2012年10月05日

霊学83

アニマの持つエロス的要素の第二は、ロマンチックなアニマ像である。

第一の生物的では、女であれば誰でもいいという段階だが、ここでは、人格を持った女に対する、愛情が生じるのである。
この段階は、美的で、性的な要素によって特性づけられる。

西洋美術の女性像などがからも、想像できる。

ただし、この段階に満足できなくなる男がいる。
それは妻の他に、別に他の女に、それを求めるというもの。

妻は一家の正妻。しかし、自分のアニマ像は、別世界に求めるのである。
今の言葉で言えば、不倫、浮気の相手となる。

単なる好きモノなのであるが・・・
まあ、ユングが区分したということで。

第三は、霊的な段階となる。
これが問題である。

エロスが神聖なものに高められるという。
聖母マリアに代表される。
性的な意味合いを持たないのである。

母でありながら、処女である。母としての崇高な愛を持ち、処女の清純を持つ。
貞潔というイメージである。

そして、第四が叡智のアニマである。
第三の上にこれを置いたのは、何故か。

河合氏は、このような像が存在すること自体が、ひとつのパラドックスである、と言う。

叡智のアニマのイメージとしては、ギリシアのゼウスの頭から、鎧に身を固めて生まれたという、女神アテネである。

このことについては、これ以上の説明、あるいは、考えることを止めた方がいい。単なる妄想になる。

ユングは、普遍的無意識そのものとして、アニマを語ったというが・・・
つまり、普遍的無意識の突破口なのであろう。

ユングは、グノーシス主義の影響を大きく受けた。
つまり、オカルトである。
だから、第四のアニマのイメージを、グノーシスの女神ソフィアをよく上げている。

これは、霊学を書いているので、グノーシスについて、少し触れてみたい。
グノーシスとは、ヘレニズムの時代精神である。

われわれの紀元の初めの頃の霧のなかに神話的形象の壮麗な行列がおぼろな姿を見せている。これらの形象の巨大で超人的な像・・・それがもうひとつのシスティ大聖堂の壁と天井を埋めたとしても見劣りはしないだろう。彼らの行為と所作、彼らに割り当てられた役割、彼らの演ずるドラマのあたえるイメージは、われわれ観客の想像力を培ってきた聖書のドラマとは異なっている。だがそこには不思議な懐かしさがあり、妙に心をかき乱すものがあるだろう。
グノーシスの宗教 H・ヨナス

時は、西暦紀元前後の、地中海を取り巻く世界である。
そこから、キリスト教が生まれたが、そこには終末的な雰囲気が漂い、キリスト教の他にも、最終的な救済を求める、数多くの宗教の運動が多いのである。

アレクサンダー大王の東征に始まる、ヘレニズム時代は、ギリシャ語とギリシャ文化による、一つの統合された世界を目指していたが、その中で、それぞれの伝統を持つ、固有の精神が混合していた。
そして、更に、危機的な状態を作り上げていたのである。

その時代の、精神を最も表していたのが、グノーシス的な諸宗教である。
グノーシス主義と呼ばれる、宗教運動である。

ほとんどすべての事件は上界で、すなわち神的、天使的、あるいはダイモーン的な領域で起こる。それは超自然的世界における前宇宙的人物たちのドラマであり、自然の領域における人間のドラマはその遠く離れた反響にすぎない。・・・
神性が誘惑に陥り、至福のアイオーンのあいだに不安と動揺がまきおこる。神の迷える知恵であるソフィアはみずからの狂気の餌食となり、彼女自身が作った虚無のなかを彷徨する。彼女は果てしなき探求、悲嘆、苦悩、後悔のなかにあって、みずからの情念を物質へ、憧憬を魂へと形作る。・・・
ヨナス

対立し、矛盾するものは、言葉や論理では伝えられない。それを語るには神話的な物語によるほかはないとユングは述べているが、グノーシス派の宗教の特徴は、まず第一に、それぞれ微妙に異なるけれども、ある特殊なパターンに沿った神話を持っていることである。
秋山さと子

要するに、人間が陥る、分裂と混乱という悲惨な状態は、すでに神的な世界で始まり、必然的に、すべてを神話によって、考えることになったという訳である。

これを霊学の言い方をすれば、幽界で起こることは、人間の世界に、即座に影響を与えるということである。

ただ、グノーシス派は、それを神の世界と認識していることである。
違う。
もっと、低い霊的世界のことである。

ただ、それでも、グノーシス派の、神の世界は、人間の世界とは、全く次元の異なる世界として認識している。

神々の物語ではあるが、主題は天使の堕落や、彼らの望郷の念を描くもの。
登場人物が、すべて本来は無垢な性格を持ち、神性を持つ者である。であるから、その悲哀は、更に悲しく、しかし、人間の世界とは関わらないのである。

だが、このグノーシス派も、同じ時代に生まれたキリスト教の教父たちにより、異端として徹底的に排除され、その後は、その存在さえも知られていなかった。

キリスト教の、異端審判は、最初からキリスト教が、排他的で非寛容であることを教える。
それも、力で排除するのだから、キリスト教こそ、邪教と言わざるを得ない。

キリスト教の教義を、根本からくつがえす神話を有するグノーシス派である。
それは、実は、キリスト教も、彼らの登場人物を利用したからである。

何より、グノーシス派は、原罪を認めなかった。
それはキリスト教の、根本教義で、欠かせないものである。

その原罪意識があるから、人を支配できるのである。
原罪を許せるのは、教会以外にないという・・・
であるから、原罪というものも、キリスト教の創作である。

更に、洗脳である。
洗礼という、信者になるための秘蹟といわれる行為は、何より、この原罪を許すというものであるから、譲れないのである。

最初から、人間に罪人の意識を植え付けるという、段取りである。
呆れるとしか、言いようが無い。



posted by 天山 at 06:07| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月06日

霊学84

魂は世界という迷宮のなかに捕らえられて途方に暮れており・・・彼方の光からの救済者は身の危険もかえりみず下なる世界に侵入し、闇を照らし、道を開き、神界の裂け目を癒す。これは、光と闇、知識と無知、静謐と情念、奢りと敬神の物語だ。それも人間の次元ではなく永遠の存在の次元での物語である。永遠の存在も苦悩と迷いを免れてはいないのだ。
グノーシスの宗教 ヨナス

グノーシスの諸派にも問題があった。
彼らは攻撃的で、排他的であり、彼らに特有な倫理観に基づく、極端な禁欲主義、あるいは放埓主義は、人々の受け入れがたいものだった。

