最初は、追悼慰霊だけであった。
そして、出掛ける国と地域の人々に、衣類を持参することにした。
数えてみると、15カ国になっていた。
現地に行き、人々との交流。
現地を見聞した成果である。
言ってみて、解ること。
決して、単なる情報ではない。
情報を得る方法は、数多くあるが、出掛けて見る、聞くことで、更に、現地の様子が解る、理解出来る。
当初は、様々な人が、情報をくれたが・・・
全く、役立たずだった。
彼らは、単に、情報を知るというだけのことで、現地に出掛けていないのである。
解るはずがなかった。
更には、批判、そして、中傷まで・・・
色々と、言われたが、続けた。
そして、今では、私は、私の見たこと、聞いたことが、事実であることを知るのである。
更に、大戦の跡・・・
それも、現地で解る。
戦記に書かれたことを、私は、現地で追体験した。
そして、支援の有り方である。
単なるボランティア活動ではない。
必要とする人と、必要とする物・・・
貧しい国と一口に言えない状況を見た。
東南アジア、南太平洋の国々。
貧しいが、貧しさは、同じではない。
フィリピンの島々で、貧しくとも、とても明るく生きる人たちを見た。
その逆もある。
そして、貧しいということも、考えることが出来た。
日本は、豊かな国であるが、どこか、貧しいのである。
経済的に貧しいことと、精神的に貧しいことは、違う。
しかし、その違いは、見ることによって、解る。
更に、心の貧しさと、豊かさである。
インドネシア、バリ島の子供たちは、貧しいが、精神的に貧しい訳ではない。
大人と共に、バリ島の伝統を受け継ぎ、嬉々として、その伝統に参加している。
最も、貧しいのは、カンボジアと、ミャンマーの少数民族である。
そして、ラオスの山間部。
ベトナムの、少数民族・・・
チューク諸島の貧しさは、構造的なもの。
島に仕事が無い。
故に、グアム、ハワイに出稼ぎに行き、家族に仕送りする。
まだまだ、色々ある。
話は尽きない。
六年のまとめのように、私は、今回、タイのメーソートにある、ミャンマー難民の孤児たちの施設に向かった。
ミャンマー国内の孤児施設も、単独で見つけた。
最初に支援をしたのは、私である。
少数民族の子供たちだった。
彼らは、ミャンマー北部、東北部に住む少数民族の子供たちである。
国軍から、村を焼き払われ、親を殺された。
軍政時代の負の遺産である。
メーソートは、ミャンマーの町、ミャワディという町と接する、国境の町である。
民主化により、国境が開いた。
次第に、観光客も多くなる様子である。
タイ人たちも、観光に訪れる。
国境が開いたと同時に、ミャンマーからも、人がどっと、タイ側に向かっていた。勿論、正規に入国した訳ではない。
川を渡り、すぐにメーソートに入ることが出来る。
ミャンマーで食えなくなった人たちが、押し寄せていた。
だから、以前より、物乞い、ストリートチルドレンも多い。
更に、ミャンマーから出て来た人たちは、土地の空いている場所に、小屋を建てて、住み始めた。
民主化は、政治的に、上の人たちによるものであり、下の国民にまでは、まだまだ遠い道のりである。
ミャンマーに戻り、仕事を得るのは、いつの日になるのか・・・
解らない。
タイには、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどから、移民、難民として、500万人以上が入国しているという。
凄いことである。
だが、タイ人は、彼らを追い出さない。
それは、安い料金で働いて貰えるからである。
要するに、3Kの仕事を彼らが、請け負うのである。
タイ政府が最低賃金の法律を作ったゆえに、更に、移民、難民は、働き手として、注目される。
非常に矛盾であるが・・・
そして、二年後に迫る、アセアン諸国連合の一体化である。
インドまで達する幹線道路の建設が、急がれている。
日本の支援により、ミャンマーから、ベトナムに抜ける幹線道路の建設が進む。
二年後は、アセアン内では、パスポートがいらない。
その、アセアンプラス1になるべく、中国、韓国が狙うのである。
その、1は、日本になる確率が高いと私は、見ている。