2012年10月31日

平成24年ネグロス島へ

この活動は、極めて個人的なものだった。
サイパンから始まった、戦没者追悼慰霊である。

様々な、戦地に赴いた。
そして、丸六年が終わろうとしていた。

そのことに、思い至ったのは、日本兵の幽霊が出るという、話からだった。
思えば、25年も前のことである。

戦争が終わって、50年を経ても、幽霊が出るなんて・・・
そして、幽霊になる兵士たちの心の哀れである。

いつか・・・
そうして、その、いつかが、やってきた。

ただ、慰霊をしたかっただけである。
それが、出掛けているうちに、衣服支援を行い、更に、食糧支援にも及んだ。

誰に頼まれた訳ではない。
ただ、心の命ずるままに行為した。

傲慢
偽善
いい気な者

様々な言葉が、浮かんだ。
そして、一番、嫌だったことは・・・
それを公にすることだった。
だが、公にすることになった。
何故か・・・

多くの人に知って貰いたい。何を・・・
先の大戦にて、亡くなられた方々のことである。

私の、爺さんの時代である。
そして、父の時代のことである。

私の父は、最期の志願兵だった。
15歳と聞いていた。

父は死ぬまで、天皇陛下を、口汚く呪っていた。
あの者のために・・・
当然である。
父の年上の男たちは、全員、戻らなかったのである。
死んだ。

天皇陛下のために・・・
死ね・・・

そんな時代に、生きていない私が、戦没者の慰霊を思い立ったのは、ただ、未だに幽霊になって、出るという、一言だった。

追悼・・・
つまり、追って悼む。
だから、調べた。
歴史、戦記を、読みまくった。

自虐史観というものに慣れていた私である。
驚き、戸惑い・・・

激戦地に、何度も、佇んだ。

ここで、死んだのか・・・
こんなところで、死んだのか・・・
戦死ではなく、餓死、病死、狂い、死んだ・・・

日本は、何と言う馬鹿なことをしたのか・・・
そして、天皇というものは・・・何と、馬鹿げた存在なのか・・・

しかし・・・
しかし・・・
事実を知ることになる。

恐るべき事実である。

戦争を求めたのは、日本ではない。
更に、天皇は、最後まで戦争回避を願い、そのために、様々な尽力を尽した。
だが・・・

白人支配の世界史の中で、はじめて、有色人種として、日本は、有色人種の代表として、戦争を受け入れた。
どうしても、白人と戦争をしなければならないと。

日露戦争は、白人との戦いではない。
あれは、結局、白人と白人の戦いだった。
ただ、日本は利用されただけである。

だが、その日露戦争の勝利が、有色人種に、希望を与えたということである。

戦争に、引き込まれた日本の、悲劇を、320万人の犠牲者が負った。

私は、源氏物語風に言えば、人の数にもはいらない者である。
更に、実は、私は静かに生きて、静かに死ぬことが、願いだった。

願わくば 南の島の 浜辺にて 一人静かに 息を引き取る

そのように、考えていた。
だが、違った。

生きたままに、荒ぶる者、祟り神のように生きることを、定められていたのである。

つまり、私は、祟り神にならなければならない。
殺されるまで、我が言葉を言い続ける。

殺されなければ、私は、いい続けるのである。
死ぬことを、恐れない。

いつでも、死ぬ覚悟でいる。

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2012年11月01日

平成24年ネグロス島へ2

首都のマニラには、古くから多くの親日家がいることは耳にしていたものの、このネグロス島の田舎町にさえ、親日家のいることに改めて驚異の念を抱いたのであった。・・・

案内役の青年は、好意をもってあらゆる角度から、フィリピンと日本、そして今後のアメリカとの将来のかかわりについて熱心に語った。・・・

「われわれのフィリピンは、三百年にわたる長い年月、スペインの植民地だった。続いてアメリカが百年近くもこの国を支配してきた。そして今、あなたの国、日本が占領している。初めて来たスペインの人々は、私たちの先祖に、キリスト教を、偉大な精神文明を与えてくれた。次に現れたアメリカ人は、これまた素晴らしい精神文化と物質文明を与えてくれた。
さて問題は、これからである。「日本人は世界で最高の優秀な人種である」こう、日本の為政者は、日本の軍人は、われわれに高言してはばかることをしらない。しかし、この国に侵入して来た日本人はわれわれに、フィリピンの国民に、一体何をこれから与えようとするのですか。
日本軍が、フィリピンのネグロス島に来て、アメリカを、われわれと日本の共同の敵であるといって攻めて来た。自分たちは静かで平和な祈りの日々を、昨日まで過ごしてきた。そこへ突然に日本軍が現れた。
私はあなたに対して何の恨みもない。あなたは私が最も信頼する日本の友人の一人である。けれども、今日までの日本軍の行動について、私は許すことができない。
日本が東洋の盟主であると自負するのであれば、われわれフィリピン国民の一人ひとりが納得のできる方法を、手段をとるべきである。きっとできるはずだと思う」
ネグロス島戦記 池 平八

その青年に対して、一家の主人が、なだめるような優しいまなざしで、言う。
「そのような話はよせ。私たちの心の内は、この方には十分にわかって戴いているはずである。大切な日本の友人に対して失礼ではないか。今は混乱の中にいる。遠い日本からはるばるこのシライの町まで来てくれている日本の方に、こうして会えることだけで十分ではないか。それだけでも私たちは幸せではないのか」

