2012年08月09日

霊学73

深層心理学とは、人間の心を意識、無意識などを、層構造に分けて考える。

ところが、この深層心理なるものは、東洋では、すでに、解決済みであった。
深層心理が拓かれて、そこに身を置く人を、哲人と呼んだ。

それは、表層意識の次元に現れる事物、そこに生起する様々の事態を、深層意識の地平に置いて、その見地から眺めることの出来る人である。

表層、深層の両領域にわたる意識の形而上的、形而下的地平には、絶対無分節の次元の存在、そこからの、ちぢに分節された存在とが、同時に、ありのままに、現れるのである。

それは、インドの思想にあるものである。

これは、心理学と離れてしまうので、心理学に戻る。

私、というものの、私とは、何か。
私の、私が・・・
この、私という主体、つまり、行為や意識の主体としての、私を、自我と呼ぶ。

自我の働きは、外界の知覚である。
そして、内界の認知である。

更に、それらの経験を、記憶として体系化し、保存する。
だが、これらは、非常に複雑化してゆく。
新しい知覚により、記憶体系が、変革されることもある。

特に、若いうちは、そうである。

自我は、外的な現実と、内的な欲望、感情を認知して、その間に大きな摩擦を生じない程度に、適切な行為を選択する。

言われてみると、当たり前のことなのであるが・・・

更に、自我は、ある程度の、統合性を持つことが必要である。
一つのまとまった、人格として存在するために、である。
その中に、大きな矛盾を持つと、自我が分裂する。

私という、自我の統合性を保持するために、自分自身を防御する機能も、必要になる。

自我は、ある程度の、主体性と、統合性を持って、安定する。
だが、ここで、自我の統制に従わないコンプレックスは、それに対して、色々と反逆してくるのである。

多くの人の心の問題は、この辺りにあると、いえる。

もっと、問題なのは、無意識が、出て来た時である。

無意識と簡単に言うが、無意識は、宇宙大であると言うと、理解できるはずだ。
無意識の世界は、広すぎるのである。
無意識に、溺れると、狂わざるを得なくなるのである。

無意識の上面に、潜在意識が乗っている。

さて、自我と、コンプレックスの関係を深読みする。

得体の知れない、不安と、恐れがある。
得体とは、意味が解らないという意味である。

更に、それが、いらいらした気分からはじまる。

対象が見えないのに、いらいらする。
そして、その対象を見るのが、嫌な場合もある。

例えば、劣等感コンプレックスが、刺激されている時。
それを、受容できずに、ただ、いらいらする。

自我に対する、脅威が強くなくても、自我の内部に何らかの、不整合を生ずる場合である。
不愉快になり、いらいらする。

それらを、分析するのは、心理学者の得意技である。
そこまでは・・・

ここで、ユングを見ると、彼は、分裂病の患者の治療に当っていた。ゆえに、フロイトの理論では、どうしても、理解できない問題を感じ始めた。

その、妄想や、幻覚などを、幼児期におけるコンプレックスなどによっては、理解できないのである。

それから、ユングの研究がはじまった。
神話、伝説、宗教書・・・
患者の語る妄想の内容と、それらの間に、何らかの類比性が感じられたからである。

その人が、幼児期に呼んだ、童話や、神話などの、影響があるのではないかと。

そこから、ユングは、人間の無意識の層は、その個人の生活と関連している、個人的無意識と、他の人間とも、共通に持つ普遍的無意識とに、分けて考えたのである。

普遍的無意識とは、人類全般に、普遍的なものである。

ある家族に特徴的な家族的意識、ある文化圏に共通する、文化的無意識・・・・
それらを、総称して、普遍的無意識と、呼んだ。

ここで、少し、東洋に近づいた訳である。

そこで、ユングの、イメージと、シンボルという、考え方に至る。

イメージと、シンボルが、何を意味するのか、である。
フロイトの場合は、すべて、セックスに関することに始終した。

人間の根源的なものは、何かと、尋ねると、性的なことだけでは、解決できないのである。
勿論、フロイトの分析が意味の無いものであったとは、言えない。
それで、充分に、解決する問題も多い。

だが、それは、無意識ではない。
潜在意識である。

無意識には、魑魅魍魎が蠢いている。
狂わずに、無意識と対座したといわれる仏陀は、覚者といわれた。
これは、スピリチュアルなどというものではない。
現実の世界のことである。




posted by 天山 at 00:45| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月10日

霊学74

無意識を探索するということは、イメージを捉えるということである。
更に、イメージと関連しての、シンボルというもの。

学者によって、それは、相当に異なる意味に用いられる。
これも、心理学の欠点であり、また、節操のなさであり、よく言えば、自由なのである。

どの学説を採るか・・・
それによっても、話し合いが進まない心理学である。

まあ、最低妥協するとしたら、山に登る道は、多数あるということだ。

ただし、同じ山でないこともあるが・・・

同じ山に登っているつもりでいる、心理学者も多々いるだろう。
特に、日本の場合は。

例えば、日本の、人間の精神、心理を研究するために用いられた方法は、自分の気持ちや意識を、自分で調べる内観法である。

だが、これは、意識、行動についての、因果関係が明らかに出来ないという、欠陥があった。
更に、意識や、行動は、自分でも気づかない無意識的な原因によって、左右されるという、考えが出て来たといわれるが、違う。
文献が少なかっただけの話。

続けてみると、そこで、人間も、自然の物体と同じく、対象物と見なして、ある条件の中に置く、または、条件を加えると、どんな反応、行動となるのか、どんな、意識が生じるのかを調べるという。
つまり、条件と行動、意識との因果関係を研究するという、形式的には自然科学と同じ、実験的な方法が用いられるようになる。

だが、人間は、外部の条件に依存せず、自発的な意思に基づき、行動する場合が多く、意識、行動の内部的な仕組みについて、様々な仮説が必要であり、そこで、仮説通りだとしたら、こういう条件であれば、こういう行動、意識を生じるという、実験的に検証するという、方法がなされた。

