2014年01月03日

神仏は妄想である。457

事実、この答えは、共観福音書には当てはまる。しかしそれだけではない。共観福音書に出てくる奇跡は、待望の王国が、イエスの内部にすでに到来しつつあることを示唆しているのだ。
アーマン

共観福音書とは、ヨハネを省く、マルコ、マタイ、ルカである。

その前に、奇跡とは、何か。
不思議な業である。
不思議とは、超自然・・・

通常は、有り得ないことである。

教祖、開祖にいえるのは、皆々、奇跡を行なうということである。
勿論、その後の人たちが、創作したものである。

現在も、多くの宗教では、奇跡、不思議なことが起こったという。
そして、不思議なことが起こると、信仰が深まるのか、更に、迷いに入るのか・・・

兎に角、病気が治った、商売が繁盛した・・・
ご利益があった・・・

奇跡、超自然、不思議なこと・・・

実は、超自然というものも、自然なのであるが。
自然の中には、超自然も、含まれてある。

こういう例がある。
高齢の男性が、肝臓癌と診断された。
そして、手術を受けることになった。
海外にいる、息子たちも駆け付けた。

ところが、前日になり、肝臓癌が消えている・・・
嘘・・・
ところが、本当の話だ。

さて、この方が、何かの信仰を持っているとしたら・・・
奇跡だ、奇跡が起こった。信仰のお陰だ、となるかもしれないが・・・

本人は、何の信仰も無かった。
そして、消えたと聞いても、あーーーと言っただけ。

家族も、唖然である。
そういうことが、この世にはある。
それで、奇跡、不思議だと、騒ぐことは無い。
そういうこともある。

福音書の中で、イエスの奇跡を書かざるを得ない状況である。
それが、待望の神の国の到来である。
それを、告げるために、書かざるを得なかった。

勿論、少しばかりの、不思議はあるだろうが・・・

福音書の奇跡物語は、創作である。

イエスの内部に到来しつつあった・・・それを示唆する。
ルカは、書く。

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ・・・
この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した、とイエスは言った。

旧約聖書の書かれている、預言の成就を成り立たせるために・・・

共観福音書は、神の王国へ人々をいざなう、永く待たれた人物として、イエスを描くのである。

だが、ヨハネでは、違う。
奇跡と言わない。
しるし、と言う。
そこにも、魂胆がある。

ヨハネと、他の福音書では、その意味が異なるのである。

「ヨハネ」に出てくるしるしは、イエスへの信仰を広める目的を負っている。
アーマン

しかし、
「マタイ」では、超自然的な現象を通して、イエスが自分の正体を立証する場面が、極めて厳格に除外されている一方で、「ヨハネ」では、イエスのアイデンティティを証明することこそが、奇跡の眼目なのである。
アーマン

更に、マタイでは、ユダヤ人の指導者たちに、ヨナのしるし以外のしるしを見せることを拒む。ヨハネには、そんな箇所は無い。
更に、イエスの宣教する前に、荒れ野で悪魔の誘惑に遭うことも、ヨハネでは記述が無い。

「マタイ」では、イエスは自分の正体を明かす手段としてしるしを行なわない。「マタイ」の中で、奇跡が奇跡と呼ばれ、しるしと呼ばれないのは、そのためである。奇跡は、それを必要とする人々を助けるための力の発現であり、神の国がまもなく訪れることを示すためのものなのだ。
アーマン

ヨハネの、しるしは、イエスを信じさせるためのものである。

福音書を遅く書き上げた、ヨハネ教団は、一番、イエスの多くの教団から、疎外されていたと思われる。

イエスの死後、そして、復活の後で、神の国は、すぐに到来しなかった。

勿論、神の国など、到来するはずがない。
永遠に到来しないだろう。

イエス自身も、到来すると、信じていたのである。
ユダヤ教徒の一人として・・・

福音書の作者たちが、それぞれの団体、個人の思いで、書き続けたものという、認識が必要である。
つまり、福音書は、創作されたものである。

それは、事実ではない。
だが、事実ではないが、真実があるという、ご大層な、妄想に付き合うことはない。
問題は、事実である。




posted by 天山 at 00:17| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月03日

神仏は妄想である。458

さて、私は、神仏は妄想である、というエッセイを書くにあたり、様々な宗教の経典を読む。また、様々な、宗教に関する、批判、評論を読む。

ここで、一度、私の立場に戻って考える。

人間は、未知なるものに、憧れる。
そして、それが、人間を生かすものになったり、人生の苦悩を超えるための、方法だったりする。

そして、それを否定するつもりは、全く無い。

何故、私が、神仏は妄想である、を書いているのか・・・
それは、人間が勝手に、自分の考えを神仏に託して、解釈し、解説し、教えているからである。

簡単に言う。
存在しないが、観音様という、仏教の菩薩がいる。
その、観音様に対する、信仰を否定はしない。
しかし、その観音様を利用して、様々な、自分勝手な解釈や、人を支配する道具に使うとしたら・・・

更には、観音様の名を使い、金を得るなど・・・
多くの宗教は、そのようである。

例えば、観音様という、未知の、架空の存在があってもいい。
子供時代は、架空の存在だらけである。

それは、その一人のものであると、言う。
イエス・キリストという存在も、たった、一人のために存在する。

多くの人たちの、神、仏という、存在は無いのである。

教祖にかかったといわれる、神なる霊も、教祖一人のものである。
それは、多くの人を集い、拝ませるようなものではない。

どこで、どう間違うのか、その霊である、神と名乗るものを、多くの人に伝え、救いたいという、傲慢さである。

神仏は妄想である、というのは、自分以外の人に、自分の神仏というものを、信じさせる行為に対して、書くのである。

それは、個人の妄想である。
しかし、個人の妄想でも、それによって、生きられるというならば、否定する何物もない。

大勢の人が、念仏を唱える、題目を上げる・・・
不気味であろう。

その大勢というものに、誤魔化されて、とんでもない、世界に入る人たちも、多い。
時に、我というものを、知らない人たちである。

何一つ、努力せずに、我というものを、知らず、人の伝えた神仏を信じて、人生を棒に振る。

実に、恐ろしい、蒙昧である。

福音書に描かれる、イエスは、福音書を書いた人の、考え方に基づき、描かれたというのは、色々と書いてきたので、理解出来ると思う。
しかし、そこで、ある一つの宗派に属していると、その宗派の属する、考え方をのみ、正しいものであり、それによって、救われると、信じ込んでしまうという、愚昧なのである。

