2013年06月06日

ミンダナオ島へ

長年願っていた、フィリピン、ミンダナオ島へ向う。

願っていたことは、日本兵の慰霊である。
しかし、ミンダナオ島の北部で、二年続けて、台風の被害甚大だった。

200万人の被災者であり、死者は、1500人を超えた。
その中心の町が、カガヤン・デ・オロである。

千人以上の死者であり、河が氾濫し、川沿いの人々の家が、すべて流された。
土砂、樹木などが、流れて、今も、その場所に遺体があるという。
土の下に、である。

新聞では、国連が、緊急支援をしたとあった。
テント、毛布、食糧、食器などの支援である。
だが、何一つ、現地に届いていないという、現実である。

驚いた。
そして、それらは、届いているが、何処かで、留まっている・・・と言う。
何処で、留まっているのか・・・

政府の支援も無い。
唯一、カガヤンデオロ市が、一度だけ、警官を使い、水とパンを渡したのみ。

名言がある。
支援・・・それは、金持ちをより金持ちにし、貧しい人は、より貧しくなる。
どういうことか・・・

とても、残念で、卑劣極まりないことである。

このことについて、後々に私の所見を書く。

ミンダナオ島は、ルソン島に次いで、二番目に大きな島である。
北海道の、1,3倍の大きさ。

本来、ミンダナオ島は、台風が通過しない島だった。
気候も、一年を通して、温暖で、過ごしやすいと言われる。が、違った。
今回は、とても暑い。最も、暑い時期だった。

そして、ミンダナオ島は、泥沼化した紛争を抱えている。
ミンダナオは、元々、イスラムが多い島である。
その民族にモロ族がいる。

島の分離独立を目指す、モロ・イスラム解放戦線MILFなどが、政府軍との戦いを続けていた。
だが、昨年、日本の仲介により、和解案が、決定した。
独自の自治統治を政府が認めたのである。

それは、ミンダナオの西側であるから、旅行者には、注意勧告が出されている。

日本軍は、当時、三箇所に基地を置いていた。
その一つが、西側のコタバト州である。
そして、ダバオと、西の端の、サンポアンガである。

つまり、全土を戦場としていたのである。

コタバト州にも、慰霊に出掛けたいと思っている。
今回は、カガヤンデオロにて、日本兵の慰霊を行ったが・・・

未だに、ジャングルに入った、軍の一部の隊が見つかっていないという。
勿論、全滅したのだろう。

カガヤンデオロに関しては、ガイドブックに、載っていない。
故に、何も解らない。
そこで、ダバオに縁が深い、森川氏の協力を頂き、私の活動が出来た。

森川氏は、日本在住で、年に何度か、ダバオに出掛けている。
私の活動に、以前から、協力して下さっていた方である。

さて、今回、私たちは、格安航空券を手に入れて、マニラに向かい、その日のうちに、カガヤンデオロに向った。
夜、遅くにカガヤンデオロに到着した。

森川氏の紹介で、迎えに来てくれるという方に、遅いので、断りの電話をして、空港から、車に乗った。

10分ほど、走った時である。
私は、懐に手を入れて、パスポートを探した。
着物の懐に入れることが多い。
特に、搭乗する際は、提示を求められるので、そうしていた。

ところが、パスポートが無い。
体を一回りしてみたが、無い。

急遽、空港に戻ることにした。

今の飛行機の中に落としたのである。
丁度、三席空いていた所に座り、横になって寝た。
その時に、落としたのである。

だが・・・
飛行機は、マニラに飛び立った。
フィリピンの安い飛行機は、客を下ろすと、また客を乗せて、飛び立つ。

事務所にて、説明する。
だが、フィリピンは、一度無くしたものは、出て来ないのである。
スタッフが、翌朝電話をくれるということで、終わったが・・・

電話無し、音沙汰無しである。

良い悪いの問題ではないが、フィリピン人は、自分の仕事以外のことをしない。
更に、責任の所在が無いのである。

結果的に、見つからないと、ダバオに行く日に聞かされた。
見つからないのではない。
見つけようとしなかった。
見つけても、知らない振りをする。

サービス精神というものを、養っていないのである。
高級ホテルならば、それがあるのだろうが・・・

諦めて、パスポート紛失ということで、警察に紛失届けをすることになる。

海外で、パスポートを無くすことは、致命的である。
行動が、制限されるし、何事かあっても、身分を証明出来ないのである。

同行のコータが、心配し過ぎて・・・
だが、私は、暢気に構えていた。

しょうがない・・・


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2013年06月07日

ミンダナオ島へ2

カカヤンデオロのホテルは、森川氏に紹介されていた、一泊、900ペソのホテルにした。

円安により、ペソも、一万円が、3900ペソ程度である。昔は、1ペソ2円だったが、今回は、2,5円である。

つまり、私には、値上がりである。

さて、ホテルの部屋は、比較的快適だったが、街の様子が全く解らないという、欠点があった。
いつも、私が泊まる、ゲストハウスや、格安ホテルなどとは、違う。
街から、隔離されているような・・・