シライの町とは、バコロドの隣町であり、そのシライに日本軍のネグロス島本部があり、そこから、日本軍が壮絶な戦いをする、マンダラガン山は、すぐ目の前である。

ネグロスにおける戦闘は、フィリピン第三の激戦地として知られる。
マニラのルソン島、レイテ島に次ぐ。

軍属の総数は、14000名であり、生き残った者は、600名程度である。

一部在留邦人の非戦闘員の痛ましい死もある。

更に、遺骨が内地の遺族に戻ったのは、僅かに、数十柱であり、その他の遺骨は、マンダラガン山中の、樹海の底に放置されたままだった。

生き残り、捕虜となった兵士が、帰国する際に、多くの戦友の遺骨を見捨てることに対して、慙愧の念を強く抱き、涙して帰国したと言う。

戦闘は、ネグロスの名峰の三山、シライ、マンダラガン、クワンラオンの山中である。

三山の中央に悠然と位置する名山。そのマンダラガンの山頂に、今、私は立っている。平和はまだまだ遠いというのに、自分の足で山頂を踏みしめている。悲しい現実の中で、やっと思いはかなえられた。それにしても、この日まで、なんとも長い月日であった。
池 平八

副官をはじめ、ネグロスの守備隊の第百二師団の将と兵は、死を賭してこのマンダラガンの頂上を目指した。しかし、そこにあったものは戦死と戦病死と餓死であった。死をかけてまでも、なぜ、マンダラガンに登らなければならなかったのであろか。己の行く手に死が待っているというのに、人々は先を争うようにしてこの山に向かったのであった。
だれがこの決死の競技を企てたのであろうか。なんと無謀なことをしたものだ。何万もの戦友が落伍し、挫折して最期を遂げたというのに・・・

私が、仙人峡の深い密林の独房にただ一人取り残され、歌い続けたある歌は、多くの戦死者への、餓死者への、鎮魂の挽歌であったのか。

遥か西に向かって、ゆるやかな裾野の先にシライの町がある。海岸には南の国の黒潮が寄せているというのに、山の頂上は寒風が吹き荒れ、冷たい霧雨がほおを流れ落ちる。
ああ、一時も忘れ得ぬ思い出多き日本。故郷の山河、故郷の人の心の温かさが足元の大地の底から伝わってくるようだった。
池 平八

引用は、これで止める。

先の、案内役の青年の言葉に関して、私は、別の感慨を持つ。
三百年のスペインの植民地時代によって、フィリピンは、バラバラに分断され、伝統を破壊され、すべてをキリスト教によって、まとめられた。

偉大な、精神文明・・・
嘘である。

そして、アメリカがもたらしたもの・・・
軽薄な、精神文化である。
フィリピンの島々にある、伝統の方が、実に深く、実りあるものだった。

スペインも、アメリカも、フィリピンのすべてを、奪ったのである。

残していったものは、争いの種である。
特に、根強いものは、宗教対立である。

元からの、イスラム教徒を、カトリックは、平然として、虐殺した。
それが、ミンダナオ島の、反政府組織となった。

今年、はじめて、その反政府組織と、政府の間で、和平の調停が整った。そこに、日本が最初から、アドバイザーとして存在していた。
日本の仲介を求めたのは、反政府側である。

仲介に、宗教の国々では、話にならないと、宗教色の無い、日本を選んだのだ。

さて、今回、私は、ネグロス島だけに留まらず、フィリピン戦線にて散華した、すべての日本兵の追悼慰霊を、ネグロスにて行おうと決めて、出掛けた。

それは、今までの、追悼慰霊六年間の、締めくくりでもあるという、意識だ。
更に、これからも、死ぬまで続けて行く覚悟であり、七年目からは、また再度、慰霊地を訪ねて、追悼慰霊の儀を執り行いたいという、決意である。

準じて、尋ねる国と地域の人たちに、衣類支援と、孤児たちには、食糧支援をするという、決意である。

これを、人生最期の希望として、生きる。
更に、忘れた兵士たちの思いを、人々に伝えることである。
歴史は、我が心の内にある。


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2012年11月02日

平成24年ネグロス島へ3

日本から飛び立ち、その日のうちに、ネグロス島のバコロドに着く予定である。
凄いことだ。

朝、部屋を六時に出て、バコロドには、現地時間の夜、七時前に着いたのである。
時差は、一時間。日本の方が、一時間早い。

一時間の時差は、体に与える影響が少ないのが、助かる。

台北で、乗り換えするが、一時間飛行機が遅れた。
それを考慮して、マニラの国内線では、三時間の余裕を取った。
であるから、ギリギリの国内線の搭乗手続きである。

マニラの国内線は、国際線乗り場から、バスで移動する。
それが、端から端まで、30分程度かかるほど。

兎に角、横浜から、夜にはバコロドである。
そのバコロドは、10月がお祭りである。
次第に盛り上がる頃に、何と、お祭り広場に近いホテルを予約した。

つまり、カテドラルの前の公園が、メイン会場であるから、カテドラルに近く、公園に近いという、便利さ。
何故、便利か。
そこに、ストリートチルドレンが集うからである。