それが、実は、迷いであると、気付かない。

それが、恐ろしいのである。
勿論、そういう人たちがいても、この世には、何の問題も無い。

ただ、反社会的な活動をしなければ、いい。
と、共に、人に説くことを止めるべきである。

人は、それらに、導かれて、神仏に逢うことになっている。
それは、自分の創造力である。

その、創造力こそ、人を生かすものである。

あなたと、私の、イエスは、違う。
あなたと、私の仏陀は、違う。
それが、当たり前なのである。

更に、極めて言えば、一人は、一つの宗教を持って、当然なのである。

キリスト教には、聖書主義という、一派がある。
聖書を受け取るのは、人それぞれ、百人百様である。

だが、それでも、導き手が必要であると、結局、指導者が現れる。
誤った、イエスを信じては成らない・・・

しかし、もし、最初から、誤っていたら、どうするのか。
そして、最初から、誤っているのである。

その経典を書くという、行為が、誤りである。

何故、仏陀やイエス、その他の、書き物をしなかった、開祖たちがいるのか・・・
書くことは、誤りになるからである。

つまり、解釈の仕様で、如何様にもなる。

その、解釈により、宗教、宗派、カルトが出来上がる。
実に、恐ろしい、迷いである。

宗教は、迷いを打ち消し、正しい、神仏の道を教えるものというのは、全くの誤りである。

伝えるというのは、人間の欲望である。
その欲望に翻弄された人々が、真っ当に、伝えることが、出来るだろうか。

技術、技巧の技ならば、伝えることが、出来る。
しかし、宗教は、技ではない。
言葉の世界である。
そして、言葉の世界とは、人間の精神の世界である。

その精神の世界が、それらの、教えで、満杯になったら・・・
それほど、恐ろしいことは無い。

何故なら、この世に、絶対というものは無いからである。

神仏だけではない。
鬼や妖怪・・・その他・・・
未知のものは、多数存在する。
人の数だけ、存在する。

何せ、人の皮を被った、鬼も、妖怪もいる。
勿論、神や仏もいるだろう。


posted by 天山 at 06:04| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月04日

神仏は妄想である。459

さて、福音書とは、読めば読むほど、矛盾だけで、呆れるほどの嘘が多い。
嘘とは、史実である。

宗教が、まず信じることからだ・・・というのは、良く解る。
信じなければ、始まらないからだ。

不信や疑問を持っては、進まないし、信者を騙せないのである。

イエスの誕生物語・・・
それは、マタイとルカにしか、書かれていない。
マルコと、ヨハネでは、触れられていない。

最初の福音書である、マルコが触れていないということは、まだ、誕生物語が、出来上がっていなかった。

更に、パウロをはじめとする、皆々も、その誕生には、触れていない。
つまり、解らないのである。

解らないことを、マタイとルカが、創作し書いたのである。

教会で、語られる、イエスの誕生、クリスマスは、マタイとルカを混ぜ合わせた、物語である。

アーマンも、
実のところ、こうしたお話自体は、まったくもって調和を欠いている。イエスがどのような生まれたかという種々の物語は内容がてんでばらばらで、しかもそうした物語同士の食い違いは、いかんともしがたい・・・
食い違いの一部は、歴史的検証にも耐えうるものではないが、それはまた別の話だ。

まず、マタイを要約すると、
マリアの妊娠が発覚。マリアとヨゼフは婚約していた。ヨゼフはマリアとの婚約を破棄することを考えるが、夢のお告げで、マリアが聖霊によって、妊娠したと知る。

彼らは、結婚し、イエスが生まれた。
すると、星に導かれた賢者たちが、東方からエルサレムまで旅をして、ユダヤの王は何処でお生まれですかと、尋ねた。
ヘロデ王は、調査に乗り出し、ユダヤ人の学者から、王がベトレヘムから来るという、預言を知る。

ヘロデ王から、それを知らされた賢者たちは、ベトレヘムに向った。
その時も、星が先導した。
星は、イエスの家族の上で止まった。

賢者たちは、イエスに贈り物をして、夢で警告されたので、ヘロデ王の言いつけに背き、イエスについて報告するために、エルサレムに戻ることはせず、別のルートを通り帰路についた。

ヘロデ王は、自分が王であるから、未来の王に、恐れをなし、軍隊を向けて、ベトレヘムとその周辺の、二歳以下の男の子を皆殺しにした。

しかし、ヨゼフは、夢のお告げで知らされていたので、虐殺前に、エジプトに逃げる。

そして、ヘロデ王が死んだので、帰還できることを知る。
しかし、新しい王は、ヘロデの息子であるから、ベトレヘムには行かず、ガリラヤ地方の北部、ナザレに向った。
イエスは、そこで、育った。

と、上記は、皆、嘘である。

マタイは、預言の成就を、書き尽くすのである。
だから、創作したのである。

ルカは、そのことには、一切触れていない。

マタイと、ルカの共通した意見は、マリアが処女であることと、イエスがベトレヘムで、生まれたことだけである。

ルカは、マタイより、長い文章で、書き綴る。

長いので省略して、マタイにない記述を言うと、天使がマリアに現れたということ。

そして、とんでもない、嘘を書き付ける。

ローマ皇帝であった、アウグストゥスは、帝国内の全て人の人口調査をするというのである。この住民登録制度を最初に導入したのは、シリアの総督キリニウスだと、ルカは言う。

