2013年04月09日

神仏は妄想である。407

神仏は妄想である、と言うとき、それを扱う集団を宗教と呼ぶ。
つまり、神仏は、宗教とイコールになり、そうすると、宗教は妄想であると、言い換えてもいいのである。

個人的な信仰、信仰心というものに関して、否定するものではないが・・・

ライヒは、その宗教というものの、定義についても、心理学的に言う。
宗教という言葉を聞くとわれわれは、神および超自然力を中心とする一つの組織を連想する。いいかえれば、すべての他の宗教を諒解、評価する際に、われわれは一神教をその準拠体制と考えようとするのである。したがって、仏教とか道教とか儒教とかいうような神をもたない宗教は、はたして固有の意味で宗教と呼ばれうるかどうかが疑問となる。
しかし、現代の権威主義のような、いささかも宗教と呼ばれていない世俗的な組織すら、心理学的にいえば充分宗教と名づけうるものなのである。
ライヒ

わたしがここでいう宗教とは、およそ、一つの集団に共有されそして各個人に構えの体制と献身の対象とを与える思考と行動との組織一切を意味していることを、最初にことわっておきたいと思う。
ライヒ

つまり、主義、イデオロギーに関しても、各個人に構えの体制と献身の対象を与える思考と行動・・・なのである。

共産主義、赤軍派、日教組・・・
色々ある。

その恐ろしい事実は、ライヒの、人間における自由、という書籍で語られる。

自覚や理性や想像というものは、動物的生存を特徴づけている「調和」を瓦解させてしまった。それらの出現は人間を変則となし、造化のいたずらとなしてしまった。
ライヒ

造化のいたずら・・・
これが、問題である。

人間も、動物であるが・・・
動物ではなくなったのである。
つまり、動物のように、本能に生きられなくなった。
そして、あらん限りの妄想を抱いて、生きるようになったのである。

あるいは、幻想である。

その人間の創りだしたモノ・・・
すべては、妄想であり、幻想である。

これで、話は終わり。

ところが、人間は、身体のある限り、生き続ける。生きなければならぬ。
その、生きる、拠り所として、妄想や、幻想を信じ込む。あるいは、のめり込む。そして、われを忘れる。

実際、神仏によって、救われるのではない。
自己が自己暗示によって、救われていると、するのである。

何かに依らずに生きることは、至難の業である。

であるから、国民国家というものも、幻想を創り上げる。
それが、成功すれば、国家は、成り立つ。

国家という、共同幻想によって、かろうじて、保たれる国家意識。

だが、国民が、共同幻想を持たない場合は、国家として成り立たないのである。

国家のみならず、我という意識も、である。

私は、その妄想、幻想を否定はしない。
ただ、批判するのである。
そして、批判は、芸術行為である。

批判は、芸術行為によって、許される。

哲学の弁証法というものも、芸術として成り立つから、哲学としての、意義がある。

学問の極まるところは、宗教と科学と、芸術である。
と、飛躍してみる。

この三つが、調和した時に、人間は、少しの救いを観るはずである。

人間の栄光であるはずの理性は、またかれの呪詛でもある。理性は始終人間を強いて、解決不可能の二分性を解決しようとする課題に向かわせる。
人間存在はこの点において、他のあらゆる生物とは異なるのである。人間の存在は、絶え間ない、避け難い、不均衝の状態である。
人間の生活は、その種族の生活様式をただ繰り返すことによって「過ごされて行く」ものではない。
人間は自分で生きなければならないのである。
人間は退屈し、不満を覚え、楽園を追われたと感ずることのできる、唯一の動物である。
人間とは、自分にとって自分自身の存在が、自分で解かねばならぬ問題であり、またその問題から逃れることのできない、唯一の動物である。
人間は、自然との調和を保っている人間以前の状態に帰ることはできない。
人間は、自分が自然の主となり、また自分自身の主となるまで、理性を発展させて行かねばならない。
ライヒ 改行は、私。

最後の言葉は、矢張り、ユダヤ、キリスト教に大きく影響されている。
自然の主となるとは、おこがましい。

自分自身の主になるべきではあるが・・・

楽園を追われた者という意識を持つ、唯一の動物・・・
つまり、楽園とは、自然であり、自然の中から逃れた者である。
追われたのではない。

人間が、一体、どこの楽園から、追われたというのか・・・

勿論、本能から開放されて、造化になった人間は、自ら、楽園を捨てたのである。
それが、理性である。

へんてこなものを、持った訳である。

言葉を捏ね繰り回すという、欧米の思想家は、見事に、妄想、幻想全開である。
しかし、それが、面白い。
実に、面白いのである。

理性と、知性をギリギリまで使い切るという姿勢は、上等である。


posted by 天山 at 00:28| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月10日

神仏は妄想である。408

楽園を、すなわち自然との和合を失ったので、人間は永遠のさすらい人になってしまった。人間はいっそうの前進を強いられているし、また、無限の努力をもって、その知識の空白をいろいろの解答で充たしながら、未知のものを理解して行くように強いられている。人間は自分自身に対して、自己自身とその存在の意味とを解明しなければならない。人間はこの内面的な破れを克服するためにかりたてられ、そして自己を自然から、仲間から、また自分自身から隔てている呪詛を消散させうるような「絶対者」や、他のなんらかの調和を熱望して苦悩するのである。
ライヒ

と、言いたいことは、この「絶対者」である。

一つの目的、一つの理念、あるいは神、というような、人間を超えた力への献身は、全生活過程の完成を求める、このような欲求の一つの表現なのである。
ライヒ

つまり、人間は、超越的存在を求める存在であると、言う。

それが、
宗教的欲求、すなわち構えの体制と献身の対象とを求める欲求を持たない人はいない。
ライヒ

勿論、その間に、色々と、くどくど言葉を重ねているが・・・

人間の基本的欲求には、そのような、神、あるいは、構えと、献身の対象が存在するということだ。

問題は、宗教か無宗教かではなく、どのような種類の宗教かということ、すなわち、それが人間の発展を、いわば人間特有の能力の展開を、促進させるものであるかまたはそれらを閉息させるものであるか、ということにあるのである。
ライヒ

