2012年06月13日

霊学63

コーエンの結論である。
心理学の主題は、はっきりと人間である。それは単なる「生理学の裏切り」ではない。それゆえ、われわれの第一歩は、何が人間の特質であるかを、根ではなく花を研究することでなければならない。われわれの出発点は、「内側」からの経験の現象でなければならない。次の段階で「外側」との結びつきを確かめることができ、これによって心理学を他の諸科学と連帯させることができる。

そのために、延々と、書き続けているのである。

そこで、神経生理学的な言語を要求する人たちがいる。
彼らは、主観主義言語は敗北主義である、と言うのである。

つまり、自己の痛みを、主観的言語で言い表すと、痛みは、自分だけのものになる。
反対に、客観的言語で述べられると、痛みは、和らげられるという、見込みに直面する。

すると、コーエンは、
もしわれわれが、痛みというものを、「機械とかその他のものと比較して、神経とそのインパルス、とりわけ大脳との関係でもって論ずるならば・・・」その際、少なくともわれわれは痛みを感じないようにすることを学ぶことができよう・・・ここで疑問にせざるを得ないのは、どうしてこのような楽観主義そのものを「客観的」言語で述べることができるだろうかということである。ところが実際には、大脳に対する心の非還元性が、痛みの経験にみごとに例証される。それに気づくことなしには痛みはあり得ないからである。
と、言う。

面倒くさいことを言うが、大脳に対する、非還元性が、痛みの経験をみごとに、例証されるということである。

還元主義の人は、心理学的説明は、すべて生理学の方向に向かわなければならないと、言う。
何故か。
科学的観察は、もっぱら触知できる世界に関するものだから。
思考と、行動の直接の決定因は、人間の観察と検証に供されうるような、一定の領域内に、求められるべきである。

還元主義の人たちは、大脳は、一つの機械として働くという、作業仮説を受け入れる。しかし、彼らは、確信が無い。

大脳が機械か、否か・・・
還元主義者も、解らないのである。

われわれに解き明かすべく残されている問題は、機械に似た大脳を反映する心に、それの反映するものが完全に機械ではないかもしれないという考えを抱いたりすることがどうしてできるのか、ということである。
コーエン

ダーウインは、人間が、顔を赤らめるということを、最も特異な、最も人間らしいものとして、取り上げた。
体に、どのような物理的な力を与えても、赤面させることは、できない。

心が、動かされなければ、赤面しない。

ダーウインは、
他人が自分のことを、どう考えているのかという思いが、赤面を引き起こすという。

意識や注意が解剖学的「現実」のなかにいわれなく持ち込まれた超自然的な性格でしかないという態度を取る限り、経験を理解することは不可能であることを示す無数の例の一つにすぎない。
コーエン

結論で、コーエンが言う、われわれの出発点は、「内側」からの経験の現象でなければならない、という、ことだ。

内側・・・心のことである。

神経生理学的還元主義・・・
今は、大脳生理学的・・・
何でも、脳だ、脳だというのは、能無し、脳無しなのである。

心理学は、それらの、科学を従わせるほどの、思索と、思考と、観察と、哲学が必要であるということ。

ミシェル・フーコーの、精神疾患と心理学でも、よく解る。

それでは、今度は、その方法についして、である。

この辺りで、大体、おかしくなってくるのである。
精神分析と、心理学・・・
精神医学と、心理学・・・

脳を扱うなら、訳語は、脳理学でも、よかったのである。

ところが、心理学である。
その、心理とは、何か。

その最初は、認知である。
認知とは、私は、外部の世界を、どのように、認知しているのか、である。

車の事故を、目撃した。
犯人逮捕には、車の色、ナンバーを・・・
ところが、それが、誤るのである。

灰色の車が、黒になる。
黒は、悪のイメージが強いから・・・

皆、同じものを見ても、その解釈が、また、認知の仕方が違う。

この馬鹿は、本当に頭が悪い・・・ではなく、認知の仕方が違うのである。

そうすると、それぞれの、職場、職場に、常識というものがあり、職場が変われば、常識が変わると、思いなさい・・・などという、教訓的、説教も、心理学の一種になるという・・・
ああーーーあ、である。

児童心理学からの、子育て・・・
そして、時代、時代によって、変転し行く・・・
本当に、心理学からなの・・・

本当の心理学など、誰にも、解らないという。
更に、現代は、心理学の花盛りで、あれもこれも、心理学。
しまいに、心理学で、開運しょう・・・
という、お馬鹿もいる。

自称、心理学者である。
占い師も、心理学者を名乗るという。

迷わず、心理学であるという人は、ある観念のみを、心理学と称しているだけ。

更には、心理学で、解決する、問題は僅かである。
症例集などを、読むと、患者より、カウンセラーの方が、癒されているという・・・

一人酔いしれる、心理カウンセラー。
相談者から、あなたの生きがいは、なんでしょうかと、問われた、馬鹿なカウンセラーが、何と、あなたのような、悩みを持つ人を、支えるのが、生きがいです、だと・・・



posted by 天山 at 05:51| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月14日

霊学64

コーエンの、人間性の心理学から、心理学を学ぶ前に、という、論文を読んだ。
次に、心理学のもう一つの見方、という論文に進む前に、少し、日本の心理学、心理学の歴史を見ることにする。

というのは、心理学とは、実は、得体の知れないものであり、心理学者という者の中でも、その概論などは、皆々、違うのである。

何故、それでは、心理学が、学問の仲間入りをしたのか。そして、堂々と、大手を振って、まかり通るのかである。

例えば、今、ランダムに、心理学の本を取り上げてみると、驚くべき状態なのである。

心理学を学ぶ・・・
その、目次を、見る。
心理学の研究法
要求・行動心理学
感覚・知覚心理学
学習心理学
思考心理学
知能心理学
性格心理学
発達心理学
教育心理学
児童心理学
青年心理学
臨床・異常心理学
犯罪心理学
社会心理学
産業・経営心理学

