作用してくるところから人間を引きはなして、持続の世界での自分を自覚するようにうながしてくれます。空間の世界が、味覚や嗅覚や触覚や視覚や聴覚の感覚内容を、眼のまえのいたるところに出現させるのだとすれば、時間の世界は、どこにその世界内容を出現させるでしょうか。あらためて周囲を見廻しても、この空間の世界のなかのどこにも、時間の要素は存在していません。なぜなら、私たち自身のなかに内なる世界を、もっぱら、私たちの内なる世界から取り出してくるからです。私たち自身のなかに内なる世界が存在していないかぎり、時間を体験する場所は、どこにも見出せないのです。
高橋

つまり、私の内なる世界が時間というものを、自覚させる。

説明がくどいが、致し方ない。
これが、ある霊界のやり方である。

そうしますと、空間の世界から時間の世界へ身を移すということは、外なる感性的世界から、内なる魂の世界へ移行する、ということになります。
高橋

その微妙な意味合いを知ることが、霊視を知る上で、大切なこと。
実際、体験していることを、ここまで、丁寧に説明するのである。

空間にもまして、時間には、いまだに多くの謎がその背後に隠されているのです。
高橋

それは、時間的存在として、過去と現在と未来を生きるときの、自分の中には、無限の謎が潜んでいるというのである。

「時間が空間に変わる」「空間が時間に変わる」

空間と時間との関連が、ある一瞬、日常的な関連から別な非日常的関連に変わるということです。そしてそのときには、日常的な世界そのものもそのあり方を変えるのです。
高橋

空間と時間が感覚的知覚の対象になりえないのは、時間も空間も、そこにおいて感覚的対象が現れてくる知覚の形式だからなのです。ですから、カントは時間と空間を直観形式と呼びました。私たちが直接的に感覚体験をもつときの体験形式として、時間と空間があるのであって、純粋な空間そのもの、時間そのものが知覚の対象になるわけではないのです。
高橋

ここからが、シュタイナーの面目である。
霊視を獲得することが出来れば、意識を目覚めさせつつ、しかも新しい時間的・空間的体験を持つことが出来るという。

カントは時間や空間が人間の主観的な、しかも人間意識のもっとも根源的で普遍妥当的な知覚形式だと考えていましたが、シュタイナーもまた、空間と時間を人間の身体が生み出す意識の属性だと考えていました。つまり私たちが身体的に存在するかぎり、かならず時間と空間という形式のなかで、私たちの意識内容は現れてこなければならないのです。けれどもカントと異なって、身体がもはや存在しなくなったときには、時間と空間を超えたところで、新しい知覚内容が現れてくる、と考えるのです。
高橋

身体が存在しない世界、つまり、霊界である。
いや超感覚的世界・・・

そして、高橋氏は、人間は、いつも受身によって、人間の意識が生み出されるという。そこから、受身の姿勢を改める。
受身の意識習慣を、改めること。

時間的、空間的世界の中から、自分を超越させるには、受身の状態を打破しなければならないのである。

その方法は、まったく能動的な仕方で、イメージの世界を構築する。
それにより、主観的に限定された、空間と時間に対して、客観的態度がされる。

それが、霊視の意味であり、霊視の前提となる。

実際、人は、そのようなことを、無意識でやっている。
空想、ぼんやりと・・・

だが、そういうことでは、無いらしい。

第一に、そのイメージが単純であること。
第二に、秘教的な伝統や偉大な霊的指導者の教えの中には、そういうイメージや言葉が、見出せる。シュタイナーは、一つの例を上げる。
「光の中を流れるように、叡智が生きている」
そういう単純な言葉、イメージに没頭する。
第三に、イメージに対して、それが外なる感覚的対象であるかのように、それを観ることに集中する。

ある霊的指導者は、誰でも彼でも、受け入れなかった。
それは、そのような、訓練をすることで、おかしくなる、つまり、精神的に狂う人が、出るからである。

シュタイナーは、自分の著作を通して、個人的に修行を勧めるが・・・
精神疾患体質の人なら・・・
とても、危険である。

高橋氏は、
それを毎日、短時間でも集中して体験しますと、日が経つについて、それは自分の空間体験、時間体験を非日常的なものに変える作用をするようになるのです。
と、言う。

