2013年08月01日

霊学111

ユングの深層心理学・・・

理性ではなく、感性のために、未来に渡り、一番有力な方法を提供したと思われる。

無意識の世界の認識を、いかに獲得するのか・・・
ロゴスではなく、感性による学問を立てた。

感性の学問の基本的な立場とは、ファンタジーである。
ファンタジーとは、構想力のことである。

構想力の論理が言葉による概念の論理と別なところで、何を認識できるかということになる。

ユングは、人間に内向的な人間と、外交的な人間がいるように、論理にも、内向的と外交的があり、構想力の論理は内向的であるに反して、言葉による概念の論理は、外交的論理であるという。

言葉は、外に向ってのみ生きるものではなく、我が身の内でも、内なる心の営みに必要とされる。

更に、言葉は、方向付けを通して、思考以外の心の諸機能をある意味で、抑圧する。

言語とは、特定の方向へ方向付けて、他の方向へ向おうとする思考習慣を抑えつつ、一つのことに、集中させようとする。
これが、言語の重要な特徴である。

それにより、思考内容が、他の人に解るように、客観性を持つものとなる。

他の機能の抑圧とは、思考と感情、感覚と直感の四つが、それぞれ互いに上下左右の関係において、結びつきを持っていると考える。

例えば、思考の働きの強い人は、感情の働きが弱いなど・・・

更に、ユングは、
意識の生活において、日常の覚醒時の生活において思考の発達している人は、無意識の生活において感情が発達している、意識の生活において感覚の発達している人は、無意識の生活において直感が発達している。
高橋巌 神秘学講義
と、なる。

日常生活において、思考型の人が、あまりに思考中心の生活を送ると、無意識の中から、その人が気付かない部分に、非合理的な感情の爆発が起こる。
そして、突然、思いがけない行動を取る。

思考が外交的に働き、その結果外交的な論理が人間の心の、諸機能を支配するようになると、その言語的な論理により、感情が抑圧され、さらに、感覚と直感も抑圧される。

外界とは、環境の世界であり、それが、自然環境でも社会的環境でも、同じである。この外界と自分との境界で、感覚的な知覚が、外界と向かい合う。
この知覚を通して、外界が人間の心の中に写し出されると、そこに表象、観念、そして、観念連合が現れる。

表象に言葉が結びつき、概念を作る。
そして、記憶が始まるのである。

その記憶は、忘れられるが・・・
いつか、突然、現れることがある。

それらの記憶により、世界内容が、概念体系として、心の中に記憶される。

このようにしてわれわれが外界に対するとき、まず外界から印象が感覚的知覚を通って入ってきます。この印象は、それから、われわれの内部で表象を生み、記憶像を生み、最後に概念というかたちで人間の心の中におさまります。このようなプロセスこそ、理性による論理の根拠であると言えると思います。なぜならこの過程の中で体験された事柄が他人に伝達するのに必要な内容となったとき、それを表現するための言葉が求められ、論理が求められるからです。しかも以上のプロセスのどの部分が欠けても、言葉はそもそも機能できません。
高橋巌

ユングは、これとは、正反対の、逆の方法を取る。

概念へ至る逆の方向である。

内なる世界から、ある情念の働きが生じる。
広い意味での、情念である。
本能、欲望、憧れ、不安、期待感・・・

無意識の奥底から、ある種の興奮が、波紋のように表面に上がってくる。

この情動の作用が、心の中に潜む記憶像と結びつく。
無意識的な欲求が、これまでの人生で得た概念内容と中の、何かと結びつく。
そして、意識の表面で表象を、呼び起こす。

この表象ははじめ夢のようにはかない、非現実的な形式をとるようになってきますが、更にプロセスがすすんでいきますと、最後には感覚的知覚と同じくらい明瞭な形式をとるようになってきます。つまり幻覚があらわれてきます。
高橋

この幻覚が、感覚的知覚と同じくらいに、明瞭なものになることもある。
そこまで至ると、精神病理学の妄想、ある種の宗教的な人たちの、ヴィジョン、幻視など。

言葉を使う時より、実に曖昧である。
更に、全く別の心理状態である。

ユングは、内向的な論理と名づけた。

フロイトは、この状態を退行状態として、ネガティブなものと、考えた。しかし、ユングは、この退行状態から、新しい文化を生み出す際の、基本的な論理になるのではないかと、考えたのである。

フロイトは、この退行を、死に対する願望が結びついていると、考え、更に、退行の欲求は、生殖作用から独立した、セックスの要求と結びつき、セックスを通して、存在の根源に帰ろうとする。

つまり、退行とは、死への願望であり、同時に、セックスの願望でもあると、考えたのである。
フロイトは、エロスとタナトスが、いつも結びついていたのである。
タナトスとは、死、である。

ユングは、フロイトと袂を別ったのが、これである。
ユングの退行とは、フロイトとは、全く逆の方向に働くものとなったのである。

ユングの場合、対立するものとは、より高次の現実だった。
この現実世界を表象させている、人間の魂の中にある、別世界、超現実的世界、形而上的世界、霊界・・・
オカルトである。

純物質の世界、命ある魂の世界、そして、霊的世界の三つの世界。
その三つ目の世界・・・
神秘学に至る世界である。


posted by 天山 at 05:48| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月02日

霊学112

神秘学という学問は、・・・われわれの魂がこの世の現実の中にはない、という前提から出発する学問です。したがってこの世の現実ではなく、その背後にあるべき第二の現実を求め、どうしたらそれが認識可能になるか、を考えます。そうしますと、神秘学の考え方とユングの考え方と非常に共通してくるわけです。ユングも現実世界と快楽原則の世界だけにあきたらないで、別な第二の現実の世界を求めようとしました。
高橋巌