そこで、翌日、森川さんの紹介の、カレッジの教授である、クリフォードさんとお会いしてから、ホテルを替えることにした。

タクシーに乗り込み、ダウンタウンのホテルへと言った。
すると、タクシー運転手は、オッケーと言い、自分の知るホテルに向った。

そこに、二泊することになる。
支援活動は、明日の午前10時からと、決めてあったので、そのままホテルにチェックインした。

ダウンタウンの真ん中・・・
とても、活気があり、騒然とした雰囲気である。
これは、いい。
人々の表情が良く見えるのである。

そして、早速、両替屋に向う。
そこで・・・
日本円、一万円が、3300ペソと言われた。
愕然である。

ドルなら、4000ペソを超える。
そこで、私とコータのドルを200ドル交換することにした。
後で、とても率が低いことが解るが・・・

それから、地元の食堂である。
私は、現地の人たちが行く、食堂に行くことにしている。
とても安いのと、現地の人たちを見られる、また、話が出来るからだ。

観光するのではない。
様々な情報を得るためである。
そういう旅をしているのである。
これが、私の好む旅である。

慰霊と支援の旅。
それが、私の好むもの。
つまり、観光旅行で、高級ホテルに泊まり、高価な食事をする人は、それが好み。
良し悪しではない。

好みなのである。

ボランティアをしているという、善意ある行為とも思わない。
好きだから、しているのである。
だから、色々な批判は、私には当たらない。
偽善者でもない。

好みでしているのである。
指向といっても、いい。

ゲストハウス、格安ホテルは、様々な問題がある。
挙げれば、キリが無い。

シャワーの出が悪いから、何から何まで・・・
ただし、エアコンだけは、壊れていては、死ぬ。

安全面にも、問題があるが・・・
私は、盗まれるほどの物を持たない。
何せ、格好から着物以外は、支援物資にならないものを、着ているのである。

決して、裕福な日本人には、見られない。

最初は、支援物資で、満杯なバッグも、終わると、畳んで、小さなバッグに入れて、更に、買い物袋を入れる。
それなりに、バッグに見えるように・・・

だから、空港での検査の際に、驚かれることも多々ある。
何・・・このビニール袋は・・・この日本人は、いかれている、と思われてもしょうがない。

ある時、タイからアメリカ系の飛行機に乗った際に、乗る直前の抜き打ち検査があった。その時、私のバッグを開けた検査員は、途中で見るのを止めたほど。
オッケー・・・
ビニール袋とトイレットペーパーが・・・
ホテルで使わなかった、ペーパーも持って来るという、始末。

ということで、地元の食堂で食事をすると、50ペソ程度で済むのである。
時には、それ以下。
100円前後の食事である。
だから、お金は、使わないのである。

宿泊費が大半。
それで、ストリートチルドレンに食べ物を買う。一緒に、食事をする。
それが、私の好みである。

さて、翌日は、クレフォードさんと、その学生三名が、お手伝いをしてくれるということで・・・楽しみである。
若者と、話が出来る。

兎に角、現地の人との出会いが、楽しみ。
更に、明日は、支援を終えて、日本兵の慰霊と、台風被害で亡くなった皆さんの慰霊もする予定である。

その川の氾濫の中心部である。
川沿いに出て、慰霊を行う。
それによって、色々なことを知る。
こうして、始まった、ミンダナオ島の活動である。

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2013年06月08日

ミンダナオ島へ3

翌日、5月16日、朝10時に、クリフォードさんの、カレッジに向う。
持参した、支援物資を持って、タクシーに乗る。

カレッジは有名なので、説明がいらない。
到着すると、クリフォードさんと、学生三名が、待っていた。

あらかじめ、日本から送っておいた支援物資の箱を、開けて、それぞれ分別して、袋に入れることにした。
それは、クリフォードさんの提案である。
そうしなければ、現地で、奪い合いになると言う。

私は、持参した支援物資も、出して、分別して貰った。
その時間、一時間ほどかかった。

部屋には、エアコンが無いので、汗だくである。

男子、二人、女子が一人。
女子の名前が、アップルというので、すぐに覚えた。
私は、頼むことは、何でも、アップルさんに、言った。
二人の男子の名前が、覚えなられないからだ。

