2013年02月20日

国を愛して何が悪い51

1918年の軍事的敗北に引き続くドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー二重帝国の解体は、ヨーロッパに巨大な革命の奔流をともなう政治的地震現象を引き起こした。ボリシェヴィキが言葉だけのプロパガンダは別として、何らか具体的なイニシアティブをとる以前に、革命はドイツとオーストリア・ハンガリーの敗北の延長戦上に自然発生的に起こるように思われていた。
共産主義黒書

ボリシェヴィキ党、つまり、レーニンである。

ドイツ、ベルリンでは、1918年、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトがスパルタクス団の要領を発表したが、このグループは、数日後に、独立社会民主党を去り、他の組織と共に、ドイツ共産党を創設した。

ハンガリーも、レーニンの革命を輸入しえた、最初の国となった。

それから、仔細は略すが、レーニンは、社会民主主義者と、プチ・ブルジョワを銃殺するように勧告した。

レーニンは、
このプロレタリアート独裁は、搾取者、資本家、大地主とその手先の抵抗を粉砕するために、迅速で断固とした容赦ない暴力の行使を前提とする。このことを理解しない者は誰も革命家ではない。
と、テロルの力を借りることを、正当化する。

それから、延々と、暴力と、処刑、拷問・・・のお話である。

プロレタリアート独裁の神聖な大義のために生命を捨てたくないというなら、彼らを皆殺しにせよ・・・

神聖な大義・・・

第一次大戦後の、ヨーロッパを舞台に、共産主義の実行がなされたのである。

つまり、
コミンテルンの創立大会は、現実的な組織能力に応えたものというより、緊急なプロパガンダ上の必要性と、ヨーロッパを震撼させていた自然発生的な諸運動をひきつけようという試みとに応えたものであった。
共産主義黒書

その真の創立は、1920年夏の第二大会での、21か条の加盟条件採用の時点だった。

「世界革命の参謀本部」
それに加わろうとする、社会主義者は、これらの加盟条件に従わなければならないことになる。

コミンテルンは、レーニンが国際的な秩序を転覆させる道具の一つとして、構想したものである。

その他の道具には、赤軍、外交、スパイ活動などがある。

第二回大会の宣言である。
共産主義インターナショナルは、蜂起とプロレタリア独裁のための国際党である。

21条件の第三は、
ヨーロッパとアメリカのほとんどすべての国において、階級闘争は内戦期に入っている。この状況のもとでは、共産主義者はブルジョワ的合法性を信頼することはできない。合法的組織と並行して、決定的瞬間に革命への義務を果たしうる非公然機関をいたるところにつくることは彼らの義務である。

決定的瞬間とは、革命の蜂起であり、革命の義務とは、内戦に突入する義務のことである。

第十二番目は、
現在の激しい内戦期にあっては、共産党は最も中央集権的に組織されていなければ、軍事規律に近い鉄の規律が認められていなければ、その中央機関が広範な権力を有し、不動の権威を行使し、党員の全会一致の信頼を得ていなければ、その役割を果たすことはできないであろう。
そして、全会一致のなり得ない場合を考慮して、
共産諸党は・・・私心のある、ないしプチ・ブルジョワ的分子を遠ざけるために、組織の定期的粛清を行わなければならない。

宗教のカルトと呼ばれる組織に似て、徹底した管理下の元に置くということである。

共産党はプロレタリアートの最も広範な層にたいし、事実と言葉をもって、一切の経済的ないし政治的紛争は、幸運な状況に助けられた場合、内戦へと変化しうるし、その過程で政治権力を獲得するのはプロレタリアートの任務であろうという考え方を植え付けなければならない。

読み進めると、反吐が出る。

破壊、内戦・・・

そして、最期は、独裁的支配なのである。

ドイツ、エストニア、ブルガリア・・・
共産党テロリストが、暗躍する。
イスラム原理主義者の、テロリストが、現在世界的に活動するが・・・
それ以前に、共産党テロリストの活動があるということ。

だが、ヨーロッパでは、それらが、失敗に終わる。
性急な暴力行為は、排除される。

ところが、中国では、違った。
コミンテルンは、スターリンに促されて、新しい戦場を発見したのである。

その頃の、中国は無秩序の只中にあり、内戦と社会紛争に引き裂かれていた。
そして、反帝国主義革命の機運が熟していた。

1921年、東方労働者共産主義大学が、創立される。
そして、25年、孫逸記念中国勤労者大学へと結集される。

コミンテルンの責任者たちと、ソビエト各部局によって、指導されていた中国共産党は、まだ、毛沢東の指導を受け入れていない。

毛沢東は、国民党の若きリーダー蒋介石との緊密な同盟関係へと、向かっていた。

共産党の選んだ戦術は、国民党を包囲して、それを一種のトロイの馬に仕立て上げることであった。

コミンテルンの密使は、国民党の顧問の役割を占めるまでなった。

ソ連との協力政策を完全に支持していた、国民党左派は、1925年に、党指導部を掌握することに成功した。

そして、共産主義者は、プロパガンダを強化し、社会的興奮状態を促し、その影響力を強めた。
ついに、国民党の第二回大会を支配するまでになる。

だが、蒋介石は、その影響力の拡大に、危惧を抱くようになる。

共産主義者が、彼を権力から、遠ざけようとしていることを、見抜いたのだ。

そこで、先手を取って、1926年3月12日、厳戒令を敷き、共産党分子と、ソビエト軍事顧問までも、逮捕させた。

数日後、全員釈放されるが、党内での、左派の指導者を左遷し、共産主義者の特権と、行動を制限する八項目の協定を押し付けた。

以後、蒋介石は、民族主義、国民党軍隊の確実な指導者となるのである。


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2013年02月21日

国を愛して何が悪い52

1926年7月7日、ソビエトから膨大な物資援助を受けていた蒋介石は、今なお、軍閥の支配下にある、中国北部のために、民族主義軍隊を進攻させた。

北部中国の農村部には、一種の農地改革の波が渦巻き、共産主義者と、民族主義者の同盟を危うくしつつあった。

当時、上海では、労働組合は、軍隊の接近にともない、ゼネストを打ち出した。周恩来を含む共産主義者は、民族主義者軍隊が入城してくるのを見越して、蜂起を呼びかけた。だが、軍隊の入城は起こらなかった。

その蜂起は失敗し、スト参加者は、李宝章将軍により、残忍な弾圧をうけた。

将軍が介入すると確信していた民族主義軍の一個師団が上海に入り、蒋介石も入った。

スターリンが、蒋介石と、彼の軍隊の政策の、反帝国主義的姿勢に欺かれて、三月末に武器を放棄し、国民党との共同戦線の維持だけに留めるように、共産党に命令する。

そこで、蒋介石は、反共クーデターを起こして、共産主義者は、追い払われた。

だがスターリンは、即座に政策を変更し、反対派からの、批判の前に面子を失うまいとして、国民党との同盟を破棄した後、蜂起への動きを再び立ち上げるために、二人の密使を派遣する。