そして、ユングは、超現実の世界に向かい合うことのできる、論理を、退行的な論理の中に、求めた。

退行的思考を徹底的に訓練し、魂の奥底に、どのような仕方で未知の、第二の客観的世界が現れるのかと・・・

さて、ヨーロッパには、意識の変化という、考え方がある。
それは、キリスト教、更にユダヤ教の、旧約聖書と、新約聖書からの、発想である。

これは、高橋氏と、私の考え方の違いであるが・・・
言うことは、同じである。

つまり、聖書の、父と子と聖霊である。
最初は、父の時代、次に、子の時代、そして、第三に、聖霊の時代が訪れるという、考え方である。

意識の発達史という、考え方。

父、子の時代は、省略する。
聖霊の時代の始まりである。

それを第三の時代という。
霊的意識が個人の内部だけでも、体験できる時代である。

霊的な意識そのもの、つまり、聖霊を、各自が自分の内部に、それぞれの仕方で見出すことが出来る時代が来るという。

これが、皮肉で、その第三の時代になると、教会も、聖書も必要ではなくなる。

重要なのは、ひとりひとりが自分の内部に眼に見えぬ祭壇を作ることです。ひとりひとりの人間に、一切の聖霊の働きが内在化しているとすれば、自分の内部を探求していくと、自分の内部から必要な行動の指針が必ず出てくるはずです。
高橋巌

ここで、面白いのは、聖霊という、キリスト教の三位一体の、父と子と聖霊の、聖霊ということである。

これは、無意識ということである。

無意識の時代、それを、第三の時代というのである。

ユングにおける、意識界と、個人の無意識界、集合的無意識界という、三区分の時代である。

神秘学の論理は、対象を、三つの部分に分けることから、始まる。

二分説の場合は、物質と心、物質と意識、肉体と魂と、二つに分けて考える。その場合は、神秘学には至らない。
更に、そこからは、唯物論のみ、発生する。

勿論、これも、キリスト教の考え方からきているのである。
つまり、肉体と魂を持っていても、教会に属し、教会に忠誠を誓うことで、恩寵として、客観的な真理、霊界の認識が伝えられるという、考え方である。

だが、この二分説で考えると、心、魂は、物質の所産に過ぎなくなる。脳細胞という物質が、心や魂の動きを生み出すということになる。

そこでは、肉体が無くなれば、心も、魂も無くなるということになる。

三分説の立場に立つと、人間の本性における、肉体と魂ではなく、霊、魂、体という、三つの領域が、問題になるのである。

ただし、霊、魂、体という、言葉は、学問の世界では、使用しない。
霊は、精神、魂は、心、または、一般に学術用語は心理という言葉を使う。

体も、身体、肉体となる。

心理という場合は、霊と、魂という意味になるのである。
これは、学問の世界のことである。

だが、実際に、精神と心という二つの概念は、哲学、心理学でも、実に曖昧に使われているのである。

三分説の立場になると、肉体以外の言葉を、心理という、一つの概念にまとめてしまうわけには、いかないのである。

霊と、魂は、それぞれ独立して、固有の領域を持った概念となる。

それでは、肉体、身体、体というものが、明確にされているのかと言えば、これも、実に不安定である。

われわれの身体は、それ自身が決して自己同一性を保っていないからです。
高橋巌

高橋氏は、
肉体というのは、決して矛盾なしに調和して存在するものではなくて、そもそも肉体くらい矛盾だらけの存在はありません。
と、言う。

互いに、自律的に作用する三つの部分の結合体である。
神経感覚系を代表する、頭部。
循環系を代表する、胸部。
代謝系を代表する、腹部。ということになる。

この三つは、それぞれ同じ肉体に属していながら、それぞれ全く異なった固有の働きをしている。

それが、統一されているように、錯覚しているのである。

だが、思考、感情、意志と肉体との関係を、どのように考えるのか・・・
これが、肉体の思想における重要な問題になる。

posted by 天山 at 05:36| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月03日

霊学113

いったい人間という、肉体においても魂においても矛盾だらけの存在が、どういう意味で個体という統一体と考えることができるのか。それぞれの部分が互いに矛盾している中で、いったい人間とは何か。あらためてこの点を考えていく過程で明らかなことは、現在われわれが人間として、この瞬間に生きている存在の仕方そのものが、決して本来のありうべき状態にあるとはいえない、ということではないかと思うのです。
高橋巌

そして、
自己反省ではなく、自己実現もしくは自己変革の観点からとらえていかないと、人間を認識したことにならないという感じがする・・・
と、言う。

それでは、魂と、霊との区別である。
これは、あくまでも、神秘学というものからの、提言である。

魂とは、自我の働く座である。
そこにおいて、自我が自己をあらわすことのできる領域だという。

実に具体的である。
だから、魂が、外なる対象に対して、自分、自我にとって、プラスかマイナスか、共感が持てるか否かの反応をする。

共感の持てるものには、広がり、持てないものには、退く。

霊というものは、何か・・・
スピリット・・・

スピリットを何らかの実体を持った存在と考える場合は、学問では、価値の総体として捉えてきた。
特に、文化価値の総体をスピリットと名づけた。

精神科学という学問では、精神というのは、人間が文化的な活動を通して、作り上げてきた価値、つまり、歴史が創造した価値の総体として理解した。

精神分析という場合の精神は、魂のことになり、魂を精神分析では、精神という。

魂の共感と反感をめぐる諸機能が正常に働かない場合、精神病となるのである。

神秘学にとって、スピリットとは、目的と愛の根拠であると、いう。

魂が或る目的を実現しようとして働く場合、その魂のあり方の中に、霊的な働きがあると考えます。同じように、性愛の意味の情動作用とは別に、人間が自分自身以上に他者を大切にし、その他者の中に自分が帰依しようとする働きを持つ場合、そこにも霊的な愛の働きがあると考えます。この意味では霊とは何かを考える学問、つまり「霊学」は、神秘学のもっとも重要な部分です。
高橋巌

ここで、整理すると、内界の部分に霊的な世界があり、外界の部分に体的な世界があり、その内的な霊界と、外的な体の世界、物質界との間に、魂が色々な働きをしている。

これが、欧米の神秘学、霊学の考え方である。

私が理解している、魂の世界は、体と、霊の核になる存在である。

であるから、体、心、霊、魂と、深くなってゆく。
心は、精神分析で扱う場所と理解する。

神秘学でいうところの、魂の働きは、心であると、私は理解する。
それでは、それを説明すれば、いいのか。
違う。

兎に角、この神秘学を通って行かなければならないのである。

そして、神智学である。

それを批判する形で、私の、霊学を説明するべきなのである。

日本の霊学の場合は、復古神道により、語られたが、あまりにも、道教色を帯びていて、説明に混乱をきたすのである。

道教については、別エッセイ、神仏は妄想である、の中で充分に語っている。

高橋巌氏の、神秘学講座から、順に説明していく。

魂についての、説明である。
そこでまず感覚的知覚とは何かということを考えた場合、当然問題になるのは、感覚的知覚が、外と内との間の境域をあらわしているということです。・・・
この境界の外側には外的な世界があり、内側には内的な魂の世界があり、その境目に感覚的知覚があると考えられます。
そこで大切なことは、感覚的知覚を肉体だけでは決して生じさせることができないという事実です。
もしふつう知覚心理学で考えているような肉体の働きだけで知覚活動、あるいは知覚の像があらわれることができるとしたら、どういうことになるでしょうか。

