2012年04月14日

まだ悲しいプノンペン

最高気温5度と、中々気温が上がらない日本から、最高気温35度の、タイ、バンコクへ向かい、それから、カンボジア、プノンペンに向かう旅。

プノンペンには、二度出掛けている。
しかし、一年以上も、出掛けていなかった。
プノンペンにある、貧しい子ども達を支援する、ニコニコの家に支援物資を持参して行く計画である。

今回は、私一人である。

カンボジアは、およそ35年前に、あの悪名高い、ポル・ポト政権が消滅した。
自国民を、300万人虐殺した、共産主義に憑かれ、妄想の人、ポル・ポトが行った、大虐殺の国である。

以前の、旅日記に、共産主義黒書から、色々紹介した。
そして、今回も、それから紹介する予定の旅日記を書くつもりだったが、止めた。

そうでなくても、暗いのである。

現状から、それを探ることにした。

バンコクで、三泊する。
それは、暑さに慣れるために。

黙っていても、外では、汗が噴出す。
寒いところから、暑いところは、嬉しいが、差が激しいのも、また辛いもの。

バンコクでは、いつもの、マンション・アパートの、ホテル仕様となっている、部屋に泊まる。
700バーツである。
これが、今では、円安で、一万円が、3600バーツ程度なので、高い。
しかし、前回、4000バーツの時に、少し多めに両替していたので、助かった。
今の、レートだと、2100円ほどになるのである。

30キロの荷物と、もう一つ、7キロの荷物が、支援物資で、自分のバッグが一つで、三つのバッグを持ち歩く。
これが、また、大変である。

バンコクから、プノンペンまでは、飛行機で、一時間程度である。
泊まる、ゲストハウスは、前日、電話で予約した。
前回も、泊まった、ゲストハウスである。

一泊、15ドル。
一ドル、80円とすると、1200円である。

カンボジアの場合は、ホテルとゲストハウスの違いは、あまり無い。
勿論、ホテルの方が高いが、レベルはゲストハウスも、変わらないところもある。
更に、ゲストハウスより、安いホテルもある。

プノンペンの国際空港は、こじんまりとしている。
日本の地方都市の、空港程度である。

入国審査は、メールでビザを取ってあったので、スムーズ。
ただし、両手の指紋を取られる。
事件や、事故の際に、身元確認が出来るので、いいことだと、思う。

そして、荷物を持って、外に出る。
と、その前に、私に、タクシーと言って、一枚の紙が渡された。
そこには、7ドルとある。
その料金は、トゥクトゥクの料金である。

あら、この人、私が空港前で、また騒ぐ人と知っているのか・・・
何せ、どこの空港でも、タクシー料金で、騒ぐ私である。
ただ、今回は、一人旅なので、冷静に行こうと思っていた。

その紙を掲げながら、外に出ると、タクシーの人たちは、トゥクトゥクと、その場を示す。そのままに、従う。
一台のトゥクトゥクが、あった。
一台しかないの・・・

それに、運良く乗る。
そして、外に出ると、何と、ズラッーとトゥクトゥクが、並んでいるのだ。
これは、交渉で、料金を決めるタイプの人たちである。
つまり、ボッタくることが出来る。

私の紙は、市内のどこでも、7ドルなのである。
だから、今回は、静かに行動出来た。

以前と変わらぬ風景である。
町まで20分程度は、かかる。
そして、ゲストハウスに着くまで、30分以上を要した。

タイとの、時差は無い。
ところが、私は、トゥクトゥクで時計を落として、日本時間に戻っていることに、気付かないのである。

つまり、日本時間は、二時間早いのである。

それに気付くのは、支援の当日である。

ゲストハウスに、顔見知りのお兄さんがいた。
オーッ・・・
と、二人で、声を上げた。

だが、他の人は、全員変わっていた。
フロントには、若い女性がいた。
以前は、いなかった。

ワンベッド、ワンルームである。
ダブルベッドが一台ある部屋。
以前、泊まった部屋の、斜め前の部屋だった。

シャワーを浴びて着替える。
そして、時計を見て、もうこんな時間なんだ。日本時間である。

そろそろ、ご飯を食べにと思う。
以前に行った、店に行くことにする。

そのゲストハウスには、四泊したので、その付近の道は、覚えた。
だが、プノンペンの道は、同じ道が多くて、迷う。
ただ、規則正しく道があるので、迷ったら、大きな通りに出ると、解る。

ポル・ポトの時代、この街に一人が一人もいなくなったという。
皆、田舎に連行されて、再教育を受けるのだ。
再教育とは、共産主義教育である。
そして、誰も彼もが、農業をするという・・・

そこで、知的作業をしていた人たちは、皆、虐殺されたのである。
労働者のみが、生きられる国にしようとした。
完全に、狂っていた。


posted by 天山 at 06:46| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月15日

まだ悲しいプノンペン2

カンボジアに、ポル・ポトの支配が終焉したのが、1979年とすると、今年は、それから、33年の月日が流れたことになる。

当時、生き残った者が、現在の年齢から、33年を引き算するとよく解る。

33歳の人は、その年に生まれた。
43歳の人は、その年に、10歳だった。
53歳の人は、その年に、20歳だった。
それ以上の人たち・・・

私が地元の人たちの行く食堂で、大声で話す人たちの、大半は中華系の人たちで、その騒動の後に、カンボジアに入り、商売をした人たちである。

それ以外の、つまり、カンボジア人の、多くの人たち、特に高齢者は、寡黙であり、多くは口を開かない。
静かに、食事をし、静かに、お茶を飲んで、ただ、じっと一点を見つめる様子である。
ニコリともしない。

