2013年02月24日

タイ・ビルマ戦線

ウ号作戦、インパール作戦とは、実に無謀な計画だった。

それは、ビルマを占領していた日本軍が、防衛地域をインド東北部まで拡大する意図を持って、インド国境の要塞インパール攻略を目指したものである。

当初から、参謀本部が成功を不安視していたものである。
しかし、総指揮を執った、牟田口第十五軍司令官は、補給を軽視し、制空権が敵側にあるにも関わらず、弾薬、糧秣は敵陣から奪い取れと指示する、無謀なもの。

更に、参加した、三師団の師団長がすべて解任されるという、異常事態を生んだ。

結果は、ビルマのジャングルで、10万余の日本軍のうち、七万の死傷者を出し、戦死した三万の兵士の多くは、餓死である。

補給が途絶えた日本軍の退却は、悲惨極まりないものだった。

白骨街道、靖国街道と言われた、ビルマの道々・・・
それは、死の街道である。

中国雲南省から、ビルマ北部のカチン州を舞台にしたものから、ビルマ全域渡り、戦場と化した。

インパール作戦は、ビルマ戦線である。
そして、撤退の道は、タイへの道。
チェンマイの野戦病院を目指して、撤退した兵士の多くが、途中で斃れた。

タイ西北部は、日本兵の遺体で溢れたのである。

弓兵団インパール戦記を記した、井坂源嗣氏の文を引用する。

ビルマの野戦病院の様子である。
西に低い山々がつづき、わずかに開けた平地の道路を、今日も傷病者の群れが助け合いながら歩いている。闇の中を行軍してゆくと、やがて野戦病院の付近らしく、患者輸送の車を待つ一団が、道路近くに集まっていた。昨夜も来なかったが、今夜は来てくれるのかと待っているのだという。病舎の小屋があるのかと見回したが、暗い木立の中にはなにも見えなかった。
足元を這う二人の患者がいたので、私は声をかけた。
「どうしたんだ」
「状況が悪いので殺される。自動車が来ていませんか」
夜露にぬれながら、しばらく這ってきたのか、その兵隊は体をふせたまま苦しそうに、泥にまみれた手で顔をおおって泣いていた。いくら何でもそんなことが、病院で動けない者を殺すなんて、あるわけがないと思った。
しかし、病院を閉鎖する直前に、動けない患者を注射で死なせ、残りの者には手榴弾をくばって、自爆をすすめたというモーレ野戦病院のうわさを聞けば、本当かもしれないと、ぞっとした。それがここでも行われているのだろうか。
患者の悲憤の涙、だれにすがることもならず、死ぬ一瞬までひとり煩悶する兵士たち。彼らの胸中を思うと涙がでてくる。第一線同士の傷つき病んだ二人の戦友に、
「きっと迎えがくるよ。自分らは命令で急がなければならないが、至急もどってくるんだよ。力を落とさないでがんばれよな」
力づけたつもりだが、何もしてやれずに別れる弁解だったかも知れない。

そして、先を進む。

死骸の状態はそれぞれ異なっていたが、悪臭はおなじで、気分が悪くなる。彼らは背嚢と兵器は持たないが、軍服を着て、頭蓋骨が戦闘帽をかぶり、足の骨が靴をはく。大きな目の穴、小さい鼻の穴、白い歯のならぶ口。そのとなりでは口や目から蛆があふれ出て、地面にうごめいている。この世のものとは思えない光景がしばらくつづく。

息絶えたばかりの苦しそうな顔、憤怒の形相にはさもあろうと思い、眠るがごとき安心した顔には、われわれも心がやすまる思いがした。

だが、いったい、これらはどこまで続くのか。やぶれた襦袢の腹から、傷から落ちこぼれる蛆虫。汚れた軍服と対照的な白い蛆が、兵隊の肉を食べていた。われわれは休憩したくとも場所がない、いまさらに驚く死体の数、負け戦とはあまりにも悲惨だ。親兄弟が、妻や子が、恋人がこれを見たらどう思うだろう。

これからも果てしなくつづく戦闘に、ふるえるであろう亡き数に入る兵士たち。その独りが自分でもあるのだ。

銃床をにぎる手がしびれるほどに力が入る。死んだ兵隊も残念だろうが、生きている自分のゆくすえを思うと、無念の涙で狭い道がかすんでしまう。ビルマ鳥が不気味に鳴いて飛んでいった。
井坂源嗣