その作業の合間に、色々な学生が、出入りする。
それが、楽しかった。
時々、話をした。といっても、私の英語であるから・・・

支援物資は、約200キロである。
それを、小分けにする作業は、大変だった。

終わり掛けた時に、クリフォードさんが、外に出て、バイクタクシーを校内に連れて来た。

荷物と、六名が、そのバイクタクシーに乗るという。
何でもありの、フィリピンである。

風も、熱い。
台風被害のスラムに向う。

そこは、クリフォードさんの家の近くだという。

私は、日の丸を掲げた。
道端の人たちが、日の丸を見ている。


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2013年06月09日

ミンダナオ島へ4

朝、9:45に、クリフォードさんの大学へ、支援物資を持参して、向う。
10時に行く予定にしていた。

広い大学構内を車が走り、クリフォードさんの部屋の前に着く。
すでに、三名の学生が待機していた。

私が送った荷物も、そのままで、置いていた。
私が行くまで、開けないという約束だった。

それから、仕分けが始まった。
男女別子供の衣類、男女別アダルトの衣類・・・

赤ちゃんのもの・・・
その他、毛布系、タオル系は、私が、一枚一枚、手渡すことにした。

部屋には、扇風機だけで、暑い。
汗を流しつつ、作業をする。

女の子が一人、名前は、アップルさん。私は、彼女の名前だけ、覚えたので、何でも、アップルと呼んで、お願いした。すると、二人の男子も、アップルを手伝う。

ようやく、仕分けが終わり、それぞれ、小袋に入れて、一時間以上過ぎた。
それから、現地に向う。

クリフォードさんが、バイクタクシーを呼んできた。
そこに、皆、乗り込む。

後ろの座席に三名、運転手の横に、一人ずつ。
どんな乗り方をしても、法律に触れないというのが、いい。

台風被害の、真ん中に向う。
二メートル以上の水が押し寄せて、流したという場所。

何も無くなっていた。
が、その付近に、皆さん、小屋を建てて、住む。

日の丸を掲げていたので、それを見た、子供たちが、即座に集まり、次に、女性たちが・・・

続々と、出て来た。
何も、予告していないはずなのに・・・

広い場所にバイクタクシーが止まり、荷物を下ろす。
その間に、クリフォードさんが、皆さんを二列に並ばせる。

支援物資が足りればいいが・・・と、思った。

それではと、私が、皆さんに向かい、日本からのプレゼントです、と大声で言った。
そして、アップルさんに、初めて下さいと合図する。

私は、ベビー用品を持って、赤ん坊を抱く女性を探して、渡す。
その間も、どんどんと、人が出て来た。
男たちも来た。
ただ、働きに出ているせいか、男たちは、少ない。

次第に、列が乱れる。
危ない状況である。

何度も、列を修正しつつ、手渡しする。

私は、ベビー物が終わり、毛布系を渡し始めた。
人が殺到する。
落ち着いてと、手で、人々を抑える。
だが・・・

混乱ぎみ。

そして、次に、バスタオル類である。
それも、殺到するので、静かにと、呼び掛ける。

お祭りのような、騒ぎである。
後半になると、列が無くなった。
てんでに、人々が、受け取りに来る。

最後の、フェイスタオルである。
もう、誰が誰か、解らない状況である。

だが、兎に角、渡し終えた。
人々は、まだ、その辺に、集う。

その中に、丸裸の男の子が・・・
あらっ・・・もう無い・・・
私は、バイクタクシーに積んでいた、着替え様の、テーシャツを二枚出して、男の子に着せた。
それで、足まで、隠れる。