これには、依存はない。
その通り。
人間には、簡単に言うと、拝む対象が必要なのである。

それが、宗教でも、思想でも、何でもかんでも・・・

鰯の頭も信心から・・・
あながち、間違いではない。

それが、人間の本性か・・・

構えの体制と献身の対象とを求める欲求が、人間存在の諸条件に由来するという考えは、歴史上あまねく宗教が存する、という事実によって充分実証されると思われる。
ライヒ

それも、その通りだが・・・
古代の宗教といえるものが、現在のような妄想、幻想の宗教の形だったのか・・・

宗教という言葉のなかった、古代である。
それをも、すべて宗教行為、あるいは、信仰と、言えるのか・・・
言ってもいいが、それが妄想、幻想の産物ではなかったとも、言えるのである。

この宗教という言葉も、西欧のキリスト教から、出た言葉であり、それは、キリスト教が最高の宗教であり、他のものは、いずれキリスト教に向かって行くとの、勘違いの宗教観念であった。

ただし、フロイトが、神経症と宗教との関連を、人類の集合的小児神経症と解釈したのは、面白い。

そして、ライヒも、
われわれは神経症を個人的な宗教形態であると解釈することができる。
と、言う。

更に、
神経症とは公に認められた宗教様式と抵触する、原始的宗教形態への退行であるということができるのである。
とも、言う。

面白い例を上げている。
北米インデアンはキリスト教に改宗させられたが、キリスト教以前の、古い宗教は決して、根絶されていない。キリスト教は、古い宗教の上にかぶせられためっきであるという。

現代文化の中での一神教的宗教や、またさまざまの無神論的不可知論的哲学とかいったものは、インデアンの宗教よりもいろいろの点でもっと「原始的」であり、まったくの偶像崇拝であり、そしてはるかに一神教の本質的な教説とは矛盾するような、さまざまの宗教に上にかぶせられた薄いメッキなのである。
ライヒ

その偶像崇拝の対象は、権力や、成功や市場の権威などである。
成功哲学なるものも、その一つである。

現代人をひと皮はがせば、われわれはそこに、個人化された原始的宗教形態のいくつかを発見する。
その大部分は神経症と呼ばれるものであるが、しかし同時にそれらを、それぞれの宗教的名称で呼んでもさしつかえないのである。
ライヒ

このことについては、私も同じ意見である。
深い信仰というものは、多分に神経症の状態と同じである。

ちなみに、それを取り上げてみると、その神経症は、不安増大神経症となる。

更には、自虐神経症、強迫神経症となる。

罪悪感神経症もある。

そして、宗教は、その神経症のどれか一つを、徹底して、攻撃することにより、信者を獲得するのである。

しかし、それが、相当数の人々に共有される、つまり、集団化すると、ある程度の安定感を得るのである。
それが、宗教団体の姿である。

更に、
一つの集団の共有となれば、ある種の快感を与える。
ライヒ

一つの主義は、たとえどんな不合理なものでも、ひとたび社会的な力を獲得すれば、何百万という人々は、自分がのけものにされ孤立していると感じたくないので、それを信じ込むようになるであろう。
ライヒ

中国共産党にように・・・


posted by 天山 at 00:02| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月11日

神仏は妄想である。409

エーリッヒ・フロムによると、宗教を二つに区分ける。
無神論的宗教と、有神論的宗教である。

そして、次に、権威主義的宗教と、人道主義的宗教である。

権威主義的宗教の特徴は、自分を超えた力によって、支配されるということについての認知である。
そして、更に、それを構成するものは、この力が人間を支配するゆえに、服従と礼拝とを受けるに値する、という概念である。

ここで、値するというのは、礼拝し、服従し、畏敬する理由が、神の道徳的特性や愛、その正義にあるのではなく、神が支配力を持つという点に、すなわち神が人間を支配する力を持つという、点にあることを示すからである、と、なる。

この人間を超えた力が人間に礼拝を強要する権利をもち、畏敬と服従とをささげないことが罪を構成する、ということを示している。
フロム

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教における、態度を見れば、よく解るのである。

権威主義的宗教、その宗教体験の根本要素は、人間を超越する力に服従するという点にある。
この宗教形態において、最高の善行とは、服従であり、根本の罪は、不服従である。

服従しないことが、罪とされるということは、脅しである。

一神教が、その際たるものである。

服従の行為によって、人は自分の、個人としての独立と誠実とを失うけれども、しかしそこで同時に、畏敬をおこさせる力の、いわば一部となり、その力によって守られていると感じ取るのである。
ライヒ

まさに、これでは、信仰による、不自由である。
更に、恐るべき、自己疎外である。

果たして、そこに、個人という意識が存在するのか・・・
イスラムとは、絶対帰依という意味である。
あるいは、絶対依属である。

これに捕らわれることは、人生を捨てるということになる。

更に、キリスト教などで、言われる、神の御心のままに・・・
これでは、自己そのものを、捨てる。

こうして、人生の苦悩から、逃れる、逃避するのである。
すべて、神のせいであるから・・・

救いが無いことも、神の望みであり、救われたことも、神の望みである。
つまり、自分というものを、失う。

いや、自分というものを、失わず、明確な意識によって、委ねるのである、とは、詭弁である。

その端的な言葉は、カルビン主義、神学にある。
なぜならば、もし諸君が自分にまだ何かが残っていると思うなら、それは謙遜とは呼べないからである。・・・われわれが本当に自分というものを考えようとすれば、われわれのうちの美点と考えられるような、すべてのものを完全に蔑視しなければならない。ここでいう謙遜とは、自己の悲惨と貧困とにおしつぶされた心の、偽りのない屈服をいうのである。なぜならば、これが聖書に記されている謙遜というものの変わらない姿であるからである。