その長い道のりを、靖国の社で家族、戦友に会えると信じて疑わなかった亡き兵士たちにかわって、生き残った戦友が、靖国街道と名づけたのである。

更に、タイに続く道を、白骨街道と呼ぶ。

私は、今回、チェンマイ市内、ウァライ通りにある、ムーサン寺に出掛けた。
そこは、野戦病院跡である。

撤退の兵士たちは、この野戦病院を目指した。
だが、その寺から、ビルマ国境にかけて、広く日本兵の遺骨が散らばる。

更には、迷って、タイ北部のビルマ国境の町まで続く。

ビルマから出たが、タイの山川で死ぬ兵士たち・・・

いつしか、タイ・ビルマ戦線と呼ばれるようになる。

ここで、もう一つ、重大なことがある。
それは、日本兵だけではないということだ。

クーリーという、荷物運びで借り出された人々は、中国人、タイ人たちである。
その数は、日本兵より、多いという。
つまり、彼らも、死んだのである。

チェンマイから、西のメーホーンソーン、クン・ユアムの山中、川沿いには、日本兵やタイ人たちの遺骨が散らばる。

そこにも、一度、慰霊に出掛けているが・・・
再度、出掛けたいと思っている。

激戦地跡は、どこも同じであるが・・・
ビルマ全土を舞台にした激戦地である。

敗戦から、68年を迎える今年。
忘却の彼方に・・・しては、いけない。
彼らの死が、無駄ではなかったこと。
それは、現在に生きる者の務めである。

その意味を 問いかけて問う 花の色 亡き兵士たち 重い命を
                          天山

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2013年02月25日

タイ・ビルマ戦線2

チェンマイにて、今回の慰霊は、藤田松吉さんの建てた慰霊碑と、野戦病院跡のお寺である。

チェンマイ市内から、車で一時間ほどの郊外に、藤田松吉さんの慰霊碑がある。

藤田さんは、タイ・ビルマ戦線の生き残りである。
そして、日本に帰国せず、タイに残り、戦友の遺骨収集をはじめた。

その数、およそ800体である。
その遺骨をお祀りするため、慰霊碑、慰霊塔を建てた。

現地で結婚し、農業を始める。
そして、追悼の日々が続く。

藤田さんは、長崎出身のカトリック信者である。

遺骨収集をはじめてから、毎晩、夢を見るようになったという。
それが、戦友が出てくるものばかり。

不思議でも何でも無い。
当然のことだ。

藤田さんは、戦友の悲しみの顔に、語り掛けた。
俺は、クリスチャンだから、クリスマスの夜に、ご馳走、酒を用意して、皆を待っているよ・・・
その約束をすると、夢に現れなくなくなった。

それから、毎年、クリスマスの日は、沢山のご馳走と酒を用意して、戦友たちと飲みあったという。

そして、今もそれは、続いている。

だが、藤田さんも、亡くなった。

慰霊塔には、現在、藤田さんの遺骨だけがある。
収集した遺骨は、厚生省に渡し、今は千鳥が淵墓苑に埋葬された。

だが、霊位と、骨は別である。

矢張り、霊位は、その場に居残る人もいる。

今回で、私は三度目の訪問である。
慰霊塔は、有志の皆さんの手で、綺麗に清掃されて、更に、その周囲に囲いがあり、ベンチも用意されていた。

今回は、黙祷を主にして、最後に清め祓いの祝詞を献上する。
黙祷の前に、君が代を歌った。

更に、その土地の守り神様に、ご挨拶をした。
それは、慰霊塔の傍に流れる川の守り神でもある。
タイでは、至る所にピーの祠があるが、そこにも、昔あった。だが、今は、誰も見る人なく、祠も無い。
そこで、私は、その土地の神様にも、祈った。