そして、イメージはひとつの未知の現実に変わるのです。今までとは違う現実が、イメージとなって自分の前に現れます。今まで感じたことも、予感したこともないような経験を今しているのだ、という強烈な実感が残ります。私たちの表象のはたらきに変化が生じるのです。
高橋

表象とは、お勉強が出来るという人のことを言う。
つまり、表象が多いとは、暗記出来るということだ。

試験の問題は、すべて単なる、表象の世界に始終している。
つまり、その表象が、存在するか、否かは、問題ではないのである。
だから、賢い馬鹿という者が、出来上がる。

表象と判断の違い・・・

現代社会は、表象と判断の区別をつけなくても、不都合が無い社会である。

そういう意味では、シュタイナーの訓練は、評価出来るが・・・
お勧めしない。


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2014年05月20日

霊学157

単なる表象は、単一の感覚活動によっても生じさせることができます。しかし判断になりますと、単一の感覚だけではなく、そこに他の感覚が同時に協働して、共感覚になったときはじめて可能になります。存在の承認と否認、自分自身との関係のあるなしは、人間が諸感覚を協働させて、あるものに向き合ったときにはじめて、問題になりうるのです。
高橋

シュタイナーは、この表象と判断との関係が、イマギナツィオン、霊視の場合に、重要な意味を持つことに注目した。

体的、魂的な存在としての人間、いいかえると、時間と空間のなかに生きている人間は、身体という鏡に映して、自分の意識を目覚めさせています。人間にこの身体の鏡がなかったら、自分の魂は見えません。ところが身体、もしくは脳細胞という鏡は、どこまでも鏡ですから、鏡のなかに映っている像が現実そのものではないように、脳細胞が魂という実体を生み出しているのではなく、脳細胞はどこまでも魂の存在を映し出している単なる鏡にすぎません。しかし鏡がこわれていたら、像がゆがんでしまうように、脳細胞が十分に機能しなかったら、人間の魂も十分に意識化されません。
高橋

私は、ここで言う、魂という言葉を、心と、置いている。
魂は、また、別物なのである。

だが、ここでは、そのまま受け入れる。

脳細胞が、十分に機能しなれければ、その超感覚的世界の認識も、危ういのである。

マルクス主義の反映理論は、外なる現実世界が脳細胞に映し出されて、意識化するわけですから、脳細胞がなくても、現実世界は存在する、と考えて、魂そのものが現実世界のほかに存在しているとはまったく考えません。
しかし、シュタイナーのいう反映理論は、そうではなく、魂の現実を映し出すのが脳細胞だ、という考えでした。そして脳細胞という鏡に映し出されているかぎりの人間の魂は、表象(または思考)、感情、意志という三つのはたらきから成り立っています。そして表象、感情、意志のうち、肉体を背負った私たちにとっては、表象がもっとも意識にとって明るいはたらきです。感情になりますと、かなり混沌として薄明かりであり、意志は意識にとってはまったくの闇です。私たちは意志を意識化できずに暮らしています。
高橋

そこで、明るい表象を、今までの日常生活の中で体験したことのないような方向で、働かせ、そこに新しい内容を盛り込むと、その表象は、今までとは違った仕方で、自分の存在に作用する。

そして、感情と、意志に、今までとは違った刺激を与える。
その結果、日常的な魂全体のあり方が、微妙に変化する。

ユングは、それを、能動的構想力と呼んだ。

そのエネルギーとは、判断と愛憎の力のことです。つまりその人間の時間世界から、過去と未来から来るエネルギーなのです。
高橋

シュタイナーの考え方を理解するためには、その使用する言葉の意味を、一つ一つ、解釈してゆかなければならない。
実に、面倒なことだ。

突然のように、エネルギーとは、判断と愛憎のことだ・・・
とは、何か・・・

そして、それが、エーテル体の体験ということになる。

普通、エーテル体とは、人間の肉体とほとんど一つになっていますから、エーテル体だけを体験することはできません。そしてそれを無理に体験しようとすると、知らず知らず物質的、肉体的な次元でそれを体験しようとしています。
高橋