すると、おじさいが、欲しいと言うので、もう一枚を差し上げる。

コータは、写真を撮るので、精一杯だつたと、言う。
クリフォードさんも、写真を撮っていたが・・・

私は、集まった皆様に、また、来ますと、言った。
もっと、プレゼントを持ってきます・・・

色々な人が、私に、ありがとう、と、言いに来た。
とても、丁寧な言葉で、感謝の言葉を言う人もいる。

クリフォードさんの、お母さん、奥さん、お姉さんも、やって来ていた。
それぞれ挨拶し、名前を言い合う。
クリフォードさんの家は、その上のあるという。

台風の際に、多くの人が、クリフォードさんの家に、逃げて来たという。

支援物資が、瞬く間に、無くなった。
もう、何も無い。
後は、笑顔だけ。

そして、さようなら、である。
皆さんに、ネクスト・タイム・スイユー・・・
あっという間の出来事。



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2013年06月10日

ミンダナオ島へ5

支援を終えて、すぐに川沿いに行くことにした。
台風被害の中心部であり、尚且つ、日本兵の慰霊のためである。

その川沿いには、一本の大きな木があり、その木で、15名の人が助かったという。
水の高さが、木に記されていた。
矢張り、二メートル以上である。

更に、その碑も建っていた。
2011年、2012年の12月と、二度の台風直撃である。

クリフォードさんと、学生三名の方々には、後ろで見ていて貰った。

この、カガヤンデオロは、日本軍の、豹兵団の支配区であり、その他、ダバオには、拠兵団、そして、西側の端には、萩兵団という、三つの隊が活動していた。

特に、豹兵団と、萩兵団は、連合国、アメリカ軍だけではなく、現地のモロ族との戦いもあり、実に、大変な戦場となった。

私は、豹兵団の日本兵の慰霊を、最初に行った。
御幣を近くの木の枝から作り、それを依り代として、祝詞を献上する。

暫くの祈りと、黙祷であり、その次に、台風で亡くなった皆さんのために、祈る。

ところが・・・
台風被害の皆さんが、中々、反応しない。

実際、川沿いの土の中に、埋まっているというのだ。

土砂から、ゴミなどが、流れて、その中に埋もれてしまったとのこと。
その地域は、キリスト教徒の人たちが多いので、私は、キリスト教の祈りを唱えることにした。

だが、あまり長くやってはいられない。
暑いのである。

皆さんを待たせている・・・
御幣を川に流した。
ところが、私の足元に戻ってくるではないか。

再度、川に流すが、一度、すぐに沈む。そして、再び、浮き上がったが、また、沈んでしまった。

クリフォードさんに、皆さんも、毎日、祈ってくださいと言うと、クリフォードさんが、そのようにしますと返答する。
彼も、熱心なキリスト教徒である。

時間は、すでに一時を過ぎていた。
クリフォードさんの提案で、皆で食事をすることにした。

日本食がいいかと、尋ねられたので、現地の物をと答えた。
すると、バイクタクシーが走り出した。

荷物が無いので、楽々である。
街中を抜けて、ダウンタウン近くに戻る。

一軒の食堂に入ることになった。
ポークかチキンというので、私は、ポークにした。
そして、ヌードルかライスかと問われて、ヌードルにした。

あちらでは、ヌードルといっても、色々な種類がある。それは、それぞれの、店によって違う。
細い麺から、太い麺まで、色々ある。

私が気に入っているのは、春雨に近いものだ。ビーフンである。

兎も角、六名で食事をした。
色々な話題で盛り上がる。
すべて英語であるから、解ることと、解らないことがある。

支払いをすると、おおよそ、1000ペソ、2500円。

クリフォードさんは、私のパスポートの紛失を知るので、その後、警察署まで付き合うという。

心強いので、一緒に行って貰った。
学生たちも、一緒である。
本当に、迷惑を掛けた。

結局、紛失証明書を作り、それを、ダバオの領事館の下である、出張駐在官事務所に出すことにした。

すでに、時間は四時近くになっていた。
とても疲れた。

バイクタクシーに乗り、ホテルで私たちは、降ろして貰った。
これで、学生たちとも、お別れである。
次にまた、逢いましょう・・・

本当に、ご苦労さんだった。
彼らがいなければ、とんでもないことになっていた。

男子学生のガールフレンドが、日本の名古屋の大学に留学していた。
彼は、死ぬほど、逢いたいと言うので・・・
皆が、笑った。

兎に角、カガヤンデオロでの、活動が終わり、ホッとして、安堵した。

この、カガヤンデオロは、旅行ガイドブックにも無い街であるが、北ミンダナオのスリガオと並ぶ、都市である。

ここから西に向うと、日本軍の進行と同じになる。
西ミンダナオは、モロ・イスラムの多い、地域であり、危険だと言われる。

いずれは、その西ミンダナオの入り口の、ディポログという町にある、慰霊碑を訪れたいと思っている。

後半にミンダナオ島の戦時の状態を、日本兵の手記を元に、紹介する。

カガヤンデオロで、丸一日を休んで、暑さに慣れておいて良かった。
支援の旅は、出来る限り、休憩が必要である。

シャワーを浴びて、一息。
明日は、ダバオに向う。

ダバオは、四泊の予定である。


posted by 天山 at 06:00| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月11日

ミンダナオ島へ6

支援の日の夜、クリフォードさんから、食事の誘いを受けた。
が、これ以上、外に出ない方がいいと、丁寧に、お断りした。

翌日は、ダバオに向うのである。
知らずに、熱中症になっていることもあるので・・・

兎に角、水を絶やさず買い、日本から持参した、スポーツドリンクの粉で、それを作る。
私は、それを半分に薄めて飲む。
体が、それに慣れるからである。

飛行機は、夕方の六時であるから、ホテルの滞在を延長した。
一日分の半額を支払う。

ホテルには、レストランもついていたが、一度だけ、利用した。
矢張り、食堂より、高いのである。
更に、コーヒーがインスタントだ。

あちらの、インスタントコーヒーは、コーヒーというより、ミルクコーヒーである。
そして、甘い。
それぞれの島では、コーヒーも栽培して、美味しいコーヒーを飲むことが出来るのだが・・・

ネグロス島のコーヒーなどは、最高である。
そして、探してみると、ミンダナオにもコーヒー栽培がされていた。

ネグロス島より、味は落ちるが、まずまず、美味しいと解った。

ダバオに行く前に、再度、100ドルを両替する。
4000ペソ程度である。

次の両替は、日本円しかない。
ドルを持ってこなかった。

少しでも、率がよければいいが・・・と、考えていた。

翌日は、朝から、食堂で食べる。
食堂は、安い。そして、魚料理がある。
魚と野菜のおかずで、ご飯を食べる。
この、ご飯が、腹にもたれない、軽い米なのである。

日本の米は、実に美味しくて、腹持ちする。
それでも、そこのご飯を楽しむ。

カガヤンデオロの、ダウンタウンは、兎に角、ゴチャゴチャしていて、大変な場所である。まず、信号が無い。
その中を、車と人が、事故も無く、行き交うのである。
渋滞しているのだが・・・
うまく動くという、仰天のシステム・・・

だから、道を歩く時は、兎に角、気を使う。
車、乗り合いバスのジプニー、バイクタクシー、自転車タクシー・・・色々・・・

一日は、あっという間に過ぎる。

夕方の四時になり、ホテルからタクシーに乗り、空港へ行く。
今、カガヤンデオロには、新しい空港が出来つつある。

もう、現在の空港では、対処出来ないほど、人が行き交うのだ。

街を抜けると、スムーズに車が走る。
私たちは、再度、飛行機会社の事務所に立ち寄り、パスポートのことを聞くことにしていた。
だが、為しのつぶて・・・

フィリピン人は、自分の仕事だけしかしない。
それ以外のことは、全く関係無いと、腹をくくっている。
これが、曲者である。

だから、結局、パスポートは、ありません。
私は、声を低めて、日本に帰ったら、オーナーに手紙を書くので、住所を教えろと言った。何やら、スタッフが、話していたが、私の剣幕に、書いてよこした。

