2013年12月07日

霊学131

シュタイナーは、人類の歴史は、大きく三つの時代に分かれるという。

最初の時代は、人間の記憶力が対象と結び付いている、対象的な記憶力、である。
その次に、記憶力が、特定のリズムと結び付いて、発達するようになり、リズム化された記憶力、の時代。
そして、三番目が、今日と同じように、時間と結び付いた記憶力、時間的な記憶力、の時代である。

世界史の発達期は、三つに分れ、それが、人類の大きな意識の変化と、対応しているという。

シュタイナーの意識というものは、記憶力と同じ意味に、受け取れる。

記憶力、つまり、人間であるという、証である。

最初は、人間の意識もほとんど動物と同じ意識てしかなかったのですけれど、その意識がしだいに記憶力を発達させることによって、最初の「人間意識」が成立しました。その時の意識の在り方は、対象に依存している記憶だったのです。そのような在り方をしている人間のことを、シュタイナーは「アトランティス期の人間」という言い方をしています。
高橋

シュタイナーは、人類の果てしない過去に、アトランティス期という百万年単位の長い時代があり、その中で、現在の人類の形成過程が始まったとしている。

それ以前は、動物と同じような、集合的な存在だった。

つまり、その時代は、記憶の在り方が対象に依存していた、時代ということになる。

それは、どういう時代か・・・

そのときそのときの意識だけが唯一の意識で、過去の記憶はそのつどその意識にうながされて、現れたり消えたりしている、というのです。ちょうど自分にとって親しいひとのことを忙しさにまぎれて忘れてしまって、また写真を見てそのひとのことを思い出すという状態に似ています。そのときそのときの現実だけが現実であり、その現実の中で記憶が、なにかをきっかけとして、現れてくるのです。そういうことだけから成り立っている内面生活を考えると、それが太古の人間の基本的な意識の在り方だというのです。
高橋

確かに、そのように言われると、そのように思われるが・・・
それを証明するものは・・・

それが、太古において、あらゆるところに、碑、記念碑が建てられたという。

古代人は、大きな事件があるたびに、記念碑を建てようとした。
その碑が、どのような意味を持つのかを考える時に、古代人の意識が対象に依存していて、その対象をきっかけに、甦るそのときの記憶が、唯一の現実的な性格を持っていた。

古代人は、そういうものによってしか、記憶を呼び起こさなかった、ということ。

または、土地である。
古代人は、土地との結び付きが、現代人より、無限に深かったという。

そして、シュタイナーは、古代的に一対象に依存している記憶を、もう一度取り戻すことが、現代人の内面性の荒廃を救うひとつの道だと、考えていた。

現代人の、内面の荒廃とは、何か・・・
どこが、荒廃しているのか・・・

そして、問題は、その荒廃という意味を、何を基本を置いているのか。

シュタイナーの信者であれば、すんなりと、受け取れるだろうが・・・
見方を変えると、シュタイナー自身が、病んでいたのではないかとも、言える。

彼の著作は、実に難しい。
ただ、斬新的で、新しい時代への息吹を感じさせる。
本来は、その著作からの引用を持って、紹介すべへきだが・・・
そうすると、延々として、終わらないことになる。

何度も言うが、彼は、何処の世界を見ていたのか・・・である。
仮定でもなく、彼は彼の知ったことを、書き付けているのである。

つまり、彼は、知り、そして、見たのである。

それが、何処の世界なのか・・・

まだ、説明は続けるが・・・
融合の精神に反して、私は、批判する。

そして、批判は、もう十分になされた時代が長い。
だから、こそ、融合の時代への、第一歩を踏み出さなければならない。

しかし、天国と地獄を融合できるだろうか。
それを言えば、天国も地獄も、存在しない。
それは、心の内に存在するものだと、言われるだろう。

私は、シュタイナーの、例えば、西洋と東洋の融合という、言い方を、我が内なる融合と、捉えている。

シュタイナーが、荒廃しているという、現代人の精神が、分裂しているという意味なのか。しかし、すでに、分裂したものを、再度、融合させるというのは・・・

統合失調症という、精神の病を癒す行為のようなことになるのか。

神秘学から、人智学、そして、霊学・・・
これは、矢張り、オカルトである。

過去の、蒙昧な信仰は、必要ないというが、新たに、新しい信仰にならないのか・・・

人生をあらゆる方向を生きようと望むならば、抽象化というエーテルの国の中にも入っていかざるを得ない、というのが私の立場なのである。感覚で享受できるものだけを享受しようとする人は人生の美味を知らない。
シュタイナー

人生には数多くの領域がある。その一つ一つの領域のために特殊科学が発達を遂げている。しかし人生そのものはひとつの統一体であり、個別領域の中で深化していこうと努めれば努める程学問は生きた世界全体の認識から離れていく。再び人間に充実した人生を返してくれる諸要素を個別科学の中に求めようとする知の在り方が必要である。専門的な研究者は認識内容を通して、世界の諸活動を意識化しようと望んでいる。
シュタイナー

真の哲学者はすべて概念芸術家であった。・・・
抽象的な思考は具体的で個的な生命を獲得する。理念は生命力となる。その時、われわれは事物についての知識を持つだけではなく、その知識を自己制御の能力を持った生きた有機体にまで作り上げたのである。われわれの活動的な現実意識はもっぱら受動的に真理を受け容れる以上の課題を背負っている。
シュタイナー