しかし、ユングが能動的構想力といい、シュタイナーがマギナツィオンというときのエーテル体は、むしろエーテル体による表象と思考のことなのです。エーテル体そのものではなく、エーテル体がもっている表象能力をいうのです。
高橋

このエーテル的表象は、エーテル体に外から刺激を与えることによっても生じさせることができます。たとえばドラックや催眠術などを用いる場合がそれにあてはまりますが、そうすると、それはふたたび受動的な状態でイマギツィオンを体験することになってしまいますから、シュタイナーの立場からいうと、それでは判断の行為にならないのです。
高橋

ということで・・・
エーテル体とは、私の言葉では、幽体のことである。

それを説明するには、夢の世界が、最も手っ取り早いのである。

勿論、シュタイナーも、それを説明している。

エーテル体による表象体験と肉体による表象体験とはまったく違うのです。夢の体験もエーテル体的な体験に属します。
高橋

夢に対して意識的であろうとすることは、すでにオカルト的な生活に入ることなのです。ただ夢の場合に大事なのは、個々の内容にあまりこだわらないことです。
高橋

大事なのはドラマ的な性格であって、個々のイメージではありません。
高橋

強烈な夢などは、象徴となる。
そして、感情に強く働く。
シュタイナーの霊視というのは、そういう性格を持つという。

イマギツィオンによって体験されるものは、時間の空間化、自分の内なる世界の象徴化なのです。ですから、この場合の表象は、もはや判断とも愛憎とも切り離せない、深い多層構造をもっているのです。
高橋

ここまでの、説明でも、私は、あまり理解できないのである。
霊視・・・
それは、エーテル体の単独な働きと理解する。

そして、それが、能動的に行なわれることが、大切であると、シュタイナーは言うと、理解する。

だが、実際、シュタイナーの考え方の最後まで、眺めると、それは、多く様々に、言われ続けてきたことなのである。
特別、新しいことではない。

ところが・・・
シュタイナー哲学は、とてつもない哲学への、歩みを踏み出したとのこと。

霊視について、簡単に言うと、幽体が、幽界とつながり、その幽界の様を見る、聞くということであり、そこには、亡き人も現れるし、知らない亡き人も現れる。
更に、よく解らない、模様や状況が現れる。

健康な人は、夢を忘れる。
特別なことと、思わずに過ごしている。

その幽体は、肉体と同じ容姿をしている。
死んで、そのままの状態を幽霊と言う。

シュタイナーの語り尽くす姿勢は、評価するが・・・
確実に、指導者が必要なことと、あまり、深入りしないことである。
何故か・・・

シュタイナーの観た、または、情報を得た霊界、超感覚的世界が、何処からのものか、解らないからである。


posted by 天山 at 06:18| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月21日

霊学158

霊視
イマナツィオンの体験内容は、その体験者にとって、つねに、非常な愛着を感じさせます。それはつねに大きな体験であり、喜びであり、苦しみでもあります。それはなにか自分の運命との深い結びつきを感じさせ、そこに生きることは、第二の現実を生きることのように思えます。丁度辛い環境の人が、超現実的なまでに美しい夢を見るように、または、いやな社会環境のなかにいても、自分の部屋に戻ってくれば、そこで好きな絵を描き、好きな詩を作り、自由に日記を書くことができるように、自分にイマギツィオンの世界があれば、それを第二の、より美しい現実として生きることができるのです。しかしインスピラツィオンを可能にするためには、イマギナツィオンの世界を自分ですべて消し去らなければなりません。
高橋

霊聴の世界には、霊視の世界を、消し去るという。

魂のなかの生きいきとした内部空間を、完全に無の状態にするのです。まったくの無でありながら、しかも非常に目覚めて、しかも生きいきと感じられる意識空間を自分の内部に作るのです。その困難な内的作業の果てに、その無の状態のなかに霊的な客観世界からの啓示が与えられるのです。それをシュタイナーはインスピラツィオンと名づけました。
高橋

