2012年12月22日

霊学93

ユングの思想的発展の最後を飾るものは、共時性とか、同時共調性と訳される、シンクロニシティの理論である。

それは、1952年、ユングと、物理学者ウォルフガング・パウリの共著という形で書かれた、自然の解明と精神、という著作にある。

ここで、ユングは、オカルト的な占星術について、多くのページをさいているのである。
更に、ノーベル賞の理論物理学の権威であるパウリは、17世紀初頭に戻り、物理学者で、数学者として名高いヨハネス・ケプラーと、ヘルメス学的医者で数理に詳しい、ロバート・フラッドとの論争を取り上げている。

秋山氏は、その著作が長い間の、謎だったがそれを解く鍵が、薔薇十字の思想でみると、解り始めたという。

薔薇十字の背景には、ルネサンスのヘルメス学があり、カバラがあり、その奥には、グノーシス思想がある。

勿論、西洋では、キリスト教によって、弾圧され、異端とされたものである。

ユングが問題としていることは、非因果的な事象のことである。
普通は、因果律によって、物事を考えるが、しかし、因果律は、ただ相対的なものにしか、役立たないのである。

しかし、この世界では、非因果的事象は、見つからない。
それは、非因果的な説明が、可能な事象を想像できないからである。

だが、それでは、そういうことは、存在しないと言えるのかといえば、言えないのである。

一人の人間の、一生のあらゆる出来事は根本的に異なった二つの種類の結合によって成立している。
秋山

その一つは、自然過程の客観的、因果的な結合であり、もう一つは、主観的で、物事を体験する個人の中でのみ、存在する。

そして、その体験は、客観的には、証明することが出来ないのである。

だが、その人にとっては、事実であり、厳然と存在するのである。
精神病のことを言うのではない。

シンクロニシティの現象は、二つの異なる心的状態が、同時に生起することによる。

客観的事実と、主観的体験が、因果的に関係なく、同時に起こることが非因果的関連の意味である。
秋山

ユングが、こうした事象が起こることの証明として、ラインによる超心理学と、結婚の問題が、月の合と衝との関わりについて、占星術的な実験を行った。

また、易に関しても、大きな関心を寄せたのである。

シンクロニシティを認めるには、人間の頭で想像できる唯一のことは、自然の中には、原因と結果との結合以外に、もう一つ、別な因子が存在し、それが、諸事象の中に表現されるということだ。

それがわれわれにとって、意味としてあわられるものと考えなければならない。これがユングの考えていた隠れたる神の実在であり、すべてを包括する因子の存在という仮定であった。
秋山

昔、結婚式場を抱えるホテルからの依頼で、占いイベントに出た。そこでは、カップルとなった、二人を占うのである。
その時、驚いたことがある。
生年月日による、占術により鑑定したが、おおよそ40組ほどだったが、皆、星は違えど、同じ意味の相性を持っていたことである。

つまり、結婚を考える関係というものを、実感として、感じたのである。

ユングが、オカルト的な人間ではないと、研究者は言うが・・・
意味のある、偶然の一致が、人間の心に大きな意味を感じさせるということに、気づいたという。

そして、その背後にある、関係を追及したかった。

ユングにとって、さまざまな神秘的な事象は、ただ迷信的に信じるものではなかったが、だからといって、これを見ないですませたり、否定することはできなかった。
秋山

ありとあらゆるもの・・・
そこから、ユングは、人間の心というものを、考えたというべきだろう。

だから、完結はないのである。
人間の心は、どこまでも、未知なのである。

更に、ユングは、中国最古の思想である、老子の、道、タオの中から、引き出している。

その道徳経から、
物あり混成し、天地に先だって生ず、寂たり寥たり。周行してとどまらず、もって天下の母となすべし。われその名を知らず。これに字して道という。強いてこれが名をなして大という。

これは、また、無でもあるが、何も無いということではない。
感覚の世界ではとらえられず、またあらわれることもない意味であり、無は、この世を構成する組織者である。

自と他が対立しない状態である。

キリスト教の神観念には無いものである。
中国には、神は存在せず、道が存在すると、考える。

常に全体に働く、エネルギーとも、秋山氏は言う。

ユングは、この東洋の思想と、西洋の、ヒポクラテス、フィロンを上げ、更に、新プラトン主義の創立者、プロティノスを上げ、ルネサンスのカバラ的思想家、ピコの言葉を上げている。

第一に、事物は統一性が存在し、そこではおのおの物はそれ自体と一体をなし、それ自体から成り立ち、それ自体と結合している。第二の統一性においては、ある生物が他の生物と共に結び合わされていて、この世界の各部分がひとつの世界を形成している。第三の最も重要な統一性は、あたかも軍隊が指揮官と一体をなすごとく、宇宙全体がその創造主と一体になっているということである。
ピコ

ユングの研究が、東洋と西洋を結ぶものであり、更に、より人間の心を深めるための、努力の有様が見える。

そして、今、21世紀に入り、それが更に、進化生成発展しようとしているのである。




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2013年01月29日

霊学94

内的人間と外的人間が一つの全体を形成しているという考えは、アグリッパの思想の特徴でもあり、パラケルススのものでもあり、さらにそれはケプラーの「仲介する第三者」の中にも見られるとユングはいう。そして、ライプニッツの「単子論」に到達する。
秋山さと子

更に、それが、薔薇十字思想の中心をなしていたこと、薔薇十字の宣言の中に、ジョン・ディーの不思議な「単子」のシンボルが描かれていたことを知らぬはずはないと、秋山氏は、言う。

ユングは、薔薇十字思想について、語ることを避けているのである。

ケプラーは、プラハのルドルフ二世と関わる学者で、錬金術的な学者の一人といえるが、近代科学の思想を身につけた客観性を重視する学者だった。
つまり、それ以前の、魔術=科学的なフラッドの考えと正面衝突し、二人の間には、長い論争が続けられた。

それに関しては、ユングは関係を持たないのである。

あらゆる二元的な分裂を統合し、橋をかける新しい意識こそ、シンクロニシティの理論に基づくもの・・・

さて、余談であるが、宗教と科学、科学と人間の心が、このままでは、どこまでも分離してしまい、そのうちに、人類の悲劇をもたらすであろうという、危機感、危機意識が、叫ばれていた。