とても、新鮮で、斬新的な、シュタイナーの著作である。
が、ゆえに、誤る人も多い。




posted by 天山 at 06:43| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月08日

霊学132

二番目の「リズムと結び付いている記憶」とは、人間の肉体の中にリズムを伴って植えつけられる記憶のことです。
高橋

シュタイナーの言葉で言えば、エーテル体のこと。
エーテル体とは、生命力、気の流れ、人間の体を流れて、生体を活気づける、生動化している、エネルギーのことである。

その生命体は、特定のリズムを持って、体の中を流れている。

生命のリズムと、記憶が深く結び付いていた時代が、かなり長い間、人間を支配していたとする。

アトランティスの時代には、まだ今日のような言語が存在していませんでした。
高橋

その後、はじめて発達してきた、民族言語は、基本的にリズムの上に成り立っていた。そのリズムが記憶を支えていたという。

現代人にとっての言語の修得と同じ仕方で、古代人はすべてをリズムによって記憶するのです。
高橋

特定のリズムに従って、体に組み込まれた記憶が内側から流れてくるのです。そういう記憶の在り方を基本的に持っていた時代が、人類意識の第二段階なのです。
高橋

これは、信じるしか術がない。
シュタイナーが、霊界についても、詳しく語っているが・・・
それも、信じるしかない。

ということは、シュタイナーの背後の霊界が、問題になる。
現代、シュタイナー教育として、広く知られているが・・・
果たして、本当に、そうであるかは、不明だ。

人類意識の第二段階は、スメル、ツラン、エジプト、ペルシャ、インド、中国等の、後アトランティス文化期にあてはまるという。

特定の言語やリズムに結び付いて記憶力が働くので、その記憶は、非個性的、集合的な性格を持たざるをえません。ですから古代人が自分を確認するときには、周囲の誰かと異なる個としての自分を意識しないで、特定の共同体の一員としての自分だけを意識したのです。
高橋

これは、ユングの集合意識という考え方と、つながる。
集合的とは、民族的とも、言える。

第三の「時間的な意識」とシュタイナーが考えているのが私たちの意識です。
高橋

リズム意識から、時間的な意識に移り変わる、決定的な時代を、紀元前8世紀から、前6世紀の頃と、考えている。

老子、孔子、仏陀、ヘラクレイトスなどが、輩出した時代である。

その頃から、人間の意識が、基本的に大きく変化して、現代人と同じ記憶力を持つに至る。

更に、記憶が、個人の生活体験と深く結び付いて、自分だけの体験の蓄積が、記憶であり、その記憶が、自分自身の人格を支える。つまり、自分を一つの人格として体験する。

それ以前は、個人より、共同体の方が、大切だった。

そして、
太古のアトランティス期、つまりそのつど対象に即して記憶が甦ってきた時代の人間関係は、現在の私たちと違った能力で互いに結び付きを保っていた、と考えられます。

それが、テレパシーである。

その時代には、テレパシー、以心伝心による人間関係が、基本だったというのである。

哲学用語でいう表象、つまり心の中から沸き上がってくるイメージが概念と結び付いて機能しなかった時代には、当然、音声言語は原始的な状態にとどまらざるをえなかったのです。
高橋

0歳から満三歳くらいまでの子供は、表象力が発達していない。
それは、アトランティス期を生きているという。

更に、言語によって、曇らされていないゆえに、感受性を極度に発達させて、相手の気の流れをストレートに受ける。

幼児は、テレパシーの能力を潜在的に持っている。
シュタイナーは、そういう環境におかれれば、現代人も、テレパシーの能力が潜在的に備わると、考える。

知的教育を受けて、抽象概念を身に付ける過程で、テレパシーの能力は、消えて行くのである。

壮大な物語である。
シュタイナーの、創造力である。

潜在的に、テレパシーの能力を有する人間である。
つまり、ある時、ある瞬間に、それが、現実の生活に出る場合もある。

特別な人たちが、有するものではない。
誰もが、持つ能力である。

○ ×式のテストを、勘でやってきたという人に会ったことがある。
それで、テストの点数が、いつも良かったそうな・・・

多くの知識を詰め込む必要なく・・・

それを、シュタイナーのように解説する人もいる。
ユングのように、解説する人もいる。
人間の未知なる領域に、踏み込むのは、科学だけではない。
霊学というのも、その一つである。

ただし、オカルトには、それぞれの人が持つ、能力が必要である。
そして、それは、意識的に行なうべきで、他者によって、左右されると、堕落し、果ては、とんでもない世界へ、入り込む。

この、意識的という、覚悟が、オカルトには、必要だ。
能力のある者を頼りにする・・・
それは、論外である。


posted by 天山 at 04:20| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

霊学133

アトランティス時代が終わって、リズムの記憶が基本的な記憶力として育ってくる時代になると、テレパシーによる伝達ではなく、言語による伝達が基本になりますけれども、・・・その言語には集合的な性格が強いので、個人よりも権威とか伝統とか祖先の教えとか信仰とかのほうが決定的に重要なので、その人間関係にはいつも権威や秩序や伝統があり、それにどこまで自分を組み込むかということで、人間関係が成り立っていたのです。
高橋

と、すると、現代も、アトランティス時代が終わった、状態に思える。

民族言語が成立して、その言語の共通性の中で個人が集団に依存していた時代の基本は、文化と文化のぶつかり合い、融合と離反の繰り返しだったのです。
高橋

民族として、統一して考えるが、民族の神話と、宗教の融合と、離反である。

ここで、面白いのは、新しい民族と、古い民族との関わりである。

同じ文化を千年、二千年と伝えている民族は、古い民族であり、どこかから、ある土地に移り、周辺の文化を吸収しつつ、新しく独自の文化を作り始めるのが、新しい民族である。

エジプト、バビロニア、ペルシャなど、大きな伝統ある文化を有する。
そして、そこには、少数民族が、含まれる。
その、少数民族が、若い生命に満ちた文化形成で、その伝統をものにしつつ、同時に、伝統を破壊するという。

ある文化がつくられ、成長し、そして年老いる過程で、必ず少数民族が、その民族の中から起こり、その文化伝統を養分のように、吸収しつつ新しい文化を創るという、過程がみられる、と、高橋氏は、言うが・・・

