願っていたことは、日本兵の慰霊である。
しかし、ミンダナオ島の北部で、二年続けて、台風の被害甚大だった。
200万人の被災者であり、死者は、1500人を超えた。
その中心の町が、カガヤン・デ・オロである。
千人以上の死者であり、河が氾濫し、川沿いの人々の家が、すべて流された。
土砂、樹木などが、流れて、今も、その場所に遺体があるという。
土の下に、である。
新聞では、国連が、緊急支援をしたとあった。
テント、毛布、食糧、食器などの支援である。
だが、何一つ、現地に届いていないという、現実である。
驚いた。
そして、それらは、届いているが、何処かで、留まっている・・・と言う。
何処で、留まっているのか・・・
政府の支援も無い。
唯一、カガヤンデオロ市が、一度だけ、警官を使い、水とパンを渡したのみ。
名言がある。
支援・・・それは、金持ちをより金持ちにし、貧しい人は、より貧しくなる。
どういうことか・・・
とても、残念で、卑劣極まりないことである。
このことについて、後々に私の所見を書く。
ミンダナオ島は、ルソン島に次いで、二番目に大きな島である。
北海道の、1,3倍の大きさ。
本来、ミンダナオ島は、台風が通過しない島だった。
気候も、一年を通して、温暖で、過ごしやすいと言われる。が、違った。
今回は、とても暑い。最も、暑い時期だった。
そして、ミンダナオ島は、泥沼化した紛争を抱えている。
ミンダナオは、元々、イスラムが多い島である。
その民族にモロ族がいる。
島の分離独立を目指す、モロ・イスラム解放戦線MILFなどが、政府軍との戦いを続けていた。
だが、昨年、日本の仲介により、和解案が、決定した。
独自の自治統治を政府が認めたのである。
それは、ミンダナオの西側であるから、旅行者には、注意勧告が出されている。
日本軍は、当時、三箇所に基地を置いていた。
その一つが、西側のコタバト州である。
そして、ダバオと、西の端の、サンポアンガである。
つまり、全土を戦場としていたのである。
コタバト州にも、慰霊に出掛けたいと思っている。
今回は、カガヤンデオロにて、日本兵の慰霊を行ったが・・・
未だに、ジャングルに入った、軍の一部の隊が見つかっていないという。
勿論、全滅したのだろう。
カガヤンデオロに関しては、ガイドブックに、載っていない。
故に、何も解らない。
そこで、ダバオに縁が深い、森川氏の協力を頂き、私の活動が出来た。
森川氏は、日本在住で、年に何度か、ダバオに出掛けている。
私の活動に、以前から、協力して下さっていた方である。
さて、今回、私たちは、格安航空券を手に入れて、マニラに向かい、その日のうちに、カガヤンデオロに向った。
夜、遅くにカガヤンデオロに到着した。
森川氏の紹介で、迎えに来てくれるという方に、遅いので、断りの電話をして、空港から、車に乗った。
10分ほど、走った時である。
私は、懐に手を入れて、パスポートを探した。
着物の懐に入れることが多い。
特に、搭乗する際は、提示を求められるので、そうしていた。
ところが、パスポートが無い。
体を一回りしてみたが、無い。
急遽、空港に戻ることにした。
今の飛行機の中に落としたのである。
丁度、三席空いていた所に座り、横になって寝た。
その時に、落としたのである。
だが・・・
飛行機は、マニラに飛び立った。
フィリピンの安い飛行機は、客を下ろすと、また客を乗せて、飛び立つ。
事務所にて、説明する。
だが、フィリピンは、一度無くしたものは、出て来ないのである。
スタッフが、翌朝電話をくれるということで、終わったが・・・
電話無し、音沙汰無しである。
良い悪いの問題ではないが、フィリピン人は、自分の仕事以外のことをしない。
更に、責任の所在が無いのである。
結果的に、見つからないと、ダバオに行く日に聞かされた。
見つからないのではない。
見つけようとしなかった。
見つけても、知らない振りをする。
サービス精神というものを、養っていないのである。
高級ホテルならば、それがあるのだろうが・・・
諦めて、パスポート紛失ということで、警察に紛失届けをすることになる。
海外で、パスポートを無くすことは、致命的である。
行動が、制限されるし、何事かあっても、身分を証明出来ないのである。
同行のコータが、心配し過ぎて・・・
だが、私は、暢気に構えていた。
しょうがない・・・