更に、この世は、神ならぬ悪魔が、または、堕天使が作り出したものという、反コスモス的な思想である。

そこで、ユングは、キリスト教のあり方に満足出来ず、聖書の物語と、舞台も主題も同じテーマであるにも関わらず、その内容と、意味が全く違う、グノーシスの物語に惹かれたのである。


それらは時間と空間の概念を持つことで、人間が過去や未来と、自他の区別を知るようになる以前の、永遠の世界における神々が引き起こしたドラマであった。そして人間が感覚でとらえ、思考によって想像し得るこの宇宙とは隔絶した、はるかに遠くの異次元における出来事であった。
秋山さと子

ユングは、己自身も、そして、多くの患者たちにも、人間の小さな意識の中にある自我では、どうしようもない、抗えない運命的なものがあると、感じたようである。

そこで、グノーシスの物語が、一つの救いとなる。

ユングは、人間の存在を超える、更に大きな力を、星の強制力と呼んだ。

これでは、オカルトである。しかし、オカルトを通してまでも、人間の無意識の世界を理解し、研究したいという、心意気である。

だが、実際に、ユングの時代は、このグノーシスの文献は、破壊されていた。
だから、ユングは、辛うじて、それを知る得る限りの文献を漁っていた。
その後、エジプトで、そのパピルスが発見されるという、事態になるのだが・・・

ユングが、元型、という言葉を生み出したのは、ブルグホリツリ病院の医局長をしていた頃、患者が語る、筒のある太陽と風の由来に関する妄想が、ミトラス教の文献と一致したという話である。

元型という、概念が、古代文献による知識と深く関わるということである。

20世紀前半、死海文書、その他の古文書、そして、グノーシスの文献である、ナグ・ハマディ文書が公開されてから、グノーシス諸宗教を異端と考える人は少なくなった。
キリスト教と同時期に発生した、別の宗教運動であると、捉える。

キリスト教によって、消滅した、諸宗教は、キリスト教に欠けているものを、有していると、ユングは考え、そして彼の研究に取り入れたのである。

その中には、イエスの双子の兄弟のことが、書かれてあった。
イエスが、兄弟のトマスに語った言葉がある。

あなたがたの中にあるものを引き出すならば、それがあなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それはあなたがたを破滅させるであろう。

無意識を見つめる者には、十分にその意味が解るという言葉である。

つまり、自分の中にあるものにより、救いがあるという。
360度廻って、元に戻る類の話である。

ギリシャ文化の隆盛は、人間の意識に表層と底流という二重構造をもたらしたが、それがヘレニズム後期になると、オリエントの神話やバビロニアの占星術、イランの二元論やヘレニズム的ユダヤ教が、プラトン主義の概念やストア派の宇宙論と合体し、勢いを増しつつあったキリスト教の救済=終末論がさらにこれにかぶさって、一大宗教的シンクレティズムの時代を作り上げつつあった。
秋山

グノーシス主義の、原理としては、この宇宙とは隔絶した超越的神の存在を信じていたことである。
その超越的神の実在を説くために、コスモスの内と外に分かれた、二つの世界を作り上げた。
そこから、神とコスモス、霊と物質、光と闇、善と悪、生と死などの、対立概念が生まれたのである。

絶対的二元論である。

超越的神のもとの二元論による、人間の救済こそ、グノーシス主義の原理である。

グノーシスとは、ギリシャ語で、知識という意味である。
そして、その知識とは、コスモスにおける、人間に対する知識ではなく、隔絶された、コスモスの外の神々の行為に対する、知識となる。

人間はつねに因果律の上に立ち、時間と空間の概念の中で、自らの意識を発達させて文化を築いてきた。・・・しかしまた、そのために我々は、時間と空間とに限定され、縛られて生きることにもなった。神秘思想は、言葉よりも、主として体験とイメージによって、これらの束縛からの解放を説くものである。
秋山

グノーシス主義には、ギリシャの調和のとれた宇宙の秩序と言う概念を、逆転させた宇宙観が生まれた。
人間は、幾層もの天に土牢のような世界に住むものであり、人間が、そこから抜けようとすると、それぞれの天球を支配する、人間と隠された神との間を隔てる、星の神々が邪魔をする。

この、天球のイメージは、バビロニアの占星術による観念が使われている。
だが、その占星術からの概念も、逆転して用いられている。

七層の天球を支配する、それぞれの惑星は、そのまま人間の魂の脱出を妨害するものとなる。
その外には、更に、第八の恒星界があるとする。

この星の看視人たちは、旧約聖書の神の名で呼ばれているが、それも、ユダヤ教の唯一神の全能の神の概念みが、覆されている。
その神は、真の神ではない。
神性はもつが、下級の霊的存在であるとする。彼らの支配が、ヘイマルメネーと呼ばれる、星の強制力、である。


posted by 天山 at 06:30| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月08日

霊学85

占星術による運命決定論が見られ、人間はこの運命的な星の強制力から逃れることができずに、さまざまな苦労を重ねる。彼らの主神こそ、この宇宙を創造したものたちであり、その神、または悪霊は、プラトンの「ティマイオス」に描かれているこの世界の製作者、デーミウールゴスの名でよばれている。そして、デーミウールゴスをはじめ、各天球の看視人たちこそ、死後の人間の魂が、その故郷である欠けたるもののない充満の場、プレーローマに戻ることを防げるのである。
秋山さと子

以下、要約すると、
人間は、これらの下級な霊が作った仮の衣である、肉体だけしかない、肉体人間であり、物事を感じ取る心はあるが、星の影響下で苦しむ、心魂人間である。
そして、肉体と、心魂の中に閉じ込められて、脱出を求める神性を持つ、霊的人間の、三種に分けられる。
天界を構成する、大宇宙では、人間そのものが、幾層もの天球により、閉じ込められて苦しんでいる。
その人間の、内的世界である、小宇宙では、幾層もの心魂という衣の中に、真の魂である霊が埋没している。
人間が持つ、本来の神性の断片は、この宇宙の毒に酔わされ、肉体の快楽と、心魂の中で、麻痺し、眠り込む。自己の本質を自覚しない。
グノーシスの知恵は、眠れる自己の本質の、神性に対する覚醒と、解放の呼びかけである。

キリスト教の教義より、グノーシスの知恵は、霊学に近いものである。

自己の本質に、神性を認める。
そして、その覚醒と解放を言う。
まさに、宗教の大元の考え方である。

ユダヤ・キリスト教の神も霊の一つであり、それが悪質であることも言う。
ここでも、複数の神、悪霊を上げている。

壮大な妄想である。
あるいは、事実なのか・・・

グノーシスによる、人間の救済は、拘束的な宇宙とは無縁であることを知り、人間の本質は、全一的で充足した世界に属するという。
そこに、知ることのできない、神が実在するという、隠された知識を得ることである。