そして、何と、先祖の土地に戻って、登録するということ。

ヨゼフの先祖は、ベトレヘム出身の、つまり、ダビデの子孫である。
そこで、ベトレヘムに行き、イエスが生まれる。

主の天使が現れて、羊飼いたちに、メシアが生まれたことを告げる。
彼らは、イエスを拝みに来た。

八日後、イエスは、割礼を受ける。
そして、出産後、神に献上する生贄を持って、神殿に行く。
神殿で、シメオンという男と、アンナという年老いた女が、イエスをメシアであると、認める。

割礼、神殿は、モーゼの律法通りである。

この二つの物語を、歴史家は、解釈に戸惑うばかり。
嘘なのであるから、歴史も何も無い。

アーマンも、
マタイに出てくる星の話は、一体全体何を意味しているのか?
と言う。

星が賢者を導き、エルサレムで止まり、更に、動き出して、ベトレヘムに誘う。
そして、イエスの生まれた場所で、止まった・・・

マタイは、一体何を言いたかったのか・・・
不思議を言いたかった・・・

もっと、面白いのは、住民登録である。
ヘロデ王が、ベトレヘムや、その周辺で、幼児殺しをした事実は無い。

更に、先祖であるダビデが生まれた、ベトレヘムに戻る・・・
一千年前の先祖の地に戻る・・・
そんな制度は、歴史的に見当たらない。

全く、嘘八百である。
御伽噺である。

ところが・・・
キリスト教徒は、福音書を歴史的事実だと、信じているのである。

マタイと、ルカは、イエスが、ナザレの出身であることを、知りつつ、ベトレヘムで生まれたことにしたかったという・・・

本当に、ご苦労なことだ。

posted by 天山 at 06:10| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月05日

神仏は妄想である。460

「マタイ」と「ルカ」のイエス誕生に関する記述には、非常に顕著な違いがある。「マタイ」に書いてあることが、ことごとく「ルカ」には書かれていないのだ。その反対も然り。「マタイ」では、ヨゼフが夢で神託を告げられるが、「ルカ」ではそのことに触れられていない。「ルカ」では、エリザベトとマリアの前に天使が出現するが、「マタイ」にそのようなくだりはない。「マタイ」には賢者が登場し、ヘロデ王による幼児殺戮、聖家族のエジプトへの逃避行およびユダヤを迂回してのナザレへの帰還について記されている。しかし「ルカ」にはそのような話が一切出てこない。その「ルカ」と言えば、洗礼者ヨハネの誕生、ローマ皇帝による住民登録制度の実施、ヨハネとマリアのベツレヘムへの旅、飼い葉桶と宿屋の話、羊飼いの話、イエスの割礼、エルサレム神殿で赤子イエスを神に捧げる話およびその直後の帰郷といったふうに物語は続く。そのどれ一つとっても、「マタイ」には載っていない。
アーマン

つまり、二つの物語は、困難な矛盾があり過ぎるのである。
つなぎ合わせて、解釈しても・・・

「マタイ」と「ルカ」が言うように、イエスが本当にヘロデの治世に生まれたなら、この時キリニウスがシリア州の総督だったという「ルカ」の記述は間違っていることになる。ローマの歴史家タキトゥスやユダヤの歴史家ヨセウスの著作物、古代の碑文などの様々な資料から、キリニウスは西暦六年にシリア州の総督に就任したことが分っている。これは、ヘロデが死んだ十年後のことだ。
アーマン

こうして、アーマンは、順々に、その矛盾と、誤りを書き続ける。

何度も言うが、創作だから、そういうことになる。

ルカは、ヨゼフとマリアの故郷は、ナザレというが、マタイは、全くそれには、触れない。
マタイは、初めから、二人は、ベトレヘムと関わりがあるとしている。

更に、宿屋と飼い葉桶の話は、無い。
二人は、ベトレヘムの家にいて、イエスを生んだ。

そして、ヘロデ王・・・本当は、いないが・・・
二歳以下の男児を皆殺しするように言う。
それは、賢者が現れる、随分前に、生まれていたことになる。

そうすると、イエスの誕生後、数ヶ月、一年、それ以上、ベトレヘムに留まっていたことになる。

それでは、ルカが、全く嘘を書いていることになる。
イエスが生まれて、一ヶ月ほど経って、ナザレに戻ったことになっている。

マタイは、エジプトに逃げていた家族が、ヘロデ王が死んだので、ベトレヘムに戻ろうとする。
しかし、ヘロデ王の息子が後を継いだので、ナザレに移住せざるを得ない。
つまり、マタイは、彼等は、ナザレではなく、ベトレヘム出身だというのである。

二つの福音書の同じところは、マリアが処女だったこと。イエスが、ベトレヘムで生まれたことである。

何故、ベトレヘムなのか・・・
それは、マタイが、旧約聖書の、ミカ書が、メシアがベトレヘムからやって来ると、預言しているからである。

ガリラヤのナザレの町に至る、物語を作る必要があったのである。

まあ、苦心惨憺である。
嘘を書くのも、楽ではない。
しかし、初期キリスト教団、初期イエス集団としては、何とか、旧約聖書との、整合性を整えたかったのであろう。

少年時代は、私は、世の救い主は、最も貧しい場所、馬小屋の飼い葉桶で、生まれたと、教えられたものである。
そして、ルカと、マタイの、二つの物語を合わせた、ストーリーを聞かされたものである。