名付けるのは、勝ってだが・・・
一体、これを、どのように理解せよというのだろうか。

霊視の世界を、消滅させ、次は、霊聴の世界をというのである。

霊視は、自分自身についての、内的な体験であり、霊聴は、客観的な、霊的世界の内容を示している。

シュタイナーは、その世界を、響きと光と色から成り立っていると、言う。
自分の空虚な意識の中に、外から、光や色、響きが流れ込んでくるのである。

統合失調症に似る。
昔の、分裂病である。

その響きや色は、今まで私たちが日常生活のなかで受け取っていたのとはまったく違った、異質なものでありながら、しかも光や色や音としてしか表現できないような、そういう体験です。
高橋

昔からそれを体験させるのに、秘義という伝統がありました。・・・・・
秘義に参入しようとする人は、はじめのあいだ、道徳的に非常に厳しい生活を要求されました。そして道徳的にその人間がふさわしいと認められたとき、イマナツィオン、インスピラツィオンの体験が許されました。
高橋

シュタイナーは、古代から、その方法は、恐怖と、ドラック体験を基本にしていると、言う。

ここで、高橋氏は、日本の修験道の体験を紹介している。
極めて危険な、修行であり、私は、神仏は妄想である、というエッセイの中で、否定している。

エーテル体を肉体から分離させ、脱魂状態にして、分離した、エーテル体を鏡にして、そこに宇宙の霊的な営みを反映させるという、行為である。

全く、論外である。

シュタイナーは、それを能動的な仕方で、体験しようとしたのである。

人間の自我が現代という時代の課題に応えるためには、認識において受動的な態度をとらず、能動的な態度に徹しなければならないからです。
高橋

それは、シュタイナーの勝手な考え方である。

そういう態度を新しい哲学を通して確保すること、それが現代の文明社会を生きる人間の意識を、真に時代の進むべき方向にふさわしく変革する前庭になる、と考えたのです。ですから超感覚的世界があるかないかを明らかにするために、そういう体験をするのではないのです。
高橋

変な理屈になってきた。
超感覚的世界を、得るために・・・あれほど、シュタイナーが語ったのである。

ここに至ると、高橋氏の、解説も、危うい。

哲学史などの問題を扱うならば、理解するが・・・
シュタイナーの霊的云々は、もう、哲学的などではなく、オカルトの最たるものである。

霊視と、霊聴の世界が、つながりなく、まして、魂の世界の無を作り出すという辺りは、とても、危険であり、いよいよ、神智学、人智学、霊学というものの、有り様が、不安定である。

膨大な著作の中から、人それぞれが、何がしかを取り出して、教育から、シュタイナーの歴史観から、色々と、分析している。

それらの、根拠は、何処にあるのか・・・

シュタイナーは、また、第五福音書などという、妄想とも思える、イエス・キリストを語り、人々に講演をするという。

何かに、憑依されたとしか、考えられないのである。
その何か・・・
それが、シュタイナーの霊界である。

ある霊界が、シュタイナーの背後に存在して、その霊界の宣伝マンのように、書き続けたのである。

これで、ある程度、シュタイナーの背後の霊界が解るということである。

延々として、語り続ける霊界が存在する。

更に、現代という時代に応えるために・・・
その現代という時代性を、シュタイナーは、独特のイメージで捉えた。
だが、シュタイナーの修行に関しては、それ以前から、様々な形で、行なわれていたのである。

シュタイナーのオリジナルではない。

ただ、意味付けをシュタイナー様式にして、紹介しているだけである。
その様式・・・
それが、彼の霊界の有様を語る。

posted by 天山 at 06:59| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月22日

霊学159

最後に、イントゥイツィオン、霊的合一である。

シュタイナーは、霊的合一は、真の自我を体験することだと、言う。

ちょうどフィヒテが思考を通して、個的自我と宇宙自我との同一性を体験したように、超感覚的な知覚と表象を通して、個的自我と宇宙自我との同一性を体験するとき、それをイントゥイツィオンとシュタイナーはよんだのです。
高橋