それは、主として、倫理的な問題に関わっていた。

1975年、コルドバの宮殿に、一群の思想家たちが集い、科学と意識、というシンポジウムが開かれた。

物理学者で「空像としての世界」の主な著者であるデヴィット・ボーム、「タオ自然学」のフリッチョフ・カプラ、天体物理学者のユベール・リーヴス、その他神経生理学者、超心理学者、イスラム、ヒンドゥー、ユダヤ、仏教などの宗教学者たち、日本からは、心療医学の池見酉次郎、イスラム学の筒井俊彦が参加した。その他に、ユング心理学から、C・A・マイヤーをはじめとして数名の分析家たちである。

この会議は、ユングとパウリの共著である、「自然現象と心の構造」が、会議の精神になっていた。

1984年に、日本でも、同様な国際シンポジュウムが開催された。

その際は、現代科学における「全体」の喪失が主題となった。

心理学では、個人の主観的想像の領域を越えて働く、ユングの元型の考えに対応して、トランス・パーソナル心理学が生まれ、更に、85年、京都で同様のシンポジュウムが開催されている。

その際に、物理学者たちが、東洋の思想、特に仏教の華厳思想などに関心を示し、新しい理論を打ち出した。
また、東洋の宗教家が、物理学における、明在系と暗在系という、新しい考え方を理解しようとする学際的な研究が現れ出したのが、現在の学問の先端を行く傾向にあると、秋山氏は、指摘する。

秋山氏の、最後の言葉である。
見えざる神、隠されたる統一者、無、恍惚、あるいは仏教の空は実在する。それは人間の意思や自我とはまったくかかわらないために、無であり、隠されたものであらねばならない。しかし、そこにこそ新しい世紀と新しい意識の誕生が存在する。それを信ずると信ぜざるとにかかわらず・・・

上記のことを、説明すると、先に進まないので、ここで止める。

さて、21世紀を迎えて、それらは、どのように展開したのだろうか・・・
結論など、出るはずもない。

ただ、人の意識は、それほどに、変化していないのである。

科学的と言えば、説得力があり、オカルトと言えば、不安である。
更に、オカルトは、不気味なものである。
これからも、そうようであろう。

ただし、都合の良いときは、オカルトも利用するのである。
賢い馬鹿が、都合の良いときだけは、霊能者を頼るとか・・・
だが、学術的に深めるという、試みもない。

しかし確実に、人間の心と科学との、分離が行われている。
矢張り、このままでは、どこかで、人間は、大きな過ちを犯すことになる。

死ぬはずの人間を、生かし続けて・・・
一体、どうする気なのか・・・

命の分野にも、入り込む科学というもの。
永遠に生きることが出来るように、幻想を抱かせる科学。

だが、何一つ、確定したものがないのも、科学であり、だからこそ、研究が続く。

仮説を設けて、前進する科学に、心を扱う宗教や、心理学は、どのような手を打つのか。

心理学も、心の科学である。
しかし、そうすると、深まれば深まるほど、人間の心から、離れる。
更には、統計により、人間の心を判定するということになる。

心理学により、心理療法士というものも、カウンセラーというものも、何一つ、確定しているものはない。
手探りの中で、心を扱うのである。

更に、目に見える形にしなければ、解らないという、未熟である。

新薬が出来て、分裂病が癒えたという女性が、相談に来て、言う。
本当の私は、あのくらいトンネルの中にいた私ではないかと、思うと。

精神の病が癒えて、私は、私ではなくなった・・・
それが、不安なのである。

それに対処できる、心理療法家がいるだろうか。

長い神経症患者が、それにより、私でいられた・・・と言う時、果たして、誰が、何かを言うことが出来るのか・・・

そこに、科学と融和した、霊学の存在がある。
霊とは、脳と、心と、魂を結ぶものである。


posted by 天山 at 00:35| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月30日

霊学95

ユングも関わった、超心理学。
それは、心霊研究からはじまり、心霊主義となり、衰退して、超心理学として、登場した。
だが、心霊研究以前にも、膨大な歴史がある。
それを、書き始めると、とても、霊学に行き着くまでに、時間がかかるので、省略する。

日本には、米英の翻訳が多いが、実は、フランスで、心霊主義が誕生した。

近代の心霊術は、アメリカのフォックス姉妹に端を発するが、体系的な思想に発展させたのは、フランスの、アラン・カルデックの、心霊主義である。

その、心霊主義、スピリティスムという言葉も、カルデックの造語である。

新たなものごとには新たな言葉が必要である。同一の語が多数の意味をもつことからつねに生じる混乱を避け、言語の明晰を保つためには、そうすべきである。「スピリチュエル」「スピリチュリスト」「スピリチュアリスム」という語はかなり明確な語義をもっている。これらの語に新たな意味をあたえ、霊の理論にも適用させようとするのは、ただでさえ語義が多すぎて曖昧な状態をいたずらに増大させることになるだろう。実際、スピリチュアリスムは唯物論の反対語なのである。自分のうちに物資以外のものの存在を認める者はだれでもスピリチュアリストである。しかしそれだからといってその人間が霊の可視世界との交信を信じているということにはならない。後者を指す語として、われわれは「スピリチュエル」「スピリチュアリスム」むではなく、「スピリット」「心霊主義者」「スピリティスム」「心霊主義」を用いることにする。
カルディック

現代でも、そのように定義されている。

勿論、それには、理解者と、批判者が交互に現れて、とてつもない、議論を繰り広げた。

ただ、心霊に関して、心理学での、深層心理、潜在意識による、解釈も成り立ったことから、それは、評価できる事だ。

つまり、すべてが、霊的な問題ではなく、その人間の潜在意識によるものであるとの判断は、正しい。
だが、すべてが、そうではない。

通俗科学の法則にあてはまらない現象がいたるところに出現し、その原因が自由で知性をそなえたものの活動であることが明らかになっている。
理性に従えば、知性ある結果には、原因として知性ある力が存在しなければならない・・・
この力は霊的存在の世界に属することをみずから宣言したのだ・・・
カルデック

更に、ノーベル医学・生理学賞を受賞した、パリ医学部生理学教授である、シャルル・リシェは、
心霊研究は知性をもつ未知の力に「起因すると思われる」あらゆる現象を研究する。未知の知性には、われわれの無意識の驚くほど知性な現象も含まれる。
と、言う。