だが、二人によって、演出された「秋の収穫期の反乱」の失敗にも関わらず、反対派メンバーを排除することになる、ボリシェヴィキ党の第十五回大会が開催される瞬間に、指導者スターリンに勝利の報告書を提出すめため、広東で蜂起を開始させるまで、粘ったのである。

この策動は、多くのボリシェヴィキが、自分の側の党員も含め、一切の人命に対し、どの程度の軽蔑を抱くようになっていたかを示すものである。

自己の支持者の生命まで何とも思わない当時はまだ新しい現象だったが、無分別といってもいい広東コミューンは、その点を遺憾なく証明している。しかしこれは本質においては、数年前のブルガリアのテロリスト的行動とほとんど変わるところがない。
共産主義黒書

何が行われたのか・・・

数千の蜂起参加者に対して、その五、六倍の軍隊が、48時間対決したのである。

蜂起参加者は、イニシアチブの点では恵まれていた。しかし、ソビエト共和国の樹立は、住民の間に、何の反響も起こさなかった。
そして、国民党が、反撃に転じて、赤旗は、国民党の手に奪われた。
弾圧は、野蛮きわまるもので、殺された者は、数千人にのぼったのである。

黒書では、
コミンテルンはこのような経験から教訓を引き出すべきだったが、この本質的な政治問題に直面することはコミンテルンには不可能だった。共産党幹部のあいだに内戦文化が浸透していることを示す言葉遣いで、すべてに向け、またすべての失敗にもかかわらず、暴力の行使がまたしても正当化されたのである。
と、ある。

そして、次の自己批判である。
反革命分子を一掃するためにわれわれは十分働いたとはいえない。広東が蜂起分子の手にあった全期間のあいだに、殺したのはわずか100名に過ぎなかった。反動分子にたいする闘争委員会は、規則通り裁判にかけた後でなければ、全拘留者を殺すことができなかった。闘争のさなかでは、これはあまりにも遅すぎる手続きである。

このような、教訓となったのである。

中国の共産主義者にあっては、革命とは、何よりもまず、軍事機構の政治機能を制度化する軍事問題となった。

毛沢東が、権力は銃剣がつくりだすという、定式に要約するとおりである。

以後の展開は、この定式に則り、収奪と維持にかかわる、共産主義的な見方の本質となる。

ここで、一旦、元に戻り、続ける。

第一次大戦後、1919年のパリ講和会議にて、日本は世界で、はじめて、人種差別撤廃を強く提案した。

だが、過半数の賛成を得たにも関わらず、議長のアメリカ大統領、ウィルソンは、イギリスと組んで、このような重要決定は、全員一致が必要であると、否決したのである。

この提案が可決されれば、植民地を多く持つ白人列強に、都合が悪いからである。

更に、米英は、ワシントン会議を開き、海軍主力艦隊総数を、米5、英5、日本3、に決めた。

この不平等は、ロンドン会議にも、及んだ。
つまり、米英は、日本の軍事力を抑えて、日本との開戦に備えたのである。

すでに、日本と開戦することを、確認していたのである。

これで、今までの、大東亜戦争の、成り行きが覆る。
あたかも、日本が宣戦布告し、無謀な戦争に突入したかのように、言われたが、違う。

証拠は、満州に狙いを定めたアメリカである。
アジア大陸に残るのは、満州のみとなっていた。他は、英仏などの白人先進国に、大半が占領されていたのである。

満州には、日論戦争以来の利権があり、すでに五族協和を理想とする、満州国が成立していた。

だが、アメリカは、満州から日本を追い出すために、利権をその手中に収めようとして、次から次へと、日本叩きをはじめるのである。

日本を挑発し続けたのである。

当時の中国の要所は、英仏独、ロシアに侵食されていた。
もし、日本の力がなければ、満州も、朝鮮も、白人傘下に入っていたのである。

朝鮮半島、満州に日本が進出したのは、白人のアジア侵略を防ぎ、巻き返すための、当然の結果だった。

白人国は、植民地拡大であるが、日本の進出は、近隣諸国を自衛するためである。

ここが、敗戦後の、学者、識者たちの、大きな誤りである。

日本は、植民地主義の国ではなかったのである。
当然の、防衛であった。

その、防衛が、白人の先進国の、植民地政策と同じように、解釈されたのである。
要するに、思考法が無かった。軽薄だった。


posted by 天山 at 06:27| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月22日

国を愛して何が悪い53

大東亜戦争、第二次世界大戦の、本当の敵は誰か・・・

表は、アメリカのルーズベルトである。そして、裏は、ソ連のスターリンであった。

白人に歯向かうアジア人の、唯一白人と対等になった、日本である。

更に、スターリンは、日露戦争での敗北を憎むのである。

スターリンが取った手は、戦わずして勝つというものである。
その一つは、敵同士を戦わせる。そして、長期戦に誘導する。三つ目は、両者が疲れ果てた時に、割って入り、漁夫の利を得る。

ソ連にとっては、英米も、日本も、資本主義国である。
要するに、敵である。

最終的に、世界共産革命を目指していたのである。

そして、第二次世界大戦で、見事に、それが成功した。
領土を拡大し、共産国を増やし、戦争の目的を果たした。

アメリカも、それに乗せられたのである。

シナ事変の発端である、盧溝橋事件は、スターリンが後ろで糸を引き、共産党軍に、仕掛けさせた罠である。
蒋介石と、日本軍を戦わせるという・・・

日本側が自重しても、共産党は、日本人虐殺の、通州事件、上海事件と、テロ行為を起こし、日本軍を追い詰め、罠にはめた。

シナ事変の場合は、そこに、アメリカも加わる。
アメリカは、支援物資を送り、日本を消耗させ、次の日米戦を有利にしようとの準備をするのである。

蒋介石の国民党も、共産党軍との戦いがある。日本軍と深入りするのは、得策ではない。だが、身動きが出来ない状況になった。

さて、アメリカが日本叩きをするために、自国で取った行為が、日本移民を締め出す排日移民法を制定したことである。

本来、アメリカは、移民政策を推し進めていたのである。
だが、排日移民法は、次に、日本人の在米資産を凍結するという、暴挙に出た。

軍縮会議、シナ事変で日本の軍事力を消耗させて、直接、日本を戦争に誘い込む挑発に出る。
それが、日本への石油輸出の全面禁止である。

大半の石油をアメリカに依存していた日本には、大打撃である。

ここからが、問題である。
その石油を確保するために、日本は、東南アジアに頼らざるを得なくなるのである。

それが、侵略と言われる。

それのみならず、ABCDラインという経済封鎖をする。
つまり、米、英、中、蘭の諸国である。

真にもって、日本に死ねというものである。

日本は、米国に対して、誠意を持って、日米交渉を進めた。
しかし、それは、九ヶ月にも及んだが、全く、成果が上がらない。当然である。アメリカは、戦争を望んでいるからである。