そのクリスマスの前には、待降節という、四週間の準備期間があった。
それは、太祖、旧約の代表的な人物たちを、一人一人、思い出すというものである。

こじ付けも、程がある。
それが、ローマカトリックに代表される、嘘八百であった。

そして、それを、そのまま受け継いだ、プロテスタント・・・その他、キリスト教の新興宗教である。

こういうのを、呆れるというが・・・
それは、何も、キリスト教に限ったことではない。

仏典も、イスラム教典も・・・
その他の、宗教の正典なるものも、である。

そして、彼ら、宗教愛好者たちは、事実ではなく、そこに、真実がある、云々と、事実を捻じ曲げる。

兎に角、信じることで、救われる。
兎に角、信じることで、悟る。

信じさせれば、こっちのもの・・・
皆々、騙されて、その信仰の喜びに、涙を流すのである。

皆、人間の、創作、作り上げた、諸々の、物語に酔いしれて・・・
騙される。

空海などは、それを知らない人間は、酒に酔ったようなものだと、言うが、彼こそ、信仰に酔ったものであり、詐欺師であろう。

信仰という、迷いに入り込んで、身動きが取れなくなってしまった、面々・・・
哀れである。

カトリックでは、洗礼によって、原罪が許され、神の国、天国に行く。
唾棄すべき、日本仏教の宗派は、すべて、戒名なるものを、与えて、引導を渡し、極楽へ、行くという。

この迷いは、いつまで、続くのであろうか。
霊界には、天国も、極楽も無い。
存在するのは、想念の世界である。

隣に居ても、想念が違えば、永遠に逢うことが、無い世界である。
霊学を学ぶべきである。


posted by 天山 at 06:31| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月06日

神仏は妄想である。461

イエスの系譜というものも、おかしい。

家系図が載っているのも、マタイと、ルカである。
どちらも、イエスの家系を、ヨゼフからユダヤ人の先祖まで、遡る。

このこと自体が意味不明だ。
アーマン

二つの福音書は、マリアが処女で、妊娠していると、書くのである。
つまり、聖霊によって・・・

では、ヨゼフとは、血の繋がりなく、関係ないのである。
イエスが、ヨゼフと血のつながりがないのに・・・
イエスをヨゼフの血統だというのか。

更に、肝心のマリアの系図は、載っていない。

よく解釈すれば、だから、ヨゼフの存在意義があるということになるのだが・・・
マリアとイエスは、血が繋がる。
そこで、聖霊の役割が、ヨゼフに与えられるという・・・

現代医学であれば、処女降誕も夢ではないが・・・
当時、果たして、処女が妊娠するような、技術があったか・・・
無い。

すると、神には、お出来にならないことは、無い、という、蒙昧の信仰に陥る。
つまり、迷いである。

さて、マタイ一章の系図と、ルカ三章の系図は、はっきりと、異なる。

マタイは、冒頭から系図を載せる。
ルカは、イエスが洗礼を受けた後に、載せている。

マタイの系図は、ヨゼフから、メシアである、イエスの先祖ダビデ王、更にユダヤ人の祖である、アブラハムまで辿る。

ルカは、人間の祖である、アダムまで、辿るという・・・

つまり、ルカは、イエスがユダヤ人を含めた、すべての人々に対する、メシアであることを、示すことに、力を注ぐ。

それは、ルカが書いた、使徒行伝にも、書かれている。
キリスト教に改宗した、異教徒についても、書かれているのである。

ルカは、イエスがアダムを通して、人類と繋がっていると、言いたいのである。

マタイが、アブラハムから始まり、ヨゼフまで辿る。
ルカは、その逆で、ヨゼフから、アダムに辿る。

更に問題なのは、二つの福音書の系図が、違うことである。
共に、ダビデ王からの系譜が、合致しないのである。

そこで、ルカは、マリアの系図なのか・・・
いや違う。
ルカは、ヨゼフの系図と丁寧に、嘘の上塗りをしている。

アーマンは、
ほかにも問題がある。「マタイ」の系譜は、イエスの先祖の数に重大な意義を付与しているという点で、より際立っている。
と、言う。

それは、十四代に意味を持たせて、十四代ごとに、重要な出来事が起こるというものだ。
そして、イエスも、十四代目に当たる。

ところが、それが、不首尾に終わっている。
三つ目の十四代の組が、実際には、十三代しかいないのだ。

旧約聖書と、照らし合わせて見ると良い。
マタイは、ダビデから、バビロニアによる、災禍までの十四代を立脚する上で、幾つかの名前を、すっ飛ばしているのだ。

何故か・・・
マタイの作者は、すべての世代を採用すると、十四代ごとに大事件が起きると、主張出来ないからだ。

アーマンは、その十四という数字の解説をしているが・・・
省略する。

言える事は、マタイは、アブラハムから数えて、イエスは、四十二番目に当たるはずであり、しかし、ルカからは、五十七番目になっている。

二つの福音書の系図は、全く別物なのだ。
アーマン

二つは、別々の目的があった。
マタイは、偉大なる、ユダヤの王、ダビデとのつながり、ルカは、人類全体との、つながりである。

ここでも、明らかな通り、福音書は、創作されたものであるということだ。
創作とは、創り上げるということである。

創り上げられた、お話を元に、教義を作り・・・
本当の、イエスからは、遠い遠い、お話になってしまった。

メシア、キリストにされた、イエスである。
イエスは、メシアにされたのである。

つまり、メシアは、存在しない。
イエス・キリストは、存在しない。
つまり、神の子、イエス・キリストは、存在しないのである。

ところが・・・
存在しているが如くに、説く人たちがいる。

キリスト教という、宗教、カトリック、プロテスタント、その他、諸々の、諸派の、指導者たちである。
そして、あろうことか、罪の許しという言葉まで、尾ひれはひれをつけて、イエスの救いを説くのである。

