2012年11月26日

平成24年ネグロス島へ11

パナイ島は、ビサヤ諸島の最西端に位置する島である。
4州から構成されている。
その中でも、経済、産業の中心が、イロイロである。

産業は、サトウキビ、米作、養殖漁業である。
現在は、近代化に向かって進む。

また、戦禍を受けなかったゆえに、スペイン統治時代の建物が、そのままに残る。

島のお祭りとして有名なのが、アクラン州にある、カリポという町で開催される、アティアティハン祭である。
13世紀の初頭、この地にやって来た、ボルネオのダトゥ族と、アクランの先住民族、アティ族との間に、親密な友好関係が築かれた。
その際に、アティ族が、喜びを示すために、ダトゥ族の容姿を真似て、顔を黒く塗ったのが、始まりである。
毎年、一月に開催されている。

さて、イロイロは州都になる。

私が見たところ、それほどの近代化というイメージはなかった。
町の半分がスラム・・・そんなイメージである。

建物では、矢張り、教会である。
ハロと、モロ教会がある。
私は、モロ教会の近くのホテルに二泊したので、モロ教会には出掛けた。
更に、一人しかいないという、司祭のアントニオ神父に出会う事が出来た。

さて、最初に泊まったホテルである。
日本のビジネスホテルのようである。

水の出が悪く、不便を感じた。
ただ、シャワーは温シャワーで、エアコンもある。
値段通りである。

ただ、一階にある、レストランの食べ物が、意外に、美味しかったのである。

外で食事をして、少し食中り気味になった時に、そのレストランで食事をした。

バコロドより、食事も、現地の行く人の場所なら、二割程度安い。
だから、二人で食べても、100ペソ前後で、200円である。

私が、食中りしたのは、生焼きのピザだった。
少し、何か食べたいと、一切れ買ったのが、原因である。

寝る事が出来れば、上等と思っているので、ホテルの部屋に不足は無い。
ガードマンも、ボーイの数も多く、深夜も、見張りがつく。
私は、相変わらず、部屋の戸を少し開けて、タバコを吸っていた。

何度も書くが、決して真似をしないで欲しい。
最も、危険な行為である。
特に、夜から、深夜にかけては。

フィリピンでも、禁煙対策が進み、公の場所では、禁煙が多くなった。
ホテルの部屋も、禁煙というところも多い。

人の集う所が、禁煙になるのである。
フェリー乗り場も、禁煙だったから、驚いた。

外に出るしかない。
タバコ嫌いな人には、いい。
だが、フィリピンでも、タバコを吸う人が多いのである。
それに、救われた。

イロイロでは、何をするのか。
実は、パラオに出掛けた時に、イロイロから出稼ぎに来ていた、母と娘に会った。
娘が、泊まったホテルのフロントにいたのである。

二人と話しが合い、私が何をしているかを知ると、是非、イロイロにも来て欲しいといわれた。イロイロにも、貧しい人が沢山いるからと。

それを覚えていた。
もしや、彼女たちに会えるかもしりないと思った。
彼女たちは、パラオでの給料が安いので、もう少ししたら、イロイロに戻ると言っていたからである。
だが、会うことが出来なかった。

しかし、多くの出会いがあった。

町の人たちは、親切である。
ただし、観光客を歓迎するという雰囲気ではなく、よそ者として扱わないということだ。

料金も、地元の人たちと同じで、コータも驚いていた。
同じ物を、バコロドで買うと、もう少し高いが、ここは、それより二割安いし、ボラないと言う。

食堂で、食事をして、ホテルに戻り、私が疲れてベッドに横になっている間に、コータが散歩をして色々と、町の様子を見て来た。

スーパーがあるというので、早速、水を買うために出掛ける。
この水を買うというのが、旅の一番の大切なことだ。
兎に角、飲み水である。

ホテルから、5分ほど歩くとスーパーがある。
私の大好きなスーパーである。
そこで、物の値段を知る。
街中で、水を買うと、少し高いのである。
更に、大きなボトルはスーパーでなければ無い。

二日分の水を買って、適当なパンやお菓子を買う。
今回は、日本のヤクルトを買った。
タイでは、地元のヨーグルトを買うが、イロイロのヨーグルトが高いのである。
ヤクルトは、山積みして売っていた。
日本では、買わないものである。
そして、酒を飲まない代わりに、コーラーを買ってみる。
コーラーは、糖分もあり、暑い国では、飲み物として、私には、いいのである。