つまり、ご苦労さんなのである。

更に、ご苦労なことは、人間の高等で複雑な精神活動は、実は動物にはない、更に、脳によって、営まれているということから、動物が人間の代用にはならないと、気づくという、お粗末さである。

動物実験から、人間の精神活動を理解する資料としては、それなりの限界をもっており、とくに高等な精神活動の場合は、限界なのだと、知るべし。

これは、進化論をテーマにしての、心理学の、チャレンジである。

お疲れ様でした。

さて、一般的に心理学においては、イメージを外界の像としてのイメージを考えること、多々あり。
イメージを知覚対象のない場合に生じる、視覚像と定義する。

イメージに関しては、実験心理学的な考え方と、無意識の心理学の考え方があり、それは、両極端になるのである。

河合隼雄氏は、
実際に、個々のイメージはこの両者の中間にあって、内界、外界の両方からの影響を受けて存在しているものである。
と、なる。

河合氏の場合は、臨床家であり、イメージを内界の表現として捉える立場にたつ。

そこで、内界の表現としては、言語というものがあり、言語によって、苦しい、嬉しいと、内的な状態を他人に示すのである。

更に、身体言語と呼ばれる、行為がある。
簡単に言えば、嫌なものは見えないとか、聞えないとか、である。

言語と、身体言語の中間にあるのが、イメージ言語である。

イメージは、単純な記憶像から、夢、ビジョンに至るまで、色々ある。それは、すべて、主観的な体験である。

河合氏による、イメージの分類を見る。
資格像そのもの。個人の主観的体験。
資格像の表現。言語よるものと、非言語によるもの。
外在化されたイメージ。
以上である。

この、イメージを通して、無意識の世界に挑むのである。

イメージは、具象性、集約性、直接性、多義性などを有し、心的内容を伝える。
ユングは、イメージと概念を比較して、イメージは生命力を持ち、概念は、その逆であるという。

概念とは、明確に規定し、それを操作して、合理的に思考を組み立てる。だが、その背後にある、イメージにも注目することで、思考が生き生きとするのである。

そして、シンボルである。
一般の心理学では、何らかの他の対象を代表するものと、広く定義される。
ユングは、シンボルを、記号、標識と区別する。

言葉やイメージはそれが明白で直接的な意味以上の何ものかを包含しているときに、象徴的なのである。それはよりひろい「無意識」の側面を有しており、その側面はけっして正確に定義づけたり完全に説明したりされないものである。誰もそれを定義したり説明し切ろうと望むことはできない。人間の心が象徴の探求を始めると、それは理性の把握を超えた観念に導かれる。
ユング 人間と象徴

理性の超えた観念とは、狂うということである。

無意識の探求には、欠かせない、イメージと、シンボルであるが、それらを通じて、その特性を言語化し、意識化することに努めるのが、学者、臨床家であるが・・・

それを言語化するとなると、あの、妄想の禅の世界の言葉のようになる。
解ったような、解らないような、そして、解った気にさせるという。

ここで、仏教の唯識の思想でも、取り出したいが・・・
そんなことをしていると、益々、膨大な原稿になる。

それは、別なエッセイに書くことにして・・・
兎に角、無意識の世界に挑戦するというのであれば、狂うことを前提にするべきである。だから、心理学で、語るところの、無意識なんていうのは、無意識の滓のようなもの。

ユングが狂う寸前で、留まったのは、神話から、学者が手をつけないような、様々な、古代からの、妄想に託したからである。

そんな奇特な心理学者は、日本にはいない。
精々、うつ病になる程度で、終わり。

posted by 天山 at 00:01| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月11日

霊学75

シンボルによって無闇に動かされないためには、われわれはその意味を意識的に把握する必要がある。ところが、シンボルの意味が言語化され、自我によって把握されると、それは活力を失い、もはやシンボルではなくなってしまう。
河合

この、良い例が、19世紀の合理主義である。
多くのシンボルを殺したのである。
勿論、それにより、啓蒙することで、多くの迷信を打破し、人間が自由になったといえる。

だが、その後、シンボルを殺すことで、人間の重要な生命力の一部まで、破壊されたのではないかといわれる。

それは、シンボルが、無意識の世界に興味を持たせて、自分自身の全体性の回復とつながるという、考え方である。

さて、その人間性の、エネルギーを、心的エネルギーと呼ぶ。
この、心的エネルギーというが概念を使い、人間の意識、無意識の問題を考えるということになる。

例えば、フロイトは、心的エネルギーを、リビドーと名付けた。
その根底にあるものは、性であるとして、性的リビドーとも、呼ぶ。

ユングは、ここで、フロイトに対して、性的なものばかりではない、人間のエネルギーを見出した。心的リビドーである。
1912年に、リビドーの変遷と象徴、という本を著し、フロイトと袂を分かつのである。

心的エネルギーは、心の中を絶えず、流動する。
自我は、心の内部にある、心的エネルギーを適当に消費して、睡眠や休息時に、補給されると考える。

心的エネルギーが、無意識から意識へと流れるのを、進行、意識より、無意識に流れるのを、退行と呼ぶ。

それが、一日のうちに繰り返されている。

人が困難な状態に陥り、心的エネルギーを退行させることが多々ある。
コンプレックス・・・・
それが、心的エネルギーを引き寄せ、自我のほうに、流れるのを、妨げるのである。

心理療法とは、流れを止められている、心的エネルギーを、自我のほうに、戻すようにする行為となる。

ここで、フロイトは、退行を病として、認識した。
ユングは、病ではないものもあると認識し、更に、創造的な心的過程では、退行が必要であると、考えたのである。

創造的なものは、相反するものの統合が、なんらかの形で、認められる。両立し難いと思われるものが、一つに統合されて、創造がなされるという。

ユングは、無意識内に存在する創造性に注目し、退行現象が常に病的なものとは、限らなず、創造的な側面を持つと、指摘したのである。

それは、フロイト派の人たちにも、気づきを促した。
自我心理学者と呼ばれる人たちは、創造的退行、自我のための退行、という。
つまり、退行の創造的な面を、重要視するようになるのである。