何と言う、傲慢極まりない言葉か・・・

こうして、聖書という、権威において、実に蒙昧な神学的議論を展開するのである。

ライヒは、これこそ、権威主義的宗教の本質とまで言う。

権威主義的宗教においては、神は力と権力との象徴であり、神は無上の力をもつゆえに至高であり、それに比べると人間はまったく無力である。
ライヒ

更に、そこに宿るのは、自虐性である。
そして、心的成長を妨げるもの、のみである。

ライヒは、また、世俗的な権威主義的宗教も、同じ原理に従うという。
世俗的な・・・とは・・・
指導者、国民の父、国家、民族、社会主義者たちの祖国などが、礼拝の対象となる。

更に言えば、巨大になった、新興宗教にも、いえるのである。

そこでは、
個人の生活は無意味となり、人間の価値は、自分自身の価値と強さを否定するところにある。
ライヒ

共産、社会主義の国々を見ても解るだろう。

恐ろしい、蒙昧であり、まさに、妄想である。

権威主義的宗教はしばしば、現実の人間の現実の生活とはほとんど関係ない、抽象的な遊離した理想を要請する。
ライヒ

もっと、恐ろしいのが、
「死後の生活」とか「人類の将来」とかという理想のために、今ここに生きている人々の生活と幸福とが犠牲に供されることもある。
との、ライヒの言葉である。

これぞ、洗脳である。
そして、そこに居る人たちは、その洗脳のままに、我が人生を捨てる。そして、捨ててよしとするのである。

生まれて、生きている意味が無い。
とは、考えないのである。

信仰の蒙昧と、宗教、神仏の妄想に執り付かれ、更に、我を捨てることをよしとする、浮ついた人生を生きるのである。

ところが、本人が、それに気付くことがないという、不幸である。

極端な例は、ジハード、テロ行為も、神が登場するというもの。
聖戦というが、戦いに、聖なるものは無い。

キリスト教、イスラム教が、得意とする、言葉である。


posted by 天山 at 06:08| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月12日

神仏は妄想である。410

人道主義的宗教は人間と人間の力とに集中する。
ライヒ

だが、権威主義的宗教も、建前は、人道主義を掲げている。
ここが、問題である。

人間は理性の力を発展させて、自分自身を、他の人たちとの関係を、そして、宇宙における自己の位置を、諒解すべきである。
ライヒ

そして、その種の宗教の、
宗教体験というものは、一切物との一致という体験であるが、それは、思想と愛とによって会得されるような、世界との関係に基礎をおいた体験である。
と、言う。

人道主義的宗教の、最も素晴らしいことは、人間の目的が、最大の無力さを知ることではなく、最大の力を達成することであるということだ。

美徳は服従ではなく、自己実現である。
ライヒ

人道主義的宗教が有神論的である場合にも、神は、人間が自己の生活の中に実現しようとする、人間自身の力の象徴ではあるが、人間を制圧する力をもった権力支配の象徴ではないのである。
ライヒ

ここで、ライヒは、宗教団体を指定しない。
ただ、それらの人たちを、言う。

例えば、初期の仏教である。
そして、イザヤ、イエス、ソクラテス、スピノザ、神秘主義、フランス革命の理性宗教・・・

特に、最も良い例として、初期の仏教、つまり、仏陀を言う。
そこでは、仏陀は、偉大な教師であり、人間存在の真理を悟った、覚者である。

そして、仏陀は、超自然的な力ではなく、理性の名において、語る。

かれは、自分が最初の発見者であったにすぎないその真理を、各自がみずからの理性をもちいて悟れ、とあらゆる人々に呼びかける。
ライヒ

だが、その後、仏陀滅後は、その理性の語りかけが、ずたずたにされ、更には、とんでもない妄想に堕落した。
特に、大乗以降になると、それは初期仏教の姿も無い。

仏教の教えに従えば、人は自分の制限を悟らなければならぬ一方、また自分のうちにある力をも自覚しなければならない。涅槃とは、完全な覚者が到達しうる心の状態であるが、それは無力と服従との状態ではなく、反対に、人間がもっている最高の力を発揮させた状態である。
ライヒ

そのような、人道主義的宗教の仏教が、権威主義的宗教と成り果てたのは、何故か・・・

集団となり、組織を作り、その管理に専心することで、権威主義と成り果てたのである。
権威主義には、また、階級主義が、起こる。

仏法僧に、帰依するという・・・
僧は、人間である。
三つの中に、僧を入れたという、愚昧である。

仏法と、僧とが、同じ位置にある。
そのように、置いたという方が、相応しい。

ライヒは、キリスト教の背景を持つ。
そこで、ライヒは、旧約聖書が、権威主義的宗教精神で書かれていることを指摘するのである。

そこに描かれている神の像は、随意に人間を創り、また意のままにこれを滅ぼすことができる、族長主義制度社会の絶対的支配者の姿を示している。
ライヒ

アダムと、イブの物語において、人間の罪が何であるかを、明確にした。
それは、神の命令に対する、背反である。

それは不服従であって、決して知識の実を食うという行為そのもののうちに含まれる罪ではない。かえって、後に宗教が発展した時には、善悪を知ることは人間が追求すべき基本的な善行となったのである。
ライヒ

この物語は、また、神の動機がどこにあるかをも、明らかにした。
それは、神が、自分の優越した役割を保とうとしたためであり、神と等しくなろうとする人間の要求に対して、ねたみ深い不安を感じたのである。