格安航空だから・・・では済まない・・・
そして、確実に、遅れる。

一度、セブ島でも、怒鳴ったことがある。
いつもいつも、タイムオーバーだ・・・
オーナーに電話を掛けろ・・・

しかし、迎えの車の運転手が、笑顔で、待っている。
すでに、皆、飛行機に乗っていた。私一人が、拒否していたが・・・
止めた・・・

見つからないのではなく、見つけなかったのである。
そう、結論づけた。

そして、案の定、六時の飛行機が、タイムオーバーである。
更に、初めて、ダバオに到着して、時間が遅れましたこと、お詫びしますとの、アナウンスである。
驚いた。

50分程で到着する。
結果、7:30を過ぎていた。

荷物を探して、空港を出ると八時を過ぎている。
私たちを、今度は、森川氏の友人の、ジェイソンさんが、迎えに来ている。

空港を出ると、私たちをすぐに見つけた。
私の着物姿である。

何と、お母さんまで一緒に迎えてくれた。
そして、そのままホテルである。
そのホテル・・・
私が予約した古いホテルで、部屋を見て、愕然とした。
牢屋のような部屋である。

ここでは、四泊は、無理と、変更することにした。
ガイドブックに載っていない、新しいホテルが近くにあると、ホテルの人が言う。
そこは、900ペソ。
新しいホテルで、900ペソは、安い。

ツインルームがあった。
そこに決めて、ジェイソンさんとお母さんと、食事をすることに。

森川氏が、私のことを、詳しく説明してくれていたので、話がスムーズである。
明日、一日は休憩して、明後日の朝、10時から行動することを、確認する。

ダバオでは、すべて、ジェイソンさんが、お世話をしてくれることになっている。

すべて、慰霊の活動である。
お母さんも、私たちと、行動を一緒にしたから、驚いた。
また、最初の食事から、お母さんの質問攻めにあった。

その質問の、最初が天皇についてである。
それも、驚いた。

天皇とは、どのような存在なのか・・・
ジェイソンさんが、止めるまで、話し込んだ。
何と、九時半を過ぎたのである。

その内容は、省略する。
私のメイン・ブログ、天皇陛下について、を、参照ください。


posted by 天山 at 05:30| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

ミンダナオ島へ7

ホテルの部屋は、中級程度で、実に満足だった。

この活動を通して、ゲストハウスから、格安ホテル、中級ホテル、そして、ラブホテルなどを利用した。
安ければ、いいというものではない。
矢張り、疲れ過ぎると、部屋は、或る程度の質が問題である。

私の場合は、あまりホテルに拘らないが・・・

安全に泊まれることが、第一である。
何せ、外国である。

七年の間に、部屋で、物が無くなるということは、無かった。
一度だけ、ラバウルで、コータのナイフが無くなった程度である。

現金と、パスポートは、いつも身に付けて持って歩く。
ホテルに置くことは無い。
ただ、カード類などの入ったものは、置いておく。

更に、延泊しても、二日に一度、ルームクリーンをして貰う。
毎日の、クリーンは必要ない。

今回は、何が一番、印象的だったかというと、タバコである。
フィリピンは、全面禁煙になった。
勿論、ホテルの部屋も、である。

ペナルティーが、一万ペソという、大掛かりなものになっていた。
ただ、それが問題で、どこもかしこも禁煙で、更に、喫煙場所が無い。だから、それが問題だった。

タバコを吸う人は、道端で吸う、そして、歩きながら吸う。
面白いのは、タバコを吸う人が、店の外にいて、店の中の人と話をするという、滑稽な風景も見た。

そして、ダバオは、それが特に強く、市を挙げて取り組んでいる。
青少年にタバコを売らない・・・
だから、タバコを売る店も限られた。

道端で、一本売りのタバコの屋台が流行る。

そういう意味では、ダバオは私には、最悪だった。
だが、一時的に滞在する私は、そこから離れれば問題ない。

部屋に入り、コータが水を買うために、外に出た。
もう九時半を過ぎていて、深夜になる手前である。

ホテル近くに、水を買う店があるか・・・
とても、大切なことである。

ジェイソンさんは、ダバオの水道は、飲めますと言ったが・・・
それほど、ダバオの水が綺麗だということだ。
だが、水は、大量に売られている。
つまり、現地の人も、水を買って飲むのである。

お腹も一杯で、シャワーを浴びて、コータを待つ。
戻ると、ホテル近くは、色々な店があり、不自由しないようである。
明日の朝は、早速、食堂で食べることにする。

私は、早々に寝た。

朝は、早く目覚める。
五時である。つまり、日本時間では、六時。
日本でも、五時に目覚めるので、四時に目が覚めることもある。

早過ぎて、何も出来ないので、部屋で、タバコを吸う。
禁止・・・
確かに。だが、ホテルフロントにて、厳重に言われなかった。ということは、それなりに、である。

ホテルフロントで言われると、危ない。

支援物資が無くなり、荷物が一気に減って、私は、バッグに物を詰めなおした。
着替えのみである。
だから、他のバッグは、畳んで、一つのバッグにまとめる。
今回は、一つのバッグが壊れたので、カガヤンデオロで捨てて来た。

七時になり、私は、一人で食事をするために、ホテルを出た。
右に行っても、左に行っても、店がある。

地元の人たちが、食べる食堂であるから、兎に角、安い。
おかずを、二品選び、ライスで、100円程度。

ダバオは、海に面しているから、魚が豊富だ。
それが、嬉しい。
焼き物、煮物、揚げ物・・・魚料理が、何でもある。

日本で言うところの、アジに似たもの、鯖に似たもの・・・
味は塩味が普通で、それにレモンを掛けて食べる。

スープは、ビーフ、ポーク、チキン、魚・・・
それで、実はいらないというと、スープだけで、ただ、である。

時には、ベジタブルオンリーというと、野菜だけ入れてくれる。
それも、料金が安くなる。

ご飯は、少しパサパサしているが、腹にもたれない。

フィリピンは、共通語が英語であるが、ビサヤ諸島の言葉がある。だいたい、英語が通じるが、時には、ビサヤ語のみの人もいる。

英語が出来ないと、職に就けない。
だが、英語を共通語にしていても、実に貧しいのである。
日本で、小学生から英語教育をという人たち・・・
フィリピンが何故、英語が共通語なのに、貧しいのか、考えて欲しい。