そこには、色々な形での、残酷な破壊的な場面が、多々ある。

古代人は非常に敬虔な、宗教的な生き方をしている一方で、おそろしい奸計、裏切り、あるいは大量虐殺をやったりします。この二つは両立しないように思うのですけれど、古代においてそれは矛盾するものではなく、むしろ歴史の進化からすると、当然そうでなければならなかったのです。なぜかというと、今いいました民族言語形成期の人間にとっては、死生観が今の場合とまったく違っていたからです。
高橋

それでは、古代人の死生観とは・・・

若い民族ほど、内部に破壊的な死への衝動が、どれほど強く存在していたかによって、決まるというのである。

老いた古い魂になると、死への衝動が、ほとんど感じられなくなる。
破壊力が、内に働いていればいるほど、若い民族なのだ。

若い魂の中には死への衝動が強く働いている、ということが、古代史を解くひとつの鍵になるのではないかという気がします。いいかえると、古代人にとって、死の問題は私たちの場合よりもはるかに重要な意味をもっていて、ある文化が死をどう受け止めているかを見ることで、その文化の個性も見えてくるのです。
高橋

集合的な意識が人々の心を支配していた古代の人間にとっては、死ぬことはいわばひとつの誕生を迎える大きな門出でもあったのです。
高橋

それは、現代人にも無縁なことではない。
つまり、自分の意識の拡大、意識の変容を考える時、死後の世界が、また、新しい意味を持つに至る。

大東亜戦争の若い者たちは、死んでも、七恩報国と言った。
七度、死んでも、国を守るという意味である。

それも、古代的な衝動だという。
そして、暫く平和が続くと、また一種の破壊衝動が生まれて、又繰り返す可能性があるとのこと。

それは、古代意識の問題というより、現代の一つの試練と考える。

古代人の死生観とは、死んでも、生きている。存在しているということである。
それは、現代でも、そのように、考える人たちも多い。

更には、新しい誕生という意識である。

死後の世界は、無いと考える人は、ここで、躓く。

シュタイナーは、現世より、来世のことを、多く語ったようであるから。
つまり、霊界との付き合いにより、生きる人間の在り様ということである。

それを、意識的にすること。
そのための、行を考案している。
だが、このエッセイでは、取り上げない。

死者とこの世に生きている人間との新しい結び付きを作るために死ぬ、という人間の在りようを、人智学の観点からどう見ることができるでしょうか。
高橋

これが、人智学の眼目であろう。

人間には、肉体と、エーテル体があり、アストラル体、そのアストラル体の中心に、自我がある。

古代人と現代人の違いとは、肉体とエーテル体と、アストラル体と自我の、在りようが違うということだ。

古代人の肉体とエーテル体は、現代人よりも、アストラル体の影響を受けていない故に、土地の影響を強く受ける。

また、現代人の、自我、アストラル体ほど、肉体、エーテル体の影響を受けていない。
つまり、自由に、身体を離脱しやすいという。

現在の人間の、自我と、アストラル体は、つまり、魂の部分は、肉体と、エーテル体、つまり、体の部分に深く結び付いている。
簡単に脱魂状態には、なりにくいのである。

確かに、古代人と、現代人は、違うということは、理解できる。
しかし、上記の説明は・・・
一つの、仮説である。

こういうことを、探ることによって、現代人の、心の荒廃を救うのか・・・
更に、荒廃とは、何か・・・
以前にも、書いたが。


posted by 天山 at 06:31| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月10日

霊学134

今の人間は魂と肉体の結び付きが非常に強いので、仮に環境がその肉体にとって好ましくない場合にも、自我やアストラル体がそれをコントロールして、たとえば早く寝るとか、それに応じた食事をするとか、あるいは別の土地に行くとか、そういうことを試みて、自分でコントロールします。つまり環境に対する適応力が強いのです。古代の人間はそういう意味では環境に対する適応力が少ない代わりに、土地に定住して生きる場合には、その土地との結び付きがもっと強くて深いのです。そういう人がたとえば夜、眠りますと、その人のアストラル体は現代人よりもっと自由に肉体から離れます。そして夢の世界をより現実的に体験するのです。
高橋

肉体から離れた、アストラル体は、時間の世界、つまり、アストラル界に入る。
そこは、死者の世界、人間や動物の情念の世界、或いは、神々の世界ということになる。

人は、十年前の出来事に、アストラル界で、現実に出会うらしい。

過去の世界と、現実の世界が、夢では、融合する、つながると、考えるのである。

時間の本質を考え、時間の流れの中に入って、深くその流れを辿っていくと、時間は断絶しているのではなく、ある連続した状態で、現在に通じていることが実感できると思うのです。
高橋

夢の世界とは、感情の形象化された世界であり、感情と時間は、同質であるとの意見である。

夢の中で、時間の中に参入して、過去と現在を一つのものとして、体験する。
そこでは、死者達と出会い、民族魂に出会う。

シュタイナーは、その死者の世界、感情の世界とは、基本的に動物の世界でもあるという。

それが、重要なことである。

人間が眠ると、動物のアストラル界に入り、今地上で苦しみを味わう動物のアストラル界を感じる。
更に、死者も、眠っている、その人の魂も、その苦しみをまともに受けているという。

それが、アストラル界の土台を成している。

この土台の上に地球上の人類は今までいろいろなことを行なってきました。その時の悦びや悲しみのすべてが、やはりアストラル界の中で、大きな時間の流れとなって、存在しているのです。
高橋

私たちが感情の世界を通して時間の中に参入していくとき、その世界が苦しく、冷たく、暗い、どうしようもない世界であればあるほど、その中で出会う高次の存在たち、神々との出会いが、いっそう痛切に体験され、次の朝、またそこから新たな活力を得て目覚めるのが、私たちの毎日の繰り返しなのです。
高橋