騙され者は、たまったものではない。

そうすると、旧約聖書というものも・・・
物語、神話としては、非常面白いが・・・・
更に、教訓なり、生き方なりの指導など・・・

それは、信じる物ではなく、生かすものである。
神は、妄想であるが、そこに書かれた多くの、物語、資料は、情報として、生かすものである。

私は言う。
何一つ、無駄な書き物は、無い。
それを、情報の一つして、生かすことで、生きられる、ということである。


posted by 天山 at 05:41| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月07日

神仏は妄想である。462

イエスが、何故、キリストに成っていったのか・・・
そこには、イエスの受難物語が、大きく関わる。

イエスの死と復活は、キリスト教の眼目である。

そこで、私は時々、何故、洗礼者ヨハネが、キリストにならなかったのかと、考えることがある。

イエスは、ヨハネの仲間、あるいは、ヨハネはイエスの先生だったはずである。
同じ場所で、禁欲的な修行をしていた。
ヨハネも、政治的に捕らわれた。

そして、首を落とされて死んだ。
イエスと、ヨハネの違いは、何か・・・

矢張り、イエスは、村から村へ、町から町へと、話して歩いたからか・・・
ヨハネより、目だった存在だった。

二人は、共に、ユダヤ教にありながら、ユダヤ教の指導者たちから、嫌われた。ユダヤ教の指導者たちの、地位を危うくする存在だったのか。

二人は、反ユダヤではなかったが、その行為が、反ユダヤ教に見られたようである。

その精神を、福音書のヨハネが受け継いだ・・・

つまり、ヨハネの福音書は、実に、反ユダヤ的である。
学者たちも、多くの点で、最も激しい反ユダヤ主義的福音書だと、指摘している。

最初の福音書である、マルコの描く、イエスの受難物語と、ヨハネの受難物語は、極端に違うのである。

ここで、それぞれの、受難物語を書き付けるこつは、大変なので、それを承知しているという、前提で、書く。

マルコを読むと、裁判がスムーズに進んでいる。そして、イエスは、ほとんど、何も言わない。ピラトと、イエスを訴えるユダヤ人指導者、群集が、一堂に会し、各々意見を言うのみである。

ところが、ヨハネになると、段取りから、何から何まで、様子が違う。
更に、裁判は、実に奇妙な具合に進む。

イエスは、ピラトと共に、官邸の中で、イエスを訴えたユダヤ当局と、群集は、官邸の外にいる。
ピラトは、イエスや、告発者と話をするために、官邸を出たり入ったりする。

ピラトは、官邸を、六回も出入りしている。

そして、ヨハネのイエスは、実に雄弁である。
イエスは、ピラトと、私の国は、この世に属していないと語り・・・
真理について説く為に、この世にやってきた。
神によって与えられたもの以外は、イエスがピラトに、何の権限も及ぼすことが出来ないと、言う。

そして、ピラトは、裁判の真っ最中に、イエスを鞭で打たせている。
その後、ピラトは、イエスを総督官邸から連れ出し、打ち据えられ、血にまみれ、紫のローブをまとったイエスの姿をユダヤ人に見せる。

そして、ピラトは、見よ、この男だ、と言う。
ピラトの兵士は、イエスに茨の冠をかぶせ、紫のローブを着せて、ユダヤ人の王、万歳と、嘲る。

ここで、ヨハネは、彼ら兵士の口から、真実を引き出した。
ユダヤ人の王、である。

更に、ピラトは、三度、イエスが無実であることを言う。処罰される謂れは無い、釈放すべきだと、明言する。
だが、マルコでは、一度も、イエスが無実だとは、言わないのである。

ヨハネの福音書、八章42節から44節に、
神が自分たちの父であるなら、
あなたたちはわたしを愛するはずだ。
わたしは神から出て来て、
ここにいるからである。
わたしは自分勝手に来たのではなく、
あの方が、
わたしをお遣わしになったのである。
なぜ、わたしの言うことがわからないのか。
それは、わたしの言葉を聞く耳がないからだ。
あなたたちは、
悪魔である父から出たものであって、
自分たちの父の欲望を満たしたいと
思っている。
悪魔は初めから人殺しであり、
真理を拠りどころとしていない。
彼には真理がないからである。
嘘を言うときは、本性から言っている。
彼は嘘つきであり、
嘘の生みの親だからである。

つまり、イエスは、ユダヤ人は、悪魔から出たものであると、言っているのである。
実に、反ユダヤである。

ピラトが無実を訴えるが、ユダヤ人は、殺せと叫ぶ。
そして、遂に、ピラトは、そのことから、手を引く。

イエスを殺したのは、悪魔から出た、ユダヤ人である。
ヨハネは、そのように解釈した。

これは、重大である。
ユダヤ人は、神の子ではなく、悪魔の子であるとなる。

ここに、ヨハネの意図があるのだ。

イエスをキリストとして、作り上げてゆく過程である。
ヨハネ福音書は、ヨハネ教団の考え方である。

果たして、キリスト教徒は、マルコに付くのか、マタイか、ルカか・・・
ヨハネか・・・
ところが、これらは、新約聖書の正典である。
キリスト教徒は、これらの矛盾の中で、騙されているのである。

勿論、キリスト教徒だけではない。
多くの宗教、その他の宗教的な集い・・・
皆々、騙しのテクニックを使う。


posted by 天山 at 06:16| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月14日

神仏は妄想である。463

新約聖書の記者同士の大きな違いは、四つの福音書だけではなく、使徒パウロの書簡を含む他の書にも見られる。
アーマン

パウロの書簡は、西暦50年代に書かれたもので、福音書よりも古いものである。
最古の福音書、マルコよりも、10年から15年前のことになる。

パウロの書簡、そして、福音書は、何度も言うが、イエスの実際の言動を、後世のために、記録したものではない。
彼らは、独自に、自分の神学的見解に照らして、イエスの言葉や、行いを語るのである。

つまり、創作である。

更に、パウロの書簡は、ルカの著者による、使徒言行録同様、福音書のものとは、相容れないのである。

特に、マタイとは、全く違う。
あまりにも、違い過ぎるのである。

パウロの教えの重要なテーマは、人がいかにして正しく神と向き合うことができるかということである。
アーマン

パウロは、いかに人々が、神との正しい関係を築けるか、ということに多大な関心を寄せていた。
特に、改宗させようとしていた人々にである。

マタイと、明確に違うのは、ユダヤの律法を厳守することではなく、イエスの死と復活を信じることによって、初めて神との、真っ当な関係を結ぶことが出来ると、確信していた。

であるから、マタイを読むと、大きな矛盾に突き当たる。
マタイは、律法を厳守することにより、イエスを信じて、救いを得るのだ。

これほど大きな、矛盾を抱えている新約聖書である。
どこの部分を読むかで、結果が変わるとしたら・・・
冗談ではない。

パウロは、人が神の前に正しく立つことを、義認と、称した。
特にそれは、ガラテアの信徒への手紙、ローマの信徒への手紙によって、述べられている。

ユダヤの律法に従うのではなく、イエスの、死と復活を信仰することによって、義とされるという。

これは、カトリック教会の最大の教えでもある。

勿論、多くのプロテスタントも、そうである。

アーマンは、それを理解するためには、パウロがイエスの信奉者ではなく、キリストへの信仰が神への冒涜と同じであるという、過激な考えに凝り固まっていた、そもそもの始まりから見るべきだという。