これは、既成宗教にとっては、脅威である。
神は、認識できるものではない。
そして、そのことを知ることが、知識なのであるという。

神を語る何ものも人間は有しないのである。
そして、それを知ることが、知識なのである。

名前のある神は、単なる霊である。
それは、私の霊学と、同じである。

ユングもまた、彼世界と、彼の経験の中から、これらのものを知ったと思うし、それを知るには、いわゆる知識を越えた一瞬の飛躍が必要であろう。そして、ユングにとってこの知識こそ、彼をはじめとして、多くの近代以降の人々が陥っている人間の問題、合理と非合理、意識と無意識、その他さまざまなものの間で分裂し、散乱して収拾のつかなくなった人間の自我の救済となるものと考えられたに違いない。
秋山

ユング心理学と、グノーシスの関わりについては、推測するしかないという。
更に、グノーシスといっても、微妙に違う教義を、それぞれの派閥が持つのである。

最初に引用した、ヨナスという人は、グノーシス精神を伝えるものとして、マンダ教文献を取り上げた。

それは、チグリス・ユーフラテス沿岸に住む、サバ人の宗教であり、ヘレニズムの影響から、地理的にも社会的にも、遠く、今でもそのまま残されているという。
だが、概念化、体系化されていないため、理論的には、一貫性に欠ける。

しかし、純真で生彩に富む、神話的空想に溢れる。
秋山氏によると、それは、グノーシス的な神性の魂が、いかにこの世で、苦しんでいるのかを物語るという。

秋山氏の案内で、進むと、その特徴的な表現は、異邦のもの、という考え方である。

マンダ教の文献は、ほとんどが、光の諸世界より来た第一の異邦の命、一切のわざの上に立つ至高のものの名において、という、一文からはじまる。

多くのグノーシスの文献には、異邦の神、異邦の者、他者、知らざれる者、名を持たぬ者、隠れたる者、知らざれる父、などと呼ばれる。

自分の異邦性を想起し、流離の地を異国として認識することであり、そこから失われた故郷に戻ろうとする彼の苦難の道が始まるのである。
秋山

これは、日本人が、仮の宿りと呼ぶ心境に近い。
人生は、仮のものであり、本来のものではない。
とすると、つまり、何処かに、故郷があるということだ。

しかし、日本の場合は、それ以上に追求しないというより、仏教の極楽浄土に取られてしまった感がある。

更に、他宗教でも、簡単に天国とか、神の国になってしまう。
この辺り、グノーシスには、特殊な実存思想がある。

グノーシスの基本的思考は、この世を越えて存在する優越性と、そのために苦しむ異質性である。

そこから孤高なる魂の劇的な救済の道が続くのである。
秋山

つまり、人間は、この世では、異邦者であり、本来の世界、故郷に帰るべく存在である。とすると、他宗教も皆、同じようなことを言う。
だが、その考え方が、違うのである。

人間は、この世界にあり、この世界に属することで、彼岸から隔絶されているとする。
他宗教は、神仏も世界に抱かれて、この世があると、認識する。

グノーシス派は違う。
隔絶されてあるという。

実在界が、あの世で、この世は、虚仮の世界という認識でもない。
とすると、道元が言う、生は生、死は死という、世界でもない。そこでも、連続性がある。何せ、すべてが仏の世界であるから。

これは、非常に面白い。


posted by 天山 at 06:26| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

霊学86

マンダ教の文献には、諸世界という表現がよくあらわれる。世界はこの世のほかに連鎖的に続く閉じられた権力圏の諸世界によって成立している。「異邦の命」が故郷に戻るためには、これらの諸世界を通り抜けねばならない。その世界を統制するものは霊的なダイモーンの一族である。そこで「異邦の命」である魂は道に迷い、さすらい、出口を探し求めるが、一つの世界を出ても、またべつの世界に入り込むだけである。
秋山

つまり、輪廻転生などという、単純明快なものではないということだ。
生まれ変りなどと、暢気なことを言っていられない世界を、魂は、さ迷うのである。

この、マンダ教の、諸世界という概念は、ヘレニズム的グノーシス主義では、七層、十二層、また更に、多くの天球による層を示す。
そして、それぞれの天球を支配する、アイオーンという天使のイメージと対応する。

それは人格でもあり、空間的領域そのものを指す概念であり、その領域を通り抜けることは、彼らの権力を打ち破り、その天球、また世界の魔力から、解放されるということになる。

更に、魂が遍歴する、諸世界と諸時代は、絶望的に広く長いものであるか。

宇宙の広大でほとんど無限に思える空間的で時間的な二重の様相への恐怖は、ヘレニズムのグノーシス主義におけるアイオーンという表現にさらによくあらわれている。
秋山

アイオーンとは、寿命、宇宙的時間の長さ、永遠性などをあらわす、純粋に時間的な概念だった。
それが、ヘレニズム的な宗教の中で、人格化され、ペルシャのズルヴァン神にならい、崇拝の対象となったのである。

更には、神話的な変容を遂げて、神的、半神的、ダイモーン的な存在のすべてを指す総称となった経緯がある。

アイオーンは、宇宙のダイモーン的な諸権力、闇の領域のダイモーン的な力、時間と空間が人間に、魂に強制する、巨大な圧力を示すものとなる。

そして、彼らの人格化が極端に進むと、本来の時間的形相は、その背景に隠れて、神話的想像力の流れを通じて、変化自在の姿をとるようになる。

この世界は、広大であるが、同時に閉じられた小部屋のようであり、外から来る救済者は、この世界の外側から、呼びかける。
この世界の逗留は、仮の宿であるという。

身体も衣服も、家も、本来の、自らの源流から分断されて、命、また魂は、肉体の衣の中で、憔悴し切っている。

何故、そうなったのか・・・
それは、それぞれの、グノーシスの体系によって、異なることになる。

日本の、仮の宿り、という表現は、そこまで深くない。
また、深くなくても、良かったのである。

それは、自然というものに対する、捉え方の違いである。
厳しい自然環境の中で、生まれた考え方である。

何せ、その自然でさえ、異邦の者には、異質なものなのであるから。

ある種の、狂いである。
だからこそ、ユングは、そこにわが身の狂いを、また、患者の狂いを昇華させ得る、グノーシス主義に、救いを求めたとも、言える。

それは、通常人々が、受け入れる価値の逆転の思想であり、この世と調和して生きる人には、受け入れ難いものだったからだ。

神も霊であり、更には、魔力を持つものである。
本来の神は、分断されてある存在で、それを知ることが、知識である。

キリスト教から異端視されるはずである。

夢見心地で、神の国、天の国に行くなどという、考え方は無いのである。

神の世界の内になど、いない。
すべてが、仏であるなどという、考え方はない。

さて、その典型的なグノーシス主義は、イラン型グノーシスと呼ばれるものだと、秋山氏は言う。

更に、イラン型の二元論を最も完全に、表現しているのが、マニ教である。
このマニ教について、更に詳しく述べていると、話しが進まないので、別の機会にする。

この世を構成する、二つの要素を見る。
一つは、壮麗にして闇なき世界であり、反乱のない純粋な穏和な世界。騒乱の無い正義の世界、老いや死のない永遠の世界、悪の混入しない世界である。