大脳生理学とか知覚心理学の専門家にきいても、大脳の中枢に達するプロセスまではわかるのですが、それが像として意識できる意識化のプロセスがどうなっているのかということになると、それはまったくわかっていない謎の部分なのです。
高橋

肉体の組織だけを取り上げて、その構造から、感覚的知覚を説明するものを、取り出そうとしても、無理なのである。

体のプラス何かが、感覚的知覚に加わっていなければならないが、それが何であるのか、全くわかっていないのである。

その部分を、神秘学で言うと、魂ということになる。

体と魂によって、感覚的知覚が、成り立つと考える。
だが、魂は、目に見えない存在である。

余談である。
言葉の解釈や、翻訳の場合の問題もあると、思う。
例えば、心理という場合は、ドイツ語のガイスト、英語のスピリットは霊であり、精神となり、魂は、ドイツ語では、ゼーレ、英語では、ソウルであるが、魂と訳す。
ガイストもスピリットも、精神とも、心とも訳される。
レーゼ、ソウル、マインドも、精神とも心とも訳されている。

先に、私は、体、心、霊、魂と、言ったが、精神は、また別物で、脳による思考を言うのである。

二分説に立つと、精神と心を曖昧にせざるを得ない。
だから、三分説に立つというが・・・

三分説だと、霊と、魂を区分けて考える。
すると、私の場合は、四分説になり、更に、脳の働き精神をいれると・・・
だが、精神と、心は、微妙に接しているのである。

矢張り、書き続けてゆくしかない。


posted by 天山 at 06:16| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月04日

霊学114

表象というのは、人間が知覚活動を通して、心の中に再生産したイメージですが、目の前に対象があって、感覚がその対象に向かい合っているときにその対象をイメージとして作り上げるものは、表象というよりも、むしろ感覚的な知覚像です。しかし、その対象からいったん離れて、直接知覚活動をもつことなく、以前の知覚体験を思い出したときのそのイメージは表象そのものです。
高橋

つまり、表象とは、記憶と同じであるということになる。

表象と感覚的知覚が、共に働き、一般に知覚像と呼ばれるものが成立する。更に、そこに、絶えず、記憶の思い出が結びつく。

知覚、記憶、概念、判断のすべてを含むものとして、仮に、表象という言葉を使って呼ぶと、この表象は、過去から、未来の方向に流れていると、考える。

だが、意識に上らないものもある。
今は、思い出さないが、思い出すことが、いつでも出来る表象である。

この流れは、意識そのものの、流れではない。
意識は、現在の瞬間に、そのつど、表面に現れてくる流れである。

表象の流れの、ある特定の部分が、顕在化しているときに、本来の意識活動がある。
では、表象の流れと、意識とは、どういう関係を持つのか・・・

それを考える時、もう一つの流れがあるということ。
内界から、幻覚を生み出す方向の流れである。
レグレッシヴ、退行的という。

レグレッションの出発点には、情動というものが出てくる。

では、この情動とは、何か・・・

情動とは具体的に言いますと、たとえば不安とか、あこがれとか、希望とか、欲望とか、絶望とか、そういう種類の魂の働きです。
高橋

神秘学では、それを魂の働きとして、表象と並んで、人間の意識を成立させる、決定的な要素であると、考える。

この、情動の動きは、表象とは、反対に、未来から現在へ、あるいは、未来から過去へと流れてゆくもの。

これでは、とても、抽象的だが・・・

詳しい説明は、省く。
どうも、私が言う、魂と、神秘学が言う魂との、考え方が違うので・・・
説明し難いのである。

ただ、人間の体験は、時を経ることにより、次第に薄れる体験と、それが激しくなっていく、体験がある。
時と共に、激しくなってゆく体験は、その体験の本質が、未来から自分の方へ流れてくる。

そのような方向に流れる流れを、情動という。
憧れ、予感、不安、期待、希望・・・

この情動の流れを右から左への流れ、表象と、判断の流れを左から右と考えると、二つの流れが、現在のところで、合流し、渦を巻く。

現在の場所が、渦の中心となり、過去から未来、未来から過去への流れがある。

左側に外界があり、それは、過去であり、右側に内界かあり、未来である。
その境界に、一つの壁があり、そこが、感覚的知覚の場所があるとする。

外界との、境のところで、外からの知覚内容とぶつかり、色々な印象、判断を生む。

そして、意識が成立する。

それらは、客観的な判断である。
客観的な判断とは、内界の世界に留まらず、外界の事実を指示する。

判断は内界に存する表象の触発から始まって、外界と内界の壁をつきぬけ、そして外界の或る事実を指示することで終わります。
高橋

判断は、結論を持って終わるが、情動は、満足を持って終わる。

判断は、客観的なもので、魂にとっては、好ましくないことでも、結論が客観的であれば、従わなければならないのである。

判断から結論に行くプロセス、過去から未来に向うことプロセスの場合、出発点は魂の内なる表象活動から始まるけれども、その終点は魂の外なる事実の指示することで、つまり魂の外に出ることで終わる。魂という内界の外で、客観的な結論として終わるのです。
高橋

それが、意識である。

だが、情動から満足にゆくプロセスは、逆である。
無意識の底から情動が起こる。
そして、表象と同じく、壁にぶつかる。
すると、壁の外に付き抜けずに、満足を求めるために、カーブして、内界の満足を求め、その中で終点を迎える。