明らかに、これは、人間の書いたものであり、その書いた人間が、族長主義の支配力を背景に書いたものであることが、よくよく解るというものである。

更に、神の名を利用して、我が思いのままに、人々を従わせるという、実に悪質なものである。

いずれ、旧約聖書の背景と、その成り立ちについて書く用意があるので、そこで、再び取り上げることにする。

ユダヤ、キリスト、イスラム教の、基本的な経典になる、旧約聖書であるから、その後の、それぞれの宗教を見れば、どのように展開していったのかが、よく解るのである。

権威と、支配により、信者を制圧するというものである。

それに、嬉々として、信仰している人たちの、心境は、思い込み以外の何物でもない。
更に、自己暗示である。

そこに、最も大切な、人間の理性という、かけらも無いのである。

信じる者は、騙されるので、騙されたままに、死ぬ。

そして、勿論、天国などという、空間は無い。
教会という建物の上空に、漂うのが一般的である。
そこを、天国だと、信じているのも、哀れなことである。

超越した神という存在を創り出したのは、人間である。


posted by 天山 at 05:53| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月13日

神仏は妄想である。411

神と人間との関係の決定的な転換は、洪水の物語に見られる。
ライヒ

それは、神が、人間の悪の、地において大いなるを見た時、地の上に人を造った事を悔いて、心憂えた。神が言う。造った人間を地の面より、払い去らせる・・・人より、獣、這う物、空の鳥に至るまで、滅ぼす・・・われはこれを造ったことを、悔いる・・・

とても、権威的、支配的である。
神話としてならば、納得するが・・・

これを、事実だと信ずると・・・

ライヒが言う。
しかしここでは、神が自分で造ったものを亡ぼす権利をもつということは、何の問題にもなっていない。神はかれらを造ったのであり、かれらは神の所有物である。
この本文は人間の悪を「冒涜」と定義するが、しかし人間ばかりではなく、動物や植物までも亡ぼそうとする決断は、何か特別の犯罪に相応した判決ではなく、自分のなした事柄がうまく行かなかったということについての、神の怒りに充ちた後悔によって引き起こされたことを示している。

全知全能の神・・・
嘘である。

全く、人間らしい・・・
人間より、悪い・・・

その中で、唯一、ノアに恵みを与えた。
その家族とすべての種類の動物の代表とともに洪水を免れた。

人間の滅亡とノアの救いとはかくまでも神の専断の行為である。
ライヒ

神は強力な族長のように、欲するままをなすことができた。
ライヒ

つまり、聖書を書いた者が、族長主義であったということだ。

そして、洪水後、神と人間の関係は、根本的に変化する。
それは、契約である。

その契約に、神は、再び洪水は起こさない。地を亡ぼす洪水は、起こさないという。
神は、亡ぼさないという、義務を負う。
そして、人間は、殺すなかれという、聖書における、最初の、最も基本的な戒めに縛られる。

と、突然の変更である。
散々、その神は、人殺しをしてきたのである。

神は生命の尊重という自ら犯すことのできない一つの原理にしばられる。もし人がこの原理を犯す場合には、神はこれを罰しうる。しかし人もまた、神に違反があればこれを難詰しうるのである。
ライヒ

神と、人間との新しい関係は、ソドム、ゴモラのためになしたアブラハムの弁護に明らかに、現れる。

アブラハムは、神に対して、それはかの原理に違反すると、難詰するのである。

楽園追放の物語とこの論弁とでは甚だしく異なっている。前者では人間は善悪を知ることを禁ぜられ、そして神に対する人間の位置は、従順かしからずんば罪深い不服従かにつきる。しかし後者においては、人間は善悪を知る知識をもって、正義の名において神を難詰し、そして神は譲歩しなければならない。
ライヒ

ライヒは、権威主義と、人道主義という、二つの区分けにより、考えている。
だが、ここまででも、充分に説得力がある。

聖書の物語における権威主義的要素についてのこの簡単な分析でさえ、ユダヤ的キリスト教の根底に二つの原理が、すなわち権威主義的なものと、人道主義的なものとが並存することを示すのである。
ライヒ

そして、そのとらかが、優勢になるに従って、それらの宗教の中に、それぞれ異なる傾向があらわれるという。

ユダヤ、キリスト教時代、つまり、キリスト教初期の時代は、人道的要素が大きかった。

矢張り、仏教の初期も、キリスト教の初期も、人道的要素が大きいのである。

それは、イエスの説教の精神からも、明瞭である。
仏陀も、然り。

神の国は、汝らのうちにあり・・・
そのイエスの言葉は、まさに、人道的である。

とても、簡単明瞭な表現である。

それでは、何処から、キリスト教が権威主義的宗教と化したのか・・・
キリスト教の歴史を見ると解るが・・・
今は、その問題ではない、

それは、ローマ帝国を支配する者たちの宗教になった後である。
そして、白人の宗教になってからだ。

勿論、絶えず、権威主義と、人道主義が、争っていたことは、事実である。

それはカトリックと、異教徒集団との争いであり、プロテスタント主義の内部における、様々な宗派間の争いである。

そして、その中で、両宗教、カトリック、プロテスタント共に、神秘主義思考のうちに、最も強力な表現の一つを見出したと、ライヒは、言う。

これは、とても、重大なことである。

神秘家たちには人間の力、人間の神への類似という体験が、また人間が神を要求するのと同じ程度に神は人を要求するという観念が、深く浸透していた。かれらは人間が神にかたどって造られたという言葉を、神と人間との根本的一致という意味に諒解した。恐れと服従ではなく、愛と人間自身の力の主張とが、神秘主義的体験の根底である。神は人間を制圧する力の象徴ではなく、人間自身の力の象徴である。
ライヒ