そのときはじめて、能動的な態度をとる個的自我が自分の根底に存する、宇宙叡智の秘密の主体である宇宙自我と出会うのです。
高橋

ちゃかす訳ではないが・・・
人間は、そこまで、偉いものなのか・・・
宇宙自我・・・とは、何か。

私は、もし宇宙自我が存在するならば、人間は、すでに、その自我の中に存在すると、考えている。

そして、それは、意識せずとも良い。
その宇宙自我から、逃れることは、出来ないのである。

現代の自然科学は観察と実験を通して、数量的法則性の上に、宇宙の実体を解明しようとしますが、そのような自然科学的宇宙論では、宇宙自我の秘密に触れることはできません。究極的にはエントロピーの法則で説明できるような、まったく魂の暖かみや愛の欠けた宇宙論しか得られません。自然科学的な因果律にしたがった生成と発展と死滅だけしか、その宇宙論からは出てこないのです。イントゥイツィオンというのは、そういう世界とはまったく異質の、自我が自分のなかだけではなく、外なる宇宙にもあるということの体験なのです。
高橋

いいかえると、自分よりももっとはるかに高次の存在が宇宙の主体としてはたらいているが、そういう高次の存在のなかにも、自分と同じ自我がある。そしてその自我を実感できるときにはじめて、宇宙の意味と目的が痛切に体験できる。そのような宇宙的な自我との出会いをイントゥイツィオンというのです。
高橋

シュタイナーでなくとも、そのようなことを言う人は、数多く存在していた。

インド系の、解脱者といわれる人たちは、それが、得意である。
インド思想史を俯瞰すれば、そんな話で溢れている。

宇宙叡智の秘密の主体である宇宙自我との出会い・・・

何か、特別なものを、意識しているのだろうか。

中国思想では、人間の体は、宇宙そのままだと言う。
人間の体は、小宇宙であると言う。

さて、私の読み込みが悪いのか・・・
シュタイナーの哲学に関して、高橋氏の、言葉を使用する。

従来の哲学は、ハイデッガーやメルロ・ポンティやサルトルのような、みずからの立場の前提を特に重要視する実存哲学者においてさえも、問題意識への反省はあっても、意識そのものを変革する際には、ラディカルな態度をとりませんでした。けっきょくは、日常生活の延長上で生じる疎外感や孤独を否定的に取り上げるか、または認識ではなく、信仰による救済へ向いました。
ところがシュタイナーは、私たちの思考と感情と意志、あるいは表象と判断と愛憎、あるいは理性と感性、そういう認識を可能にする魂のはたらきそのものを、新しい時代にふさわしいものにするために、自分のなかでどう変革すべきなのか、を問題にしたのです。
高橋

そして、それが、シュタイナー哲学の新しさであるということだ。

そして、新しい体験内容を元に、新しい神秘学的哲学である、人智学を構築したのである。

前代未聞の新しさを持っていると、高橋氏は、言う。
確かに、前代未聞の哲学だろうが・・・

それを、哲学として、理解する人にとっては、そのようである。
一体、哲学とは、何か・・・
そこで、哲学について、を書く必要は無い。

それは、それぞれの人が、決めることである。

posted by 天山 at 05:17| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月23日

霊学160

今まで私は、少しばかり、批判的にシュタイナーの説を紹介してきた。
霊学というものを、見つめている。

そして、何度も、シュタイナーの霊界、また、シュタイナーの見た場所は何処かと、書き入れてきた。
これから、シュタイナーの、神智学――超感覚的世界の認識と人間の本質への導き、から、多く引用して、そのまま、シュタイナーを理解するために、書くことにする。