さて、退行をよく見ると、心の中に、定立するものがあり、対して、反定立するものがある。そのどちらかを、抑圧すれば、解決が簡単であるが、創造的とは、いえないのである。

自我を、どちらにも、傾けないと、一種の停止状態になる。
ここで、自我を働かせていた、心的エネルギーが退行を起こし、無意識の世界へと入り込む。

この、退行状態になると、人は外見上、ただぼんやりとしているように、見える。だが、無意識では、動きがあり、自我のそれまでの、働きと無意識の働きが統合されて、統合的なシンボルが顕現されてくる。

それにより、心的エネルギーは、進行を開始し、自我は、新たなエネルギーを得て、活動するという。

新しい発見、発明などは、このような、退行現象が生じることは、多くの実例が証明していることである。

シンボルというものは、新しいエネルギーが自我にもたらされ、それの動き手となるのが、シンボルである。

自然のままのエネルギーの進行と退行の流れに加えて、人間が文化的な目的のために、新たな心的エネルギーを使用しようとするとき、そこに適切なシンボル形成が行われねばならない。
河合

今日、われわれは、19世紀が予感すらできなかったあることを理解しつつあるのである。つまり、シンボル、神話、イメージが精神生活に必須な質であること、われわれはそれらを偽装し、ずたずたに切断し、その価値を落下させることはできても、根絶やしにすることはけっしてできないということを学びつつあるのだ。
宗教学者 エリアーデ イメージとシンボル

現代社会、その人間の様子は、シンボルやイメージを忘れた。
河合は、20世紀は、できるかぎり、明確な概念を打ち立て、それをうまく操作することにより、自然科学の殿堂を打ち立ててきたという。

テクノロジー社会は、人間の生命の働きを絶えさせるようになった。
つまり、それに目を塞がれてしまい、トータルな人間性を、持てなくなったといえる。

つまり、無意識からの、情感とでもいうべき、感受性などである。

無意識は、シンボルの宝庫であるという・・・
だから、無意識に興味を持ち、全体性の回復へと向かう、との意見である。
その手立てが、夢であるとする、ユング派の人たちである。

勿論、夢でもいいが、様々な方法があることを、忘れてはいけない。

夢を観察することが、最も適切な手段であるとする、ユング派。
それは、夢は、無意識から、意識へ流れてくるメッセージであり、シンボルの担い手であるという、考え方である。

夢分析・・・ユングの結末ともいえる、無意識の世界への、挑戦である。
だが、ここで、手際よく、人の夢分析をして、あるような、無いような世界を導き出すという、心理療法家に注意である。

人の夢であるから、何とでも、言える。
更には、それに拘り過ぎて、逆効果をもたらす場合も多々あるということだ。

その夢分析の元、虎の巻は、大半が文献研究である。
実に、恐ろしいと言うべきだ。
これは、極めて慎重に、行われなければならない。


posted by 天山 at 01:39| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月05日

霊学76

更に、退行と創造性ということについて考えてゆくと、フロイトの場合は、退行を病的なものと考えた裏には、それが母親との近親相姦的な結合であるという、イメージが存在していると、考えたのである。

ここで、心理学では、フロイトの説を取り上げると、どうしても、性的、そして、近親相姦的な問題に至る。
これは、フロイトの病である。

人間が、ヒトから人間になる過程で、近親相姦を乗り越えてきたのは間違いないが、それに捉われると、誤る。

フロイトは、ユダヤ人である。
ユダヤ人は、特に、それを恐れていた節がある。

だが、旧約聖書も、改竄されているため、中々、その根拠がつかめない。

モーゼ十戒の中に、母子、父子の関係を禁止しているものはない。
だが、それは、通常に行われていたのである。

白人は、近親相姦によって、成り立った人種であるから、それを特に、恐れるのだろう。それを、フロイトが代表して著した。

人類は、今に至るまで、近親相姦の危険に晒されている。
だから、フロイトの言い分も、ある程度は、納得する。

しかし、それは、少数派である。
多くは、マザー、ファザーコンプレックスとして、処理しているはずだ。

古代日本でも、母と子の関係を穢れとして、認識していた。
それが、意識下に残り・・・
そして、時に、意識の表面に出て・・・

今は、異常と判定されるが、性の有様は、百人百様であり、それを昇華して成り立つのが、人間性である。

さて、ユングは、創造的な退行を考える時、個人的な近親相姦としてではなく、普遍的な母なるものとの、合体としてみるのである。実に、健康的である。
勿論、そこに至るまでの、道のりはある。

ここで、問題なのは、それは、再生へと志向する、死の体験として、了解されるということである。
と、このように書かれると、はあーーーとなる。

とても、長い説明が必要になる。

フロイトが、個人的な親子関係を基にして、エディプス・コンプレックスを強調する。一方、ユングは、普遍的な母なるものの存在を主張するのであり、フロイトと袂をわかったのである。

そこで、今も、両者の言い分は、定義として、そこから、語られる心理学である。

本当は、ここで、仏教の唯識などを、持ってくると、非常に面白いのだが、それは、別のエッセイに譲る。

普遍的な母なるもの・・・
何と、耳障りが良い言葉だろう。
それに、騙される、心理学者たち。

普遍的な母なるものという、考え方を導入することで、退行の持つ創造性ということが、より生き生きと説明できるようになったという、経緯がある。

これで、ユングの、原型、元型の、概念が生まれた。それが、また、ユング心理学の核心である。

ここで、心理学の概念ではなく、哲学的概念であることを、加えておく。

何故なら、哲学的概念は、時代性と時代精神によって、刷新されなければならないからである。

勿論、ユングの元型は、実に素晴らしい人間性の、心理学を生み出してくれたことは、否定しない。

私がいいたいことは、言葉に騙されるな、である。

母なるもの・・・
それで、次の言葉を失う。

ユングは、分裂病の幻覚、妄想を研究するうちに、それらが、世界中の、神話、昔話などと、共通のパターン、主題があることに気づいた。

ユングは、これらの、典型的なイメージを最初、原始心像と、呼んだ。

その言葉は、ヤーゴプ・ブルクハルトという人の用語である。
そして、同じく、バッホーフェンという人にも、影響を受けた。
それは、ユングが高校、大学を過ごした、バーゼルの住人だった。