その間、アメリカは、日本が飲めない要求を次々と、突きつけた。

昭和16年11月26日、最後通牒として、ハルノートを突きつけてきた。
つまり、大陸、満州から出てゆけということである。

これが、歴史の経緯である。
あの、無謀な戦争を起こした・・・
一体、誰のことを言うのか・・・
それは、アメリカのことである。

日本は、戦争回避のために、どれほどの、努力をしたか・・・

アメリカは、日本を侵略したのである。
その証拠がある。

ポツダム宣言受諾の報を受けた、ニューヨークタイムズは、昭和20年8月14日付けで、「太平洋の覇権を我が手に」という見出しで、「われわれは初めてペリー以来の願望を達した。もはや、太平洋に邪魔物はいない。これでアジア大陸のマーケットは、われわれのものになったのだ」である。

つまり、ペリー以来、アメリカは、日本侵略を狙っていたということである。

更に、ルーズベルトは、最初の一撃を日本にさせるべく、開戦の動機を作るべく動く。

ルーズベルトは、大統領の選挙で、アメリカが攻撃されない限り、国民を戦場に送らないと、公約していたのである。
だから、アメリカから、手を出せない。

よほどの、ショックをアメリカ国民に与えなければ、開戦に持ち込めないのである。

つまり、日本と、アメリカ国民を騙して、開戦に突入したのである。

それが、真珠湾攻撃である。

それも、手が込んでいた。
真珠湾から、新鋭艦船、航空母艦を除外し、廃船に近い艦船を集めて、日本海軍の攻撃を誘った。
更に、その攻撃も、レーダーにて十分に承知していたのである。

そのカラクリを知っていたのは、大統領と、ハル国務長官、スチムソン、ノックスの陸海軍長官の四名である。

ルーズベルトは、全軍に戦争準備を呼びかけたが、ハワイのキンメル司令官には、日本軍の奇襲が迫ることを、知らせない。

更に、イギリスのチャーチルである。
アメリカの参戦なくして、ドイツと戦えない。ゆえに、アメリカの参戦を強く要請していた。

アメリカは、おとりの船を出して、ドイツ潜水艦の攻撃を誘うが、ヒトラーは、それに乗らなかった。そこで、日本である。

真珠湾攻撃の報を受けたチャーチルは、これで世界戦争は勝ったと、ルーズベルトに、おめでとう、という、電報を打った。

世界で、最悪の国は、イギリスであり、そして、次に、アメリカである。

それは、今も、変わらない。

更に、ロシアであり、アジアでは、中国共産党である。


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2013年02月23日

国を愛して何が悪い54

アメリカの歴史学者、チャールズ・ピアードは、その著書「ルーズベルト大統領と日米戦争」にて、日米戦が、ルーズベルトによって、巧妙に仕掛けられた戦争であることを、告発した。

終戦三年後、1948年の出版であるが、日本では封印されていたのである。

そして、更に、それを裏付ける確実な資料が出た。
ルーズベルトの長女の夫、カーチス・S・ドールの家族内からの告発本「操られたルーズベルト」である。

会食の席で言う。
私は決して宣戦はしない、私は戦争を造るのだ・・・

真珠湾前日の会食では、
明日戦争が起こる・・・
と、つぶやいていた。

実は真珠湾奇襲の成功は、世界中を感動させた、悲しんだ国は一つもなかったという事実を確認せねばならない。当のアメリカは大統領が日本に仕掛けた罠がかかったので喜んだことはもちろんだ。世界一の死の商人国の米国民の大部分も、密かに戦争を期待、歓迎していたので内心喜んだはずだ。
清水馨八郎

最も、喜んだのは、イギリス首相チャーチルである。
仏、蘭の連合国も、皆歓迎した。

そして、ソ連のスターリンである。
敵同士の戦いは、大歓迎である。

枢軸国のヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、皆、仲間が立ち上がったという。

そして、別の喜び方もあった。
アジア、アフリカの、被抑圧植民地の人々である。
有色人種の代表である日本が、白人を攻撃して、大成功したという。
つまり、植民地解放が近いと、奮い立ったのである。

この、大東亜戦争を、再度、解釈し直す必要がある。
この戦争によって、以後、植民地が、続々と独立を果たして行くのである。

つまり、この戦争は、世界史の転換点となった。
その発端が、日本であるということ。

タイ国、元首相プラモート氏は、アジアの忠臣蔵だ、12月8日を忘れてはならない。アジアの独立国を産んでくれたお母さんの日本の決断に感謝しようと、叫んでいると、述べている。

真珠湾奇襲成功の二日後、イギリス極東艦隊の、旗艦プリンス・オブ・ウエールズと、レパルスが、日本海軍の爆撃で撃沈した。
マレー沖海戦である。

このニュースを聞いた、チャーチルは、大英帝国の凋落を感じて、地に伏して泣いたという。彼は二日で、絶頂の歓喜と、絶望を味わうのである。

日本陸軍は、マレー半島のコタバルに上陸し、住民の歓呼と支援の中で、イギリス東洋の軍事拠点シンガポールに南下し、占領した。

香港、フィリピン、インドネシアにも、進撃し、白人守備軍を、わずかの間に征服する。

日本軍の活躍は、長く白人植民地として虐げられていた、アジア諸民族を感動させ、独立への夢を駆り立てた。

日本が敗戦後、次々と独立することが出来たのは、一度、日本によって、目覚めさせられた独立への夢と、希望である。
そして、その指導者たちは、長い間、日本を拠点にして活動していたのである。

アジア唯一の独立大国である日本は、アジアの希望であった。

各地の植民地当局から逃れて、革命家たちは、日本の多くの同士たちによって、匿われた。そして、指導を受け、援助された。

その中で、祖国の英雄と称えられた人々である。
インドの、チャンドラ・ボース、インドネシアの、スカルノとハッタ、フィリピンの、リカルテとラモス、ビルマの、オンサン、中国の孫文、韓国の金玉均・・・

日本は、戦時中、東南アジアの優秀な青年を集め、南方特別留学生制度を作り、独立運動の指導者、新生国家建設を担うエリートを養成した。
その中には、インドネシアのスカルノのように、大統領になったものもいる。