キリスト教徒を迫害していた時期から、およそ、20年後に書かれたパウロの書簡は、彼が、キリスト教信仰の、何が非難されるべきなのかということを、示していないのである。

イエスを信じる前は、信仰深いユダヤ教徒だった、パウロである。
であるから、メシアというものが、いかなるものかを、自分なりに、思い描いていたはずである。

ユダヤ教徒のメシア像は、キリスト教のそれとは、対極にあった。
彼らは、メシアが、威厳と力強さを体現し、有無を言わさず、神の地上での目的を遂行する人物であるという点で、意見が一致していた。

ところが・・・
イエスは、何者か・・・

一世紀の頃の、多くのユダヤ人は、イエスをメシアと呼べば、せせら笑うか、最悪の場合は、冒涜行為とみなしたのである。

イエスをメシアとみなすことは狂気の沙汰でしかなく、磔にされた犯罪者ほどメシアに似つかわしくない人間もいない。
アーマン

パウロも、そのように考えていた一人である。
だが・・・

パウロは、イエスの死後、イエスの幻視を見たと証言する。

この幻視を目の当たりにして、彼はイエスが死んでいないと悟る。しかし、死んでいないとはいかなることか?
アーマン

イエスに帰依する以前は黙示思想的なユダヤ教徒だったパウロは、前々からこの邪悪な時代の終末に、死者が復活することを信じていた。
アーマン

だが、イエスが、生きた姿を目撃したパウロは、イエスが死んでいないことを、知ったのである。
と・・・だが・・・

幻を見て、イエスが死んでいない・・・とは、情けない。
それこそ、奇跡話である。

結果は、
パウロは、もしイエスが神の加護を受けたメシアなら、間違った行いによってイエスが死んだはずがないと推論した。イエスは、自らの罪によって死んだはずはないのだ。それならば、どうしてあのような運命にあったのか? 他人の罪業のために死んだことは、火を見るよりも明らかではないか。エルサレム神殿の生贄のように、イエスは他の人びとの罪深さを背負って、犠牲となったのだ。
アーマン
と、いうことになった。

そして、ユダヤ教徒の、生贄は、人々の罪を帳消しするには、不十分であるからに、違いない、とのこと。

更に、律法と預言は、人間の問題を解決する神の究極的な手段であるキリストを指しているはずである。
との、こと。

ここに、主イエスの誕生がある。

兎も角も、罪、生贄など・・・
ユダヤ教とは、一体何かという、疑問が出る。

ユダヤ王国が、滅んだ時点で、ユダヤ教は、終わったのである。
しかし、宗教というもの、そんなことでは、滅しない。

その旧約の神も、消滅した。
しかし、その後の、解釈で、メシアが現れるという、誇大妄想を得た。

創作の新約聖書により、後世の人たちは、妄想全開で、イエスを、キリストとするために、情熱を傾けた。
おぞましい程の、情熱による、妄想である。

これを見ても、人間が、如何に、暇なものかということが、解る。
死ぬまでの、暇を潰すために、妄想を生きるのである。


posted by 天山 at 06:09| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月15日

神仏は妄想である。464

神は、ユダヤ人を自分の特別な民と呼び、選ばれし者たちとして、他の民から差別化する法を与えたのではなかったか? その通りだとパウロは考えた。律法と預言者は、人間の問題を解決する神の究極的な手段であるキリストを指しているはずである。

しかし、人間とは何だろう? ユダヤ教徒のみならず異教徒も含むあらゆる人間は、神の法を犯し、己の罪悪を贖うために神が求めている完璧なる生贄を捧げなかった。しかし、そうならば、異教徒もユダヤ教徒も、神の前で自分たちの罪を覆い隠し、ないしは贖うために、神の遣わしたメシアが犠牲になることを受け入れなければならないということになる。
アーマン

更に、
律法のなかで神が命じた行動規範に従っても、人びとは神との正しい関係を築けないのだろけうか? そう、築けないのだ。もし正しい関係を築けていたなら、メシアが十字架に架けられるいわれも無かったのだろう。
アーマン

従って、パウロは、ユダヤの律法を守っても、救いは無いと、判断した。
義認される、唯一の方法は、イエスの死と復活を信じること以外に、無い。と、結論付けたのである。

ガラテヤの手紙では、
ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行だけではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
と、ある。

私は、この論法によっても、不思議と、不可解を感じている。
アホ・・・である。

実に、馬鹿げている。
ユダヤ人の民族の神・・・
単に、それだけの問題である。

人類の救い・・・冗談ではない。

新約聖書の矛盾も大きな問題だが・・・
この、ユダヤ人の論法が、おかしいのである。

ここで、ある牧師の説教を紹介する。
牧師とは、プロテスタント系である。

新約聖書全体をつらぬく中心的メッセージによれば、イエスの十字架の死は、神が罪びとをゆるして救うために、その恵みを歴史の中で現実化したもうた出来事である。十字架の苦痛は、歴史的人間であるイエスが歴史の中で味わいたもうた事であるが、しかしそれは歴史を超えた永遠の領域で、神の心の中において起こった苦痛をさし示しているのである。

単に歴史の中で、たとえば抑圧された者の味方として行動したがゆえに、権力によって圧殺されたものだというように考えられるだけで終わってはならない。そのような「聖書の読み方」は深さを失っているといわざるをえない。

深さを失っているのではなく、それが、事実である。
上記の説教こそ、実に、おかしな話である。
手前勝手な屁理屈である。

罪人、許し、救い・・・
呆れる。

一体、人間をそこまで、貶めて、何が楽しいのだろう・・・
人間の存在そのものを、罪であり、許しを必要とし、救われなければならないと、考えるのは、精神が病んでいる、あるいは、狂っている証拠である。

