2013年11月05日

神仏は妄想である。447

世の、クリスチャン、キリスト教徒は、聖書を聖典として、受け入れている。
だが、聖典とは、何か・・・

教会、最初は、ローマカトリックが、定めたもの。
それを、プロテスタントも、使う。

しかし・・・
本当に、聖典という意味があるのか・・・
誰が、聖典として、選んだのか・・・

聖書には、多くの外典がある。
何故、聖典にならなかったのか・・・

更に、どうして、単に、教会が、選んだものを、聖典として、受け入れているのか・・・

つまり、それを問い詰めると、信仰が、揺らぐ。

仏教になると、更に、酷いのである。
それぞれの、宗派により、聖典が違うという・・・

問題の大きさからいえば、私たちが、神の啓示の言葉がどのようなものだったのか分らないことよりも、聖書に記された言葉が、神の啓示だと考えることのほうが深刻だ。加えて、神が、現在私たちの手元にある聖書を、本当に聖典として認めたかどうか、知ることもできない。正しい文書だけが聖書に収められていると、どうして言えるだろうか? 神から霊感を授けられた書など、他には存在しないと、どうして断言できるのだろうか?
アーマン

聖書が、昔から、今の状態にあったことは、無い。
事実は、どの文書を聖書に入れるかを巡り、実に長く激しい論争が、繰り広げられたのである。

そして、世界中のすべての教会が、最終的な合意に達したことは、ただの一度も無いのである。

新約聖書の、27からなる書が、聖典とされたのは、16世紀の宗教改革に対して開かれた、トリエント公会議まで、いかなる公会議によっても、承認されたことは無い。

この公会議は、旧約聖書外典を、旧約聖典から外そうとする、プロテスタントの運動に対抗して、同時に聖典に入れることを、決定した。

もし、プロテスタントが、現れなければ・・・
今も、決定した、聖書は無かった。

更に、驚くべきは、ユダヤ教の聖典である、旧約聖書を、キリスト教の聖典とする、根性である。
今なら、著作権侵害の、何物でもない。

前回も書いたが、ユダヤ人は、聖書解釈を誤っている・・・
などという、屁理屈をつけて。

ユダヤ王国が、崩壊した時点で、すでに、イスラエルの神話は終わり、その伝承も、終わったのであるが・・・

神に選ばれた民などは、この世に存在しない。

ところが、イエスを信じて受け入れる、キリスト教徒が、神から、選ばれた民となったという、屁理屈である。

その、イエスは、ユダヤ教だった。

さて、
奇妙なことに、聖典は、ある時点ではっきりと採択されることなく、誰が決を採ったわけでもないのに、出現したのだ。
と、アーマンは言う。

それは、当時、キリスト教集団が、現実的で、切羽詰った状況が、聖典の論争を激しくしていた。

要するに、教会の成立後、あまたの集団が、竹の子のように、多種多様にして、混在していたということである。

更に、それらの集団は、最も根本的な問題について、全く異なる主張を展開していたのであるから、統一など出来ないのである。

例えば、
神は何人いるのか・・・
イエスは人間か・・・
そして、神性を有するのか・・・
この物質世界は、善なのか、悪なのか・・・
救済は生きた人間に訪れるのか、肉体を脱したことによって、得られるのか・・・
イエスの死は、救済と、どのような関係にあるのか・・・

全くもって、その疑問自体が、妄想なのであるが・・・

イエスの死後、150年も経ると、我こそが、イエスと使途たちの教えを正しく継承しているという、キリスト教集団が、乱立した。

現在、教会で、聞く説教は、本当は何の根拠のないものかもしれないのである。
更に、イエスの教えとは、遥かに遠い。

イエスは、キリスト教の、開祖ではない。

ナザレのイエスは、存在するが、イエス・キリストは、存在しないのである。
後世の人たちで、その妄想により、作り上げられたもの・・・
それが、イエス・キリストであり、キリスト教である。

だから、嘘なのである。
大嘘である。

それでは、初期キリスト教集団の、それらを紹介しつつ、その嘘を丁寧に見て行くことにする。

ナザレのイエスは、ユダヤ人であり、アジア人である。
決して、白人ではない。
更に、ユダヤ教徒であり、旧約の神の契約である、メシアの出現と、神の歴史への関与を、待っていた一人である。

イエスも、信者の一人。
そして、ユダヤ教に騙されていた一人である。




posted by 天山 at 06:33| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月06日

神仏は妄想である。448

初期キリスト教会の様は、驚くべき、多様性に溢れていた。

イエスに端を発し、パウロが解釈を加え、中世の教会を経て、現在に至る・・・
そんなものではない。

イエスと、その使徒の教えを正しく継承しているという、集団は、数多存在した。

その一つに、エビオン派がある。
彼らは、改宗した、ユダヤ人の一派である。

ユダヤ人らしくあることに拘り、ヘブライ語の旧約聖書に記される、神がモーゼに与えた律法を、守った上で、イエスは、世界を救うために、神から遣わされたメシアであるとの、考え方だった。

おそらくこの一派は、「使徒言行録」に描かれているイエスの最初の信者たちに倣い、自ら進んで貧しい暮らしをしていたと思われる。
アーマン

最初の信者の精神的な後継者を称し、イエスへの信仰は、ユダヤ教との決別を意味するものではなく、ユダヤ教を、正しく理解することにあると、考えていた。
私から言うと、真っ当な、集団である。