そのフィリピンから、名文学、哲学、思想が生まれないのである。
もし、タガログ語を基本言語にしていたら・・・
もっと、深い言葉の世界を有して、更に、英語を覚えて、精神の世界が、豊かになっただろうと、思う。

言葉か英語だからか、英語の国、アメリカ、イギリスに適わないし、それらを追うだけになる。
その食生活を見れば、一目瞭然である。

何せ、コーラと共に、食事をしている。
更には、アメリカンナイズされた、餌のような食事を好む。

貧しい人たちの方が、真っ当な食事をしているように見えるのである。


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2013年06月13日

ミンダナオ島へ8

昼前に、コータの電話にメールが入った。
ジェイソンさんからである。
今夜、家で夕食をとの、誘いである。

昨夜も、ご馳走になっている。
でも、折角の申し出であるからと、受け入れた。

そのお父さんが、元は銀行マンで、今は、マンゴーの農園を経営している。
ここでは、金持ちの人の中に入る。

六時に迎えに来ることになった。

そこで、私たちは、何も贈り物を持っていない。
出来ることは、歌うことと、コータの篠笛である。

食事の前に、篠笛と私の朗詠を披露することにした。

そして、六時前に、ジェンソンさんが迎えに来て、出掛けた。
その際に、車が走る道々を見た。
チャイナタウンを通ると、スラム街に出た。

矢張り、どこでも、フィリピンにはスラム街がある。
だが・・・
どこのスラムより、何となく、明るいのである。
皆さん、楽しそうである。

とても賑やかで、活気のあるスラムだ。
それは、安全だからであろうと、思った。

ダバオは、フィリピンでも、安全な場所として知られる。

ジェンソンさんが、色々な場所で、買い物をする。
私たちにご馳走するものである。

少しばかり、遠回りになったようだ。
だが、私には、よい情報だった。

ジェンソンさんの家は、丘の上にある、住宅街である。
その住宅街の入り口には、警備員がいる。

立派な家である。
富裕層なのだ。

お母さん、奥様、子供二人に、お姉さんがいた。
そして、お父さんが帰って来た。

初めての場所で、個人宅に伺うという。
これも、森川氏の、お陰である。

皆さんが揃ったので、私が挨拶した。
そして、何もプレゼントがありませんがと・・・
篠笛と、歌を披露した。

とても和やかな、雰囲気になる。
矢張り、音楽は、国境を越えるのである。

終わると、お父さんが、早速、食卓に誘う。
私は、お父さんの横に座った。
話は、コータが通訳する形である。

兎に角、様々な話題が出た。
戦争時のことも、お父さんのお父さんから聞いたという、話を聞いた。

結論は、日本軍の侵略から、アメリカが救ってくれたという、印象を持っていた。
だが、多くの誤解があったはずだと言う。
現在のような通信が無く、マニラの日本軍の指令が、うまく届かなかったのではないかというものだった。

敗戦が近づくと、日本兵が、荒くなっていったと言う。
一番、酷い話は、フィリピン人の赤ん坊を放り投げて、それを銃剣で突き刺したというものである。

しかし、そこまでの酷いことをしたのか・・・疑問である。
あくまでも、話である。
その話が、どこから、出たのか・・・

チューク諸島に出掛けた際にも、日本兵のことを聞いたが・・・
日本兵の酷さを言うのは、中華系、中国人だったとの話を聞いている。

お父さんは、私の行為である、慰霊と支援活動に対して、すぐに理解してくれた。
そして、お父さんには、またそれなりの考え方がある。
じっくりと話をすることが、出来たのは、実に良い事だった。

いつでもダバオに来た際は、家に来てくださいと、言われた。

お母さんは、矢張り、昨夜の天皇の話が、まだ尾を引いていた。
タイ国王の話となり、その違いに私は言及した。

タイ国王の慈悲深さを言うと、お父さんは、日本の天皇も、とても慈悲深いと言う。
何となく、天皇像をお母さんが掴んだようである。

ミンダナオは、戦前から日本人が移住して、マニラ麻の産業を起こしたことが、注目されている。更に、その人たちとの付き合いである。
だが、戦争が始まると、その日本人たちも、軍服を着始めて、ミンダナオの人たちは、本当は、戦争を目的として、入植したのかと、考えたという。