カテドラルとは、カトリック教会のことで、司教がいる場合に、カテドラルと呼び、司祭、神父の場合は、チャーチになる。

大司教なら、枢機卿に当る。
だが、アジアから、大司教が消えた。
この、ローマ法王になってから、アジア人の大司教を解任したのである。

つまり、白人のみが、大司教になれるのである。
まあ、そんなことは、どうでもいいが。

いつも、泊まっていたホテルは、このお祭りの稼ぎ時なのに、改装工事をしていたので、止む無く、新しいホテルにした。

私は、古いホテルが好きである。
つまり、部屋が広くて、料金が安い。
ただ、幽霊ホテルのような感じはあるにはあるが・・・

見慣れたバコロドの町である。
土曜日の夜である。
いきなり、お祭りの大音響が聞えてきた。

ホテルに着いて、すぐに、バコロドのお世話役の、エジアさんに電話する。
ところが、知らない人が出て、話しが通じないと、コータが言う。

エジアさんの家は、部屋貸しをしているので、その人が出ることがあり、話しが通じないこともあると、知る。

シャワーを浴びて、夜の食事を取るために出ようと思うが・・・
勿論、現地の人たちが行く、食堂である。
ところが、疲れで、食欲がない。

日本から出たら、アルコールを飲まない私だが、仕方なく、ホテルでビールを飲んだ。
食欲を出すためである。

そして、結局、コータのみが、食事に出掛けた。
私は、食べたくないのである。
ただ、酔いが回って、暫くすると、何か食べたくなり、日本から持参した、おにぎりを、一つ食べた。

日本からは、何と七つ、おにぎりを持参してきていた。
途中で食べたので、三つ残っていた。
二つ残ることになるが、私は、それを忘れて、翌日から現地の食堂に出て、食べた。気づいた時、おにぎりが、腐っていた。

海外に出かける時は、必ず、おにぎりを作る。
朝の四時頃に起きて、おにぎりを作り、もう一度、体を横にして、五時になったら、準備をする。
慌てるのが嫌なので、時間は鷹揚に取るのである。

今回は、半年も休んでいたので、再び、旅に慣れるために、頑張った。
頑張るというのは、あの旅の感覚を取り戻すということである。

明日は、日曜日である。
本当は、支援の日なのだが・・・
着いた翌日は、一日休むことにしている。
更に、活動した翌日も、休む。

休んでばかりいるのである。
つまり、極力、疲れないようにする。
日本は、秋の風が吹き始めていたが、ここは真夏である。
知らずに、熱中症になるのであるから、兎に角、休む。

外からの、大音響を聞きつつ、寝ることにした。
何せ、ホテルの前にも、屋台が出て、とても賑わっているのである。
人の声も、響いて聞えるほどだ。

マスカラフェスティバル・・・
一年に一度の、大変なお祭りである。

私たちが、隣の島のパナイ島、イロイロに渡る日が、最高潮の日で、何でも、仮面をつけて、体に色を塗り、それが見物で、現地の人も近くのホテルに泊まるほどだという。

更に、フィリピン各地からも、人が集まるのである。

予定は、四泊であるが、私は、お祭りのために来たのではないと、三泊にして、早々に、イロイロに渡った。

だから、三泊の予定のイロイロで、四泊することになる。
後で、じっくり書くが、イロイロは、バコロドと比べて、本当に田舎町である。更に、観光客などを当てにする業者など無く、淡々として、物価も安く、過ごしやすかった。

町に埋没することが出来たのである。

翌日は、休む日のはずだが・・・
私は、何と、翌日の朝から、カテドラルの公園に出て、ストリートチルドレンと会うことになる。


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2012年11月03日

平成24年ネグロス島へ4

翌日は、朝六時前に目覚める。
矢張り、寝ていられないのである。

普段着に着替えて、休んでいると、カテドラルの鐘が、やたらに長い。
ああ、自動でメロディーを奏でるようにしたのだ・・・と、思う。

ある時間ごとに、それが鳴り響く。
バコロドには合っている。

さて、私は、市場にコーヒーを飲みに出た。
絶品のコーヒーである。
説明すると、長くなるので・・・
一杯、10ペソ、20円である。

その贅沢な煎れかたといったらない。
挽いたばかりのコーヒーを延々と、落としている。
それを、カップで掬い出す。

市場の回りは、もう商売を始めている。
マンゴーの切り売りを買った。
隣の花屋の、兄ちゃんが通訳である。
ネグロス島の言葉しか出来ない人も多い。
若者は、英語が出来る。

その切り売りを持って、市場に向かう途中で、二人の幼児に会った。
挨拶した。
近くにいた母親が、挨拶をする。
路上生活をしているのだ。

私は、母親に、ここにいますか?
後で、プレゼントで衣類を持ってきますと、言った。
母親は、少し英語が理解できる様子で、ここにいますと、答えた。
切り売りの、マンゴーは、手を出す女の子に上げた。

さて、コーヒー屋には、以前の顔がいない。
注文するのに、言葉がある。
つい、アメリカンと言ってしまった。
すると、一人のおじさんが、通訳してくれた。

しかし、出て来たのが、牛乳入りである。
違うのに・・・
まあ、仕方が無い。

砂糖を入れて飲む。
ブラック、プレーンだったか・・・
でも、ブラックと言うと、そのままで・・・

その香りと味わいは、絶品である。
そして、その安さ。
コーターが見つけた店であるが、私も一日、何度か通うことになる。

朝は、仕事前の男たちが多い。
更に、コーヒー屋の前に、米で作った腹持ちする、色々な米お菓子のようなものが、売られている。それを買って食べると、朝ごはんである。

私も、時々、ストリートチルドレンに、それらを買って配ることにしている。

タバコをふかして、コーヒーを楽しむ。
男たちは、皆々、タバコを吸うので、安心して、ふかす。
実は、フィリピンでも、禁煙の場所が多くなった。
ホテルの部屋でも、禁煙が多い。

レストラン、公の場所・・・
地元の人たちの食堂も、一部禁煙になっていた。

だが、喫煙場所も多いのが、救いである。

今日は、何もしない日であるが・・・
しないでいられない、気分である。

後で、また来ようと、立ち上がった。
そして、目の前の、米菓子売りの前に立つ。
私たちも、時々買って食べるものである。

すると、一人の男の子が、通る。
そして、行き過ぎて、また、私の元に戻った。
手を出す。
そこで、いつものゼェスチャーである。口に手を当てる。
すると、男の子が、頷く。