イエスの生涯は、神の心が歴史の中で結晶したものなのである。
だって・・・

それならば何故、罪びとに対する神の愛は、イエスの十字架という出来事に結晶したのであるか。それは、罪びとが神の意志にそむいて神の意志の外に脱落しているにもかかわらず、神がなおも彼を神の愛の内に入れようとしたもうたからである。外を内に包み入れる愛は「苦もなく」できるものではなく、苦を通してのみ現実化するのである。・・・
永遠なる神の愛の心が、歴史的人間であるイエスの出来事において結晶したものである。一言でいえば、神の苦難の愛である。

ここまで来れば、もう、手当ての仕様が無いのである。

これを、信仰病という。
勿論、一人で、勝手に罪人の意識を持ち、許しを求め、そして、救いに預かるというなら、何もいう事がない。
それを、人に説く行為である。
そこに、罪がある。

ここまで、自分を痛めつけるというのは、マゾヒズムである。
そして、ユダヤ教の神は、サディストであろうか・・・

旧約聖書を通読すれば、そのようである。

この論理から出来上がる、神学というもの・・・
学問足り得ないのだが・・・

さて、パウロの理論は、キリスト教理論の元となる。
だから、ユダヤ教と対して、別宗教である、キリスト教が成り立った。

しかし、ユダヤ教が存在しなければ、キリスト教も、存在しない。

ところが・・・
マタイは、そうは問屋が卸さないと、全く逆の説である。
キリスト教神学者は、その矛盾と、闘い続けていた。
別に、キリスト教の内部のことであるから、どうでも、いいが・・・

矛盾だけの、新約聖書を読んで、信仰を深める、世界のキリスト教徒である。
実に、憐れというほかは無い。

マタイを取り入れる人は、一度、ユダヤ教徒にならなければならない。

神仏は妄想である、という、このエッセイは、私の勝手な、徒然である。
だが、神仏を奉じる者は、今一度、考えるべきである。
己一人が勝手に信じているのは、いい。

それを、人に説くのは、罪である。
罪とは、そういうものである。

イエスは、一粒の信仰があれば、山をも動かすと、仰せられた。
山を動かすほどの信仰を見せて貰いたいものである。

人をして、自虐に陥らせる行為を、罪という。


posted by 天山 at 05:36| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月16日

神仏は妄想である。465

イエスの復活についての記述ほど、福音書の間の違いが顕著なものはほかにはない。
アーマン

「捏造された聖書」でも述べたことを、今一度ここで力説しておこう。福音書のオリジナル・テキストは現存せず、現在私たちの手にあるのは、後世に作られた写本、しかも多くの場合、何世紀も後に書かれたものであるということだ。これらの写本に載っているイエスの復活劇は、てんでばらばらだ。学者は、後世の写本を手掛かりに、オリジナル・テキストに何が書かれていたのか突き止めなければならない。ときには簡単に事が進むことがあるが、議論が紛糾することもある。
アーマン

と、いうことで・・・
キリストの柩、という、本が出たことがある。
科学者が、検証して、イエスの家族の柩と、判定した、その過程を書き続けたものである。
勿論、キリスト教国では、受け容れられず、日本語に翻訳されて、少しは、衝撃的だったが、実に、納得できるものだった。

現在の福音書を、大切に、奉じている人たち・・・
キリスト教徒・・・
中でも、カトリック信者は、外典も、論外である。
更に、その他のキリスト教関係の古い書物を、簡単に偽書という。

それでは、現在の福音書は、偽書ではないのか・・・
誰も知らないのである。

ただ、教会の権威のみを、信じて、奉じるのである。

私は、数多くの、彼らが言う、偽書も読んでいる。
現在の福音書と、変わらない。
何せ・・・
共に、妄想、幻覚の書物である。

福音書の正当性を、掲げよと言っても、彼ら、キリスト教徒は、ただ、教会が正しいと言うと、述べるだけだろう。

さて、復活物語・・・
マルコの最後の12節は、オリジナル・テキストにはなく、後の時代の書記によって、加筆されたものだと、学者の意見は一致している。

オリジナル・テキストは、現在の、16章8節で終わっている。

女たちが、墓から逃げ出し、目撃したことについて、誰にも言わなかった、というところで、完結しているのである。

四つの福音書に記される、復活物語は、イエスが磔になり、埋葬された三日後に、マグダラのマリアが墓に行くが、墓が空っぽだという点について、全ての福音書が、一致している。
しかし、細部は、すべてが、違う。

ちなみに、マグダラのマリアは、イエスの妻であるというのが、キリストの柩、という本の眼目である。

ヨハネでは、マグダラのマリアであり、マタイでは、マグダラのマリアと、もう一人のマリアである。
マルコは、マグダラのマリアと、ヤコブの母マリア、そして、サロメ。
ルカでは、ガリラヤからエルサレムに来た、女たち・・・
それも、おそらくマグダラのマリアと、ヨハナ、ヤコブの母マリア、婦人たち。

マルコでは、墓の石は、脇にどけてあった。
マタイでは、一人の天使か、若い男が、女たちの前で、石を脇に、転がした。

ルカでは、二人の男。
ヨハネは、何も見なかった。

更に、マルコでは、女たちは、天使、もしくは男に、イエスがガリラヤに行くようにと、伝えよと言われた。

ルカは、イエスが、まだガリラヤにおられたころ、自分が死んでも生き返ると言ったことを、思い出すように言われる。

こうして、延々と続く、違いである。

疑問は後から後から、湧いてくる。それぞれの福音書の続きがどうなっているのか比較するには、四つの話を水平的に読めばいい。
アーマン

全ての点において、少なくとも福音書のどれか一つは、他と違っている。
アーマン

そして、ある一点では、その矛盾には、手の施しようがない。
マルコでは、女たちは、ガリラヤにいるイエスに、会いにゆくよう、弟子たちに伝えよと言われるが、恐れおののいた女たちは、誰にも一言も言わずに、話すことが無い。