もう一つは、闇の世界であり、悪に満ち、焼き尽くす火と、欺瞞と策略に満ちている世界、安定なき騒乱の世界で、善が衰亡し計画が無に帰する世界である。

マニの説をとれば、この世は、光と闇との混合だが、その主たる実質は闇であり、その中に光が混入している。
マニ教の神話は、この世の二つの対立する存在によって、成立している。

この世は、その両者の混合であるとするが、それは本体から切り離され、自分とは異質なものの中に、深く沈み込んだ光の部分にとっては、悲劇的なドラマであるという。

さて、イエス・キリストは、私は光であり、道であり、真理であると、聖書に書かれる。
だが、グノーシス主義は、それを超越しているのである。

それは、根源的な統一が分裂し、多様なものの中に散乱し、その粉々に砕けた光の断片こそ、創造の全域に散乱している、閃光なのである。
そこで、救済とは、ただ一つ、闇の中に散乱した光の断片を取り集め、元の一者に返すことであり、その完成が、世界からの究極的開放の条件となる。

気違い沙汰である。

混合、散乱、一、多、という概念が、一者に向かい、統合をはかることが、人間の、世界の救いになるのである。

この狂いの教えを持って、ユングは、そして、彼の患者も、救われるのである。
グノーシス主義が、狂っているからである。

小さな狂人は、大きな狂人には、適わないのである。

ユングの、全体への統合へと向かう、個性化の過程という理論は、ここからの影響を受けたものだろうと秋山氏は言う。


posted by 天山 at 23:59| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月10日

霊学87

ユング心理学が、人間の無意識の根底に集合的で普遍的な元型の存在を認め、その内容をあらわすものとして神話や御伽噺をあげていることはよく知られている。しかし、ユングが考えていた神話的類型の第一に位置するものは、グノーシス派の神話なのである。
秋山さと子

そこで、今までのグノーシス主義の説明に足りないものがある。
それでは、何故、人間がまた、命、魂が、この世に閉じ込められたのかということである。

それぞれの派閥では、言い方が違うが、その大半は、ただ、そうなったという説明だけである。人間の存在の、その元が、ただ、投げ捨てられた、という表現で終わる。

他の宗教にはない、呆気なさである。

実存主義の、所与の実存的状況という。

マニ教の場合は、あらゆる動きは、闇の力によるという。
更に、神的なものが、この世界に転落したり、沈下することは、もっと自発的なものがある。

そして、後に、楽しいとなる神的要因は、最初は、神的なものが、好奇心や虚栄心、情念を起こして、はるか下の領域へ傾くという。

それは、前宇宙的な出来事で、その結果、世界そのものが創られた。
その中に、個々の命、魂が捕らえられたのである。

ああ、我いかにして、この世に生まれしぞ、という、嘆きの言葉生まれる。

更に、異邦の人、人間は、その環境に慣らされ、この世の毒に酔わされる。
多くの人は、その境遇を知らず、恐怖も、苦悩もない。自分のあり方を意識せず、この無意識からの覚醒は、恐怖と絶望につながる。
生きることは、無知にしがみつき、目覚めることをしない。

空海も、仏を知らぬのは、酒に酔ったようなものであると、言うが・・・
少し、似ている。

無知からの、覚醒のために、外からの呼びかけの声が聞えてくる。それを妨げるために、この世界は、騒音をかき立てる。

マンダ教や、マニ教では、超世界的な異邦のものが、人々の前に姿をあらわす。
そして、この異邦のものは、自分の異邦性に気づく人たちに、迎えられる。

グノーシスの特有な考え方に、救済者の命は、救済される命と、同一であるということ。
下降する救済者が救済するのは、かつて世界の中に失われた自分自身の部分である、魂なのである。

救済者は、時の始まりから、様々な姿になり、この世をさ迷う。彼自身が、世界の中に追放されて、自分自身を常に新たに、あらわし続けるという。

ユングは、そのグノーシス主義の、神話に、その狂いを託したのである。

ユングは自分の夢や幻想や、そして、全く学問的素養のない彼の患者たちの妄想の中から、この不思議な、知性と情緒性の混合したこの思考法を見出した。そこには、誰の心にも不思議な感動を呼び覚ます素朴なドラマがあり、同時に奇妙な客観性が伴っていた。
秋山

つまり、ユングは、多くの人の心に眠る、無意識とは、神話的、御伽噺的な主題を持ち、その中に、超越的な客観性を持つなにものかとして、考えたのである。

その普遍性と、集合的な影響力によって、人々は、運命に操られる。
これが、ユングの無意識という概念の背景だと、秋山氏は言う。

そして、その中に、埋もれている、自己こそ、救済されるべき救済者である。

つまり、ユングも、一つの宗教的伝道者であるということだ。

自己が、救済するべき、救済者であるという、結末である。

まさに、オカルトの中に入り込んだ、ユングである。
そして、そこから、様々な論文を発表する。

古代の人間が、妄想したものに、救いがあるとは・・・
人間とは、なんと、救い難いものか・・・

心理学も、精神分析も、学問としての、地位を持つ。
その根底にあるのは、フロイトや、ユング、その他諸々の、妄想なのである。

ちなみに、ユングは、その後、ヘルメス思想、つまり錬金術、秘密結社といわれる、薔薇十字団、更には、東洋の思想から占いに至るまで・・・

その、狂気を収めるために、続々と研究したのである。
妄想に浸る患者よりも、ユングの方が、苦悩していた。

妄想に浸ることは、楽しみである。苦痛は無い。
ところが、それに浸ることが出来ないとしたら・・・

苦しむ。

西欧文化の背後の流れに、それらの奇異とも見える、象徴的な表現の意味を理解したというが、意味づけしたのである。

つまり、現代人の夢を解こうとして・・・

ユングと錬金術やグノーシス主義との関係は相互的で、これらの知識が夢の解釈に役立つと同時に、夢が提出する象徴言語もまた、これらのものの理解を助けたということができよう。
秋山