最後に、辻友子代表が、クリスチャンだった、藤田さんのために、ピエ・イエスを独唱した。

その声は、響き渡り、そのまま天に昇るようだった。

最後に私は、つぶやくように、同期の桜を歌った。

名残惜しく思いつつ・・・

チェンマイの近郊には、日本兵の遺骨が散乱してある。
未だに、発見されない遺骨も多々あるのだ。

タイの人の好意で、埋葬され人たちも多い。
だが、それを行った方も、亡くなり、場所も分らない。

そして、今は、日本人全体が、彼らの存在を忘却の彼方へ追いやる。

ある、慰霊碑の場所では、こんなことを現地の人から聞いた。
日本人の観光客でも、日本人の慰霊碑に手を合わせないよ・・・
少しの軽蔑も混じる。

実に、情けない。

激戦地が観光地と化している国もある。
そこでも、大半の日本人観光客は、手を合わせることもない。

見るだけ・・・
実に、恐ろしい蒙昧である。

その時代に生まれ合わなかったということだけでも、感謝である。
平和な時代に生まれ合わせて、感謝である。

その前に、悲惨な戦争があったということ。
追悼すること。
そして、慰霊すること。

黙祷するだけで、いいのである。

霊位は、乾いている。
だから、人の思いは、尊い。
思いが、霊位を潤すのである。

霊とは、思念であり、想念である。
だから、こちらも、思念と、想念で、対処する。

一般的に使われる言葉、成仏していただくのである。

私は、亡くなられた方々を、命、みこと、とお呼びして、祈る。
そして、日本へ、ふるさとへ、靖国へと、帰って頂く。

異国で命を落とした無念さは、計り知れない。
更には、餓死とは・・・

命、みこと上がりし給えと、祈る。

posted by 天山 at 06:20| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月26日

タイ・ビルマ戦線3

藤田松吉さんの、慰霊塔を終えて、再度、チェンマイ市内に戻る。
次は、野戦病院跡の、お寺、ムーサン寺である。

そこも、一度訪れていた。
しかし、その際は、兵士たちの遺留品の展示されている部屋に入ることが出来なかった。

今回は、その担当の僧侶がいて、部屋を開けて貰い、中に入ることが出来た。

慰霊の前に、その遺留品を清め祓いする。

その際に、私たちが入った部屋に、木立が騒ぐ音がしていたと、辻代表が言う。
私は、兎に角、夢中だったので、その音を知らない。

そして、清め祓いが終わると、その音がピタット止んだという。

写真を撮っていたK氏も、夢中で聞えていなかったという。

活動履歴に、その多くの写真を掲載する予定です。

さて、そこに展示されていた、古い写真を一枚一枚と見つめて、当時の様子を確認した。

もうすでに、皆さん、亡くなられている。
遺留品と写真と・・・
何とも、胸に迫るものがある。

ようやく、部屋を出て、慰霊碑の前で、慰霊の儀を行う。
そこでも、黙祷を主にした。

日の丸を掲げて、清め祓いをする。
すべては、音霊、おとたま、による。

日中の日差しは、強い。
照り付ける太陽の光。

実際、チェンマイの朝夕は、涼しいのだが・・・
気温差が、10度以上ある。
私たちには、涼しいが、現地の人たちは、寒いらしく、マフラーまで使う。

夜は、エアコンが必要ないほど、涼しいのである。

ムーサン寺すべてを、野戦病院として使用していた日本軍である。
ここまで、辿りつけば、何とか生きられただろう。

更に、タイの人たちは、親切だった。

だが、そこから、西にかけては、多くの日本兵の遺骨が散乱している。今、現在も遺骨が出てくる。
その辺りには、個人的に、慰霊碑を建てた人もいる。

一度、私も、その西の方面にある、色々な慰霊碑を廻った。

その付近一帯に、日本兵の遺骨があると聞いて、複雑な心境になったことを、思い出す。
もう、どこに埋められてあるのか、分らない。

だから、その地で、慰霊するしか方法はない。

チェンマイから、タイ北西部は、慰霊の巡礼地である。
チェンマイを訪れる日本人は、多い。
せめて、目についた、日本兵の慰霊碑に対しては、黙祷をして欲しいと思う。

日本人は、先祖供養を大切にする、国民性だが・・・
戦没者も、先祖である。

名も知られずに、散華した日本兵に、哀悼の意を示して欲しい。
特別なことは、する必要はない。
ただ、黙祷でいい。

自国の兵士の慰霊碑に、手を合わせることもないと、現地の人に言われることは、恥である。

更に、その人間性までも、疑われる。

日本の国歌には、戦争賛美はない。
世界でも、稀な国である。

多くの国の、国歌は、おおよそ、戦争賛美であり、国のために戦うことを推奨する歌が多い。

君が代は・・・
その君は、天皇のことではない。
天皇ならば、大君となる。

その君は、愛する人、大切にする人の意味である。
その君が、長く生きるようにとの、願いを込めて歌う。

いつまでも、幸せで生き続けて欲しいという、意味である。

それに対して、天皇陛下は、何も仰せにならない。
それで、いいからである。

天皇は、国と、国民のために、祈られる存在であるから、国民が幸せならば、何もいうことがない。

そして、国民に、不孝が起こった場合は、わが身の不徳と自重し、更には、国民のために祈る。
そのような、存在を、日本民族は、天皇として、主としての、存在を置いた。
それは、民族の知恵である。