果たして、そうなのだろうか・・・
疑問である。

時間が、感情の世界であり、そして、アストラル体の基本が、動物の情念の世界・・・

これには、無理がある。

勿論、人により、その世界に入る場合もあるだろうが・・・
別な世界に入る場合もある。

すべての人には、当てはまらないのだ。

何度も言うが、シュタイナーが、何処の霊界を見ていたか、である。
すべての霊界を見ていたということは、有り得ない。

その哲学的理論には、説得力があるが・・・
その霊的感覚には、疑問がつきまとう。

融合という、精神は、一見して、理想的に見えるが・・・
それほど、単純なことではない。

このシュタイナーから、例えば、仏陀とイエス・キリストを、霊的に同質に解釈するという、人たちが、多くなった。
人類の大師である、等々・・・

更に、シュタイナーは、新約聖書などにも、霊的な意味を見出し、それを書き続けたが・・・
新約聖書の偽の情報に関しては、一切、触れていない。

日本でも、成長の家を創設した、谷口という人は、仏典、旧約聖書の解釈をするが・・・
その、偽の情報には、触れない。

自分の言いたいことを、それらの聖典といわれるものから、解釈するのである。

後付けの意味は、どうにでも、書ける。
宗教の多数は、そうである。
時代の都合に合わせて、解釈する。
勿論、否定はしない。

私が、シュタイナーを紹介するのは、霊学のエッセイを書くにあたり、必要と思うからだ。
私は、シュタイナーを正しいとは、言わない。

一つの仮定である。

さて、
人間の時間的な生活の中には基本的に感情のエネルギーが流れていて、その感情の流れの中では、現在も過去も未来も、連続してひとつの大きな統一体をなしている、ということです。その統一体、あるいは時間的世界の中には、この世で生きている人間も死者たちもおり、共にそこで一種の共同生活を営んでいて、それが本質的に歴史をつくりだしている、ということなのです。
高橋

私の霊学から、言えば、この次元は、すぐ上の四次元、幽界の影響を受けているという、言い方になる。

共に、共同生活をしている・・・
確かに、次元とは、隣にいても、永遠に遠い場合があるから。

だが、それが、クロスするのは・・・
果たして、夢なのか、現実なのか・・・

死後の世界を知らない、或いは、信じない人には、どうしようもない、考え方になる。

ただ、神々と表現するのは、正しいと、思うが・・・
高次の世界の存在を、神と呼んでもいい。


posted by 天山 at 05:46| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月11日

霊学135

動物界と人間との関係が、現在はきわめて悲惨な在り方をしています。かつて太古の時代の人間たちが残酷な殺し合いをしていた以上に、一方的に人間が動物を虐待しているのが現状です。
ところが動物界の本質はアストラルの世界―――喜び、悲しみの感情世界ですから、今いいました時間の感情の流れの中で、人間も当然その世界を共有しなければなりません。
地上で生活している私たちにとっては、自分たちとぜんぜん違った世界であるかのように見えるかもしれませんけれども、眠っている間の私たちは、あるいは死者たちにとっては、アストラル界の中で動物たちの魂のうめきが、自分のものとして感じられるのです。
高橋

これは、ユダヤ・キリスト教に対する、鋭い批判である。
人間は、動物を支配していいのである。

人間は、動物を殺して食べる。
更には、様々な、実験をはじめ、動物を虐待するのは、当たり前であると、考える。それは、ユダヤ・キリスト教の教えである、人間が主体の世の中であるということだ。

それは、兎も角、アストラル界の中で、動物たちの、魂のうめき・・・
動物の魂・・・
動物にも、魂が存在するということだ。

人間の魂の存在を信じられない者は、動物の魂の存在も、信じられないだろう。

私の霊学からは、動物の魂は、また、別の空間、次元に存在すると、考える。

果たして、シュタイナーの言う、アストラル界で、動物の魂の呻きを聞くのだろうか。
勿論、動物は、人間に奉仕して、生きた。
その命を人間に与えて、人間の命を生かした。
当然、その報いはある。

古代人が動物をいけにえに捧げたように、現代人は生態系を破壊しながら、文化生活を行なうのです。
高橋

古代人でも、それは西欧を主とする、ユダヤ系、セム系の民族であろう。
古代日本人は、動物を生贄にはしない。

だが、地上で、安楽に暮らそうとすると、環境破壊は、凄まじいものがある。

シュタイナーの霊界は、眠っているときと、死んだ後の世界である。
そこは、人間の魂に対して、地上を生きるときとは、正反対の生き方を求める。

ひたすら、生命への帰依、生命への畏敬がないと、霊界では、生きられないという。

神智学では、それを「反感」と「共感」と言う。

つまりこの世では、ひたすら反感の衝動、あるいは破壊の衝動に従って生きていくのに対して、あの世では、ひたらす共感しないと、霊的環境に適応できないのです。
高橋

そこで、
ですから死者にとっての重要な課題は、動物のアストラル界をも自分のものと考え、動物の生命をも自分の生命と一体化させることなのです。死者たちは、この世に生きている動物たちの生きる意志に協力しているのです。「神智学」で問題にしているものもそのことなのです。人間の死者たちが霊界から動物界に向って、生への畏敬の念を送っている結果だ、と言いました。
高橋

更に、死者たちは、他の人の魂と、自分の魂の融和、調和である。
死者は、孤立することなく、他の魂と結び付くことが出来なければならない。

そうしなければ、更に霊界に深く参入する事は、出来ないという。

これは、死者たちの話ではないだろう。
現界も、そのようでなければならない。

すでに、この世で、そういうことを行なうことである。

霊界での、生き方というものがあるならば、また、修行というものがあるならば、それは、全く違ったものである。

シュタイナーの理論は、すべてが、事実ではない。
それは、彼のみの、ものである。

確かに、この世は、融和的、調和的ではない。
現代の人間の在り方は、修羅の世界である。

現実の世界である。
その通りである。

そして、破壊的である。

人間が、いつから、そのようになったのか・・・
それは、人類が民族言語を身に付け、記憶力が本質的に変化するようになった時期からだというのが、シュタイナー主義である。