いやいや、こじ付けである。
理解・・・
何の根拠も無いのである。

いやはや、大変ご苦労な、試みを行ったものである。
これは、ユング教である。

様々な神話、宗教を取り入れて、ユング教を作り上げたということだと、理解する。

そして、学問としたという、驚き。


posted by 天山 at 07:28| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月11日

霊学88

ユングの自著である、心理学と錬金術、の中から・・・

読者諸賢は私の説明に仕方にグノーシス派的神話の響きがあるというので腹を立てないでいただきたい。なんとなれば、われわれが今ここで問題にしている心理学的領域は、他ならぬグノーシス「真の認識」の源流なのであるから。キリスト教の象徴が伝えようとしているのはグノーシスであり、無意識の補償作用の意味するところはいよいよもってグノーシスに他ならないのである。神話素はこのような心的過程を物語る最も原初的な、最も本来的な言葉であって、いかなる知的表現といえども神話的な像の豊かさと表現力とに比べれば、それに近づくことはあってもその域に達するということは絶対にない。無意識の補償という心的過程に見られるのは根源的な諸像であって、従ってこれを最も的確に表現しうるのは神話におけるような象徴的な言葉以外にない。

とても、大胆な意見である。

最も的確に表現しうるのは、神話におけるような、言葉以外にない・・・

神話の奇想天外、狂いの表現以外に無いというのである。
最も、恐ろしいことは、キリスト教の象徴が伝えようとしているのは、グノーシスであるという、意見である。

端的に言えば、キリスト教が異端とするものを、それこそ、キリスト教の伝えるものであると言うのであるから、穏やかではない。

であるから、ユングが考えていた、神話的類型の第一には、グノーシス派の神話であるということだ。

また、ユングがグノーシスという時には、純粋に真の認識という意味であって、必ずしもヘレニズム時代の異端であるグノーシス主義を指すとは限らないが、ユングがグノーシスという時は、まず最初に考えているのは、やはり、この歴史におけるグノーシス主義の存在といえよう。
秋山さと子

ここで、断っておくことは、あくまでも、ユングは西欧の一部、ユダヤ、キリスト教の時代精神の中に在って、無意識を詮索したということである。

勿論、中国、インド、チベットなどの、ゲテモノにまで手を伸ばして、無意識、更には、普遍的無意識という概念まで、広げて行くのだが・・・
それを、そのまま、はいそうですか、とは、聞けないのである。

ユングは、心理学の権威としてあるが、それは、それである。

彼自身が狂いの手前まで、その寸前まで行き着いて、辛うじて、その狂いを免れるために、頼ったものが、グノーシスをはじめとする、ゲテモノである。

それは、キリスト教が正しく、グノーシスが誤りであるとは、言わない。
その逆であると考えている。
だが、ユングが見えなかったものは、端的に言えば、霊なのである。

無意識の奥に存在する、霊的存在である。
いや、ユングも、自己を、個我とか、霊我とも言うし、そのように訳されているが・・・

霊的まやかしまでも、ユングは、考えたのである。
霊的まやかしとは、ゲテモノのことである。

目に見えるもの、それが書かれた文字であっても、見えるものしか、方法が無いという、学問の世界である。
目に見えないものは、学問足り得ないのである。

とすると、学問の世界を超えなければ、ならないのである。

兎に角、ユングが、精神科医として、患者の妄想を読み解くためには、学問超える世界にまで、足を踏み出したことは、事実である。

1933年から、イタリアの国境に近い、マジョーレ湖畔のアスコーナで、オルガ・キャプティン夫人の主宰により、エラノスの集いが開かれた。
それは、死後の魂、霊界との交信という、神智学、更にはオカルトと呼ばれるものである。

そこで、ユングが中心人物として動き出すと、世界の宗教学者が集まり、学問的な雰囲気に包まれた研究発表の機関となったというから、矢張り、学者が必要なのである。

そこで、ユングは、錬金術、グノーシス主義についての考え方を発表した。

そのエノラス会議と軌を一にして、地中海沿岸から、新たに多くの古文書が発見された。それが、現在まで続く、学問的成果を上げるものになるのである。

秋山さと子氏は、
彼が表面的な西欧文化の背後にあったこれらの奇異で象徴的な表現の意味を理解したことは、おそらく、現代人の夢を解こうとする努力が役立ったもののようである。つまり、ユングと錬金術やグノーシス主義との関係は相互的で、これらの知識が夢の解釈に役立つと同時に、夢が提出する象徴言語もまた、これらのものの理解を助けたということができよう。
と、述べている。

夢という、無意識への扉・・・
更に、夢という、得体の知れないものに対しての、ユングの情熱は、凄まじいものがあることは、認める。

そこで、夢が提出する、象徴言語ということに関して、少し詮索すると、ユングは、自己のイメージ的表現を、チベットの曼荼羅に似ているということから、心理用語として、マンダラと名付けている。

それは、円形の中に、四角い城壁と、四つの門に囲まれて、天と地を結ぶ場を表すものであるとして、更には、天への窓、などともいうのである。

ある夢を見た人の夢からの、分析であるが、短絡的過ぎる。
どこか、何かの文献を探せば、それに似ているものが、見つかるだろうが・・・

それを、単純に、マンダラと呼ぶとは・・・

神話、古文書・・・
そこから、夢に関するものを取り出して、また似ているものを取り出して、夢を分析するという努力は、認めるが・・・

そこから、普遍的無意識を探り当てたとして、一体、何の意味があるのか。

まだまだ、説明は続くが、結論から言えば、ユングが後半に探り当てた、シンクロニシティ、共時性の法則が、最高なものであろう。
そこに至って、ユングは、評価されるべきである。

posted by 天山 at 06:57| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月19日

霊学89

これは、霊学であり、ユングを解釈することではない。
ゆえに、ユングの夢分析の一つ一つを取り上げない。

その先に、進む。
つまり、錬金術である。
ユングは、真っ当に、その錬金術たちの著作の解説から、夢を分析している。
感心すると共に、納得出来ない事も多々ある。

「曖昧なることを説明するに一層曖昧なることを以って、未知なるものを説明するに一層未知なるものを以って・・・」という言葉は、錬金術の奇妙な性格をもっともよく説明している。
秋山さと子

錬金術の著作には、大半が象徴的記号だけで、書かれているものもある。
その一方では、具体的な金属、機具などを示しているのであり、記号であるが、その背景には、様々な宇宙的物語がある。
更には、心理的、形而上的な寓意が隠されているという。

実際、私も、占いの知識として、カバラなどの著作に接したが・・・
その意味するところのものを、創意工夫しなければならなかった。

つまり、勝手な解釈である。
それ以外に、手はない。

錬金術師たちは、形をとった物質の中で、特に可燃性や、腐蝕力を持つ、硫黄を能動的で、男性原理を表すものとし、ものごとの形相でもあるとした・・・と言うが、何故、そのように解釈するのかということは、解らない。