後は、夜の食事をして、寝るだけ。
もう、何もしない。
矢張り、旅は疲れるのである。




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2012年11月27日

平成24年ネグロス島へ12

知らない国の、知らない場所の現地の食堂で、物を食べるということは、怖いことか・・・
そんなことは無い。
私は、自分の感覚を信じている。

食中り・・・食中毒・・・
確かに、そういうことはある。
だが、少し食べて、それを感じれば、止める。

今まで、海外を旅して、食中りしたことは、数多くあるが・・・
それでも、それは、たまたまのことだと、思っている。
日本にいても、当る時は、当るのである。

ということで、現地の食堂に、通う。

フィリピンは、島国である。つまり、周囲が海。
魚が豊富だ。魚料理も多い。
魚好きな私は、それらの多くを食べた。

ただ、貝、蟹などは、食べない。
当る確立が高いのである。

だが、インドネシアの、ビアク島で当ったのは、バナナの揚げ物だった。
12時間、下痢を続けた。
その前日の、芋の揚げ物はなんでもなかったのである。
不思議だ。

しかし、それを恐れては、何も口に出来ない。

パナイ島、イロイロの料理も豊富である。
ただ、米が良くない。
実に、不味い。バコロドより、不味い。
それは、パナイ島で採れた米である。

食欲が失せるほど、不味い米である。
全く粘りが無くて、パサパサしている。
糒を戻したような米である。

矢張り、日本の米は、世界一であると、思う。
それを食べている、日本人には、当たり前の感覚。

まあ、所違えば、何もかも違う。

夜の食事も、食堂に出掛けた。
美味しいと、思う。
私は、必ず魚料理を注文した。
コータは、一切、魚料理を食べない。
一度、それで死ぬ思いをしたからだと、言う。

前回、コータは、バコロドの市場で、パイナップルを買ってきて食べ、当った。
私も食べようとしたが、コータがすべて捨てた。
つまり、市場の中で切ったものは、菌がついていて、当るという。
だが、同じものを食べても、私は当らない事が多い。

まあ、人それぞれである。

初めてのパナイ島での、夜の食事である。
矢張り、二人で、100ペソ前後、200円程度である。

ホテルに戻り、シャワーを浴びて、タバコをふかし、寝る用意をする。
コータも、どこにも出掛けなかった。

日本を出て、四泊目である。
そろそろ、疲れる時。

水を飲んだり、コーラーを飲んだりして、寝ることにする。
エアコンを弱くする。
南の島は、湿度が高いが、矢張り、乾燥するのだ。
朝目覚めて、喉が、少しおかしくなる。

私は、現地時間の五時頃に、目覚める。
そして、一階のレストランで、コーヒーを注文して、外で飲む。
ホテルのレストランは、24時間制である。

田舎のホテルにしては、特別である。
このホテルの客は、大半がフィリピン人である。
そして大半が、仕事のために使用しているようだ。

後で知るが、日本の企業が多くある。
だが、日本人には会う事がなかった。
最も、日本人は、もっと高い料金のホテルに泊まるのだろうが。

このホテルには、二泊することになる。

翌日、コータが散歩に出掛けて、支援する場所を探した。
そして、再度、私を連れて、下見に行く。

その場所は、海に面した地区である。
市場の近くで、それはそれは、大きなスラムである。

兎に角、トタン屋根のバラックのような家が続く。
海に出た。
子供たちが泳いでいる。
それを少し年上の女の子が見ていた。
声を掛けた。

英語が出来るか・・・
すると、一人の女の子が、出来ると言う。

そこで、私は、後で、日本からのプレゼントを持ってくると、言った。
すると、女の子は、本当に・・・
本当だよ・・・
いつ頃、来るの・・・
もうすぐだよ・・・

ここまで、待っていてくれる・・・
オッケー、待っている・・・

それで、決まりである。
バイクタクシーをつかまえて、ホテルに戻り、更に、運転手に、もう一度、同じ場所に行き、これこれをするので、待っていて、またホテルに戻ると、頼む。