そして、街中での、活動の中心年齢は、40代である。

高齢者の物乞いも多い。

貧しい国、最貧国の一つであるから、高齢者保護など無い。

そして、最も、私が心を痛めて見るのは、感じるのは、生きていることが、辛い、切ないという、彼らの心情である。

生きているということは、何らかの、人道的、罪なるものを犯したと、感じるほどに、ポル・ポトの支配は、徹底していた。
それは、前回の旅日記を読んで欲しい。

裏切り、密告・・・
親兄弟、親類、友人、知人と誰も信じられない状態になったのである。

更に、少年兵、少女兵として、多くの人を、殺した人たち。
今、生き延びて、何を思うか・・・
悪夢である。

お前は、何人、人を殺したのか・・・
もし、そう問い掛けたら、人々は、そっと逃げ出すだろう。

子供と、若者以外は、無口になる。
当然である。
もう、話す言葉が無いのである。

ある昼間、大きな食堂に出掛けてみた。
勿論、観光客など来ない、食堂である。
結構、満席だったが、高齢の店主であろうか、私に、一つのテーブルを示した。

そこに座ると、斜め前に、一人の高齢のおじいさんが座る。
すでに注文したものを、食べていた。

私の英語は、通じない。
ライススープといっても、駄目。

しかたなく、斜め前のおじいさんの食べている、麺類と同じものと、示した。
そして、そのおじいさんが食べていた、揚げパンを求めた。

だが、丸い揚げパンを持って来た。
私は、おじいさんの揚げパンが欲しいと言うと、おじいさんが、店員に何か言う。
私に、上げなさいとでも言うのか。

店員は、その一つを私の皿に乗せた。
すると、別の店員も、同じものを持ってきて、二つになった。
二つで、一組のようである。

おじいさんは、何も話さない。
黙って食べて、コーヒーを注文し、それも、さっさと飲んで、支払いし、立ち上がった。そして、私の横を通る時、おいしいかい、と、英語で尋ねたような気がした。
その声は、あまりに小さくて、聞き取りにくかった。

それ程、用心深いのである。
高齢の人に、話しかけられたのは、それが最初で最後だった。

後は、夜に屋台連合のように所に行き、おばさんたちから、話しかけられたのみである。

控え目に、外国人の私に、気を使うのが、感じられた程度。
紙や、楊枝などを、そっと、私の横に置いてくれる。

何も言わない。

プノンペンには、カンボジア最大の、ツールスレン刑務所があり、現在は、ジェノサイド博物館として、残っている。

そこには、あらゆる拷問の器具が残され、更に、外には、そこに吊るして拷問したという、鉄棒まである。

殺す前に、拷問を続けるという、狂気である。
そして、殺さぬ程度の烈しい拷問をして、最後の最後に、息の根を止めるという。

人間が、ここまで、残酷になれるのかという、見本である。
勿論、中国の、文化大革命の際も、そのようだった。

その博物館は、私の泊まる、ゲストハウスから、徒歩で、15分位のところにある。

さて、私がホテルの顔馴染みのボーイに、トゥクトゥクを御願いしていた。
その夜、偶然に、トゥクトゥクのおじさん、ラ・モンさんに会う。
あああーーー
前回、ウンドという虐殺の場所に慰霊し、その帰りに、農民に支援した時に、貧しい人たちの部落を教えてくれた人である。

その、ラ・モンさんも、色々な名所を見ないかと、私を誘ったが、ツールスレン刑務所、博物館へ行こうとは、言わなかった。

ラ・モンさんは、毎日、トゥクトゥクを運転するせいか、顔が真っ黒に日焼けして、更に、日差しから体を守るために、厚手のセーターを着ていた。

奥さんが亡くなり、男手一つで、男三人と、女三人の子供を育てている。

その、ラ・モンさんと、親しくなったが、過去の話しは、決して、聞く事が出来なかった。

彼が、自分で話すまで、こちらからは、聞けないのである。

しかし、過去のことは、話さないだろう。
誰もが、心に負い目を持つことだから・・・

年齢から察すると、少年兵だったという、可能性もある。

ポル・ポト政権、クメール・ルージュは、少年少女たちを、洗脳して、手先として使った。
とても、残酷なことを、平気で出来る人間に育て上げたのである。


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2012年04月16日

まだ悲しいプノンペン3

支援の日は、到着して、一日置いて、三日目である。
午後三時に出発することにした。

トゥクトゥクの、ラ・モンさんには、行き先を告げてある。
ところが、私の時計では、三時になって、ロビーに下りて行くが、ラ・モンさんが来ていない。
変だーーー
と、思いつつ、フロントの時計を見ると、一時である。

そこで、部屋に戻り、時計を確認すると、何と、日本時間に戻っていた。
それまで、私は、日本時間で過ごしていたのである。
唖然とした。

朝は、やけに遅いし、夜は、やけに長いし・・・
日の光が、時間帯と合わないのである。

すべての支援物資を、ロビーに置いたまま、部屋で時間を待つことにした。

三時10分前に、下に降りると、ラ・モンさんが来ていた。
ニコニコの家では、30分程度過ごす予定である。
子ども達は、集まっているはずだと思う。

朝と、夕方に子ども達が集うと聞いていた。
街中を走り、20分程で、到着する。

子ども達が、遊んでいた。
こんにちは・・・
声を掛けると、こんにちは・・・と、日本語で答える。
日本語を学んでいるのである。

中に入ると、代表の先生がいらした。
今回で、三度目であるから、向こうも、私を知っている。
だが、他の先生方は、知らなかった。

新しい先生が、三人いらした。
少し雰囲気が違う。

その、少しが大違いだった。

ラ・モンさんが、荷物を運んでくれる。
その間、私は子ども達に、話し掛けた。

今日は、日本から、プレゼントを持って来ました。
服も、ノートも、えんぴつもあります。

そう言うと、先生たちが、子ども達を、小さな子から、順番に男女別に分けて、並ばせた。

私は、まず、文具を取り出して、見せた。
これは、先生に預けますから、皆さん、使ってください・・・

子供たちから、えんぴつ、という声である。
幼稚園児程度から、中学生までの年齢である。

大きな子たちは、私を知っていた。
そして、大きな子たちは、以前と同じように、礼儀正しいのである。

しかし、衣服を取り出し始めると、様子が違ってくる。
以前は、順番を待つのだが、今回は、違う。
雑然とした雰囲気である。

更に、カメラを出して、先生に撮って貰う。すると、子ども達も、撮りたいらしく、私は、使い捨てカメラも出した。
子ども達に、撮らせると、どんな様子になるのか、興味もあった。