彼らは、宗教、神話の研究に専念していた。
中でも、母性に関する論文が多い。

そして、ユングも、イメージの世界への深い関心を持った。

彼らは、概念を明確にし、それを組み立てることより、その背後に存在するイメージの生命に、ひかれていた。
それは、実に、健康的である。

ユングは、原始心像という、用語を用いて、それらのイメージを捉え、研究をはじめたのである。
そして、イメージのもととなる型が、無意識に存在すると考えた。それを元型と呼んだ。

1919年の、本能と無意識、という論文において初めて紹介される。

原始心像は、元型的イメージであり、そのイメージを通じて、無意識に存在する、色々な元型を探るという試みが、ユングの心理学の重要な課題となったのである。

その恩恵を受けて、心理学は、飛躍的に発展してゆく。

勿論、初期の頃は、多くの誤解を生んだ。
それは、元型は、無意識内に存在するものとして、意識によって、把握できないもの。仮説的概念である。
この意識内における、働きを自我がイメージとして把握するものが、元型的イメージである。
つまり、原始心像である。

だが、元型と、元型イメージを混同していたのである。

それでは、ユングが混同していたものは何か、ということである。
次に続ける。

posted by 天山 at 06:06| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月06日

霊学77

何度も何度も私は、元型はその内容に関して決定されている、つまり、それは一種の無意識的な観念であるという誤解にあっている。元型はその内容に関して決定されるものではなく、その形態に関してのみであり、それも非常に限られた程度においてのみそうであることを、ここにふたたび指摘しておくことが必要である。
原始心像は、その内容に関して、それが意識化されるとき、従って意識的経験の素材によって満たされるときのみ決定される。しかしながら、その形態は・・・結晶の軸構造と比較しうるものであろう。それはそれ自身物質的な存在ではないが、母液のなかの結晶構造をつくりあげるかのようなものである。・・・元型はそれ自身空で形態的であり、潜在的可能性にすぎない。それは先験的に与えられている表象可能性なのである。
ユング 元型と普遍的無意識

元型は、先験的に与えられている表象可能性、なのであり、表象ではないのである。

簡単に説明すると、元型は、普遍的無意識にあり、それが、個人的無意識、そして、意識に、元型による、原始心像が現れるということだ。

元型は、生得的に存在していると、ユングが言う。
それで、後天的に獲得したイメージが、遺伝されるのは、不可能だという、批判を受けた。

しかし、上記に書いた通り、それは、元型と、元型的イメージと、区別することによって、解決された。

それを、後で、解説するが、グレートマザーだの、影、アニマ、アニムス、などという、重要なポイントが出てくるのである。

その元型を見ていると、すでに、タロットカードなどでは、お馴染みなのである。
占いの、イメージとしては、ユングより、先に使用されていた事実がある。

ユダヤ教の、タルムードなどにも、それは、見出せる。

ユングは、それに学問的意義と意味を見出したのである。

ユングが後に、星占いや、東洋の易などに、興味を持ったのは、正解である。それらは、すでに、元型など、とうの昔にやっていたのである。

今も、ユング研究所では、星占いや、易を学ぶという。当然である。

以下の説明も、すでに、占いの世界では、当たり前のことだった。

元型的なイメージは個人のコンプレックスによっても、色付けされる。普遍的無意識から、個人的無意識の層を経て、自我に達するのであるから、当然である。

更に、コンプレックスは、元型的な心的内容の自我に対する、直接的な侵入を防いでいるということも。コンプレックスの弱い人は、元型的なものの侵入を受ける可能性が、高いともいえる。

元型は、人類共通のものと、仮定されるが、それが、元型的イメージとして把握される場合は、個人の意識のあり方、そして、個人の地域性、時代性、それぞれの文化的影響を受ける。
それで、文化的無意識という、概念を立てる人もいる。

こうなったら、言った者勝ちである。

心理学と同じように、何々的無意識・・・

ホント、いい加減にして欲しい。

あくまでも、元型という、普遍的無意識とは、仮定、仮説である。

それを見た人は、いないし、いれば、狂う。
狂わない程度で、小難しいことを言うのが、学者たち。

ある時代、ある文化において、ある特定の元型がとくに強烈な力をもつ場合も考えられる。ある元型的イメージがひとつの文化や社会を先導する象徴となり、その集団の成員のエネルギーを結集せしめるときもある。
河合

当然である。

一々例を上げることもない。

私は、様々な占いの教養を持ち、ユングを読むので、時々、実用的な占いに、感心することがある。
勿論、占いとしての、認識は、非常にレベルの低いものと見られるが、それは、見方の問題である。

ユングが、それを無碍にしていたら、共時性の法則なども、打ち立てられなかったはずである。

更に、多くヒントを得ている。
要するに、その人の意識次第で、占いの知識も、充分に生かせるという、証拠である。

さて、普遍的無意識と呼ばれる領域が存在するということを、前提にして・・・

母なるもの、といわれる、耳障りの良い言葉、グレートマザーの存在が第一に上げられる。

われわれ人間は、その無意識の深層に、自分自身の母親の像を超えた、絶対的な優しさと安全感を与えてくれる、母なるもののイメージをもっている。それらは外界に投影され、各民族がもっている神話の女神や、崇拝の対象となったいろいろな像として、われわれに受け継がれている。ユングはそれらが人類に共通のパターンをもつことに注目し、母なるものの元型が人間の無意識の深層に存在すると考えた。
河合