150ペソと言う運転手に、私は、120ペソでと言うと、了解した。
兎に角、値切ってみることである。

早速、部屋に戻り、すべての支援物資を持って、バイクタクシーに乗った。


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2012年11月28日

平成24年ネグロス島へ13

日の丸を掲げて、バイクタクシーに乗る。
市場に近くなり、一つの細い道を示す。
ようやく、バイクが通れる道だ。

そこを抜けて、海に出る。
子供たちが待っていた。

すると、私たちを歓迎するように、男の子五人が、飛び込みを見せてくれる。
私は、拍手をして、歓声を上げた。

少し大きな女の子が、私が渡す日の丸を掲げてくれた。
そして、何と、それを振るではないか。

男の子たちが、傍に来たので、バックを開けて、それぞれに合う衣服を取り出すと、歓声が上がる。
日本からの、プレゼントだ・・・

その騒ぎに、人が続々と出て来た。

ボーイ、ボーイ
ガール、ガール
次々と、取り出すと、それを受け取る子供たち。

お祭りのようになってきた。
その周辺は、スラムである。
私は、先に進んだ。
でも、皆、着いて来る。

ボーイ、ガール
すると、赤ん坊を抱いた若い女も出て来て、ベイビーと言うので、幼児物を探して、渡す。
それが、30分ほど続いた。

バイクタクシーの運転手は、動けないので、入って来た場所にいるとのこと。

どうして、そこに入っていたのか・・・
冬物の帽子が、幾つかあった。
すると、驚いた。
皆、それを欲しがるのである。

それを貰った子は、すぐにかぶった。
すると、それを見て、おじいさんが出て来た。
私にも、帽子を・・・

だが、子供用しかない。
つまり、帽子は、日焼け止めに必要なのだ。

おばさんたちも、出て来て、帽子が欲しいと言うのである。

延々と、着いて来た、男の子たちの一人は、白いパンツの中に、大量の衣類を入れていた。
そんなに一人で、取ったの・・・
しかし、後で、彼は、スラムの子供たちに上げていたという。

貰うのが、楽しいのだ。

少しばかり、先を進んだが、もう一度、元に戻る。
そこで、残ったものを、すべて取り出す。

何一つも残らず、渡すことが出来た。

最後になった。
皆々、揃って、私たちを見送るのである。

バイクタクシーに乗り込んでも、子供たちが並んでいるので、もう一度、降りて、私は、一人一人と、手を握った。

一人の男の子に、好きだよ、また来るから、と言うと、彼も、僕も好きだよ、待っているという。
学校に通っているから、英語が出来る。
そして、バイクが動くと、子供たちも、動いた。
追いかけて来る。

ウイリーと言った、男の子は、バイクタクシーの後に乗り、私に、アイ・ラブ・ユーと、言う。

ネクスト・タイム・・・また、会おう・・・

日の丸の旗を振っていた女の子は、何度も、サンキューを繰り返した。
彼女には、ガールセットを上げたのである。
その小さなバックには、女の子が好きな、様々な、髪飾りが入っていた。

差し上げている際に、おばさんが、何度も子供たちに注意していた。
ほら、この人は、汗だくだよ・・・
もう、いい加減にしなさい・・・
そんなことを言っていたように思う。