カルデックの心霊主義と、リシェの心霊研究の態度の違いを見る。

それでは、科学者を代表して、ボワラックは、述べている。
一方では、生理学が教えるところによれば、いかなる思考も、感情も、意志も、一言でいえばいかなる心的現象も、脳と神経の活動や身体的基盤をともなわなければ不可能である。それならば、いわゆる霊のように、脳も神経も身体ももたずに思考し、感じ、意志を示すことのできる存在をどうして認めることができようか。
と、なる。

全く、唯物的である。
続けて、
他方では、われわれの実証的知識の総体に基づく結論によれば、世界は閉じたシステムを構成しており、そのすべての部分は互いに恒常的な法則に従って動いている。これらの法則を構成する要素と力は、どこまで歴史を辿っても、常に協同してきた・・・
言葉を変えていえば、科学がわれわれに教えてくれる自然の中には、偶然も真の奇跡も存在しないのである。そうであるならば、かくも整合的で閉じた世界の周辺部に別な世界が、いわば現実の別の面もしくは空間の別次元に位置する別世界が存在し、しかもときにはわれわれの世界と接触し、思いがけないときに、まるで気まぐれのように、異常かつ驚異的な影響を与えるなどと、一瞬たりとも想像することができようか。
と、言う。

実は、私は、想像できるのである。
それが、心霊であると、いえる。

更に、続けて、
しかも、このような想像はわれわれが世界について知っていることのすべてと矛盾しているだけではない。それは科学の否定そのものである。いわゆる霊のように眼に見えず把握できない存在が、いつでも彼らの気まぐれ次第で自然現象や生命現象に介入し、好きなように変えることができると仮定するのは、いかなる科学をも不可能にすることである。というのも、これらの霊は思うがままに自然法則の作用を妨げたり停止することが、いつでもできると想定することになるからだ。霊の存在を認めれば、物体が重力の法則に従うことも、化学反応のさいに質量とエネルギーが保存されることも、生命機能が活動環境の物質的状況に条件づけられるとも、もはや確信がもてなくなってしまうだろう。世界の大きな壁に、奇蹟が次々と忍び入るひびを入れてしまったことになるのだ。しかもなんたる奇蹟だ! 最も成功した交霊会の報告から判断しても、なんとも支離滅裂としかいいようのない奇蹟なのである。

全く、その通りだろう、科学者には。

19世紀半ばは、魔術という偏見から、開放された時期である。
その、1850年代に、心霊術が起こるのを目にして、科学者たちは、終焉した時代への回帰に対して、猛烈に反発したのである。

古代から続く、蒙昧の世界から抜け出すという、科学者たちにとって、それは、別の意味で恐怖である。
要するに、そんな時代は過ぎたのであるという、思い。

現在も、このボワラックの意見と同じ考えの、科学者が多いはずだ。

科学で証明できないものは、有り得ないのである。

だが、もう一つ、解せないことが続いていた。
それは、カトリック教会である。

奇蹟は、奇蹟審判の厳格な基準に則り、判断されるというものである。
それは、神からのものか、悪魔からのものか・・・
その判定は、如何なるものなのか・・・

更に、悪魔と判定されると、火炙りにされて、殺されるという、蒙昧である。
一体、誰が、何の権利を持って、それを判定するのか・・・
時代は、いつも激動である。

posted by 天山 at 06:11| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月31日

霊学96

心霊主義は、霊の実在、顕示、教示を基盤とする教義である。
アラン・カルデック

その中で、述べられている人間について、を見る。

人間の「魂」は花火であり、非物質的元素であり、不死である・苦しみを知る・思考する・意志をもつ、などの特徴をそなえているが、物質的で粗雑な元素である「肉体」のなかに嵌め込まれている。

両者の媒介となるのが、アストラル体、欲望体、エーテル体、もしくは「霊体」と呼ばれるもので、心霊主義には霊体という用語が一番用いられている。

霊体はきわめて繊細で微妙な物質で、地のちりとは完全に異なっており、重力の法則などの物質の法則に従わない。

霊体は「エネルギー」であり、普遍的流体の一部である「生命流体」でもある。

この流体はわれわれの肉体の内部では、神経エネルギーという形で存在している。霊体はわれわれの身体の生を支える動物エネルギーを保持し、人間の肉体とそっくりな形態をしている。

霊体は肉体とかなり親密な関係にあるので、肉体の重大な損傷「手術、肢体切断、昔受けた拷問の痕跡など」は霊体の上にもはっきり見てとれるのである。つまるところ、霊体とは宇宙的・普遍的流体の一部が固体化したものといえるだろう。それはまさしく、肉体が属する粗雑な物質世界と、魂が属する非物質的世界との媒介となっている。

以上。

上記をそのまま教義にして、新興宗教が起こる訳である。

だが、上記を科学として、研究した場合に、多々疑問が起こる。
当然だ。

ここで言う、流体とは、幽体のことを言う。

続けて見ると、
生きている人間の場合、通常の状態ではこの三種の体は互いに密接に組み込まれており、区別することはできない。魂が命令し、生命を得た肉体がそれに従う。地上では肉体だけがそれに従う。地上では肉体だけが目に見え、作業をする。

肉体だけしか、見えない。
何故なら、この世は、物質の世界であるから、それ以上のモノは、見えないのである。

当然のこと。
しかし、それを納得するか、否かは別。

死の瞬間に肉体は、衰退する。着古した衣服のように抜け落ち分解した肉体は、自由を取り戻した魂に、もはや隠れ場を提供することはできない。

魂は引きこもり、エーテル体に包まれることになる。エーテル体は魂を個体化し、魂のために人間的な形態を保ってやる。

霊「心霊」と呼ばれているのは、このような魂、霊体に包まれた魂のことである。「霊とは肉体の欠如した人間存在にほかならない。

これが、心霊主義の定義である。

つまり、心霊主義は、唯心論、スピリチュアリスムの教義である。
そして、霊は、われわれの前に、自己を顕示する。
三つ目は、霊は、われわれを教え導くのである。

この考え方は、今も、引き続き、スピリチュアルの考え方の中に、そして、宗教の中に、生きている。
これを、超えるものは、無い。

日本語にすると、魂、幽体、肉体となる。
欲望体とは、肉体に付属したものと、考える。

だが、科学の世界は、これで終わりではない。
ここからが、はじまりである。

そのために、心霊現象の検証と、心霊実験がある。
その報告例は、膨大である。

あらゆる学問が、そこに入り込んで、実に、複雑奇怪なお話になってゆく。
だが、そこから、心理学、臨床に取り入れられた方法も多々ある。

ただ、面白い言い分がある。

カルデックが言う。
霊がわれわれに顕示する必要があり、顕示することを望んでいることを認めようとはしないのか。なぜ、霊にもわれわれと同様の優しさ、思い出に対する忠節、仲間に善を「あるいは悪を」なそうとする欲望があると認めないのか。