言語の表側と、裏側で、別な魂が、語り始めるようになったという。

私は、魂ではなく、精神と言うが・・・

人間の捉え方・・・
それは、様々な形がある。
シュタイナーの捉え方も、その一つであり、仮説である。

人間は肉体とエーテル体とアストラル体と自我からできています。昼間はその四つが一緒に働いているのですが、夜眠ると、ベッドの上には肉体とエーテル体だけが横たわっていて、アストラル体と自我はそこから離れていきます。
シュタイナー

人間を考える時、この四つの関わりを考えるのである。
つまり、四つの原理からなる、矛盾した存在であるということだ。

よく自己同一性と言いますけれども、自己同一性というものは、本来的にありえなくて、四つの異なる原則がそれぞれ自己を主張しているのです。ですから統一よりもむしろ分裂のほうが、いつも勝ってしまうのです。
高橋

シュタイナーの霊能力によって、解説されたものである。

そうすると、人間は、肉体と、エーテル体のみの生き方を選んでいるとも、言える。

アストラル体と、自我に気付かずに、である。
更に、この世に適応して生きるには、アストラル体と、自我に気付かぬ方がよいということになる。

分離しているものを、融合させる、統一させるというのは、現実には、不可能であると、いえる。



posted by 天山 at 07:23| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月12日

霊学136

アストラル体とエーテル体が肉体とは別の、いわば形而上学的な、神々の法則にしたがっていた時代、つまり、アトランティス時代は、記憶力が大きな広がりを持っていた。

後アトランティス時代になり、特にその第三期のころは、神々の法則に従う、自我、アストラル体と、地上の原則に従うエーテル体、肉体とに、はっきりと分かれてゆく。

当時の人間は、自分という場合、集合的性格をもった自我とアストラル体を自分と考えて、その部分が働いている時に、私というものを、意識した。

そして、第四期の中国期、ギリシャ・ローマ期以降、現代に至るまで、自我は、ひたすらエーテル体と肉体を、志向するようになった。

つまり、生きるということは、肉体と、エーテル体を快適な状態にすることになった。

太古の時代には、「私」はエーテル体とではなく、自我やアストラル体とひとつだったので、自分を生かすためには、肉体やエーテル体は死んでもかまわなかったのです。
高橋

しかし今の人間は逆に、肉体とエーテル体が滅びれば、自我も滅びると考えています。環境破壊の問題がどのようにしてはじまったかといえば、おそらく人間の自我がエーテル体と肉体とを志向するようになったところからだと思うのですけれども、そこにはやはり大きな歴史の必然性が働いているようです。それをどう考えたらよいのでしょうか。太古の意識を取り戻せばよいのでしょうか。それとも今の意識の方向をもっと徹底させればよいのでしょうか。
高橋

今の意識を、徹底させれば・・・
どんな結果になるかは、解っているのである。

現代は、決定的な分岐点にあるという。

つまり、「時間的な記憶の意識」が再び、「別の記憶の文化」に、移り変わる過程を辿る。

高橋氏は、
もはやそのままでは破滅の方向にしかいくことができず、なんとかして、ふたたび生命に対する畏敬を基調とした新しい文化を生み出さなければならなくなりました。
と、言う。

シュタイナーの言葉を、そのまま受け容れると、そうなるが、簡単に言えば、西洋式の考え方、また、白人主義のやり方では、後が無いという言い方も出来る。

現代の人間が自分の意識を変革させるためには、自分の行動のさまざまな部分を、自分が行なっているのではなく、自分の内部のアストラル界で、死者や動物の霊やあるいは霊界の崇高なヒエラルキアの神々が働いて、自分をつき動かして、そのような行動させている、という認識に到達しなければなりません。
高橋

それを、意識出来るか、否かである。
しかし、意識しなくても、歴史の必然的動きに従う他に、術は無いだろう。

アトランティス時代から、云々と、分析してきたシュタイナーが、ここで、指し示す何かがあるのだろうか。
また、歴史の必然性によって、流れてゆくのだろうと、思うが。

日常生活の中で、自分以外のなにか目に見えない力に自分がつき動かされているという実感、それを自分の中に持って生きることが、新しい意識を獲得する道に通じるのだと思います。
現代はそういう大きな過渡期にあるので、地上の現実原則だけに自分を適応させないで、手探りで出会えるような、別な世界にも心を向けていくことが、私たちに課せられている歴史の課題なのではないでしょうか。
高橋

実に、穏便に語るが、これでは、宗教の教義と変わらない。

別な世界にも、心を向けることは、大切なことであるが・・・
それを、シュタイナーからだけ、得るというのは、おこがましい。

勿論、シュタイナーの考え方を取り入れることに関して、否定する事はない。

そのような一つの、考え方があるという、ことである。

これで、シュタイナーを終わる訳にはいかないので、シュタイナーの見た、霊界について、少し、俯瞰したいと思う。

シュタイナーの原文を使用する。
その翻訳も、案内頂いた、高橋巌氏の、訳である。

霊学であるから、その根本である、霊界の姿をシュタイナーは、どのように見たか、である。

その著書は、シュタイナー選書、第二巻、いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか、である。

そこには、霊界参入の三段階、神秘修行の諸条件などがあるが、その中の、霊界参入が与える諸影響から、見ることにする。

霊界を描いたものは、スエンデンボルグのものや、日本でも、異境防備録などがあるが・・・

それらは、霊界の一部である。
霊界のすべてを描いたもの・・・・
それは、不可能である。

ある一部の霊界の様を見て、書かれたものである。

ちなみに、西洋には、優れた霊界に関しての文献、考え方があったが・・・
それらは、すべて、カトリック教会によって、異端として退けられ、消滅してしまった。

ただ、その中でも、インド、ペルシャを通して、伝えられたものもある。
何せ、ギリシャ思想も、イスラム帝国から、西洋は、逆輸入したのであるから・・・

ただし、キリスト教の正典とされる、聖書の中には、それらの秘儀が、隠されているものもある。

原始キリスト教と、その後の、キリスト教は、全く別物と考えた方がいい。

西洋は、キリスト教に象徴されるように、都合のよいものだけを、教義として掲げた。そこに、白人主義という、傲慢がいつも、付きまとうのである。
極論を言えば、西欧から出たものは、ロクなものがないのである。