スラムから抜ける時に、大人たちも、私たちに笑顔で、さようならと言う。

兎に角、終わった。
バイクタクシーは、スピードを上げて、ホテルに向かう。

ホテルに着くと、本当に汗だくで、メガネも濡れていた。

私は、運転者に、150ペソを上げた。
約束通りである。
値切ったが、待ち続けてくれたお礼である。

運転手が、ホテルのガードマンに何かを言う。
ガードマンが、私たちに、ありがとうと、言った。

部屋に戻り、早速、シャワーを浴びる。
この手渡しは、非常に疲れる。
着物も汗で、濡れている。

良い写真も撮れたようで、安堵する。
支援をしてくれた人たちに、公開して、その人たちが下さったものが、確かに、手から手へと、渡されていることを、お知らせする。

いつも、次の約束をするので、それを守りたいと思う。
初めての場所での、初めての支援は、大成功である。


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2012年11月29日

平成24年ネグロス島へ14

その夜は、日本食堂に出かける予定だったが、疲れて止めにした。
その店は、スエヒロといい、一番古い日本食の店である。

ネグロス島戦記を読むと、その店のことが、書かれていて、兵士たちが休みの日に、船でイロイロに向かい、その店で日本食を食べた、国を思ったとある。

そこで、私も、その店に行こうと思った。
が、それは、明日の夜にすることにした。
更に、ホテルも明日、変更することにした。

別の街角に立ってみたいという思いだ。

だが、夜も、地元の食堂に出た。
ホテル付近には、多くの食堂がある。
勿論、安い食堂である。

ホテル並びの店は、スープがサービスでついていた。
そのスープーが、少し酢が入り、美味しいのである。

おかずを、二品と、ごはんである。
それで、十分。
二人で、120ペソ、240円である。

部屋に戻り、明日移るホテルを探す。
私が電話をした。
何となく、通じた。
部屋はあるということだ。

だが、翌日、そのホテル、ペンションといった方がいいゲストハウスは、すべての部屋が、窓の無い部屋で、水シャワーしかない。
これでは、駄目だと、別のホテルを探す。

そして、見つけたのが、モロ教会近くの、矢張り、古いホテルだった。
850ペソと高いが、部屋が広くて、それだけで私は満足した。

コータが、ここは、幽霊ホテルだという。
何せ、泊り客が私たちしかいないという。

四階建てだが、ホテルは、二階部分だけであり、その上の階は、何とも廃墟だという。きっと、昔は、上の階もホテルとしていたのだろうが、今は、二階のみを使っているようだった。

教会の前は、公園がある。
それが、多くのストリートチルドレンと会うのに、良かった。

昼に移って、早速、ストリートチルドレンと出会った。
そして、まず、三人の子供たちに、昼ご飯を食べさせた。

食堂に連れて、食べさせる。
最初は、入るのに、躊躇していたが、店の人が呼び込んでくれて、子供たちが入って来た。
好きなおかずを選ばせて、ご飯を貰う。
私は、何も食べずに、彼らの食べるのを見ていた。

そうして、一人、二人、三人と、それぞれのグループの子供たちに、昼飯をご馳走した。

学校に行かない子は、英語が全く話せないので、身振り手振りでの会話である。

中には、英語が出来る子もいた。
親は、いないが、兄弟は、大勢いると言う。
だが、その兄弟にも、頼れないのである。

子供たちに食べさせた後で、私も、食堂で食べた。
その近辺の人たちとは、急速に、親しくなった。

皆、食堂にテレビを見に来たり、タバコをふかしに来ている。

近くにスーパーもあり、買い物も、出来た。

夕方まで、部屋で休むことにする。
コータとは、別行動である。
そして、相変わらず、部屋の戸を少し開けていた。

その夜、漸く、日本食の、スエヒロに出掛けることが出来た。
ジプニーに乗って出掛けたが、何と、スエヒロは、ホテルの一階にあった。
ホテルは、それなりの、高級ホテルである。

値段を見て、高いと驚く。
更に、私が考えていたスエヒロと違う。

その店には、昔のセピア色した、スエヒロの写真が、飾られてあった。
つまり、スエヒロは、名前を残して、無くなったのである。
日本食イコールスエヒロということで、ホテルが、その名前を買ったということである。

昔の話を聞けると思ったが、違った。
誰も、昔の話を知らない。
ボーイたちは、若者であるから、なお更である。
少し、がっかりした。

980ペソで食べ放題だと言われた。つまり、2000円である。
食べ放題を食べるほど、気力は無い。
単品で注文した。
天ザルうんどんにした。
コータは、親子丼である。

私には、高級店は、窮屈である。
だが、日の丸のついた、バックを下げているので、日本人だと、解る。
サービスが日本のようである。

食べ終わり、早々に、ホテルに戻ることにした。
ちなみに、ホテルフロントに行き、最低の部屋の料金を尋ねると、一泊、1500ペソ、3000円である。
ああ、こんなホテルには、泊まれないと思う。