天皇の下に、国民は、一致するという、共同幻想を築き上げたのである。

国家は、共同幻想により、成り立つ。
その共同幻想が、いかに、素晴らしいか・・・
それが、日本である。

美しい神話を持つ国、日本である。
そして、その神話から、天皇という、共同幻想を生んだ。

八百万の神たち・・・
まさに、日本の面目である。


posted by 天山 at 05:54| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月27日

タイ・ビルマ戦線4

チェンマイに出掛けてから、七年目になる。
もう、何度、出掛けたことか。

最初の年は、忘れもしない、タイ国王在位60年記念の年である。
何処へ行っても、テレビが、その行事を写していた。

タイ国民は、プーミボン国王をとても大切にしている。
国王不敬は犯罪になる。それほど国民に広く支持されている。

タイに騒乱が起きた場合は、国民が国王の出番を待つほどである。

だが、国王は、民主化を求めて、出来る限り政治的発言をしないようになった。

タクシン首相時代のクーデターの際も、ただ、国軍の報告を受けて、了承したのみ。

だが、両陣営も、国王に対する敬意は、変わらない。

タイ国民は、現在の国王が長く生きて欲しいと、真に願っている。
つまり、次の国王に期待出来ないからである。
現在、最も王室で人気があるのが、長女である、王女である。

皇太子は、人気がない。
次女は、王室から離脱した。王位継承権を放棄したのだ。

さて、その年、タイには、二度出掛けた。
二度目が、チェンマイだった。
そのチェンマイが、慰霊の活動の主たるものになるとは、思ってもいなかった。

同行のコータが、チェンマイに語学留学したからである。
三ヶ月の期間。

その三ヶ月の期間に、出会ったのが、現在まで慰霊のお世話をして下さる、K氏である。
現地法人のタイ・ビルマ戦線の慰霊碑の管理、慰霊に訪れる人たちの、お世話をしていた。

当初は、日本語教師を勤めていた方である。

篤い情熱のある方で、多くの人から信頼されていた。
また、その性格も、竹のような人である。

馬鹿な長期滞在の日本人たちとも、付き合っていたから、相当な苦労をしていたはずである。
馬鹿な日本人は、タイ社会に溶け込めず、タイ人を見下す、東南アジアの人たちを見下ろす人たちである。

また、日本人同士で集うのみ。
日本社会に適応出来ずに、タイに住む人たちである。
要するに、あぶれ者である。

勿論、立派な日本人たちもいるが・・・

K氏には、最初から今に至るまで、お世話になっている。
更に、奥様が、カレン族の方で、その縁からカレン村に支援することにもなった。

タイに住むカレン族は、ビルマから、およそ200年前に渡って来た、白カレンと言われる。現在のミャンマーに住むカレン族は、赤カレンと言われる。
その違いは、争いを好まないのが、白カレンで、ビルマの少数民族迫害から逃れた人たちである。

更に、K氏のお陰で、チェンマイにて、チャリティコンサートを開催することにもなった。
東日本大震災の年から、コンサートは中止している。

更に、バンカート学校でも、コンサートを開催した。
それも、すべてK氏のお陰である。

矢張り、人間関係に突き当たる。
誰と会うのか・・・
それが、問題だ。

今回は、更に、現地で活動、活躍する日本人企業家、滞在者とのインタビューの人選も、引き受けて下さった。
本当に、何から何までの、お世話をして下さるのである。

現在は、五歳の娘さんと、三人の家族である。
そして、瞑想法を実践し、日本の大学の通信教育で、心理学を学ぶ。

ご自身は、とても感情家というが、怒ったところを見たことがない。
感情家は、私のことである。

いや、私の場合は、激情型である。

今回も、ご自身で車を運転されて、私たちを、案内して下さった。

支援活動にも、いつも同行されて、援助して下さるのである。
英語、タイ語も堪能であるから、とても助かる。

今回の支援先は、ビルマ系難民の皆さんである。
その支援団体の事務所を前回知ることが出来て、メーソートのメータオクリニックの分院、そして、居住者の皆さんに支援することが出来た。