実に、有意義な分析である。

神学を超えた、神秘主義的体験により、神を押し上げたのである。
つまり、人間によって創られた、神というものに、新しい光を投じたのである。

人間自身の力の、象徴として、神の力が存在する。
それは、人間の潜在意識のことである。

この、分析により、より明確に、神仏が妄想である、という、私のこのエッセイのテーマが生きる。


posted by 天山 at 00:09| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月14日

神仏は妄想である。412

人道主義的宗教においては、神は人間のより高い自己の像であり、人間の可能的な姿の、また人間がなるべき姿の象徴であるが、権威主義的宗教においては、神は本来人間のものであった理性や愛の唯一の所有者となる。
ライヒ

権威主義的宗教では、神が完全なものになればなるほど、人間は不完全なものになるのである。

人間は、すべての能力を奪われるのが、権威主義的宗教である。

ライヒは、
かれのもつ一さいの力は神に向って投射されてしまっている。この投射の機制は、マゾヒズム的屈従的な性格をもつ人間関係のうちに見出される機制とまったく同一である。
そこでは、一人の人が他の一人の畏敬し、かれは自分の力と切望とを、この他の一人に付与する。
これは、人々が、もっとも非人間的な組織の指導者たちにさえ、超人的叡智と仁とを付与するのと同一の機制である。
と、言う。

ここに、神仏は妄想である、のテーマがある。

上記のうちから、出でくるものは、必然的に、罪意識であり、神の憐れみと恵みによってのみ、初めて人間として、成り立つという、蒙昧なのである。

そして、それは、策略である。
神仏は妄想であるから、その策略は、それを作り上げた、人間の策略である。

ローマ帝国の場合は、明確に解るが・・・
その他の場合は、朧である。

どんな宗教を取り上げても、それが、存在する。
指導者、あるいは、教祖・・・
それらが、策略家である。

更には、既成の宗教を利用して、新しい宗教を創り上げて、信者、会員を増やす。

宗教にも、時代性、時代精神がある。
それに合わせて、創作するのである。

宗教というより、商売と言う方が、的を得ている場合、多々あり。

それらは、神仏などは、単なる名目であるから、どうでもいいことである。

それよりも、伝統的宗教による、人間疎外の方が、恐ろしい。

罪の意識といえば、キリスト教の原罪、浄土教の罪人意識・・・
そこから益々、深みにはまる。

親鸞の教えが、キリスト教に似るというのは、愛と慈悲の問題ではなく、罪人の意識の問題である。

親鸞の場合は、自虐ともいえるほどの、罪の意識を持つ。また、持たせる。つまり、人間を、罪意識に、縛り付けることで、生きるということの、本質に迫るが如くの感覚を抱かせる。

つまり、罪人という、酔いである。
この、酔いは、酒の酔いよりも、強いのである。

特に、思想的に、罪意識に浸らせるのを、得意とする。

カトリック、プロテスタント共に、まず初めに、罪意識ありから、始まる。

罪意識を強く持つことにより、早く、信仰の蒙昧に陥らせることが出来るからである。

神を讃美すればするほどかれは空虚になる。空虚になればなるほどかれは罪深さを感じる。罪の深さを感じれば感ずるほど神を讃美するーーーそして、それだけ自己を再獲得することができなくなるのである。
ライヒ

ライヒの分析によれば、世俗的権威と結びつくと、その宗教は、必然的に権威主義的になるのである。

本当の意味での人間の堕落とは、人間の自己自身からの分離であり、権力への屈従であり、たとえ神礼拝という変装のものにおいてさえも人間が自己自身に叛くことである。
ライヒ

ここで、人間の無意識に至る。

かれら、つまり、信仰する者は、
人間のうちにあるもっとも不合理な性向の一つである、弱小と無力とを欲する無意識の欲求にかりたてられているのだ、ということが明らかになる。
かれらは自分たちの生活の中心を、自分たちが支配できないと感ずるさまざまの力に置き換え、かくて自由と個人的責任とから逃れようとするのである。
と、ライヒは言う。

更に、このマゾヒズム的傾向と支配的傾向とが、権威主義的性格構成の二面を形づくっていることに気付くのである。
ライヒ

それらは、単に、権威主義的宗教のみならず、独裁的政治、国家、指導者等々に見られる。

それは、自分自身の意志を断念することであり、指導者、国家への、屈従を深遠な報いとして体験することになる。

つまり、幻想、妄想の世界である。

我というものを、掴みかね、我というものを、神仏に預けるという悲しみ。
神仏は妄想でありながら、それに託すという、悲しみ。

神学とか、教義などが、現れて、更にそれが、酷くなった。
すべて、人間が、創り上げたものである。

日本の、古道を思い出して欲しい。
何一つ、創り上げたものは無い。
ただ、森羅万象を、仰いで、その内に生かされて生きていると感じた、古代の人は、全うな意識を持ち、妄想に耽ることが無かった。

馬鹿馬鹿しいことに、宗教学なるものまでも興して、堕落したのである。
経典、聖典・・・その他諸々・・・

それらが、どのようにして、出来上がったのか・・・
皆々、人を支配するための、方法として、創り上げられたものである。

人間とは、あはれ、であり、弱いものであり、愚かな者である。


posted by 天山 at 05:34| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月15日

神仏は妄想である。413

礼拝をすることはマゾヒズム的であり、また自己破壊的である。一は謙遜でありながら、他は自己凌辱である。
ライヒ

初期の宗教が、人道的であるが、結果として、宗教は、権威主義的に陥ってゆく。
どんなに崇高な、理想を語っても、結果は、権威主義的になるのである。

プロテスタント・・・
カトリックの権威的儀式、更に、司祭職等々の、権威から離れて、一人一人が、神へ向うなどと理想を語ったが、結局は、集団になり、そこで指導者が現れ、更に牧師に代表される、組織を作ると、それは、もう立派な権威主義的宗教になる。