その、母なるものの特性は、包含するという、働きである。そして、一体となるという、イメージである。
分離、分割ということがない。

心理療法にとっては、とても重要視される、母性的存在である。
と、このように観念を作り上げて、それを単に学んで、心理療法などされたら、たまったものではない。

たまったものではないから、このグレートマザーに関して、もう少し、説明しなければならない。
そして、夢である。

フロイトの夢判断、分析から、はじまったもので、ユング派も、最も夢の分析を重要視するのである。
これから、それを、説明しつつ、批判してゆくことにする。

posted by 天山 at 00:02| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月07日

霊学78

1957年、アメリカの、デメントとクレイトマンという学者が、夢に関する、研究を発表した。

睡眠中に、眼球がくりくりと動き、脳波は覚醒時と同様に動き、筋肉は緊張がなくなるという時期があることを見出した。筋肉の緊張がなく、よく眠りに入っているのに、脳波が覚醒状態を示している。
その眠りを、逆説覚醒と名付け、あるいは、眼球が動くので、REN期とも言う。レム睡眠である。

そこで、睡眠中の人に、レム睡眠がおとずれたとき、すぐに起こして、夢をみていたかどうかを尋ねると、夢を見ていたと報告する人が圧倒的に多いことが、解ったのである。

80パーセントの人が夢を報告したという。

この、レム睡眠の時期は、一般的に、一晩に五度くらいあるので、睡眠時に、五回くらいの夢を見ていると、言われているのである。

最近は、レム睡眠以外でも、起こすと、夢を報告する人が、ある程度いるので、確定的ではないが、人間は夢を見ることが確かだということが解った。

デメントは、断夢、という、実験を行い、レム睡眠が起こりかけると、その人を覚醒させ、夢を見させないようにした。
五日間続けて、あとは、自由に眠らせると、レム睡眠が増加することがわかった。

つまり、それで、人間が夢を必要としていることが、解ったのである。

それでは、その夢について・・・

夢は自分自身によって演出され、演じられたドラマであると、考えることができる。更に、夢は、劇と同じような構成を持ち、四段階に分けられる。

場面の提示
発展
クライマックス
結末
である。

ただし、それは覚醒したときに、記憶しているもので、その一部しか覚えていないということも多い。

夢の構成力が強い場合は、一度、覚醒しても、再び、夢の続きをみるということもある。

人が眠っている間、無意識が活性化され、その動きを睡眠中の意識が把握し、それを記憶したものが、夢である。
夢は、意識と無意識の、相互作用のうちに生じてきたものを、自我がイメージとして、把握したものであるといえる。

古代では、夢は、もう一つの現実として、捉えられていた。
古代人が、いかに、夢を重要視したかは、様々な記録で、見る事ができる。

また、夢占いの話も多い。
ただし、合理主義が登場してから、その夢に対して、注意を払わなくなった感がある。

夢を再び正面から取り上げようとした、フロイトの夢判断により、再度、夢というものに、注目が集まった。

更に、ユングが取り上げて、夢分析による、人間回復が行われるようになる。

治療の分野でも、夢は、実に有効な手段となるのである。

先の、ユングの元型の概念も、夢分析から、生じてきたものである。

最近では科学的な、いやまさに自然科学的な夢研究が存在している。しかしその研究者たちは、嫉妬深く科学性を気にかけて、夢の意味についての問いに直面することを避けている。我々は彼らから、夢に関連している神経生理学的条件、関与している脳構造や類似の生物学的要因について多くのことを聞いている。
夢の意味 C、A、マイヤー

我々はまた、覚えているか否かにかかわらず、あらゆる人が規則的にリズミカルな間隔で一晩に四、五回夢を見ることを学んだ。また夢の実験的な剥奪はよからぬ効果をもち、補充のための夢需要を引き起こすことを知った。この最後の十分に確証された事実は、夢が少なくとも生物学的に必要であることを明らかに物語っている。
マイヤー

マイヤーは、ユングの高弟子である。

科学的な心理学は、意識の現象のみに関われるが、それに対して、夢は、生粋に無意識的な心の産物であるとする。

そして、自発的な自然産物として、理解されるべきであるとする。

無意識の、妨げがない、活動が夢である。

故に、夢から、無意識の世界を覗く、あるいは、無意識の世界の手がかりを捜すことができるというものである。

夢を全く見ないという人は、単に、夢を忘れているだけで、夢を見ない人は、いないのである。
更には、覚えている夢と、忘れる夢の差もある。

眠りから覚めて、夢を忘れるというのは、健康な証拠であると、わたしは、考えている。それは、睡眠中の、夢により、無意識を意識化させることなく、つまり、余計な感情に左右されることなく、生活出来るからである。

朝の光で、夢を忘れる。
全く、健康である。

それが、夢の感覚を引き摺りつつ、生活するというのは、何とも、嫌なものである。
だが、そういう人がいる。
意味の解らぬ、不愉快、不安・・・

夢の続きを、生活の中に存在させてしまう。

だが、夢についてを、少し語らなければならない。
夢が無意識の世界の、入り口だから。

ただし、あくまでも、仮説として、私は考える。
確かに、夢を手掛かりにして、心の問題を解決するという、夢分析の効果と、実績を、否定するものではない。
出来れば、そんなことをせずに、心の問題解決をしたいものであるが。


posted by 天山 at 05:51| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月08日

霊学79

科学的な心理学はもっぱら意識の現象のみにかかわっているが、それに対し夢は生粋に無意識的な心の産物である。それはそもそも自発的な自然産物として理解されなければならない。それ故に夢は、意識的産物に妥当するのと異なる法則に従うであろう。法則、即ち不変の関係は、夢においても―――我々が自然産物とみなすならーーー見出すことができよう。
マイヤー

夢が、無意識の産物であることを、確定しているのである。

それが、人どころか、あらゆる高等な脊柱動物においても、睡眠中に、リズミカルで規則的な夢活動が生じているのである。

そして、
夢の心理学は、物理学が観察者と観察される者との間の分裂の問題、即ち有名な主観/客観――関係の問題に遭遇したのと全く似た状況にある。
マイヤー
なのである。