何でも、心理学になってしまう。
一体、これは、どういうことか。
簡単である。
心理学などという、学問は無いのである。

独創的な理論を作り、心理学の発展に貢献したのは、心理学者ではないのである。
皆、別の学問の専門家である。

W・ジェイムズは、解剖学者、I・P・パブロフは、解剖学者、哲学者、S・フロイトは、神経学者、J・B・ワトソンは、動物学者、C・L・ハルは、機械技術者、J・ピアジェは、認識論学者・・・
はじめから、心理学者というものは、実に、影が薄い。

コーエンも書くように、哲学の領域に少しばかり、隙間があった程度なのである。

日本の心理学の水準は、国際水準とくらべるとかなり劣るようである。幕末から明治のはじめにかけてヨーロッパの諸学問がどっとはいってきた以来、はじめのうちこそ外国の学者の説の紹介にあけくれていたが、現在、心理学以外の分野では、理論物理学をはじめ、日本の学者の研究が外国の研究とくらべて、あるいは抜きん出、あるいは肩を並べている学問はたくさんある。ところが、心理学ではそういう話はまず聞かない。
岸田秀 ものぐさ精神分析

日本の心理学学界では、まだ外国の説を紹介している段階が、続いているのである。

つまり、日本の心理学は、自説を持たないままに、講座を開始しているのである。
よくやるものだと、思う。

私は、霊学を書くために、心理学を通りたいがために、書いているが、実に、お粗末なのである。
それを、学者も、無視し、学生も、何となく、心理学・・・チックなのである。

それなのに、ああ、それなのに・・・
ご大層なことを言うのであるから、終わっている。

だから、素人も参入して、今では、何でも冠をつけて、・・・心理学である。

恋愛心理学・・・何となく、それらしく、見える。

心理カウンセラー・・・何となく、それらしく、見える。

心理学史では、哲学から分れて、実験的な自然科学として始まった時期を、19世紀末とみる。
ライプチヒ大学のヴントが、はじめて、心理学の実験室を作ったのが、1879年である。

彼の門下からは、欧米の優れた心理学者が出ている。

ところが、同大学には、医学を専攻して、学位を得た、フェヒナーがいた。
彼は、医学に失望して、物理学、特に電流に関する研究を行い、物理学教授になっている。
そして、彼は、心理学、美学の領域に関して、物理学と同じ精神物理学的測定法を適用して、刺激と、感覚の関係を示す、基本的な法則、ウェーバー−フェヒナーの法則を立てて、実験心理学の土台を築いたのである。

精神物理学原論、これが、彼の、数年に渡る重患から回復した体験を基にした、神秘的な哲学を証明するために書かれたものである。

心理学が実験心理学として成り立つために、彼の、物理学者としての、精密な精神が必要だったといわれる。

そして、その影響を受けたのが、エビングハウスである。
大学では、哲学を専攻するが、次第に、科学への関心を高めて、精神物理学原論を読み、実験的方法により、記憶、思考などの、高等精神の研究を行うのである。

心理学の黎明期である。

科学として、誕生した心理学は、物理学、生物学、医学などの、学者によるところが、大きい。
そして、その仮説は、ギリシャ哲学、ルネッサンス以来の科学者を含む、哲学の思想を踏まえて、出来上がるのである。

日本の場合は、そういう背景が無く、科学となった、心理学を取り入れて、心理学に、人間性を期待した。

そして、心理学は、常に未完成であることを、知るべきはずだが、日本の心理学は、知ったつもりになってしまったという、悲劇である。

客観的な科学、整ったデーターのみに、始終して、人間の豊かな精神、心を無視しても、平然としているのが、日本の心理学の有様である。
心理学者の、コメントで、納得するものは、一つもないという、現状である。

posted by 天山 at 02:18| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月15日

霊学65

認知―――すなわち知覚し、学習し、思考し、そして想起することーーーについての現代の研究において、中心的な問いは、“われわれはどのようにして外部の世界を自らのうちに描き出しているのか”ということである。
コーエン

その、描き出すものを、少ないカテゴリーの中に押し込めて、統計を取り、心理学・・・
冗談ではない。

人間は、生身である。
その時々でも、違う。

そこで、コーエンは、提案する。

1、 どのようにしてある一つのでき事が、われわれにとって何か別のでき事、あるいは一連のいくつかの別のでき事を意味するものとなるのか。たとえば、予期しないドアのノックの音が、どうして持ちこがれた客、あるいは来てもらいたくないともっとも強く願っているうんざりするような人の到来を意味するようになるのか。
2、 どのようにして、われわれの積み重ねてきた経験が、生きた「ファイル組織」を構成するのか。受容と再生の間で、記憶の素材を形づくるものは何か。
3、 さらに、どのようにしていろいろなでき事についての解釈が、それ自身についての個人のもつ見込みの大小を獲得するのか。ある政治家は、熱核兵器を所有することが戦争を防止するのに役立つという極端な確信を抱くようになり、一方別な政治家は、そのような武器の所有によって戦争がいっそう起こりやすいと確信するのは、どのようにしてなるのか。
4、 そして、あることがらが別な事がらを意味するというとき、たとえばアメリカで、卵型をした頭は博識を表すというとき、われわれはどれほどの正確さでそれをいうのであろうか。
コーエン 心理学の一つの見方

とても、皮肉に聞えるのだが・・・

われわれは認知的表象とともに情動的表象をも含めることができる。
コーエン

外部の世界を、自己のうちに、どのように描くのか・・・

それは、また、われわれが自己の内部に作り出した世界を、どのようにして、外側に、描き出すのかとの、支えが必要なのである。

結論を言えば、情報理論が必要だということになる。

こうして、欧米式の、物の考え方、捉え方というものを、多くの日本人は、敗戦から、学んできた。そして、そういう言葉の、遊びにより、学んだという、錯覚に陥ってきたのである。