情動の働きは、内部に持つことなのである。

感情というものは、情動が停止した時に、発生するものとなる。

感情は、情動作用が直接知覚に向っても、向わなくても、内部のある特定の表彰とぶつかったとき、そこに生まれます。
高橋

心理学とは違い、神秘学は、その辺が、テーマのようである。

意識も、過去から未来、未来から過去への、渦の中にある。その中心を意識と言う。
その渦は、猛烈に変化し、一瞬も留まらない。

それらの、衝突、ぶつかり合い以外に、シュタイナーは、意識を説明できないという。

ただ、シュタイナーが、見ているものが、まともなものなのかは、分らない。
検証が必要である。
更に、その霊的感覚などである。


posted by 天山 at 05:49| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月05日

霊学115

ではなぜ意識が過去と未来からの表象と情動とのぶつかり合いによって生じるのかと言えば、自我が現在のこの時点で鏡のようにこの渦を反映させているからだと考えるのです。したがって現在におけるこの意識の座は同時に自我の座でもあります。
高橋 巌

自我という鏡を通して、意識化されるとき、その意識の成立過程は、同時に、自意識の成立過程でもある。

ただ、自我というものを、否定する人たちもいる。
自我は、そのときそのときの、意識内容の連続であり、自我というものは、無いのだという、考え方である。

大乗仏教にも、そのような考え方がある。
私というものは、無いのである。
今の私は、次の私とは、別物であり、私というものは、存在しない・・・

神秘学では、何事も、注意力を持って見ることから、見えるという、その注意力を自我と名づける。

哲学者は、その注意力を、志向性と名づけている。
志向性が、働かない限り、感覚的知覚体験は、出来ないと考えるのである。

つまり自我とは、魂がある一定の方向に向ってエネルギーを向けるときの、その基本的な意志の主体を言うのです。ですからもしその自我が存在していないとすると、この注意力そのものも一貫性をもっていないということになってしまうのです。
高橋

意志の主体を自我と名づけると、自我は、感覚と不可分に結びついているということになる。

更に、自我は、感覚と共にあらわれ、感覚と共に、消えるともいえる。

表象は、自我の存在が、次第に、曖昧になり、希薄になる状態である。

夢体験と、表象体験は、非常に良く似る。
それで、感覚体験が強ければ、自我体験も強くあわられる。

神秘学では、魂の重要な働きを、表象と情動であるとする。

もう一方は、感覚である。
感覚的知覚については、普通、五つの感覚を問題にするが、それ以外に、第六感というものも、加えて考える。

ルドルフ・シュタイナーは、それを十二に分けるという。
十二の感覚である。

占星術にある、黄道十二宮のように・・・

視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚、熱感覚、均衝感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、概念感覚、個体感覚である。

意識が直接受けるところのできる、体験内容を、すべて感覚と呼ぶ。

この場合は、外側の外界に向う感覚を、外部感覚とし、内部に向ってひらかれる感覚を、内部感覚という。

面白いのは、熱感覚である。
熱というのは、触覚だけではなく、非常に霊妙なものとの認識である。
熱の問題は、霊学にとって、非常に重要であるとのこと。

例えば、人に出会う。温かい感触を受ける。
あるいは、その逆に、冷たい感触を受ける。

集中すると、体が熱いと感じ、更に、体温も上がるなど・・・

生命感覚も、自分自身の生命の営みを感じるもの。
調子がいい、不調だなど・・・

言語感覚は、言葉の力によって、肉体にまで、影響するもの。
日本の言霊に近い感覚である。

概念感覚とは、特定の思想内容を、判断を通さず、じかに体験するという。
一つの思い込みの場合もあるだろう。

だが、神秘学にとって、概念感覚は、重要であり、霊的体験とは、すべて概念の体験であるとする。


兎も角、十二のすべてが、それぞれ独立した感覚であると、考えるのである。

その感覚の座の中に、七つの生命活動が働きつつ、感覚を支える。
七つとは、呼吸、体温、栄養分の摂取、成長、生体の維持、排泄と分泌、そして、生殖、再生作用となる。

情念、表象、判断が、更に一層、魂の営みをしている。
思考と感情と意志とが、魂の内部で働いて、その中心に自我がある。

そして、その外部に感覚と生命が、働くのである。

霊、魂、体という場合は、このすべてを含めて、霊、魂、体でなければならない。
知覚としての体、魂、霊であり、生命活動としての、体であり、魂、霊である。

知情意としての、体、魂、霊であり、そして、自我である。

このようにして、人間を捉えるというのが、神秘学であり、そうでなければ、具体的な把握にはならないという。

感覚が、互いに融合して、オカルティズムで言うところの、霊的体験が可能になると、解説するのである。

そして、自我によって、統制されることのない、霊的体験は、何らかの意味で、病的なものになるという。

幻覚と、知覚との区別が、つかなくなるのである。

霊的な体験の、最もなものは、夢であるという、見解を持つ神秘学である。
夢を見ている限り、人間は、すでに、霊的な世界と関わりを持つという。

その夢を、どう理解するのか・・・
それは、知覚の問題と関連して具体的に見て行くのである。


posted by 天山 at 05:18| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月02日

霊学116

神秘学における、理性と感性について・・・

哲学から見れば、理性は、思考の能力であり、感性は、この能力のために、素材を提供するもの、という、大雑把な定義になる。

更に、精神的な欲求としての理性に対する、動物的な欲求としての、感性とも考える。

理性的な側面とは、まず外的な対象が感覚の世界に働きかけて、そしてそれを表象として内部で再生産し、それを判断の力によってなんらかの結論としての概念に変える、そのプロセスにほかなりません。
そうすると感性とは、人間の無意識の奥底から或る内的な欲求が、それが身体に基づくものか、あるいは魂や霊に基づくものかはともかくとして、心の奥底から欲求があらわれてきた場合に、それが記憶像と結びつき、言葉と結びついて、表象となり、その表象が更に発達して感覚的な知覚と同じくらいの明瞭性を伴ったイメージ、ヴィジョン、病的な場合は幻覚、霊的な場合には霊的知覚を生み出すというプロセスになります。
更に理性的な活動は過去から未来へと方向づけられるのに対して、感性は逆に、未来から現在の方向へ向う、と考えることができます。
高橋 改行は、私