マタイでは、弟子は、イエスに会うため、ガリラヤに赴くように告げられ、すぐに、その通りにする。
イエスは、そこで、彼らの前に姿を現し、最後の指示を与える。

だが、ルカでは、弟子は、ガリラヤに向うようにとは、言われない。
イエスが、ガリラヤにいる時に、復活を予告していたので、彼らは、エルサレムから離れない。

そして、ルカでは、エマオに向う、二人の弟子の前にイエスが現れる。
その日の遅く、彼らが他の者に、見たことを話した。すると、イエスが、彼ら全員の前に再び、現れる。
イエスは、彼らをエルサレムの郊外にある、ベタニアまで連れて行き、指示を与えると、天に昇って行く。

更に、ルカの続編と言われる、使徒行伝では、復活したイエスは、エルサレムを離れることを禁じて、過ぎ越しの祭りの50日目に当たるペンテコステに、彼らの上に聖霊が降りるまで、エルサレムに留まるように言ったと、書かれている。

全く、それぞれの話は、つじつまがあっていないのである。

それで、正典とは、笑わせる。
完璧に、信ずる者は、騙されているのである。

矛盾など、信じてしまえば、何のことはない。
こうして、蒙昧の福音書に、冒されて・・・
キリスト教徒の出来上がりである。

哀れというしかない。

イエスを、キリストに仕立てようとした、顛末が、福音書を通して、理解出来るのである。


posted by 天山 at 05:52| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月17日

神仏は妄想である。466

普通牧師や司祭は信徒に話したがらないが、一世紀以上前から、新約聖書のかなりの部分は、名前が記されている人々の手によるものではないことが、学者には広く知られている。もしそうなら、誰が聖書を書いたのだろう?
アーマン

私がカトリック教会に通っていた頃も、そんな話は聞いたことが無い。
更に、司祭が知っていても、話すことが無かった。
驚きである。

更に、驚くべき事は、新興のキリスト教、あるいは、聖書の解釈をする、新興宗教の開祖たちである。
よくも、まあ、本当のような、嘘を延々と書き続け、話し続けたものである。

そして、主は、仰せられた・・・と、説教するという、仰天である。

例えば、それは、マルコと名乗る者が書いた聖書には・・・ということになるのだが・・・

最も、恐ろしいのは、外典などの、その他の書物を、偽書呼ばわりする者どもである。一体、現在の聖書が、偽書ではないという、証拠などないのである。

勿論、それは、聖書にだけ言えることではない。
大乗仏典なども、偽書、妄想の書である。

さて、マタイは、イエスの弟子になる前は、徴税人であり、ヨハネは、イエスの愛しておられた弟子として、ヨハネの福音書に、登場する。

マルコは、使徒ペトロの秘書であり、ルカは、パウロの旅の同伴者である。

彼らが、福音書を書いたとする伝承は、福音書の成立後、一世紀頃からだと、考えられる。

だが、確実に、それらは、おかしい。
同じく、イエスを知る者によって書かれているのに、イエスの姿が、全く別物なのである。

マタイと、ヨハネなどは、全く統一が取れていない。

マタイには、イエスが神だとは、一言も書かれていない。
だが、ヨハネは、生まれる前から、神である。

色々あるが・・・省略する。

アーマンは、書く。
ところが、現実には、目撃者が歴史的に正確な証言をするとは限らないのだ。目撃証言を鵜呑みにできないのは、昔も今も一緒である。もし目撃証言が必ず正しいなら、法廷などいらなくなってしまう。

では、マタイとヨハネの証言が、これほど違うと、判定するのに、どうするか。

さらに、福音書はもともと匿名で書かれており、作者の誰一人として目撃者だと名乗っていない。
アーマン

つまり、そのタイトルは、後の世の人々が、勝手に、付けたのである。
誰が書いたのか、知らぬが、当時は、マタイの福音なとどは、言わなかったのである。

マタイは、三人称で書かれている。
そして、作者に関しては、何も書かれていない。

ヨハネでは、作者は、イエスの愛しておられた弟子、について、語る。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

作者が、弟子と自分自身とを、明確に、区別している。
つまり、作者は、弟子とは、別人であることを、言う。
その弟子から、情報を得たというのである。

調べてみると、この作者は、グノーシス派の影響を受けている。
はじめに、言葉があった・・・
それは、ユダヤ教の考え方ではない。

言葉は神であった。
そんな常識は、ユダヤ教には無い。

そして、マルコは、ペトロの仲間、ルカも、パウロの仲間・・・

いずれにしろ、福音記者は誰一人として目撃者ではなかったし、また彼ら自身、そうであるとは言っていない。
アーマン

使徒行伝と並び、最も古く、最良の情報を提供してくれるのは、福音書であるが・・・
それ以外では、その何十年後、何百年後に作られた、伝記が残されてある。

有名なのは、ヨハネ行伝であるが、伝記が信用にたる歴史資料と考える、歴史家はいない。

更に、福音書を書いたと言われる者たちは、つまり、イエスの弟子は、ガリラヤ地方の田舎で、身分の低い農民、漁民だった。
その日暮らしの労働者である。

教育程度・・・
全く、論外である。
文字を読めたか・・・書けたか・・・

文字を読むことが出来ても、書くことが出来ない人間が大勢いた。

ローマ帝国でも、文盲率は、90パーセントである。
おして知るべし。

使徒行伝には、ペトロとヨハネが、無学であることが、書かれている。
無学とは、文盲である。

そして、彼らは、イエスと同様、アラム語を話していた。
イエスの弟子は、文盲で、アラム語を喋る、下層階級の農民、漁民だった。

福音書の作者は高学歴で、ギリシャ語が堪能なキリスト教徒であり、おそらくパレスチナには住んでいなかった。
アーマン

全ての福音書は、ギリシャ語で、書かれたのである。

ここ、ここに至ると、神の霊感により、書かれた聖書・・・
大嘘である。

人間の作為ある、作品なのである。
イエスを、キリストに仕立て上げる、工夫が、ふんだんに施されている。

そして、その言葉の数々に、意味付けを行い、神学なるものを作り上げた、妄想全開の人々。
呆れる。


posted by 天山 at 05:55| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。