だから、面白いから、コーエンを続けている。

コーエンの、人間性の心理、という、題名は、心理学とは、言わないのである。
つまり、心理学を、徹底的に、批判しているのである。

そして、限りなく、心理学に近づけている、理論である。

だが、限りなく、近づけているのであるが、心理学という、学問は、無いと、同じなのである。

例えば、児童心理学ではないのである。
児童学なのである。

経営学であり、経営心理学とは、マヤカシなのである。
極めて言えば、妄想学である。

われわれが外部の世界について語るとき、そこでは自動車や女主人やミサイルが考えられている。内部の世界について語るときには、触知できる事物や人びとやでき事をかんがえはしない。
考えられているのは、むしろ思考や感情や情動であり、そのなかには容易にそれを表現できるものもあればむずかしいものもあり、またおそらく全く表現できないものもある。
コーエン

驚くべくことは、
われわれは、信念と感情、希望と後悔、あこがれと嫌悪、そうしたものを考える。
コーエン
である。

このことに、気づく人は、少ない。
外部のものに対して、対処しているつもりが、内部のあり方を、曝け出しているということに、である。

そこで、エリートとか、賢いと言われる人に、本音を出させるために、強力な言葉を吐いてみる。
即座に、内部の様々な、情動的言葉を、彼は、吐くことになる。

何を言いたいのか・・・
相手に、本音を語らせる場合は、相手を感情的にするために、怒らせる、とは、本音を聞きだす、ライターの手である。

公的立場の、冷静な者でも、怒らせると、簡単に、本音を言うという、心理的、混乱である。

その手法で、様々なルポを書き続けたライターもいる。

ある物を見ても、そこには、その物を見るのではなく、彼の本心を投影して、見ているのである。

ここでは、外部の世界を、どのように、受け入れているかと、更に、内部の世界を、どのように外部に描き出すかという、二つの問題である。

少し話は、余談になるが、小林秀雄が、物を見る心、という、小学生向けのエッセイを書いている。

チューリップが咲いていると、あっ、チューリップだ、綺麗だね・・・
では、いけない。
同じ花は、一つもない。
チューリップという言葉で、物を捉えているということに、疑問を持つべきです、と。

言葉を、覚えると、言葉で完結するのではなく、本当に物を見るというのは、一つ一つを、丁寧に見ることなのです、と。

昭和天皇は、雑草という草は、無い、と仰せられた。
確かに、雑草という草は、無い。
皆、それぞれ名前がついている。
これも、小林と同じ考え方である。

雑草という言葉で、完結してしまう。

そして、心理学というものは、そういうものになる可能性、いや、なっているのである。

いずれ、コーエンは、心理学的という言葉を、使い出す。
しかし、心理学とは、言わない。

心理学が、机上の空論、あるいは、現実遊離の蜃気楼にならないために、である。


posted by 天山 at 00:00| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月10日

霊学66

心的生活は、一つは外側からわれわれに流れ込んでくる情報を選り分けて貯える過程と、他は市場で拡げてみせるために奇想をこらした内的な織物を織る過程との、二種の区別から成っているのではない。このような区分は、いくつかの理由からして、任意的で人為的なものである。
コーエン

言葉に帰結するな・・・
と、更に、コーエンは、続ける。

第一に、われわれは、外部で進行している事がらを受動的にわれわれのうちに描くのではない。
たとえば、わたくしが月明かりの空をみつめているとき、月やたくさんの星のそのままの写しがわたくしの心に印銘されたりはしない。確かにわたくしの指の痛みは、わたくしの指を刺しているピンを描き出しはしなし、また事物は、それが実際には違っていても、その大きさや形や色には変わりないようにみえる。

第二に、外部世界についてのわれわれのもろもろの知覚は「相互依存的」であって、知覚を呼び起こす物的刺激が互いに独立しているとは異なる。

第三に、われわれの心の状態そのものが、外部からの信号の受容の仕方を決めている。われわれは、何によらず事物や人びとがこうであると自分で信じているところのものに反応し、ほんとうにそうであるところのものに反応しているのではない。
われわれは、そこにあることを期待し、希望し、恐れ、信じ、あるいは知っているものを見る。・・・
コーエン

事物や、人々を、自己の愛情と憎しみ、確信と先入観を画くカンバスのように扱うのである。
そして、それは、知覚の、もっとも単純な作用にも、解釈が入り込んでいるからだ、という。

それぞれが何かはっきりしない秘密のやり方でもって、スエーデンボルグのような神秘主義哲学者や、因子分析学者や、あるいは学習理論家でさえも、彼らのもっている信じられないような幻想で、自己の世界を解釈しようとする企てを構成していることは否定できない。
コーエン
信じられないような幻想・・・
理解に苦しむ、幻想である。

スエーデンボルグとは、あの、霊界探索の書を著した。

意識の物理的次元・・・
それでは、理解され得ない、経験の要素多々あるのである。

更に、物理的次元で理解できる経験の形式でさえも、内部的な規則によって、支配されることがある。
精神物理学から、多くの証拠が、このことを支持するために、上げられている。

だが、話を進める。

知覚するにも、解釈が入り込み、更に、心の状態は、それ自体で、究極的に、外側の場面と結びついている。
内部的な、織物は、外部のでき事によって、供給された素材と、パターンから織りなされている。