そうすると、上記のライヒの言葉に、象徴される、信仰に陥る。
更に恐ろしいのは、それに気付かないということである。

それでは、日本仏教を見る。
彼らも、最初は、人道的だった。
しかし、今は、その見る影も無い。

空海、最澄は、最初から、権威主義的である。
しかし、鎌倉仏教は、違う。
だが、今、それらの宗派も、権威主義的宗教に成り果てた。

そんな中で、深い信仰を持つというのは、単なる、洗脳であり、僧たちは、世俗にまみれているが、説教の上では、聖人面をしている。

自分もよく解らない、教義を、まことしやかに、語るという・・・

その、読経には、何の意味も無く、更に、その内容にも、意味は無い。
その、変節は、仏陀滅後から起こっていた。

イスラムなどは、類を見ない、権威主義的宗教と化した。
というより、最初から、そのようだった。

その権威が、宗派によって、ぶつかるがゆえに、宗派の争いが絶えない。

ここで、宗教の功罪を挙げたいが・・・
先を進む。

神学的思考のもう一つの誤謬は、この依存に関する誤謬に密接に関係している。すなわちそれは、人間が自分を超えた何ものかと関係を結ぼうとする、消し去り難い切望をもっていることが明白である限り、人間を超えた外的な力または存在があるはずだ、という推論である。
ライヒ

推論である・・・
推論なのである。

だれかを愛したいというわれわれの強烈な欲求が、決して互いに愛し合っている人がいることを証明しないのと同じである。それが証明するのは結局、そのような欲求があり、またおそらくそのような能力がある、ということだけである。
ライヒ

このライヒの、宗教に対する、精神分析は、一つの意義ある試みである。
そして、まさに、理性による、宗教に対する理解を促すのである。

確かに、精神分析家の中には、いかなる思想体系に対しても懐疑的となり、その思想自体の論理的な準拠体制の範囲でそれを考察せずに、それらすべてを、様々の衝動、欲望の理屈づけに過ぎないと解釈する者も多い。

更に、宗教的、哲学的陳述に対して懐疑的であり、それらを、真面目に取り上げるべきではないという、強迫的思考だと、考える者もいる。
だが、それは、精神分析の立場からも、誤謬であると、ライヒは言う。

批判的分析を遂行するためには、理性を道具として、その合理化の機制を暴いてきたのである。

精神分析は人間の思考過程の性質の曖昧さを証明した。
ライヒ

そして、
実のところ、合理化の力であること虚構の理性は、もっとも不分明な人間現象の一つである。もしそれをよく知っていないと、人間の合理化の努力は、明らかに妄想状態と同じに見える。
妄想症の人はきわめて知的でありうるのであり、妄想状態になっている孤立した一部分を除けば、その生活のあらゆる場面に、きわめてよく理性を利用する。
と、言う。

それには、多くの説明が必要であろう・・・
が、一々、取り上げている暇がない。

一つだけ言えば、共産主義者と話し合うと、共産主義者は、理性と一致して、矛盾しないのだということを証明する機能しか、持たないのである。
つまり、その閉鎖性の思想体系に留まるのであり、話し合いは、進まない。

それは、宗教にも、大いにいえることである。

その教義の、理性と矛盾しない証明をする機能により、閉鎖的になる。
一人勝手の、亡者である。

あるいは、知的ではない人は、単なる人間関係の、緩く甘い関係で、攻めてくるのみ。
それを、布教と言ったり、折伏すると言ったりする。

全く、無根拠のものを、人に勧めるという行為は、詐欺行為であるが・・・
詐欺性を感じないのである。

無いものを、有るものの如く説明して、詐欺が成り立つ。

神仏も、そのようである。
信じる人に、妄想であると、言い聞かせても、せん無いことである。
騙されている人は、その騙しに気付くまで、待つしかない。

そして、死ぬまで、騙され続けるということは、見ての通りである。

ライヒの、精神分析と宗教に、私が余計な説明をつけて、書いている。
何故なら、精神分析に関して、知識の無い人がいるからである。

そして、これも、ライヒに対する批判である。
評価でもある。

まもなく、ライヒを終わる。
もう少し、見ることにする。

posted by 天山 at 00:21| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月10日

神仏は妄想である。414

観念というものは、その人の性格構造に基づいている時のみ強力なのである。いかなる観念もその感情母胎より強くはない。そこで、宗教に関する精神分析的操作は、思想体系の背後にある人間の現実を理解することを目ざすのである。それは、一つの思想体系が、それの描く感情の表出であるのか、または反対の態度を隠す合理化であるのかを究明する。さらにそれは、その思想体系が強固な感情母胎から成長したものであるのか、または空虚な意見なのか、をただすのである。
ライヒ

反対の態度を隠す合理化・・・
多くの宗教の、教学、教義に関しては、合理化を目指している。
そのようにして、教化するのである。

もし一部が全体の関係から孤立してしまっているならば、どんな勝手な誤った解釈でも可能になってしまう。

多くの新興宗教が、そのようである。

どのようにでも、誤魔化すことが出来るのである。

耳障りの良い言葉の数々を上げていれば、信者や会員は、満足するし、また、その言葉に酔うのである。

勿論、それらは、妄想の産物である。

新興宗教も、100年ほどを経ると、次第に衰退する運命にある。
それは、時代、時代性、時代精神から、離れるからである。

勿論、ライヒは、そのようなことを言うのではない。
一つの体系を全体として吟味して行く過程においては、その体系のもつ不条理、あるいは矛盾を注意することは重要である。
これらの不条理や矛盾は通常、意識的に主張されている意見と、その底にある感情との相違を示すものなのである。
たとえば、人が救われるか、あるいは永遠の滅びに定められるかということは、その人が生まれる前に、そしてその人が自己の運命を変える力をもたないうちに決定されているのだ、というカルビンの予定説は、神の愛についての観念とはめちゃくちゃに矛盾する。
ライヒ 改行は、私。