更に、揮発性、可溶性を持つ、水銀は、受動的で、女性原理を表し、ものごとの、質料であると、考えた・・・というが、何故、そのように考えたかのが、解らない。

つまり、中国の易の思想の、一から陰陽が生まれ、そこから、四元素が出来、更に、そこから、八卦が出たというものと、同じである。

そして、更に、その両極端なものを結びつけるものに、塩があり、運動があり、これらを三原質と呼び、あらゆる金属は、地中で、硫黄と水銀が絶えず惹き合い、様々な割合で混合することによって、生まれるという。
が、何故、そうなのかは、言わない。

更に、占星術でも使われる、四大、水、土、空気、火の、四元素を上げる。

秋山氏は、
これらも一方では具体的な物質を指していながら、同時に物質の状態や性質を示す象徴的表現であって、ここでは塩のかわりに、第五元素としてエーテルがあるとされている。
と、言う。

ユングが、三と、四という数字を問題にするのは、錬金術における、三原質と、四大のことだという。

更に、三と、四を含む、七の金属が上げられる。
その説明が、五世紀の新プラトン主義の、プロクロスによると、
自然の黄金、銀、およびその他の金属は、他の物質と同様に、天界の神的存在とそれよりの発散物の影響を受けて、地中に生じる、ものとなる。

まさに、オカルトである。

もし、ユングの言う、無意識の世界を支持するならば、そのための、ユングのオカルトに対しても、支持する必要がある。何故なら、根拠が無いのである。

信仰に似るものである。

だが、ユングの業績は、多くの心理学の道を拓いた。
つまり、オカルトを支持するというのである。

オカルトは、無意識の世界に通じるということである。

だから、精神心理学者が、それは、霊感です、と言っても、差し支えないのである。

私は、霊的感受性という。

無意識の世界は、混沌として、何でも有りの世界である。
だから、あらゆることを、否定できない。

ユングが、心理学と転移、という著作を成したのも、錬金術の「哲学者と薔薇園」の中での、対立物と合一としての、象徴的な物語が、絵物語として描かれているからである。

転移とは、フロイトにおける、分析を受ける者が、分析家に親のイメージを転移して、幼児期の問題を再演し、親子関係をそこでやり直すという。

しかし、ユングは、転移による、密着した関係が、病人、健康人を問わず、精神分析に大きな効果をもたらすと認めたが、それは、親子関係の改善を促すことより、更に、大きな心の全体像を把握することであり、分裂しかかる自我を、まとめて調和をとる意味があるとする。

分析家と被分析者の間に転移現象が起こり、そこで二人は無意識の元型を通して合体する。それはまた錬金術における相反するものの合一の過程でもあった。
秋山

更に、秋山氏は、とんでもないことを書く。
つまり、錬金術師たちの心と、秘密物質あるいは変容物質、すなわち物質の内に閉じ込められている霊との間には、無意識的同一性が存在すると彼は考えたのである。

物質の間に、閉じ込められた、霊、である。

つまり、目に見えないものがある。
無意識は、目に見えないものであるから、当然であるが・・・

更に、秘密物質、変容物質である。
まともにやっていれば、狂う。

現代人の心の動きとグノーシス主義や錬金術の過程とは、内的なプネウマ、または魂への接近という意味で、同じような動きであり、それが夢のイメージとなってあらわれるというのが、これらの類似性に対するユングの回答であった。
秋山

現在、ユング心理学を学ぶ者たちが、本当に、それを享受しているのだろうか・・・
理論心理学というものが、出てきて、一発でやられそうである。

ユングは、宗教より、宗教的だったのである。


posted by 天山 at 00:18| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月20日

霊学90

錬金術は、グノーシス主義が栄えかかる、四世紀から、特に、アレクサンドリアを中心にして、盛んになる。
その中でも、伝説的人物は、ヘルメス、イーシス、特に、エジプトの農耕・牧畜の神クヌムのギリシャ名で、アガトダイモーンなどが、その始祖と考えられている。

アガトダイモーンは、頭に光輪を戴く蛇で、古代の護符に、よく描かれている。

その他、アレクサンダー大王、ビザンチンの帝位についた、ヘラクリウス、また、紀元前2600年、ギゼーの大ピラミッドを建設したという、エジプトの王クフの名前も、錬金術師として知られている。

更に、プラトン、アリストテレス、ピタゴラス、ゾロアスターなど、有名な哲学者、宗教家が書いたとされる、文献も含まれる。

更に、三世紀から、五世紀にかけて、実在した人たち、エジプトのパノポリス生まれのギリシャ人で、アレクサンドリアで活躍した、ゾーシモス、またユダヤ人婦人マリア、コプト婦人クレオパトラなどの、女性の錬金術師もいたという。

錬金術、つまり、別名ヘルメスは、六、七世紀には、ビザンチンから、更に、アラビアに移る。
そこでは、グノーシス主義、新プラトン学派の影響の強い、イスラムの神秘主義者たちの間に、エジプトのコプト系の学者たちによって、広められたという。

アラビアで有名なのは、ラテン名では、ゲーベルとも呼ばれる、イブン・スィーナーなどで、いずれも数学者、医者を兼ねる学者である。

また、アル・ガザーリーのように、物質的な実験操作を全くやらず、瞑想と、修行による神秘思想家として、知られる錬金術師もいた。

この、錬金術が、中世ヨーロッパに伝われるのは、十字軍の遠征によるものと言われる。

ヘルメス・トリスメギストによって、エメラルドに刻まれた謎のような言葉をつらねた「エメラルド板」が詳しく研究され始めたのは、12世紀という。

この文献は、四世紀頃に、ギリシャ語から、アラビア語に移され、更に10世紀頃に、アラビア語から、ラテン語に翻訳された。
それは、賢者の石の作り方に関して、最も短い文献で、後のフリーメーソンの結社にまで、影響を与える、ヘルメス思想の原点とされる。

これで、解ることは、最初は、アラビアによって、開花し、その後、ヨーロッパにもたらされたということだ。
つまり、ヨーロッパの文化、文明は、アラビアより、遅いのである。

世界史を学ぶときに、西洋史が主になるので、気づかないが、文明の花は、アラビアからなのである。

14世紀の、ダンテの「神曲」には、グノーシス主義、カタリ派の異端、その他様々な要因が含まれて、キリスト教的な錬金術の象徴として、十字、薔薇、鷲、ひなに餌を与えるために胸を切り裂くペリカン、すなわち救世主のイメージなどが、描かれている。