そして、それは、それぞれに、秘密のやり方で、自己の世界を解釈しようとするのである。

勝手な解釈、勝手な思い込みである。

宗教における、信仰心というものを、見ると、まさに、それにより、自己の世界を解釈して、憚ることなく、行われる。

それが、強ければ、強いほど、信じられない、幻想の中に、入り込むのである。
決してそれは、神聖なものではない。
魔力である。

我が心の内に、魔物を住みつけてしまうのである。
あらゆる、事象が、その信仰心に結びつく。

宗教心理学というものがあるが・・・
いずれ、紹介するが・・・

霊的次元に接触すると、思うのか、否か・・・

とても、面白いのに、死んでも、魂は、残る、更には、転生するというもの。
霊学では、転生を考えるが、生まれ変りではない。

誰それの、生まれ変りである、というのは、ウソである。
転生するのは、意識の一部なのであり、更に、多くの意識の一部が混合して、行われる。

霊学に至る道に行くために、心理学を通っているが、まだまだ、通らなければならないものが多数ある。

私の霊学とは、過去の神道系の言うところの、霊学ではない。
あちらは、儒教、道教に対抗するための、理論であり、更には、道教に取り入れられた理論である。

何かに、対するものという、意識は、その何かに、飲み込まれる可能性もある。
そして、飲み込まれたのである。

つまり、壮大な幻想と、妄想である。

私が言う、霊学とは、古道のことである。
古道とは、古き道である。
日本の、古き道とは、何か・・・

それを、こうして、時代に、時代性に合わせて、突き詰めている。

古神道という言葉も、手垢にまみれた。
宗教として、成るということ事態が、誤りである。

古道とは、霊学である。
そして、私は、学者ではない。
単に、霊学と、名乗っている。

学者とは、以後、私の霊学を、研究し、幻想と、妄想逞しく、尾ひれはひれを付けて、解釈する者たちである。
度し難い者たちという。

posted by 天山 at 06:19| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月11日

霊学67

精神物理学から多くの証拠が・・・

そこで、コーエンは、このような話を書いている。

大多数の人びとにとって、証言の総和的な重みは、証言のつりあい以上のものを含んでいるようにみえる。
たとえばたいていの人は、典型的な場面で、被告に有罪な証人が10人と不利な証人10人である場合、それが5対5である場合よりもいっそう有罪に傾いて考えるように思われる。
同じように、5対5は2対2よりもいっそう有罪のように考えられる。
さらに重要なことは、多数の人びとは有罪5対無罪3をそれが2対1である場合よりも、無罪の割合が大きいにもかかわらず、いっそう罪あるもののように考えるという事実である。
こうして、第一の問いの領域においてさえ、われわれは心理学的に特殊な原理によって左右される。
コーエン

第一の問いとは、外部をどのように、自己の世界に取り込むかという問題である。

われわれの二つの問いは、関連し重なり合っているとはいえ、なお本質的に異なる経験の領域を区画するものと思われる。
それらの領域の明確な特徴を確認するならば、第一の問いは、心についての写実的なコンスタブル風の風景に対してだけは充分なガイドとなるが、第二の問いの幻想的な
ヒエロニスム・ボス風の地帯や、無意識の世界にまで入るプルースト的な地域では、ほとんど役にたたないことがわかるであろう。
コーエン

上記、読みやすく、段落を分けている。

第二の問いとは、自己の世界を外部に、伝える時の事だ。

物事を正面的な価値で捉える時、第一の問いにかかわり、それらを、象徴的に受け止める場合は、第二の問いに関わっている。

論理的、科学的な性質の心的活動には、本来的に、事物、あるいは、言葉の正面的な価値に、字義通りの、事実通りの意味に向けられている。

しかし、字義通りではなく、象徴的な意味で受け取ることも出来るのである。

人は、観察者としての彼とは独立に存在する客観的な世界に、事実に即したやり方で尋ね入ることができるだけなのではない。彼は完全に、ましてや本来的に、事物をその正面的価値で受け取るのではない。彼はそれらを、等しく象徴的にも受け取るのである。
コーエン

言葉遊びの、テクニックである。
客観的にも、象徴的にも、受け取る。

心的活動は、複雑なのである。
そして、ある種の行為を、同時に行っている。

それが、同時に、行えなくなるのを、老化という。
また、バランスを欠いた者。
薬物中毒、アル中・・・などなど・・・

とてもじゃないが、人間の心的活動は、凄いものである。

仏陀は、いつも、足元が揺れていると、言った。
それである。

こういう活動を省略して、いや、悟ってか・・・
禅では、山は山、川は川、という。
勿論、言葉遊びである。

そして、それは、道元に言わせると、竿の先から飛べ、であるから、手がつけられない。

人の非写実的な努力の成果は、神話と詩、劇と音楽に見出される。・・・
すなわちかつてコントがわれわれにそう思い込ませようとしたような、神学から形而上学を通り科学へと至る心の発展の低い段階を表すものではない。
それらは、論理的・科学的様式とは異なった象徴的表現を許すものであり、そして見る者の考え方もその知覚の仕方をも色どる一つの変容に起因するものであり、このようにして観察者を、外側の見かけや直訳的な字義通りの意味を超えたところに導くのである。
そこで事物とことばは一つの意味を帯びるが、その意味は、それが観察者と物的に独立して存在する何かを指していないからといって、現実性に乏しいというようなものではない。
コーエン

というように、心的活動は、複雑奇怪なのである。

頭のいい、コーエンさんは、よく頑張りました。

事物と言葉と一つの意味を帯びる、だが、その意味が観察者と物的に独立して存在する、何かを指していないから、現実性に乏しいとは、限らない・・・
統合失調症、分裂病患者の妄想も然り。

妄想で、多数の虫が見える・・・
それが、現実性に乏しいとは、限らないのである。

勿論、コーエンは、通常の精神の人の心的活動を言うのであるが・・・

比喩的なあるいは象徴的な「知識」は、プラトン的な存在を楽しんでいるある霊妙な実在性や、またテーブルや電子が存在するという意味で存在しているある詩的、神秘的な実在については何も教えてくれない。
そうした知識が示している「実在」というものは、それがわれわれに対してもっている個人的な意義によって、充分に認められるものである。
コーエン

小説家と美術家は、もっと野心的な要求を主張する。彼らが作り上げる創造物は、彼らにとってほかの人びとにとってもいっそう現実性をもつものである。
コーエン

作り上げたものが、現実性を持つというのである。

ディズニーランドは、まさしく、現実性があり、映画にある、魔法使いの学校も、現実性がある。

ピカソは宣言した。実在性は事物そのもの以上のものである。わたしはいつも、事物の超実在性を捜している。実在性は事物を見る見方のなかにある。緑のオウムは緑のサラダでもあり、そしてまた、緑のオウムである。それをただオウムにしてしまう人は、その実在性を減じているのだ。
樹を写している画家は真実の樹に盲になっている。わたしは事物を、そうではなく別の仕方で見る。・・・
マティスの仕事場で絵をじっと見ていた婦人が、たしかにこの女性の腕はあまり長すぎますとマティスに言ったとき、この画家は答えた。マダム、あなたは思い違いをしていらっしゃる。これは女性ではありません。絵なのです。