そして、
これまでは霊との交信の手段が発見されていなかったからである。ルイ14世の時代に、何千キロも離れた家族の一員がわずか数時間、あるいは数分で互いに接触できると、いったい誰が想像したであろうか。電報が「そして今日では電話や無線が」発明されていなかったからである。

ルイ14世時代にこのような奇跡を実現したと吹聴すれば、魔法使いとして火刑に処せられただろう。

これをみてもわかるように、技術の進歩によって超自然は自然に移行するのだ。同様に心霊主義は、それまで宗教的・魔術的驚異の領域に属していた肉体離脱者の世界を、客観的・日常的領域に移行させたのである。

宗教の世界では、上記のことを、信じさせるために、努力する。
あるいは、布教する。

目に見えないが、存在する神仏というものを、信じさせるために、である。
更には、死後の世界の存在することを。

霊の科学である心霊主義は、唯心論的、かつ、合理的運動として出発し、その基礎となる、科学的啓示によって、あらゆる宗教的・哲学的思想を革新する存在である。
心霊主義 イヴォンヌ・カステラン

引用の部分は、私が読みやすく、改行した。

心霊主義は、超心理学へ、そして、その中から、臨床心理学へと、受け継がれる。
更には、精神病理学である。


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2013年02月01日

霊学97

霊媒とは何か。霊が人間と交信するための媒体となる存在であり、個人である。霊媒がいなければ、触覚による交信も、精神的な交信も、自動書記による交信も、物理的な交信も、その他いかなる交信もありえない。
カルデック

更に、その霊媒の分類をしている。
本来の意味での物理的現象霊媒
品物の移送、空中浮揚、アポーツ、叩音

感受性あるいは印象性の霊媒
霊の存在を個人的印象によって、キャッチする。良い例であれば、心地よい印象を、悪い霊であれば、気持ちの悪い印象を受ける。

聴覚霊媒
自分自身の内部や外部で霊の声を聴く。声によって、霊を見分けることができる。

話す霊媒
霊の声を聴くだけではなく、霊は、彼らの発声器官に働きかける。書記霊媒の手や腕に、働きかけるものと、同じ。

見る霊媒
覚醒状態、睡眠状態で、視覚的印象を受け取る。ただし実際は、彼らは自分の霊体を通じて、肉体離脱者の霊体と接触する。何よりも証拠には、目を閉じていても見えることだ。

治療霊媒
彼らの生命力が、霊の霊体力と合体して、患者の身体に流れ込み、動物的生命を活気づける。

書記霊媒
心霊書記を行う。

専門霊媒
ある分野の交信を専門とする者。医者、詩、音楽、道徳、学識、芸術など。

更に、その能力の行使の仕方により、分類する。
初心者、熟達者、ほとんど現象を生じない者。
簡潔な者、および仔細にわたる者。
フレクシブルな「いくつかの方法を用いることのできる」者、および、一つの方法に限られる者。

落ち着いている者、軽快な者、激烈な者。

そして、霊媒は、特別な存在であるが、それでも、欠点を持つ。霊媒の欠点とは、
憑かれた霊媒
煩わしい霊に憑かれて、追い払うことができない者。

幻惑された霊媒
悪霊に精神的・物質的に支配されている者。

軽率な霊媒
戯れにその能力を用いる者。

高慢な霊媒
自分の能力や交信を自慢する者。

傷つきやすい霊媒
批判されることに耐えられない者。

思い上がった霊媒
自分では決して誤ることはなく、上級霊だけが訪れると信じている者。

金目当ての霊媒
多額の報酬を要求する者。

虚偽の霊媒
ペテン師

利己主義の霊媒
その能力や交信を自分のためにだけ取っておく者。

嫉妬深い霊媒
自分より強力な霊媒を嫉妬する者。

その他、ありとあらゆる、人間的欠陥を持つ者が存在する。

そこに、一つ付け加えるものは、ペテン師に近いが、精神疾患である。
これが、最も多いと、私は言う。

自己分離による霊媒は自己を分離する能力をもっている。
カステラン

魂と霊体は、肉体という、外被を離れることがあるという。
肉体は、動けず、緩慢な生命を持つことになる。
だが、霊体の微妙な外被との、結合を保つ。

この結合は、生を支える結合であり、それを通じて、生命エネルギーが、肉体という外被に少しずつ流れ込み、死を妨げるのである。

憑依による霊媒が、このタイプに最も多く見られる。

多くの実験は、この種の霊媒を用いて、実行される。
反対に、直接探査の霊媒は、極めて稀である。

それは、肉体が覚醒状態であり、弱々しく生きていて、その間に、微妙な元素が人間に禁じられた、領域を探索するのである。

霊能者と名乗る者の中には、この霊媒体質が多いが、特に、その際に、その人間性が、ポイントとなる。
私の体験から言えば、ある程度の能力、それは、知らない人には、驚きの能力だが、それに自己顕示欲がついて、情報以上に、創作してしまう者である。

世俗的というような、野心を持っていたり、有名志向のある者など。

つまり、指導者がいないのである。
自分が指導者なのである。
だから、都合の良いように、情報を伝える。

あえて言えば、鑑定する者がいないのである。
要するに、その霊の正体を見抜くための、監視人がいない状態であり、日本の場合の、霊能者に実に多い。

一人舞台である。
そして、何の確認も、確証も、証拠も無いのである。

信じるだけになる。
それでは、科学的といえない。

更に、恐ろしいのは、それらが、宗教的なグループを作り、教祖のように成り果てることである。


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2013年02月02日

霊学98

カステランの心霊主義には、面白いことが、書かれている。

オーラを伴う、霊媒である。
これは、物理的現象を引き起こす霊媒である。

霊体のエネルギーを、一種のオーラ、光の輪として、肉体の外に放出するのである。
類似したもの同士の直接の接触により、霊がそこから生命エネルギーを汲み取り、テーブル、その他の物体を「生物化する」のである。