昔話の期待は無くなり、ジプニーに乗って、ホテルに戻った。
今ひとつ、何か物足りないのであるが・・・

今夜と、明日の夜で、イロイロから離れる。
もう、マニラに一泊して、日本に帰国するのである。
あす、一日で、出来る得ることをする。

子供たちに、食事させることだ。


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2012年11月30日

平成24年ネグロス島へ15

翌日、イロイロ最後の日、私は近くのモロ教会に出掛けた。
スペイン統治時代に建てられた、古い建物である。

そこで、教会に入ろうとしたが、表門が開いていない。
そこで、裏側に回った。
それが、幸いした。

教会に入る扉が見当たらない。
その教会の裏に住む人に声を掛けた。
すると、何と、日本語で返事をされた。

わたし、すこし、日本語できるよ・・・
出て来た人は、女性だった。
昔、日本で働いていたよ・・・

その夫も、一緒だった。
とても、礼儀正しい。

教会に入れますか・・・
ああ、入れますよ、案内します・・・

そこで、彼女に連れられて、逆の方向に向かった。

もし、そのまま、私が逆の方向に行って、教会の中に入れば、それからのことは無かったのである。

彼女は、教会の中に案内してくれた。
そして、説明した。

聖堂の祭壇の真ん中の像が、聖母アリアの母の、アンナの像であること。
そして、マリアの像が横にある。
実に、巧みな、聖堂であった。

聖母の母が、真ん中にある。
そして、マリアの像である。
十字架が無い。

カトリックは、その地に合わせて、崇拝の対象を変えたのである。

母の母を祭ることで、母なる教会を意識させる。
これは、カトリックの独特の手法である。

それでは、イエスの像というと、聖堂の後ろにある。
それも、黒いイエス像である。
その地方の人の肌に色に合わせた色なのである。

これ以上は、説明しない。

さて、次ぎに彼女は、私を司祭のいる場所に連れた。
神父様に会わせるというのである。
この教会には、一人しか、司祭がいないと知る。

この巨大な教会に、一人の司祭である。
ということは、大変なことである。

案の定の、司祭は多忙だった。
その事務所で、少し待たされた。
司祭のスケジュールが、黒板に書かれている。
予定が、びっしり。

それでも、私に会うという。
光栄である。

その日は、特に暑い日だったので、事務所で待つことにした。
隣が司祭の部屋である。

呼ばれた。
快く、司祭が私を迎え入れた。
たどたどしい英語で、私は挨拶した。
そして、フィリピンにて活動していることを言う。

司祭は、アントニオ神父と言った。
とても、感激してくれた。
神父は、修道会の司祭ではなく、教区司祭である。
つまり、司教の下にいる司祭である。

私は、カトリックの洗礼名で名前を言う。
ミカエル、マイケルである。

少し、話しをした。
そして、忙しい中を会って下さったことを感謝すると、神父は、お会いして大変嬉しいと、言う。

私は、信者が求めるように、祝福を求めて手を合わせ、頭を垂れた。
アントニオ神父は、私を祝福した。

神父様、ありがとうございます。お会いできて、嬉しいです。また、イロイロに来ますと、言った。
また、会いましょう・・・
神父は、そう言って、私を送った。

カトリックに会えば、カトリックに。イスラムに会えば、イスラムに。私の信条である。
勿論、私は、カトリックの洗礼を受けているので、カトリックと言っても間違いないが・・・

私は、キリスト教徒であり、イスラムであり、バリヒンドゥーであり、ブデッストであり、古神道であり・・・
気違いといわれても、それでいい。

宗教による、争いを最も忌むものである。

我が国の宗教というものは、無い。
日本は、宗教の国ではないのである。
日本は天皇を戴く伝統の国である。
その意識で、宗教に対する。

そこにいた人たちは、皆々、親切だった。

私は、ロザリオを買った。
友人に差し上げようと思った。

スペイン統治時代から、フィリピンは、カトリックの布教がついて回ったのである。
そして、今は、伝統になっている。
それを否定する何ものも無い。

幸福感というものは、人それぞれである。
だから、私は、どの宗教に対しても、否定はしない。

相手の大切にするものを、私も大切にする。
だから、話し合いが出来る。

この姿勢は、日本人なら、ある意味で、簡単に出来る行為である。
相手の信じるものを、否定することなく、日本人は、対応出来るのである。


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2012年12月01日

平成24年ネグロス島へ16

私を教会に案内し、司祭に会わせてくれた女性は、その夫と一緒にいた。
私は、彼の仕事を聞いた。
すると、日系企業である。

それで、礼儀正しい様子が、理解できた。
上司は、皆、日本人である。

彼女は、連絡先を書いてくれて、次に来た時は、何でもお手伝いすると言った。つまり、イロイロ支部が出来たのである。
兎に角、誰彼に、話しかけてみることだ。
何が始まるか、解らないのである。

さて、その日の午後は、ただ、ストリートチルドレンに会うことだけだった。
彼らを見つけるために、何度もホテルの前、公園を散歩した。

一度、部屋に戻ると、コータが、自分のバックに少し、支援物資が残っているという。
えっ、本当・・・
それでは、ホテル近くの川沿いの、スラムに入ってみようということになった。