昭和18年11月5日、東条首相は、アジア各国代表を集めて、「大東亜会議」を開いた。アジア最初のサミットである。

これは、アジアを欧米植民地から開放し、各々が自存自衛の独立国となり、お互いに協力し、共存共栄し、アジア諸国の存在と文化を、世界に主張するものであった。

そして、それは、敗戦後30年を待たずに、NIES、ASEAN諸国のように、結実した。

一時期、日本が植民地にした・・・
そういう見方もある。
だが、結果的に、皆々、独立を果たし現在がある。

一時期、日本が統治したが、それは、欧米の植民地政策のようではなかった。

例えば、インドネシアでは、350年間の植民地支配を続けたオランダ軍を、わずか9日間で全面降伏させ、独立の指導者、スカルノとハッタを獄中から救出し、建国を急がせた。

祖国防衛義勇軍を編成させて、祖国防衛と独立の戦士を養成した。

日本が敗戦すると、英蘭連合軍は、再び植民地を取り戻そうと、再度上陸してきた。これを迎え撃った、スラバヤ戦争で、素人のインドネシア軍が、近代戦の体験がないのに何故勝てたのか・・・
それは、日本軍が、連合軍に引き渡すことになっていた武器を、インドネシア人に奪われたとして、裏で渡していたのである。

更に、民兵の素人戦術を見かねて、2000名の日本兵が、インドネシア軍に協力したからである。

その半数は、戦死したが、現在はインドネシア独立の英雄として、奉られている。

インドネシアは、日本を救世主、日本軍を神兵と称えていた。

インドネシアは、日本の敗戦が伝わると、即座に独立宣言を行った。
その際に、神武天皇紀元2605年の05をとり、独立宣言文の記念とし、国旗も、日本に真似て、赤と白の二色旗に決めるのである。

日本という、生みの親がいなければ、インドも、マレーシアも、ビルマも、その他のアジア諸国も、独立できなかったのである。

それを、今こそ、再認識しなければならない。


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2013年03月26日

国を愛して何が悪い55

さて、これから満州について書く。
満州について多くを知らない人が多い。

中国でさえも、あまり知らない。
更に、満州とは、差別語であるという、中国の学者もいるそうな。
それは、満州人を歴史から抹殺しようとする意識からだと、思う。

紀元前8世紀から、2世紀にかけて、現在の南満州から河北省にかけて、燕、えん、という国があった。
春秋戦国時代である。

その戦国時代に、燕が、北方の雄として、史書に登場する。

その都が、現在の北京辺りである。
長城より北の地は、古来から、北方騎馬民族の地で、東胡、匈奴、鮮卑などの民族が、この一帯を支配し、長城を越えて、中原の農耕民を脅かしていたのである。

満州の地では、モンゴル系、ツングース系、チュルク系の民族が活躍し、粛慎、高句麗、渤海、などの国が存在していた。

中世に、高句麗が唐と新羅の連合軍に滅ぼされると、モンゴル系の契丹人が、遼という国、
ツングース系が、女真族が金という王朝を造った。

更に、南の宋王朝を脅かす。

モンゴルが台頭して、金が滅ぼされると、女真族は、モンゴル人に服属した。

元が滅び、明王朝が成立すると、女真族の諸部族は、北方へ逃れてきた元の残留勢力、北元や、明・朝鮮の李王朝に朝貢しなければならなくなり、圧迫されていた。

この女真族は、秀吉の朝鮮出兵の頃は、満州の建州、海西、野人の三部族に分かれていたが、半世紀後、建州女真族に勢力が集中して、後金国が成立し、満州を統一する。
そして、服属していた、モンゴル人や朝鮮人を支配下に置き、長城を越えて、明を滅ぼし、清王朝を造ったのである。

つまり、中国を征服したのである。
女真族、満州人である。

そして、広大な領土と、圧倒的多数の漢人を統治するため、民族を上げて、長城以南に移住し、満州は、一部が軍事駐屯地か、皇族のお狩り場とされた以外は、無人の荒野となってしまったのである。

19世紀の、国際法「万国公法」の基準で言えば、無主の地と、見なされたのである。

列強時代の精神を反映した、公法であるが、その時代は、それが万国公法であった。

アヘン戦争前夜、イギリス政府の代表として、北京を訪れた、マカートニー卿によれば、乾隆帝に謁見した際に、満州には、漢人が一人もいなかったという。

当時の満州には、漢人は、一切立ち入り禁止になっていたのである。

更に、満州だけではなく、新疆やチベットにも、漢人は入れなかった。

満州移民解禁は、19世紀末であり、華北の五つの省の住民にのみ許された。
しかし、20世紀に入っても、その数は、100万人程度である。

ほとんどが、荒野だったこの地に、義和団事件をきっかけに、なだれ込んで来たのは、ロシア軍である。

更に、20世紀に入ると、中国各地では、自然破壊が激しく、毎年のように、飢饉に見舞われた。
社会は乱れ、匪賊が跋扈する。

特に、辛亥革命の後は、戦乱が絶えず、家、土地を失った華北の農民たちが、流民となり、満州へと逃れた。

その数は、年間、100万人といわれる。

その大半が、山東人だった。

満州移民から利益を吸い上げようとやってきたのは、政府の役人と、匪賊である。

このように、中国の領土拡大は、いつも、流民の原理に従いなされたのである。

日本の移民制度に、中国人を入れると、いずれは、このように占領される。
政治家は、それを、よくよく考えて、移民受け入れを行うべきである。

漢人の大量移民は、満州の自然環境を大きく変えた。

満州人は、狩猟民族であり、森を大切にし、遊牧民のモンゴル人は、草原を大切にした。
満州人が中国を支配した際は、街路樹を植えるほどだった。

しかし、漢人移民たちは、そのような生活様式を知らない。
満州の森林に入り、樹木を伐採して、山野を開拓した。

その昔、緑豊かだった場所も、今は、岩がゴロゴロした、荒野になっている。

19世紀末、無人に近い荒野だった満州も、1931年、昭和6年、満州事変の頃は、3000万人の人口だった。

日本が、満州領有をめぐる中国との戦いで敗退したのは、大東亜戦争の敗北だけではなく、移民の数に負けたからである。

アメリカ国務長官の、ヘンリー・スチムソンは、かつて「極東の危機」の中で、日露戦争当時、満州はほとんど空き地同然の辺境で、最初に殖民に成功した国民の手に帰すべき、競争の目標物として放置されていた、と言う。