一時的に、死せる物質が、生気を帯びる。
エーテル体や、霊体が、魂の衝動に従うのと同じに、生気を帯びた物体が、肉体離脱者の思考に従うのである。

霊体の場合は、心の中で、命ずるだけでもいい。

心霊現象は思考に依存するのだから、その強度の限界は、与えられた精神的命令の限界以外にはないはずである。ところがじっさいには、霊媒の力には限界がある。生命エネルギーの消耗は、「生物化」すべき対象が重要であればあるほど大きくなるからだ。霊媒が起こす現象の強度は、霊媒のエネルギー放出度に直接的に比例している。
カステラン

そこで、霊媒が介在する必要性を説いている。

霊は同類である肉体離脱者の霊体から、必要なエーテル・エネルギーを汲み取ることができるのではあるまいか。あるいは同じ性質をもつ宇宙エネルギーを直接汲み取ることができるのではあるまいか。そうではない。霊は自分自身のエーテル・エネルギーを、宇宙エネルギーで増強するかどうかは別として、生きた人間の流体とミックスする必要があるのだ。これは不可欠であり、必須条件なのである。
生命流体は肉体の生命によって豊かになるようにである。
カステラン

実に肯定的である。

われわれが世界を抵抗感のある固いものと思い込んでいるのは、われわれの感覚が粗雑であり、われわれの道具が鈍重なものであるからにすぎない。
カステラン

確かに、そうである。
物質の世界は、そして、肉体の世界は、その通りである。

だが、霊媒的、霊体的流体の特殊な能力によれば、いくら濃密な物体でも、固い粒子の部分よりも、隙間、空隙のほうが、はるかに、多いのである。

オーラ霊媒により、生ずる現象は、数え切れないほどある。

中でも多いのは、自動書記である。
心霊書記とも言う。

日本でも、そのような自動書記が多い。
が、問題があるのは、その霊が、何者なのであるかということを、判定せずに、受け取ることである。

霊が、我は神と、言えば、ただ、安易に信じるのである。
そして、とんでもない、宗教を起こしたりする。

さて、ここで、アラン・カルデックの、心霊主義と、その哲学を見る。
65歳の生涯を終えるまで、心霊実験を行い、そのから得た、多くの知識によって、書かれたもの。

神に関しては、
至高の知性、万物の第一原理。
神が存在する明白な証拠は、宇宙の調和である。
永遠、無限、不動、非物質、唯一、全能、公正無比にして、善良である。
物質は、神の外部にある。

これは、カトリックが掲げる正統派の意見と同じである。
そういう意味では、カトリックの神観念は、心霊主義の神観念と、同じである。

だが、その神なる存在と、カトリック教会がつながっているのかは、不明である。

宇宙は、三位一体である。
創造主としての神、霊「精神」、物質、更に第四の要素として、流体が加わる。
流体は、動物的生命の源流である。
霊と物質の媒介となるものであるが、電気的もしくは、磁気的物質であり、その一形態を霊体のうちに見ることができる。

物質は、単一の元素に由来している。
われわれが単体と呼ぶものは、真の元素ではない。科学が不完全だから、それらを元素としてしまうのである。

宇宙は、神の意志によって創造された。
生物は、胚種が孵化することによって、生じた。
この胚種は、地球が出来る以前は、エーテルの中に、撒き散らされた。そして、原初のカオスのうちに含まれて、孵化に好都合な環境が現れる日を待っていた。

この環境は、今日大きく変わってしまった。
人間は、資源を得るために、地球を大きく変えてしまった。
今日では、人間の自然発生は不可能である。

人間は、様々な場所で、様々な時代に、類似のしかし、少しずつ異なった胚種から生まれた。そのため、人種の違いがある。

アダムは、一つの神話にすぎない。

動物は、一種の魂を持つ。
その魂は、肉体の死後も、存続し、種によって異なるが、動物に、ある程度の知性と極めて限定的な自由を与える。
動物は、来世でも存続するが、盲目的、無意識的に彷徨するのみ。

人間の魂は道徳生活と、判断と行動の大幅に自由をふくんでいる。人間の魂と動物の魂はどちらも同一の普遍的知性原理から発生してきた。ところが、この原理は人間においては、人間時代以前に一連の生存を経験してきたあいだに、相当の進歩を遂げたのである。魂はこの時期をわれわれの惑星とは別の場所で、われわれには想像のつかない状態で過ごしたのかもしれない。ただし転生による人間界と動物界の交換はありえず、一方が他方に先行するわけではない。両者は出発点で異なっているのだ。とりわけ、人間の身体がいずれかの生存期の動物の身体へ退行することはありえない。「河は水源に向かって戻りはしないのだ」
カステラン

インド系の、輪廻の考え方とは、違う。
カルデックの心霊主義とは別に、鉱物から、植物、そして、動物へ、それから、人間へと、進化するという、考え方もある。

そこでも、逆戻りは、しない。

posted by 天山 at 00:01| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月17日

霊学99

それでは、心霊主義の霊についてを、見る。

霊もしくは魂はすべて神の意志により、普遍的知性と呼ばれる霊的原理から生じた。だから霊には始まりがあり、おそらくは終わりもあるのであろう。しかし、この始まりと終わりはわれわれにとってはそれ自体ひとつの神秘である。霊的世界は自然世界に先立って存在した。両者はつねに作用を及ぼしあい、ともに人間のうちに入り込んではいるが、互いに独立している。霊は思考の瞬時性をそなえているが、それは厳密にいうと偏在ではない。霊が同時に何個所にも現れることがあっても、それは一種の放射によるものであり、あくまでもひとつの霊なのだ。
カステラン

およそ、霊に関する説明は、この上記の通りである。今、現在も、そのように説明される。

新興宗教などは、これを持って、霊の説明としている団体が多数ある。

霊のカテゴリーには、三つある。
不完全な霊
善良な霊
純粋な霊

霊は、平等ではない。最初は、平等に創造された。そして、単純、無知であった。あるものは、それ以来何一つ学ぶことなく、無知鈍重のままに留まり、物質を欲し、物質の魅惑に溺れる。
だが、遥かに、進んだ霊もいる。