私は、彼に、欲しい物を選べとゼェスチャーで言う。
彼は、何と慎み深く、バナナの揚げ物を一つ選んだ。
私は、店の人に、もっと、上げてと言う。
すると、袋に五つ入れた。

一つ、5ペソ、10円である。
男の子は、現地語で、ありがとうと、言う。

その辺りの人たちは、私が何をしているのか、知っている。
皆、とても親切で、自然、私の存在も、その中に、溶け込む。

フィリピンは、小学生から英語を学ぶので、学校へ行っている子なら、英語で話が出来る。だが、学校に行かない子もいる。
ストリートチルドレンである。

だから、英語の出来る子を呼んで、通訳してもらうこと多々あり。

矢張り、私も、米のお菓子を少し買って、そのまま、カテドラル前の公園に向かった。

公園の周囲は、フェスティバルのために、屋台で覆われている。
その合間を通り、公園の中に入る。
至る所に、皆々、寝ている。

ストリートチルドレンだけではない。
ストリートアダルトも多い。

一人の男の子が目覚めていた。
近づくと、手を差し延べる。
物乞いである。
私は、口に手を当てる。
男の子は、頷く。
その時、一人の男の子かぎやってきた。

モーニングと言うと、モーニングと返すので、英語、オッケーかと問うと、頷く。
年は幾つ・・・
12歳・・
彼は、13歳だった。

父母がいるのか・・・
彼は、いない。僕は、母がいる。

私は、六つ入った、白い米のパンを、13歳の子に渡した。
すると、代わりに、その子がサンキューと言う。

だが、どう見ても、13歳に見えない。日本では、七、八歳程度の大きさである。
つまり、栄養が足りないのである。

私は、後で、シャツ、パンツを持ってくるから、と言った。
日本からの、プレゼントだよ・・・
英語の出来る子が、笑顔で頷いた。

そこから立ち去り、少しして、振り向くと、何と、13歳の子が、英語の出来る12歳の子に、一つパンを上げている。自分が食べる前に、差し出している。
仲間なんだ。
彼らは、決して、物を独占しない。
分配して、仲間と連携するのである。
それには、いつも、関心する。

最後は、荷台の上に寝ていた、小さな女の子の横に、米のパンを置いた。
そのまま、一度、ホテルに戻る。
今日から、活動する。

年を取ると、自分の疲れが解らないのである。
それで、いい。どうせ、死ぬ。

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2012年11月04日

平成24年ネグロス島へ5

一度、部屋に戻り、一時間ほど、休む。
食堂の開く時間まで、部屋にいることにした。

市場の食堂が一番早い。
だが、コータは、そこに行かない。
見るからに、衛生的ではないから・・・

私は、平気である。
すべて、火を通してある。
市場の外回りにも、多くの食堂がある。どちらかというと、そちらの方が、衛生的である。

だが、それは、日本の感覚から言うもので、現地の人は、そんなことは考えない。

私としては、ホテルなどの朝食など、食べていられないのである。
食堂は、現地の人に会う、最高の場所である。

二三件の店は、顔馴染みになっている。

コータは、昼近くまで寝ているはずなので、起こさず、一人で市場に再度出掛けた。

市場の真ん中辺りに、食堂が複数ある。
仕事はじめの人たちが、すでに食事をしていた。
その中に入り、私も、おかずを二つ選んで、席に着いた。

おかずは、二つともに、魚である。
島であるから、周囲は海。
多くの魚介類が獲れる。

魚好きの私には、もってこいである。

ごはんは、日本の米とは、比べ物にならないほど、不味い。しかし、それは、それである。

そんな時に、チルドレンが現れると、必ず誘って一緒に食べるが、その日は、いなかった。
75ペソ、150円である。
少し高い。矢張り、魚類は、高い。

それから、市場の中を見て回り、いつも干しイカの売る店にも行ってみる。
親子で、何件も同じ店を並べて出している。

ハローと、呼び掛ける。
いつもの少年を探した。
だが・・・いない。
ボーイ・・・と、店の人に言う。
あの、ボーイは・・・

その兄なのか、頷くと、一人の少年を連れて来た。
えっ・・・
こんなに大きくなったの・・・
少年は、はにかんでいる。
中学生くらいだったが・・・こちらが、思うより、年が上である。

以前なら、品物を色々と見せて、売るのだが・・・
今回は、一切そんなことをしないのである。

私は、後で買いに来ると言って、一度、さようならと、言った。

二年も経つと、少年も成長する。特に、成長期である。

再度、カテドラル前の公園に行く。
だが、ベンチに寝る人が多い。
ストリートアダルトである。

公園は、ゴミで一杯だった。それを朝から、清掃している。
お祭りのゴミである。

すでに、店を開けている所もある。
タバコの一本売り、水、飴などを売る。
そこに、二人の青年が座っていた。

声を掛ける。
英語はいいか・・・
二人共に、英語が出来た。
年を尋ねる。
22歳と、23歳である。

仕事は・・・
無い、でも今は、ゴミの清掃がある・・・
その日を暮らすので一杯なのである。

明日のことなど、考えられないのだ。
今日を、どう食べるか、である。

彼らも、ストリートチルドレンだった可能性がある。
何もしないで、ボーっとしているのに、慣れているのか・・・
二人は、じっとベンチに腰掛けていた。

更に、私に何も要求しない。
二人には、品格を感じた。
卑下することがない。

そのうちに、ゴミ集めのトラックが公園に入って来た。
男たちが、私に何か言う。
現地語であるから、解らないが・・・

凄いだろう・・・見てよ・・・
そんな感じに聞える。

だが、ゴミ集めだけではなく、数名の老人が清掃をはじめていた。
それは、自発的なものだろう。

私は立ち上がり、さようならを言って、カテドラルに向かった。
そこには、また、壮絶な人たちがいる。
玄関横に屯するのは、障害者と高齢者である。
福祉の無い町であるから、カテドラルに参る人たちからの、布施を求めている。