それは、召集命令を受けたのだと、思うが・・・
一時期、矢張り、現地の人たちに大きな迷惑を掛けたことは、否めない。

最後に私は、この家のために、祈りますと、その祭壇に向かった。
日本の形で祈りますと言うと、皆さん、頷く。

一家は、カトリック信者である。
最後に、キリスト教の祈りを唱えて終わった。

明日は、本来の目的、追悼慰霊の日である。
朝、10時から、ジェイソンさんが、私たちを案内することになっていた。

ホテルに着いたのが、九時を過ぎていたので、二時間ほどの時間を過ごしたのだ。

富裕層の個人宅に行くということは、とても僥倖である。
そんなことは、普通ならば、考えられないことである。
何故か。
富裕層の人たちは、外国人とは、あまり会わないからである。


posted by 天山 at 05:32| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月14日

ミンダナオ島へ9

翌朝、10時前に、ジェンソンさんが、ホテルに来ていた。
そして、お母さんも、一緒である。
相当、私の行為に興味があるようだ。

本日は、慰霊、一色である。
それを説明しつつ・・・と思うが・・・難しい

まず、一番遠い所から、街に戻る計画である。
最初は、フィリピンー日本歴史博物館である。

戦前から、日本人が入植した記録が残るもの。
市内から出て、カリナンという地区にある。

車は、運転席と、後ろに椅子を置いての、オープンカーである。
私は助手席に乗ったが、エアコンが壊れていたため、窓を開けて、走る。
ところが、暑い。

だが、周囲の様子を見渡すには、良いのである。

カガヤンデオロとは違い、道が広く、信号もある。
街から離れると、次第に、緑が濃くなる。

矢張りまだ、開発途中で、下水道の工事が、延々と行われていた。

熱風を受けながら、走る。

30分を過ぎて、資料館に到着した。
いつもなら、博物館、資料館には出掛けないが・・・
森川氏の勧めがあり、出掛けた。

確かに、貴重な史料である。
当時の様子が、よく解る。

もし、戦争がなければ、更に、友好を深めて・・・
そんなことを、思った。
しかし、ダバオには、日本人、日系人が多いのである。

そこから、戻りつつ、慰霊をして行く。

入植当初の人たちを顕彰した、碑に詣でる。
そこは、小学校の校庭に建てられてある。

次に、いよいよ、日本人墓地に向う。
私は、戦没者の慰霊がそれで出来るとは、思っていなかった。

ところが、その中に、戦没者の慰霊碑も建てられてあった。

御幣を作り、その慰霊碑の前で、充分な慰霊の所作を行えた。
そして、すべての日本人のお墓に対して、清め祓いを行う。

30分以上も費やしたが・・・
その説明をせずにいた。

ただ、ジェンソンさんは、写真を撮り、お母さんは、じっと見つめていた。

その墓地は、日本人だけではなく、現地の人たちのお墓もあったが・・・
不思議なことに、現地の人たち、子供たちは、日本人墓地にいて、涼んでいる。
丁度、その辺りが、居心地が良いのである。