イエスのユダヤ教徒としての、考え方を引き継いでいるのである。

彼らにとって、ユダヤ教とは、シナイ山で、神がモーゼに示したものだった。

イエスの兄弟、ヤコブや、後世のエビオン派は、イエスは、ユダヤの律法を実現すべく、ユダヤの神によって、メシアになったと、みなしていたのである。

従って、イエスに従おうとする者は、誰もが、ユダヤ教徒でなければならなかった。

異教徒が、改宗した場合は、割礼を受ける必要があると、求めていた。

しかし、パウロ違う。
彼らとは、正反対である。

パウロは、イエスは、万人の神であり、イエスを信じる異教徒は、ユダヤ教徒になる必要は無いのである。

パウロは、律法を守っても、神に正しく向き合うことは、出来ないと説く。
更に、救われることも無い。
最終的に、パウロは、この論争で勝利したが・・・

その後も、パウロに異議を唱える集団が、何世紀もの間、絶えることがなかったのである。

だから、彼らにとって、パウロは、偉大な使徒ではなく、信仰の何たるかを誤った者として、見た。

更に、エビオン派は、イエスの神性を否定していた。
彼らにとって、神は唯一神だった。

イエスは、メシアとして、神に選ばれた人間である。
彼は、処女から生まれたのではなく、ヨゼフとマリアの子で、神が息子として、認めた。
そして、人々の罪を救うため、十字架での、死を引き受けたというものである。

彼らは、新約聖書を読まなかった。
つまり、まだ、新約聖書は、書かれていなかったのである。

エビオン派が持っているのは、ヘブライ語聖書と、自分たちの考えを裏付ける聖なる書物だった。

その中には、処女懐胎が抜けた、現在の、マタイに近い、福音書が含まれていた。

マタイの福音は、聖典福音書では、最も、ユダヤ的なものである。

後に、彼らは、異端として、退けられる時期がくる。

余計なことを言えば、パウロが、最悪のキリスト教徒だった。
イエスは、パウロによって、捻じ曲げられた。
その、パウロの教えを、教義としているのが、カトリックである。

正統と言うが・・・
正統というなら、エビオン派のことであろう。

エビオン派と、対極にあったのが、マルキオン派である。
この一派は、二世紀に、小アジアで生まれた。
著名な説教家で、神学者だった、マルキオンに追従する人たちの派閥である。

マルキオンは、ローマで数年間過ごしたが、教会から追放され、小アジアへ戻り、数多くの教会を建てた。

マルキオンは、パウロを、イエスや、イエスとユダヤの律法の関係を正しく理解する、信仰深い偉大な英雄として、評価した。

つまり、モーゼによる、律法は、救いをもたらさず、イエスによる、福音こそが、それを可能にするというもの。

律法と福音を明確に、区別したのである。

更に、旧約聖書の神と、イエスの神は、別物である。
前者は、憤怒と復讐心に燃えた、審判の神であり、イエスの神は、愛と慈悲に満ちた救いの神である。

イエスの神は、イスラエル、律法とは関係なく、旧約の神から、人々を救うために、この世に介入した。神の怒りを一身に受けたイエスが、十字架で死ぬように計らうことにより、救済をもたらしたという。

イエスを信じる者は、ユダヤの神の報復を免れることが出来る。
そして、イエスは、人間ではない。
彼が肉体を持つということは、創造主の被造物となるからである。
マルキオンは、イエスは、外見上は、人間の姿をしていたが、実際には、純然たる、神性を有する存在であるとする。

イエスの信者は、イエスを理解していた、パウロにのみ、従うべきであると・・・

彼の聖典は、十通のパウロの書簡と、一種のルカの一部を使用していた。
旧約を福音書から見て、改竄されたものとの認識で、自分の聖書を作り上げた。
マルキオンの聖典は、イエスと創造主である神とのつながりを示す記述を、すべて、排除したのである。

兎も角も、こうして、キリスト教の初期は、それぞれが、それぞれで、作り上げていったものである。

人間の、迷いの様が、うかがい知れる。
正統、異端というものも、結局、為政者、政治的権力により、介入され、作り上げられるものなのである。

人間とは、愚かな者である。


posted by 天山 at 06:57| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月07日

神仏は妄想である。449

結局、事実を突き詰めて行けば、それらが、皆々、人間の妄想から、はじまったものである。
しかし、時代が下ると、それを唯一として、信じる団体、教会権威が現れる。

ローマカトリックは、その際たるものである。
更に、そのカトリックが、多くの新興宗教から、目指すべき団体として、認められるのである。

カトリックのように・・・
それが、人間の浅はかさであり、欲望である。

信者を獲得するというのも、商売のように、製品を売る、保険のように、勧誘するという、堕落に陥るのである。

一人でも、信者が多いと、上がりが多くなる。
金儲けには、最高のシステムになる。

人間の魂の、救済などという、嘘を掲げて、実は、その欲望を丸出して生きるもの、それが、宗教の姿である。

人間が、自然発露として、天地自然に畏敬し、それに手を合わせるという、自然な姿を、宗教は、打ち壊すものである。

バート・D・アーマンの、キリスト教成立の謎を解く・・・
実に、大きな、研究の成果である。

歴史的・批判的アプローチは、「正典」たる聖書が、成立した当時の形で残っていない、つまりオリジナルではないとい考えに根ざしている。
アーマン

つまり、手を加えられているのである。
それも、都合よく。

正典とは、ある意味信者にとって権威がある、一冊の書物に編纂された一連の書のことである。パウロが教会に向けて書簡を書いていたときは、聖書を書いているという意識はなかった。彼は、その時々の必要に迫られて、自分の考えや信仰や説教に基づいて、手紙を書いているつもりだった。これらの書簡がまとめられ、それに霊感が吹き込まれていると考えられるようになったのは、後世になってからのことだ。福音書についても事情は同じだ。
アーマン

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ・・・も、同じである。
であるから、それ自体をそれ自体として、読まなければ、誤読するのである。

記者の伝えたいことをほかの記者のメッセージと同一視し、新約聖書を27の書からなる書物としてではなく、一つの本として読むことに固執すると、私達は間違った解釈をしてしまう。聖書を構成する書は、異なる時代や地域の様々な状況下で、別個の問題を論じるために書かれている。記者もばらばらなら、彼らの見方、信仰、思い込み、伝統、出典もばらばらだ。そして、肝心要の事柄をめぐる見解も、一つとは限らない。
アーマン