そこで、
経験と現実のこのような多様さは、いろいろな事実を頭に詰め込むことによる知識の蓄積とは何の関係もない。
コーエン
と、なる。

これは、既存の心理学への、極めて激しい批判であり、批難である。

無意識における、シンボルという役割・・・
非現実的、象徴主義の、お説なのである。

象徴主義にある、心理学というものが、いかに、出鱈目なものであるか・・・
現実の実在性を無視して、一人勝手に、論じているのである。

それは、糞の役にも立たない。


posted by 天山 at 06:34| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月12日

霊学68

心理学者たちが知能のテストに専心してきたここ半世紀の間、彼らは大部分、まちがった樹に吠え掛かるような全く見当違いをしてきたが、このように見当違いをする腕前というものは、明らかにその哲学上の先祖から受け継がれたものである。
コーエン

哲学者たちの過ちのほとんどは、人間をあまりに詳細な限られた見地から考察することに出ている。人間は単に道徳的なそして知的なだけの存在ではなく、また、ひときわ抜きん出て想像力豊かな存在である。
シェリ

この哲学者たちは、心理学者と、同じである。
詳細な限られた見地から・・・

狭めて、狭めて・・・
そして、心理学という・・・

更に、学問とは、創造性の豊かなものである。

心、あるいは大脳について包括的な見方をするには、理論的なまた科学的な知力の及ぶ範囲を越えていると思われるさまざまな活動を無視できない。
コーエン

更に、包括的な見方は、感覚にとって、確実だと思われること、自然科学の描く不完全な世界像だけに限定されるものではない。

包括的な見地は、心的な働きの全範囲を含まなければならないのである。

つまり、証明しうる知識を打ち立てるのに、妥当だと、考えられているものだけに、限ってはならないのである。

証明され得ないものが、多数あるのである。
詩的、音楽的、宗教的、神秘的現実・・・

それは、主観的に、そのあり方において、現実的なものである。

更に、である。
それらに、従って、また、それらに、支配されて、生活しているのである。

ここに、神秘的現実というのがあることに、注意して欲しい。

要するに、心霊的、霊的なことも、含まれてある。
それも、現実体験なのである。

だが、
経験のこのような象徴的様式については、神経学はそれ自体としては何も教えることができない。精神神経学的還元主義の熱烈な唱導者であるラシュリですら、彼が「心理学は、こんにち、神経生理学よりももっと基礎的な科学である」と明言したとき、このことを認めたのであった。彼はさらに続ける。なぜなら、行動における神経作用の諸法則は実証しうる心理学的事実に合致しなければならぬのに反して、神経生理学は、行動の常態的な体制化を予測するための原理をほとんど提供していないからである。
コーエン

心理学が科学であることの規準として、他の科学への翻訳可能性に対する要求を正当化することは国難である。
コーエン

つまり、理論家が心理学的「モデル」をとるか、それとも神経学的「モデル」をとるか、また彼がそのいずれに対して知的にいっそう満足を覚えるかは、けっきょく好みの問題であうろ。
コーエン

科学的知性は、実際、はっきりと規定された、認知過程ではない。
それは、働くべきときには、不可欠の、ことばにならない、そして、多分それと確かめ得ない要素の、半影を有しているのである。

これは、挑戦である。

ことばにならない・・・
半影・・・

それを、無理にこじつけると、どういうことになるのか。
だから、臨床では、時間をかけるのである。
結論を急がないのである。

ことばにならない、こととは、いずれ、ことばを超えたところのもので、表現される、可能性がある。

科学における思考は、初めから終わりまでたどることのできる一連の段階を追った働きではないし、また論理的によってあらかじめ定められた道を守るものではけっしてない。
コーエン

心理学の、教科書により、学ぶということは、実に、不案内なのである。
その前にすることがある。
それは、心理学への批判である。

まず、疑ってかかるべきものなのである。

いくら、心理学用語を詰め込んだとしても、全く意味がないのである。

更に、それを駆使して、何事かを、説明するという試みは、単なる、自画自賛と変わらない。

コーエンによる、心理学の一つの見方でさえ、こうである。
心理学への、道は、数限りなくあると、思えば良い。

精神医学からの、治療アプローチから、心理学への、扉を開く場合もある。
心理学者は、精神科医ではない。
だが、精神科医は、その臨床から、心理学へ進むことができる。

それでは、霊学から、心理学への、アプローチの可能である。

極めて、神秘学的に似た感覚である。
霊学という、現実感覚を持って、心理学への道とすることも、可能であるということを、言いたいのである。

勿論、哲学からの、アプローチも、当然ある。
多くの哲学者の論文が、それに対処している。
更に、宗教学からも・・・

posted by 天山 at 00:56| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月13日

霊学69

類推の想像的発見、すなわちいろいろなアイディアやイメージ間の類推を求め、それに心をとめることは、思考そのものの基本的な特徴であろう。それは、心の中に新奇さの感覚が生まれるまで、ある考えのまわりを「踊り」めぐり、問題点の近くをぶらつき、それをいろいろと飾りつけ変形させるわざとして述べられてきている。
コーエン

それは、私が言う、宗教的妄想についても、コーエンは学者であるから、宗教的要素によるものを、リアルなものという。
想像というものも、リアルな現実感覚として、捉えるというのである。

それでは、霊学における感覚、思考も、彼は、リアルなものとして、受けいれることであろう。

学者は、冷静である。

科学的発明は、それ自身いろいろな新しい類推を類同化することにかかるであろう。そして言葉がこれに入ってくる限りでは、それは一種の言語の「博物館」であり、そこにわれわれは「死しても忘れられた詩人たちの、とほうもない空想と類推の遺物」を見るものである。
コーエン

実に、冷静である。
そして、
物理学においては、類推の仕事は見慣れぬものを見慣れたものとすることである。心理学では、事情は反対になろう。心理学のデータは、しばしばあまりにも見慣れたものだからである。
コーエン