その時は、少年の自転車タクシー、シクロを使った。
僅かなものだけだが・・・
折角、来たのだから・・・

シクロの少年は、13歳で英語が出来る。つまり、学校に通っている。学校が終わると、家族を養うために、シロクに乗る。

シクロは、片道、20ペソである。距離は関係ないが・・・
バイクと違い、それほど、遠くには行けない。

スラム・・・酷い暮らしである。
その建物・・・小屋と呼ぶに相応しい。

子供を見つけて、衣類を探していると、続々と家から、人が出て来た。
子供物だが、皆が、とても喜ぶ。
そして、すぐに無くなった。
すると、一人の男が、子供は大勢いるよ・・・と、言う。

次ぎに来た時に、沢山持ってくる・・・と、私が言った。
すると、歓声が上がった。

日の丸を掲げなくても、日本人だと、認識してくれたことが、嬉しい。
これで、本当に支援物資が、無くなった。

もう、明日はマニラに一泊して、その翌日、日本に帰国する。
そして、次は、タイのメーソートに難民の孤児たちに会いに行く。

やれることを、すべて、やった。
ただ、それだけである。
この行為に何か意味があるならば、それは、後々に出てくることだろう。

更に、もう、そういうことも、考えなくなった。
ただ、活動を公開することは、必要なことだ。

それにより、誰かが、刺激を受けてくれればいい。

バコロドで、慰霊をした日の夜に、日本食の店に出掛けたことを、書かなかったが、日本食の店より、その店が開店するまでの間、近くの店で時間待ちをしていた時に、出会った、六名の人たちと、話に花が咲いた。

三人姉妹と、その友人、そして、姉妹の一人の夫である。
私たちが、ストリートチルドレンに衣類を渡していると言った時、その夫が、私に近づいてきて、言った。
僕も、ストリートチルドレンだった、と。

それで、今は、フード店に勤めて、結婚もしている。
それは、大いに希望になった。
ストリートチルドレンの辿る道は、険しい。

学校にも行けないと、仕事に就くことは、実に難しいからだ。
スリ、カッパライ、地元のヤクザのようになる・・・

一番、心配していることだった。
だが、こういう手本があると思うと、心強く思った。

彼らは、とても、親愛の情で、私たちと話してくれた。
日本語の歌も披露してくれた。
お返しに、私も、歌った。

コータは、彼らの連絡先を渡されていた。
こうして、また、新しい付き合いが始まる。

イロイロの市場近くのスラムに行けば、今度は、声を掛けて貰えるだろう。

更に、多くの人たちが、私たちを見ていた。
何の目的で、来ているのかを、知る。
私にとっての、それは、宝である。

そして、このような、情報は、私たちしか、知らない。
とても、重要な情報である。
何処で、ボランティアが必要なのか・・・

更に、慰霊地は、何処なのか・・・
行ってみて、初めて解るのである。

ネグロス島が、フィリピン第三の激戦地だったということは、多くの日本人が知らないことである。

さて、マニラは、一度、盗難に遭った町、パサイ市に泊まった。
空港から近いからという理由である。

相変わらず、ストリートチルドレンが・・・障害者が・・・ホームレスがいる。
幼子を抱いた、三歳の子・・・
胸に迫るものがある。

自然災害と、軍事費に費やされる、国費である。
貧しい国は、大変だ。
しかし、それが、その国の運命なのである。
今、中国に対して、どうしても、軍事を強化しなければならない。
国民の生活は、後手に回る。

出来ることを、するしかない。
日本でも、若者ホームレスが増えている状況である。

日本にも、貧しい子供たちがいる。

私は、東南アジア共同体、アセアンと、南アジアの時代がはじまると、考えている。その中に、プラスワンとして、日本が入る。

それは、平和を基本とした、付き合いになるべく、努力するはずだ。
奪うのではなく、与え合う。
与え合えば、豊かになる。

一つの国では、どうすることも出来なかったことが、多数の国で分配すれば、豊かになる。

その、調整役に日本がなる。
そのためには、日本に対する、信頼である。

ちなみに、バコロド空港も、イロイロ空港も、日本の支援によって、建てられたものである。

日本が、支援大国であることを、国民の多くが知らないことは、不幸である。

アジア、太平洋の国々に、日本が莫大な支援をしていること。
そして、それらの多くの国は、日本に期待と、希望を見ている。

とりあえず、旅日記を終わる。
書いていないことは、多々ある。


posted by 天山 at 07:26| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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