だから、同じ事柄を扱っても、その解釈が全く違うということも、多々あるのである。

実際、新約の四つの福音書でさえ、矛盾だらけなのだ。
ところが、その矛盾を感じさせないように、教会神学・・・その他、大勢は、勝手な解釈、勝手な、思い込みで、信者を騙すのである。

思い込み・・・というのは、実に恐ろしいことで、それは、初期キリスト教から始まっている。

そして、その思い込みが、深ければ深いほど、信仰深くなるという・・・
思い込みは、別名、迷いである。
だから、迷いが、深ければ深いほど、信仰が深くなるのである。

信仰とは、迷いなのである。

知性も、理性も、感性も、超えたところのもの・・・という、アホな考え方が、支配的になるという、迷いなのである。

確かに、思い込んだ人間は、強いと言われる。
それは、火事場の馬鹿力と同じなのである。

だから、信仰にも、休息が必要で、その休息の間に、とんでもない、罪を犯したりする。
伝道師が、売春するとか・・・

独身の神父が、女性と性的関わりを持つ・・・
あるいは、少年に性的暴力を行なう・・・

日本の仏教愛好家である、僧侶は、平然として、贅沢三昧に暮らす。
その、信念も、信仰も、棚上げして、のうのうと、既得権益の上に、いるという、図である。

神仏を利用しての、放蕩三昧であるから、救いようがない。
つまり、神仏は、妄想なのである。

それを彼らは、実際に、見事に、暴露してくれている。

さて、イエスの、死に関して、福音書は、全く同じ視点で書いているのか・・・
そんなことは、有り得ない。

アーマンも、
実は福音書の間の違いはずっと深刻で根源的なのである。
と、言う。

マルコと、ルカによる、イエスの、死というものは、どのように違うのか。

更に、その解釈と、思い込み・・・

何度も言うが、イエスの死は、政治的なものである。
旧約聖書に書かれた、メシアの思想の実現などというものではない。

明らかに、政治的に殺された。
何せ、初期キリスト教は、ユダヤ人イエス一派だったが・・・

白人に乗っ取られて、白人キリスト教と相成ったのである。
勿論、それも、政治的権力による。

それほど、甘いものではない。
正しい教え、神の救いがあるから・・・ではない。
それは、人間が、勝手に、思い込んだだけである。



posted by 天山 at 06:13| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月08日

神仏は妄想である。450

マルコ福音書は、西暦65年から70年頃に書かれたことが、19世紀に突き止められた。そして、それが、最も古いものであることも。

マタイとルカは、その15年から20年後に、書かれたが、多くの部分を、マルコに依拠している。

マルコによる物語の大半が、マタイ、ルカに載っている。
三つの福音書が、一字一句まで同じ箇所が見えるのは、そのためである。

場合によっては、二つの福音書が、同じ文言を用いる場合もあるが、それは、後世の記者が、マルコの文章に手を入れたからである。

例えば、マルコとルカに、同じ物語が出て、その記述に違いがあるとすると、それは、ルカが、文章を改変し、言葉や句を削除したり、付け足したり、エピソードを丸々書換えているためである。

それでは、イエスの死について・・・

マルコを見ると、ポンショ・ピラトによって、死の宣告を受け、ローマ兵から嘲られ、暴行された挙句、磔刑に処せられるために、連衡される。
その際に、キレネのシモンが、十字架を担ぐ。
イエスは、始終無言である。兵士がイエスを磔にするが、それでも口を開かない。
イエスと共に、磔になった二人の盗賊が、イエスを侮辱した。
通りすがりの人たちも、彼を馬鹿にした。
ユダヤ人指導者も、嘲笑した。
それまで沈黙していたイエスは、瀬戸際になって、悲痛な叫びを上げた。
エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ、という、アラム語の言葉で、マルコは、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、と、訳す。
誰かが、イエスに、布に染み込ませた、ぶどう酒を飲ませようとした。
すると、イエスは、息を引き取る。

そこで、すぐに、神殿の垂れ幕が半分に避け、傍観していた百人隊長が、本当に、この人は神の子だった、と認める。

マルコは、ここで、何を伝えたかったのか・・・

彼は、神がその場におり、イエスの肉体的な苦痛を取り除いたと書くことによって、読者が安堵することを嫌った。イエスは、なぜ自分が死ななければならないのか分らないまま、激しい苦悩のうちに死んだのである。
アーマン

しかし、読者は彼の死の理由を知っている。イエスの死の直後、垂れ幕は真二つに裂け、百人隊長が信仰告白をするのだ。裂けた垂れ幕は、イエスの死によって、ユダヤ教の祭司が神殿に生贄を供えなくとも、神が人々の手の届く存在になったことを暗示している。イエスの死は贖罪をもたらしたのだ。
アーマン

そして、そのことを瞬時に悟った人間がいた。
それは、イエスを十字架にかけた、異教徒である、兵士だった。

イエスは、死を持って救済をもたらし、そのことに気付くのは、非ユダヤ教徒なのである。

このような記述は、イエスが死んだときに、「本当は」何が起きたのかと言うことについての公平無私な描写とは言えない。これは、物語形式の神学なのである。
アーマン

結論として、マルコは、キリスト教徒が迫害される現状を、理解するモデルを提示しているのである。

イエスの信者も、何故、このような苦痛や、苦悩を耐えなければならぬのかと、理解に苦しんでいた。
それを、マルコは、自信を持つように、励ますのである。

神の目的は、信者が苦痛を避けて通らずに、引き受けることによって、達成されるのだ。たとえ、こうした目的が、そのときにははっきりと分らなくても。
アーマン

このように、福音書とは、それぞれの目的に合わせて、書かれているものである。
つまり、信仰告白であり、信者のための、手引書である。

実際の、イエスが、何を考えていたのか・・・
分らない。

イエスは、ユダヤ教徒であり、そのユダヤ教の一派の指導者であった。
全人類の罪を贖う・・・
そのような、存在ではない。

それは、後世、教会が勝手に意味づけしたことであり、白人主義と合わさり、異教徒を迫害し、虐殺する教えとして、使用された。

更に、為政者は、キリスト教を有効に利用して、世界制覇を目論んだ。
宗教改革以前の、カトリック教会、その法王は、絶大な権力を有していた。
権威ではない。

後に、権威的になるが・・・

西欧では、ローマ法王が、最も強い権力を保持していたのである。

故に、法王に、破門されることは、国、国王の滅亡ともなった。
宗教が、このように政治的な力を持つことの、愚劣が、カトリック教会によって、証明されたといっても、いい。