私が、霊的という場合は、感受性と同じように扱う。
ここで言う、感性は、感受性ということになる。私の場合は。

理性による学問を、ロゴス、感性による場合を、ソフィアと名づける。
西欧の思想である。

理性と感性の対立は、ロゴス学と、ソフィア学の対立となる。

そして、ソフィア学は、現代の学問体系には、組み込まれないのである。
すべて、ロゴスによるものである。

そこで、当然、神秘学は、ソフィア学に結びつくということになる。

ソフィアは、古代文献では、プラトンに出てくる。
つまり、古代ギリシアでは、ソフィア学だったのである。

古代ギリシアの智恵は、そのまま、ソフィアである。
最高の叡智を表わす言葉としての、ソフィアである。

その意味は、第一に、汝自身を知れ、ということ。
第二は、分を越えるなかれ、である。

これを総称すると、中庸の精神と、対象を、外的な対象を知ることではなく、自分自身を知ることになる。

旧約聖書でも、箴言の書には、智恵をソフィアと呼ぶ。
そして、ここでは、ソフィアが人格化されているということ。

人格化された、ソフィアという神の概念は、ヘブライが最初である。

そして、ヨーロッパ神秘学のグノーシスの中に、具体的な体系が出来上がる。

神的ロゴスは、流れのように、ソフィアの泉からあふれ出て、善を愛する魂の天上の草木に水を注ぐ・・・

人間の、天使たちの魂の中に、善なる部分の土地に咲く、天上の花に養分を注ぐもの、それが、ロゴスであり、そのロゴスの水は、ソフィアの泉から出てくる、という、考え方である。

更に、グノーシスの書には、
ロゴスには両親がある。神なる両親が存在していた。そして父は神そのもの、万物の父なる神であり、母はソフィアである。
と、ある。

後に、キリスト教によって、ソフィアは、マリアと、結び付けられるが・・・

更に、それが、マリアーソフィアとなり、聖霊と結論づけられる。

そこで神秘学の場合には、・・・、ロゴスが生まれてくる以前の精神の根源的な営み、言葉や概念や表象等々が心の中にあらわれる以前の、それらを生み出すものになる働き、それをソフィアと考えるわけです。したがってソフィアとは、本質的にイメージの存在です。イマジネーションもしくは想像力をとおして働くのです。それに対してロゴスは、概念と言葉をとおして働きます。
高橋

と、いうことで、面倒な説明を一切省いた。

次に、ソフィアの精神、イマジネーションの精神が、同時に、融和の精神でもあるという。
これは、つまり、西欧の人間社会からの説明で、妥協的に生きることを、言う。

少し、イメージとしては、妥協出来ないが・・・

西欧では、妥協の精神に則った、学問が生まれてきます、と、言うが、それが野蛮な人種が、生きる術であった。
どこかに、妥協の余地がなければ、彼らは、まとまることも出来なかったのである。

高橋氏は、
ヨーロッパの学問には、そもそも「ゲバルト」の思想、暴力論はありません。
と、書くが・・・
それは、蒙昧である。

民主的な、平和主義が、前提になっているのです。
とは、信じられないのである。
西欧の歴史をよくよく、見るべきである。

そして平和主義的なヨーロッパの学問の本質というのは、ロゴス的なのです。
となると、疑問を呈さざるを得ない。

ロゴスの精神にのっとって、ロゴス的に機能しているわけです。
と、書く。

この人は、シュタイナーの著作の翻訳もされているが・・・
その辺りにしか、目が行かないようである。

西欧が、平和的でないことは、歴史を見れば、一目瞭然である。
だが、西欧思想を紹介する学者は、いつも、そこが、浮つく。

そこで、西欧的に、何が一番優れているかと問うと、感性ではなく、理性であるという、ことになる。
理性は、理性以外の、諸々の、心の働きをも、自分の支配の対象にする。

そのような立場をはじめて、哲学的に語ったのが、デカルトである。
それを、合理主義という。

この合理主義が、白人の自我に与えた影響は、計り知れない。
自己主張が、自国を超えて、他国への、侵略と化したのである。

いずれは、シュタイナーの考え方に行くが、足元を見ずに、修行をするという。つまり、一つの壮大な妄想の世界を、作り上げたといえるのである。
神秘学という、妄想である。

posted by 天山 at 05:22| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月03日

霊学117

合理主義は、自分の中にある主体、もしくは主人を理性と考えています。
高橋

そして、理性が、人間の中の感情、本能、イマジネーションなどを支配できたとき、理性人として優れた存在、優れた人間となるのである。

理性的に優れた存在は、社会的にも、優れた存在になり、そして、試験に合格して、最高の地位を獲得する。

このように、優劣を判定するロゴスの精神は、同時に、批判の精神であり、存在と存在とを、結びつける精神ではなく、その逆に、それらを相互に区別する精神だと、いえる。

デカルトにより、個人の意識というもの、自我というものが、拡大した、西欧の人たち。それが、自己主張をはじめ、更に、国家的に、他国を侵略しても、平然としていられるようになったのである。

ロゴスにとって、批判ほど大切なことはない。
批判が出来ない人間は、市民としては、一人前ではないと、考える。

批判の精神と畏敬の念を対比させた場合、前者の精神はロゴスであり、後者の畏敬の念はソフィアであると、いえる。との、解説である。

そして、合理主義の精神の中からは、畏敬の念は出てくる可能性は無い。

畏敬の念は、対象に対して、絶えず接近しようとする、姿勢であり、帰依の念とも言う。

批判は、対象と自分との間に、距離をおかないと批判にならない。対象を、絶えず、特定の距離に置いて眺めるのである。

したがって愛の働きが、どちらの側に結びつくかを考えればおのずと明らかなように、ロゴスと批判の精神の働くところには、冷たい世界しか生まれようがないので、近代社会というのは本質的に冷たい社会にならざるをえなくなってくるのです。
高橋

突然、飛躍であるが・・・

だが、畏敬の念と、帰依の念だけでは、文明の成り立つ余地がなくなり、フロイトなどは、畏敬の念だけではなく、ロゴス以外のすべての魂の機能には、文明を創造する能力が無いと、言わざるを得なかった。