posted by 天山 at 06:25| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月14日

霊学137

シュタイナーの著作、いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか、から紹介することにする。

これは、あくまでも、参考である。
それが、最も理想であるとか、するべきであるとかは、言えない。

更に、シュタイナーの霊界は、グノーシス主義、キリスト教の瞑想指導や、その他、西欧の考え方が多くある。
精神指導という名において、キリスト教の黙想会なども、目指すところだと、思われるが、キリスト教を超えている。
更に、心霊主義、心理学・・・なども、加えることが、出来る。

その都度、紹介の合間に、付け加える。

その、霊界参入、の箇所から始める。

一般に理解可能な言葉で暗示することのできる神秘修行についていえば、霊界参入こそその最高の段階である、といえる。この段階よりも高次の修行になるとどんな記述も理解し難くなる。とはいえ、準備と開悟と霊界参入の諸段階での秘密内容を認識するところまで来た人には、どのような道もさらに開かれている。
シュタイナー

霊界参入に伝授される、知識と能力は、シュタイナーの言う行なしでは、遠い未来・・・何度も輪廻転生を重ねた末に、獲得されるという。

参入を許された人は、遥かな未来に、まったく異なる状況下で、経験するような事柄を、この世で、経験出来たのである。そうだ・・・

ここで、躓く人もいるだろう。
今世で、経験しなければ、遠い未来において、経験するだろう・・・

その前に、霊界参入という言葉も、躓く。
霊界の存在を認めることから、始まるのである。

キリスト教の西欧において、輪廻転生を言うとは、大胆である。
それは、また、画期的なことであるが・・・
グノーシス派は、すでに、そのように考えていた。

ここで言うところの、行とは、精神的指導という名目で、宗教の中にもある。
仏陀の指導法も、取り入れているが・・・

人はその成熟の度合いに応じた程度でしか、存在の秘密を本当に経験することはできない。
シュタイナー

当然である。
つまり、人には、それぞれの、精神、心、魂のレベルがあるということだ。

知る人が、知らない人に、教える、伝えることで、歴史と文明は、成り立ってきた。

そして、知る人は、様々な言い方をされる。
宗教の教祖が、勝手に自分のことを、名乗るのに、似る。

そして、知識と能力の高次の段階へ至ろうとする人の前には、成熟を促すさまざまの障害が待ち構えている。
シュタイナー

その通りであるが、勝手に、それを障害だと、思い込み、勝手に妄想する者も、多い。

更に、障害があるからこそ、それが、本当のことである・・・云々という、宗教の教えである。

シュタイナーの確信は、自分の霊界参入の確信であり、自分の霊界の見方の確信である。
誰も、それには、批判出来ない。

経験したという人に、何をか言えるだろうか。

霊界参入が許されるのは、輪廻転生の中で、秘密の伝授を受けるに相応しいところまで、進化するために、積まなければならない、諸経験を、通過しないで、済ますことになる。

したがって霊界参入を志す者への最初の指導は、未来の諸経験をいかに代償しうるかである。
シュタイナー

矢張り、オカルトなのである。

そして、結局、霊的な事柄を語ることは、オカルト以外にないのである。

シュタイナーが言うところの、行を積む・・・
私は、その行を、まだ、書き付けていない。

真の神秘学の原則に従えば、研究者は常に明瞭な意識をもって、研究に従事しなければならない。どんな作用が生じるかも知らずに、研究や修行を続けるべきではない。神秘道の導師が弟子に助言や指針を与えるときには必ず、それを修行することによって、修行者の体、魂または霊の中に、何が生じるかを説明する。
シュタイナー 霊界参入が与える諸影響

当初、シュタイナーは、自分で修行する道を、示していたが、ここでは、導師が出てくる。矢張り、指導者が必要なのである。

明瞭な意識を持ってすれば、一人で修行が出来るはずだった。

それは、前段階だったのか・・・

それでは、神秘学の導師とは・・・
神秘学を先に学んでいる人なのか。
そして、一体、どのようにして、それを証明するのだろうか。

疑問が次々と、湧いて来る。

暗中模索は神秘修行にとって決して好ましい状態ではない。眼を見開いて自分の道を歩もうとしない人は、霊媒的な方向に近づく。そうなると、自分を神秘学の意味での見者にすることができなくなる。
シュタイナー

当然である。
霊能者と自称する人たちの多くは、霊媒師である。
霊媒師とは、その体を霊に明け渡す。
つまり、霊の入れ物になるだけである。
それは、実に、恐ろしいことである。

だから、シュタイナーも、明瞭な意識を持ってと言う。
明瞭に意識を持つということは、絶対に必要である。
だからこそ、確実なのである。


posted by 天山 at 06:03| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月15日

霊学138

肉眼でも見ることのできる生命現象の霊的形姿を霊眼によって見るまでに進歩した神秘学徒は物質的な現象形態をまったくもたないので、神秘学の教えを受けたことのない者にはまったく隠されているような事象をも観ることのできる段階のすぐそばまで来ている。
シュタイナー

健全な感覚と鋭敏な観察力を用いて、感覚世界に観入し、そして自分の感情に自己を委ねればよい。事物が何を意味するかを思弁的な悟性の力で決定しようとしてはならない。事物そのものに語らせねばならない。
シュタイナー

段階を追わないと、非常に抽象的に聞えるが・・・

その行を見ることにする。

神秘学が高次の諸世界での位置確認と呼ぶものもまた重要である。霊界で方位を正しく定めるには、感情や思考が感覚界での机や椅子とまったく同じ現実的な事実なのだという意識を身に付けなければならない。
シュタイナー