カタリ派とは、錬金術ではないが、中世の異端の歴史で、よく知られる、南仏に広まったものであり、マニ教の影響を受けている。彼らが、十字軍によって、絶滅させられた後も、南仏の吟遊詩人たちによって、伝えられた。

これと関わり、聖杯伝説が広まる。
聖杯の探求は、失われた、隠された知を再び見出そうとする物語で、錬金術と同じ文脈がある。

そして、グノーシス主義や、錬金術が、堂々と姿を現すのが、ルネサンスであった。

秋山氏は、
ルネサンスこそ魔術的でオカルト的な時代であった。
と、言う。

ヘルメス文書の、翻訳も始まる。

当時は、この著者こそ、モーゼと同じ時代、あるいは、それ以前の人であると言われた。
ゆえに、ヘルメス文書は、創世記と同様に神聖なものと、信じられた。

ヘルメス文書を翻訳した、マルシオ・フィチーノの親友であった、ピコ・ミランドーラは、キリスト教カバラの創始者であり、最初で最大の解説者だった。

ピコは、ユダヤ神秘主義のカバラによって、キリスト教の真理を確認出来ると考えた。
カバラもまたモーゼより伝わった、古代の叡智の伝承だと、信じられたので、これにより、古代の異教とされる、ヘルメス文書も、確認できると思ったのである。

面白いのは、フィチーノの著作で、よく読まれた「天上的に準備されるべき生について」である。
ヘルメス文書の「アスクレピウス」という文献によるもので、そこで彼は、どのようにして、エジプト人が神々の像に、天上の諸惑星の影響力を呼び寄せているのかを述べているという。

そして、それが、フィチーノの魔術であった、という。

ピコの創始した、キリスト教的カバラは、フィチーノのヘルメス主義的魔術と共に、ルネサンスの中心的思想を作り上げたという。

上記を見ても、キリスト教という宗教が、妄想なのか、グノーシス主義が妄想なのか・・・
あるいは、ヘルメスのカバラが妄想なのか・・・

実際は、表と裏なのである。

キリスト教によって、抑圧され続けた、思想の数々が、ルネサンスに復活するという。
人間復興・・・なのではない。

異端復興なのである。

だが、それを異端に仕立て上げたのは、キリスト教である。
異端の方が、本筋のように思えるのだが・・・

まさに、モーセの黒聖書にある、黒い神が、白い神を作った・・・

兎に角、ユングは、人間の無意識を突き止めるために、それらのもの全般に渡り、知ろうと努めたのであることは、間違いない。

つまり、味噌も糞も一緒の世界を見なければ、無意識の世界の一端も掴めないということだ。

本当に、ご苦労なことである。

posted by 天山 at 01:26| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月21日

霊学91

ルネサンスという事態は、スペインから追放されたユダヤ教徒が、イタリアに流入したことから、ユダヤ的神秘主義が、同じような神秘的傾向を持つキリスト教徒に刺激を与えて、錬金術、ヘルメス学とカバラの混合した、哲学的なオカルト思想を生むのである。

ドイツでは、ピコのキリスト教的カバラの影響を受けた、ヨハネス・ロイヒリンが、ヘブライ語とギリシャ語を駆使して、スコラ学にかわる、新しい哲学体系を作り上げようとしていた。

彼は、ピタゴラスの再来と言われ、ギリシャ語の普及に努めた、エラスムスと並び称された、学者である。

更に、新ピタゴラス主義者の、学者たちも活躍する。

そんな中でも、特に、アグリッパという学者は、オカルト哲学について、という著作者であり、フィレンツェの思想的ルネサンスと密接に関わる、錬金術師として、有名である。

ドイツ、イギリス、イタリアを訪れて、様々な学者と合流したという。
更に、フランスである。

アグリッパは後に魔術を使って人々を惑わしたものとされて忘れられかけるが、実はルターやエラスムスにも劣らない思想家であり、学者でもあった。ここに新しい時代の到来を告げる宗教改革者のルター、古典復興を重要視したエラスムス、魔術的伝承の中に生きたアグリッパというルネサンスの三人三様の人物のあり方が見られるようにも思う。
秋山さと子

実に、意外なルネサンスの形相である。

アグリッパの、オカルト哲学についてを、少し見ると、三巻に分かれていて、最初に宇宙を三つに分け、元素世界、天空世界、叡智世界と、それぞれ上の世界からの影響を受けて、成り立つとする。

神の徳は叡智世界にいる天使を通り、天空世界の星へと下降し、そこから、元素によって、成り立つ、万物へと下降するという。

第一巻目は、自然的魔術である。
それは、元素世界におれる、魔術についてであり、第二巻は、天空的魔術で、星の影響をどう引きつけて利用するかについてで、カバラ的数の魔術が語られる。
第三巻は、儀式的魔術、また天使の霊による、超天空世界に向けられた、魔術に関するものであり、その世界の彼方には、一なる形成者、つまり、創造主自身が存在するという。

秋山氏は、
フィチーノによる、新プラトン主義と、ピコの、キリスト教カバラが渾然と一体化されていて、同書は、フィレンツェの思想をもっともよくあらわしたものといえるかもしれない。
と、言う。

これ以上の詮索は、止める。

ただ、16世紀後半になると、魔術的ルネサンスに対する反動として、魔女狩りと、魔法使いへの、激しい非難が巻き起こるのである。

ローマカトリックだけではなく、プロテストのキリスト教が、表とすれば、それらは、裏の世界である。

正統キリスト教と考える人々は、それらを、また中世のように、異端として、退けたのである。

魔術は悪魔からのものである、という、告発本も出された。

実際は、どちらが、本当の世界なのかは、未だに、解らない。

キリスト教徒は、カトリック、プロテスタントに限らず、伝統的な各地の教えなどを、悪魔からのものと言って、憚らない。

私が、チューク諸島の、エモン島に戦没者の慰霊に出掛けた際に、一つの葬式を見た。
それは、プロテスタント系の教会で行われていた。
そこで、地元の、それほど熱心ではない、クリスチャンに話を聞くと、死んだ男の子は、黒魔術にかけられた。だが、その方法は、この島では、簡単に解く方法がある。しかし、教会は、それは、悪魔のものとして、認めなかったという。

実際、それは、風土病のようなもので、その人の言うとおり、山から、ある植物の新芽を採って、煎じて飲めば、すぐに良くなるという。
だから、母親は、お墓に向かって、ごめんなさいと、何度も、息子に謝っていたという。