無意識的な過程の心理学とは、出来る限り、客観の方へ移そうとする試みとなる。

主観と、客観の問題が、夢心理学のテーマである。
また、その研究においても、である。

フロイトも、夢を、抑圧、そして、検閲者という意識で解釈するため、その傾向を継いだ人たちが、逆効果を成してしまうという、誤りである。

精密になってゆく、神経生理学的研究により、夢現象を乱し、更には、破壊する。調べるべき現象を益々と、少ししか明らかに出来ないように、より細分化してゆく過程で、夢現象をすり替えた。

主観/客観という関係において、その間の境界を豪胆に客観の方へ押しやることで、物理学においてはついに心へ、心理学においては物理学に突き当たるであろうとことが推論できる。
マイヤー

それは、
心的なものは常に心的な手段によってのみ観察されうる、という昔から知られた事実を、少し複雑な仕方で言い表しているだけのことである。
マイヤー
と、なる。

その後の、夢研究の方法などは、専門家に譲る。

ただし、後に、再度、マイヤー氏の論述に触れることにする。

さて、フロイトは、無意識を意識に対する、否定的側面を強調したが、ユングは、無意識は、意識の母胎であり、自律的なものであると、解釈した。

ユングは、無意識は、それ自体一つの宇宙に比すべき、全体性が備わっていると、解釈する。否定的部分だけではなく、肯定的な部分もあり、全体として、統一され運動しているということだ。

ユングの方が、夢を積極的に利用する価値がある。

全体と考えた場合、生き方や、生きる社会の歪みを示唆し、それをプラスにも、マイナスにも生かし、何らかの、変容をもたらすものという意識である。

ユングは、それまで否定的側面が強調された、退行という概念も、退行は、退行のみを意味せず、むしろ根元的な生命に戻り、新たな生命力を精神活動の中に再統合する試みがあり、再生や、生まれ変りとしての意味を持つと、解釈した。

ユングの方が、フロイトより、随分と明るいものである。
だが、それには、才能が必要である。

夢分析という行為も、才能の成せる業である。

ユング研究所で、学ぶ人たちは、必ずその中から、師匠のような人に師事し、夢分析を受けたりする。
何となく、一子相伝とか、宗教の奥義を受け継ぐような行為をしている。

まあ、それが、ユング派と言われたり・・・
つまり、派閥、宗派の違いのようなものになる。

人間の本能・・・集うという、行為である。

学閥などという、言い方もする。

さて、それでは、ユングは自我というものを、どのように捉えたかである。

自我はもろもろの表象の複合体、コンプレックスと呼ぶ、が、意識野の中心を形成していて、高度の連続性と高度の自己同一性を備えている、とする。

認知し、記憶し、判断するのが、自我である。
更に、意志決定し、行動するのも、自我である。

それが、私ではないということになると、精神の病と、判断される。

自我に、ある程度の、まとまりがあるから、一貫した、認知、思考、行動を取るのである。

更に、意識を構成する要素について、心理学的類型論を作った。

世界に対する、基本的な態度によって、内向、外向と分けた。
この基本的態度に、意識の一定の機能として、思考、感情、感覚、直観の、四つが想定された。

この四つの機能は、合理性の対である、思考と感情、そして、非合理性の対、感覚と直観に、分けられる。

思考機能は、あるものが何であるかを知り、それに名をつけて、他の物事に結びつける。
感情機能は、あるものの価値を考慮すること、ある何かについての観点を持つこと。

感覚機能とは、五感で経験できる、あらゆる事実を表し、何かが存在するということを教えるが、それが何であるかを教えない。
直観機能とは、何かが生じているのは、どこか、どのような可能性が存在するかということを意識的な証明や知識によらず、感じ取るということ。

人は、この四つの機能のうち、一つを優越機能として持ち、更に、もう一方の機能を、補助機能として、用いているという。

この二つの態度と、優越機能および、捕縄機能の組み合わせにより、16の基本的類型を考える事ができるのである。

更に、ユングは、劣等機能にも、注目した。
それは、未分化という意味において、である。
自分の劣等機能を自覚し、自我に統合してゆくことを、個性の基本要素とした。

こう言われると、何となく、解った気になるものであるから、不思議だ。


posted by 天山 at 05:35| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月09日

霊学80

自我には、主体性と統合性がある。
そして、その自我と関わる重要なものが、コンプレックス、つまり、表象の複合体である。

自我が、コンプレックスに対して行うことが、重要であるということだ。

自我は、コンプレックスとの関わりにおいて、耐えず、変化し、成長している。
だが、自我が、他のコンプレックスの存在を認めようとしない場合、自我は、様々な防衛機制を用いることによって、安泰を図ろうとするが、それが、極端で柔軟性がなくなると、神経症という状態に陥ることもある。

また、自我が、他のコンプレックスを認めない度合いが、甚だしくなると、交代人格と呼ばれる状態になることがある。

例えば、賢いバカなどは、賢いと思うので、自分のコンプレックスを認めない、認めたくないという、防衛機制を働かせる。
すると、相手を攻撃することで、それを保とうとする。
また、徹底的な批判をする。

教師や、学者などにも多いが、人から、指摘を受けることが、癇に障るのである。

自分は、いつも、人の上にあると、思い込む人なども、である。

何かに、イライラして、原因が解らない時は、暗に、劣等感を抱かせるようなものに、触れる時である。

つまり、劣等感コンプレックスに、脅かされるのである。

さて、ユングは、自我よりも、もっと大きなものとして、自己というものを、仮定した。

それは、日常的なものや、精神分析における意味とは、違う。
個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと高める過程を、ユングは、個性化の過程、自己実現の過程と呼んだ。

それを、人生の究極の目的として、考えたのである。

このような過程を生じさせる、意識を超えた働きの中心として、自己という、仮定をおいた。

であるから、何かの症状が出た時に、否定されるべきものではなく、そこに、目的論的な意味があると、考えたのである。

そして、一生を自己実現の過程として捉え、すべてのことが、過程、プロセスであるという、考えに至る。

それは、臨床的に非常に救いになった。

つまり、その人の事柄にとって、何一つ、無駄なものはない、ということである。
そこに、積極的に人生に関わるという、意欲が見出される。

さて、自我の確立がなければ、どんな自己の体験も不可能である。
自我は、自己を必要する。そして、自己も自我を必要とする。
この二つのバランスが崩れる時、病的な状態に陥るのである。