実は、この予定説は、多くの宗教に見られる。
キリスト教のみか、仏教の宗派・・・

人類の何十万人が救われる・・・
などと言う、馬鹿な集団もある。

更に、前世により、決定されている・・・

精神分析家は、ある思想体系を告白する個人や集団の、人格構成や性格構成を究明しなければならない。かれは表明される意見と性格構成との一致をただし、また、あらわれる行動の綿密な規定から結論される、無意識の要因という言葉で思想体系を説明するであろう。
ライヒ

要するに、理屈である。
だが、ライヒは、理屈ではなく、その本人の行動が問題だという。

つまり、イエスの言葉に集約される。
その果実によって、かれらを知るべし・・・

長々と、ライヒという、精神分析家は語るが、最も端的に言えば、イエスのその言葉に、集約されることを言うのである。

思想体系云々ではない。

もし精神分析家が宗教の諸教理の背後にある人間の現実と、また同一の宗教の底にある対立的な人間の態度とを見出すであろう。
ライヒ

その背後にある、人間の現実・・・

宗教の肯定は、ライヒの中では、
その信者たちの成長と力と自由と幸福とに貢献するならば、われわれはそこに愛の果実を知ることができる。もしそれが人間の可能性の萎縮とか不孝とか生産力の減退とかを招来するならば、教義が何を伝えようとしても、それらは愛から生まれ出たものではない。
と、言う。

こうして、精神分析家であり、思想家である、ライヒの限界がある。

ライヒの愛とは・・・
仏陀、イザヤ、キリスト、ソクラテス、スピノザの教説の底ある人間の現実は、本質的に同一のものである。
ライヒ

キリスト教の概念である、愛、という言葉を持って、対処するのである。

愛という言葉の、妄想性を知らないようである。

勿論、充分に説得力のある、宗教体験のある種の型の分析をしている。

人道主義的宗教の勧めであるが・・・
宗教は、権威主義的なのである。

そして、権威の無い宗教というものは、存在しない。

信じ込ませるという行為は、権威以外の何物でもない。

ただし、そこに置いて、成長と力と自由と幸福に貢献するならば・・・
幻想でも、妄想でも、信じてよいのである。

夢を見ながら、成長し、力を得て、自由を得て、幸福になるならば・・・

言葉というものの、神経症的分析を求める。

すでに、人間は、言葉を使用するという、神経症を病んでいるのである。
そんな中で、精神分析による、宗教の云々と、語り続けても、権威主義的な人には、充分に理解し、そして、理解したことを誇れるが・・・
その程度のことである。

ここで言う、思想体系とは、宗教の思想体系のことであろうか・・・
そうだろう。
しかし、宗教の思想体系などというものは、思想体系などに値しないのである。

戯言である。
語れる程度の神、仏ならば、信じる必要があるのか・・・

更に思想体系を創り上げる程度の、教理、教義ならば、せん無いことである。
何せ、人間の頭が、捏ね繰り回したものである。

posted by 天山 at 00:16| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月11日

神仏は妄想である。415

さて、聖書は、世界最大のベストセラーと言われる。
その聖書は、旧約聖書と、新約聖書から成る。

ユダヤ教は、旧約聖書が、聖典であり、キリスト教は、両者共に、聖典となる。

著作権から言えば、キリスト教は、ユダヤ教の聖典を無断で使用し続けているということになる。

そして、この聖典と言われる、聖書だが、一体、誰が、何を基準に聖典としたのか・・・
解らないのである。

聖典になるべく、血みどろの戦いがあったと、言われる。

旧約聖書は、39巻、新約聖書は、27巻である。
だが、それ以外にも、外典と呼ばれるもの、偽書と言われるもの、多数ある。

その外典とか、偽書というものも、一体誰が決めたのか・・・

更に、聖典として、現在も信じられているという根拠は・・・
全く、無い。

それは、権威主義の象徴である、教会が決めたのである。

新約聖書の一部の手紙を省いて、それ以外のものは、作者不詳の口伝文学、あるいは、伝承の類に属するものばかりである。

教会は、神の霊感を受けて書かれたものという、実に、不案内なことを言うが・・・
その根拠は無いのである。

更に、教会は、聖書を、神の啓示の書と、呼んでいる。

人間の勝手な解釈である。

ユダヤ教が、現在の旧約聖書を、はじめて聖典として採用したのは、紀元前75年の、エルサレムの会議においてである。

だが、その際に、多くの文書が、外典として排除され、あるいは消滅した。

キリスト教の場合は、そもそもはじめから、聖典として書かれた文書などあるはずが無い。当時の宗教は、ユダヤ教のみである。

だが、イエスを巡る周辺に、福音文学が成立し、それがやがて、ユダヤ教に対して、明確に自己主張するように、成長した。
が、旧約聖書をそのまま、取り入れたという、驚きである。

それは、イエスを旧約の契約にある、救世主という位置づけを行ったせいである。

キリスト教の聖典結集の歴史は、紀元2世紀から4世紀に及ぶ。

ここにも、正統、異端の、血みどろの戦いがある。
であるから、言う。
外典、偽書などという者は、事実を知らない。

教会権力が決定した、聖典をそのまま、受け容れているのである。

その中に、取り入れられなかった、文書を簡単に、偽書という神経である。
それは、洗脳であろう。
更に、批判精神も無い。

権威主義的宗教支持の最たるものである。
それらを、総称して、信者、信徒という。

実際、聖書結集以前の聖書というか、文書の時代がある。
その、文書の時代を、どう解釈するのか・・・

人間は、生きるために、何かを求め続けた。
そして、求めざるを得ない状況下にあった。

特に、その風土性である。
砂漠の宗教・・・

人間の、望みが、主よ・・・と、呼ばせた時代があった。
主が、存在するという、望みにかけた人たちがいたのである。

聖書の起源とは・・・
それを説くことで、その神を妄想し続けた人間の、悲しさが見えてくる。

更に、一筋ではいかない、聖書成立の問題である。
それは、支配者、為政者の思惑である。

夢のような物語ではない。
厳しい現実を生きるために、必要とした、幻想の文書の数々。

ユダヤ教、つまり、イスラエルの宗教の起源は何か。
そして、その神に選ばれたという、イスラエルが建国したが、滅びた。
それは、どういうことか。

すでに、昔昔のお話になっているのである。
聖書の時代は、過ぎたのである。
そして、神は、存在しなかった。

神の言葉として、存在したのは、人間の幻想であり、妄想であり、幻聴だった。

旧約聖書の、モーゼ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、そして、ヨシュア記を加えて、六書。
ここに、旧約聖書の根本主題がある。