この子は、グアム、ハワイの病院に回されたが、一向に回復せず、遂に、亡くなったという。

島の、伝統的方法を、悪魔的というほど、キリスト教の独善というものは強いのである。

タイに行けば、タイ仏教を悪魔からのものと言って、憚らないという、蒙昧である。

であるから、当時のキリスト教世界のあり方も、それと一緒であろう。

だが、ヘルメス、カバラに関しては、日本語にも訳されていて、滅びないのである。
そこに、何らかの、事実があるからだ。

星占いなども、その一端を担うものである。
しかし、占い、と聞けば、イメージが極端に下がるのである。

この科学全盛の時代に、占いとは・・・
だが、科学が一体、何を完璧に解ったのだろうか・・・

心理学が学問であれば、それらも、学問足りえるのである。
更に、神学が学問と言うなら、それらも、学問足りえるのである。

心理カウンセラーが心理学を用いるように、占い師も、占いを用いて、カウンセリングを行えるのである。

私は、霊学に向かってこれを書いているが、まだまだ、話は広がるようである。

であるから、秋山氏の、手引きに従い、薔薇十字、そして、フリーメーソンも少し説明する。
更に、秘密結社の問題。
それらを総称して、宗教とし、その宗教的なものと、科学との、接点である。

そのどちらも、人間の妄想力である。
科学でさえも、妄想の一つであること。
そして人間は、妄想なくして、生きられない者になったのである。
その中でも、我に関する妄想は、計り知れない。

posted by 天山 at 06:28| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月22日

霊学92

錬金術は、薔薇十字運動と変化、変容し、更に、そこから、フリーメイソンという、結社が生まれる。

その薔薇十字運動の歴史的過程には、触れない。

薔薇十字運動は、現代の感覚からいえば、宗教的ヴィジョンと科学的ヴィジョンの合一を目指したものといえるだろう。コレイによれば、それはアニミズム的かつ生気論的なルネサンス哲学からの自然な発展で、スコラ=アリストテレス的な質料と形相の教義よりも、生きた宗教体験によりふさわしい象徴体系を提供しているのではないだろうか、と述べている。
秋山さと子

ヤーコブ・ベーメの思想に薔薇十字の影響があるという、証拠はないが、コレイは、ベーメの思想を紹介、説明するのに、精神的生命の再生を、他の何にもまして求める人々は、生命のイデアを第一に強調し、宇宙の生気論的概念を提唱する教義に、当然のようにひきつけられていった。そして錬金術の象徴体系は、質料と形相のそれと同じくらい、宗教的生命の実体を翻訳するのに適していた。いやおそらくそれ以上に適していた。なぜなら錬金術の方が使い古されていないし、理知的でないし、まさにその本性からして象徴的だからである。
と、書かれている。

秋山氏は、それから、スウェーデンボルグの、ロンドンから、ストックホルムの大火を見多という、幻視体験、降霊実験とも関わり、シャーマニズム的な霊との関わりという、一つの系譜を作り上げた。
それが、マダム・ブラヴァキーの神智学、そして、ルドルフ・シュタイナーの人智学へと発展する。
と、言うである。

ルドルフ・シュタイナーについては、私も多くの著作を読み、知る事が出来たので、後に紹介する。

更に、ユングも、神秘体験と関わりを持つ人だった。
そして、それを科学的なものと結びたく、ラインの超心理学にも関心を寄せたのである。

しかし、ユングにとっては、現代人の夢につながるヘルメス学の象徴体系のほうが、より密接に彼自身の問題にかかわっているように思えた。そこから彼の関心は、夢のイメージと密接にかかわっている世界の民間伝承や神話へと拡がっていった。
秋山

フリーメイソンを知るためには、薔薇十字運動の流れを知るべきで、そこから、何が結社をもたらしたのか、そして、それは、どのように広がっていったのか、である。

そこで、明確にすべきことは、薔薇十字は思想であり、フリーメイソンは、人々が集う、結社だということである。

その他にも、類似の結社があったのである。

だが、結局、薔薇十字も、世界的に増えた、宗教運動、宗教集団、更には、新興宗教によって、秘密でもなくなった。
また、フリーメイソンも、仲良しクラブなのである。

フリーメイソンから生まれた、世俗的な集まりに、ロータリークラブがある。
1905年、アメリカ、シカゴの弁護士ポール・ハリスによって創設された。
だが、今では、どうだろうか。
単なる、集いである。
或いは、少しばかり地域の名士といわれる人たちの集いである。

全く、精神的には、何も無い。

遊びになってしまったのである。
勿論、それを否定しない。

フリーメイソンも、単なる遊びである。
その会員になるには・・・
等々、色々あるが・・・会員が会員と共に、世界を支配するとか・・・陰謀めいたことを考えている訳ではない。

馴れ合いである。
その段階が幾つあるとか・・・上に行かないと、それ以上のことは、解らないとか・・・
そんなことは、どこの世界でもあることだ。

その中で、相互扶助が行われて、金の無い者が、金を工面して貰うとか・・・
世界は、それ程、単純ではない。
陰謀説など、どこにでもある。

さて、錬金術師たちが、夢見たことは、現在の科学で、安々と実行されている。

秋山氏の、警告がある。
身体が物質でできている限り、いつかは自然に与えられている身体的部分よりも、精巧なものが作られることは当然であろう。しかし、それらの部分を繋ぎ合わせれば、全体として一つの個である人間ができるであろうか。あるいは、かつて魂とか精神といわれた無形のなにものか、その光や輝きも、人工的に作ることができるのだろうか。そして、人間が育て上げてきた文化とか、伝統とか、その他もろもろの歴史的所産は、これらの産物のどこに生かすことができるのだろうか。
と、ある。

面白いのは、オカルトである。
科学が多くの情報を流して、科学的ではないと言っても、オカルトは、廃れないのである。

更に、日本の場合は、世界の文献が一番翻訳されて、あらゆる神秘思想が語られる状態である。
そして、新興宗教、新宗教というものが、益々と増えている。

ここには、かつてのオカルト哲学が伝えようとした全体的な視点がなく、科学と魔術的宗教の分裂が見られるだけである。
秋山

問題は、科学とは、宗教とは、何かという、問いかけを続けて行くことである。

いくら、学業が優秀で、賢いといわれる者でも、霊的なものに遭遇すると、コロリと騙される。或いは、全く信じないと言いつつ、それに大きな影響を受けていることを、知らない。

何せ、今も、反社会的な行動を大胆にも実行した、宗教もどきの、宗教法人だった集団が、今も、狂った教組を慕うというから、驚く。
そして、それを驚く、私の中にも、そんな狂いを内包しているという、事実である。

私も、その宗教もどきの、信者になっていた可能性があるということである。
どこまでも、謙虚に我を見つめていなければ、迷うのである。


posted by 天山 at 05:30| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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