日清から、日露戦争の間は、世界的不況で、日本には、200万人以上の失業者がいたというが、満州への移民は、中国、漢人の移民流入に比べると、格段に落ちていた。

だが、日本の移民は、進まなかった。
ゴキブリのように、漢人が入ってくる。

その大きな理由は、漢人たちは、最初から、政府に見放されていたのである。
満州に行く以外に、行くべき所が無い。

満州国の時代、日本の移民は、朝鮮人の80万人の移民と合わせても、130万人である。
その後は、100万人に減少している。
その数は、中国人の移民の一年間の数である。

これには適わない。


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2013年03月27日

国を愛して何が悪い56

満州における、関東軍と、奉天軍の違いは、日清戦争の際の、日本軍と清国軍と同じである。

だが、張作霖の奉天軍は、私兵である。
中国の軍隊は、共産党の解放軍も含めて、徴兵制に基づかない、私兵で構成されていた。

奉天軍閥には、日本の陸軍士官学校の出身者もあり、北洋軍閥の新軍創設時代に創られた武学、軍学校の出身者、中には、拉致して強制的に入隊させた者、取り込まれた匪賊集団もあった。

後に、大元帥となる、張作霖は、辛亥革命後から頭角を現した、馬賊である。

袁世凱死後の政治勢力再編で、日本の後押しを受けていた、安徽省の軍閥、段キ瑞と、英米の支援を受けていた、直隷派との間で起きた、安直戦争の際に、張作霖は、段キ瑞側に付いた。

しかし、それを裏切り、奉天軍を率いて、安徽軍を敗り、北京政界に進出するのである。

それでも、北京政府は安定せず、第一回奉直戦争で敗れ、奉天に戻り、山東省の独立を宣言した。

だが、第二次奉直戦争が起こり、この時は、直属派だった者が、寝返り、北京を逆襲して、大勝する。
再び、北京の政界に姿を現し、大元帥となる。

だが、翌年、蒋介石の国民党軍に敗れる。

北京を引き上げる特別列車に乗った張作霖は、満州進出をもくろむ関東軍により、爆殺され、奉天軍は、その子である、張学良に継承された。

張学良は、山西軍閥、西北軍閥と、蒋介石の国民党が決戦を迎えた際に、蒋介石に付いて、山西、北西軍を敗り、陸海空副司令官の地位に就く。
つまり、国民党に対抗しうる、実力者となったのだ。

だが、ここからが問題で、奉天軍は、国民党軍を上回る実力を持ったが、民衆に支持されたのは、日本軍である。

何故か。
奉天軍は、人民に課す重税に頼り、苛斂誅求のあまり、民衆からの支持がなかったのである。

リットン報告書には、満州では、民衆の恨みが極限に達し、住民保護の運動が起きているとある。

更に、兵士が、訓練を受けていないため、結束が弱く、少数の関東軍の一撃で、すぐに分裂してしまうのである。

関東軍は、日露戦争後の、ポーツマス条約により、南満州鉄道本線、及び、安奉線などの鉄道沿線の警備のため、租借地である、関東州、つまり、旅順、大連を中心とする、遼東半島南端の租借地に設置された、駐屯部隊である。

はじめは、都督府が置かれたが、1919年、それを廃止して、関東庁を設置し、関東司令部が、旅順に置かれると、関東軍は、一万人前後の兵力を有する、独立守備隊となった。

満州事変では、一万六千人の関東軍が、15万人以上の張軍を掃討し、奉天、吉林、黒竜江の山東省と、内モンゴルの熱河省を支配下に置いた。

その最大の原因は、奉天軍が、三千万人以上の、住民の支持を得られなかったためである。

満州事変後、軍閥打倒と悪税撤廃をスローガンに、奉天地方自治委員会会長の袁金凱が独立を宣言した。
更に、吉林省の東北地区防軍参謀長も、独立を宣言する。
同様に、熱河省主席、東辺道、兆南も次々と、独立を宣言する。

それほど、奉天軍は、一般の支持を失っていたのである。

満州国が、中国流民の桃源郷だったこと。
それは、袁世凱の死後から始まる、中国の地方軍閥の実力競争の時代になり、それぞれの軍閥が、その勢力を保つ、延ばすために、離合集散を繰り返し、そして、支配地域の住民から、租税を徴発したことである。

しかも、先取りで、搾取する税であり、数年先、数十年先、中には、百年後の租税を取り立てる者まで、出たのである。

そこで、中国人同士の縄張り争いで負けた者、政界から駆逐された者、革命に失敗した者は、巻き上げた資金と、親族縁者を引き連れて、租界に逃れるのである。

租界とは、安全と秩序のある場所である。

軍閥割拠の時代、内戦状態の際も、地主、民衆は、租税に苦しめられた。
共産党の八路軍、現在の中国人民解放軍である、その解放軍が入ってきた時も、彼らによって、開放された地区では、清算、粛清闘争が実に激しいものだった。

その兵士たちは、戦いに負ければ、単なる強盗になった。
住民から、奪うのである。

それが、支配者が変わる度に、行われる。
更には、省内にのみ通用する、不換紙幣が次々と発行されるが、政権が倒れれば、紙くずになるのである。

外国人が管轄している、租界は、別天地といっていい。
軍閥は、租界に指一本触れられないのである。

満州事変によって、強力な日本軍に支配された満州は、各地に治安維持政府が立てられ、満州国後は、新たな人口国家建設のための殖産興業で、インフラ投資が進められ、日本政府、企業から大量の資金が投入された。

好景気である。

満州は、こうして、日本軍によって、桃源郷となったのである。

上海租界に代わり、戦乱に苦しむ民衆の逃げ場になったのである。
飢饉のために、逃れて来た農民、戦乱で焼け出された難民が、大挙して、満州に押し寄せた。

あのまま、満州国が、健全であれば、中国は、現在のように独裁国家にならなかったであろう。
それを打ち壊したのは、中国共産党だけではない。
満州からの、利益を求めた、欧米の野心のせいである。


posted by 天山 at 06:05| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月28日

国を愛して何が悪い57

中国西南の雲貴高原も東北の満州平野も、戦後日本のいわゆる進歩的学者が愛用する「帝国主義論」的植民地用語を用いれば、それこそ間違いない中国の植民地である。しかも前近代的な植民地なのである。
黄 文雄

それを続けると、
そもそも雲貴高原とは、現在は少数民族の居住する秘境といわれる雲南省、貴州省全域と、広西、湖南、四川の一部を含む地域で、モンゴルの元王朝に征服されてから中華王国に組み込まれた。中国の朝廷が承認する酋長によって統治される自治政権のある土地で、中国から見れば文明の光のとどかない「化外の地」だった。清のヨウ正帝の時代になり、それまで自治政権を確保していた土地の世襲支配者「土司」にかわり、中央から流官「役人」を送り、ほかの地域と同じように課税し、中央の統治を浸透させた。それが「改土帰流」と呼ばれる政策である。
と、なる。