分院の裏に、建物があり、そこに難民の皆さんが住むということも、知った。
だから、分院に出掛けて、すべての衣類を手渡すことが出来た。

更に、分院の責任者の方とも、お会いできたのである。

支援団体は、アメリカが主体の団体である。
そこから、難民の情報を得ることが出来る。

日本のボランティア団体もチェンマイには、数多く存在するが・・・
私は、知らない。

だが、現在は、活動を停止、休止している団体が多い。
特に、東日本大震災後は、寄付が少なく、組織を維持するのが大変になっているのだ。

自国の人を助けるのは、最も優先されるべきであるが・・・
グローバル化した時代の、ボランティアは、自国も他国も無いと考える。
出来ることを、出来る所でするのである。

テラの会も、日本での支援活動も、当初から始めている。
ただし、それを公表するのを躊躇った。

それは、テラの会の最初の主旨が、戦没者の追悼慰霊だからである。
そこから、出掛ける国の、助けを必要とする人たちに、衣服を持参することになった。
そして、国内支援も出来ることのみするという、意識である。

追悼慰霊が、無ければ、衣服支援、学習支援、食料支援も無かったのである。


posted by 天山 at 06:53| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月28日

タイ・ビルマ戦線5

今回は、二度目の支援になる。

メータオクリニックの分院である。
それらをはじめ、難民のための様々な活動をしている、マップ・ファンデーションという、グループの事務所に立ち寄る。

その事務所でも、仕事に就けない人たちを支援する、様々なことを行っている。
場所の案内を頼む。

一人の青年がバイクで、先を行くことになった。
チェンマイの町は、複雑な道々。
特に、中心街から離れると、もう駄目。
全然分らなくなる。

10分程で、見覚えのある建物が・・・
電話連絡が行ったのか、待っている人たち。

車を乗り入れ、玄関の前につける。

最初は、居住区にもと思い、すべての荷物を下ろさなかった。
日の丸を持って、挨拶する。

英語のよく出来る女の子が、私たちの相手をする。
はじめての顔である。
それに、前回の人が見当たらない。

とても、入れ替わりが激しいようである。

まず、入院患者さんたちにと・・・
手渡しを始める。

そうしていると、その代表の方が、こちらに向かっていると、教えてくれた。

タオル類は、すぐに皆に行き渡った。
そして、衣類である。
一人一人に・・・

そうしていると、女の子が、後ろの建物に住む人たちにも・・・
と言う。
えっ・・・
患者さん以外の人たちも・・・
そうです・・・

それならと、すべての支援物資を車から下ろす。

それでは、皆さんに必要なものを選り分けて、取ってください・・・

すると、別の女の子が、ベビー用品を集め始めた。
赤ん坊が沢山いることが、分る。

彼らは、互いに助け合う。
助け合わなければ、生きられない。

自分のものは遠慮していた女性が、人のために、色々と集めている。
辻代表が、その方に合うものを探すと、恥ずかしそうに、受け取る。

何と、70キロ以上の支援物資が、あっという間に、消えた。

ただ、中に差し上げるべきではない物、つまり色あせや、シミのあるものがあったので、それは、空いたバックに入れた。
皆、点検していたが、中にはその時に、ああこれは駄目というものがある。

子供用が、五点ほどである。
それと、男の子用の帽子である。
その施設には、男の子が二人だけで、充分に渡すことが出来た。

それをホテルに持ち帰り、ベッドメークのおばさんに見せると、欲しいと言われて、すべて差し上げたので、結果は、すべて無くなったのである。
それでも、いいとおばさんが言うので、差し上げた。