そして、宗教改革後の、宗教戦争・・・

凄まじい程の、憎悪と虐殺が、続いた。
そこに、イエスの教えは、皆無である。

イエスを、キリストに仕立て上げて・・・
人間が、勝手な解釈をほどこし、更に、勝手な行動に至るという、愚昧。

西暦とは、イエス誕生からを言う。
そして、そのイエスを山車にして、キリスト教が起こると、西欧をはじめ、世界的に、人類虐殺の歴史が始まる。

それは、あたかも、旧約の神が、人間に憑依して、行なった悪行のようであった。
異教徒のみならず、人種差別の、差別の対象となった人種が、大量に殺され、あるいは、奴隷として、苦悩の底に沈められたのである。

キリスト教が、邪教である、ゆえんである。


posted by 天山 at 07:06| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月09日

神仏は妄想である。451

ルカの福音書の、イエスの死は、マルコとは、別物である。
つまり、ルカの解釈が違うということだ。

ルカでも、イエスは、ユダに裏切られ、ペトロに知らないと言われ、ユダヤ人指導者に拒絶され、ポンショ・ピラトによって、有罪判決を受ける。

ルカは、ピラトがガリラヤのヘロデ王に、イエスの処遇を委ねようとした話にしか触れない。
ピラトが判決を下す前に、イエスを侮辱したのは、ヘロデの兵士たちである。
これが、矛盾である。

ピラトの兵士達には、侮辱されたり、殴られたりはしないのである。
ピラトは、ローマ総督である。

ヘロデは、ガリラヤのヘロデ大王の息子である。
ここに、作為がある。

だが、先に進む。

矢張り、ルカでも、キレネのシモンという男が、イエスの十字架を背負う。
ここで、マルコとの違いは、イエスが、言葉を発することである。

イエスは、数人の女達の嘆く姿に、エルサレムの娘達、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供達のために泣け、と言う。

つまり、イエスは、自分の運命よりも、彼等を取り巻く人々の身を案じている。
更に、イエスは、冷静である。

そして、十字架に打ち付けられている間に、口を開いた。
父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。と、祈る。

更に、イエスと一緒に、十字架につけられる、二人の男と、話をする。
一人は、イエスを馬鹿にした。
しかし、もう一人は、自分たちが、罰せられることは、当然だが、この方に、罪は無いと言わせる。
その男は、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください、と言う。

それに対して、イエスは、
はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。と、言う。

この記述では、イエスは、自分に降りかかった災難やその理由について、全く困惑していない。彼は完全に平常心を保っており、状況を把握していた。自分の身に何が起きるか承知しており、その後どのようなことになるか分っていた。神の統べる天国で目覚めるのだ。そして先の罪人も、彼と共に天国に行く。「ルカ」に出てくるイエスは、「マルコ」で描かれている、最後に神に見放されたと絶望したイエス像からは程遠い。
アーマン

地上が暗くなり、神殿の垂れ幕が裂けたとき、イエスはまだ生きており、これも「マルコ」の記述と一致しない。ここでは、破れた垂れ幕は、イエスの死が贖罪をもたらさなかったことを意味している。
アーマン

イエスが死んでいないからである。

イエスの死は、ルカでは、太陽が光を失うときである。
そして、ユダヤ人に対して、神の審判が下ることを、明確に示している。

引き裂かれた幕は、神が、神殿に象徴される、ユダヤ教の宗教制度を、拒否したことを、物語る。
ここに、ルカの作為がある。

最も、重要なことは、イエスが、神に大声で、
父よ、わたしの霊を、御手にねだます。
と、言ったことである。

マルコとは、全く違う。

二つのイエスの死の描写は、強調してもしきれない。「マルコ」の記述は、迫害に苦しむ信者に希望を与え、目に見える現実がどうあれ、神が彼らを救済するために、背後から働きかけていることを知らしめる目的で書かれたという学説がある・・・
「マルコ」の描写に修正を加え、イエスが苦悩と絶望のうちに死ななかったことにしたルカの目的はなんだろうか?
アーマン

これに、更に、マタイや、ヨハネを加えると、イエスは、多重人格になる。

本当の物語というものは、無いというのが、結論である。
それぞれの、記者によって、それぞれの解釈によって、福音書が成り立っているということ。

わたしから言わせれば、皆、嘘である。
そして、皆、本当である。
事実は、一つであるが・・・
真実は、人の数ほどある。

イエスが、キリストとして、作られてゆく過程・・・
それを、福音書を通して見る事が出来る。
神の霊感に導かれて書かれたもの・・・とは、嘘である。

ユダヤ教の信者であった、イエスが、死んで、反ユダヤ教として、作り上げられたということだ。

福音書を含む全ての聖書は別個のものであり、同じことを伝えていることを前提に読まれるべきではないという点が肝心である。これらの書は、同じ話題について論じていてもその見解は決定的に違う。磔の物語を水平的に読めば合点がいくように、マルコの主張はルカのそれとは隔たりがあり、マタイの主張もヨハネのそれとは異なる。福音書を歴史的観点から読むと、個々の記者の声に耳を傾けることができ、それぞれが強調している事柄を無味乾燥なものに貶める一つの特大の福音書に集約することが無意味であることが分る。
アーマン