心霊主義という、新しい啓示にとって、霊の序列は、重要な部分の一つであると、言う。

不完全な霊については、知性に対する物質の優位。悪に向かう性向。無知、傲慢、利己主義、嫉妬・・・それにまつわる、悪しき情念。
神を直感しているが、全く理解していない。
彼らは、幸福ではない。それは、死によって、失った地上の悦びの光景と、自分たちには許されない、善良な霊の幸福が、責苦となるからである。

彼らの、進歩は遅々としているゆえに、いつまでも、苦しい思いを続ける。これが、永遠の地獄という信仰の起源である。

彼らには、五つの段階がある。
不浄「悪辣」な霊、軽薄な霊、知ったかぶりの霊、ニュートラル「物質に執着したまま」の霊、おべっかで混乱をもたらす霊。これらは、すべて下級の霊であり、古代神話で、デーモン、悪しき天使、悪霊となっている。

善良な霊は、物質に対する精神の優位、善意への欲求。
まだ完全に非物質化していないので、それぞれの地位に従い、大なり小なり、思考習慣のうちに、肉体生活の痕跡をとどめている。
彼らは、神と無限を理解し、すでに善良なる者の至福を味わう。
善をなし、悪を防止したことによって、幸福を感じている。

彼らを結びつける愛情は、彼らにとって、筆舌に尽くし難い悦びで、不完全な霊を苦しめる、嫉妬、後悔などの悪しき情念は、損なわれることがない。
ただし、絶対的完成に到達し、前世の行為の結果を消し去るまでには、試練を経なければならない。
霊としての彼らは、良い考えを助長し、人間を悪の道から遠ざける。
これは、様々な宗教の、善霊、守護霊、守護天使と呼ばれる者である。

彼らには、四つの階級がある。
善意の霊「善意」、物知りの霊「知性」、賢者の霊、そして、知識と叡智と善意を持つ、上級霊である。

上級霊は、めったに、受肉せず、常に進歩を促す使命を持つ。
ここでは、イエス、仏陀などと、上げている。

次に、純粋な霊である。
物質の影響は、皆無。他の霊に比べて、知性・道徳の面で、絶対的に卓越している。

ここでは、天使、大天使・・・などと、キリスト教の概念で上げている。

受肉による試練、物質中の通過、託された使命、これらだけが、霊、人間を、教化啓蒙し、序列の階級を上がらせることができる。

魂の試練と教育は、耐え忍んだ試練と共に増大し、退行することは、ありえない。

ここで、魂は、最初から、天使、悪霊として、創造されたのではなく、皆、同じところから、創造されたということである。

来世において、霊たちは、共同で暮らす。
上級霊の世界、軽率な霊の世界というものは、無い。

ただ、親和性において、自然にグループを作り、霊的家族を形成する。

地上と違い、何一つ隠すことも、装うこともできないゆえに、親和性は、誤ることがない。

序列を上がれば、同じカテゴリーの霊に対する相互愛は、増大する。
下のクラスの霊では、地上で互いに仕掛けた悪計のため、敬遠しあう。

下級霊は、上級霊に従属し、命令と、使命を受け取る。

霊同士の交信は、思考伝達による。

霊の生活は、定まりがない。
肉体を離脱した人間は、霊としての階級が何であれ、基本的に彷徨する。その間に、学び、自分の度合いを知り、あちこちで、使命を果たす。

過去、現在、未来は、霊にとって、唯一つの時、現在である。
すべての霊が、自分の運命、他者の運命を知るわけではない。

霊たちは、道徳感覚を備えている。ただし、とりわけ下級霊の場合は、その道徳感覚を地上での古い知覚の思い出と結びつけて考えることがある。

ヒエラルキーの上から下までの、霊たちが従事する使命は、宇宙の調和に協力することである。
上級霊が考え、この調和を統括する。
その後、任務が細分化し、重要性が、現象する。
下級霊は、理解せずに、従うことも多い。

使命は、彷徨状態でも、受肉状態でも、果たすことができる。
親となることなどは、特別の使命と見なされている。

受肉は、霊を進化させる宇宙調和計画の一部である。
地上において、人間を直接的に進化させる使命を持つ霊は、稀である。
任務を来世で果たす場合、生者が気づかないうちに、思考伝達によって、霊感を与えたり、地上生活の有益な変容を促すような、偶然や大事件を用意する。

以上が、心霊主義の霊に対する、考え方である。
それらは、すべて、霊媒による、霊からの情報をまとめたものである。

キリスト教の観念の強いものと思うが、イエスも、仏陀も、善霊の一つだと、捉える。


posted by 天山 at 00:58| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月18日

霊学100

ただいま、心霊主義について、紹介している。
それが、事実だとか、嘘だとかという判断ではない。

15世紀にまとめられた、心霊主義の考え方は、今も存続して、あるいは、そのまま取り入れられて、宗教などの布教に使われている。

さて、もう少し、見る。

霊であること、人間であることは、死や誕生によって生じる状態の変化の問題にすぎない。
カステラン

死に掛けている人間は、肉体器官の断絶のために、霊体によってもたらされる、生命流体の流れが途絶える。
それは、一日で生じるのではない。少しずつ衰弱する過程で起こる。

宇宙的流体は、その勢いによって、しばらくの間は、循環している。どこかの器官が衰弱すると、他の器官がそれを補うことができる。

しかし、病気が悪化したり、負傷することによって、生命流体の器官内の経路に、明確な断絶が起こる。それが、死である。

霊体に包まれた魂の離脱は、瞬時に起こるわけではない。
それは、魂の進化度による。
進化した存在は、素早く、数時間のうちに、肉体という牢獄を離れる。
物質的な存在、特に、突然の死に見舞われた者は、肉体を離れるのに、時間がかかる。これを、「霊の混乱」による、遅滞という。