新約聖書でいえば、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、四つの福音書に当たる。

その聖書に大きな影響を与えた神話がある。
オリエント神話である。

旧約聖書のお話を、分析してゆくと、そこには、オリエント神話と更に、風土の問題が見えてくる。

聖書は、神の啓示ではない。
神話なのである。
神話であればこそ、理解可能になる。

そこで、混乱するのは、歴史的事実が混じるからだ。
撹乱させるのである。

また、それが聖書の魅力ともなる。

posted by 天山 at 00:03| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月12日

神仏は妄想である。416

創世記、出エジプト記は、雄大なイスラエル民族の起源を語る一大叙事詩といえる。

その、天地創造、人間誕生、失楽園は、神話、物語である。
そして、ノアの洪水。
その後、アブラハムの遍歴から、モーゼのエジプト脱出を境に、イスラエル十二部族宗教連合の結成に向かっている。

神話から、歴史へと展開する。

神話の部分と、歴史の部分を区分けて考えなければならないのだが・・・
一緒くたにして、神話も、歴史とするところから、おかしくなる。
つまり、権威主義的宗教に陥る。

結果、古代イスラエル王国誕生の基盤となる、物語である。
これを、人類全体の物語として、語るのは、誤りである。

アブラハムの遍歴が、紀元前1750年頃で、モーゼのエジプト脱出が、紀元前1300年頃であり、宗教連合の結成が、紀元前1250年から1225年あたりである。

ダビデによるイスラエル統一王国の形成が、紀元前1004年であり、モーゼ五書と、ヨシャア記の六書の範囲は、千年を超す。

物語の骨子となった最古の資料が成立したのは、ソロモン王の紀元前960年代であり、それは、イスラエル王国の黄金期である。

だが、紀元前926年の、ソロモン王の死を境に、イスラエルが辿る運命は、統一王国の分裂と、崩壊である。

つまり、六書の世界の崩壊である。

黄金時代は、ソロモン一代である。

紀元前926年、イスラエルは、南北に分裂し、革命、反逆と、国力が疲弊し、大国の侵略の前に、悲惨な滅亡と、亡国の一路を辿る。

王国誕生の物語は、亡国の離散の物語となった。

これで、終わったのである。

六書の世界が終わった。
だが、今も、脈々と、聖書としてユダヤ、キリスト、イスラム教に影響を与えている。
次の、聖書の時代は、予言の世界である。

つまり、イスラエル亡国から、ユダヤ教誕生の物語の伏線となる。

そこに登場したのは、救い主、メシアを求める願いと祈りである。

紀元前420年の、亡国イスラエルは、ユダヤ教として歩み出す。
これが、問題である。
イスラエルは、滅びたのである。
ただ、宗教、イスラエル民族の宗教としての、ユダヤ教が、歩みを始めたのである。

一つの民族の宗教であるということを、強調しておく。

であるから、十二部族の実体は、無い。
更に、神との契約関係も、部族ではなく、個人の意志によるものになった。

ここで、古代イスラエルの宗教との断絶が確定する。

ここで、天地創造の神、契約の神も、退場することになるのだが・・・

つまり、連綿として続いている、民族の歴史は、崩壊したのである。
ただ、残るのは、宗教的な意味においてのみである。

不思議なことに、亡国の体験が、新しい救世主、メシアの期待に託したということ。
メシア願望が、辛うじて、イスラエル、いや、ユダヤ人を支えたのである。

であるから、過去の聖書の六書の世界との、連続性の自覚を持つに至る。

だが、救い難いことである。
もう、時は過ぎたのである。

契約の神は、何一つとして、その民族の繁栄を続けさせることがなかった。
それでは、絶望である。

新しい人間にとって、その自己同一性を保つために、そのルーツを必要不可欠とする。それが、昔昔の神との関係だった。
そして、その神の威力が失せた時に、何と、救世主、メシアという存在を想定したという、悲劇である。

更に、そのメシアは、今に至るまで、ユダヤ教には、現れていないのである。

キリスト教は、イエスを、メシアとして、承認した。いや、創り上げた。

後期ユダヤは、宗教的、政治的に、実に複雑極まりない集団になってゆく。

聖書の起源を書いた、山形孝夫氏が、
旧約聖書の六書と新約聖書の福音書、この二つの作品群の間には、実に千年に近い大きな歴史のへだたりがある。しかし、この大きなへだたりを、オリエントの神話が、みごとな一本の線に結合している。私はそれは、モーゼのエジプト脱出から、キリストの最後の晩餐にいたる連続した一本の線として描こうと思う。
と、書くのである。

粘土板に残された、オリエント神話・・・
それが、重要な役割を演じている。

聖書が、単独に、神の啓示として、書かれたものではないのである。

それは、信じる者が陥る、非常に偏見と、偏狭に満ちたものである。

そして、最も危ういのは、権威的宗教による、承認という教義、教えである。
創り上げてゆく、宗教である。

神の世界も、去ってゆく。
新しい神が、また、誕生するのである。

何故か。
人間が創り上げるからである。

posted by 天山 at 00:02| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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