これこそ、冷静な聖書研究である。
さて、そこで、信仰の経典としての、聖書、福音書のあり方とは・・・
支離滅裂である。

キリスト教の神とは・・・
ヤハゥエでも、エホバでも、何でもない。
イエスが、神なのである。

それは、すべての宗教に言える。
生きていた人が、神に奉られるのである。

日本に、キリシタンが入ってきた時は、神を、ゼウス様と言った。

古典文学としての価値は、高い。
宗教の経典でなければ、何の問題も無いものである。

それを、信じるから、おかしくなる。

初期キリスト教の、典礼は、ユダヤ教の延長だった。
教会音楽、グレゴリオ聖歌・・・皆、ユダヤ教の朗誦からのものである。


posted by 天山 at 06:19| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月10日

神仏は妄想である。452

マルコ、マタイ、ルカの福音書は、共観福音書と言われる。
物語性がある。
更に、マタイとルカは、マルコを拠点として、書いている。

それゆえ、共通点が多い。
しかし、ヨハネの福音書は、別物である。

だが、多くのキリスト教徒は、それを見逃す。

受難物語を除外すると、ヨハネは、三つの福音書の物語は、見当たらないのである。

また、類似の事柄を取り上げていても、ヨハネの物語は、全く違うものになっている。

それを統一したものとして、読むという行為は、気違いじみている。
更に、福音書として、同じ位置にあることも、不思議といえば、実に不思議である。

イエス教団、ヨハネ派ということになるのである。

今、一々、共観福音書の物語を書くつもりは無い。
ただ、その共観福音書の骨子となる物語が、ヨハネには、ほとんど無いのである。

イエスが、ベトレヘムで生まれたことも、処女マリアも、洗礼を受けたことも、荒野で、誘惑されたことも、無い。

また、そこでは、神の国の到来についても、例え話も無い。
悪魔も、追い払わない。
変容の記述についても、無い。

エルサレムに到着したイエスは、神殿を清めない。
主の食事をすることもなく、最高法院で正式な裁判にかけられることもない。

それでは、ヨハネは、何を書いたのか。
特徴的なのは、その序文で、神の言について、神秘的な表現で、説明する。

神の言葉は、初め神と共にあり、それ自身が神である。神は、その言葉を通して、天地創造をしたとされる。
この言が、一人の人間として、体現されるのだ。それが、イエスである。
いや、すでに、イエス・キリストとなっている。

神の言は、血肉となったのである。
このようなことは、他の福音書には、無いのである。

更に、ヨハネの場合は、奇跡を力ではなく、「しるし」と呼ぶ。
つまり、イエスとは、何かを示す、印である。

イエスは、彼を信じる全ての人に、永遠の命を授けるために、天から遣わされた存在なのである。

ヨハネには、七つのしるしについて、書いてあるが・・・
それらは、共観福音書には、無い話である。

ただ、水面を歩く、民に食べ物を与える話は、例外的に、他の福音にも載っている。

ヨハネに出てくる、しるしの話は、水をワインに変えた、目の見えない男を癒した、ラザロを生き返らせた、である。

更に、イエスは、神の国の到来ではなく、自分自身について、語る。
自分は、何者か、何処から来て、何処へ行くのか。そして、いかに、永遠の命をもたらすことが出来るのか。

そして、特徴は、わたしは・・・である、という、表現である。

わたしは命のパンである。
わたしは世の光である。
わたしは復活と命である。

他の福音には、無い表現である。

ここで、ヨハネは、ある成熟した、イエス教団の記者が書いたと言える、前提が、明確である。

私が言いたいのは、「ヨハネ」と共観福音書は矛盾しているだけではなく、イエスの人物像がかけ離れているという点である。
アーマン

更に、アーマンは、
何世紀も前から受容されてきた正統なキリスト教教義によれば、キリストがこの世に出現したことをめぐる解釈は次のようなものである。すなわち、キリストは、父なる神と同一ではないが同等であり、神性を有する存在として先在していた。そして、処女マリアから生まれて人間になることで、「受肉」したのだという。ところが、このような教義は、どの福音書にも書かれていない。イエスが先在し、人間になった聖なる存在だと書かれているのは「ヨハネ」だけである。
と、言う。

処女懐胎は、マタイとルカだけが、言及している。

福音書の記者にとって、処女懐胎やイエスの受肉といった考えは、とても奇異なものだったわけである。
アーマン

マルコは、どちらの説も、採用していない。

初期キリスト教会では、一部のキリスト教徒にとって、マルコだけが、唯一の福音書だった。
つまり、母親が処女だったり、イエスが地上に現れる以前から、存在していたという考えは、生まれなかった。

こうして、探ると、次から次と、福音書の手口が、分ってくる。
創作される、福音書であり、創作された、聖書をマジに信じる、キリスト教徒である。
更に、信じ切ると、蒙昧に沈む。
更に、妄想に陥る。

騙されたままに、キリスト教の霊性などと、言い、祈りを唱える。
その、霊性というもの・・・何処からのものか・・・

それらも、幻想、妄想の域を出ないのである。
同じ言葉を繰り返していると、人間は、自己暗示にかかる。
その、自己暗示、つまり、信仰ということになる。

更に、神学というものから、知性、理性、感性・・・
嘘である。

単なる、思い込みである。
そして、思い込んだが最後、騙される。

ヨハネの妄想は、甚だしい。
その、黙示録である。

人間の観ているものは、その今しかない。
しかし、あたかも、それが、存在するような気持ち、感覚に陥ると・・・
信仰という、美辞麗句に陥る。

イエスを信じるとは、イエスに成りきることである。
未だかつて、イエスに成りきった者は、いない。
勿論、キリストにも・・・

ただ、精神病院には、キリストであると言う人がいるかもしれない。


posted by 天山 at 13:31| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月30日

神仏は妄想である。453

ユダヤ教の知識人であるマタイは、イエスの誕生、人生が、すべて旧約聖書の預言通りだということを、証明するのに、力を注いでいる。

それが、イザヤ書である。
ところが、マタイは、イザヤの言葉を、誤って解釈しているのである。

おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。

イザヤは、若い女が、妊娠して、男児を産むと言うが、それは、未来のメシアの誕生を言うのではなく、イザヤが生きていた時代の、近い将来に起こることを、預言しているのである。