途中から、何か、今までとは違う感触を感じた。
更に、一応、一人一人に渡し終えて、子供たちと、一人一人、握手をして、それぞれの名前を聞くことにした。

その一人一人の際に、手を出さない子もいる。
ポケットに手をいれて、出さないのである。
何となく、ふて腐れた雰囲気である。

そして、何気なく、一人の女の先生を見ると、その表情が、とても複雑で、私を侮蔑したように見ている、と、感じた。

意味がよく解らない。
私が、そのように、感じたのであり、彼女が、どのような気持ちなのかは、聞いていないから、私の想像である。

更に、子ども達の態度である。
小さな子と、大きな子たちは、以前と変わりなかったが、新しい子供たちが、違っていた。

更に、驚いたのは、子ども達が、騒いで、混乱すると、一人の男の先生が、彼らを叩いて、叱りつけるのである。
そんなことは、以前はなかったのである。

何かが、違う。

代表の先生が、支援した人の、名簿を出して、私に記入を求めた。
それは、いつも、コータが記入していたので、私は、初めてである。

それを見て、驚いた。
今年に入り、日本から、色々な団体や個人が、支援に来ているではないか。
カンボジアの支援者は、一つの団体のみ。

そして、支援物資は、私と同じく、衣類と文具である。

更に、代表の先生が、色々と英語で説明する。
その中に、こんな言葉があった。
物資も必要ですが、マネーも、必要です。

以前は、そんな言葉は聞かなかった。
この施設は、日本の団体からの、支援金によって、成り立っていることは、後で調べて解ったことである。

子ども達に、食事も提供し、更に、先生たちの、給与も出す。
当然、お金が必要である。

日本は、大震災により、多くの寄付が、そちらに回った。
それは、とても、良いことであるが、既成のボランティア団体は、寄付が少なくなり、休止、撤退、更に、活動とは別なことで、資金を得るために、本来の活動が疎かになるのである。

私の活動は、基本的に、お金ではなく、物資で、差し上げることにしている。
食糧支援も、物資を差し上げている。
お金は、最後の手段である。

その、物に心を託す。
私の言葉で言えば、物に、大和心を託している。

時に、何度もそれを言うが、物だけを渡して、心を渡していないという、変なメールや、書き込みがある。
私と、行動を共にしていない人が、変なことを言うものだと、無視しているが・・・

勿論、何も行為していない人である。

更に、物だけを渡すとは、どういうことかと、思う。
こちらは、飛行機に乗り、物資を持参して、差し上げている。
十分に心を、尽している。
丸投げをしているのではない。

そして、それが、明確に解ったことが、今回の旅で、納得したのである。
それは、私自身にとって、とてもショックなことだったが・・・


posted by 天山 at 00:29| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月17日

まだ悲しいプノンペン4

子ども達全員と、写真を撮ることにするが、中々、まとまらないのである。
こんな光景は、初めてである。

私が知らない、子ども達は、何か、見透かしたようである。
支援に来る人たちの、態度・・・
憐れまれるという、態度・・・

子供は、敏感である。
更に、先生たちの、意欲・・・
以前の先生たちは、使命感のようなものを持って、子供たちに対処していた。
今は、叩いて、強制しなければ、騒がしい子ども達。

その中でも、年長の女の子たちは、男の子たちを、指導していたから、驚いた。
そして、最後まで、私に対して、礼を尽してくれたのも、彼女たちである。

何かが、変わった。
貰うことが、当たり前になったのか・・・
更に、私のように訪れる人が多くなり、またか・・・という、思い。
その度に、何ものかを、演じるのは、嫌だ・・・

実は、私は、もう一つの孤児院にも、出掛けている。
そこの、子ども達は、皆、孤児である。

しかし、その施設の代表が、私を案内してくれた際に、教室に行くと、この机と椅子を、新しくしたい、シャワー室に行くと、この設備も、新しくしたい、そして、極め付けが、子ども達に、制服を作りたい、だった。

日本人は、金がある。
そして、頼めば、してくれる。
そんな感じを持った。

初回で、そんなことを言われると、返答に窮するのである。
私は、そこに、二度行っていない。

シェムリアップの孤児院が、子供を利用して、利益を上げて、経営者の懐に入れるように、何か、不信なものを、感じる。
勿論、出来る人は、して上げると、いい。

そこで、また、お金は、すべて子ども達のために、使います。
寄付されたものは、すべて、子ども達に・・・

国連からの、食糧支援を受けていたが、その食糧も、支援金で用意したいと言う。

あまり、繰り返されると、うんざりしてくるのである。

さて、そろそろ、子ども達と、お別れである。
もう、きっと、暫く来ないだろうと、私は、思った。

年長の女の子たちが、日本語で、ありがとう、と言う。
最後まで、見送ったのも、彼女たちである。

私が必要な場所は、あの、農民の部落など、何も無いところの人たちだ。

更に、ラ・モンさんが、ゲストハウスに着いて、私に言った。
スラムが酷い状態です。
私の知り合いも、いますが・・・
どんどんと、スラムが大きくなっているという。
つまり、地方から、仕事を求めて、プノンペンに来るのである。

一枚しかない、シャツが、ボロボロで、寒い時期には、可哀相ですと、ラ・モンさんが言う。次は、そこに、衣類を御願いしますと。

更に、市外から離れると、離れるだけ、厳しい生活状態である。

前回、ラ・モンさんの案内で立ち寄った、部落は、本当に、何も無かったのである。
現地を知る、ラ・モンさんに、次は任せて、支援に来ることにする。

この、ラ・モンさんは、皆に信頼されている人だということが、後で解る。

ゲストハウスに着いた時、私が料金を尋ねると、帰りの空港までの料金は、あなたに任せるから・・・と言う。
最初は、日本人の心情を知ってのことかと、疑ったが、違った。

ニコニコの家を出ると、ラ・モンさんは、私に、メコンの埋立地を見に行こうと誘うので、従った。

丁度、建設ラッシュの場所である。

メコン川の、浅瀬を埋め立てして、巨大ホテルが、建設されていた。
更に、多くの建物が、完成している。

色々と説明しつつ、進む。
ある、塀で囲まれた、住宅地を見た。ほぼ、完成されている。
私は、こんな所に住む人は、ビッグマネーを持つ人だね、と言うと、すかさず、ここは、日本人の住宅ですと、答えた。