18世紀以降、雲貴高原も後の満州と同じく、中華帝国の内乱と、それに伴う飢饉のたびに、漢人が流民となり、大量に移住してきたのである。

貴州で、漢人移民の割合は、十分の一にも及ばない。
また、広司でも、二割である。
しかし、20世紀初頭には、広西では、漢民族が、人口の六割にも達した。

それで、住民たちは、民族別の住み分けをするようになる。
中国では、民蛮雑処「漢苗雑処」と言う。

住み分けにより、一定のバランスがとれていた。
だが、19世紀末の中国は、白蓮教徒の乱、太平天国の乱、捻匪の乱・・・と、戦乱が続き、社会秩序が乱れに乱れた。
結果は、大量の漢民族の流入が加速し、先住民の居住区や、土地が奪われた。

この状態が、反漢民族の意識を生み、深刻な民族対立になった。

そして、反漢民族の乱が、度々起きる。
これが、中国の植民地化に反抗する闘争である。

特に、アヘン戦争の前後、多数の反漢民族、反中国植民地政策の闘争が、起こった。

その中でも、深刻だったのが、回教徒、イスラム教徒の反乱だった。
19世紀から20世紀にかけて、新疆地区でも、回教徒の乱が起こったが、雲貴高原でも、それに続くように、回教徒の反乱が絶え間なく起こり、漢民族の、回教徒皆殺し運動までに、発展した。

満州においても、日本という国家の存在がなければ、そのような状況になっただろう。
しかし、現実は、違った。

日本の植民地経営により、満州は、移民の天国である。

更に、日本は、ロシアの南下の防波堤になり、一面荒野に鉄道を敷き、殖産興業に努めて、教育に力を入れた。

その殖産興業は、戦後、中国に多大な恩恵をもたらした。
現在の、中国の工業の基礎となったのである。

当時は、国民の八割以上が、文盲だった中国にあり、満州だけは、国民教育の結果、識字率が四割に達していた。

治安維持には、関東軍が当たり、それは、人民から惨く租税を取り搾る、軍閥の跋扈を阻止する力があった。

このような環境は、軍閥の争いに翻弄される、中国の難民にとって、まさに、王道楽土、天国だったのである。

だから、年に、百万人を超える、流民が流れて来た。

満州事変後の1928年、満州を視察した、アメリカの、モルガン財団代表の、ラモントは、オールズ国務長官に宛てた手紙で、日本の満州経営は、少数の入植した日本人のためではないと述べた。

満州は、全シナでほとんど唯一安定した地域である。日本が満州にあれば、シナの不安定さが取り除かれ、より安定した地域になることが期待できる。日本の満州開発は、中国の利益となっている。

無秩序な戦争状態が中国に広がりつつあるなかで、いまや中国人は、どこにいても避けることのできない、略奪と暴力から逃れるために、何千という単位で南満州へ流れ込んでいる。
と、いうものである。

日本と中国の、植民地統治は、大きな違いがある。

現在の、雲南省と、貴州省は、中国の中でも、最も遅れた地域になっている。

シナ大陸で農民を苦しめるのは、飢饉に加えて、軍閥支配者の権力闘争による動乱や戦乱である。特に、明治44年、1911年から、昭和3年、1928年までの約20年の間に140の戦乱が勃発しており、そこに動員された兵力は、延べ1800万人といわれる。その大部分は、匪賊の大集団であった。国民軍と名のつく正規軍が、実は匪賊の集まりなのだ。匪賊は、軍隊に入れば「天下公認の略奪」ができると期待して軍人、兵隊になっていた。シナでは、賊と軍との区別がつかなくなっていた。
清水馨八郎

1930年になると、匪賊の総数が、2000万人となり、略奪者の天下となったのである。

各地の軍閥とは、匪賊の棟梁のことで、中華民国時代のシナは、ほぼ全土が、匪賊に荒らされていたのである。

更に、匪賊は、極めて残酷、野蛮で、都市を襲っては、家を焼き尽くし、人を殺し尽くし、物を奪いつくすので、殺光、焼光、奪光の、三光作戦という言葉が生まれたという。

であるから、現在の中国の前進、更に、政権の先祖は、匪賊たちなのである。
つまり、中国は、匪賊の国である。

誰も信用できないゆえに、都市とは、すべて五メートルの高い城壁で囲われている。
中国で、都市を、城市というのは、それである。

更に、市民も、家の周囲を、壁で守るのである。

海外の中国人、華僑も集団で、チャイナタウンを作る。それは、中国人特有の自衛本能である。
本国の政府が守ってくれるとは、全く考えていないのである。

また、中国人、漢人たちは、血族以外を信じない。
だから、他人には、嘘偽りなど、朝飯前である。
自分の利益になること以外に、関心が無い。

posted by 天山 at 02:36| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月29日

国を愛して何が悪い58

地図を見れば、中国は日本の「一衣帯水」の隣国ではない。間には東シナ海900キロ、朝鮮海峡200キロの大海原があって、日常往来できる間柄ではない。したがって、日本語も文化一般も、大陸的と東ショ的とでは全く異なり、中国は4000年どころか、200年くらいの歴史で、その間、王朝が替わるたびに、数千万人の民族が逃走するか、根絶やしにされて、けっして日本のように、民族の歴史が一貫していないのである。
清水馨一郎

更に、続けて、
確かに古代日本は、中国から漢字、仏教、儒教、律令制など学んだが、それは単に動機づけのためで、その後、日本独自の文化に和風化して、数段高い段階に昇華してしまっている。漢字、仏教にしても、日本の元のものとは似ても似つかぬ独特の日本文化に仕上がっている。
と、なる。

更には、日本は、そのすべてを、取り入れた訳ではない。
科挙、宦官、弁髪、纏足、人肉食の風習、シナ服などは、断固として、拒否しているのである。

そして逆に、明治以降、日本がシナの先生となり、多くの留学生を受け入れ、中国の近代化に、極めて大きな貢献をしている。

さて、中国では、歴史とは、天命を受けた皇帝の正統の歴史であり、皇帝、高級官僚などの暮らしを書いた史書は、数多いが、庶民の暮らしに関しては、何一つ触れない。

毎年の深刻な飢饉、天災、匪賊に人民が苦しんでも、そんなことは、漢文によって、記録されないのである。
つまり、庶民にとっては、天下とか、正統などいう概念は、無縁だった。
如何に、殺されずに生きるかということが、最大の関心事である。