旧約聖書がギリシャ語に翻訳される際に、若い女、という言葉は、ヘブライ語の処女に相当する。そこで、ギリシャ語の、処女に置き換えられた。

マタイは、ギリシャ語の旧約聖書を読み、イザヤ書で預言されていると、勘違いしたのである。

更に、イザヤ書には、メシアという言葉は、無い。

ルカも、処女から生まれたとみなしているが、旧約聖書の預言を引用しない。
その代わり、もっと直接的な説明をしている。

要するに、天使ガブリエルに告げられる形を取った。

聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

だが、この二人は、イエスが誕生する前から、存在したとは、言っていない。

マタイ、ルカは、生まれた瞬間から、イエスが存在を獲得したということ。

だから、永遠から存在したというヨハネとは、全く別物である。

ヨハネは、マリアが処女というより、先在する神的存在が、受肉することによって、この世に生を受けたと、説明する。

イエスの存在は、神と共にあり、神と同等の存在であり、全宇宙は、神の言を通じて、創造された。

万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。

それは、つまり、ヨハネの神学である。
そして、ヨハネの妄想である。

ヨハネは、ユダヤ教の伝統を継承する人びと同様、神の言葉それ自体が、独立した実体を持ったものだと考えていた。神の言葉は、一度発せられると神の手から離れるため、神と「共に」ある。と同時に、神が発する言葉は、神の実存の一部であるという意味で、神自身でもある。
アーマン

ユダヤ教の伝統・・・
ここまで、雁字搦めにするという、姿勢は、矢張り、砂漠の宗教である。
こうした教義を元に、虚偽のような、理屈を考えつくのである。

ヨハネによると、イエスは、この世が創造される前にあった、神聖な神の言が、人間になったとされる。

であるから、最初の福音マルコのように、突如登場する、単なるユダヤ人の預言者ではなく、神によって、受胎した女性の、妊娠の瞬間に出現した、聖なる人間でもなく、初めに神と共にあり、一時的に地上に降り、永遠の命の可能性をもたらした、神の言、そのものなのである。

だが、ヨハネは、どのように言が、この世に顕在化したのか、説明していない。

ルカは、イエスが、ある歴史上の時点で、誕生した。ヨハネは永遠から、存在した。

もうこれで、十分だろう。
福音書とは、それぞれの作者の、思い込みによって、書かれたものであり、細部を分析すればするほど、矛盾していくのである。

キリスト教の正統的教義は、処女マリアから生まれたイエスとなり、この福音書の矛盾は、流されたままである。

つまり、信者は勝手に、自分の物語を作り、キリスト教徒として、信仰の道に入り、嘘か本当かなど、問題ではなくなる。

信じてしまえば、こっちのもの・・・なのである。

もっと言えば、福音書など、どうでもいい。どちらの福音書にも書かれていない教え、というものを、信じ込むという、体たらくである。

聖書研究家、学者でなければ、ムードの信仰に浸れる訳であり、教会も、それで信者が増えて、更に金が入れば、それで、いい。
宗教団体というものは、皆々、その程度なのである。

更に、哀れなのは、宗教家である。
聖職者と呼ばれて・・・
信者よりも、深い深い、悩みと、迷いを持つ者。

第一、 嘘なのである。
説いていることが、嘘であるから、毎晩、寝るに寝られぬ・・・

永遠の命・・・
成仏・・・
悟る・・・

皆々、妄想なのである。
勘違いに浸れる人は、救われる。

教義、教えに酔うということである。
更に、自分が救われる者だとの、甚だしい思い込みは、救えないのである。

天国も、極楽も、信じるから、在る。
いつも、心に、その蜃気楼を抱いて、安心立命を得ている。

そのうちに、死ぬ。
宗教の蒙昧の中に、浸りきって、死ぬ。

天地、あめつち、に、寄せる命の、孤独である、人間の本当の姿を知らぬままに・・・
死ぬ・・・

故に、寛容もなければ、慈悲も無い、人間となる。


posted by 天山 at 06:37| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月31日

神仏は妄想である。454

最初の福音書、マルコでは、イエスは、神ではなく、自分が神だとも、主張していない。

つまり、自分を神聖な存在であり、生まれる前から、存在して、神と同等であるとは、語っていないということである。

マルコでは、
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
と、イエスは、説教をする。

実際、イエスの誕生の一世紀半ほど前に、ユダヤ教の黙示思想が形成された世界観である。

イエスの時代は、ユダヤ教の間で、広く共有されていたものである。
世が終わる・・・というのは、新興宗教の得意な言葉・・・
それと、似ている。

この、黙示的世界の到来を予言する人々は、神の民が、この世で何故、これほどの苦痛や、苦悩に苛まれるのかという、疑問に答えることに、熱心だった。

更に、邪悪な人間が苦しむのは、理解できるが、何故、正しき人間が苦しむのかという、疑問。それどころか、邪悪な人間よりも、正しい人の方が、苦しみが大きいのは、何故か。そして、どうして、それを神は放置しているのか。

その現状は、今も変わらない。

そして、今も、当時と同じように、説明される。
神や、その民に歯向かう勢力、悪魔、その手下が、この世を支配している。更に、神は、その神秘的な理由により、それらを許している。
しかし、神が、その邪悪な勢力を駆逐し、新しい王国をもたらす時代が、到来するというものだ。

苦しみを引き起こす、悪魔、悪霊は、駆逐される。
神が、至高の支配者になる。

と、マルコのイエスは、黙示的思想である。

神の国が近づいた・・・
更に、その時代が到来するのだ。
だから、悔い改めて、福音を信じよ・・・

神が時代に介入し、悪の勢力や、ローマ帝国のような、彼らが支えている王国を打倒することを、意味している。

そして、そのためには、イエスの教えを受け入れることで、来るべき、神の国に、備えるというものである。

イエスは、
はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力溢れて現れるのを見るまで死なない者がいる。
と、言う。