畏敬の念をソフィアの働きとして考え、それが認識の機能になり得るかどうか、というのが、神秘学の最重要な問題になる。

異質なものを、二つ並べたときに、これとこれは、違うというのが、ロゴスであり、それでは、今まで、誰も、二つのものを結びつけたことが無いが、それを結びつける、融合させるという、態度が、ソフィア的といえる。

このようにして、高橋巌氏は、神秘学を説明し続けるが・・・

このまま進めて行くと、洗脳される恐れがあるので・・・

デカルトの、合理主義に対する、反合理主義の運動を見る。

デカルトによって、近代が開けたことは、確かである。
それ以前は、実に暗い世界観だった。
何故か、大半が宗教によって、抑えこまれていた時代である。

無知蒙昧の、神学の時代。
デカルトは、そこで、数学を尊び、ストア学派と、スコラ神学を、徹底的に、攻撃している。
更に、時代性が、デカルトを推し進めた。

実践を伴わない、議論のための議論、空論をデカルトは、徹底的に嫌った。
デカルトに関して書くと、先が進まないので・・・

そのデカルトの、合理主義も、いよいよ、反合理主義によって、再確認されるようになるのである。

歴史的に見れば、シュタイナーを主にして見ると、彼が活動をはじめた頃は、1904年頃である。
第一次世界大戦の前夜、13年、14年である。

その頃の、白人社会は、帝国主義全盛の時代であり、地球上の四分の三を、イギリス、フランス、ロシア、アメリカで支配するという時代である。
植民地時代。

暴力的、専制的時代である。

自然科学、技術もそれに伴い、発達した。
白人社会は、理性万能の風潮を、極端なところまで、推し進めていた。

その流れの中に、マルクス主義、ダーウィン、ヘッケルの進化論もある。

すべてが、合理主義的発想で、宇宙までも、解明できるという、考え方が生じていた。
しかし、1905年頃から、非合理的というより、意識的な反合理主義的芸術運動が、至るところで、はじまる。

要するに、感性の立場に立ったものである。

そのための、強力な思想的武器として、ブラヴァツキーの神智学と、フロイトの深層心理学を取り上げた。

ブラヴァツキー夫人に関しては、以前も書いたが・・・
要するに、神智学を踏まえて、新しい感性の文化を創ろうとしたのである。

そして、神智学、後に、人智学と名乗る、シュタイナーが登場する。

ここで、高橋氏は、
二十世紀の初めに出てきた反合理主義的な霊的衝動は、それまでとは違った時代意識をあらわしていました。二十世紀初頭の人たちは、一様に、ヨーロッパ文化が崩壊寸前の状態にある、と痛感していました。そしてヨーロッパ文化の崩壊寸前を生きる自分たちの道というのは、一人ひとりが伝統に頼らず、一切の外的な権威にも頼らずに、自分だけを唯一の頼りにしながら生きていく以外に、それを乗り越える方法はないと、考えました。伝統を否定して、まったく自分だけで、いわば一人ひとりが自分を権威者にして、その権威だけに頼って、新しい文化を生み出そうとする態度をとったのです。
と、言う。

神秘学では、時代、時代の変化変容を、霊的衝動と言う。

この、神秘学の、霊的とか、魂という、概念に関して、更に進んで、如何なるものかを、問わなければならない。
これを、理解しないと、神秘学というものが、解らないのだ。


posted by 天山 at 05:29| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月04日

霊学118

二十世紀初頭の新しい反合理主義運動というのは、近代の精神史の流れを辿っていくと、とつぜんなにかぜんぜん違ったニュアンスと香りと雰囲気と、それからある種の基本姿勢みたいなものを感じさせるのです。ちょうど十八世紀末の頃に、シュトゥルム・ウント・ドラング運動とか、シラー、ゲーテ以来の古典主義運動や浪漫主義運動が起こったときにも同じ感じがあり、ヨーロッパの精神史を辿ってこの時期にいたると、急になにか一種独特の、いわば親和的な雰囲気が現れてきます。今までとは違った霊的衝動が突然表に現れてくるような感じの一時期に出会うのです。それは十八世紀の80年代から十九世紀にかけてでしょうか。
高橋 巌

このように、神秘学から見ると、霊的衝動ということになる。
どんな表現方法を使っても、いいのだが・・・

霊的衝動となると、その説明が必要である。
それが、神秘学を学ぶということ。
更に、神秘学を身に付けるということ。
その、行を行なうことになる。

さて、同じように、十九世紀末から、二十世紀初頭のヨーロッパの思想も、今までとは違う形相になる。

それも、神秘学から言うと、一種の霊的雰囲気のようなもの・・・
との、表現になる。

一人ひとりがまったく孤立し、独立して、外にではなく、自分自身の個性の奥底に新しいものを求めようとする姿勢です。
高橋

リルケの書簡や伝記、ハンス・カロッサの自伝的な小説、カンディンスキーの「芸術における霊的なもの」など・・・
それだけ、である。

象徴的なものを取り上げて、その時代精神と考える。
本当だろうか・・・

そして、シュタイナーが予言した、三回の波・・・
それを、歴史的に、当て嵌めて見るのである。
当たり・・・

だから、シュタイナーの云々を言う訳ではない。

その歴史的事実は、省略する。

問題は、シュタイナーの考え方である。
彼は、大きな歴史の流れを辿り、古代ギリシアの頃から、イタリア・ルネサンスの始まるまでの文化を、基本的に、悟性魂、つまり、個別的な人格と知性の、文化だという。

それ以降、15,16世紀から、次第に、その悟性魂の上に、意識魂を発達させたという。

日本でいいますと、だいたい戦国時代の頃から意識魂が目覚める時代に入るのですけれども、その後儒教の悟性魂的側面だけを取り上げて、それを政治権力のイデオロギーに仕立ててきましたから、抑圧する力として、悟性魂の文化が明治の頃まで生きつづけます。
高橋
と、いうことになる。