日本と比べると、雲泥の差がある。

天皇は、国民を、公宝、おうみたから、と呼び、国民の痛みを、我が痛みとして、祈る存在だった。

国民も、天皇を天子として、慕う。
天皇の承認の無い場合は、どんなに権力があっても、上に立つことを、国民が認めない国柄である。

明治以来、多くの日本人が、漢籍、学校漢文を通して身に付けた、中国のプラスイメージに感動して、大陸に渡り、現実とのギャップ、幻滅して帰国した人がいかに多かったか。

現実にいるのは、油断も隙も無い連中ばかりだった。

今も、そのようである。
油断も隙も無い・・・

確かに、中国の厳しい自然環境の中で、戦争、動乱、革命、匪賊の絶えない場所で、民衆は、誰も政府などに期待する者はいない。
生きるための、自己保身を発揮する以外にないのである。

騙し、裏切りは、当然の結果である。

実際は、庶民だけではない。
上も下も、不信が渦巻く。

皇帝も、不安の日々を送る。
たやすく、命を全うできないのである。

その歴史では、旧王朝が滅びて、新王朝が成立する、易姓革命の際には、一度に、数千万人の命が消える。

色々あるが・・・
例えば、アヘン戦争後に起こった、太平天国の乱では、全中国を巻き込んだので、それまで、4億3200万人の人口が、2億6688万人に激減したのである。

その時の、首都、南京では、首都陥落の際に、全国で数百万人が殺されて、各地で遺体が埋められ、揚子江に投げ捨てられた。

この、南京・・・
南京事件として、捏造された歴史が、堂々として中国が主張する。

南京虐殺30万人・・・
中国政府と、反日左翼勢力が、未だに、日本の残虐性の宣伝として、更には、謝罪要求の、切り札として、使う。

それについては、多々、専門家の人たちが、事実を証明しているので、省略するが・・・

つまり、それが、金になるから言うのである。
日本に謝罪させ、賠償金を取る。
そして、現に取り続けて、平然としている。

十年前までに、日本は中国に対して、総額六兆円もの、大金を援助している。
それを、中国共産党は、人民に知らせることなくいる。

日本に感謝するどころか、江沢民は、評価する、と言う、更に、オーストラリア首相との会談で、20年後、日本は無いと、断言するほどのことを平然と言うのである。

更には、日本を見下し、恫喝し続ける。

日本の海外援助、ODAの提出額のトップが中国である。
何故か・・・

その金が何に使われているのか・・・

更には、ODAだけではない。
国際協力銀行を通しても、なされているのである。

その資金は、中国の意のまま。
これらの援助が、間接的に、ミサイル、原爆製造に廻され、軍事強化がなされている。その、仮想敵国が、日本である。

更にである。
日本からの援助金で、アフリカなどの最貧国、途上国の支援に廻し、台湾との国交を断絶させ、中国向けに手なずけようとしている。

援助された国々は、中国に感謝しても、日本に感謝しない。
知らないからだ。

それでも、アフリカでは、中国排斥運動が起こっている。

悪人は、何もしても、悪人以上にならない。

漢人の根本的な民族性・・・
それは、死んでも治らない。

そして、歴史は、繰り返される。


posted by 天山 at 00:04| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月30日

国を愛して何が悪い59

シナ事変で中国大衆に迷惑をかけたのは、日本兵ではなく、シナ兵である事実を、蒋介石の軍事顧問の米司令官ウェッド・マイヤー将軍が、はっきりと告白している。シナ兵はろくに給料ももらっていないので、退却の際は必ず、略奪、姦淫、暴行、放火がやり放題だったのである。自分たちシナの兵隊が何百年もやってきたことを日本兵がやらないはずはないと勝手にでっち上げたのが、「南京虐殺30万」である。
清水馨一郎

更に、そこにもう一つの意味が付く。
東京裁判で、アメリカは、広島、長崎原爆投下で30万人を殺傷した。
つまり、それに見合う日本軍の蛮行を見つけたかったのである。

そのために捏造されたのが、南京事件である。

南京入城以前に、日本軍が征服した天津その他の地域では、何も起こっていない。
南京だけが、虐殺が起こるというのは、不思議だ。

南京に最初に城が築かれたのは、紀元前4世紀の頃である。
楚の威王の時代である。

その後、後漢の終わり頃から、三国の一つである、呉が都とした。
以来、六朝時代の400年間、南京は、南朝の都として栄えた。

六朝の時代は、王朝が替わるたびに、反乱が起こるたびに、都、南京では、虐殺が行われた。
兎に角、凄まじいばかりの、人殺しである。

中国の南方勢力を制圧したのは、統一国家を建てた、隋である。
南京を攻めたのは、後に二代目皇帝となる、煬帝である。

隋軍は、陳の初代の王、武帝の墓をあばき、骨を焼いて酒に入れて飲み、南京を城壁まで残すことなく徹底的に破壊した。
かつての、百万都市を、一面の荒れ野にしたのである。

このような、虐殺、破壊は、近代まで、続いた。
最も有名なのが、太平天国の乱の、南京大虐殺である。

それは、一ヶ月に及んだと言う。
そこから、日本軍による、南京大虐殺が、一ヶ月続いたと、その描写を使うのである。

呆れる。

南京大虐殺の写真であるが、その証拠写真は、中国の「万人塚」である。
それは、中国での戦争祭事の文化の一つ。

日本にも、首塚というものがあるが、敵の首を集めて、塚にする文化は無い。

中国では、古代から、切取った敵の首数を誇るため、首だけを集めて「京観」という、首塚をつくった。
南京周辺だけではなく、中国各地の古戦場、都市の郊外で、万人塚が出るたびに、日本のマスコミが、日本軍の大虐殺が、ここでも行われたのかといい、騒いだ。

本当に、馬鹿らしいことで、中国の歴史を知らない者の言う台詞である。

兎に角、マスコミ左翼は、日本軍の残虐性を探したくて、どうしようもないのである。

南京大虐殺は、単に、中国の王朝が交替するときに行われた、虐殺の歴史から、焼き直したり、引き写したりしたものばかりである。

日本には、人肉食の風習は無い。しかし、その記念館には、日本兵が、人間の肝を食う模型が展示されているという。
本当に、呆れるのである。

だから、この南京事件が、全くの嘘、偽りだと、世界が知った時・・・
国際的信用は、丸潰れとなり、国際社会から、相手にされなくなるだろう。
もう、すでにその兆候があるが・・・