その際の写真撮影は、すべてK氏が行ってくれた。
更に、通訳も。

そのうちに、一人の女性が来た。
代表の方である。
私に、是非、名刺を下さいと、K氏が伝えてくれた。

私は、英語の出来る女の子と、代表に、名刺を差し出した。
代表の方は、お礼の手紙を書きたいと言う。

その場でも、お礼の言葉を頂いたが、更に、手紙を下さるというのである。

次回からは、直接、こちらに向かってもいいようだと、思った。
衣類支援は、私たちのみである。

難民の皆さんは、仕事をするが、タイ人がしない仕事をする。
そして、得るお金も、タイ人の半分以下である。
とても、生活することが、大変である。

住む場所も、小屋などを建てて暮らしていたが、この支援団体が住まいを用意したのだ。だが、それでも、生活費は自分で賄う。


食べなければ死ぬ。だから、食費に掛ける。
衣類は、後回しである。

安いといっても、お金が必要である。
更に、衣類は長く持つ。そして、小さくなったら、別の人に上げる。
着回す人もいる。

兎に角、役立つのである。
日本では、大量に捨てられる衣類。
だが、ここでは大変貴重なものになる。

皆さんと、写真を撮ることにした。
とても楽しそうだ。

そして、何度も、さようなら・・・
タイ語、英語、日本語が混じる。
私は、大きな声で言う。

また、来ますよ・・・

posted by 天山 at 04:40| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

タイ・ビルマ戦線6

私に取って、チェンマイの街とは、旧市街地が中心となる。

そこは、お堀に囲まれて、四角になっている。
その周りを道が走る。

旧市街地には、沢山の門があるが、一番好きな門は、ターペー門である。
最初から、その付近のホテル、ゲストハウスを利用した。

現在も、旧市街地にあるホテルを利用する。

そこから出ても、精々、ナイトバザールある、東の方角である。
それだけでも、十分に用が足せるし、不足は無い。

一度だけ、旧市街地の北西に出て、食事をしたことがあるだけ。

レストランなどには、ほとんど入らない。
現地の人たちが利用する、食堂、あるいは、屋台で麺を食べるか、屋台で買って、ホテルの部屋で食べる。

今回は、円安のせいで、一万円が、3000バーツという具合で、大変、きつかった。
だから、現地の値段の三倍掛けると、円になる。

麺一杯、30バーツだと、90円である。

今回は、屋台のおじさんが売る、もち米の焼いたものと、豚、鶏肉の串焼きが、驚くほど安く、毎日利用した。

辻代表も、もち米の焼いたものを美味しいと、毎日食べていた。

それは、あらかじめ、四角にしてあったり、丸くしてあって、軽く焼いてある。それを注文すると、更に焼いて、その屋台独特の味付けをする。

なんと、一つ、5バーツである。15円。
それを二つほど食べると、充分。

串焼きを買っても、全部で、25バーツ程度である。
この安さがたまらなく、いい。

これが、レストランに入ると、0が一つ多くなる。

朝食のアメリカンセットだと、120バーツで、360円。
高いのである、私には。

朝は、タイ風お粥にした。
60バーツ。180円。

地元の食堂で、焼き飯を食べると、50バーツ程度。150円。

バンコクに出て、アラブ料理店で、カレーを頼むと、それはそれは、高い料金になる。
二人で二つのカレーを頼み、ナンを二つ注文すると、400バーツ程度で、1200円。

だが、和食の店は、まだ高いのである。
だから、和食の店には行かない。
行く必要が無い。
日本に帰れば、いくらでも、食べられる。

チェンマイにも、和食の店があるが、価格は、それぞれ、まちまち。
一番安い店で、ラーメンを食べると、70バーツ。210円。

具が多いので、得した気分になるのが、いい。
チャーシュー麺のようなラーメン。

観光ではないので、買い物はしない。
お土産など買ったことも無い。

自分用の、蝋燭や線香などを買う程度。
それも、市場に行く。

更に、果物も、市場で買う。
屋台売りの果物も、安いが・・・
行く度に、清潔になっている、屋台の果物売りである。

チェンマイ市内と、バンコクの下町なら、10バーツで買える。