そして、明治、大正、昭和に渡り、意識魂と、悟性魂との闘いが、続き、第二次世界大戦以後、やっと、日本における、意識魂の文化を手に入れるところであると、する。

そういう、分析をするということである。

ヨーロッパでは、二十世紀の初頭になり、非常にはっきりした形で、悟性魂から、意識魂への、移行があるとする。
それは、理性の文化から、感性の文化であるという。

悟性魂の特徴として、ある権威というものが、必ず存在する。
それが、自分の外にあるもの。

国家、教会、指導者、伝統、家・・・

それぞれの権威に、適応させることで、社会人として、受け入れられるというもの。
そういう、魂のあり方を、悟性魂という。

あくまでも、シュタイナーの定義である。

礼儀作法や、規則なども、悟性魂的な態度を、求められるという。

そこで、意識魂が、目覚めたら、どうなるのか。
それは、個性を生きることである。簡単に言うと。

すると、社会、職場、学校から、はみ出すのである。

シュタイナーは、悟性魂の時代が、何千年も続いたと、考えている。
二十世紀初頭から、悟性魂から、抜けようという、強い衝動が現れてきた。

もっと、高いレベルの、魂のあり方という。それが、意識魂である。

合理主義の文化は、その意識魂を否定して、支配し、支配される関係、あるいは、優劣が常に問題とされる関係を作り続ける。
本質的に、人間の、悟性魂だけを、優先させる。

ゆえに、意識魂の文化を創ろうとしたら、合理主義を克服して、新しい、反合理主義を打ち立てる必要がある。

それが、感性であると、相成った。

その場合の、感性とは、意識魂の感性であるということ。
悟性魂の感性ではない、ということである。

シュタイナーは、悟性魂よりも、進化した魂の在り方で、それは、内的に、自分自身の存在の根拠を自覚できる、魂であるとする。

自覚とは、自己を意識することで、自分自身の存在の根拠を、一人一人が、自分で意識化することのできる、魂の働きであるとする。

意識魂は、外に権威が無くても、自分の内部に、行動の基準を見出せる、魂である。

例えば、レンブラント、ベートヴェン、ゲーテなどのように・・・
そういう人たちが、二十世紀初頭に、多くの人たちに、広がったのである。

自分自身だけを頼りに生きることに本来の生きがいを感じるようになるのです。
高橋

意識魂の文化は、常に、自由と愛情とによる、自己確認を求めるというのである。


posted by 天山 at 05:27| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月05日

霊学119

この新しい感性の文化は、シュタイナーによれば、太古の文化の復活を意味するのですが、その場合の太古の文化とは、神殿文化のことです。神殿文化とは、宗教と芸術と科学がひとつのものとして存在できるような文化のありかたです。
高橋

ある行為が、宗教的な行為であり、祈りの行為にもなり、同時に科学的な認識の行為にもなるというものである。

宗教と芸術と科学の新しい統一である。
そうすれば、合理主義がぎりぎりのところまで発達した、現代の文化状況の中に生じさせれば、理性を否定することなく、太古の時代に戻るのでもない、新しい時代の出発点になると、考える。

太古の神殿文化・・・
そこでは、常に、何らかの仕方で、芸術と宗教が結びついていた。

その認識では、唯物論的な意味ではなく、人間や宇宙を巡る目に見えないものに対する、認識である。

太古の神殿文化は、未知のものに対する、畏敬に溢れていた。
それを、新しい時代に、再度取り入れることで、感性の時代へという。
何とも、へんてこない話だが・・・

改めて、太古の神殿文化などを持ち出さなくても、いいと、思うが・・・

その名残は、西洋ではなく、東洋にあるという、解説である。
東洋の中で、より具体的に、体験出来ると言う。

ヨーロッパの白人主義の文化には、二つの側面があります。ひとつは悟性魂の文化を生み出した白人文化として、宗教的権威主義、政治的権力主義を育ててきた流れです。けれども同時に、この白人文化の中でこそ、はじめて意識魂と悟性魂との闘いが非常に徹底した仕方で遂行されてきたのです。
高橋

西洋以外の、東洋、その他の諸地域では、悟性魂と意識魂の闘いが起こると、必ず悟性魂によって、意識魂が、潰されてきた。
そこで、意識魂と、悟性魂は、ヨーロッパにおいて、初めて、遂行されたという。

だから、我々は、ヨーロッパ志向が、どうしても生まれてくると言うのである。
これが、西欧礼賛の注目すべき、感情なのかもしれない。

意識魂の学習のためには、どうしても、ヨーロッパを通過する必要があった。
私は、そうは、思わないのである。

シュタイナーは、西洋における、意識魂の成立過程を非常に重要視する。
それが、他の世界では、見出せないので、ヨーロッパを、どこまでも、出発点としようとした。

更に、従来の白人主義を否定するためにこそ、そうしたのだと、言う。

ところが、シュタイナーが二十世紀初頭で、その問題に関わっていた時、大部分の西欧のオカルティストは、悟性魂のオカルティズムを復興させようとしていた。

ただ、唯一、ブラヴァツキーの書いたものが、はっきりした、意識魂的、反白人主義的な、オカメティズムを感じさせるとの、弁。

そのブラヴァツキーのものでさえ、それを読み取らず、再び、悟性魂的オカルティズムに戻った。

白人主義、つまり、アーリア主義・・・

シュタイナーは、そのアーリア主義を克服する道具として、ヨーロッパの意識魂=ヨアキム主義的側面を、取り上げた。

この辺になると、突然だが・・・
日本の親鸞に、非常に近くなってくるのである。
突然だが・・・

シュタイナーは、普遍的な、人間主義を生かすため、意識魂による、愛の思想と、自由の思想とを最後まで、守り通そうとしたと、言うが・・・

高橋氏は、
うっかり東洋の認識の立場に立つと、悟性魂の立場に立ってしまうので、ヨーロッパの白人主義の否定する武器を持つことができないので、もうひとつの人種差別主義を東洋の側から生み出すだけだと、考えたのです。
と、ある。

親鸞は、救いようの無い身が、救われるなら・・・
どうせ、地獄が棲家である。
弥陀の本願を信じる以外に無いということを、ああでも、こうでもと、思索し続けた。
今までの、信仰である、自力を捨てて、絶対他力の信仰を、徹底的に、深めようとした。しかし、それは、単なる、一人相撲であった。

シュタイナーも、実によく似ている。

親鸞を説明していると、先に進まないので・・・

シュタイナーも、一神教と多神教について、考える。
彼は、多神教である。

それは、本当に高級な神は、人間に関わる必要か無い。
地上に関わる神とは、最高神の委託を受けて、物質の世界と、関わろうとする。

もし、神と人間の間に、結びつきようのない、深淵があり、それが両者を隔てて、人間の側から、神の方に、橋をかける可能性は無い。
ひたすら、神に祈る以外に、神に向き合う方法が無い。