日曜であるから、カテドラルには溢れるほどの人である。
私は、その後から、遠くの祭壇を見た。
ミサがはじまる。
日曜は、何度も、ミサがある。

それ程、町の人は、カトリックなのである。
スペイン統治時代の教会である。
その、330年、そして、アメリカ統治の100年。

カトリックが伝統になったのである。

posted by 天山 at 05:47| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月05日

平成24年ネグロス島へ6

昼近くにコーターが目覚めて、コーヒーを飲みに行くというので、それではと、支援物資のバックを持った。

路上生活をしていた、親子の所に行く。
コーターに、カメラを持たせて、出掛けた。

市場から、一本道が離れている。
そこへ行くと、子供が、五人に増えていた。

一番大きな子が、男の子である。
そして、その弟と、三人が、女の子。
赤ん坊といってもいい子もいる。

さて、支援物資を出した。
子供たちが、オーッと声を上げる。
一人一人に合わせた、シャツ、ズボンを渡す。

周囲から大人たちも、見にやって来た。

そして、私は、一番上の男の子に、食べ物は・・・と、聞いた。
と、言っても、ジェスチャーである。
頷く。

その子を連れて、道端で売る、腹持ちするものを買おうと思った。
一人の、おばあさんが売る、餅のようなもの。
ところが、男の子が、こっちがいいと、指差す。

日本で言えば、ジャンクフードの店であるが・・・
中に連れて入った。
私は、その中のパンを10個買った。
すると、その子は、あれが食べたいと、指差すのである。

それが、セットメニューにある。
ハンバーガーと、パスタ、コーラーが着いている。
それを注文していると、女の子が店のガラスの前に来て見ているので、私は、先ほど買ったパンを渡した。

弾むように、親の元に戻った。
男の子は、持ち帰りにして貰い、それを持って、戻る。

先ほどの、おばあさんに、ごめんなさいと、日本語で言うと、笑顔で、何やら言う。
子供たちのことを、毎日見ていたのだろう。

写真を撮って、私たちは、市場のコーヒー屋に向かった。
コーヒーを飲んだ後で、そのままカテドラルの公園に行くことにした。

ブラック、10ペソ、20円のコーヒーは、本格的コーヒーである。
日本では絶対に飲めない代物。
香り良し、味良し。

タバコをふかしつつ飲む。
最高の気分である。
こんな場所に、まさか、こんなコーヒーの店があるとは・・・

その時間帯に出て来た女の子は、顔見知りである。
片言の英語で話しをする。
美人ではないが、愛敬がある。

ブラックには、お湯が着く。
要するに、お湯を足しても、お湯を飲みつつでもいいのだ。
だが、地元の人たちは、お湯を飲まないし、薄めもしないで、飲む。

男たちは、ばら売りのタバコを買って、ふかしている。

道端で、バリ売りのタバコを売る、おじいさんに、コーターが一月の収入を尋ねた。
500ペソ、1000円だという。
えっ、1000円で一月・・・それで生活しているの・・・