そして、話は、知性的と、想像的という、古い昔からの、対立命題を、二つのタイプの表象を「明証性」に関して区分けしながら、明らかにするのである。

通常の心理学教科書には、書かれないことである。

心理学を数学のように扱う人たちによって、心理学というものが、成り立つのを見る思いがする。

勿論、数学さえ、答えのではないものもあるのだが・・・
心理学は、答えの出るものとの、意識を、粉砕するのである。

既存の心理学用語で、滔々と、分析に明け暮れる、アホな心理学者が言う。

更には、それで、賢いと思い続けている。
いや、賢いと、思い込むのである。

こういう者たちを、賢い馬鹿という。

この対立的な命題は、明証性の役割に関するかぎり、動物と人間の類似性に照らしてみればいっそう明らかとなるであろう。
コーエン

動物の場合は、同一の行動パターンが、欲求が弱いときに加えられた、強い刺激の結果として起こる。また、欲求が強いときに、弱い刺激によっても起こるようになる。

最後は、反応が、真空でも、生ずるようになる。
空転反応である。

欲求の刺激と、この関係は、置き換えの法則と評していい。

この法則は、欲求が次第に強くなってゆくにしたがい、次々と、第三、第四の刺激を受け入れやすくなることを意味するのである。

刺激の類似性の大小。
刺激の生物学的に訴える力の大小。
このことは、人間についても、当っている。

さて肝心なところにきた。生き延びるために外部世界の現実に合わせなければならない経験と、生死の問題にかかわりなく変わることのできるその他の経験とがあると考えてみる。第一のカテゴリーは、「知性的」な活動には適しているが、「想像的」な活動には不適なものと考えることができる。そして経験の第二のカテゴリーについてはこの逆である。つまり「真空反応」は、もしそれが、欲望とその充足との間におかれる遅滞に対して内的な統制を必要とする場面では、それは高度な想像的なものとなろう。
コーエン

高度に想像的なもの・・・

既存の心理学では、不可能な表現である。

コーエンは、それを解りやすく、レオナルドや、レンブラントの名作を使い説明している。
画中の最も人の心を動かす人物の目を蔭にしておき、見る人に、創造の行為に参加することを、強いることで、成し遂げられたとのこと。

この現象は、エロティックな行動の領域でよく知られるものである。
コーエン

例えば、裸の大地、ぬき出しの刃、赤裸々の真実・・・

裸のものは、性に飢えた大衆の要求を掻き立てることに、結びつく。

行為は、それを引き起こす明証性の正しい値で起こるならば、知性的であるといってよかろう。
コーエン

人間の行動が、何によって、引き起こされているのかということを、コーエンは、証明しているのである。

経験の多様な様式は、その内容とともに経過でも異なる。これらを研究するためには、内観的分析以上のものが必要である。このような意見は、多重フィルター・モデルでもって、経験と意識を分けることにより正しく理由づけられるものであろう。
コーエン

経験と、意識を、分ける・・・

既存の心理学は、内観的な、実に主観的な報告を鵜呑みにして、成り立っている。
経験と、意識を分けるとは、経験を、込み入った継起といくつかの、多様なフィルターを通して、意識へ、水路づけられたものと考えられる、ということになる。

そのものが、あるのに、見ていない・・・
その意識の、問題である。

私は、だから、心にあるものしか、見えないという。
何故、見えないのか、心に無いからである。

脳に無いのではない。
心に無いものである。

心理学では、心に無いものを、見ることが、できるだろうか。
そして、何故それが、見えないのか・・・

そして、無意識の世界への、入り口となる。
だが、コーエンの、心理学の一つの見方を続ける。
その後、無意識の世界へ行く。


posted by 天山 at 06:06| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月14日

霊学70

経験を分析することは、実験の被験者に内観的報告を求めることより、はるかに野心的な企てである。わたくしが内省しているときには、わたくしは自分自身を、あるいは自己の意識内容を客体として扱っている。もし実行できることなら、実験者がわたくしの心のなかに入ってきて、そこに何が起こっているかを彼自身で見てもらいたいものである。
そうすれば、彼は自分で、わたくしの残像を記述することができるわけだし、また彼の記述はわたくし自身のものと実質的には異ならないであろう。内観にあっては、わたくしはいわば外部の観察者の内部的な代理として働いているのである。
コーエン

だが、現象学的分析においては、それとは対照的に、実験者に向かい、あなた自身で見てくれとは、言えない。
外部の観察者としての、実験者が、仮に、わたくしの内部にあったとしたら、行うであろう記述をすることなどにはない。

今何が起こっているかを、主体的な見地から、述べることにあるからだ。
記述しているものは、個人的な経験であり、彼が、わたくしの立場にあればまた別なように感ずる。

現象学的分析では、わたくしは、恐れたり、空腹であったり、ねたんだり、苦しみ悩んでいるときの、自分の身体的変化を記述するような離れた傍観者たろうとするのではない。わたくしは、わたくしの経験に近寄ることのできない観察者の代理としてふるまっているのではない。わたくしは、わたくしが経験しているところのものを、特殊な生活史をもった一人の経験する主体として実験者に伝えているのであり、そして実際、ほかのだれにせよわたくしになるのでなければ全く不可能なことをしているのである。
コーエン

つまり、現象学的分析は、情動的な関連と社会的なかかわり合いについての、言語化されない諸経験を開明するのである。

自分のことは、知っている・・・
だが、それを、すべて表現することは、無理なことである。

更には、自分でも、自分が排除しているものに、気づくことはない。

それを、心理学者が、僭越的に、相手に、押し付けることなど出来ないのである。しかし、それを、彼らは、やってしまうのである。

心理学者が言語行動とそれから抑圧された無意識現象について抱いている先入観が、われわれが確かに「知って」はいるが、しかし大きな努力を払わなければ明らかにすることのできない経験の「余韻」を軽視させてきたのである。
コーエン