死者は、自分が死んだことを理解せず、肉体の傍に留まり、取り乱す。
酷い場合は、その混乱が長時間続き、進化のため時間が失われてしまう。

誰一人、免れることのない、混乱段階をすぎると、魂は、自分が霊の世界にいることを、認めるようになる。

そして、自分を、あるがままに受け入れ、過ち、地位、これから学ばなければならない、事柄を意識する。
そして、多くのことを学ぶために、彷徨する。

霊として、旅を始めるのだ。

受肉、物質のこの世は、格別の試練であり、学習するためには、絶好の機会である。
幾つかの、あるいは、もっと多数の受肉を経て、魂は、ようやく知識と純化に到達する。

次々に経験する受肉は、全部地上で生じるわけではなく、異なった世界、必要に応じて、太陽系外で起こることもある。
太陽系では、火星は、われわれより劣り、金星は、われわれより、進歩していること。更に、木星は、遥かに進歩している。

一つの存在から、別の存在に移るとき、社会的地位が下がることがありうるが、霊的地位が後退することは無い。

魂が獲得したことは、決定的なのである。

新たな存在に移動したとき、前世の試練の正確な記憶は失っているが、その経験全体が、一つの収穫として、残されている。

それが、無意識に眠る意識である。

更に、霊には、性別は無い。
性別の決定は、肉体の次元の問題である。

両親も、肉体上の両親に過ぎない。

彷徨する霊にとって、再受肉の運命が近づいてきたことを感じるときがくる。

下級の霊の場合は、明確な指令を受け取り、待ち受ける試練を受け入れるか、断るか、二つに一つの選択しかない。

だが、断るという選択は、何の解決にもならない。
下級霊の場合は、いずれにせよ、大きな試練が待っている。

霊が啓蒙されれば、されるほど、事情をわきまえ、新たな生についての自由選択の余地は、増大する。

そのため、進歩を加速するために、最も厳しい試練を選ぶことが多い。
自ら、受肉の時期を早めることさえある。

再生は死よりもはるかに大きく深い混乱をともなう。状態の変化はつねに辛いことではあるが、エーテル状態を離れて物質のなかにおける試練と投獄の状態に移行することは、はるかに苦しいことである。「魂は危険な航海に出発する旅人のようなものであり、いつ大波にのまれて死に見舞われるかわからない」高貴な魂の場合はこのとき同僚の霊が取り囲み、生にいたるまで案内したり同伴することも多い。下級の霊は「自分のことは自分でする」しかない。
カステラン

魂と肉体の結合は、受胎のときにはじまる。それが実現するのは、誕生のときである。

九ヶ月の間に、魂は、深い霊的麻痺の状態に陥り、直前の過去、それ以前の多くの記憶は、消滅する。
ただし、霊は、自分の肉体の構築は、指示している。

成長し、思考と意志の中枢が、発達するについて、霊は、自分が使える道具を徐々に、手に入れる。

ここで、魂と、霊を分けて考えている。
それぞれの、働きが違うのである。

そして、エーテル状態である。
あの世では、エーテル状態で、自分の好みに合わせて、姿を作っているということだ。

性別のことでは、肉体があるから、性別があるということ。
更に、その親も、肉体の親という意味で、霊的な意味合いは、あまり無いのである。

自分の親和性に近い者を、親が引き付けるというが、失敗も多いという。

これは、一つの仮説として、理解することにする。

アラン・カルデックは、霊媒により、霊たちから聞いたことを元に、心霊主義を打ち立てたのである。
つまり、上記は、霊からの、情報ということである。


posted by 天山 at 03:28| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月19日

霊学101

霊の善悪は、単純である。

以下、10の道徳的法を紹介する。

崇拝の法
人類の宗教的基盤であるこの法は、魂と神の融合である。
祈りによって、われわれを助けてくれる善霊を呼び集めることができる。

労働の法
地上的様相における人間と、生物の肉体性に由来する法だが、それとは異なった、様々な形態のあるゆる試練世界にも通用する。
これは、進歩の道筋となる。

再生産の法
進歩を望む霊に、肉体という乗り物を提供する神聖な法である。
イエスなどのような、人類に奉仕するために多大な犠牲を払う場合を除いて、心霊主義が、独身をほとんど認めない。
そして、胎児がいかに小さなうちでも、堕胎は、罪となる。

保存の法
人間は、自分や仲間の生命を、その物質的必要にいたるまで、尊重しなければならない。
利己的な禁欲は、心霊主義にとって、何の価値もない。
自殺は、進歩と宇宙的調和に反する最大の過ちの一つ。
また、人を自殺行為に追いやる者に、災いあれ。その者は、殺人者と同じである。

それでは、戦争などは、心霊主義には、全く罪であるということだ。
それに関しては、何もコメントが無い。

破壊の法
これは物質の法である。
霊たちは、破壊を嫌悪する。
破壊には、苦痛が伴い、それは、全般的進歩を促す。

社会の法
人間は、仲間と共にいて、仲間に奉仕することによってしか、進歩しない。
心霊主義者は、隠遁生活や沈黙の誓いを無用なものとする。

進歩の法
これは、絶対の法である。
ただし、歩みはのろい。
文明は、進歩の手段である。
知性と道徳的能力は、足取りは、まちまちでも、最終的には、互いにバランスがとれるようになる二つの力である。

平等の法
自然的、本来的なものである。
各種の不平等は、一時的、物質的、社会的、生理的等々のものである。
不平等は、われわれが作り出したと理解すれば、不平等は、われわれにとっての、教訓になる。

自由の法
われわれは、物質的生によって、限定されるが、魂は、思考し判断の自由を与えてくれる。
この自由は、神聖なものであり、精神と良心を抑圧するものは、最大の罰が待ち受けている。

正義と愛の法
この正義の基準は、地上のいかなる正義の基準からも独立している。
それは、「自分のために望むことを他人のために望め」、さらに、必然的帰結として、「神への愛ゆえに、他人を自分自身と同様に愛せ」である。
この法は、根本的な法であるから、心霊主義者が最大の人間的欠点とみなすものは、利己主義である。

上記の上に乗っているのは、伝統的キリスト教道徳である。

最も、カルデックは、プロテスタントの信者であった。
特に、新約聖書を主にしていたという。

ゆえに、神という場合は、イエスが言う神という観念に結びつく。

神は乾くゆえに、人を罰する必要もなければ、善ゆえに、人に褒美を与える必要もない。善は、自分の方向、すなわち、愛と創造の方向に進み、幸福の種を含んでいる。悪は、反対の方向に進み、苦痛をもたらす。

各人は、物質的な行為の結果と思考、すなわち霊の行為の結果を背負っている。これらの結果は、前世と関連していることもあり、何らかの形で、消滅させないかぎり、次の生にも、引きずってゆくことになる。