驚いた。

一箱を売っても、5ペソの利益である。
当然といえば、当然である。

さて、コーヒーを飲み終えて、公園に向かった。

渡せる子がいれば、いいが・・・
ストリートチルドレンは、神出鬼没である。
いつ、現れるか、解らない。

昼近くは、姿が見えない。
だが、その日、私は何度も足を運んで、グループになっている子たちに、食べ物を与えた。
それで、すぐに顔見知りになる。

ホテルに戻り、私はコーターに提案した。
ストリートチルドレンを集めて、パーティをしよう。
そこで、皆に、食べ物、飲み物を上げて、色々と話をする。

と、計画はいいが・・・
何せ、今は、お祭りの最中である。
公園の広場では、夕方前から、踊りなどの催し物があり、それは、実現しなかった。

だがら、目に付いた時に誘って、道端で売られる、チキンとご飯を人数分買って、渡した。
兎に角、安いので、大盤振る舞いである。

一人分、25ペソ、50円程度。
日本では、考えられない金額である。

そうして、何もしない日に、すでに活動をはじめていた私である。

その夕方、エジアさんの家に行くことにする。
一箱だけ届いた、支援物資を取り、エジアさんから、明日行くべき、施設の場所などを確認する。

更に、私たちは、その夜、日本食の店に行くことにした。
今までは、決してないことである。
お祭り気分に乗せられたとしか、言いようが無い。

だが、結局、日本食の店に行ったのは、翌日の夜であった。

posted by 天山 at 01:01| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月06日

平成24年ネグロス島へ7

夕方、少し薄暗くなってから、エジアさんのお宅に伺うことにした。
電話連絡も着き、相手も待っている。

自転車タクシー、シクロに乗った。
おじいさんだった。
息を切らせて、自転車をこぐ。
これで、彼は生活をしているのだ。
そして、それがまた、多いのである。

エジアさんの家は、バコロドの中心部で、長屋が延々と続く、端にある。
そこに入ると、その辺の人たちが皆、知りあいになるという、場所である。

家に入ると、エジアさんの他に、ボーイフレンドの、フランシス君、おばさん、親戚の子供たち三人がいた。

お互いに、顔を見合って、歓声を上げる。
一年振りである。

おばさんが、私たちのために、パスタを作ってくれていた。
それをご馳走になる。
そして、デザートのプリンと、果物。

コーラーも私たちのために、用意していた。

必要なものは、近くの小さな店、サリサリデパートという店で買う。
そういう、一間の店が、フィリピンには多い。

エジアさんの英語は、見事で、とても聞きやすい。
だが、答えることが出来ない。
ただ、片言の英語を口にする程度だ。

エジアさんは、朝五時から活動していた。
日曜日は、忙しいのである。
最後に、教会のミサに出たという。
熱心なカトリック信者である。

暫くして、ようやく、明日の行動の計画である。
今回は、平日の支援なので、孤児施設の子どもたちは、学校へ行く。だから、施設に行くならば、夕方以降になる。
すると、追悼慰霊とズレる。

そこで、二つの施設に絞った。
学校へ行く前の子供たち、幼児がいる施設である。
その他の衣類は、主にストリートチルドレンに上げることにした。

エジアさんは、その場で、車をチャーターし、運転手も前回と同じ人にした。

その場で電話して、すべてが決った。
朝、10時にホテルを出て、最初は慰霊すること。

それから、施設に行き、衣類を支援し、ホテルの近くに戻り、カテドラルの前の公園にある、フィリピン無名戦士の碑に慰霊する。

時間は、おおよそ、二時間程度になる。
荷物が多いから、車は、バンである。
それで、2000ペソ。4000円と高い。

だが、翌日、一つの施設行きをやめたので、1500ペソに値引きして貰った。

マザーテレサの修道会が行う施設であり、そこには、多くの支援があると聞いたからだ。

一時間ほど、お邪魔して、ダンボールの支援物資一個を持って、シクロに乗って、ホテルに戻る。

皆、総出で、見送ってくれた。
また、来年会うことになるという、予定である。

現地に、こんな知り合いがいるということが、心強い。
帰国しても、メールと電話でやり取りすることを、確認する。

ホテルに着いて、矢張り、日本食のレストランに行くことを止めた。
もう、腹が一杯である。
それに、疲れた。

外は、お祭りの騒ぎで、煩い。
物を食べると、酒が飲みたくなくなるので、その夜は、酒は飲まなかった。

更に、外にも出たくない。
コーターが夜に出掛けた。
彼は、夜行性なので、問題ない。

私は、シャワーを浴びて、早々にベッドに就く。
と、携帯電話の番号を新しくしたので、日本の辻友子理事に、電話をした。
一年以上使用しないと、以前の番号が無効になるのである。

最初は、コータの電話を使っていたが、私用の電話にも、番号を入れた。
新しい番号は、安いもので、300ペソである。
そして、100ペソ分の通話料を入れる。

こういうことに関しては、実に便利になったものだ。

辻さんは、電話をすると、掛け直してくれるので、助かる。
ただ、私と長話して、一万円ほどもかかると聞いて、驚いた。
日本にいる調子で、話しているのだ。

だから、要点のみを話して、終わるように心掛けた。

ホテルの扉は、閉めても、自動ロックにならず開くので、そのまま寝ることにする。
ただし、海外では、決して、そんな真似はしないで欲しい。
更に、私のように、扉を少し開けたまま寝るとか・・・

ホテルでは、一番危険なことだ。
扉を少し開けるということさえ、フィリピンの人もしない。
とても、とても、危険だから・・・

私の場合は特別である。
死ぬのが、怖くないし、取る物もありまないし・・・
強盗の方が、がっかりするだろう・・・
まあ、そんな問題ではないが・・・


posted by 天山 at 01:30| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月23日

平成24年ネグロス島へ8

三日目の朝、早く目覚める。
六時前である。
もっとも、日本時間では、七時であるから、遅い目覚めである。

早速、市場のコーヒー屋に向かう。
今度は、ブラックにする。
それに、砂糖を少し。
ネグロス島は、サトウキビの産地であるから、精製前の砂糖がある。

それが、また、いい。
ミルクを入れると、台無しになる。
砂糖でいいのだ。

その日は、朝10時に車が来て、活動開始である。
いや、もう、開始している。

コーヒーを飲んで、ホテル前の公園に行く。
いたいた・・・
ストリートチルドレン、五名である。

近づくと、一人の女の子が、私に手を出す。
オッケー・・・と、言って、口に手をやると、頷く。
そこで、皆を連れて、屋台のチキン揚げ、ご飯を売る店に連れて行く。

私の後ろを、ポンポンと跳ねるように、着いて来る。
皆、四、五歳から八歳程度・・・
もっと、年が上かもしれない。
栄養不足で、小さいのだ。

五人分の食べ物を買って渡した。
はじめて、口を開いた子供たち。
サンキューと言う。でも、それ以上は、解らない。
ただ、パパ、ママは、通じる。
ノー、パパ、ママと、よく尋ねている。

その日だけでも、三組のストリートチルドレンに食べ物を渡すことが出来た。

簡単に言う。
これは、偽善的行為である。
一度ならば、誰でもする。継続してしなければならないのだ。
しかし、私の立場で、出来ることをする。だが、それでも、偽善的行為であると、得心している。