更に
また、何も陳述しない沈黙が、最も賢い演説よりも雄弁であることも忘れないようにしょう。
と、言う。

心理学者が、沈黙する時が、あるだろうか・・・

おおよそ、すべてを、その先入観で裁くだろう。
数学の答えのように・・・

要するに、テキストにある通りに解釈して、裁き、堂々として、心理学者の、威厳を見せ付けるだろう。

実際、何の痛みを、感じないことでも・・・

医者は、痛みを感じないが、痛みに対処する方法を、学んでいる。
しかし、心理学者は、一体、何を学んでいるのか。
明らかに、先入観という、観念を積み上げているのである。

だから、自分に問題が起こった時に、パニックになるだろう。
論理矛盾、論理破綻が起こる。

先入観は、粉々に壊される。

精神科医の、死因の第一は、自殺である。
何故か。
自分の論理で、自分を治められないのである。
しかし、患者には、その論理で、治療してきたはず。

コーエンの、批判を私は、このように、聞く。

この、コーエンの本の訳者のあとがき、には、
人間の経験は、たんに神経系の活動には還元できぬ独自のものであること、経験の意味は、人の内部からくるものであり、またその個人の過去と未来とからしか解読できないこと、および、人間は自然性をもつと共に歴史性をもつことなどを説こうとするものである。
と、ある。

それは、個人の内的な体験に深く分け入るというより、人間の心理に普遍的にひそむ、自然的な経験を展望するものという意味を、見る。

心理学への、批判は、実に有意義である。
この本は、1963年に、翻訳が開始され、六年に渡って、完成したものである。
つまり、出版されたのは、1969年、昭和43年である。

多くの心理学者によって、読み続けられたであろうが・・・
今も、充分に耐ええるものである。

人間性そのものの、心理現象に迫る、独自の立場を取るといわれる。

だから、人間性の心理なのである。

心理学の一つの見方は、次回で終わるが、より深く心理学に迫るために、無意識の世界を取り上げる。

この、無意識についても、心理学は、観念まみれになっている。
それは、無意識による・・・

無意識からの・・・

潜在意識については、成功哲学といわれる、商売、金儲けの人たちにも、支持されている。
潜在意識は、無意識にある領域である。

もし、無意識を野放図に解放したら、人間は、狂うしかなくなる。
潜在意識も、かろうじて、狂わない手前を使用すべきである。

下手をすると、単なる、誇大妄想に陥るのである。

posted by 天山 at 05:20| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月07日

霊学71

経験が「余韻」を残さないときには、現象学的分析について、問題は何も起こらない。
コーエン

簡単なことである。
連想ゲームを言う。

人の心は、連想により、成り立つ。
それを、心理学者は、予想がつかないのである。

人それぞれの、連想が人の心理なのである。

理論家たちのなかには、自己の主題を生体内に閉じ込め、もっぱら内部世界にかかわろうとする傾向をさして、心理学者を広場恐怖症だときめつけるものがある。彼らに言わせると、なおざりにされている環境も、生体と同じかかわりをもつ地位を認められるべきであるという。しかし、それは全くの「お門違い」である。自己監禁ということは、従来からほとんどなかった。反対に、多くの心理学者たちは、その本来の領域から亡命はしないまでもふらふらと離れてしまい、彼ら自身の心の内部的な歴史や地理、そしてその動植物相と関係のないものでありさえすれば、何でもそれを探求しようとしてきているのである。
コーエン

おそらくこの理由から、人間の心についての一応まとまりある考想も、それが現代アカデミックな心理学から出てきたものであるかぎり、不完全なものと思われる。
コーエン

この、アカデミックな心理学とは、心を、ある種の「客観的」な知識を獲得するための、知的な道具とし、感情、情動、そして動因は、知的な働きを動機付けたり、妨げたりする要因であると、考えている。

その、考え方を構成しているのは、論理的、数学的、あるいは、科学的思考を支配していると、想像される特徴だけであり、これらの特徴だけが、文明化された人間の、真の特徴だと、信じられているからだ。

今は、コーエンの、解釈を述べている。

われわれの環境についていわゆる「客観的」に正しい知識を提供しないといわれるさまざまの特徴は、劣っているとか、人を惑わすものだとかの汚名を着せられる。完全に無視されないまでも、それらは単に主観的であるとか、前論理的または前科学的な思考として片付けられ、その妥当性を否定されている。こうしてすべての経験が、経験の限られた側面にだけしか適当しない規準によって判断されるのである。
コーエン

非常に、饒舌なコーエンの論文である。
そして、また、その解釈に関しても、それぞれの観念のままに、解釈されるだろう。

経験の限られた側面にだけしか、適当しない規準によって、判断される・・・

限られた側面とは、心理学の観念である。
揺ぎ無いと、信じられる観念によるものである。

百年前の、観念を、後生大事に守っている人たち・・・

わたくしが示唆したいと思っている心理学の課題は、主観―客観の対立命題を解決して、意味に満ちた経験の世界を照らし出すことである。これを成し遂げるには、われわれの二つの基本的な問いからなる両刃の剣が必要である。
心理学的なものは、こうして「客観的なもの」とされ、またいわゆる「客観的なもの」は、究極のところ心理学的なものであることが認識されるであろう。
コーエン

心理学とは、言わないのである。
心理学的・・・

科学とは、宇宙の起源を説明しようとする、真剣な企てと考えられる、原始的な神話があり、それが科学に取って代られることは、確実である。
しかし、神話の多くは、その時代遅れの前科学性にもかかわらず、残り続ける、美しさと壮大さを備えている。

心理学も、そうであろう。

次に、キェルケゴールが、
想像力とは、神の摂理が、人間を現実のなかに、生存のなかに引き入れるために用いるものであり、人間をそこから必要なだけ取り出したり、取り入れたり、さてはまた生存のなかに引き下ろすために用いられるものである。しかも想像力は、人間が行こうとするところまで連れ出してくれるが、そのときこそまさしく、そこが現実の始まる場所なのである。
と、言う。