日本企業の駐在員たちが住むのであろう。
塀には、門まであり、安全を示してある。

そこは、多く外資系の資本投入で、建設されているのである。

ラ・モンさんが、車を止めた。
そして、色々と話しをしてくれる。
聞き取り難い英語であるが、何となく、理解した。

先ほどの、日本人の住宅地に関しても、日本と日本人は、金持ちだ・・・
カンボジア人は、いつまでも、貧しく、そこから抜け出す道が見えない・・・

外国人が来て商売をするが、カンボジアの人のためになれば、いいが・・・
日本の企業に勤めれば、ビッグマネーを得られるだろうが・・・

15分ほど、話して、次は、どうすると、聞かれたので、ゲストハウスに戻ると、言うと、オッケー・・・
暑くて、黙っていても、汗が出るのである。

長い時間外にいるのは、危険だ。
更に、街中は、とても乾燥していて、喉に悪いのである。
浴衣を着ていたが、全身、汗が噴出していた。

posted by 天山 at 00:37| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月18日

まだ悲しいプノンペン5

東南アジアに出掛ける私の食事は、多く、地元の人たちが利用する、食堂、または、屋台である。

レストランには、行く気がしない。
観光客もいない、食堂、屋台が美味しいし、面白い。

プノンペンでも、そうである。
食堂に出掛けた。
英語も通じない場合がある。

指で示す、または、身振りも出る。
スープライスが、通じず、結果、スープだけを持って来られた。しかたなく、食べている人の物を指して、注文する。

タイでは、スープライスを、カオ・トムという。
これが、お粥ではなく、米をスープの中に入れて食べるもの。

写真をつけている店なら、写真を指すと、いいが、メニューの無い店の場合は、大変。

ようやく、お粥のある店を見つけて、食べたが、ゲストハウスからは、結構遠いのである。

しかし、ゲストハウスの近くに、良い屋台を見つけた。
よく、横を通っていたが、何があるのか、あまり解らなかった。

そこで、毎朝、ラ・モンさんが、朝食を食べているのを見て、私も、道に置かれたテーブルの椅子に座った。
カンボジアコーヒーもある。

最初は、インスタントかと思いきや、本格コーヒーである。
小さな、コップ一杯、1000リアルである。
一ドル、4000リアルであるから、25セントである。
日本円にすると、20円。

ドルと、リアルと、円と、時々、勘違いするが・・・

また、一度、ゲストハウスから、20分ほど歩く、屋台連合のような場所でも、食事に出た。そこは、全く英語が通じないので、他の人の食べているものを見て、注文したりする。
作る様子をすべて見られるので、安心である。

屋台での、一食は、3000リアルからある。
贅沢して、6000リアル。つまり、一ドルと2000リアルである。
日本円にすると、100円である。

ここで、少し説明すると、シャツを買うと、3ドルから、5ドルである。
つまり、12000リアルから、20000リアルである。

ゲストハウス系の人たちの、一ヶ月の給与は、50ドル。
200000リアル。
家賃、7ドルの部屋を借りて住んでいる、従業員の一ヶ月の経費を考えてみた。

一日、最低の食事代として、9000リアル。2ドル25セントである。
30日として、270000リアルである。

すると、足りないのである。
7万リアルが足りない。それに光熱費など・・・

10ドルが、4万リアル。
どうだろうか・・・
20ドル近くが、不足する。
だから、一日、二食にするだろう。

私が、シャツを上げると、3ドルから、5ドル浮く。
そして、シャツやパンツは、長く持つ。
つまり、衣類にかかるお金が、食費に回せるのである。

だから、衣類支援が喜ばれる。

ちなみに、屋台連合の場所では、古着が売られていた。
それは、韓国、オーストラリア、アメリカからの物が多数。

一ドル、二ドル、三ドル・・・

屋台でも、食事が出来ない人は、1000リアルの、とうきびを買って、一食分にしたりする。
また、果物など・・・

現地の人たちの生活の中に入って、解ることが多々ある。

一日、三食を食べられる人は、幸せである。
更に、一食、6000リアル以上の食事が出来る人は、更に幸せである。

韓国料理店に行くと、最低の料理でも、4ドルである。
来ている客は、観光客だった。

何故、私が、その店に出掛けたか・・・
それは、18歳の少年に、日本食があると、勧められて、出掛けたのである。
彼は、韓国と日本食の区別があまりつかなかったようだ。