さて、シナ事変である。
日本がシナに侵略戦争を起こしたのではなく、中国共産党の毛沢東が挑発して、日本軍を大陸に引きずりこんだ政略事変である。

それを操ったのが、スターリンで、蒋介石と日本軍を戦わせ、両者を消耗させて、毛沢東の、共産党に漁夫の利を得させるというものである。

シナ事変の発端は、盧溝橋事件である。

ここに北京南郊に駐屯していた日本軍と、蒋介石の陣地に、共産党の便衣隊が、両方に発砲して逃走し、日本軍と国民軍を戦わせようと、企んだもの。

当時の中国は、人民排外思想を扇動し、反日抗日運動だけではなく、欧米人に対しても、ゲリラ活動が絶えなかった。
列強各国は、居留民の保護のため、軍隊を派遣して、治安をシナ政府と契約の上、公式に駐屯させていた。

日本軍は、シナを侵略するために、駐屯していたのではない。

日本軍は、毛沢東の、挑発に乗らぬように、隠忍自重、不拡大方針で、対処していた。
しかし、共産党は、次々と日本人居住地を襲い、残虐な虐殺事件を起こした。

中でも、通州事件は、日本人男女260名が、地元の保安隊と称する軍隊に、襲撃され、悲惨な虐殺が行われたのである。

それでも、日本政府は、不拡大方針を貫く。
が、共産党のゲリラ事件が、済南から上海に及ぶにつれて、居留民保護のため、軍隊を投入せざるをえなくなった。

如何に、汚いやり方でも・・・彼らは、自分の利益のためならば、やるのである。

どこが、日本の侵略戦争なのか・・・
的外れのことを、言い続けていたのが、戦後日本の左翼である。

後年、毛沢東は、昭和39年、日本社会党の佐々木更三委員長らが、訪中した際の、謝罪に対して、
何も申し訳なく思うことはない。日本軍国主義は、中国に大きな利益をもたらした。中国人民に権力を奪取させてくれた。日本の皇軍なしには、われわれは蒋介石の国民軍から政権を奪取することができなかった。
と、語るのである。

更に、ケ小平も、昭和52年訪中した、光岡健次郎元陸将と会談した際に、
日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、われわれは日本軍の占領地域を後方に広げることができた。皇軍のおかげで蒋介石の力を弱め、台湾に追い払うことができたのです。
と、語る。

それなのに・・・である。
何故、日本政府は、中国共産党に対して、謝罪を続け、莫大な金を貢のか・・・

今、もって、分らないのである。
理解できないのである。

posted by 天山 at 06:46| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月27日

国を愛して何が悪い60

中国の言論は、嘘の塊である。

日本の侵略というと、枕詞に、
無数の人民が虐殺され、女は強姦され、家が焼き払われ、財産が略奪された。
と、なる。

実際は、すべて中国人がやることである。

戦争がはじまると、中国兵士が、市民を略奪するのは、有史以来の、一つの戦争文化である。
アヘン戦争当時、広東軍のイギリス軍攻撃を支援するために駆けつけた、湖南兵は、イギリスと闘うより、広州市民を略奪して、広州兵と湖南兵との戦闘に変わったほどである。

日清戦争当時、日本軍に敗れて、平壌に退いた清国軍も、朝鮮人に対して、略奪、強姦、虐殺をほしいままにした。
清国軍の行くところ、朝鮮人は、町、村を捨てて、逃避したのである。

シナ人にとって、戦争とは、公然と略奪、強姦のチャンスと考えられていた。
このような、戦争文化が、漢人の資質なのである。

馬賊、盗賊の集団、匪賊であるから、嘘偽りなど、朝飯前である。
そして、今も、そのようである。
血は、争えない。

中国の歴史は、戦争のみならず、飢饉、革命がある。

旱魃、大洪水などの、自然災害が頻発している。
だが、王朝の歴史以外の人民のことなどは、全く記されない。
正しい、人的被害の実態が今もって、分らないのである。

ただ、言えることは、死者数では、戦争、飢饉より、革命による死者数が、格段に多いということである。

王朝交代により、数千万人が、消えている。
要するに、皆殺しの文化があるのだ。

そして、現政権の生みの親、毛沢東が天下を取った、死者数が、膨大であるということ。

中国共産党が政権をとってから、自然死ではない数、8000万から、9000万人にのぼる。

中国共産党が政権をとった時、飢餓が多く発生している。
1960年前半は、40万人が餓死である。

文化大革命の頃は、2,3000万人が、死んだ。
イデオロギーによる、粛清、抹殺がなければ、こんな数にはならない。

ここに、中国と、共産党という、イデオロギーの怖さがある。
要するに、漢人向けの共産党という思想が、他民族を戦争で殺すより、自国民を階級、思想の違いだけで、殺すという。

共産主義による、世界的死者数は、1億7千万人である。
その中でも、毛沢東のシナ人に対する、死者数が、群を抜いている。

一党独裁が続く限り、その実態は、謎のままであろう。

ただし、現政権は、まだ70年も経っていない。
その先は、歴史が教える。
革命・・・

今度は、政権を担っていた者たちが、虐殺される番である。
その幹部たちの腐敗振りは、凄まじいものがある。

共産主義が、独裁主義と、同義になるというものだ。

幹部に連なるものたちの、不正蓄財を暴いたら・・・
どんなことになるのか。

更に、人民に行き渡る、人倫の無さである。
人が死のうが、生きようが、関係なし。
毒物を使っても、食品を作り、売る。
更に、物真似天国。
いや、偽物天国である。

一度、日本に入国すると、自国には帰らない中国人たち。
日本は、遥かに、自国には遠い。
天国のような国である。

簡単に騙して、生きられる。
そして、日本人も、簡単に、騙されるという。

私の友人の知り合いに、騙されていることを知らず、生活の面倒を見ているという人がいる。
日本では、ペコペコしていたが、一緒に中国に行くと、変貌したという。

私も、昔、ある友人に頼まれて、中国人の留学生の身元保証人になったことがある。
ビジネス学校に入学するということで。
ところが、学校から連絡がきた。
入学の手続きをした後、一切の連絡も、行方も分らないと・・・

結局、私も、学校も騙されたのである。

不法滞在で、働くのだろうが・・・

東アジア・・・という、日本の隣国は、度し難い国のみ。
日本は、東南アジア、南アジアと連携して、新しい世界平和のために、尽くすべきである。

いずれ、東アジアは、崩壊する。

日本は、島国だから、黙って見ていればいい。

一切、手出し無用である。
彼らは、自業自得の結果を受け止めるべきなのだ。

そして、日本も、支援を切り上げるべきである。
支援をしても、恨まれるだけで、感謝されることが無いのは、見ての通りである。

世界の嫌われ者は、東アジアの隣国である。
唯一、日本だけが、世界で一番、信頼されているという、栄光である。

posted by 天山 at 00:48| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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