想像力の無い、またそれの、欠落した心理学者が、それを理解できないのである。
お勉強という、暗記の心理学用語の学習では、如何ともし難いのである。

分裂した人間の、妄想も、想像力になるのである。

更に、あらゆる、人間にまつわる想像力・・・
それを、心理学用語で裁くとき、イエスの言葉のように、あなたが裁いたように、あたなも裁かれるという、ことになるのである。

コーエンの、心理学の一つの見方は、実に、示唆に富んだものである。
当時は、少数派であったが、今は、どうなのか・・・

いずれ、また、コーエンの、人間性の心理から、引用して、話しをする。

哲学は、論理学への深い関心がみられるように、心理学も、哲学への、深い関心があって、成り立つ。
既存の心理学用語に、振り回されるような、心理学の学びをしても、せん無いことなのである。

そして、分析に明け暮れるものは、同じように、分析される。

分析に溺れた心理学者は、時代に流され、何も提案することなく、去る。
心理学が、ある程度、有意義に生かされるのは、精神医療の臨床によると、思われる。

心理カウンセラーなるものの存在は、全く、意味不明になる。
最も、臨床心理士というものも、観念まみれの分析に溺れる者、多々あり。

私は、霊学を書くために、心理学を通っている。
この、霊学は、私の想像力である。

キェルケゴールが言うように、霊学を歩み始めたとき、現実が始まる場所となるのである、私には。

それでは、次に、無意識の世界を見る。

posted by 天山 at 05:51| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月08日

霊学72

無意識を考える上で、深層心理という言葉がある。
だが、心理学でいうところの無意識は、東洋思想、特にインド、仏教思想の方が、遥かに、進んでいる。

勿論、ユングが、それに気づいて、東洋思想の研究もはじめた。

フロイトからはじまる、無意識に対する挑戦は、ユング、アドラーなどにより、深められていく。

フロイトの、精神分析学に対して、アドラーは個人心理学、ユングは分析心理学と呼んで、区別した。

当時、ナチスの時代であるから、ユダヤ人迫害によって、多くの精神分析家が、アメリカに亡命し、そこで精神分析学が急激に盛んとなる。
更に、アメリカでは、アカデミズムの領域に浸透して、大学内の精神科医、心理学者が、それらの学説を取り入れたことが、後につながるのである。

フロイトが、生物学的にモデルに頼ろうとしたのに対して、アメリカでは、文化、社会的な面を強調する、ネオフロイト派と称する人たちが、現れたことが、特徴的である。

色々な派閥があるにせよ、そこでは、深層心理学と総称された。

ここでは、ユングを手掛かりにして、無意識の世界を俯瞰してみる。

今では、普通に使われる、コンプレックスという言葉は、ユングが最初に用いたものである。
心的複合体と、訳される。

この、心的複合体を手掛かりにして、無意識の世界に向かう。

コンプレックスとは、現在使用されている、それは、コンプレックスだという、マイナスイメージのものではない。

コップレックスとは、連想である。

何かによって、何かを連想してしまうのである。

そして、その連想を妨害されることを、コップレックスと呼ぶのである。

感情的な拘りを持つ時、人は、意識の働きが円滑に行われなくなる。
体験によって得られた、連想により、意識が円滑に流れない時、コンプレックスがあるという。

ある事柄の連結が強く出て、気分が悪くなる。そして、人には理解できない行動を取る。このように、何らかの感情により結合されている、心的内容の集まりが、無意識に形成される。
ユングは、感情によって色づけされた、コンプレックスと名付けた。

それが、はびこり出すと、意識の正常な働きを、妨害するようになるのである。

東洋思想、仏教では、それを、妄念と呼ぶ。

作り出した、妄想の想いである。

本来は、無いものが、有るものになるという。

さて、コンプレックスは、何らかの外傷体験を持つ。

フロイトの場合の想像力は、その意味を、性的な事柄に結びつけた。
有名な、エディプス・コンプレックスである。
これは、治療の多くが、そういう人だったということであり、万人に当てはまるものではない。

フロイトによると、幼児は、三、四歳から、性の区別に目覚めて、男の子は、母に対して、性愛の目覚めを感じ、父を嫉妬の対象として、敵対視するというもので、考えすぎである。

幼児の性は、あらゆる異常性愛が基本にあり、そんな程度のものではない。

また、弟子のアドラーも、性ではなく、社会的な観念を主体にした、精神分析をした。
それは、性衝動より、権力を求める欲求の方が、根源的であるとの主張である。

さらに、器官劣等という、考え方である。
身体のどこかに、劣等感を持つ。それを補償して、優越意識を求めるというものである。
これも、短絡的である。

ただし、劣等コンプレックスは、理解しやすいものだ。

だが、劣等コンプレックスも、人によりけりである。
全く感じない人もいる。

ただ、劣等意識がある人が、それを自身で克服した時に、成長するという、言い方をする。
その方法も、多々あり、それも、人それぞれである。

その、人の劣等意識を分析して、嬉々としている、アホな心理学者も多い。

分析に長けるものは、本来は、自分の劣等感に溢れているのであるが・・・
これを、他に投影して、本当は自身が救われたいが、気づかずに、やたらと、人を救いたがるという、心理学者である。

それを、分析すると、劣等感と、優越感との複雑に入り混じった心理状態を持ち、表面的には、善意として出るので、克服するのが難しいコンプレックスである。

心理学者に多いタイプであることは、間違いない。
または、心理学をセミプロ程度に、学んだ者である。

悩む人や、分析を求める人が、本当は、彼らの救い主であることに気づかないという、度し難い者である。

特に、性格分析などを、平然とする者は、そのようである。
馬鹿が、馬鹿を指導して、どうするというもの・・・

自分の無意識にあるものを、他人に投影するという、この投影こそ、心理学を学ぶ者が陥る穴である。

投影は、対人関係に入り込む。
更に、投影は、投影を呼び、互いに、コンプレックスの投げ合いになることもある。
だから、人に言うことが、実は、自分のことであるということに、気づかないでいる。
賢い馬鹿に多い。

posted by 天山 at 00:01| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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