その少年との出会いについては、詳しく書くことにする。

観光客は、5ドルから20ドル程度のレストランで食事をする。
更に、もっと高いホテルのレストランもある。

地元の人から見れば、高嶺の花である。

カンボジアのプノンペンでも、スラムがあり、小学生くらいの子ども達が、靴磨き、リヤカーを引いて、ダンボールを集めて、仕事をしている。

地方から出て来た人たちであろう。
家の壁から、道にテントを張り、そこでホームレスの生活をしつつ、ダンボールを集めて、金にして生活している。

一ドルが、いかに、貴重な金額か・・・
カンボジアは、貧しい・・・
貧しい国の中でも、貧しい国なのである。

プノンペンの近郊に出ると、更に、それが酷くなる。
一体、何を食べているのか・・・

私の衣服支援が、とても喜ばれることを、想像して欲しい。

先の、少年も、シャツが三枚あると言ったが、上半身裸だった。
三枚共に、ブロークンと言った。

ちなみに、食堂、屋台の衛生は、安全である。
時に、水洗いした、生の野菜が危ないことがある。

タイのように、まだ、水に対する、しっかりした、衛生観念が無いからだ。
しかし、それは、地元の人には、何でもないこと。
外国人には、危ないということだ。


posted by 天山 at 00:00| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月19日

まだ悲しいプノンペン6

プノンペンに四泊して、五日目、バンコクに戻る日である。
飛行機は、5時発。
ゲストハウスを出るのは、2時過ぎにした。

ラ・モンさんには、連絡してある。
それに、時々、ラ・モンさんに会うから、問題なかった。

日本から出て、一週間が過ぎていた。

朝、七時過ぎに、屋台に向かった。コーヒーを飲みたかった。
行くと、ラ・モンさんが、食事をしていた。
英語で、挨拶し、色々と話しをする。

互いに、ブロークン英語だから、気が楽。

カンボジアコーヒーである。
小さなコップに注いである。一杯、1000リアル、25セント、20円である。

食堂に行くと、2000から3000リアルになるから、安い。
コーヒーカップで飲むのではなく、グラスである。

ノーシュガーと言って、出されたものを飲むが、何と、やや甘さのあるコーヒーである。

朝の食事をするために、働く前の男たちが、食事をしている。
3000リアルの定食である。

少し経て、一人の男の子が、現れた。
屋台の周囲をバイクで走る。
それが、終わると、屋台にやって来た。

私が彼に、目をやると、微笑む。
最初は、お客かと、思ったが、違った。

屋台のママの子供であるという。

私は、すでに、そのお姉さん、更に、もう一人の男の子、17歳の子に昨日、会っていた。
お姉さんと、ママさんの、姉妹が手伝いに来ている。

新しい男の子は、実にハンサムで、可愛い。
私と、ラ・モンさんの席に近づいて来た。
ハローと、私が挨拶すると、ハローと答える。

それから、話しが始まった。

私は、彼の英語に驚いた。
見事にスマーで、ペラペラペラ・・・・
聞き取れないほどである。

私が、インターナショナルスクールかと、尋ねた。
そう、インターナショナルスクールに行ってます。

幾つ・・・
18・・・・
ママさんの子・・・
はい・・・

彼は、英語を学んでいるが、お客は、皆、カンボジア人であるから、英語を普段話す機会がないのだろう。私に向かい、英語で、どんどんと話してくる。

兎に角、彼との話しが始まり、お姉さんも加わり、ラ・モンさんもいて、英語、クメール語での、会話である。

私は、コーヒーをお替りした。
お姉さんが、新しく、お湯を注ぎ、煎れてくれる。
おいしい・・・と、クメール語で言ったのか、彼が、英語で、私に聞く。

彼は、リップという名である。
発音が難しいが、リップで通した。
正確には、リァップのような発音。

リップは、上半身裸である。
少年の半身裸体を晒して、ママの手伝いをする。

客がいなくなると、リップが私の前の椅子に座った。
そして、ママが、リップに、お粥を差しだした。

私は、あっ・・・これこれ、これ、私も食べたい・・・
お粥の店を探して、しばらく歩いたのであるから、ここで、食べられるのは、上等である。

オッケー、オッケーと、ママさん。
ラ・モンさんも、これは、美味しいよと言う。

おかずは、干物の焼いたものである。
日本の鱈に似た魚に、ミリンで漬けたもののようである。

朝ごはんである。
私と、リップは、一緒に、それを食べた。

リップは、英語で、カンボジアの文化遺産の話しをしてくれた。
私は、リップに、カンボジアを旅したことがあるのかと、問い掛けると、僕は、プノンペンしか知らないんだと、言う。
まだ、一度も、旅など、したことがない・・・

インターナショナルスクールは、三講義あるらしく、午前の部、午後の部、そして、夕方の部である。
リップは、午後の部に行っている。

私は、今日、バンコクに戻る日だ・・・
と言うと、バンコクから、日本に帰るの・・・
そう・・・
日本に来たい・・・
行きたいけど、お金がないよ・・・

ここからが、問題だった。

私は、彼に、
その格好で、スクールに行くの、と尋ねた。

リップは、笑って答えない。

だって、裸でしょう・・・
うん、シャツはあるよ、でも、三枚とも、ブロークンなんだ・・・
えーーー、じゃあ、私がプレゼントするよ、と言うと、ラ・モンさんが、マーケットに行きますかと、聞いてきた。
そうだね・・・・じゃあ、後でと、答えた。

支援物資は、何も無いので、買うしかないか、部屋に戻り、私の持っている、シャツから、上げるか・・・
しかし、私の着替えのものは、支援物資に出来ないものばかりである。
色落ちしたり、汚れが落ちないものなど・・・

私は、ラ・モンさんの食事代と、自分の分を支払い、一度、部屋に戻ることにした。

その時、リップは、私に、自分の名前と、電話番号、メールアドレスなど、紙に書いて渡してくれた。

それじゃあ、後で、お姉さんに、君のシャツを渡して置くからね・・・
リップは、何度も、ありがとうを、繰り返した。

これで、もう会えないと思った。
スクールが、午後の部だから、私が空港へ向かう時は、リップはいない。だから、お姉さんに渡して行くと約束したのだ。


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2012年04月20日

まだ悲しいプノンペン7

部屋に戻ると、まだ九時前である。
矢張り、着替えのシャツを出してみたが、上げるものはなかった。

それにしても、暑いのである。
ベッドに、横になって、休む。

マーケットに行く・・・
とても、面倒に思える。
だが、約束したことである。

さて、しかし、私は、バンコクに戻るという、気の重さと、暑さで疲れた体で、出掛けるのが、大儀なのである。

どうするか・・・
今なら、リップは、まだ、屋台にいる・・・

私は、5ドル紙幣を出して、もう一度、屋台に向かった。
そして、歩いて行くと、リップが見えた。
向こうも見たので、手を振り、こっちへと、誘った。

屋台の向かい側の道に出て来たので、そこで、リップに、ソォリー・・・
これで、君の好きなシャツを買って・・・

と、5ドルをリップの掌に握らせた。
リップは、戸惑ったようである。

少しの沈黙の後で、リップが、英語でペラペラと話し出した。

おおよそ、
僕のシャツをあなたが、マーケットに行って買ってくれるんだよね・・・
どうして・・・僕は、それが楽しみだったのに・・・
僕に似合うものを、探してくれるはずだったよね・・・

ウーン
私は、それでも、ソォリー、暑さで疲れて、部屋で休みたいんだ・・・

リップは、腑に落ちない顔をした。
私は、本当に、ごめんなさいと、言った。

リップは、解ったと、言う。
私は、握手して、もう一度、ごめんなさいね・・・と言った。

リップは、少し笑った。
良かったと、思った。
そして、別れて、ゲストハウスに戻る際に、何か変だと、感じた。

部屋に入り、矢張り、おかしい。
リップが言った。僕のために、あなたがマーケットに行って、僕に合うシャツをプレゼントしてくれるって・・・という、言葉に、ハッと気付いた。