それは、自己が自我を圧倒する場合である。
これは、分裂的になる。あるいは、精神分裂病である。
無意識の特性である、時間と空間の相対性や、部分と、全体が等しくなったりする。

そして、もう一つは、自我が膨張して、自己と同一視することである。
自分の力に、幻想的な万能力を抱き、妄想を繰り返す。
人生を転々として、人との、深い関わりを避けてしまうような状態を作るのである。

永遠の少年といわれる、現実感覚欠如の人間になる。

無意識の世界に、選別をつけた、フロイト、ユングなどのお蔭で、ある程度の、考える道がついた。
そして、この無意識は、霊学に関しても、大きな影響と、道筋を与えてくれる。

これが、超心理学、心霊主義に続く道でもある。
そして、神智学、神秘学。

霊能的能力というものも、この辺りで、裁くことが出来るものも多数ある。

霊能力で、人の無意識の世界を見るという者もいるが、その怖さを知らないゆえに言う。

自分の無意識でさえも、計り知れない世界であり、下手をすれば、溺れる。つまり、死ぬ。

無意識は、大海のような世界、あるいは、宇宙のような存在である。
簡単に、人の無意識の世界など、見ることなど、出来るはずもない。

また、それを見たとしても、収拾がつかなくなる恐れあり、同じように、狂うか、死ぬ。

ユング自身も、狂う寸前まで行っている。

辛うじて、集合意識、民族の集合意識程度の概念を作り、狂いを免れた。

ただし、仏教では、唯識が、すでに潜在意識を発見している。
更に、そこには、アラヤシキ、マナヤシキと言う、意識のレベルまで、取り入れている。

単なる、潜在意識というものも、層があるというのだ。
潜在意識も、無意識の世界にある。
その、無意識にも、幾層もある。

潜在意識を生かす方法などと、言われるが、その程度で十分であり、それ以上になると危険である。その、危険を知らない人が、危険を冒す。

無意識の霊域に入ると、出られなくなる恐れ多々あり。
自然万物の意識とつながる。
そうすると、生身の人間は、狂うしかなくなる。

瞑想などで、ある程度の域に達して、満足しているのが、幸せである。
宇宙大の意識とか・・・
神の意識とか・・・
それらは、妄想である。

もしそうならば、生まれてない。
生まれてきたということは、そうではないから、生まれたのである。
生まれた意味を、じっくりと、詮索すると、それが解る。
大半のことが、推測に過ぎない事が解る。

posted by 天山 at 05:22| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月03日

霊学81

ユングの元型の概念は、その長い臨床体験と、夢分析によって出来たものである。

その中でも、影、というものは、夢分析の初期に、出る事が多い。

影、とは、本人が、恐れたり、嫌だったり、受け入れることの出来ないものを、言い表すために、ユングが作った。
また、生きられなかったところとか、本人の中にあるが、顧みられなかったという部分である。

一人の人間が生きるということは、その一人の中の、一部分を生きていると考える。それ以外の部分は、影、として隠れているのである。

更に、影、はそれゆえに、意識化することが出来ないという特徴もある。
ユングは、その、影、を悪いもの、罪なものではないと、肯定し、その人の一面であると、強調した。

ただ、影、はしばしば、他人に投影される。
ここが、生きる、生活をする、という面で問題になる。

影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのこと・・・たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向・・・を人格化したものである。
ユング

われわれ人間は誰しも影をもっているが、それを認めることをできるだけ避けようとしている。影には個人的影と普遍的影とがある。前者はある個人にとって特有のもので、・・・控え目な人にとって、攻撃的なところはその人の影になっている。しかし、攻撃的な生き方をしている人にとっては、控え目なことがその人の影になるわけである。
無意識の構造 河合隼雄

普遍的影は、殺人などのように、人類共通のもので、悪の概念に近いもの。
個人的影の存在を認め、それを自我に統合してゆくことも難しいが、普遍的影は、不可能である。

自分の影の存在を、認めたくないために、色々な方法を用いるが、投影の機制は、よく用いられる。

これは、先ほど言った、他人に、影を投影させる。
ある人に対して、持っていた感情が、実は、我自身のものであったというものである。
だからこそ、それを強く感じるのである。