彼らに、毎日、食べ物を与え続ける行為が、偽善を超える。
そんなことは、百も承知、二百も合点、なのである。

私は、彼らに、後でパンツやシャツのプレゼントをすると言う。
この場所でだよ・・・
イッ・ヒアー・・・オッケー
その身振りで、何とか、意思が通じる。

それが、後で大変なことになるのだが・・・・

今日は、特別な日である。
ネグロス島戦没者の追悼慰霊のみならず、フィリピン戦線で亡くなられた、英霊の追悼慰霊である。
いつもより、心が昂ぶる。

一度ホテルに戻り、再度、朝食のために、市場に出掛けて、いよいよ10時である。
車は、早めにホテルに来ていた。

荷物をすべて積み込み、まず、ロザリオ通りから、メモリアル通りに入り、慰霊碑に向かう。

ホテルからは、15分程度の場所である。

もうすでに、日が高く、暑い。
気温は、30度程度であるから、日本の真夏である。

慰霊碑の周囲は、いつも、整然として、清掃されている。
あの、おじさんである。
まだ、姿は、見えないが・・・

早速、私は、慰霊の儀を執り行った。

まず、本日は、国旗を掲げて、君が代を斉唱する。
それは、すでに決めていた。
いつも、その時に、決めるが、本日の行為は、決めていたのだ。

フィリピン戦線で散華した英霊に対し奉り・・・君が代斉唱である。
一切の祈りの言葉無く、黙祷をする。

その慰霊碑の下には、ネグロス島山中で散った日本兵の遺骨が納められている。

黙祷を終えて、慰霊碑の後ろに回り、国旗、日の丸で、清め祓いをする。
その時、ふっと、慰霊碑の円周の内側にある、石に気づいた。

これは・・・
遺骨発見の場所の石ではないか・・・

更に、清め祓いをする。

そして、一通り終わると、あの、清掃をしてくれている、おじさんが、現れた。
私は、日本語で、お元気でしたかと、話し掛けた。
更に、日本語で、いつもありがとうございますと、続けた。

少しばかりの、お礼を渡すと、その息子だろうか、サンキューと丁寧に挨拶する。
おじさんと、写真を撮る。

慰霊碑の横に小さな公園がある。
それも、おじさんが、整理している。

彼は、きっと日本兵の良い面を見たのか、知っているのだろう。
当時は、フィリピン人も、日本に対する感情が悪い人と、良い人がいたのである。

私は、また慰霊に来ると信じて、最後に慰霊碑に、深く頭を下げて、車に乗り込んだ。今回の、最大のテーマが終わった。

ネグロスの
山中にあり
散華する
日本の武士は
今 ここにあり

posted by 天山 at 23:36| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月24日

平成24年ネグロス島へ9

今回伺った唯一の施設は、幼児から幼稚園児くらいまでの子供たちがいる施設である。

ところが、着いて門を開けて貰うと、何と、大半が学校に行っているという。
ただ、すぐに私に飛び着いて来た、男の子がいた。
三歳くらいの子である。

覚えていたのか、どうなのか・・・
兎に角、抱き着いて来たので、驚いたし、嬉しかった。

結局、院長のシスターも他の施設に出掛けていて、会うことが出来ず、それではと、赤ん坊、幼児物の支援物資を広げて、職員の人たちに確認して貰い、差し上げた。

ここで、あまり書きたくないことだが、エジアさんから、忠告を受けていた。
前回、話さなかったが、私たちが子供たちに支援をしている間に、職員たちが、自分たちの子どものために、支援物資を盗っていたということだった。

勿論、私は必要なら、差し上げても何の問題も無い。

だが、エジアさんは、正義感が強く、あれは、施設の子供たちに上げるものだから、それを盗るのは、いけないことだと、言い張った。
その通りである。
だから、今回は、注意して欲しいと言われていた。

しかし、私は、気にしなかった。
誰にでも渡れば、それでいい。
更に、持って行く職員も、子供が大きくなれば、他の人に上げるだろうと、思えた。
貧しい人たちは、皆々、助け合うからである。
更に、分配するという、気持ちを持っている。

職員も、大枚な給与を得ているのではないことは、見れば解る。

その施設には、丁度、バコロドに送った、ダンボール一つ分ほど差し上げた。
だから、後は、ストリートチルドレンと、パナイ島のイロイロにて、渡すことが出来る。

さようなら、と、何度も言いつつ、施設を後にした。
あっという間の、時間である。
そこから、ホテルに戻る。
そして、カテドラルの公園にある、フィリピンの無名戦死の碑に黙祷することにした。

丁度、昼前の時間である。
公園には、人が多くいた。
その中を、日の丸を掲げて、無名戦死の碑に深く黙祷を捧げて、終わった。

私は、また後で、公園でストリートチルドレンと会うことに決めた。

ホテルに着いて、1500ペソ、3000円を運転手に差し出した。
とても、割のいい仕事である。
会社を通さないので、売り上げは、すべて彼のものである。

また、次の時も同じように、頼むことにして別れた。
運転手は、40代後半のおじさんであるが、実に協力的な人だ。

私たちは、汗だくになりつつ、部屋に戻り、シャワーを浴びて、今回の活動のテーマを終えたことに、安堵した。

だが、私には、それからが、問題だった。
とても、変な気分を感じることになる。

コータの知るマッサージ屋を教えて貰い、それぞれ別々の行動をした。
すぐに、マッサージをする気がなくて、市場の付近を歩いていた。
どうも、おかしいのである。

とても、空しく、切なく、辛いのである。
どうしたのか・・・

その時、ふっと、知り合いが亡くなったのか・・・と、感じたが・・・
その後、その前日に、叔母が亡くなったことを、実家に電話して解る。
今回は、最初の日に電話しただけである。いつもは、毎日電話していたが・・・