これは、何と言う事をしたのか・・・
私は、常々、物に心を託して、大和心を託して・・・と言い続けていた。
更に、日本の人たち、特に、金で解決という人たちに対して、批判と批難を繰り返していた。
金で買えないものを、知っている私は・・・

衣服など持参するより、金を渡せば・・・・という、アホなど・・・
何度も書いていた。

しかし、私も、その人たちと、同じではないか。
日本の、そういう人たちと、同じ空気、水を飲んでいる私というものを、実感した。

自己嫌悪。
私も、彼らと同じではないか・・・

ベッドで、横になりながら、私は、酷い自己嫌悪に襲われ、更に、何て事をしたのだという、慙愧の思い。強く、強く、感じた。

彼は、私から、金ではなく、シャツを貰いたかったのである。
そして、彼には、5ドルとは、大金である。

貧しい子にとって、5ドルは、手に出来ないお金である。

私は、時計を見て、10時過ぎであるのを、確認して、マーケットに行くことにした。
急いで、部屋を出る。
ラ・モンさんを探してマーケットに行くと決めた。

屋台に行くと、ラ・モンさんの姿は、辺りに無い。
お姉さんがいた。
リップは・・・
ああ、どこかに行ったは・・・
ラ・モンさんは・・・
少し前までいたけれど・・・どうしたの・・・
マーケットに行きたい・・・
私が、言うと、丁度、お姉さんの旦那さんが、バイクに乗って来た。

お姉さんが、私の夫ですと、紹介してくれた。
そして、マーケットに行きたいらしいの・・・と、夫に言っているように感じた。
すると、旦那さんが、私に、オッケー、マーケットと言う。
俺が連れてゆくよ・・・と感じた。

そして、屋台の後ろの小屋に入った。
着替えてくるようだった。
と、その時、ラ・モンさんのトゥクトゥクが、近づいて来た。

あっ、ラ・モンさんだ・・・
私がお姉さんに言って、ラ・モンさんに連れて行ってもらいます・・・

ラ・モンさんのトゥクトゥクに飛び乗った。
マーケット・・・
オッケー

近くのマーケットは、安いと聞いていたので、任せた。

そして、マーケットの衣類店に行き、少し時間を掛けて、半袖のシャツと、長袖の、ワイシャツよりも、カジュアルなものを選んだ。
二つで、12ドルを、11ドルに、ディスカウントしてもらった。

それを持って、また、屋台に戻る。
お姉さん夫婦がいた。
私は、買ったシャツを、お姉さんに見せて、どうだろう・・・と聞いた。
ゥワーと、お姉さん。その夫も、自分のことを指して、欲しいな・・・
更に、夫は、ハウマッチと、尋ねてきた。
私は、ノーノー・・・

シャツ一枚買うということは、大変なことだろう。
10ドル、4万リアル。食事が10回以上出来る。

お姉さんに、手渡して貰おうと思ったが、また、リップか戻ってくると言うので、私は、それを持って、一度、部屋に戻った。

ゲストハウスを出るまでは、十分に時間がある。
それに、昼食も出来る。

私は、何としても、私の取った行動を、取り戻したいと思った。
日本人は、お金があるから、お金で何でも、解決する・・・・
そんなことを、リップに思われては、日本人の恥じであると・・・

ちなみに、リップは、家族で唯一、インターナショナルスクールに通っている。
屋台の母親が、せめもとの思いである。
だが、それ以上の教育は、無理なのである。
大学に行くには、お金が無いと言った。

posted by 天山 at 00:03| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月21日

まだ悲しいプノンペン8

部屋に戻り、ホッと一息。帰り仕度はしてある。
後は、リップに渡して、挽回し、食事をして、二時にゲストハウスを出る。

この六年、私が、初めて反省したことである。
矢張り、同じ空気、同じ水を飲んでいると、染まる。知らずに染まる。
恐ろしいことだ。いつも、自分というものを、見つめて、立場と場所を替えて、見つめる必要がある。
自分自身に、言い聞かせるのである。

問題は、すべて私の内にある。
内省・・・

人から批判、批難されるより、わが身がわが身を裁くことは、辛い。

昼間前になり、私は、屋台に向かった。
リップがいた。
私を見て、リップが手を振る。

リップ・カムイン・マイ・ルーム
と、呼ぶと、リップが駆けて来た。
お姉さんから聞いたのだろう。

部屋に連れて、再度、プレゼントと、渡す。
リップは、すぐにシャツを手に取った。
着てみて・・・

Tシャツの方を着た。
黄色が下地の、面白い絵の入る、シャツである。
そして、中袖のシャツ。
その時の、リップの表情は、言葉に出来ないのである。

彼は、頭が良くて、議論家であり、口煩いタイプと思う。
家族の中でも、やり合うのである。
その彼が、黙って微笑む。

写真、フォト・・・
と、言うと、うんと、頷く。

二枚、リップのシャツ姿を撮り、私と一緒にと、片手でカメラを持って、リップの肩に腕を回すと、リップも、私の体に手を回す。

気に入った、と、日本語で言い、オッケーと問い掛けた。
リップは、黙って頷く。
そして、照れ隠しか、自分もカメラを持っているが、フイルムが無いから、本当は一緒に撮りたいんだけど・・・などと、言う。

二人で、屋台に戻り、私は、食事をしようと思ったが、もう、すべて売切れである。
それで、リップに時間があれば、一緒に食べようと、誘った。
リップが微笑んで、うん、と頷く。そして、それじゃあと、歩き出した。

えっ・・・どこ行くの・・・
ジャパニーズレストラン・・・
そんなところ、あった・・・
あるよ・・・
行き着いたのが、韓国料理店である。

海苔巻きがあり、それが、リップには、日本食と思ったようだった。
でも、注文したのは、焼き飯である。

4ドルの、焼き飯・・・
凄く高いのである。
ちなみに、焼き飯には、五種類のキムチの皿が付いている。
客が一組いたが、観光客である。
矢張り・・・
地元の人は、食べられない金額である。