私の中にあったものだから、より強く相手に投影するのである。

私も、よくよく考えることが、ある。
相手に腹の立つ時、その相手の欠点が、実は、わが身の欠点であるという、気づきである。

嫉妬の感情なども、そうである。
自分が本当はやりたいことを、他人がしている。
その他人を批判することで、つまり、自分の影を投影することで、解消する。

だが、それでは、いつまでも、終わらない迷いの中を生きることになる。
そこで、投影のひきもどし、という行為が、人格の成長のために、必要だと、言われる。

相手に投げた、感情を引き戻して、わが身を観るという、行為である。

もう一つは、影の肩代わり、という、行為である。

それは、自分の身代わりに、近くの者が、肩代わりするというもの。
あまり、書きたくないが、立派な親に育てられた子どもが、全くその逆だったりと・・・

立派な人格者である父親の息子が、数々の悪行を重ねるのである。
つまり、親の影を、肩代わりしているのである。

目に見える、一番近くの人に、投影させるのが、最も簡単であり、解消させやすい。
だから、家族が、その犠牲になったりする。

思春期の反抗などは、それに近い。
親から自立しようとする時、親に対して、否定的になり、自分の影が、親に投影される。

だが、親に投げ掛けた影を、自分の方へ引き戻し、影の自覚と共に、自立的に行動し始める。
それが、成長である。

更に、影が強くなり、自我が、影の侵入を受けると、神経症になる。
それが、強力に行われると、発作的な行動を起こしたり、自殺に追い込まれたりする。

更に酷くなると、影も、一つの人格のように行為する。

臨床の場では、二重身体験に悩む人が現れる。
その名の通り、二つの体を持つというのである。

そうなると、専門家の力が必要である。

二重人格とういうものもあるが・・・
同一人物の中で、二つの人格が交互に現れるものである。

それも、元をただせば、その人の影なのである。
多くの例では、全く対照的な人格になっている。

では、どちらが正しいのか・・・
どちらも、正しいのである。

だが、夢の中では、何でもありだから、二重人格も三重人格もある。

そして、影はまた、使いようでもある。

影はたしかに暗い存在である。しかし、それのもつ逆説的な性質をもっとも端的に示すものとして、トリックスターがある。
河合

トリックスターとは、世界中の神話、伝説の中に登場して活躍する、いたずらもの、である。
策略にとみ、変化自在、破壊と建設の両面を持つという。

その存在は現存する組織をおびやかすものではあるが、それは常に新しい思いがけない結合を呼び起こし、既存の組織のもつ単層性に対して、多くの可能性を示唆し、その重層性を明らかにする。ある体制が、どの程度にトリックスターの存在を許容しうるかによって、それがどの程度に自ら改革し、進歩してゆけるかを測ることができる、とも言うことができる。自らの許容度を越えてトリックスターが活躍するとき、そこには収拾不能な混乱が生じることになろう。
河合

実に、示唆に富んだ、考え方である。
個人の中においても、それは、可能であろうと、思う。


posted by 天山 at 05:19| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月04日

霊学82

ユングは、人間が外界に向けて見せるべき、自分の仮面をして、ペルソナと呼んだ。
つまり、仮面である。

人は、適切な仮面をつけることにより、社会が円滑に動く。
日常生活では、個人的感情より、その仮面が必要とされる。

当然である。
毎日、個人の感情で行動していたら、社会生活が送れないどころか、疎外される。

ただし、外界との適応が良すぎて、内的適応が悪い人もいる。
つまり、それは、わが身の心を忘れた人のようである。
機械のようになってしまう。

人間の内界とは・・・
それが、無意識の世界、深層である。
と、簡単に言うのが、心理学者である。

宇宙大の無意識の世界である。
その中に入れば抜けられなくなる。あるいは、狂う。
だが、心理学者は、見てきたようなうそを言う。

ユングは、それを考える手掛かりとして、アニマ・アニムスを考えた。

つまり、人は、影、を通して、アニマ・アニムスと接触できるということである。

ちなみに、アニマとは、男性の中の異性であり、アニムスとは、女性の中の異性である。

男が、その女性性を隠して、現実を生きるが、その女性性は、影、そして、無意識の中に存在する。
そして、無意識の中で、人格化されるというものだ。

男らしい、というイメージを持つためにも、男の無意識には、アニマが必要であると、言われる。
その逆の女の場合も、である。

ということは、男女共に、潜在的可能性として、両性具有的であるといえる。
その無意識が、両性具有的というのである。

こんなことは、大脳化した人間だけが、考えられることである。
動物は、生まれた性のみで、生きられる。
しかし、人間は、生まれた性のみで生きられない人もいるということだ。

夢分析という、こじ付けが、これを納得させえると考えるのが、心理学者たちである。

ユングが見つけた、お手本を元に、彼らは、いい気になって、それをやる。

さて、ユングは、アニマは男にとって、感情、ムード、非合理的なものへの感受性や、人や事物に対する、愛情や、関係性、無意識に開かれた関係を、もたらすものと言われる。

アニマが肯定的にはたらくとき、それは、生命力や創造力の根元となる。多くの芸術家が、その内に存在する「永遠の女性」を求めて努力するのも当然である。否定的にアニマが働くとき、それはペルソナをまったく破壊する。多くの人がアニマの魅力のため、社会的地位のみか、命さえ失うこともあるのである。
河合隼雄

永遠の女性は、実は、自分の中にあったということである。
ご苦労である。

芸術家ではない人の、例が無いのが残念である。
芸術家とは、圧倒的に、少数である。大多数は、芸術家ではない。

女漁りをする男は、実は、わが身の内に有る女を求めて、女を漁っていたということになるのである。

そして、遂に、別な男の中に、理想の女を見つけた時に、どうするの・・・
そういう、特例については、書いていない。

無意識という、とんでもない、世界を区切りよく、ユングは整理したつもりでいるようである。
それを信じて、心理学者が存在する。
あるいは、精神分析という、詐欺師たちがいる。

そして、アニマに深く関わるのが、エロスであるという。
要するに、男は、アニマの関係において、エロスということに大きな役割を占めるというもの。

特定の女に、アニマ像を投影して、そこにエロスの感情を生じる。
つまり、勘違いである。

女を見て、エロチックな妄想に捉えられる。
女の体に、それを感じるのである。つまり、本能的欲望であろが、違う。
それは、男の未成熟なアニマなのであるという。
真面目な男ほど、未成熟なアニマを持つといわれる。
そして、女を見て、空想、妄想に、悶えるのである。

アニマの持つ、エロス的要素には、四つの段階があるとのユングは、第一は、生物的、第二は、ロマンチック、第三は、霊的、第四は、叡智と、きた。

河合氏は、いかに道徳的な人でも、分析の初期には、生物的段階が出るという。更に、娼婦のようなイメージを持つ女性像なのだそうだ。
更に、日本人のアニマ像は、この段階に留まっていることが多いという。

ここで言っておくが、分析家は、分析家以上のもの、更に、分析家が知らないものは、見えないのである。
自分に無いものは、見えないのである。

分析家は、人間であり、それ以上の者ではない。

こうして、お勉強をしているうちに、何事かが、解ったつもりになるというのが、恐ろしい。
ただ、そう仮定しているというだけである。

人間の無意識とは、八方破れかぶれなのである。
だから、道筋を先につけた者が勝ちなのである。
だか、あくまでも、仮定である。

ユングやフロイトの貴重な研究により、人類は、少しでも幸せになったただろうか。
益々複雑に、こんがらかり、訳が解らなくなっている。

posted by 天山 at 05:03| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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