更に
はっきり言っておく、これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

マルコによれば、「人の子」、すなわち地上の宇宙的な審判者によってもたらされる、救いである。それが、イエスの教えに従っているか、どうかを基準で裁くという。

イエスも、新興宗教の、通俗的な教祖と、変わりない。
あるいは、頭のイカレタものである。

イエスは、「マルコ」の中で、あまり自分自身について語っていない。彼は、神や来るべき王国やいかに人びとがそれに備えるべきかということばかり説いている。自分自身を人の子と呼ぶときには、常に歪曲的な言い方をしており、決して、「私は人の子である」と明言していない。また、大司祭がメシアかどうか誓わせる終わりに近い場面まで、未来の王国の支配者として選ばれたメシアであるとも言っていない。
アーマン

マルコにとっては、神の子とは、ユダヤ教の伝統に則った、神の意思の媒介となるために、特別に選ばれた人間のことである。

イエスは、そういう人間だったと、マルコは、説明している。

教会の正典に選ばれた、福音書は、あまりの矛盾に、後々、大変な議論が起こるのであるが・・・

だから、これらから漏れた、多くの聖書外典を入れれば、支離滅裂になるだろう。

一体、キリスト教徒は、何を信じているのか・・・
私も、中学、高校と、カトリック信者だった。
だから、分るが、それは、自分のイエスを信じていたのである。

つまり、物語を自分で作り上げて、信じていた。

福音書にある、多くの矛盾も、自分で、何となく、不問にして・・・
ただ、信じるのである。

イエスが言う。
見ないで信じる者は、幸いである、という、言葉に、救いを見出して・・・

そして、信じてしまうと、疑問も、不問にしていたことも、忘れる。
本当か、嘘かも、判断せずに、ただ、単純に信じる。
それで、いいのだと、教会が言う。

と、ところで、他の宗教も、同じである。
まず、信じることでるあると・・・

そう、信じさせれば、宗教側の勝ちである。

信じさせれば、思考停止になり、兵隊になる。
どの宗教も、信じさせるべく、人を勧誘させる。
信者を兵隊にして、人を勧誘させるのである。

この恐るべき、蒙昧から抜け切れなければ、いつまでも、人間と、人類の歴史は、悪のまま続く。
何故なら、悪とは、宗教が作り上げた、観念である。

一神教の場合は、異教徒が悪である。
更に、同じ宗教でも、別宗派は、悪である。

これほど、恐ろしい、考え方があるのか・・・

宗教対立ほど、人類史に憎悪の感覚を植え付けたものは、無い。
それが、恐るべき、蒙昧であり、迷いなのである。



posted by 天山 at 05:40| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月01日

神仏は妄想である。455

歴史的批評家は、最後に書かれた福音書である「ヨハネ」が、非常に近い将来、人の子がユートピアの到来を告げるため、審判を下しに地上に降り立つことに言及していないのももっともだと考えている。「マルコ」では、イエスは、自分の世代、すなわち弟子が生きているうちに、終末がすぐにでもやって来ると予告している。おそらく西暦90年から95年ころに書かれたと思われる「ヨハネ」の時代には、前の世代の人間や弟子のほとんどはすでに死んだ後だった。要は、新しい王国が到来する前に、彼らは死んでしまったわけである。もし永遠の王国がこの地上に出現しないなら、どうすればいいのだろうか? 王国説を再解釈してしまえばいいのだ。ということで、ヨハネは王国の概念を根底から覆すことで、新たな解釈を編み出したのである。
アーマン

つまり、ヨハネは、嘘の上塗りをしたのである。

宗教の基本的、教義は、嘘の上塗りが、常套である。

マルコと、ヨハネのイエス像は、全く違う。
ヨハネでは、イエスは、ほとんど自分のことばかりを、話している。

自分は、何者か。
何処から来て、何処へ向かうか。
そして、いかにして自分が、永遠の命を与えることが出来るのか。

だが、ヨハネでは、未来の神の国について、イエスは説いていない。

「わたしは」からはじまる、決まり文句である。

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のものに行くことができない。

イエスを信じることで、救済の道が開かれるというのである。

ヨハネの作為である。
要するに、初期のイエス教団から、更に、進めて、新しいイエス教団の教えということになる。

わたしと父は一つである。
つまり、イエスは、神と同等なのである。

だがそれは、ユダヤ教徒にとっては、神への冒涜以外の何物でもない。
だから、その証拠に、彼らは、石を手に持ち、イエスの冒涜行為を、糾弾するために、殺そうとする。

更に、ヨハネでは、イエスがユダヤ人との対話で、自分が神だと、主張している箇所が多々ある。

アブラハムが生まれる前から、わたしはあると彼は言った。
アブラハムは、ユダヤ人の祖である。

更に、イエスは、燃え盛る柴の間で、モーゼの前に現れ、自分の民を解放するように、ファラオに要求せよと命じた旧約聖書の一節に、言及している。

モーゼは、神にその名を尋ねた。
すると神は、「わたしはある・・・イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ、と答えた。