人間が、悪戦苦闘している、極めて不公平な福不幸の大半は、これによって、説明できる。

これは、東洋的である。
特に、インド、ヒンドゥーの教えと同じである。

つまり、業というもの。因果の法である。

霊からの情報により、このように、まとめたのである。
先にも、書いたように、極めて、伝統キリスト教の教えに近い。

つまり、カルデックが、話した霊たちは、キリスト教の世界観を持っていると、判定する。それ以上ではない。

ただ、神の国、天国、地獄という、観念は無い。
そして、彷徨する霊というのである。

ここに、もし、インド、東洋系の霊たちが、現れて、話をしたら・・・
どのようなことになったのか。

ただ、イエスも、仏陀も、善霊であり、純粋霊ではないということ。
ということは、純粋霊とは、とても、高い位置にいる。そして、上級霊とは・・・

それでも、神ではない。

霊も、その知りえることしか、分からないのである。
それによって、すべが、解決するとは、思われない。
更に、霊の妄想の場合は・・・

確かに、事例は、山ほどある。
さて、その真偽の程は・・・

posted by 天山 at 00:01| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月20日

霊学102

心霊主義は、15世紀までの流れを覆し、革命的だった。

死者の招霊を真面目で道徳的かつ高貴な実践とし、知識と叡智の源流としたのである。
カステラン

心霊主義はひとつの科学であり、哲学である。・・・人類再生の教義としてこの学の目的の偉大さと射程は、その理論を研究すればただちに理解できるであろう。
カルデック

心霊主義は尊敬すべき神聖なるものであり、深い考えと敬虔の念をもった者しか触れてはならない。過去においては悪魔の仕業と恐れられていたが、今日では聖なる証と考えるべきである。
カルデック

中世の弾劾は廃止された。
カステランは、いまや、われわれの導き手を、霊感の主を認め、その言葉に耳を傾け、彼らにふさわしいものになろうとするのだ。・・・と、書く。

カルデックは、霊は、超自然の存在ではなく、他の人間と変わりないひとりの人間で、肉体の代わりに霊体を持つものであると、する。

霊体の諸特性が分析されれば、霊のいかなる行動も、超自然的にではなく、「物理的に」説明できるようになると、言う。

更に、カルデックは、プロテスタントの信仰から、カトリックの主要な瞑想教派と比べれば、心霊主義の教義は、日常的で、単純、厳しさみに欠けるものに思えるという。

だが、心霊主義は、個人重視の教義であり、聖職者や崇拝儀式を一切、必要としない。

招霊自体、いかなる聖なる呪文も排除する。
この教義の重要性は、他人への奉仕を重視することにある。

つまり、プロテスタントの新しい教派のようである。

教義の基盤は、キリスト教であるが、新約聖書に関して、大きな改変を行うのである。

イエスは、選ばれた霊、人々の手本となる霊、至高霊の頂点に立つ、比類なき霊であるが、どの人間とも、同じひとつの霊に過ぎない、となる

福音書は、人間の霊体としての組成やイエスの霊媒としての機能に基づき説明される。

イエスは、霊媒であり、白魔術師であり、見者である。
奇蹟、予言、自己犠牲、イエスの説教までも、この観点から、解釈される。

これは、画期的な教義である。
だが、カトリック、プロテスタントの各教会は、受け入れられないだろう。

イエスは、キリストなのである。
それによって、教会が成り立つのである。

しかし、カルデックは、教会から決別しなければならないと、思わなかったという。

心霊主義はキリストが予告した慈悲と連帯の世を確立するために出現した。だから心霊主義が教える道徳は本質的にキリスト教のものである。それはこれまでその優位性に誰も異論を唱えたことのないキリストの教えの発展と応用にほからならい。キリストがたとえ話しによって述べたことを、心霊主義は明確でまぎれのない用語で表明するのだ。
カルデック

更に、
旧約の律法がモーゼによって体現され、新約の律法がキリストによって体現されたとすると、心霊主義は神の律法の「第三の啓示」である。
と、述べている。

ある意味では、もう一つの宗教改革と呼べるのである。

更に、秘蹟は、無用である。
純粋に道徳上の努力によって、前進すること。
いかなる教派に属していようと、人間は、良き行為の度合いによって、義とされる。

ここで、秘蹟を主にする、カトリックには、受け入れられないものだ。
つまり、プロテスタントの教会にのみ、通じるものである。

更に、カルデック以降、その後を継いだ、レオン・ドゥニになると、カルデックの理論をその極限の帰結まで、推し進めた。

それは、イエスの神性は、明確に否定され、更に、ローマ・カトリックは、忌まわしいもの、たわごとと見なされた。

それは、すべてが、秘教的意味を担うキリストの言葉が、考えうる限りの、罪深い歪曲を行ったという理由である。

19世紀後半になると、心霊主義の母体であるアメリカでは、モルモン教、少し遅れて、初期のエホバの証人、セヴンスデイ・アドヴェンティスト教会、クリスチャン・サイエンスが、続々と登場した。

そして、ブラヴァツキー夫人が、ニューヨークに、ロンドンに、神智学をもたらす。

神智学は、心霊主義の私生児といわれているが・・・

更には、
医学と心理学の中間に、既存のあらゆる哲学を震撼させる地帯が存在したが・・・
カステラン
である。

フリー・メーソンは漠然とした理神論者で、儀礼を重んじ、科学主義に強く染まっていた。教会はみずからの威光が揺らぎ、その権威が無視されたり疑問視されるのを感じた。このことはそれまで無条件に教会に所属していた無知な信徒大衆までに及んでいたので、教会は説教師を通じてこの傾向を弾劾し、いっそう厳しい態度を示すようになった。
カステラン

カトリックは勿論、プロテスタントの諸派の教会に対しても、激論を起こしたと思えるのである。

教会関係の、反心霊主義に対する、論調には、触れない。

教会に対する、戦闘的な評論の一つのみ載せる。
われわれは古い律法の預言者たちを霊媒レベルに引き降ろす。不当に持ち上げられたものを下げ、歪曲された意味を正すのだ。そして、あえて選択しなければならないのである。旧約の霊媒が書いたものより現代の霊媒が日々書いていることのほうを、われわれは好むであろう。

これは、教会権威に対する、徹底した挑戦である。


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