それは、神と人間との関係は、優者と劣者との関係になる。
つまり、ロゴスの論理、理性の論理でしか神を、考えられないのだ。

そうではなく、出発点を、人間にして、その人間の上に、高次の存在でありながら、まだ宇宙を創造する力がないような、そういう霊的存在、例えば、かつて地上に生きた死者たち、天使のような霊的存在たちをも、肯定することが、可能となるような、存在である。

そしてそういうさまざまな霊的存在といえども、過去から現在までの過程で進化しなかったはずはないし、霊的存在が進化していくとすれば、さらにそれ以上高い位階にある霊的存在も当然存在するはずだから、そのようなさらに高次の霊的存在についても問題になります。
高橋

実は、これが、大問題である。

悟性魂、意識魂と、言ううちは、理解出来るが、そこから、神の云々となると、おかしくなる。

更に、霊的存在・・・
死者の霊、天使の云々・・・

彼が、説く、神秘学、人智学・・・
それらも、ロゴスであり、悟性魂の、賜物であるはず。

西洋と東洋との間を、霊的意識的に、深く結び付けるというのも、シュタイナーの大事な思想である、とする。

ここで、私の霊学と、衝突する。
西洋と、東洋、そして、日本の霊的意味は、全く違う世界の問題である。
だが、続けて見てゆく。


posted by 天山 at 06:36| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月06日

霊学120

最高の唯一神とは、人間と神の間には、虚無しかないと考える、神秘学、シュタイナーである。

そして、その間の、ものは、すべて悪魔となる。
確かに、キリスト教では、そのようである。

そうすると、人間はどんなに進化したところで、いつまで経っても人間だ、ということになってしまうので、人間の進化は意味もそこからははっきり出てきません。逆にいうと、どんな優れた人間も、まったく劣った人間と同じただの人間に過ぎないし、これから何万年、何十万年、あるいは何十億年人類が地上に生きていたとしても、それが人間である限り今の人間と本質的に変わりない、という発想になってしまうのです。
高橋

そこで、そのような考え方は、西洋よりも、東洋にある。
道教、仏教、神道・・・

シャマニズムを基底に持つ宗教は、人間と神の間に、無数の霊的存在を考えて、それぞれが、一つの調和した全体をなしていると、考える。

西洋と東洋の間を、霊的意識的に、深く結び付けようとするのも、シュタイナーの大事な思想である。

神秘学から、西洋と、東洋の結び付きを考えるという、試みである。

そこには、霊的存在があるということが、前提である。
そして、霊的存在も、進化する。
とすると、更に、高い階位にある、霊的存在も、同然存在するはずである、となる。

人間を出発点として、考える形である。

だが、ここで、東洋と一口に言うが・・・
東洋は、広い。
更に、東洋でも、多くの無明がある。

日本と、朝鮮半島でも、中国でも、インドでも、違うのである。
細部に至ると、別物である。

日本は、インドをはじめ、中国、朝鮮半島、更には、チベット、ビルマなどの、仏教、密教が伝わるが・・・
それらが、すべて日本流にされている。
日本にて、咀嚼されて、別物になっているのである。

霊的存在があるとし、更に、高次の霊的存在についても、問題になるというが、その高次の霊的存在の、有無をいかに判定するのか。

問題は、それである。

例えば、霊的存在の自己申告を、そのまま、鵜呑みに出来ないのである。
それを、鵜呑みにしてしまうと、蒙昧になる。

さて、再度、理性と、感性についてを、見ることにする。

十二の感覚と、七つの生命活動というもの・・・
シュタイナーの考えたものである。

それを、融合という、ソフィア的考え方をとる場合の、判断についての具体的、考え方である。

高橋氏の、講義で行くと、
唯物論があり、それと対立するのが、唯神論となる。

万物は、神によって作られたという、立場。
一切は、もともと物質として、物として存在して、それが複雑な変化、発展の中で、意識が生まれ、精神が生まれ、最後に、神が生まれたという、考え方。

その唯物論が、素朴実在論に留まらず、知的な認識批判が、唯物論と結び付いていくと、カントが述べた発想になる。
それは、学問は、数学が存在する限りにおいて、学問である。

つまり、数学的な原理に基づかない学問は、本質的に学問とはいえない。
数学的に表現されるものが、はじめて厳密な意味での、科学になるうる。

感覚的に把握されうる物質そのものというより、むしろ数量的関係の方が、基本である。
数学的に把握できるときに、はじめて、ものの本質が、とらえられるという、数理論が、唯物論から、派生してゆく。

だが、数理論からは、決してその存在が、数だけでは、説明がつかないのである。
数以外にも、様々な概念が、物質の構造と、結び付いている。

その存在の中に、どのくらいの、イデーが含まれているか、それによって、はじめて存在の本質が把握できるという考え方になれば、デカルトの合理論が生まれる。

更に、それを深めてゆくと、理想論になってゆく。
つまり、それぞれの概念を、考え続けてゆくと、である。

理想論が出てくると、その対極に、現実論が出てくる。

理想論により、ユングのような思想家が出てくるのである。
つまり、すべは、心にすぎない。自然学者が発見したことでも、それは、心が作り出したものであると、なる。

もし、心の存在が、幻想であれば、この現実の一切も、幻想になる。
存在の、根拠を辿ると、心に行き着く。すると、それは、唯心論になるのである。

だが、ユングは、心は、物質のように、なまなましい現実としては、捉えていなかった。しかし、そこまでに至ると、霊が存在しているのではないか。
更に、物質の世界とは、それとして存在しているが、物質と別の世界が、現実として存在するのではないかと、なる。

別の現実の世界、つまり、霊的世界である。
この世は、別現実の、霊的世界が、関与して、成り立つというところまで行き着くのである。

霊的なある形を知ると、それが、いつか現実の世界で、実現するだろうということで、予言が可能になる。

創造のプロセスから言っても、霊界があり、そして、現実の世界があると、考えるのである。
すると、それは、唯霊論になる。

posted by 天山 at 05:57| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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