従って、イエスが、わたしはある、と言ったとき、彼は聖なる名を名乗ったのである。

ヨハネのイエスは、聖なる存在として自分を語る。
更に、マルコでは、神の国の到来を説くが、ヨハネでは、それが無い。

ヨハネの、イエスの説教は、神が統べる王国が到来し、あらゆる悪が根絶されるだろうという、発想が無いのである。

その代わり、人が霊的に生まれ変わることによって、天国での永遠の命を獲得しなければならないと、訓戒している。

そこでは、この地上が神の国になるのではなく、天国と地上が、新たに、創り返られるわけではない。

イエスへの、信仰が、永遠の命を授けてくれるのだ。

ここで、永遠の命とは・・・
一体、何のための、永遠の命なのだろうか・・・

救いというのは、永遠の命を得ることなのだろうか。
ヨハネに言わせると、そういうことになる。

更に、キリスト教徒も、天国で永遠の命を生きると、信じている。

そんなことが、救いなのだろうか・・・
実に簡単なことである。

では、永遠の命など、必要ない人は、イエスを信じる必要は無い。

贖罪とか、救済とか・・・
永遠の命を得るために、必要なのか。

マルコの黙示的思想世界観は、歴史を二元論から論じる。
それも、水平的である。
ヨハネは、その水平的な二元論を、垂直的なものに、置き換えた。

だが・・・
どうしたって、作り物である。

王国が、地上に出来ると言うものと、王国は、天にあるというものと・・・

現在も、キリスト教新興宗教の中には、地上に千年王国が出来ると言う集団もある。

いずれにせよ、人間の頭で、考えられたことである。
それにしても、今時、永遠の命、云々とは・・・

人間は、生まれた時から、罪あるもので、つまり、原罪があり、そして、イエスを信じて洗礼を受けることで、罪が許され、更に、イエスを信じることで、天国で、永遠の命を得るという。

子供騙しである。
完全に、こうして、イエスが、キリストであると、作り上げられて行った過程が、見えるのである。

posted by 天山 at 08:30| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月02日

神仏は妄想である。456

なぜイエスは奇跡を行なうのだろうか? ほとんどの人は、彼が人びとを憐れみ、人びとを苦痛から開放してあげたかったからだと答えるだろう。事実、この答えは、共観福音書には当てはまる。しかし、それだけではない。共観福音書に出てくる奇跡は、待望の王国が、イエスの内部にすでに到来しつつあることを示唆しているのだ。
アーマン

アーマン氏は、学者である。
上記の奇跡について、私は、まず、このように説明したい。

今も、昔も、変わらず、人は、奇妙なこと、奇跡を好む。
特に、宗教に入信している人たちは、奇跡を信じたいし、それを、願う。

更に、現在も、宗教の月刊誌、紹介誌などに目を通すと、必ず、不思議な出来事が紹介される。

その、不思議な出来事は、別の宗教団体が出すものに載っていても、不思議ではないほど、似ている。

まず、病が治った・・・実に多く、一般的である。
だが、病が治ったが、死ななかったという、話は一つもない。

更に、何々が、解決した・・・
人生問題が、解決してゆくのである。

人は、今も昔も、奇跡が好きだということは、福音書だけの話ではない。
すべての、宗教に言える。

さて、奇跡ということが、あるのか・・・
奇跡ということが、あるとすれば、それは、神や仏が起こすものではなく、自分が起こしていることである。
自己暗示という、素晴らしい方法がある。

その自己暗示を、より強く発動させるために、何かを信じ込むという、方法も有効である。人間は、弱いものだからだ。

マルコ、ルカ、マタイの福音書には、奇跡話花盛りである。
それほど、イエスを印象付けるために、必要だったのだ。

そして、宗教の、ピンからキリまでが、その手を使う。
奇跡は、嘘である。

例えば、病が癒えても、人間は、死ぬ。
死ぬことからは、逃れられない。
信じて、いつまでも、死なない人とは、聞いたことが無い。

癌の手術をして、治ったが、すぐに、死ぬ。
医学も、奇跡のうちに入る。

更に、カトリックの司祭の中には、病も、神の与えたたもうたものとして、治療を受けない人もいる。

ここまで、自虐的になることは、ないと、思うが・・・

福音書作者は、人々を信じさせるために、奇跡を数多く書き付ける意義を感じていたのである。

ラザロという死者までも、生き返らせている。
これは、反則である。
死者を生き返らせることは、罪である。
有り得ないことだからだ。

稀に生き返る人もいることを、私は知る。
医学的に死亡が確認されたが・・・
実は、生きていた。そして、目覚めた。

福音書に書かれる奇跡を、イエスが本当に行なったならば、イエスとは、偉大な霊能者、能力者ということになる。
そして、福音者は、そのように解釈している。

奇跡があると、信じやすい。

何せ、マスコミに出る、霊能者という者が、少し先のことを、預言して当たるだけで、人々が、そこに集うのである。

生まれてきて、生きているということが、奇跡以外の、何物でもないことを、知る人は少ない。

旧約聖書から、新約聖書に流れる、奇跡物語は、その主人公、つまり、神というものが、魔物である、証拠である。

神=天地自然は、すでに奇跡を行なう。故に、それ以上の奇跡を行なわないのである。

イエスをキリストに、作り上げた人々は、魔物を作り上げたと言える。
イエスは、人間として生まれ、政治的理由により、磔にされて、死んだ。

歴史的、イエスを追えば、それは、分るものである。

更に、そのキリスト教という、宗教の成り立ちである。
イエスは、ユダヤ教徒であり、そのユダヤ教の改革を行なうために、一派を立てた。
何も、特別なことではない。

当時は、多くのイエスのような者たちが、存在していた。
イエスも、その一人である。

イエスに洗礼を授けた、洗礼者ヨハネも、その後、政治犯として捕らえられ、殺された。

ユダヤ教に、吹き荒れた、反ユダヤ主義・・・
つまり、体制批判の、ユダヤ教徒の皆々である。

もし、キリスト教が、生まれなければ、イエスは、ユダヤ教の一派として、生き残っていた可能性がある。

キリスト教の成立も、政治的権力による。
すなわち、イエスの存在がなくても、キリスト教が、出来た可能性がある。

つまり、白人の宗教である。
白人達が、持ち上げる宗教が必要だった。
その野蛮性、残忍性を、肯定する宗教と、神である。

その後の、西欧の歴史を見ればいい。

イエスも、人間の救いの救済のために、捧げられた、生贄である。
あちらは、生贄が必要な民族である。
それも、草木のようなものではなく、血にまみれた動物の死体を、捧げる生贄である。

丁度、手ごろなところに、磔された、イエスという、人間が存在した、という程度に、考えるとよい。


posted by 天山 at 03:30| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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