霊界という、幻想を見ても、である。
それが、霊界か、否かは、判定できない。

延々として、シュタイナーが、語るが・・・
具体的な行のあり方を見ても、尚、抽象的に思える。

神秘学でなくても、その注意力は、生きるに必要なことである。

魂や霊の世界での感情、思考は物質界での感覚的事物と同じように、相互に作用し合っている。
シュタイナー

当然である。
霊界の事柄は、この世の事物と、相互に作用し合っているのである。
それは、特別なことではない。
霊界を知る者は、皆、それを知る。

神秘行においては、自分の思考と感情に対して、地上を歩むときと同じ注意深さをもとうとしないと、進歩することができない。
シュタイナー

と、いうより、それ以外の方法は無いだろう。

例えば、
音の世界のまた行の対象になる。
ということで、その説明を簡単にすると・・・

無生物によって生じる音と、動物や人間の発する生物の音「声」を区別しなければならない。
鐘の響きを聞くとき、それと結び付いている快さの感情も同時に生じる。
けものの叫びを聞くときは響きから受け取るこのような快さの感情以外に、その動物の内なる快さや苦の現れをも感知する。

彼は音が自分自身の魂の人に存する何かを告知しているという点に、注意力のすべてを集中する。そしてこの自分とは異質なものの中に沈潜する。
シュタイナー

音を発する存在自体の中でいとなまれるものだけが彼の魂を充たすまでに至たらなければならない。
シュタイナー

何も、神秘学云々の話ではない。

この世の話である。
霊界という、言葉を使用するが、すべて。この世の注意深さのことである。

これが、シュタイナーの勘違いさせるものである。

このような行を続ける人は音を発する存在の内面といわば融合する能力を獲得するであろう。
シュタイナー

自然と接する仕事をする人々などは、とっくに、このような行をしている。
改めて、このように書くと、そんな気になるが・・・

霊界参入などという言葉を使わずとも、この世で、十分に、その行を成しているのである。

神秘学徒は全自然をこのような仕方で感得する術を学ばねばならない。―――そしてこのことを通して感情と思考の世界の中にひとつの新しい可能性がひらかれる。全自然がその響きを通して人間に秘密をささやく。
シュタイナー

随分と、文学的である。

そのときからは自然の意味深い言語となる。
シュタイナー

これは、散文というより、詩のような、表現である。

神秘学徒にとって特別の重要さをもつのは、他の人間の語る言葉に耳を傾ける仕方である。
シュタイナー

それは、他の人間が語ることに対して、一切の反応をしないということだ。
賛成も、反対も、無く、沈黙する。
そうすると、自然な仕方で、傾聴という、新しい態度が習慣化されるようになる。

カウンセラーは、まさに、そうである。
相談者の語りを傾聴するのみ。

カウンセラーの仕事は、それに尽きる。
傾聴とは、共感と受容である。

賛成、反対・・・そんなものはない。

シュタイナーの言う、行とは・・・
それは、生きるということを、より深めるためのものである。
霊界参入のため、ではない。

すべの行は、その注意深さのためにある。
後で、霊界に関して、多くを語るが・・・

私から見れば、霊界というより、現実の世界の、深さのことである。


posted by 天山 at 07:03| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月16日

霊学139

神秘学徒は一定の期間、自分とは正反対の思想に耳を傾け、自分の内部の一切の賛成、特に一切の否定的判断を完全に沈黙させる行を自分に課す。
シュタイナー

このような記述が、延々と続き・・・
結局、一言で語れることを、延々として、語り継ぐ。

こうして人間は他人の言葉をまったく没我的に、自分の意見や感じ方を完全に排除して、聞くようになる。・・・没批判的に傾聴する修行を積み重ねていく人は、次第に相手の本質的部分と融合し、同化することができるようになる。相手の言葉を聴く行為を通して相手の魂の中へ自己を移し入れる。このような修行を積んだ人にとって、音ははじめて魂と霊を知覚するための正しい手段となる。
シュタイナー

行、修行・・・
これが、神秘学の行であるという。

いずれにせよ、注意力の問題である。

音が、魂と霊を知覚するための正しい手段となる・・・

手品のような感覚がする。
日本でも、内観法、内省法というものがある。

深い、カウンセリングのようなものである。
それが、魂と霊を知覚するための正しい方法とは、言わない。

相手の気付きを促すものである。
こちらは、単なる、聞き役である。だが、聞き役であるが、その聞き役こそ、存在感のあるものになる。

厳格な自己鍛錬が必要である、と、シュタイナーが言うが、当然である。
相手の言葉を、否定も肯定もせず、聴くという、行為は、実に難しい。
こちらの感情を殺すのである。

霊界参入のための、修行である。

それほどに、生きている間に、霊界参入の行をするという、神秘学、シュタイナーの教えである。

そこで、
新しい聴覚が魂の中から生じてくる。耳には聞えず、物質音では表せぬ霊界からの知らせが「聴ける」ようになる。「内なる言葉」のための知覚能力が目覚め、霊界が次々と真実を打ち明けはじめる。
シュタイナー
と、なる。