だが、バンコクも、街中だと、20バーツ。

更に、今回は、バンコクでも、道を一本別にすると、10バーツだったのが、皆々、20バーツに値上がりしていた。

30円と60円では、大きな差である。

ということで、滞在費は、ホテル代が一番多い。
だが・・・
チェンマイのホテルでも、古いホテルを選ぶと、一泊700バーツ程度。2100円。

古いホテルは、設備が壊れていたり、シャワーの出が悪かったりするが、部屋が広いので、それが、いい。

あるいは、ゲストハウスの一番高い部屋で、500バーツ程度。
今回は、次に泊まるゲストハウスを探した。

どんどんと、ゲストハウスが出来ていた。
新しい部屋である。
エアコン付の部屋は、皆、温シャワーがついている。
矢張り、シャワーは温かいのがいい。

出掛けた季節は、丁度、朝夕が涼しい時期で、昼間だけエアコンが必要だった。
昼間の温度は、30度程度である。
真夏である。

バンコクは、もっと、暑い。
外が暑くて、部屋がエアコンで涼しいというのは、本当に贅沢な気分を味わえる。
と、とても単純なことで、楽しいのである。

だが、日本に帰国して、愕然とする。
真冬である。
いきなり、叩かれるような気分になった。

最低気温1度、最高が6度だと・・・
天国から、地獄である。


posted by 天山 at 04:51| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月02日

タイ・ビルマ戦線7

チェンマイでは、日本人の方、三名にお話を伺った。
取材であるが、堅苦しくなくである。

一人は、女性の経営者である。アパレルの会社を起業した方。
そして、長期滞在の男性の方。
更に、男性の起業家である。

タイで仕事をする、意味と意義・・・
タイで暮らすことの、大変さ、楽しさ・・・

タイ人との関わり方・・・
仕事の場面で、日常の場面で・・・

沢山の、お話を伺った。

その様子は、辻代表が、ルポすることになっている。

その中で、私が驚いたタイ社会の、差別の話である。
タイでは、お金持ちが偉いということになっているという。

それが、子供の生活にまでも、浸透している。
いじめの原因も、そこからのもの。

タイには、固定資産税というものか無い。
ゆえに、土地を持つ者は、実に有利である。
それだけで、金持ちになれる。

そして、格差である。
それが、甚だしいのである。

持つ者と、持たない者・・・
それで、対応も変わる。

タイ人の一般的対応についても、学んだ。
タイ人は、怒られる、怒鳴られることを、極端に嫌う。
注意する場合は、一人の時である。

大勢の前で、叱る時は、辞めてもいいと判断した時だと言う。

タイ人を、動かすには、こちらが助けを求めるように、頼むこと。
それだけ、タイ人は、人を助けることを、喜ぶ。

それは、仕事関係でも同じで、従業員に対する対応も、それが主だという。

現在の滞在者は、日本の食料品が簡単に手に入る時代になった。
日本米も、タイで作っているという。

タイでは、醤油から、酒まで作る会社がある。
私も、タイでは、その醤油を使う。

日本人滞在者の色々な団体がある。
しかし、そこが面倒なところでもある。
日本社会の、悪い面が出るらしい。

更には、日本人同士の差別化である。

その団体に入り、しばらくすると、人の悪口、噂話が主になるという。
日本の社会に適応出来ずに、タイに来た人は、そこでも適応出来ないのである。

そのうちに、グループを作る。あるいは、孤立してゆく。

日本人社会そのままである。

更に、金を持つ者の発言権が強くなるという。
タイの風土を受け継ぐようだ。

更に、タイ人を見下す人たち。
人に依存する人たち。

何から何まで、人に依存する人がいるという。
タイ語が出来ない人が、特に、そうである。

二人の起業家の方は、順調に業績を伸ばしている。
男性の起業家は、日本向けの小物を造る会社を興して、成功している。

タイで、起業するのは、それなりの手続きが必要である。
外国人が働くことを、タイ政府は、とても敏感である。
だから、それをしっかりして置かなければ、後々、面倒なことになるのである。