そのことは、イロイロに着いてから知ったので、三日後のことだった。

昼ごはんを市場の外側にある食堂でして、一度、部屋に戻る。

そして、再び、マッサージの店に行くために、出た。
公園を通る。

昨日の子供の二人に会った。
ごはんは、食べたのか・・・
何も要求しない。
そこで、私は、二人の女の子に、アイスクリームを買って上げた。
とても、喜ぶ。

また、後でね・・・
そうして、マッサージ屋に向かった。
一時間のマッサージが、200ペソ、400円である。
強いマッサージということで、ボーイを指名すると、おじさんがやって来た。
ベテランという感じである。
ああ、これは、いいと思い、マッサージを始めると、巧い。

久々のマッサージだった。
日本のマッサージは高いので、行かなくなった。
タイに行けば、フィリピンに行けば・・・と思うと、気が進まなくなる。

矢張り、時々のマッサージは必要だ。
特に、足は、酷いのである。
痛みが出る。
つまり、使い過ぎなのである。
それは、飛行機に乗ることと、支援物資を持つことである。

日本では、決して運動らしいことはしないが・・・

さて、私は、もう一泊、バコロドに泊まる予定だったが、翌日、パナイ島のイロイロに移動することにした。
つまり、イロイロに宿泊するのを、一日増やしたということである。
それは、初めて行く場所であり、状況がつかめないからでもある。

そして、それは、良い決断だった。
早速、ホテルフロントにて、イロイロ行きの、船便を教えてもらい、その時間も決めた。
午前中に、イロイロに到着する予定である。

だが・・・
翌日の朝に、公園にて、ストリートチルドレンに衣類を渡すことになる。


posted by 天山 at 17:06| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月25日

平成24年ネグロス島へ10

一日早くパナイ島、イロイロに向かうことにした朝、私たちは、その前に公園で、ストリートチルドレンに、衣類を上げようと、ホテルを出た。

今回は、これで最後である。

数名の男の子が遊ぶ、芝生の一角に行き、声を掛けた。
ユー・パパ、ママ・ノー
あるいは、ノー・パパ・ママである。
英語が出来なくても、何となく解るのである。

一人の子が、ノーと言った。
そこで、バックを開けて、その子に合う服を取り出した。
プレゼント・・・日本からだよ・・・

と、いつの間にか、大勢の子供たちである。

私は、何度も、ノー、パパ、ママと、問い掛けた。
ストリートチルドレンだけに上げるということを、強調した。

しかし、誰がそうなのか、それでないのか、解らない状態になり・・・

更に、男の子が、私の肩に乗ってくるという。
親しみの表現か・・・

肩車をしてあげると、喜ぶ。そして、また、多くの子供たちが、また、お姉さん、おばさんが、やって来た。
赤ん坊がいる・・・

おばあさんまで、来た。
公園の一角が、大変に状態になった。

兎に角、渡せるだけ、渡す。
そして、もう限界だと思い、私は皆に
明日、ここに来るから・・・もう一度、来るから・・・
と、嘘を言った。

そうでも言わないと、収まらない状態なのである。

と、その時、目の不自由な、あの子が現れた。
騒ぎを聞きつけたのだろう。
以前、食べ物と飲み物を買って上げた、男の子である。

目が見えないのに、私の方を向いて、笑うのである。
すぐに、彼に合う、長袖の服を取り出して、差し出す。
誰も、それを奪おうとしなかった。

そして、私たちは、素早く、その場を離れた。
もし、もう少し、人が少なければ・・・
あの、目の不自由な子に、食べ物、飲み物を買って上げたかった。

フェリーの時間は、10:30である。
乗り場まで、タクシーで10分もかからない。

急ぎ、シャワーを浴びて、出る準備をする。
朝の食事は、市場で食べていたので、後は兎に角、時間までに、乗り場に行けばいい。

次回も、このホテルに泊まることにした。
何せ、ストリートチルドレンと会うのが、簡単であるから。

パナイ島のイロイロでは、四泊の予定になった。
そこから、マニラ行きの国内線を取っていた。

フェリーは、二つの会社があり、隣同士である。
その手前の会社のチケットを買う。
だが、30分待っても、出る様子が無い。

と、コーターが、あっちの方が早いということで、払い戻して貰い、移る。
こういう適当さが・・・何ともいえないのが、東南アジアである。

一時間と少しで、イロイロに到着。
迎えてくれた人たちは、皆々、タクシー勧誘の人たち。
それが、また、喧しい。
つまり、タクシーの運賃に上乗せして、料金を吹っかけるのである。

そこで、私の大声が響く。
メータータクシー・・・・
更に、手を打ち鳴らした。
何の意味も無いが、皆々、シーンとする。

それで、メータータクシーに乗る。
そして、ホテルへ。

前日、電話をしたホテルは、予約しなくてもいいですよ・・・だって・・・
つまり、客がいない。
タクシー運転手が言う。
あの、ホテル汚いよ・・・別のホテル紹介しようか・・・
いや、いい。そこに泊まる、と、私が大声で言う。

古いホテルであるから、大きいのである。
確かに、建物は汚いが・・・
それなりにやっている、ホテルである。
料金も安い。650ペソ。1300円で、二人。

ボーイさんが、部屋に案内するが、窓が無いので、取り替えてもらう。
同じタイプの部屋である。

そのボーイさんと、話す。
兎に角、話し掛けるのである。
セブ島から、働きに来ていると言う。
えっ・・・
普通なら、逆でしょう。セブの方が都会なのに・・・

だが、イロイロは、セブやバコロドと比べると、物価が二割程度、安いのである。暮らしやすい町。
観光する場所は、古い二つの教会と、博物館である。
私は、一つの教会に出掛けただけ。
観光はしない。
それより楽しいのは、市場とスラムに行くことである。

posted by 天山 at 08:22| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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