すべて高次の真実はこのような「内なる語りかけ」を通して獲得される。
シュタイナー

その真偽は、誰が承認するのか・・・
内なる語りかけを、誰が認めるのか・・・

シュタイナーが生存している間はよいが、その後は、その弟子達によって、承認されるのか。

内なる語りかけが、妄想の場合は・・・どうする
そのような、行をして、その気になってしまったら・・・

実に、問題が多いのである。

そして他の手段をすべて用いたとしても、神秘学の教義を受け容れなかったなら、決して目標は達成されえない。
シュタイナー

ということは、宗教の教義と同じである。

神秘学の教義・・・
それは、シュタイナーを信じるということである。

そうすると、最初から、信じる、信じない、という、判断に行く。

シュタイナーから、色々な、科目が出来た。
例えば、シュタイナー教育・・・

勿論、神秘学、人智学・・・
それは、教義なるのである。

キリスト教、禅宗などにも、このような、訓練がある。
特に、瞑想、黙想などの盛んな宗教には、付き物である。

そこには、思い込みが、付きまとう。
それを冷静に判断するだけの、心の包容力が試されるはずだ。

霊界、霊学とは、この世の、延長線にある。
断絶されているものではない。

更に、次元が違う。
次元の違いを、行によって、補うという、考え方と、理解する。
だが・・・

実に、危険である。
何故か・・・
通常の生活の中で、シュタイナーの言う行をして、人生を深く味わう、人生をよりよく生きるのであり、霊界参入とは、関係ないのである。

そして、何故、霊界に参入しなければならないのか。
来世にて、するべきことを、現世にて、行なう。
その必要は無い。

そこに、私の霊学と、シュタイナーの霊学の相違がある。

勿論、シュタイナーの霊界も見ることにするが・・・

ここで、シュタイナーを信じてしまい、それを最も有効な方法だと、思い込むと、宗教の蒙昧と同じようになる。

勿論、私は、否定も肯定もしない。
霊学というものを、説明するために、シュタイナーを取り上げている。


posted by 天山 at 07:09| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月17日

霊学140

もし今日、誰かに霊界参入が許されるとすれば、輪廻転生の中で、秘密の伝授を受けるにふさわしいところまで進化するために積まねばならぬ諸経験をその人は通過しないで済ますことになる。それ故霊界参入の門前で、そのような未来の諸経験が何か別の仕方で代償される必要がある。
シュタイナー 

であるから、如何に、代償するか・・・
それを、試練という。

志願者は、その試練を通過しなければならない。

あえて、何故、そんなことをしなければならないのか・・・
私には、解らない。

つまり、仏教が言う、悟りと同じ意味合いである。

「試練」については、しばしば書物の中でも語られている。けれども概して正しい観念を与える書物は少ない。なぜなら準備と悟りの段階を通過しなければ、決して試練を経験しえず、したがって著者自身にそのような神秘修行の経験がない場合は、事柄を具体的に記述できる筈がないからである。
シュタイナー

これでは、教祖である。
それでは、シュタイナーの見た、霊界というものを、霊査しなければならないのである。

ところが、日本の新興宗教の中には、無批判に、シュタイナーの試練を取り上げた団体が少なくないのである。

例えば、最初の試練である、火の試練・・・

第一の試練は、無生物、植物、動物、人間の体的特質について、通常の人間の場合よりもはるかに真実なる直観を獲得することである。
シュタイナー

まず霊界参入の志願者には、自然物や生物が霊眼と霊耳にどのように自己を顕すかが認識できるようになる。
シュタイナー

もし、この書物を読み、そのまま信じて、何事かを行なえば・・・
危うい。

その時に見聞きできる事物の特質は、身体的な眼や耳には、ヴェールで覆い隠されている。このヴェールが霊界参入者のために脱げ落ちるには「霊的燃焼過程」と呼ばれる手続きが必要である。したがってこの第一の試練は「火の試練」と呼ばれる。
シュタイナー

そして、ある人たちには、日常生活の中で、無意識的な、火の試練による、霊界参入の過程を示していると、言う。

その人たちは豊かな経験を通して、自己信頼、勇気、不撓不屈の精神を健全に育成する努力を重ね、苦悩、幻滅、失敗を魂の偉大さ、特に内的平静と忍耐力をもって堪えぬく術を知っている。
シュタイナー

そうであるなら・・・
特別な、修行は、必要ではない。
何故、あえて、未来における代償を云々となるのか・・・

霊界参入をしたいと思う人が、神秘学の学徒なのか・・・

つまり、高次のレベルの世界に参入するということである。
そして、高次の世界、霊界という場所に、参入なければならない、理由は、何か。

シュタイナーの行は、確かに、人生を深く味わうために、心得るものであると、肯定出来るが・・・

高次の世界、つまり、高次の霊界参入をしなければならないというのである。

常識を超えた事柄を知るようになる。
シュタイナー

私は、これが、危険であると、言う。
何故、常識を超えた、事柄を知る必要があるのか・・・

それは、
一般に低次の世界の中で獲得しうるものよりも、一層偉大にして真実なる自己信頼、一層高次の勇気と持久力、新しい種類の魂の偉大さを獲得すること、これこそが「火の試練」の目標である。
シュタイナー

この調子で、シュタイナーの筆が進む。
シュタイナーの著作は、膨大である。

火の試練を通過したあと、神秘修行をさらに続けようとするなら、今度は通例、秘密文字のさまざまの体系が神秘修行と結び付いている。
シュタイナー

この文字体系の中で、本来の神秘教義が開示される。本当に「隠れた」(オカルト的な)ものは、直接通常の言語で語ることも、通常の文字で表記することもできない。
シュタイナー

霊的知覚を獲得すれば、常に、オカルト文字は、魂に語り掛けるという。

世の中には、様々な、不思議がある。
そして、それらは、秘義などと、呼ばれる。
そして、多くは、宗教の中に、見られる。

隠され文字が、魂に語り掛ける・・・
そういう表現は、それでよしとしても、危ういのである。

霊学とは、日常生活の中に、生きていることが、正しい。
だから、シュタイナーの修行に関しても、否定はしないが・・・

もし、その秘密文字を通して、魂が、何事かを聴いた、あるいは、導く、教えるなどということは、おかしいのである。

植物と、心を通わせる。
それは、正しい。
正しいが、そこから、霊界参入などという心境に至るのは、危険であるという。
何故なら、すでに、人間は、霊界の中に住んでいるというのが、霊学の見方である。

ここも、この世も、霊界なのである。
次元の別が存在するだけである。
そして、別次元の世界に、導通する必要は無い。


posted by 天山 at 06:58| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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