外国人が、道端で物売りをしても、警察が来て、取り調べられ、しっかりとした申請をしていなければ、即座に罰せられる。

成功している人の中には、そのような脇の甘い人たちもいるという。

ただ、彼らは、タイ人を雇い、雇用を生み出しているから、タイにも貢献しているのである。
今年から、最低賃金の法律が出来て、給料をしっかり払うことになった。

アルバイトは、9000バーツほどから、高い人は、3万5千バーツである。
日本円にして、10万の給料は、タイでは、高級取りである。

そうすると、会社を辞めない。
それで、一家の生活を支えることが出来る。
仕事に専念出来る。

今回の取材は、丸一日を費やしたもので、実に充実していた。

ただ、60歳を過ぎた、長期滞在の方は、最後に矢張り、日本に帰りたいと言う。
だが、子供も出来て、帰るに帰られない状況である。

最後は、日本で死にたいようだった。
それが、印象的だ。

三人は、それぞれ、慰霊とボランティア活動も、主催している。
チェンマイにいると、自然に、タイ・ビルマ戦線のことが、分ってくるようだった。

その方たちから、日本を見ると・・・
日本人は、意識を変えるべきだという。
つまり、世界は、動いているということだ。

日本の社会にいては、見えないものを、彼らは、見ているのである。


posted by 天山 at 00:36| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月03日

タイ・ビルマ戦線8

今回の旅は、チェンマイにおける、追悼慰霊と支援活動である。

先にも言ったように、七年目の最初である。
基本に戻る。

追悼慰霊があり、支援活動がある。

当初、英霊と言えば、批判が出来ない、云々・・・という、書き込みなどもあったが・・・
その本人が、何を言いたいのか、分らない。

勿論、私の心の内の問題であるから、世の中に公表する必要は無い。
ただ、支援物資を集めるという意味で、テラの会として、告知することにした。

更に、それでは、追悼の意味として、その戦地のこと、そこから、戦記を紹介することにした。
それが、旅日記である。

過去に行われた、戦争の状態を鑑みる。
それによって、平和を希求する。
祈る。

その行為を、公表する。
知らせることが、大切なことと、思う。

その間に、大震災が起こった。
大変な被害を出した。

そして、慰霊と言う言葉が、普通に使われるようになった。

犠牲になった人たちを、思う。
慰霊である。

死者は、心の内にだけ宿るものではない。
確実に、存在する。

無、という状態に帰するものではない。

宇宙の外に出る以外は、無、という状態にはならないのである。

つまり、死者も存在する。
ただし、それをあえて、議論しない。

その存在があるから、慰霊の意義がある。

更に、その存在が浮遊しているのであれば、なお更に、心に掛けるべきである。

行き場を無くした霊位は、不孝である。
行くべきところに、赴くべきである。

それには、生きる者の力が必要である。

霊位とは、想念であり、思念であるから、生きている者の、想念、思念により、祈りにより、慰め励ますのである。

戦没者の追悼慰霊をはじめてから、その行為に霊的なことが数度、数えるほどあったが・・・それ以上のことはない。

幽霊を見ることもない。
その必要が無いからである。
すでに、その存在を認知しているからだ。

これからも続く、追悼慰霊であるが、旅日記には、戦地と、戦禍を伝えるべく、書き続ける。

国のために、命を賭けるという時代もあるということだ。
そして、そういう時代にしないための、方法も考えることが出来る。

平和は、いつも、創り出すものである。
黙っていては、平和を創りだせないのである。

それを、追悼慰霊によって、知る。

死ぬまで、旅は続く。
そう考えている。

支援活動は、年を取ると、出来なくなるかもしれないが・・・
慰霊は、死ぬまで続けられる。

少しばかり、自分を励ますこともある。
つまり、それは健康である。
健康でさえあれば・・・
いつまでも、続けられるのである。

誰も、逃れられない年齢というもの。
生きる歳月は、どうしようもないもの。
そして、その歳月の内に、亀井勝一郎の言う、
歳月は慈悲を生ず
を、感じたいと思う。

慈悲とは、あはれ、である。

いや、あはれ、の心象風景の、一つである。

もののあはれ
私は、これを生きるべく、生きているらしい。

日本人として・・・
私が日本人である、とは、旅の間に、いつも考えさせられた。

何処から・・・
ジャパンです・・・

私のふるさとは、日本なのである。
そして、多くの戦没者も、日本が、ふるさとである。
その、ふるさとのために、死ぬ覚悟があるか・・・

私は、自分に、いつも問い掛ける。

posted by 天山 at 05:53| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月04日

タイ・ビルマ戦線9

歌詠み

遥かなる 慰霊の旅を 続けては
国を思うと 心養い

風が吹く やさしく吹くよ 風が吹く
異国に眠る 大和魂

やしの木に 思い託して 眠るのは
若き兵士の 大和魂

作詞
カレン村の兵士
チェンマイに向う途中で迷い、カレン村で息絶えた、若き兵士を思う

たった一人で歩いてた
そこが何処かも分らない
力が尽きて横たえた
カレンの村の丘の下

見上げる空は故郷へ
続いていると涙を流す
ここが最期と諦めて
静かに息を引き取った

カレンの古老に見出され
彼はその地に埋められた
時を経ても伝える人
日本の若き兵士が眠ってる

ああ忠烈の兵士の御霊
安らかなれと祈る時
国の平和も共々に
彼の思いが甦る



posted by 天山 at 05:36| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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