帰り際、リップは、スクールに行くから、見送れないので、電話を下さいと言う。
オッケー。ネクスト・タイム。また会おう。
握手をして別れた。

屋台に立ち寄り、リップのママにも、オークンと感謝の言葉を言う。
彼女は、畏まって、私に挨拶した。

プレゼント・・・
そんなものを、貰ったことなどなかったのかもしれない、と、思った。

ラ・モンさんが、二時少し前に来て、待っていた。
私は、すぐに、荷物を出して、トゥクトゥクに乗る。

空港に着いて、ラ・モンさんに、20ドルのお礼をする。
彼の電話番号も聞いている。次ぎは、空港にも、迎えに来て貰うことにしていた。

小さな、国際空港である。
チェックインして、出国する。
皆、両手の指紋を取られていたが、私は、右手の四本だけで、オッケーと言われた。
出入国で、時間がかかることはない。

そして、バンコク行きに乗り、恐怖の死ぬほどの体験をする。
飛行機が離陸して、30分程の頃、突然、乱気流に入った。

突然、機体がガクンと落ちて、それから羽が折れるのではと思う程、揺れた。
白人の男たちも、声を上げて、必死で座席の肘をつかむ。女性の泣き声。
いつまで、続くのか。それとも、落ちるのか・・・

ああ、死ぬ前に、こんなスリリングな体験が出来るなんて・・・と、思いつつ・・・
私は、トイレに立つ以外は、ベルトを締めているので、ベルト一つで、じっとしていた。
なかかな、収まらない。
ガタガタと機体が鳴る。
風に翻弄されているようだ。
その間、3分か5分か・・・解らない。

そして、やっと、落ち着いた。
皆さん、ホッとしている。
そして、アナウンスである。
本当に、タイ人は、とぼけている・・・
皆さん、飛行には、問題ありません・・・というような、英語である。

さすが、タイ人である。
終わった後で、言うな・・・

その、適当さ、いい加減さ、曖昧さ・・・
時々、それで、救われるが、私は、いつも、激怒する。
だが、激怒しても、何で怒っているのか・・・相手は、解らないのだ。

ただ、私が怒っても、人は殺さないが、タイ人が怒ると、人を簡単に殺す。
これは、覚えておいた方が、身のため・・・


posted by 天山 at 00:10| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月22日

まだ悲しいプノンペン9

再び、タイに入国する。
六時過ぎである。
丁度、あまり入国する人がいない時間帯だった。

一番最後になった。というのは、私は、この活動により、少し、足の調子を悪くした。どうも、歩くのが、遅い。早く歩けない。

審査官の元に、出た。
すぐに印鑑を押して・・・と、すると、審査官が、私を手招きする。
えっ・・・
横に来いと言っているようだ。
何かあったのか・・・

私は、あたなを知っています。
突然、審査官が言う。

ありがとうございます。
私の妻は、日本が大好きで・・・
ああ、と、頷く。
いけばなをしています・・・

ツミナ、大変でしたね。そして、福島の事故・・・
ええ・・・

彼は、何と、名前と、住所、電話番号、そして、メールアドレスを書いて、私に渡す。
何かあれば、連絡ください・・・

驚いた。
本当に・・・

もう、何度タイに、入国したか・・・数え切れない・・・

ちらっと、見ただけで、印鑑を押したのは、それだった。

私は、彼の他に、掃除の人たち、特にトイレ掃除の人たちとも、顔馴染みである。
一階のトレイに行くと、今回の単の着物を誉められた。
それ、欲しいは・・・である。

私は、一階にある、パタヤ行きバスチケットを買った。
次の、発車は、八時である。
七時のバスは、発車したばかりである。

30分ほどは、ゆっくりとしていられる。
一階の食堂に行くことにする。
ここは、最初、空港内の人たちの、食事の場所だったが、知れ渡り、観光客も入るようになった。だから、いつも、混雑している。
24時間営業である。

100バーツのチケットを買って、50バーツの麺類を注文する。残ったチケットの清算は、そのまま戻る。

10バーツの水を買い、バスを待つために、チケット売り場に戻る。
八時出発であるから、その前に、預ける荷物のチェックがある。
しかし、10分を過ぎても、来ない。

受付に行く。
まだですか・・・
少し、遅れています・・・
と言う、受付の子の、インターネットの画面を見ると、何と、ゲームをしているではないか。でも、驚くに当らない。
もう一人の、担当の男の子は、電話をして、ニヤニヤしている。彼女にでも、電話しているのだろう。日本では、考えられない光景である。

結局、30分も遅れて、案内される。
そして、乗り込んで、待つ。
中々、バスが発車しない。

バスの乗り口に座って、無線で、何やら話している。
座席が二つほど、空いている。
そこで、まだ乗れるよ・・・などと、話しているのかも・・・

本当に、呆れる対応である。
40分を過ぎて、漸く、バスの扉が閉まり、発車した。
つまり、九時になる。パタヤに着くのは、11時に近い・・・
ああーーー

今回は、ホテルの予約をしていない。
私は、ゲストハウスではなく、ゲストハウス並みの料金の、ホテルに泊まる予定である。

そして、高速を走り、パタヤに入った。
11時少し前である。
一度目の停留所で止まる。
二度目の停留所で降りるはず・・・
と、女の子が、二番目の停留所で降りるので、私も降りた。

ところが、風景が違う。
とんでもないところで、降りてしまったのである。
もっと、先だったのだ。

私は、バッグ二つを肩にかけて、歩いた。いつも止まる停留所まで。
その道が、長い。足の良くない、私には、とても大変である。

漸く、ある地点に来て、店仕舞いする、店員に、ここは、セントラルかと、尋ねた。
そうだと言うので、ソウテンに乗る道はと、尋ねると、もう少し先だという。
それで、また、歩いた。
しかし、いつもの場所には、出ない。

もう、30分以上歩いて、汗だくである。
足も、もつれる。

漸く、コンビ二の横にある、バイクタクシー乗り場があった。いつもなら、乗らない、バイクタクシーに乗ることにした。
私の行く、道のナンバーを言うと、100バーツと言う。
なんでそんなに、高いの・・・
明らかに、ボッていると思った。
私は、ノーと言い、また、歩き出したが、限界である。