それは、とても、学ぶことが多い。
また、このような考え方があるというものだ。

出来る限り、忠実に、シュタイナーの論述を理解したいと思う。
そして、その中には、霊界の話もある。
それで、シュタイナーの霊界についても、理解出来る。

その最初は、人間の本質、である。

シュタイナーは、ゲーテから、多くの影響を受けた人だ。
その最初に、ゲーテの引用がある。
そのまま、その引用を書く。

人間は自分の周囲に対象を求めると、すぐにそれを自分自身との関係において考察する。そしてそれは当然である。なぜなら対象が自分の気に入るか否か、自分を惹きつけるか否か、有用か有害か、ということに人間の運命全体がかかっているのだから。事物を観察し判断する際のこのまったく自然なやり方は、どうしてもそうなってしまうくらいにまで容易なやり方のように思われている。けれども人間はそうすることで、無数の誤謬にさらされており、その誤謬がしばしば自分を赤面させ、自分の人生を辛いものにしているのである。
自然の諸対象をそれ自身において、もしくはそれら相互の関係において、考察しようと努める人たちは、そのような活発な認識衝動の結果、もっと困難な日課をひきうけることになる。なぜなら彼らは、物事を自分との関係において考察するとき助けになっていた尺度が、もはや役に立たないことにすぐ気づかされるからである。彼らには、気に入るか気に入らぬか、心が惹きつけられるか反発を感じるか、有用か有害か、の尺度が欠けている。彼らはこのような判断の仕方をあきらめ、平等な、いわば神的な態度をとり、気に入るものではなく、存在するところのものを探求しなければならない。真の植物学者はこのように、植物の美でも有用性でもなく、植物の形成、他の植物との関係を探求し、そしてすべての植物が太陽によって誘い出され、照らし出されるように、等しい静かな眼をもって、それらすべてを観察し、そしてこの認識のための尺度、判断の材料を自分からではなく、彼が考察する事物の世界から取り出さねばならないのである。
ゲーテ

と、言うことで、実に、納得の行くものである。
その通りだ。

そこから、シュタイナーの人間の本質が、はじまる。

このゲーテの言葉を提示して、人間の本質を見るのである。

存在するところのものを探求しなければならない。
その存在するところの、人間というものを、探求するのである。

シュタイナーの神智学からの、人間の存在の、探求である。

ゲーテによって語られたこの思想は人間の注意を三つのものに向ける。
第一は感覚の門を通して、絶えず人間に触、嗅、味、聴、視の情報を流している対象である。第二はこの対象が彼に与える印象であるが、それは人が或るものに好感をもち、他のものに反感をもつときや、或るものを有用と見、他のものを有害と見るときに対象から受けとる、気に入るもの、気に入らぬものの印象であり、欲望、嫌悪の印象である。さらに第三は人が「いわば神的な態度で」対象について獲得した認識内容である。それはこの対象が彼に明かしたその作用と在り方の秘密である。
シュタイナー

そして、その領域は、三つのもので、明確に区別されているものである。
人間は、三重の仕方で、世界と結び付いている。

第一に人間は所与の事実としての眼前の世界と結び付いている。第二の仕方によって、人間は世界を彼自身の要件、彼にとって有意義な何かにする。第三の仕方を彼は絶えず努力すべき目標と定める。
シュタイナー

その三つは、体、魂、霊とから成るということだ。

シュタイナーの、体、魂、霊について、その定義を見なければならない。

ここに、口を挟むことはしない。
シュタイナーの定義から、シュタイナーの霊界を見るべきだと、思うからだ。

魂、霊に関しても、シュタイナーの定義の通りに見なければ、これからの話が理解出来ないのである。

また、そのように、説明されれば、魂、霊という、見えないモノを、理解出来る手掛かりになることもあるだろう。

ちなみに、日本では、霊魂という言葉がある。
霊魂と一緒にしている訳だが・・・

日本にも、霊魂に関する、考え方があるが、その多くは、復古神道という立場から語られたものである。
更に、それを、古神道と呼ぶ人もいるが・・・
私は、それは、古神道とは、考えない。

更に、霊魂と言うと、全く、興味の無い人もいる。
そんなものは、存在しないと、初めから、信用しない。

シュタイナーの説により、魂と、霊とが、体と共に、存在するということが、理解出来ると思う。
生きているということは、すでに体のみならず、魂と、霊が関係しているということである。

人間は、この三つのものから、成り立っていると、考える。
死後の世界の問題ではない。

だが、それが、死後の世界にも係わるということが、目的である。

シュタイナーの霊界からの、物の見方である。
シュタイナーが情報を得た、霊界からの、物の見方である。

例えば、スェンデンボルグの見た霊界があるように・・・
また、他の人が見た、霊界の姿があるように、である。

posted by 天山 at 05:54| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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