私は、皆さんに声を掛けた。
人々も、それに応えてくれる。

興味深く見ていた人もいる。
子供たちは、私が祈る間は、静かにしていた。

更に、英語で話しかけると、学校に行っている子は、答えてくれる。
次に来る時、プレゼントを持ってくるよ・・・
子供たちは、ニコニコして頷く。

そうしているうちに、時間は、昼を迎える。
車に乗り込むと、ジェイソンさんが、お昼ご飯は、どうしますかと、尋ねてきた。
私は、すべての活動をしたいと言う。

それでは、と、日本軍が造った、トンネルの場所に行くことに・・・

そこは、すでに、観光地化されていた。
フィリピンの人たちが、グループで見学に来ていた。

とてつもない、トンネルである。
そこから、アポ山の麓、更には、別の島へと続くというから、驚く。

アポ山の麓まで、車で一時間もかかるのである。
それを地下を掘って・・・
勿論、現地の人たちを、総動員した。

アポ山の麓は、激戦地である。
四方八方から、攻撃を受け、更に、攻撃したのである。

このトンネルの方法が、ベトナム戦争の際に、ヒントを与えたという。
北ベトナム軍は、それを真似て、トンネルを作り続けて、米軍を攻撃したのである。

だが、トンネルの中は、とてもまともな状態ではない。
私は、初めから、清め祓いを行った。
行き止まりまで、そうして、行為した。

コータまで、拍手を打ち、清めていた。

トンネルからは、早々に退散した。

休憩場所は、エアコンが効いて、とても気持ちがよいが、体がおかしくなると、すぐに、移動することにした。

最後は、川沿いに出て貰う。
そこで、最終の慰霊の行為を行う。

ジェイソンさんは、一番良い場所を選んでくれた。
そこでも、祈りますと言うと、納得して、良い場所に行きますと言う。

広い空き地があり、その向こうが川である。
大きな川で、悠々とした流れ。

そこで、私は、慰霊の最終の祈りを挙げた。
そして、御幣を流す。

一度沈んで、浮かび、そして、また、沈み、流れた。

日の丸を掲げて・・・
もう何年も前からの、希望を達した。

ただ、食事をする気力が無い。
そこで、コータに、今日は、これで休みたいと言って貰った。
これを説明するには、語学の力がない。

おおよそ、五時間ほど掛けたのである。
ホテルに着くと、三時になる頃である。

そのまま、ジェイソンさんと、お母さんと別れたが、説明が無いので、少し幻滅したかもしれない。

森川氏を通して、そのことを謝って貰った。

次に、少し、ミンダナオの戦禍について、書く。

posted by 天山 at 05:50| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

ミンダナオ島へ10

色々な戦記を読むと、戦闘場面が出てくる。
しかし、私は、それ以上に物資の不足により、困窮する様を、じっくりと読む。

敗戦が近くなると、輸送船も、次々と攻撃され、海に沈んだ。
つまり、何も日本兵には、届かなくなる。

特に、悲惨なことは、食糧である。
飢餓・・・
これが、兵士たちの心を狂わす。
戦場の様だけではない。
飢餓で、精神に変調をきたすのである。

ミンダナオ島戦記
荒木 員力氏の、著作から引用する。

この方は、カガヤンデオロから、西ミンダナオを中心に活動した方である。
米軍のみならず、モロ・イスラムの勢力との戦いもあり、大変な戦場であった。

原始林は河岸まで茂って未開のままの姿だった。そこには、あてにした土民の家もなく、したがって食物もなかった。河は満々たる水をたたえて、太古以来の悠久の流れを形成していたが、まだ雨期に入っていないのが幸いだった。一行は渡河点を探して、朝もやの中を、首までつかりながら、もう幾日も食物といえるようなものを食べていない。腹に力を入れて岸へ渡っていった。こうして、一応米軍のサンドイッチの中から脱出したとき、人々はようやく空腹を覚えた。だが、これが密林行の初夜であり、軍旗のもとへの道はまだ80キロもあり、これからのことだったのである。

ジャングルの中、河を渡るという・・・

「軍旗のもとへ」という合言葉を、ただ一つの心の支えにして、杖にすがり、足をひきずりながら歩いていった。

わずかに彼らの露命をつないでくれたのは、バコボ族が山を焼いて作った薩摩芋の畑が尾根づたいに点在していたからである。畑といっても、焼き払ったジャングルに、そのまま苗を植えたもので、畝をこしらえてつくるわけではない。一坪掘り返しても小指の頭ほどの芋がとれる程度のものが多く、むしろ芋の葉が命をつないでくれたといったほうがよい。

このように、食べ物に関する記述は、見逃せないのである。

生きるために、戦うために、食べなければならない。しかし、それが無い。
飢餓の苦しみは、地獄である。

この頃、ミンダナオ北部のマライバライ村の東方シライ集落付近では、兵団司令部と歩兵二個大隊「歩兵七十四連隊の第二大隊と歩兵七十七連隊の第一大隊」強と野砲数門が最後の抵抗を試みていた。かつて、鮮ソ国境の張鼓峰で活躍したこの部隊は、上陸以来、兵団の図上戦術的運用とマラリアなどの悪疾の犠牲となって、人員装備とともにボロボロになっていながら、まだ敵に噛み付く気力だけは失っていなかった。

飢餓と、病気である。
特に、南国特有の病である。
それで、どんどんと、兵士が斃れた。

しかしながら、このような断片的な奮闘は、すでに比島における天下の大勢に影響を及ぼすような戦闘ではなく、米軍としても窮鼠に噛み付かれる愚を悟ったものか、放っておいても死のほかに道のない日本軍を攻撃することをやめ、密林内にとじこめて、砲撃を繰り返すだけになっていた。シライ周辺の陣地内では、毎日栄養失調でたおれる兵が増し、死臭が鼻をついていた。

そして、ゲリラ戦を戦うために、移動するが・・・

結果は、
こういう日が続くうちに、人が斃れても埋めてやらなくてもよいという不文律が、いつしか山の中に出来上がっていった。他人を埋めてやることは、力が尽きて自分もそこに埋まることを意味していたからである。環境が人の掟をつくる例である。

散々な、道行を行く兵士たち・・・

このころ、米軍の心理戦部隊の活躍は目覚しく、投降勧告のビラが、しきりに、このような陣地に降ってきた。痩せこけた日本兵が離れ小島で一人で泣いている絵もあったし、三八歩兵銃は明治三十八年の日露戦争の遺物であるとか、捕虜収容所で良い待遇を受けている日本兵の写真もあった。活字に餓えた男たちが、これを読まなかったはずはないが、痛めつけ、さいなまれても、固く祖国の勝利を信じて、投降しようとする者はなく、ジャングルの中に朽ち果てる草むす屍が増えていった。

運命の昭和二十年八月十五日が、この山奥にもやってきた。この日、米軍の射撃がパッタリとやんで、やがて一機の米軍輸送機が日本軍の頭上にラジオを空中投下してくれた。ジャングルの湿気で日本軍の無線機が駄目になっていることを米軍が知っていたのである。ラジオの梱包の宛名は、明らかに両角兵団閣下となっていた。やがて、南方軍の無条件降伏の命令が、このアンテナにはいり、戦争が終結したことを、ジャングルの中で朽ち果てつつあった戦士たちにも伝えられた。そして広島と長崎に原子爆弾という新型爆弾が投下され、天皇陛下が終戦の詔勅を放送されたという噂も流れてきた。

不思議なことに、終戦と聞いて涙を流す者もなく、放心状態の中にもほっとした明るささえただよっていた。

以上、抜粋である。

食べられるものは、何でも食べた・・・
しかし、食べるものが無いという、状態での、悲劇がある。

人肉である。
ただ、それだけを、記しておく。

人間を、そこまで、追い詰めることが果たして、善悪を超えて、考えられるのか。
解らない。

その時代に、生まれ合わせたというだけで・・・
その悲劇を生きるという、人生というもの。

その悲劇の歴史を、人は忘れる。
そして、その犠牲も、忘れる。

歴史は、何を伝えるのだろうか。
過ぎたことは、忘れなさい・・・ということか・・・

まして、未来ある、若者が、大勢死ぬという、戦争というもの。
これほど、無益なことがあろうか。

歴史から、学ぶことが、智恵の初めである。

posted by 天山 at 06:31| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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