決して、真似をして欲しくないが、私は、通りから、横道に入り、暗い細い道を、目的の場所目掛けて歩いた。
これは、非常に危険である。
さあ、私の物を奪ってくださいというようなもの・・・

細い道の、先にある、あの通りに出れば、ソンテウに乗れるだろうという、希望のみ。

その時、その道に、白い車が入って来た。
私は、道の端によけた。

通り過ぎると、思った時、運転席の扉が開いた。
どちらに行きますか・・・
聞きやすい英語である。

カップルで、女性の方から、声が掛かった。
ソイ、何番の・・・
オーッ・・・と言い、後ろのドアを示して、プリーズと言われた。
本当は、これも、危険な行為であるが・・・

私は、乗った。
彼女に、私の出したホテルのカードを見せると、
ここは、ノースパタヤですよ・・・歩いてゆくのは・・・

バス停からですかと、尋ねるので、エアポートバスですから、別な所ですと言うと、ため息をついた。
運転席の彼氏に、彼女が何か言うと、走りはじめた。

少し、彼女と話しをした。

車は、漸く、私の知る道に出た。
そこで、ああ、こんなに遠い場所だったと、確認。

そして、ホテル近くに到着した。
私は、彼に、100バーツを握らせて、ガソリン代ですと言うと、ノー、ノーと、彼女も、いりませんと言うが、無理に、渡して、コープクンカップとお礼を言った。

そして、車が去った後で、ホテルに向かう。
ワッベッド、ワンルーム。
880バーツである。えっーーー
650バーツで泊まれたのに・・・
しかし、もう、限界。泊まることにした。

部屋に入って、着物を脱ぐと、襦袢から、着物の上半身が、汗で、大雨に当ったように、濡れていた。
そして、我ながら、呆れた。


posted by 天山 at 06:31| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月23日

まだ悲しいプノンペン10

兎に角、疲れ果てて、私は暫く、部屋にある、フリーの水を飲みつつ、タバコをふかした。
もう、夜の11時を過ぎて、真夜中になる。しかし、外は、これからが始まり。
店の音楽が、部屋まで響く。

水が必要なので、私は、着替えて、ホテルの前のコンビ二に出た。
兎に角、水である。
脱水症になったら、大変。

重い足取り。
ホテルは静かだが、道に出ると、バー、その他諸々、昼間のような明かりである。

この辺りは、第二の夜のスポットである。
そして、益々、盛んになっている。

諸外国からの、観光客・・・
とても賑やか。

水を買うと、さっさと、部屋に戻る。
屋台の食べ物を買う気にもならない。
食欲など無い。

そして、寝た。
眠るしかない。

朝は、七時頃に目覚めた。
日本時間で、九時である。
早速、日本に電話する。
プノンペンでは、電話が出来なかったので、話す事が多い。

八時の朝食は、ホテル代金に含まれている。
八時少し前に、ロビーに降りるが、もう少しだと、言われて、ホテルの前の外にある、テーブルに腰掛て、タバコを吸う。

幸運だったのは、バイキングである。
好きなだけ食べられる。
880バーツも払ったのであるから、と、二食分を食べるつもり・・・
だが、限界である。

そこで、色々な国の人と、話しをすることに。

特に、印象に残ったのが、インド人のグループで、北インドで活動する、バンドの人たちと、そのガイドで、インドの旅行会社の人。

ボーカルの人が、自分の歌を聴かせてくれた。
ああ・・・
インドだ。
インディーという。

あの、独特の節回しである。
そして、皆さんと、英語で会話する。
何となく、通じる。

私が、日本の古い歌を歌うというと、とても、興味を持った。
聴いてみたいと言う。
私は、少し、万葉集の朗詠を聴かせた。

オッー、グッド、グッド・・・
インドの節回しと、似ているね・・・

旅行会社の人は、トウキョウに友人がいて、少し日本語が出来ると言う。
彼が、部屋に戻り、名刺などを持ってきて、私に渡す。
インドに来たら、連絡くれ・・・できることを協力するよ・・・

私は、インパールに行きたいと言った。
どうして、インパールなんだ・・・
日本軍が、インパールでイギリスと戦った場所です・・・
そこで、私は、祈りたいと言った。

国内線があるという。
コルカタ、旧カルカッタから、出掛けることが出来るということが、解った。

30分ほど話して、私は、部屋に戻った。
そして、今日のうちに、別のホテルに移動すると、決めた。

それで、同じホテル系列の、一本道を別にした、ホテルにしようと思った。同じホテル系列だと、移動のための、トゥクトゥクがサービスになる。更に、こちらよりも、料金が安いのである。

そして、フロントに言う。
ところが、さて、移動しようとロビーに降りて、トゥクトゥクを待つが、一向に来ない。
何度か、フロントに言う。
少し待って・・・

そして、最後に、ボーイが、トゥクトゥクが見つからない・・・
ああーーー
タイ人の適当さである。

いいよ、アイム・ウォーキング・オッケーと、私は、バッグを二つ肩に掛けて、出掛けた。そして、道を一つ越えようとした時、ふっと目に入ったホテルの文字。
へー、こんな所に、ホテルあったのか・・・

そこで、フロントに。
ところが、人がいない。
ホテルの入り口の両替の店の人が出てきて、大声で、誰かを呼ぶ。
中々、来ない。

漸くやってきた、お姉さん・・・
とても、アホぽっくて、楽しい。
600バーツよ。今は、繁忙期なの。そうじゃなきゃ、400バーツよ・・・

オッケー、それじゃあ、部屋を見せて・・・
階段か・・・と、お姉さんが、二階の部屋にするはよ・・・
部屋を見ると、以外に広くて、ダブルベッド・・・

ここにすると、決めた。
だが、私の部屋は、ホテルの真ん中の吹き抜けに面して、そこにテーブルと椅子・・・
要するに、踊り場である。
そして、周囲の部屋を見て、ああ、ラブホテル用になっていると、思った。
矢張り、そうだった。

しかし、客は、私が寝ている時に来て、目覚める前に、ホテルを出るから、誰にも会わないのである。
私のように、泊まる人は、三名・・・

それでも、私は、ホテルの人たちが、適当で、気安く、そこに三泊した。

その、お姉さんから、色々な情報も仕入れたのである。


posted by 天山 at 00:00| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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